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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-09-28 コート100分割! 『ベイビーステップ』(現在9巻まで) 勝木 光 / 講談社コミックス
2009-09-22 暗い坂の底に沈む 『黒い玉 十四の不気味な物語』『青い蛇 十六の不気味な物語』 トーマス・オーウェン、加藤尚宏 訳 / 創元推理文庫
2009-09-13 痛快時代劇 『2011年 新聞・テレビ消滅』 佐々木 俊尚 / 文春文庫
2009-08-25 ソフトでビニールな愛のカタチ 『南極1号伝説 ダッチワイフの戦後史』 高月 靖 / 文春文庫
2009-08-16 〔短評〕楽しい無数の追憶 『のだめカンタービレ(22)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC
2009-08-03 組織をはぐくむ夢 『オーレ!』(全5巻) 能田達規 / 新潮社BUNCH COMICS
2009-07-30 最終回は切り抜いて永久保存 『お茶にごす。』(現在9巻まで) 西森博之 / 小学館少年サンデーコミックス
2009-07-21 今が旬、と思っているうちに10巻まできた 『GIANT KILLING ジャイアントキリング』(現在10巻まで) 著作 ツジトモ、原案・取材協力 綱本将也 / 講談社モーニングKC
2009-07-04 腐った箱のキャベツ集団 『「朝日」ともあろうものが。』 烏賀陽弘道 / 河出文庫
2009-06-18 飲むことのはじまりにむかって 『一杯では終われません』 梅吉 / 講談社モーニングKC


2009-09-28 コート100分割! 『ベイビーステップ』(現在9巻まで) 勝木 光 / 講談社コミックス


【軸足の位置を決めるところでほとんどやるべきことは終わってるから】

 スポーツの中では、昔からテニスが好きだ。
 先日の全米オープンでは、お調子者ジョコビッチが試合後にマッケンローのモノマネをしてみせたところ、テレビブースから飛び出してきたYシャツ姿のマッケンローがジョコビッチのモノマネ返し、そのまま2人でミニゲーム……くく、たまらん。
 楽天オープンは見に行きたかったのだが、油断してチケットをおさえ損ねてしまった。残念。

 ところで、テニスマンガもあれこれ好きなのだが、スポーツマンガなるもの、試合展開だけではどう工夫しようにも限界がある。
 たとえば、少年マガジン『ダイヤのA』(寺嶋裕二)、少年サンデー『最強!都立あおい坂高校野球部』(田中モトユキ)、いずれも毎週楽しみな野球マンガなのだが、たまたま最近、かたや地区予選決勝、かたや甲子園決勝と、ステージは違えどライバルとの重要な試合が重なった。そして残念なことに、2つの試合展開がそっくりなのである。
 負傷あるいは疲労したエースの代役が先発。天才肌の相手ピッチャーが本調子になる前に先制点。しかし相手チームも本領を発揮して逆転を許し、いよいよエースの登板……というのが現在までのところ。おそらくこの後いろいろあって、最後には相手エースの渾身の一球をはじき返し、劇的な再逆転で主人公たちが勝利するのだろう。……見え見えである。

 団体競技たる野球でもこれほどつらいのだ。テニスやボクシングのような個人競技では、試合ごとに新しい魔球、必殺技のインフレを起こしていくしかない。マンガだもの。
 ……いや、そうとも限らない。手はほかにもある。
 それが「練習」の面白さだ。魔球や必殺技に頼らずとも、練習と周囲のアドバイスで主人公が少しずつ伸びていく、その理屈っぽい構造的な魅力。

 勝木光の『ベイビーステップ』は、そんなプレイヤー構築の楽しさをじっくり見せてくれるテニスマンガだ。必殺技の出てこない地味な展開に早々の打ち切りも心配されたが、いつの間にか9巻まできた。赤いPRINCE DIABLO XP MPを手に、試合最中にもノートをつける優等生主人公丸尾栄一郎(エーちゃん)も、今やプロを目指してアメリカのテニスアカデミーに短期留学をするにいたった。しかし、練習試合では27戦全敗、ようやく勝つコツを見出しても、まだまだ(錦織圭をモデルにしたと思われる)同い年のプロプレイヤー池爽児には手も足も出ない。練習、練習。

 1日24時間テニス漬け、近代設備完備のアカデミーでも、指導は「コントロール向上のためにはコートを9分割したイメージで」とか「コントロールを気にするあまり手元を見すぎている」とか、さらには「自分を信じろ」とか、テニスマンガをいくつか読んでいれば素人でもアドバイスできるような内容ばかり、大丈夫かテニスアカデミー。いや、エーちゃんの目指していることはアメリカのプロのハードヒッター相手にコート100分割など、実は無茶苦茶ハイレベルではあるのだが。

