himajin top
烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-06-10 無闇に労作 『バガボンド』 井上雄彦 / 講談社モーニングKC
2009-06-01 祈りのごとく “i trawl the MEGAHERTZ” Paddy McAloon / EMI Records UK
2009-05-23 グッジョブ 『悪夢の観覧車』木下半太 / 幻冬舎文庫
2009-05-19 愚挙 『マタンゴ 最後の逆襲』 吉村達也 / 角川ホラー文庫
2009-05-12 久々の復刊を言祝ぐ 『弁護側の証人』 小泉喜美子 / 集英社文庫
2009-05-06 名探偵、ありがちな落ちで戸惑いを誘う 『葉桜の季節に君を想うということ』 歌野晶午 / 文春文庫
2009-04-27 どこか「昭和」に似た深い緑 『東欧怪談集』 沼野充義 訳 / 河出文庫
2009-04-20 〔短評〕素焼きの手触り? 『唐宋伝奇集』(上・下) 今村与志雄 訳 / 岩波文庫
2009-03-14 上目遣いのパラダイス 『女王様がいっぱい』(全5巻) イワシタシゲユキ / 新潮社BUNCH COMICS
2009-03-01 悠揚として迫らず、泰然として自在 『若さま侍捕物手帖(1)(2)』 城 昌幸 / ランダムハウス講談社 時代小説文庫


2009-06-10 無闇に労作 『バガボンド』 井上雄彦 / 講談社モーニングKC

【(手元に単行本がないので引用、画像ともなし)】

 これだけ売れた作品にどうこう言ってもしょうがない。逆にいえば一人二人ネガティブな読み手がいてもバチもあたるまい。
 良作、労作だとは思うが、とくに面白いと思わない。

 本作について世の書評欄が繰り返し指摘するのが「圧倒的な画力」ということだ。否定はしない。筆を利用した描線は、他の追随を許さないほどリアルで、……だが、「リアルで」と書いたところで、次に書くべきことがない。
 もし、この作品からこの描写力を引き算したら、そこに何が残る。結局、吉川英治の原作の膂力、遡れば講談などで脈々と練り上げられてきた《宮本武蔵伝説》の魅力か。無論、それ以外にも、聾唖の天才剣士、佐々木小次郎の魅力、剣と立身の虚実にもがく若者たちの姿など、本作独自な設定もあるにはある。しかし、一流のスポーツマンガならその程度の味付けはなされて普通だ。逆に勝負モノとみるとテンポが遅い、ストーリーにメリハリがない、独白がくどい。主人公はじめほとんどの登場人物は、ビビる、斬られる、ビビる、斬る、このバリエーションを繰り返すばかりで能がない。絵をはがして読んでみるとそんなものである。

 肝心の「圧倒的な画力」にも疑問がある。
 本作は「どのコマもそのまま絵画作品として評価に値する」と持ち上げられているが(それも否定はしない)、つまりは大半のコマが静止していて、剣士のエネルギー移動を描けていないということでもある。単行本が手元にない今、過去の印象的な場面を思い出そうとすると、登場人物が強敵と対峙して逡巡する場面、切り捨てられて倒れた浪人など、など、剣のふるわれる瞬間の前あるいは後ばかりなのだ。
 作者は本作において意図的にマンガ的手法、いわゆる効果線、土ぼこり、汗の飛沫などを避けているようだが、その結果、武蔵も小次郎も吉岡一門も、まるで動かない。動いても歌舞伎役者のような見得ばかりだ。たとえば小次郎の剣速のすごみは、対する剣客の喉元にひょいと木切れをつきつけ、相手が絶句するシーンとして描かれる。戦闘としてはすでに止まっているのだ。
 極端な比較で申し訳ないが、サザエにイタズラを見とがめられたカツオのほうがよほど速い。よく動く。たとえば、長方形のコマの中、やや左下に横に三本線を引き、その右上に「ピュッ」という文字を描いてみよう。ついでに三本線の右に2、3、土ぼこりを表す半円を描いてみる。走り去ったカツオの出来上がりである。それがマンガの技法だ。マンガというのは、医学や工学と同じく、他者に伝えうる、再現性のある技術と効果の総体であり、作家の個性はその外側を覆うようにある。『バガボンド』はマンガ的手法を遠ざけた結果、勝れた、しかし動きを失った絵巻物になってしまってはいないか。

