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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2006-02-20 最近のダメダメ 『はやぶさ新八御用旅(二) 中仙道六十九次』 平岩弓枝 / 講談社文庫
2006-02-16 痛々しさの末裔 『漫画家超残酷物語』 唐沢なをき / 小学館ビッグコミックススペシャル
2006-02-11 痛々しさについて 『漫画家残酷物語』 永島慎二 / 朝日ソノラマ サンコミックス(ふゅ〜じょんぷろだくとより復刊)
2006-02-05 合格祈願フードあれこれ 「う・カール」から「勝ちま栗」「ハイレルモン」まで
2006-02-02 「作家。をプロデュース」 芥川賞がダメダメな理由?
2006-01-29 「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)
2006-01-23 へんです 『またまた へんないきもの』 早川いくお,絵・寺西 晃 / バジリコ
2006-01-22 すこーしだけ考えてみる 『生協の白石さん』 白石昌則,東京農工大学の学生の皆さん / 講談社
2006-01-18 事件まみれの一日
2006-01-16 まわれまわれカザグルマ 止まらず走れ 『のだめカンタービレ(14)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC


2006-02-20 最近のダメダメ 『はやぶさ新八御用旅(二) 中仙道六十九次』 平岩弓枝 / 講談社文庫


【隼新八郎どのではござらぬか】

 すちゃらか。
 なんでこうなってしまったのか。

 隅田川沿いの宿屋を舞台にした人情絵巻『御宿かわせみ』が好きだ。そこで,同じ作者の時代モノをいくつか手にとるのだが,似たような味わい,完成度となるとなかなかヒットしない。

 『はやぶさ新八』シリーズは,江戸町奉行根岸肥前守鎮衛の内与力(直属の家臣)を勤める隼新八郎が命を受けてさまざまな難事件を探索する長・短編集。当初は大奥にうごめく男女の愛憎や武家の傲慢を描き,『かわせみ』に比べてどろどろした重い話が多かったのだが,最近はすっかりすちゃらかになり果ててしまった。

 『御用旅』編では,主人公新八郎が東海道五十三次を上って京に参り(一巻),禁裏にかかわる贈賄事件を解決して中山道六十九次を下る(二巻)。
 ところが,事件の謎解きも,恨みを買っての道中も,ともかく要所要所に知人が現れて一事が万事こんびにえんと。連れの子どもが熱を出せば「もしや新八郎様」と親しい医者の娘が現れる。街道で切り合えばその地の用心が「何事」と現れ「これは新八郎どの」と処理してくれる。

 『課長島耕作』を思い出すが,あちらは超大企業の課長“ごとき”がたまたま手を出した女のコネで万事結果オーライという御伽噺だった。奉行の威を借りて下にもおかれぬ内与力が「これはありがたい」の連発では読み手も民草も救われない。

先頭 表紙

『御宿かわせみ』のほうは,江戸が終わって明治時代に入るのだそうな。 / 烏丸 ( 2006-02-26 18:48 )

2006-02-16 痛々しさの末裔 『漫画家超残酷物語』 唐沢なをき / 小学館ビッグコミックススペシャル


【そうそうこう描くと、こういう絵になるんだよ】

 問題は(というのもヘンだが),唐沢なをきだ。

 永島慎二の『漫画家残酷物語』がいかに読者を熱狂させたといっても,40年も昔の,それも(毎度おなじみ)朝日ソノラマ版の絶版で最近まで「幻」と呼ばれた作品だ。直接目にした読み手は多くなかったろうし,ましてや今も漫画誌を愛読している者となるとさらに少数だろう。
 だから,唐沢版『漫画家残酷物語』の目指すものがパロディだったとは思えない。

 実際,『漫画家残酷物語』は永島版『漫画家残酷物語』のパロディのふりをしつつ,個々の短編はいずれも単独で読めるものとなっている。
 巻頭の「サムソン」こそ永島版「うすのろ」を登場人物,コマ運びまでそっくりパクった構成になっているが,その内容はエロマンガ家たちの暴走と哀愁を情けなく描いたもの。その後のパクり度の低い各編となると,おそらく永島版を知らないで読めばいつもの唐沢ギャグに過ぎず,違和感を抱くこともないだろう。
 ……だが,いつもの唐沢ギャグに見えながら,妙な読後感が残る。なぜか。

 近年の唐沢なをきは,メカフェチ,2次コン,ロリコンなど,いわゆる「おたく」を素材に,その生態を揶揄する作品を書き続けてきた。本作に登場するおかしな漫画家,編集者,マニアたちも,そこから遠く外れてはいない。ただ微妙に違うのは,それが作者本人が所属する漫画界を舞台にしていることだ。