 こういった作品は、主人公がスーパープレイヤーになってしまってはタダのヒーローマンガに成り果てる。このまま全国ジュニアあたりでじっくりエーちゃんの課題とその克服を描いてほしい。絶対そのほうが面白いって。

つっこみ 先頭 表紙

fi7ce6 / geqddusfnf ( 2011-08-20 03:53 )
wyk1KO / nkrpdp ( 2011-08-18 13:08 )
se8Zuk / dhzpzpdeifp ( 2011-08-18 12:21 )

2009-09-22 暗い坂の底に沈む 『黒い玉 十四の不気味な物語』『青い蛇 十六の不気味な物語』 トーマス・オーウェン、加藤尚宏 訳 / 創元推理文庫


【「勝ったものが雌豚を見に行く権利を貰うのさ」】

 2冊ともに表紙にはルドンの黒い絵が遣われているが、よい選択だと思う。
 ルドンのざらついた(過度にぬめぬめしない)気色悪さ、いがらっぽい説明のつかなさ、そんな手触りがこの作品群と低音でノイジーに共鳴している。

 『黒い玉』には比較的オーソドックスな怪談、『青い蛇』には明確なオチや説明のない、ただ無闇に不条理で暗い話が、主に束ねられている。代表作とされる「青い蛇」にせよ「雌豚」にせよ、何が起こっているのか(起こっていないのか)、なぜ登場人物はそうするのか(しないのか)、最後に何がどうなってしまったのか、きちんと書かれているのにわからない。ただ、うっかりタールに触ってしまったような苦味が残る。

 2冊合わせて30の短編の中には、「〜は実は死んでいた」「〜は死体だった」という同工異曲が少なからず含まれている。しかし、同じネタを読まされた気がしないのは、象徴主義的技法を駆使してそこにいたる不快で濃密な展開のせいで、最後のオチにいたる前にこちらが十分斜めにずり落とされているせいである。

 作者はベルギーの代表的な幻想、怪奇小説家の1人。
 1910年、ベルギーの古都ルーヴァンに生まれる。「26歳のときに発病。精神病院を出たり入ったりして困窮のうちに第二次世界大戦混乱期に34歳で夭逝」……とか紹介できると実に似つかわしいのだが、実は2002年に91歳で亡くなるまで、トーマス・オーウェンの筆名で旺盛に怪奇幻想小説を発表し続ける一方ステファン・レイなる美術評論家として数千篇の美術批評を倦まず弛まず執筆、否、ここまではともかく、本名のジェラルド・ベルトはベルギー製粉業界の大立者で、わずか数年の間に「ベルギー製粉業総連合会会長」「ムーラン・デ・トロワ・フォンテーヌ社社長」「欧州経済共同体の製粉業協会連合会会長」「国際製粉業協会会長」そして「農業・食品工業連盟会長」に歴任。大実業家としての会議、出張の合間にこれら「不気味な物語」を書いていた……いや、いや、待て。普通は、そういう世界に入れない、入っても活躍できない者が薄笑いを浮かべて怪奇幻想にひたるのではなかったか。

 精神に巣食った濁った墨汁を、すべてこれら怪奇小説の形にして吐き出し、残る健全な肉体で元気に実業界を飛び回ったのなら……この作者そのものが一個の妖怪なのかもしれない。

つっこみ 先頭 表紙

2009-09-13 痛快時代劇 『2011年 新聞・テレビ消滅』 佐々木 俊尚 / 文春文庫


【要するに編集権をヤフーニュース編集部に奪われてしまうのだ】

 本作りとしては確かにいくつかミスがある。
 日米のマスメディアのあり方はかなり異なるというのに「アメリカのメディア業界で起きたことはつねに三年後に日本でも起きる」などという論調を冒頭に持ってきてしまったこともそうだ。

 それら勇み足への突っ込みは受けるに違いないが、全体の主張としては説得力に満ちている。
 いまや山火事のようにあちこちで騒がれているとおり、マスメディアの手法が終焉を迎えつつあること、どの方向にも手の打ちようがない段階に入りつつあることはもはや明らかだ。不景気なのではなく、ビジネスモデルとして成り立たなくなってきているのである。

 本書はマスメディアがマスメディアとして生き延びる道を取り上げては八方から塞いで叩きのめす。大手新聞やテレビ局の胡乱さ傲慢さにうんざりして久しい者には「溜飲が下がった」と認めること、やぶさかではない。
 マスメディア側の反論を細かく取り上げ、検討するという作業についてはやや粗さが目立つものの、総選挙前の民主圧勝を伝えた週刊誌同様、ビール片手に面白がって読むぶんには最高である。