 かつて、『バガボンド』と同じように「圧倒的な画力」で大きな話題となったマンガ作品があった。1980年代前半に少年サンデーに連載された村上もとか『六三四の剣』である(こちらもムサシなのはたまたま)。東北の少年剣士の成長とライバルとの対決を描いた純度100%の剣道マンガ(なにしろ父も剣士なら母も剣士、ライバル父子はもちろん恋愛すら剣道を通してしか語られない)である。しかし、その執拗なまでの線描は週刊連載とは思えないほど細密かつ迫力に満ち、当時は新聞などでも「マンガの到達点」などと妙に高揚した持ち上げ方をされていたものだ。
 その『六三四の剣』だが、現在ではあまり省りみられない。
 画力ばかり過剰で、おそらく何かに欠けていたのだ。『バガボンド』と同じように。

先頭 表紙

2009-06-01 祈りのごとく “i trawl the MEGAHERTZ” Paddy McAloon / EMI Records UK


【I am telling myself the story of my life.】

 レコードアルバムのジャケットは、CDサイズになって、以来、遊び心も攻撃性も美しさもすっかり喪われてしまったように思っていた。だが、真っ白い地に赤、青、紫の数本の線が走るだけのこのジャケットは、祈りのように美しい。──

 Prefab SproutのリーダーPaddy McAloonのソロアルバム、“i trawl the MEGAHERTZ”(2003年)をようやく手に入れることができた。

 1曲めのアルバムタイトル曲は、22分にわたって主旋律が繰り返される中、女性の声で静かにが朗読される、というもの。その後に並ぶ短い曲目も、いずれも映画のサウンドトラックのような、断片的なものばかり。
 Prefab Sproutファンの予想を覆すだろうこのアルバムは、もはやロック、ポップミュージックというカテゴリからは外れるかもしれない。(もちろん)そんなことはどうでもよい。

 かつて、レコードを聴くということは、息をつめてその盤面にそっと針を落ろすことだった。“i trawl the MEGAHERTZ”はそんなレコードの聴き方を思い出させる。

 Paddy McAloonが紡ぎ出すメロディは、その曲が始まった瞬間から、古い映画の画面やノイズだらけのラジオから流れる懐かしい昔のポップスサウンドを思い起こさせる。そのくせ、あらゆる曲が、Paddy McAloon、そしてPrefab Sproutでなくては作り出し得ない瑞々しさと切なさ、そして思いがけない編曲の妙に満ちあふれている。
 Paddy McAloonは、数年前に、網膜を病み、本を読むこともパソコンでメロディを編集することもできない時期があったという。仕方なくあちらこちらの放送局の番組(聴取者参加型の番組から暗号化された軍事情報まで)に耳を傾ける日々を経てこしらえられたのがこのアルバムだという。
 そのあたりの経緯を記したPaddy McAloon本人によるライナーノーツ(英文)は必読だ。アルバムジャケットのデザインがそうであるように、ライナーノーツとリリックスが記されたジャケットの裏面も、このアルバムにおいては作品の一部なのだ。

 ──深夜に僕は一人でそっとCDをセットする。すると遠くから誰かの声が聞こえ始める。
 どこか遠くで、ここにはいない僕が泣いてるような気がする。

先頭 表紙

2009-05-23 グッジョブ 『悪夢の観覧車』木下半太 / 幻冬舎文庫


【家族が幸せだった日の、朝食の風景】

 うーん、面白かった!

「ゴールデンウィークの行楽地で、手品が趣味のチンピラ・大二郎が、大観覧車をジャックした。スイッチひとつで、観覧車を爆破するという。目的は、ワケありの美人医師・ニーナの身代金6億円。警察に声明文まで発表した、白昼堂々の公開誘拐だ。死角ゼロの観覧車上で、そんな大金の受け渡しは成功するのか!?」

 引用が少し長いが、文庫カバーのこの惹句は以前から気になっていた。
 「観覧車上で6億円の身代金の受け渡し」、どう考えても難しい。観覧車外の誰かに受け渡しするのではありきたりに過ぎる。観覧車の窓から撒き散らす手はどうか。大金の身代金の目的はターゲットのダメージということもあるからだ。問題は犯人がどうやって逃れるか……そもそも、なぜわざわざ観覧車を選ぶ?