 そのためか,苦笑いして読み進むうち,それぞれのギャグがひょっとしたら本当にあった話,実在の人物を描いたものでないかという疑念がコップの中の積乱雲のように湧き起こる。そのとき垣間見える痛々しさは,意外なほど永島版と遜色ない。いや,永島版から40年を経て,漫画界,出版界が産業として巨大化すると同時に硬直し(あえて成熟とは言うまい),少年誌と青年,レディース誌,商業誌と同人誌などのセグメント化が進んだだけ,ますます身動きならない,救いのない業態になっているようにも見える。
 いやしかし,いくらなんでもそんな読みはないだろう,各ページにはおたわけギャグが並ぶばかり,こんなものにシリアスな作者の本音がこめられているとは……と,まるでオセロの盤面のように何度も白黒反転する読み応え。
 いじられているのは,漫画家なのか,読み手なのか。

 それでも,いくつかの作品で,唐突に永島版の登場人物やコマがぱっくりと再現されているのを見ると,スコーンと足元が抜けるような思いにかられる。
 『漫画家残酷物語』は青春だった。『漫画家残酷物語』は,言ってしまえば黒い冬。ちぇっ。

先頭 表紙

その密林の「今は買わない」がいっぱいだったので,「カートに戻す」をクリクリクリ,「レジに進む」をクリックしたところ,それからしばらく,ダンボールの箱が熱帯雨林。家人の目がピラニアの……。怖いですわ,密林。 / 烏丸 ( 2006-02-20 01:43 )
怖いもの見たさでうっかり「密林」でぽちっとしてしまいましたわ。限定版のだめ15巻も先月密林でぽちっと。怖いですわ、密林。 / けろりん ( 2006-02-19 11:25 )
そうなんです,こんなちょっとイタい本も描いているのです。ところでけろりんさま,「マングースぬいぐるみ」付き限定版のだめ15巻は予約されましたか? カレンダーは予約ゲットしたカラスも,今回は迷っています。ただ,お腹を押すと「ぎゃぼ〜」と言うらしいのがな……。うう。 / 烏丸 ( 2006-02-19 00:17 )
唐沢なをきはこんなのも描いていたんですね。読みたいような読みたくないような・・。永島版は実家にありますが、1回読んだきり棚から出すことはなかったので話は全然覚えていませんです。。。 / けろりん ( 2006-02-16 16:12 )

2006-02-11 痛々しさについて 『漫画家残酷物語』 永島慎二 / 朝日ソノラマ サンコミックス(ふゅ〜じょんぷろだくとより復刊)


【メシつぶを残すな カレーライスくったあとで】

 人は往々にして,「痛々しいもの」を目の前に突きつけられると批評精神を棚上げしてしまう。これは心理というよりほとんど反射の領域で,ある種のポスターやドラマへの反響が手放しで「感動」という言葉に自動変換され,真に優れた表現作品かどうか検証されないままに終わることが多いのはそうした背景による(※1)。

 永島慎二の作品は「痛々しい」。なかでも昭和30年代に発表された『漫画家残酷物語』はこの国の漫画史上もっとも「痛々しい」作品の1つかもしれない。
 『漫画家残酷物語』には老若さまざまな漫画家が登場し,デフォルメされた絵画的筆致で(※2)愚直に漫画を語り,あるいは口をつぐんで描き続ける。ある者は商業主義に反発し,ある者は自らの描きたいものを見失い,病に,貧しさに,一人ひとり磨り減っては消えていく。
 斧で割られたような傷だらけの漫画家たちが直接的,間接的に作者を反映しているかと思うと,漫画を描く行為そのものの険しさ,切なさが若い読み手を締めつけ,放さない。

 確かに,こんなものを若いうちに読んでしまうと,無条件に「かぶれ」てしまうのはやむを得ないかもしれない。いしかわじゅんは本作を「はしか」と位置づけた。
 いずれにせよ,『漫画家残酷物語』は当時,漫画を新しい表現形式として見据えようとする若者たちのバイブル,指標となり,同時に強い足枷となった。

 永島慎二の作品は,商業主義にひた走る時代の漫画が失いつつあったものについてすぐれて批評的だった。批評的ではあったが,それは必ずしも新たな創作にはつながらない。実際,漫画が「描けない!」痛みについてはあれほどの迫真性を示しながら,理想に燃えた漫画家が描き続ける漫画,あるいはその作品がヒットする展開はいずれも道徳の教科書のように作りごとめいて白々しい。