 ところで、以前から不思議に思っていたことがある。企業が商品を企画、開発、販売し、さらに次の展開を検討する際には、対象顧客の細密な調査分析が必須である。
 しかるに、大手新聞はトータルの(しかも押し紙等のせいでおよそ正確とは言いがたい)発行部数以外になんら検討の素材がない。たとえば、新聞朝刊のどのコーナーがどの年齢層に実際にはどれほど読まれているか、といった資料など見たことがない。沢山の人に読まれているから影響があります、効果があります、と言われても昨今のビジネスシーンではマーケティングデータとして使い物にならない。この一点を見ても、大手新聞が現在の形のまま生き残るのは難しいように思われてならない。

つっこみ 先頭 表紙

2009-08-25 ソフトでビニールな愛のカタチ 『南極1号伝説 ダッチワイフの戦後史』 高月 靖 / 文春文庫


【うちの製品はお客さんが動かしてなんぼですから、ちょっと伸ばしただけで裂けるようじゃ売り物にならない】

 書店の平積で発見して、すぐにレジに走った。ダッチワイフの戦後史をたどるノンフィクション。企画の段階で脱帽だ。

 ご存知ない方のためにちょっとだけ説明しておくと、ダッチワイフとは、性的な用途に用いられる等身大の人形のこと。年配の男性の中には、ある種の雑誌のモノクロ広告ページに掲載された、粒子の粗い写真を記憶されている方も少なくないだろう。あの、ポッカリ口を開けた美麗とは言いがたい浮き袋のような風船人形。用途の隠微さもあって大っぴらに話題にできない、さりとて心のくぼみから消し去ることもできない、そんな切なくも滑稽なオブジェ、それがダッチワイフである。

 ところが、いずこの世界にも技術の進歩はあるもので、ダッチワイフは知らないうちに「リアルドール」「ラブドール」等と呼び名を変え、恐ろしいほどに美しくかつ高価な人形に姿を転じていた。
 論より証拠、「オリエント工業」「4woods」「LEVEL-D」といった主だったメーカーのホームページを覗いてみよう。ドールたちの美しさに部屋の空気が冷える思いがするに違いない。

 本書『南極1号伝説』は、そのダッチワイフ〜リアルドール、ラブドールへの変遷を綴ったノンフィクションである。
 表題の「南極1号」とは、かつて南極越冬隊員の性的欲求不満を解消するために南極まで持ち込まれたという伝説的なダッチワイフの名称。これが1956年のことで、ソフビ、ウレタン、シリコン等を用いた高級なドールがヒットし、主流となったのが1990年代のこと。

 最新のシリコン製のリアルなドールは、ソフトな手触りを維持するためにオイルが混合されていて、染み込んだオイルの含有量が多いとシーツが汚れ、衣装の色がドールの肌にうつってしまう。ウレタンやシリコンの手足は、扱いが荒いと、消しゴムのようにぱっくり割れてしまう。そもそもリアルに造られたドールは非常に重く(数十キログラム)、風呂場で洗ったり衣装を着せたりにするのに一苦労、などなど、直接触れたことのない者には想像もつかないリアルな情報が文字通り満載で、どのページをめくってもともかく面白い。
 国内の主なメーカーへのインタビューは会社の成り立ちから開発苦労談を中心としたものだが、力みかえることのない、営業臭さのない語り口はそれぞれ淡々としてとても読み心地がよい。

 ただ、1冊のノンフィクションとしてみるとどうだろう。『南極1号伝説』には食い足りないところも少なくない。
 そもそも表題の「南極1号」についてのドキュメンタリーとして期待しすぎると思い切り肩透かしを食らう。50年以上昔の、それもあまり公にはしづらい話題である。コラム程度と考えたほうが無難だろう。また、最近のリアルなドールについても、歴史、製造法や開発者インタビューなどの記載がなんとなくバラバラで、どうもおさまりが悪い。ドールの写真がモノクロで、点数が今一つなのは、文春文庫として電車の中で読まれることを考えるとこのくらいが限界か。

 もう1つ、問題は、リアルなドールにつきまとう人形愛のあり方について、その深さ、濃密さを十分に掬い上げられているように思えないことだ。たとえば、オリエント工業のホームページに用意された「ユーザーズリンク」に並ぶドールのユーザーサイト、これらにおいて、衣装を身につけ、目や唇に濃く薄く化粧を施され、さまざまなポーズをとったドールたちに漂う独特の匂いのようなもの(ハンス・ベルメールや四谷シモンと通じるものもあり、異なるものもある)。この空気を本書が十二分に伝えられているとは正直思えない。

 しかし。ダッチワイフという切り口をノンフィクションの対象に取り上げたアイデア、それを形に仕上げ、文春文庫といういわば公民権のある場所にまで持ち出した功績は大きい。
 この覗き穴から、見えてしまうものはいったい何だろうか。それは、本当に見てしまってよいものなのだろうか。