 読み始めてすぐ、この観覧車が大阪は天保山ハーバービレッジの大観覧車であると知って嬉しくなった。ほんの1ヶ月ばかり前に家族で大阪旅行に出かけ、その大観覧車の隣の海遊館でジンベエザメを見てきたところだったからだ。

 ストーリーは、何人かの登場人物、それぞれの現在と少し昔が交互にからまって、笑わせつつビターな展開を示す。身代金の受け渡し、そもそもの犯行の目的。なるほど、ね。セットで納得で満足だ。
 ありがとう。

先頭 表紙

2009-05-19 愚挙 『マタンゴ 最後の逆襲』 吉村達也 / 角川ホラー文庫


【マタンゴに感染した人間の生命は、もはや人間のルールには従わない。】

 書いてはいけない本がある。東宝の了解を得られたとしても、作者に『マタンゴ』へのリスペクトがあったとしても、いやリスペクトがあるならあったほど、書かれるべきではなかった。


 マタンゴは、恐ろしい。

 東宝映画『マタンゴ』。
 封切は1963年、同じ東宝の怪獣映画『キングコング対ゴジラ』の翌年、『モスラ対ゴジラ』の前年で、巨大キノコ怪獣が暴れまわる映画と勘違いした(そう勘違いしてしかたない予告ポスターだったのだ)日本中の小学生が封切館におびき寄せられ、あのラストシーンにキャッと悲鳴を上げたまましばらく夜一人でトイレに行けなくなった。

 ストーリーはシンプルだ。六本木のナイトクラブに遊ぶ金持ちや学者、作家たち男女7人がヨット遊びに出、嵐に遭って漂流する。流れ着いたカビだらけの無人島で、彼らは食料と女をめぐり、エゴと欲望をむき出しにして争う。やがて彼らの背後に現れる怪しい影。その島のキノコを食べると、人はキノコ様の怪人になってしまうのだ。しかし、極限の飢餓の中、若者たちは一人、また一人とキノコに手を出していく。

 40年以上昔の映像だけに、CGを多用した昨今の映像に比べるとクリアさでは劣る。しかし、打ち捨てられた難破船の船室の湿っぽさ、洞窟のようなキノコの森の壮絶な光景は、ヘビやクモやナメクジに感じられるあの「触ってはいけない」、「触ったら何かがうつりそう」な不潔感、気色悪さに満ちている。

 怪人マタンゴは決して強大な脅威というわけではない。火や強い光に怯え、打ちすえれば腕がもげ、銃で撃てばあっさり倒れる。怪人マタンゴはただ群れて立ち、見つめ、誘うだけなのだ。キノコのように。
 『マタンゴ』が当時の他の怪奇映画と一線を画したのは、そこに描かれた恐怖の素因が、自分自身の肉体と精神が醜い怪物と化すことにあった。巨大怪獣が夜の都市を襲う恐怖、吸血怪人が闇から現れる恐怖などとは次元が違う。怪人マタンゴがドアの向こうに立つのもそれはそれで怖いが、それ以上に、追い詰められた自分が、清廉な恋人が、逃れようもなくそのグロテスクな怪人に変じてしまう、それこそが恐ろしいのである。

 ……などということは、DVDか何かでひとたび『マタンゴ』を見ていただければわかることだ(映像の雰囲気が知りたいならYouTubeで映画の予告篇を探してみるといいだろう)。お子様ランチ化した平成ゴジラなどと異なり、一篇の映画作品として、大人の鑑賞に堪える内容、品質であることは保証しておきたい。


 さて、角川ホラー文庫『マタンゴ 最後の逆襲』は、ミステリ、ホラー作家の吉村達也が東宝の了解を得て発表した、映画『マタンゴ』の後日譚である。

 「富士山麓の樹海の奥深く、大型ヨットが浮かび、亡霊がさまよっている──その「都市伝説」を確かめようと訪れた五人の男子学生と二人の女子高生を包み込む極彩色の胞子の霧。そして現れたキノコの怪物!」というオープニングの設定はまだしも、意思を持ったかごとき「極彩色の胞子の霧」があまりに超常的で、読み始めてすぐに不安になる。悪い予感は的を射抜き、マタンゴの発生に放射能実験云々の理屈をつけてみたり(映画の予告篇で安易に語られた「放射能が生んだ」という設定は、映画本編では削られているのだ。卓見である)、国際バイオテロとからませたり、あげくに巨大マタンゴに変身前の人の意識を持たせるにいたってはもはやマタンゴに対する冒涜であると断じたい。