 あるいは。この作品に何度か登場する,誰か特定の個人(故人)のために心をこめて描くという漫画のあり方はどうか。ストーリーは感動的だが,考えてみれば個人に向けて描いた作品を社会に向けて出版するのは極めて贅沢かつわがままな行為である。そうして描かれた作品(漫画,小説,フォーク,ロック)がごくまれながらヒットすることは否定しない,しかし職業的,継続的な創作活動とはまた別の話だろう。
 「漫画家」を名乗り,継続して作品を描き続けるなら,そこに職業人としての苦さ,厳しさがあるのは当然である。「残酷」を口にし,痛々しさを訴えることが甘えでないとは限らない。

 結局のところ,『漫画家残酷物語』の恐ろしく強烈な魅力は否定しないが,同じ漫画家を主人公としながら説教臭さを感じさせない『若者たち』(※3)のほうが今は懐かしく,好もしい。
 『若者たち』は,エンターテイメントであることをきちんと表明しているのに対し,『漫画家残酷物語』は,「痛々しさ」がエンターテイメントであることを隠蔽している。そのあたりわかったつもりで原酒を氷で割るように少し薄めて読むのが『漫画家残酷物語』との正しいつき合い方ではないか。どちらにしても酔うはめには陥るわけだが。


※1 逆に,極めて痛々しい状況を描きながら,そういった条件反射を招かぬよう抑えた表現に努めた作品は,単に主題のみならず作品として深みのある感動を与える場合がある。反戦ものでいえば樹村みのり「海へ」,こうの史代「夕凪の街桜の国」など。

※2 永島慎二はエコール・ド・パリの画家,とくにモジリアニが好きだったのだろうか。イラストカットや木炭による素描を思わせる描写には,ピカソやシャガールの闊達さへの憧憬も感じられる。60年代の熱情がストレートに伝わらなくなった今も,本作のデフォルメされた人物造形の魅力は変わらない。

※3 『若者たち』はのちにドラマ化されて放送された(NHK銀河テレビ小説シリーズ「黄色い涙」,1974年)。出演は森本レオ,岸部シロー,下条アトムほか。主題歌「海辺の恋」は佐藤春夫の同名の詩に小椋佳が曲を付けたもの。荒井由実「晩夏(ひとりの季節)」と並ぶ同ドラマシリーズの音楽的成果の1つ。

先頭 表紙

おまけ。朝日ソノラマ版の『漫画家残酷物語』の第三巻には,当時売り出しの新人作家,五木寛之が写真付きで推薦を書いています(ジャズ喫茶シーンの頻出する永島作品の紹介者としては,モスクワ愚連隊の作者はなかなかいいセンですね)。その写真の若さ,勝手にウケてしまいました。 / 烏丸 ( 2006-02-16 00:43 )
また,アマチュアのまま描き続けるという選択肢は当時はなかったんですね。なにしろ登場人物は(ごく一部の億万長者を除いて)誰も彼も貧しい。週休二日で平日夜と休日はプライベートな趣味に,なんて夢のような時代だったと思います。 / 烏丸 ( 2006-02-16 00:43 )
今回永島版『漫画家残酷物語』を読み返して気がついたのは,女流の漫画家が一人も登場しないこと。すでに少数ながら女流もいたとは思うのですが(矢代まさ子など貸本時代から描いていた),登場する女性はすべて漫画家の家族,恋人,あるいは読者。 / 烏丸 ( 2006-02-16 00:42 )

2006-02-05 合格祈願フードあれこれ 「う・カール」から「勝ちま栗」「ハイレルモン」まで


 私立中学入学試験は2月1日からの数日がピーク。
 2日の試験中に1日受験校の発表に走り,結果次第で入学手続き,もしくは違う学校に走って3日,4日の受験出願……などなど,目の回るような忙しさ。親子面談のある学校を交えるとさらに複雑で(女子校の場合,多いそうです),ToDo表をきちんと制作していても途方に暮れるハードなスケジュールが続きます。
 皆さん,風邪などひかず,実力を発揮できたでしょうか。

 大学受験なら本人の自覚を問えばよいし,一浪二浪も珍しくありません。しかし,中学入試では浪人という選択肢もなく,手伝うこともできないほんの数時間の一発勝負で子どもの命運が左右されると思うと……スーパーやコンビニの「受験願掛け商品」についつい目がいくのもやむを得ないところでしょう。

 最近どこのスーパーでもレジ横に積まれているのが,明治カールの限定版「う・カール」
 「チーズ味」と「うすあじ」あり。

 「キットカット」は「きっと勝つ」ですでに縁起モノとしては数年前から定番。
 サクラ模様のものはさらにおめでたい雰囲気です。

 同じく定番ですが,説明がないとピンとこないのはロッテ「コアラのマーチ」
 「コアラは眠っても木から落ちない」→「落ちない」→「受験に落ちない」で江戸時代より縁起のいいお菓子とされています。