つっこみ 先頭 表紙

2009-08-16 〔短評〕楽しい無数の追憶 『のだめカンタービレ(22)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC


【のだめ もっとガツンといきたくなったんで オケもガツンときてください】

 単行本年3冊以上と、走るような速さで上演を続けてきた『のだめカンタービレ』だが、今回は作者の妊娠、出産にともなう休載のため、ちょうど1年ぶりの新刊となった。なので、ヨーロッパにきてから話がどうなってきたのだったか(いくつかの断片を除いて)よく思い出せない。
 そこは後で読み返すとして、とりあえず新刊に目を通そう。

 ……すごい。鳥肌が立つ。

 シュトレーゼマン(ミルヒー)率いるオケとのだめのリハ。
 シュトレーゼマンのロンドン公演でデビューするのだめの演奏。
 シャルル・オクレールとシュトレーゼマンの(のだめをめぐる)静かな対決。

 音楽を題材にした描写があまりにもよくできているため、ときどき、これが主人公たちにとって本当は痛々しいまでに過酷な物語だということを忘れてしまう。

 今回の1冊の中では、千秋とのだめの仲はすれ違ってばかりでうまくいかない。まるでそれを埋め合わせるかのように、カバーの裏表紙では千秋とのだめがオープンカフェで静かな時を過ごしている。この賑わしい1冊の中で、ほとんど唯一心の落ち着く、穏やかなカットだ。
 このように存ることのできない作中の二人を切なく思う。

つっこみ 先頭 表紙

2009-08-03 組織をはぐくむ夢 『オーレ!』(全5巻) 能田達規 / 新潮社BUNCH COMICS


【あとひとつ 中島さんから伝言がある】

 先に紹介した『GIANT KILLING』の売りが「サッカー漫画では未知の領域である監督をテーマに描く」なら、こちら『オーレ!』はチームの運営・経営によりフォーカスした、いわば社長育成をテーマにしたサッカー漫画である。

 主人公の青年中島順治は、サッカー選手でも監督でもない、サッカーに詳しいとさえいえない一地方公務員。
 ひょんなことから弱小プロサッカークラブ「上総オーレ」に出向を命ぜられた中島は、通訳兼アドバイザーという中途半端な立場から、2部リーグ下位で観客動員に苦しむクラブの実態を目の当たりにする。
 彼は当初は公務員ならではの理想論をふりかざし、周囲の反発を買うが、やがてチームの強化と地域の復興を生涯の目標とみなし、さまざまな難題に挑んでいく。低迷しているとはいえトップリーグに所属する『GIANT KILLING』のETUに比べても、上総オーレの目先の敵はより明確に「貧乏」と「人手不足」なのだ。
(サッカーチームの経営といえばセガの『プロサッカークラブをつくろう!』(通称「サカつく」)だが、「サカつく」ではプレイヤーは最初からチームのオーナーとしてある程度の権限を握っている。一方、『オーレ!』の中島は、上総オーレ出向時点ではボランティアスタッフからさえ軽んじられる不勉強な傍観者に過ぎない。だからこそ、3巻、プロリーグ残留のかかった重要な試合のさなか、選手たちへの伝令が口にする「あとひとつ 中島さんから伝言がある」というセリフは、中島のチーム内でのポジションの高まりを描いて痛快なのだ。)

 『オーレ!』の1巻から4巻までは、弱小チームが2部リーグからの降格危機をいかに乗り切るかというオーソドックスなスポーツマンガの体裁をとっている。それと並行して、チーム運営にかかるコスト、選手との契約、自治体との関係、地元へのプロモーション、細かいところでは試合後のゴミ処理など、チーム運営にかかわる大小のテーマが次々取り上げられていて興味深い。このあたり、主人公がサッカー経営に詳しくないことが描写にうまく活用されている。最終の5巻にいたるとサッカーの試合はほとんど描かれず、ドイツに赴き市民スポーツとして根付いたブンデスリーガのありさまを直接体験した中島が、上総市と上総オーレの未来のために身を投ずる覚悟を決めるにいたる過程が描かれるばかりだ。

 物語は後日譚として、上総オーレの社長となり、チームをトップリーグの強豪に育て上げた中島が、なおも世界のトップへの道を模索するシーンで終わる。もちろん、覚悟だけで経営ができるわけはなく、上総オーレの経営が改善されるにいたったさまざまな努力は結局描かれていない。そのため、経営をテーマとする作品としての『オーレ!』は荒削り、未完成と言わざるを得ない。しかし、その隙間を埋めて読もうとする者には非常に有意義なテキストの1つとなるだろう。