 水野久美が嫣然とキノコを口にするシーン──色っぽくむき出しになった足がすでに一部ケロイド状に変色しているのが美しくグロい──がなぜ怖いか。「せーんせーえ、せんせーえ」と清楚な笑顔のまま久保明を招く八代美紀がなぜ怖いか。そこにいるのが、まったく同じ顔をしていながら、すでに自分たちの知っている人間ではないからではないか。

 吉村達也の『マタンゴ 最後の逆襲』に登場するマタンゴは、ただキノコに似た、巨大でほこりっぽい着ぐるみにすぎない。平成キングギドラにも見受けられたやたら複雑な設定、大掛かりな理由付けをかぶせて今ふうの(ハリウッド映画を少しチープにしたような)アクションシーンへとなだれ込み、「マタンゴに感染」「村井マタンゴ」「米軍のマタンゴ研究チーム」……なにかもう、悪い冗談のようだ。
 これはもはや、あの底なしに美しく、果てなしに恐ろしいマタンゴの胞子を受けた嫡子ではない。小麦粉か何かだ。

先頭 表紙

2009-05-12 久々の復刊を言祝ぐ 『弁護側の証人』 小泉喜美子 / 集英社文庫


【わたしたちは、面会室の金網ごしに接吻した】

 古い探偵小説やテレビのサスペンス劇場にいくらもありそうな設定と展開に「ふふん、それで?」とページをめくるうち、後半のあるところまでくると……思わず「ちょと待てぇ、おい、こら」と少々上品とは言いがたい声がもれてしまう。見事してやられたことに憤懣やる方ないが、人目に隠れてページを戻してみると実は決して騙されたわけではなく、こちらが勝手に読み違えただけではないかと悟り、もうグルグルうなり声を上げるしかない。

 小泉喜美子といえばハヤカワ・ミステリ文庫のP・D・ジェイムズやクレイグ・ライスの翻訳者としてお世話になっている名前だが、実は小粋な都会派ミステリをいくつも書き残した先鋭的な作家でもある。
 美しく洗練された海外ミステリを愛し、返す刀で犯人あてやトリック追求ばかりの型にはまってしまった日本のミステリに対しては山猫が歯牙にもかけぬ扱いだった。当然、当時の推理文壇との軋轢もただならぬものがあったと推察される。

 『弁護側の証人』(1963年)は、その小泉喜美子の処女長編にして代表作。タイトルがクリスティの法廷劇『検察側の証人』の(文字通り)翻案であるあたりもこの作者らしい。
 主人公は美人で強気な元ヌード・ダンサー、彼女は資産家の御曹司と結婚して豪邸に移り住むが、そこでは(当然のように)彼女への偏見と悪意が満ちあふれる。そしてその邸宅で義父の資産家が殺害され……。

 元ヌード・ダンサーが若妻として白い目で見られるという設定、登場人物それぞれの濃さ、熱っぽいセリフ展開、それらはいかにも「昭和」の手触りであり、現時点からみればさすがに古臭い言葉遣いも目につく。
 しかし、作品の構造は見事なまでにアクロバティックで、叙述ミステリ流行りの当節の新作に交えてもまったく遜色ない、いやむしろ手際のスマートさと骨太な構成という相反する要素において堂々勝っているように思われてならない。
 古今のミステリの名作の数々が「その当時としては斬新だったに違いない」と留保付きの感興を招くのと違い、死体と油断して皮膚を切ったら動脈から血が吹き出したような鮮烈さだ。

 この『弁護側の証人』は久しく品切れ状態が続いていたが、この4月に集英社文庫として30年ぶりに装丁を変えて再版された(添付画像は1978年発行の旧版)。まずは目出度い。静かに祝杯をあげよう。

 小泉喜美子自身は「1985年、酒に酔って新宿の酒場の階段から足を踏み外して転落し、脳挫傷を負い、意識が戻らぬまま外傷性硬膜下血腫で死亡した。」(Wikipediaより)
 亡くなり方も、一から十まで昭和の人だった。合掌。