 飲み物なら「必勝合格ダルマサイダー」
 静岡は島田市の木村飲料というあまり聞いたことのない会社の製品ですが,300mlのサイダー瓶をダルマに見立て,ちゃんと「        合格」と志望校を書き込む欄もあり,「学問の神様である天神様を主神とする由緒ある神社で原材料に合格祈願をしていただいております」「念願かなって合格できたら片目を書き込んでくださいネ!」とサービスゆきとどいていい感じ。

 それから,最近のお気に入りは,イトウフーズの冷凍焼き栗「勝ちま栗」(添付画像)。
 なにより神仏に頼るだけでないアグレッシブなネーミングが魅力的。ちなみに半分に切れ目を入れた焼き栗が,食べやすくてけっこう美味しい。

 カンロのヘンな名称の飴シリーズでは,「さくらさく!コーラ縁起がいいよかん」
 サクラ味,コーラ味,イヨカン味のようです。

 「ハイレモン」に一文字加えて「ハイレルモン」はシール入り。
 「ポッキー」で「吉報」,「キシリトール」で「きっちり通る」など,ほかにも霊験あらたかなオヤツいろいろ。

 聞くところによると,東ハトの「キャラメルコーン」に,期間限定商品として「カナエルコーン」というがあるらしい。ダルマデザインなのだそうですが,これは残念ながらまだ目にしたことがありません。

 いずれも,価格は普通のオヤツと同程度ですから,同じ買うならと見つけるたびに買って,勉強机に飾ってパンパンとお祈りしては食べて飲んで……受験の結果はともかく,親子して太ってしまったのは確かなようです。

先頭 表紙

2006-02-02 「作家。をプロデュース」 芥川賞がダメダメな理由?

 
【僕らの高校生活とは全く違いますから、読めないんですよ。先に進めない。】

 読売新聞1月19日の文化面に,昨夏の第133回で芥川賞の選考委員を退任した作家・三浦哲郎のインタビュー記事が掲載されている。これが,賞選考の裏面を示してすこぶる面白い。

 三浦は表向きは病気(脳梗塞)を理由に選考委員を辞退したのだが,本音を言えば

・時代が変わって今や作品中の高校生の生活などが理解できず,作品を読み進めることができない。
・自分は本来選考委員の素質がない。人と争って言葉で相手を圧倒するようなことはできない。
・重視すべきは文章,と主張してきたが,段々効力がなくなってきた。編集者も作家も,文章より時代性を重視するようになった。
・自然少数派の肩を持つことになるが,自分の支持したものはいっこうに受賞しない。会心の選考会というのは残念ながら経験がない。

……というのである。

 今週の「週刊ポスト」誌(小学館,2月10日号),「日本の新聞を読む」欄では,ノンフィクション作家・小林照幸がこのインタビュー記事を取り上げ,「候補作の中の高校生の生活が理解できないのは,世代差が本当の理由なのではなく,あらゆる世代が読むに耐え得る文章力で時代性を描き切っていないからである」と三浦に賛同の意を表している。いかにも教科書的な反応だ。

 しかし。小林の読みははたして正しいのだろうか。

 先にクリアにしておきたい。
 芥川賞,直木賞というのは,そもそも,菊池寛が「文藝春秋」誌の売り上げを伸ばし,また新人を発掘するために創設したものだ。その後,受賞作家が広く活躍する例が続き,文学賞の中でも権威あるものとされてきたが,本質的には他社の賞同様,文学や小説の振興という意味合いは含むにせよ,しょせん出版社の都合で開催される廉価なプロモーションツールの一つにすぎない。

 したがって,受賞作品がベテラン作家からみて評価に足る作品であるかどうかは,必ずしも最大要件ではない。容姿端麗な若い女性作家であること,(表層的であっても)刺激的な世相を扱っていること,そういったスキャンダリズムが選考基準として文章の品質以上に重視されたとしても,それは授賞サイドの方針,さじ加減次第だ。
(綿矢りさ『蹴りたい背中』,金原ひとみ『蛇にピアス』の同時受賞は,作品の価値,クオリティを格段に上回る掲載誌の売り上げを計上した。プロモーションツール芥川賞の本領発揮と言うべきだろう。高く売る,もしくはたくさん売る,それがブランド戦略なのだ。)

 ……それにしても,三浦哲郎という人物はひどいというか,とんでもない。

 本人の言葉をそのまま信じるなら,彼は,自分が選考委員にふさわしくないことを自覚しつつ,20余年(!)にわたりその地位に留まり続けたということだ。後進に道を譲るでもなく,賞への疑念を広く訴えるでもなく,退任した今になって自分の推した作品は選ばれなかったと繰り言をこぼす。無責任,老害と言わずしてなんと言おう。