 たとえば、中島が上総オーレのスポンサーになってもらおうと日参する海運富豪の大河原老人のセリフ、

  「人は『故郷のために……』などという理念に金を出したりはしない
   その理念を体言した人間のために金を出すのだ」

これなど、読み手によっていかようにも読み取れそうだ。
 よくできたスポーツマンガの常で、『オーレ!』にはほかにもチャッチーなセリフがたくさん登場する。経営、運営の問題に直面している方には、心に沁みる言葉も少なくないのではないか。推奨したい。

先頭 表紙

2009-07-30 最終回は切り抜いて永久保存 『お茶にごす。』(現在9巻まで) 西森博之 / 小学館少年サンデーコミックス


【でも、船橋(アイツ)は 人のためにしか やらないんだよ。】

 続けてもう1つサッカーマンガを取り上げるつもりだったが、今日発売の少年サンデー、西森博之『お茶にごす。』の最終回があまりにも瑞々しかったので急遽方向転換。

 西森博之は『天使な小生意気』がお気に入りだったのだけれど、『天使……』は嫌な予感が当たって最後のほうはなんとなくおさまりの悪い印象だった。今回の『お茶にごす。』は後半ややダレた面もなきにしもあらず、しかし最後はあっと胸のすく見事な着地である。

 本作は、実は優しい心の持ち主なのに、悪魔的な外見で通りすがりの人々にまで恐れられ、不良たちと喧嘩ばかりしてきた船橋雅矢(まークン)が高校に入って平和な生活(ロハス?)を求め、勢い余って茶道部に入り、隣のアニメ研を巻き込み……といった話。
 よくある設定なのだが、まず主人公まークンの外見が本当に凶悪。こんな目つき口元の悪い善玉主人公はちょっといない。しかも無表情、感情の起伏に乏しい、空気読まない、人の話聞かない。
 そんなまークンが茶道部に入って生活が改まるかといえばそんなはずはなく、最終回の直前まで、トラブルの連鎖が続く。主人公自身、暴力と優しい行為の区別がまったくつかないのだから仕方がない。

 『お茶にごす。』は、基本的には、ディスコミュニケーションに起因するトラブルをギャグとして描く残酷な作品なのである。
 ところが、それが嫌味にならない。
 ディスコミュニケーション→トラブル→ギャグ、ディスコミュニケーション→トラブル→ギャグ、ディスコミュニケーション→トラブル→ギャグ、これが繰り返される合間に、ときどき、切れたはずの透明電球にパシッと灯りがともるように、人間関係が煌めく瞬間があるのだ。それは「ほのぼの」とか「癒し」とかいう安穏なものではなく、登場人物の誰かの、研ぎ澄まされた、清冽な言葉が誰かを深く突き刺すことによって唐突にもたらされる。すると、ギスギス、混乱、暴力沙汰、川の水にまみれた高校生活が、まるで蒸し暑い森の底に昨日の雨のしずくが垂れるように、瞬時に清涼で信頼に満ちた空間が出現するのだ。あああ、甘露。

 それにしても、マンガ人口の高齢化が進んだといっても、少年サンデーの読者の大半は小中学生だと思うのだが、『お茶にごす。』のそれぞれの場面はどのくらい理解されているのだろう。
 最終回は、大学の入試問題に出してもそこらの文芸作品に遜色ないと思われるくらい、主人公たちの屈折した心を、少ない台詞とシンプルな線で描き上げた見事なものだった。
 同じ茶道部の夏帆(脇役にしておくのは惜しいいいキャラだ)がまークンをいきなり川に蹴落としたのはなぜか(説明は可能だが非常に複雑)。まークンのダチの山田が無意識に涙を流したのはなぜか(言葉で説明するのは非常に困難)。まークンが大学に向かう道々「怖い」と思ったのはなぜか(これはわりあい簡単)。ハナの奥が痛くなったのはなぜか(含みをどこまで読み取るか、難しい)。ヒロインの元部長が何コマか登場するが、それぞれの微妙な表情の違いは何を表すのか(選択肢があれば選べるが、文字数制限ありの記述式でまとめるのは難度高)。などなど。

 ともかく、先週号から今週号にかけて、夏帆がまークンを川に蹴り落としてから最後のスタッフロールまでのほんの数十ページ、文学でいえば詩の領域の精度で描かれたコマ、コマ、コマ。
 この魅力を味わうためだけに単行本を1巻からそろえたとしても決して損はない。強く!推奨。

先頭 表紙

2009-07-21 今が旬、と思っているうちに10巻まできた 『GIANT KILLING ジャイアントキリング』(現在10巻まで) 著作 ツジトモ、原案・取材協力 綱本将也 / 講談社モーニングKC