先頭 表紙

2009-05-06 名探偵、ありがちな落ちで戸惑いを誘う 『葉桜の季節に君を想うということ』 歌野晶午 / 文春文庫


 今さらで申し訳ない。いちおう立ち位置だけ表明しておこう。

 「2004年版このミステリーがすごい!」「2004本格ミステリベスト10」「第57回日本推理作家協会賞受賞」「第4回本格ミステリ大賞受賞」、いずれも「第1位」なのだそうだ。版元が文庫の帯に「これが現代ミステリーのベスト1です」と持ち上げたくなる気持ちもわからないではない。

 ところがいざ読んでみると──これが別段面白くない。
 青臭いハードボイルド調が鼻につくこともあるが、最後の種明かしに世評ほどびっくりできないのだ。

 この作品のメイントリックは、かつて多産された(それもB級の)SFショートショートでよく見うけられたパターンの一種である。
 ページを費やしていても、仕組みは同じ。

 もちろんありがちな枠組みであっても、詰め物次第なのだが……「君を想う」という言葉があまりに軽すぎて、入り込むこともできない。

先頭 表紙

本書に記された「白金」と「白金台」の話は面白い(もっとも、今どきは近隣の「高輪」含め、超高級住宅街であることに変わりはないのだが)。たまたま本書のすぐ後に発刊された谷口ジローの作品に「目白」から「目白台」方面に向けて坂道を登るという場面があり、なるほどと納得。 / 烏丸 ( 2009-05-09 03:37 )

2009-04-27 どこか「昭和」に似た深い緑 『東欧怪談集』 沼野充義 訳 / 河出文庫


【西欧の高度に洗練された文化の形式が東進するにつれて次第に崩れていき、それが完全に崩れて「無形式」の虚無に落ち込む一歩手前で踏みとどまっているのが東欧】

 昨年10月5日に有明コロシアムで行われたAIGジャパン・オープン・テニス選手権決勝では、チェコのトーマス・ベルディハがアルゼンチンのデル・ポトロを破って初優勝した(準優勝のデル・ポトロはお腹をこわして残念でした)。
 さてこのベルディハ、テレビや新聞、テニス雑誌などでいまだその呼び名が落ち着かない。いわくベルディヒ、いわくベルディフ、あるいはベルディッチ、もしくはバーディッチ、よもやのバーディック。誰ですかそれ。
 セルビアのトッププレイヤー、ジョコビッチも、NHKでヨコビッチ呼ばわりされてテニスファンを驚愕させた。
 東欧と日本の間には、それだけ距離があるということか。

 河出文庫の国別「怪談集」シリーズ──いずれも品切れ絶版──は、編者の思い切りに任せたそれぞれの取捨選択具合が変幻自在で独特なのだが、その1冊、『東欧怪談集』もなかなかに素晴らしい。
 「東欧」で「怪談」といえば思い浮かぶのがトランシルバニアのドラキュラ伯爵、しかしこれはアイルランド人ブラム・ストーカーによる創作。歴史上のドラキュラと吸血鬼には直接は関係がない。ドラキュラ城が想起させる土着、未開といったイメージは、一種のエキゾチズムだったのだろう。いうなれば「生産地偽装」である。
 本『怪談集』は、その意味では「現地調達」、「産地偽りなし」。
 東欧各国のさまざまな作家の手による短い怪奇譚を現地の言葉から直訳することによって、東欧の「匂い」を正しく伝えようという試みである。化繊が混じっていないため、非常に手触りがよい。