 個人的に,昨今の芥川賞受賞作にさほど興味はない。なるべく目を通すようにはしているが,棚に残すほどの作家にはめったに出会えない。直木賞受賞作家には敬愛する作家が少なくないが,こちらは一種功労賞なので,受賞で話題にならずとも名前や代表作くらいは聞き知っていることが多い。
 だから両賞の運営を今さらどうこう言うスジアイでもないのだが,それにしても,もし選考委員にほかに三浦のような勘違いの御仁がおられるなら,早急にもっと目の利く人物にすげ替えたほうがよいのではないか。
 近年の芥川賞受賞作の問題は,文章より時代性を重視していること,などではない。三浦が言うほどに時代性をテーマにした作品の比率が高いとも思わない。それ以前に,端的に作品としてつまらないのだ。

 芥川賞に今必要なのは,演歌全盛期を懐かしむばかりでアユもヒップホップも聞かない音楽評論家ではなく,「おニャン子クラブ」における秋元康や「モーニング娘。」におけるつんく♂のような才能ではないかと思う。
 文学界に今そのような人物がいるかどうかは知らない。しかし,少なくとも探す努力,任せる度量は必要だろう。

先頭 表紙

本当にいい本ですね。子どもに理解できるか,という以前に,そもそも「被爆」ということを現代人がどのくらい理解できるのだろうか,ということが気にかかるわけですが,なんだかやたらヒロシマ,ナガサキが風化しつつある今,大切なことを代わりに描いてくれたように思います。 / 烏丸 ( 2006-02-04 02:27 )
「夕凪の町桜の国」はいいですね。小学生の娘にも読ませましたよ。平成生まれの娘が、時代のどこまでをどう理解できたのかは頭の中を覗けないのでわかりませんが。 / 秋@会社・未ログインごめんなさい ( 2006-02-03 14:48 )
素朴な疑問。たとえば(昨夜たまたま読んだ)山下和美『不思議な少年』,あるいは文学風ということで豊田徹也『アンダーカレント』,もしくは(これを出すのはズルいとは思うが)こうの史代『夕凪の町桜の国』とタメを張れる芥川受賞作品というのは,ここ20年の間に何かあっただろうか? 僕には思い浮かばないのだけれど。 / 烏丸 ( 2006-02-02 01:07 )
たとえば,選考委員に欽ちゃんはどうか。いや,マジで。与えるだけでアフターフォローのないスポーツ賞にかみついた野茂(ほんとに,すごい人だ)なんてのも面白いかも。 / 烏丸 ( 2006-02-02 01:01 )

2006-01-29 「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)


【よせるいつわり かえす真実】

 添付画像の上左,上右は,四方田犬彦『漫画原論』(ちくま学芸文庫),伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版)でも引用された,大島弓子「海にいるのは…」,萩尾望都「小鳥の巣」の,それぞれハイライトシーンである。

 四方田,伊藤は,それぞれマンガ表現論者の視点から,これらいわゆる「24年組」の少女マンガの作家たちがマンガの「コマ」の「フレーム」を破断していることに着目している。
 しかし,いずれの論者も,逆に言えば指摘どまりで,大島弓子や萩尾望都が,なぜ,何のために「フレーム」を破断しているのかについては明確な目的,理由を示していない(どちらかといえば,マンガにおける「コマ」や「フレーム」の機能について語るためにこれらのページを持ち出した印象のほうが強い)。

 そこで,ここでは「24年組」の作家たちがどのような場面でこうした「フレーム」破断を行ったのか,またそれによってどのような効果が得られたのか,作例をもとに少しばかり考えてみたい。

(ただし,上右の「小鳥の巣」は,萩尾望都の代表作の1つ,連作『ポーの一族』の1作ではあるのだが,作者が目を病み,「トーマの心臓」の週刊連載でペン(線)が荒れた時期の作品であり,必ずしも最良な例とは言いがたい。ここでは主に上左の「海にいるのは…」を例に語りたい。ただし,「小鳥の巣」でも概ねは同様なので,適当に変換してお読みいただきたい)。

 まず,このような抒情的なページに対してあまりにも直接的なたとえで申し訳ないが,マンガ家がコマの中に登場人物を描く際,それをどんどん大きくしていったらどうなるだろうか。当然,その人物はコマをはみ出し,フレームを破って描かれることになるだろう。
 添付画像の上左,これは「海にいるのは…」のクライマックスシーンであり,まぎれもなくそのようなページである。そのページにいたるまでの登場人物たち(とくにオーガスティン,そしてヒルデガード)の奇異な行動の理由から主人公の生い立ちまで,過去から現在にいたるもつれた糸がすべて一気にほぐれて,主人公アレクサンダー少年の心に大きな熱い思いが浮かび上がる……まさしくそういうシーンなのだ。文字通りの「あふれる思い」がそのままフレームを破断しているのである。