【これがクラブだよ 後藤】

 「giant killing」とは「大物食い」「番狂わせ」といった意味のスポーツ用語で、相撲でいうところの「金星」みたいなものらしい。
 本作の主人公 達海猛はかつて日本代表にまで選ばれたサッカー選手だったが、今はイングランド5部のアマチュアクラブの監督として、チームをFAカップでベスト32に導く手腕を見せる。彼は「弱いチームが強い奴らを やっつける(GIANT KILLING) 勝負事においてこんな楽しいこと他にあるかよ」という志向性の持ち主だ。プレミアリーグのクラブを一時は3-2と逆転、リードした達海だが、結局は敗北、旧友の招きに応じてかつて自分が所属していた日本のプロクラブETU(East Tokyo United)の監督を引き受けることになる。低迷するETUのベテラン選手やサポーター達は、ETUを見捨てて海外に移籍した達海の監督復帰に激しく反発するが……。
 ここまでで1巻の半ば。なかなかスピーディーな展開である。その後は、達海率いるETUの1年間の奮戦ぶりがぐいぐい描かれて現在10巻。

 この作品のポイントは、脇役キャラクターの魅力(椿やジーノ、黒田、夏木といったETUのメンバーはもちろん、日本代表監督ブランとか名古屋ブラジルトリオとか)やスピーディーな試合展開はもちろん、監督を主人公におくことで、サッカーというスポーツの特質である「フォーメーション」をさまざまなアングルから描いてみせたことにある。
 何より、紅白戦からキャンプ、プレシーズンマッチ、リーグ戦、カップ戦にいたる、一つひとつの試合や場面に意味を持たせる展開が巧い。キャプテンシーの意義、FWのあり方、DFのモチベーション、負けグセからの意識の切り替え、ベテランの活性化、サポーターやクラブのあるべき姿、そういったテーマを一つひとつの試合やイベントに結びつけ、それぞれをどうすることが勝利につながるか、「特定の選手にスポットを当て、達海がその選手のプライドや思い込みを打ち砕き、結果的にその選手の活躍につながることによって当人の意識、技量を再構成する」ことを繰り返し、結果的にETUは少しずつ強くなっていく。
 スポーツマンガとしての勝った負けたがごく普通に面白いのに、それに加えて全体の骨組みが学習参考書のように主題中心の構成になっているわけだ。このことが作品に立体感を与えている(連載ではこの後、スポンサーやスカウトのあり方についても扱うらしい。「律儀」、と評してよいだろう)。

 本音の読めない達海の戦略にのせられ、踊らされ、風に舞う落ち葉のように翻弄されるのは読者も同様。そうこうするうちに気がつけばETUのサポーター気分でドキドキハラハラ、あげくに達海の作戦がツボにはまり、くすぶっていた古参あるいは若手選手が強敵相手にゴールをあげ、ベンチの監督やコーチがぐいぐいガッツポーズ、この展開は何度読んでもたまらない。申し訳ないがこのところのJリーグの試合などよりよほど面白い。添付画像は8巻の表紙だが、ガッツポーズをしながらも顎を引く、これは勝負師にとって大切なことだ。

 ところで、かのウィキペディアでは本作について「サッカー漫画では未知の領域である監督をテーマに描く」と持ち上げている。しかし、未知の領域といえばさらに一歩先をいったサッカーマンガがあった。それは……。

先頭 表紙

スポーツマンガ、いや過去マンガ全体を見渡しても、これほどクール、淡白、ドライ、ゴーイングマイウェイな人物がたくさん登場する作品というのはちょっと記憶にない。付和雷同タイプはほとんど一人もいないのだ。大人、プロ、職人の領域、という気がする。 / 烏丸 ( 2009-07-22 01:47 )

2009-07-04 腐った箱のキャベツ集団 『「朝日」ともあろうものが。』 烏賀陽弘道 / 河出文庫


【「朝日ともあろうものが」「天下の朝日」「エリート集団・朝日」】

 2001年の秋、廉価なブロードバンド環境がようやくこの国に普及し始めた頃、たまたま知り合いのマスコミ人からインターネットについて電話取材を受ける機会があった。その中で「5年もしたら朝日のような大手新聞はほぼ壊滅しているはずなので」といったことを口にすると、相手は当初の慇懃な口調を「ふん、ふふーん」といかにも不快そうな相槌に変え、最後は黙って電話を切ってしまった。
 考えてみれば彼も大手マスコミの社員。たいへん申し訳ないことをした。僕の予測は間違っていて、朝日新聞は2009年の現在もまだ存続している。

 でも、箱の中のキャベツはみんな腐っているんですよ、と、八百屋の丁稚が内情暴露してみせた本が本書『「朝日」ともあろうものが。』である。

 いろいろな意味で、細部まで面白い。
 「朝日は偏向していて」等々のイデオロギーまわりはまったく触れられていない。「押し紙による実売数隠蔽」という当節流行りの話題もない。本書で扱われているのは、著者本人の「まえがき」に次のようにわかりやすく列挙された類の、現場の諸相である。