 目次を見てみよう。

 ●ポーランド
   「サラゴサ手稿」第五十三日 トラルバの騎士分団長の物語 ヤン・ポトツキ
   不思議通り フランチシェク・ミランドラ
   シャモタ氏の恋人 ステファン・グラビンスキ
   笑うでぶ スワヴォーミル・ムロージェック
   こぶ レシェク・コワコフスキ
   蠅 ヨネカワ・カズミ
 ●チェコ
   吸血鬼 ヤン・ネルダ
   ファウストの館 アロイス・イラーセク
   足あと カレル・チャペック
   不吉なマドンナ イジー・カラーセク・ゼ・ルヴォヴィツ
   生まれそこなった命 エダ・クリセオヴァー
 ●スロヴァキア
   出会い フランチシェク・シヴァントネル
   静寂 ヤーン・レンチョ
   この世の終わり ヨゼフ・プシカーシ
 ●ハンガリー
   ドーディ カリンティ・フリジェシュ
   蛙 チャート・ゲーザ
   骨と骨髄 タマーシ・アーロン
 ●ユダヤ
   ゴーレム伝説 イツホク・レイブシュ・ペレツ
   バビロンの男 イツホク・バシヴィス(アイザック・シンガー)
 ●セルビア
   象牙の女 イヴォ・アンドリッチ
   「ハザール事典」ルカレヴィチ、エフロシニア ミロラド・パヴィチ
   見知らぬ人の鏡「死者の百科事典」より ダニロ・キシュ
 ●マケドニア
   吸血鬼 ペトレ・M・アンドレエフスキ
 ●ルーマニア
   一万二千頭の牛 ミルチャ・エリアーデ
   夢 ジブ・I・ミハエスク
 ●ロシア
   東スラヴ人の歌 リュドミラ・ペトルシェフスカヤ

 ベルディハ、ジョコビッチ同様、現地の正しい発音、アクセントの見当もつかない名前が並んでいる(母親たちは夕暮れ時に彼らをどんなふうに呼んでいただろうか)。
 ロシア、ポーランドはともかく、ハンガリー、セルビア、マケドニアとなると、文芸作品そのものになじみがない。専門分野を紹介できて「チャンス到来!」とばかり踊るような訳者勢の意気込みが熱気をはらみ、またそれを吟味し取捨選択する編者のコンダクターぶりも楽しそうだ。
 全体に「怪談」「ホラー」というよりは「奇妙な味」、「SF」テイストなもののほうが多い、ないし記憶に残る。

 これだけ広々とした国、作品から選ばれた選集に、感想も何もないものだが、東欧というとこれこれのイメージだが実は本当は──といわれてこわごわ匣を開けてみると、意外や昔から想像していたとおりの東欧の色(個人的には非常に深い緑)が現れ出てきたことが嬉しく、また頼もしい。西欧、近代、科学、都会、といった文化に向かいつつ、かつそれだけでは語れないところに本領をおく、そんな点で日本の「昭和」という時代と似た匂い、「昭和」のネガ(ポジ?)にあたる構造というか、そういうことも感じられた。

 やや気になるのが、作品のタイトルに、含み、屈折が感じられないことだ。直接的、即物的(この場合、モノではないのだが)で、これは怪談としても文芸作品としても、少し素朴に過ぎるのではないか。

先頭 表紙

2009-04-20 〔短評〕素焼きの手触り? 『唐宋伝奇集』(上・下) 今村与志雄 訳 / 岩波文庫


【そう言うなり、子供の両足を持ち、頭を石に叩きつけた。】

 『捜神記』『剪燈新話』『日本霊異記』『今昔物語集』などなど、昔の説話集をぱらぱら散策するのは楽しい。洗練された磁器ではなく、素焼きの陶器の魅力である。多少の説教臭さなど、現代人フィルターが勝手に濾過してしまうので平気だ。

 岩波文庫『唐宋伝奇集』には唐代宋代の説話が、見目よくいえばバラエティ、有り体にいえば脈絡なく雑多に収録されている。蒲松齢『聊斎志異』と異なり、作者も時代もまちまちなので、長さ、味わいもそれぞれだ。

 下巻巻頭には牛僧孺作とされる「杜子春」が収録されている。いうまでもなく芥川龍之介「杜子春」はこの翻案である。
 元祖「杜子春」も芥川のもの同様仙人に無言の行を命ぜられ、艱難辛苦に耐えに耐え(父母は出てこないが、妻が脚を一寸刻みに斬り落とされる)、口をきかないまま女に生まれ変わり、あげくに夫に自分の子を殺されたところで初めて声を上げる。その後は救いもなくただ放り出されるだけだ。

 ついつい、のちに書かれた芥川版のほうがよりテーマを突き詰め、人間の相克を描いているに違いないなどと考えがちだが、牛僧孺の原作のほうがよほど厳しく深く、また超絶的なものが感じられて好もしい。繰り広げられるエキセントリックな拷問の数々の尖り具合、杜子春が女に生まれかわるなんていう奔放さに加え、登場人物個々の関係と目的意識が鮮明で、早い話が芥川よりよほど現代的なのである。素焼きなどとは失礼千万、色絵も細密な青磁の出来だった。