 ここで,ポイントは,マンガにおける「コマ」や「フレーム」が,「空間」と「時間」を区切るものだということである。
 つまり,従来,手塚治虫らのストーリーマンガのコマが,フレームによって「空間」「時間」を区切ることで読者に状況とその展開を示し,了解させたのに対し,「海にいるのは…」の作者は,作品の要所においてそのルールを逆手に取り,「空間,時間をバーストさせるほどの感情の氾濫」を描いて見せたということになる。

 また,このページで破断されたフレームが,単に「空間」のみならず「時間」まで混濁させていることにとくに注目したい。
 「海にいるのは…」,「小鳥の巣」,いずれの引用ページも,過去の登場人物&事象と,現在の登場人物&事象が破断されたフレームの中で並立し,融合し合って同一のページの中で一種のパノラマ現象を引き起こしている。
 つまり,従来のストーリーマンガが,本来人間の住んでいる3次元(空間),4次元(時間)の状況を,「コマ」「フレーム」という手法を用いて無理やり2次元の紙の上に定着させようと辛労してきたのに対し,「24年組」の作家たちはむしろ逆に,そのマンガのルール,共通認識を利用して,(飛び出す絵本のように)そのページから3次元,さらには4次元への一気の広がりを描いてみせようとしたわけである。

 この描写法は,作家の描写力はもちろん,読み手にも相当に高度な読み取り能力を要求する。
 その作品のその手前までのページを熟読し,さまざまな登場人物の言動,関係,時代背景などなど,そういったものすべてを咀嚼してクライマックスのページに反映しなければ,満足な読み込みにいたらず,最大限の感動を得るができない。
(大島弓子,萩尾望都といえば,昨今でこそ少女マンガの大御所として評価が安定しているが,この2作が発表された1970年代当時には読みづらい,難しい作家として少女マンガ誌の最大公約数的読者からはむしろ敬遠されていた。現に「海にいるのは…」では,オーガスティンを主人公の実の父親と誤読した読み手が少なくない。)

 そして,問題は,ここからだ。

 ではいったい,大島弓子や萩尾望都は,この「フレーム」破りによって登場人物やさまざまな事象を3次元(空間),4次元(時間)の領域まで増幅,氾濫,乱立させて,結局のところ,いったい何をしてみせようとしたのか。
 強調,動揺,抒情,感動。……もちろんそうなのだが,それらだけでは説明がつかない。

 再度指摘しよう。「フレーム」の破断は,読み手の意識を「空間」のみならず,「時間」の領域にまで引き上げる。
 ……思うに,この「フレーム」破りは,本来紙媒体の上では決して表現し得ない,時間芸術たる「音楽」表現へのチャレンジだったのではないか。「24年組」のマンガ家たちの作品に対する,「詩的」「抒情的」といった評価の源は,この「音楽」への挑戦にあったと言い換えることができないか。

 「24年組」の作家たちの「音楽」への希求は,たとえば萩尾望都「精霊狩り」「キャベツ畑の遺産相続人」などにおけるプチミュージカル仕立て,大島弓子の描く常に風にそよぐ樹木などからもうかがうことができる。

 再度テクストを手にとってみよう。

 大島弓子「海にいるのは…」は,「24年組」のマンガ家たちが達成した,いかにも「24年組」らしい秀作の1つだ。この作品に目を通してみれば,

   海にいるのは男たち

   よせるいつわり
   かえす真実

   よせる真実
   かえすいつわり

という高名なフレーズをはじめとして,海辺のシーン,雨のシーン,いずれも詩的な雰囲気に満ちている。
 だが,当然ながら,2次元の紙媒体がリアルな(=耳に聞こえる)音楽を伝えられるわけはない。

 ただ作品の最初から,音楽への「予感」だけが繰り返しページに提示され,最後に添付の「フレーム」を破断したクライマックスシーンにおいて,読み手は自分の心の中にそれまでに「予感として蓄積した音楽」を高く低く聴きとることになるのだ。

 それは,戦後ストーリーマンガが志向した「映画のようなマンガ」に対する回答の1つであり,同時にそれは結果として「映画にできないマンガならでは」のマンガ表現が打ち立てられた瞬間でもあった。

 大島弓子の(最近の淡々としたエッセイ風作品は別として)作品に魅かれる者は,さわさわと描かれた紙のページから立ちのぼる大島弓子の弦楽奏にたまらなく魅かれ続けてきたに違いない。……少なくとも,この僕はそうだ。