 経費やタクシー券をチョロまかす同僚であり、記事の捏造を部下に強要するデスクであり、「前例がない」と言って原稿をボツにする上司であり、社用ハイヤーで奥様とフランス料理を食べに出かける幹部なのだ。

 それも、警視庁クラブキャップが情報の見返りに要求してきたものは何、とか、「九州・沖縄サミット」で外務省がプレス向けに用意したお土産(総額二万円ほど)は、「百円ラーメン」の記事を捏造するために記者がしたことは、などなど、さすが元新聞記者、内容が具体的でいい。
 それぞれの真偽や是非、深さはさておき、全ページ、全行、巨大な新聞工場の内側がいかに腐っているかを描いて隠れもない。社用ハイヤーで奥様とフランス料理を(しょっちゅう?)食べに出かけるのは、あの朝刊一面の下のほうの、駄文で知られる名物コラムの著者だそうである(短いわりには論旨と展開がわかりにくいので、大学入試でもよく取り上げられる)。まぁ、天声人語の著者が社費で行楽三昧であることなど、読んでいれば外の者にもおおよそ見当のつくことではあるが。

 さて、プライバシーとてない地方の現場から名古屋市役所の記者クラブ、雑誌(アエラ)編集部まで、さまざまなディテールで朝日新聞の内実を懇々と耕すようにまとめてくれた本書ではあるが、実は、申し訳ないことに一番面白いポイントはそこではない。これほどに朝日の内実を叩いておきながら、実は著者こそが、市井の読者などよりよほど朝日新聞をなにやらリッパなモノのようにあがめている、それがひきつった傷のように読めてしまうことだ。
 たとえば本文の

 朝日に限らず、日本の新聞はどこも「不偏不党」をポリシーとして内外に宣言している。

 企業のポリシーなんぞ普通は誰も信用しない。そんなものが信じられるくらいならこの世に不祥事はない。

 読者が新聞を読むとき、暗黙のうちにこう考えているのではないか。新聞は「知る権利」という「公の利益」を負託されている。だからこそ「公器」を自負している。よって、そこに並んでいる記事は読者への影響や関心だけを基準にニュース価値を判断した結果である。朝日新聞社が、企業としての利益のために記事を特別に大きくしたりする「公器の私物化」はない。

 読者がこんなふうに見ているなどと、本気で思っているのだろうか。

 こちらは報道のために記者クラブにいるのである。読者(納税者)の知る権利のエージェントなのである。

 記者クラブがそのような機能を果たしておらず、むしろ大手マスコミが権力の走狗となるリスクが高いことについては、今さら言われるまでもない。

 なぜ人々は「朝日ともあろうものが」「天下の朝日」「エリート集団・朝日」というふうに、朝日を持ち上げたがるのか。

 いつの時代の話だろう。インターネットで多少モノを見る目のあるサイトやブログで、朝日(に限らず大手マスコミ)がどういう目で見られているか、わかって書いているのだろうか。

 死亡事故取材は「命」「死」をぞんざいに扱っている。

 ぞんざいなのは死亡事故取材に限らない。新聞記事の大半は、発表元(通信社、警察、官庁、企業等)から提示された情報を書き改めた程度のテキストにすぎない(インターネットの普及で、同一のことがらについて複数の新聞の記事を比較しやすくなり、新聞というものがいかに自前の言葉を持っていないか、誰にでも簡単に検証できるようになった)。
 当然といえば当然のことで、専門誌の書き手なら経験を踏み、研鑽を重ねてようやく一人前になるかどうかなのに、新聞記者はジャンルを問わず専門家一人、裏をとってせいぜいもう数人程度への取材で記事を書いてしまう。各界のスペシャリストを納得させる記事がそう簡単にでき上がるはずがない。

 そして、とどめは巻末の「文庫版あとがき」だ。
 最近の朝日新聞のページ構成が、経済危機のあおりを受けて広告面でも苦戦し、かつてなら断っていたであろう通販や健康食品、はてはパチンコや消費者金融で埋められていることを受けて、

 いくら記者が懸命に取材した記事が載っていても、尿モレパンツの隣では惨めに見える。少なくとも「クォリティ・ペーパー」ではない。

 馬脚を露すとはこのことだ。著者はここで、「知る権利」という「公の利益」を受託された「公器」は、「優良企業」の広告しか載せてはいけないと言っているのだ。尿モレパンツの隣では、記事が「惨め」だというのだ。これを大手マスコミの思いあがりと言わずしてなんだろう。
 当たり前のことだが、ジャーナリスムの本領はそんなところにはない。B級新聞、三流エロ雑誌であろうが、真実を記した記事には真実が顕れる。発表の場、隣の広告ジャンルによって変わる評価など、何ほどのことだろう。