先頭 表紙

2009-03-14 上目遣いのパラダイス 『女王様がいっぱい』(全5巻) イワシタシゲユキ / 新潮社BUNCH COMICS


【罰… 受けなくて… いいんですか?】

 イワシタシゲユキ『女王様がいっぱい』は、週刊コミックバンチ 2008年4・5合併号から2009年10号にかけて連載された作品。

 作家は新進、掲載誌は後発。登場するは少女マンガの駆け出し編集者たる主人公一人を除いて全員若い女性たち。なにかときわどいエロシーンを呈してB級テイスト横溢。ならばB級に徹すればよいものを、純愛、ワキフェチ、主人公の文学趣味、マンガ家たちの渇望、三角関係、編集者の使命感など、あとからあとから食材が盛り込まれ、生煮えの鍋の中はおよそバランスが悪い。案の定、たとえば主人公の文学趣味は後半まったく生かされず、謎の編集長は最後まで姿を現さず、三角関係の決着にも説得力がない。B級にしても失格だろう。
 世間の評価は、単行本5巻の完結した現時点でAmazon.co.jpにカスタマーレビューの1本もない、この一事でおよそ見当はつく。さほど増刷の声もかからず、話題にもならず、青年誌にしてはエッチな連載マンガとして3ヶ月もすれば誰もが忘れてしまうだろう。多分、きっと。



 いや、待て。僕は決して忘れはしない。

 『女王様がいっぱい』では次々と挿し出される女たちの「目」が爆裂的に魅力的なのだ。
 それは白く見下ろす半眼だったり、氷のようにえぐる横目、赤く睨む目、刺すような上目遣いだったりするのだが、どの「目」もたっぷり豊満で、淵のように瑞々しく、焼きプリンのようにとろけて胸を満たす。

 マイナー、人には奨めづらいようなエロマンガにして、この描写力。
 嗚呼、マンガとはどこまで豪奢を嘗める舌なのだろう。

 夜。外は雨と、風。
 だが、温かいソファの上は今、至福の時だ。

先頭 表紙

2009-03-01 悠揚として迫らず、泰然として自在 『若さま侍捕物手帖(1)(2)』 城 昌幸 / ランダムハウス講談社 時代小説文庫


【ハッハハハ!】

 「出来」と書いて「しゅったい」と読むことがあります。
 その意味の一つには、何か事件が起こること。岡本綺堂の『半七捕物帳』など読んでいると、ときに「その繁昌の最中に一つの事件が出来しました」といった味わい深い口運びが現れて楽しませてくれます。
 「出来」のもう一方の意味は、何かができ上がること。最近はめったにお目にかからなくなりましたが、出版物の広告に「増刷出来!」などとあるのがそれです。
 今回は『若さま侍捕物手帖』出来! のお話です。

 先に取り上げた『半七捕物帳』、佐々木味津三『右門捕物帖』(むっつり右門)、そして野村胡堂『銭形平次捕物控』、この三作を並び称して「三大捕物帳」と言います。ボリュームにおいてやや見劣りする『右門捕物帖』の代わりに横溝正史『人形佐七捕物帳』を推すこともあるようです。
 最近では、上記四作に城昌幸『若さま侍捕物手帖』を加えて「五大捕物帳」とすることが多くなっているようです。
 しかし、最初の四作がそれぞれ文庫や全集で再版が重ねられているのに比べ、どういうわけか若さま侍シリーズは不遇をかこってきました。

 『若さま侍捕物手帖』は1980年代半ばに春陽文庫から『双色渦巻』『五月雨ごろし』『人化け狸』『天を行く女』『虚無僧変化』の長短篇集が発行ないし再販されましたが、いずれも現在では新刊としては入手不可。1990年に光文社文庫から長編『百鬼夜行』の上下巻が出ましたが、これも品切れ。その後2003年に中公文庫と光文社文庫から相次いで傑作短篇集が発行され、これらは現在でも入手できますが……昭和14年(1939年)に「週刊朝日」誌上に「舞扇三十一文字」で登場して以来、30有余年にわたって書き続けられた人気シリーズが、ジュンク堂池袋本店を上から下まで探しても文庫本2冊しか手に入らない! というまことに侘しいありさまがここしばらくずうっと続いていたのです。