◆付: 石森章太郎『ジュン』における「コマ」「フレーム」の扱いについて

 この「音楽」について,同じく抒情性を高く評価され,作者自身が「詩集」と称した『章太郎のファンタジーワールド ジュン』を読み比べてみると面白い(添付画像下)。
 マンガについてのありとあらゆる実験的手法に満ちた『ジュン』だが(手塚治虫がこの作品に対して嫉妬のあまり「これはマンガではない」というコメントを口にし,のちに謝罪したことは覚えておいてもよい),この作品において石森はついに「コマ」「フレーム」そのものを軽んじることはできなかった。
 その結果,『ジュン』では,「時間」や「音楽」をテーマにする短編が少なからず収録されているにもかかわらず,極端なまでにフキダシを使用しないなど,むしろ絵画的な静謐と沈黙をもって大半のページが描かれることになった。
 だが,結局のところ言葉や音がすべて読み手にゆだねられるこの<パントマイム的>な手法では,読み手の心に「音楽」をかき鳴らすことはできず,『ジュン』の世界は硬質なガラス,ないし宇宙空間的な真空の向こうにあって,いっさいの音は読み手にまで届かない。
(『佐武と市捕物控』でも,目の見えぬ市は往々にしてコマの中に放置される。本来行為の流れであるはずの市の斬撃は,相手を倒した後の停止として描かれる。石森は基本的に音のない静止空間について本領を発揮するタイプの作家だったのかもしれない。)

先頭 表紙

2006-01-23 へんです 『またまた へんないきもの』 早川いくお,絵・寺西 晃 / バジリコ


【やだ、卵産みたくなってきたわ。】

──前回もへんな本だったのですが,今回は前回よりますますへんなんです。
──ちょ,ちょっと待ちたまえ,エリカくん。へん,へんって,いったい何の話だか。
──失礼いたしました,教授。前回と申しますのは早川いくおの『へんないきもの』のことであり,今回と申しますのは同じく早川いくおの『またまた へんないきもの』のことです。
──なるほど,すると君が言いたいのはつまり『へんないきもの』はへんな本であったが,『またまた へんないきもの』はさらにへんである,と,そういうわけなんだね。

 キリがないのでこの2人は研究室においておいて,話を進めましょう。
 『またまた へんないきもの』は,実際,『へんないきもの』よりもっとへんで……全然話が進みませんね。

 ともかく,前回も今回も,とても楽しい。へんてこりんないきものでてんこ盛りです。
 左ページに文章,右ページにイラストの見開きベースで,そんなんありか,ウソだっしょーっ,えぎーっ,というようないきものを,とくに学術的な厳密さにこだわるでもなし,ただこんなのもおります,あんなのもいますねえ,と淡々タンタカタンとブルクミュラーに取り上げていきます。

 前回がベストセラーになったことでちょこっと自信がついたんでしょうか,今回の『またまた』は前回に比べてこっそり織り込まれたギャグにも余裕があってそれが楽しい。ときどき思い出したようにイラストのはじっこに描き込まれたプチイラストがこれまた可笑しい。

 紹介されるへんないきものは,不気味なものから愉快なもの,長大強大なものからバクテリオファージまで,バラエティに富んでいます。

 目から血を発射して敵を威嚇する「ツノトカゲ」。
 鯛の口の中に夫婦で寄生して子を育て上げるまで添い遂げる「タイノエ」。
 フセインが操るイラクの巨大グモ「ヒヨケムシ」は兵士が眠っている間に麻酔を注射して肉をかじりとる。子どもみたいな叫び声をあげながら,2メートルもジャンプして襲い掛かる(いずれもウソ)。
 状況に応じて24もの活動形態に変異,神経毒を放出して魚類を食い殺し,霧状化して人体に入れば神経障害を起こす有毒微生物「フィエステリア」(いずれも本当!)。
 体長40メートル,シロナガスクジラより長い「クダクラゲ」
 海底からあなたを祟る自縛霊「メガネウオ」。(左のリンクは怖いからクリックしないほうがいいかも?)

 今回はスペシャルとして,回虫博士・藤田紘一郎博士との対談,絶滅生物についてのわりあいシリアスなエッセイがありますが,それにも増して「へんないきいもののへんななまえ 命名者出てこい!」が爆笑モノです。
 たとえば,「ヨーロッパタヌキブンプク」。「タヌキ」に「ブンプク」はともかく,それに「ヨーロッパ」。
 あるいは,ハードSFにおける反物質を想起させる「トゲアリトゲナシトゲトゲ」。
 「ポンポンメクラチビゴミムシ」は京都に実在するポンポン山に実在するのだから言葉狩りされても困ります。
 「シネミス・ガメラ」が暴れれば「ウルトラマンボヤ」がヘアッしてアワッしてデュウワッ!!(左のリンクは可愛いのでぜひクリックしてみてください。)

 これらがみんな,(前回の「ツチノコ」を除いて)実在するいきものなのだから嬉しい。
 理由はとくに追いません。地球は楽しい,まずはそういうこと。

──教授,教授はどうお考えなのでしょう。
──いや,エリカくん,急に言われてもだね。
──へんですか。そんなにへんですか。
──いや決してその,すごくへんというわけでは。うう。デュウワッ!!