 朝日新聞を退職し、これだけ現場の腐敗を描き上げることのできたこの著者にしてこの勘違い、この思い上がり。
 朝日病の根絶はそれだけ難しいということか。

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2009-06-18 飲むことのはじまりにむかって 『一杯では終われません』 梅吉 / 講談社モーニングKC


【私にとってお米は飲みモノです】

 ちょっと外回りな話から。

 絵画というものが、しょせんキャンバスや壁などの平面に絵具を塗りたくっただけのものにすぎないという地点に至ったのはようやく20世紀になってからのことだった。これが、どちらが上だか下だかよくわからない、いわゆる前衛美術の基点といえば基点である。マンガはさすがに遅れてやってきただけにそのあたりはすでに折り込み済みで、かなり早い時期から、作者がコマの枠線を引くという行為そのものを表現の中に取り込んできた。手塚作品によく見られた、殴られたキャラがコマの枠を突き破ってふっ飛んでいく、キャラがコマの枠にもたれる、爆発シーンでコマも粉々になる、コマの枠やキャラを描く作者の手やペンがコマの上にそのまま描かれる、などがそれにあたる。コマの枠を無視してしまうのは「24年組」以降の少女マンガによく見られる手法で、たとえば有吉京子『SWAN』ではほぼ全ページにわたってコマどころか紙面の外枠をはみ出して絵が描かれており、単行本の断ち切り面が黒い。

 つまり、(ことさら主張してもそれほど意味のないことではあるが)コマの枠で仕切られたマンガは、そのスタート時点から前衛であり、メタメディアだったのである。

 マンガの読み手は今ではすっかりスレてしまって、こういったマンガ家の手法をごく当たり前のことのように素通りしてしまう。絵画でいえばキャンバスをはみ出して背後の上下左右の壁に絵の続きが描かれる、といったかなり過激な作法がごく日常的になされていると考えれば、マンガの無頓着かつダイナミックな前衛度合いが理解できるのではないか(そういえば、いしいひさいちの作品に、巨大なキャンバスに油絵を描いている画家に「大作ですね」と世辞を言うと、実は展覧会で小さなサイズに切り売りされていた、というのがあった。マンガ家でなければ思いつかないギャグかなと思う一方、印象派の作品の販売は本来そうあるべきだったかもしれない、とも思う)。

 絵画や文学では、思い切り気張って前衛ぶらないとできない(逆に、やったが最後、前衛がハナについて鬱陶しい)手法を、マンガはエンターテイメントの顔を崩さず軽々とやってのける。たとえば、ペンで描くという行為そのものを木版画にリプレイスした唐沢なをき『怪奇版画男』。表紙、目次から後書きならぬ「あとぼり」、初出一覧、奥付まで含め、全ページ「マンガを版画で彫る」ことをギャグに彫りつくしている。内容は細部にわたるまで徹底的だが、普通の読み手からすれば読み捨て連載ギャグマンガに過ぎない。これはすごいことだと思う。

 さて、ようやく今回の本題。

 「私にとってお米は飲みモノです」「つまみは炙りものちょっとでいいよー」「ここらで記憶断絶」という真性の酒好き(35歳 性別女)が全国の酒造を飲んでまわるサマ(業?)を描いたエッセイマンガ『一杯では終われません』は、全ページ、キャラ、コマ、文字も含めてすべてデザインナイフを用いた切り絵で構成されている。驚いたことに、最近の連載『35歳のハローワーク!』によると、作者はペン画もスクリーントーンも、つまり普通のマンガ原稿作成の経験がまったくないのだそうだ。

 『一杯では終われません』には、『怪奇版画男』のように版画や切り絵という作成行為そのものをギャグに取り込むといったメタ構造はない。エッセイマンガとしての深み、ギャグの冴えも、正直、そう優れているとは思えない。
 だが、それにもかかわらず、このデジタル一辺倒の時代に、こうして単行本1冊、まるごと切り絵で構成されているのを見ると、それだけで呆然としてしまう。
 ある種の技術は、それが技術であるということだけで、見る者触れる者を圧倒するのだ。
 そして、切り絵専業作家を取り込んでなおかつマンガとして成立させてしまうマンガというメディア、そのフトコロの深さはやはりあなどりがたい。

 ところで、梅吉は、上記2作品よりも以前から、モーニング誌巻末の目次ページに、『そこもまた魅力』という1コマコーナーを持っている。ほかの作家の作品を切り絵で持ち上げたりくすぐったりする小品なのだが、自身のキャラと各連載の登場人物を1コマの中にうまく配置して、実に面白い。ここでもマンガのメタメディアとしての……いやそんなことはどうでもよくて、大量生産されないだけにいつになるかわからない次回単行本だが、発刊の折にはぜひ『そこもまた魅力』も全作収録していただきたい。どうだろう。

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