 ──理由はわかりません。捕物帳という内容が古臭い、ということではないでしょう。本を読む世代が高齢化したことや、NHK大河ドラマの久々のヒットによるものか、書店では時代小説の平積みが目立ちます。また『若さま侍捕物手帖』の語り口は、昨今発表されたと言われても違和感がないくらい切れ味がよく、スピーディかつクールです。

 と、苛々を募らせてきた若さまファンにとって、昨年、今年は盆と正月がいっぺんに来たような(…古っ…)目出度くも有り難い文庫の発刊が続いています。まさに「出来!」です。
 
  『若さま侍捕物手帖』(徳間文庫 中編「紅鶴屋敷」「五月雨ごろし」収録)
  『人魚鬼−若さま侍捕物手帖』(徳間文庫 長編)
  『若さま侍捕物手帖』(1)(2)(ランダムハウス講談社時代小説文庫 傑作短篇集)

 両社ともこの後も続刊を予定しているとのこと。もちろん、これでも、著者曰く「短篇だけで二百五十篇(中略)、或は、三百に近いかもしれない」、ほかに中・長編が約二十篇とあのWikipediaでさえ全体像をまとめきれない膨大な若さまシリーズの、まだ本当にごく一部にすぎませんが、それでも一昨年までの旱魃状態に比べれば夢のような恵みの雨です。

 さて、『若さま侍捕物手帖』の主人公「若さま」とはいったい何者なのでしょうか。作品中では最後まで氏素性は明らかにされません。幕府の大物と知遇があるなど、随所になにやら高貴な身分であることが暗示されているのですが……(捕物帳と称される時代小説では、通常主人公は同心、目明し、御用聞きのいずれかですが、若さまはそのいずれにも属しません)。

 江戸は柳橋、船宿「喜仙」の居候にして、いつもは「床柱に軽く背をもたせかけて右の立膝、前に徳利を乗せた黒塗り高脚の膳部を控え、楽しそうにちびりちびりと盃をあげ」、この「喜仙」の一人娘で明けて十九になった「おいと」のお酌を相手に無駄話。そこに御用聞きの遠州屋小吉が不可解な事件を持ち込んで……というのが毎度おなじみのパターン。
 若さまはどこまで本気やら、小吉の話に「ハッハッハ!」と笑って春は花見、冬は雪見にごろりと寝そべり、気が向けば「どれ」と出かけて、いつの間にやら快刀乱麻、事件は解決してしまいます。

 添付の画像ではなにやらお侍たちが切り結んでいますが、若さまはこんな無粋なことは決していたしません。「酒は灘の……」とふらつきながら、
 「若さま、どちらまで?」
 「ぶらぶら」
 「な、なにやつ!」
 「物好き」
 「お武家様、どうしてここへ…」
 「見物」
そのくせ、剣の達者な悪人が背後から切り込もうにもすきがなく、ただもう
 「ハッハッハ!」

 バロネス・オルツィ作『隅の老人』に想を得たというアームチェア・ディテクティブかと思えば、長編では東海道、中仙道とすたすた長旅に出ることいとわず、巨悪、こそ泥、怪談まがいとあらゆる難事件を解決して爽快です。

 作者城昌幸は城左門の名で詩人としても知られる人物。日夏耿之介主催の「奢霸都(サバト)」に参画したというのですからこれはハイカラです。
 『若さま侍捕物手帖』は「痛快」とか「春風駘蕩」とかよく評されますが、同じ「痛快」「春風駘蕩」でも山手樹一郎などとまた味わいが違うのは、詩人として磨かれた言葉に対する細やかなセンス、あるいは西欧文学への趣味嗜好が背景にあってではないかと推われます。説明に走らず、無駄を切り捨てたショートセンテンスで「こく」より「きれ」を重視し、濁りのない、颯爽とした作風を最後まで保ちました。

 続刊は3月の初旬。ひとつ若さまを気取って黒の着流し、ふところ手でぶらりと本屋をのぞいてみましょうか。
 「ハッハハハ!」

先頭 表紙


[次の10件を表示] (総目次)