先頭 表紙

えりさん,こんばんは。この2人はシリーズというわけではありませんが……へんないきものを羅列している本を紹介するのに,へんないきものを羅列してもしょうがないと,登場願いました。「教授」は「せんせい」と読んでいただけましたら幸い。 / 烏丸 ( 2006-01-27 01:41 )
教授とエリカちゃんがとってもヘンですね。シリーズなのですか? 笑ってしまいました。 / えり ( 2006-01-26 00:12 )

2006-01-22 すこーしだけ考えてみる 『生協の白石さん』 白石昌則,東京農工大学の学生の皆さん / 講談社


【そうですか。まだ春、来ないですか。】

 今さらだけど,以下に示すような指摘はあまり記憶にないため,書いておきたいと思った。

 東京農工大の生協職員,白石さんの「一言カード」での顧客応対が非常にユニークで心を潤すものだということについては,個人のブログ「がんばれ、生協の白石さん!」などで以前より話題になっており,白石さんをはじめとする生協職員の「一言カード」の履歴も楽しく目を通してはいた。
 本書は,その「一言カード」の中から,とくに愉快な,あるいは巧みな,もしくは心に染みる対応をダイジェストしたものなのだから,つまらないわけはない。

 ……だが,同時に本書は,別の角度から見れば,ある意味脆弱で,つまらないものでもある。

 「一言カード」とは,生協の店舗や食堂に出入りする学生が,要望や商品の感想を生協の職員に伝える投書カードである。白石さんはじめ生協の職員たちは,それに一つひとつ手書きで応答し,掲示板に張って商品の品揃えをはかったり,トラブルに備えたりする。
 それは,まごうかたなき日々の業務である。「一言カード」による対応を実施しているのは東京農工大の生協に限ったことではないし,また同大学の生協で回答を書くのも白石さん一人ではない。本来,ウケを狙う場ではないのである。

 講談社が単行本にまとめた「一言カード」はあくまでごく一部で,白石さんを含む多数の職員による,文具や食材についての過不足ないシンプルなやり取りが長年続いてきたことを忘れてはならない。それらの中に,まれに,ユーモアやペーソスを含んだ質問や回答が現れるとき,そこに誰もがふっと頬を緩めるような瞬間が訪れる,それがもともとの「生協の白石さん」の魅力である(ネット上で話題がのぼったころは,白石さんの性別や年齢も不明なままだった)。

 単行本となった本書には,その業務としてのバックグランドがない。ただ,穏やかだが冴えた切り返し,ほわっと愉快な質疑応答が並ぶばかりで,ダイジェストゆえコメントの平均的な品質は高く見えるものの,本としてみればテレビのバラエティのように,必然性に欠ける笑いが中心になっている。
 それが,本当に白石さんのしたかったことなのだろうか。本当に白石さんのコメントの魅力なのだろうか。

 ここには,出来事の「現場」と,そのダイジェストを消費する出版社や新聞社等,マスメディアの構図の問題が垣間見える。リアルな日々の業務がこつこつと処理されていく手ごたえ,それが分母だった。インターネット上の東京農工大のサイトは,現場の売店の掲示板ほどではないにしても,その全容(ほかの職員の応答など)をちゃんと伝えてくれているのに,本書ではその大半が削除され,背景はただ付録エッセイのような形で「説明」されているだけである。
 もちろん,背景の切り捨ては,あらゆるテキストの宿命でもある。しょせん程度の問題にすぎないのだが,東京農工大の「一言カード」と本書との間には,あたかも路上ライブと,携帯用着メロくらいの距離があるように思われてならない。

 『電車男』や『生協の白石さん』をはじめ,インターネットやiモードサイトのイベントやログが紙媒体に再編集され,ヒットする現象が多発している。これは今後も続くことだろう。だが,その編集の工程でこぼれ落ちるものがある。
 『生協の白石さん』という書籍1冊についてみれば,美味しいキャンディのケース詰めのような印象で,こぼれ落ちたものがあまりに大きいような気がしてならない。

 今回「発見された」このコミュニケーションが,本書のベストセラー化によってただ消費,浪費されてしまっているように見えない理由は,まったくのところ(稀有なことに)白石さん個人の資質にすぎないのだ。

先頭 表紙

2006-01-18 事件まみれの一日

 
◇証券取引法違反の疑いで,ライブドア本社,夜を徹しての家宅捜索。
 ライブドア関連各社はもちろん,IT企業各社もあおりをくらっていずれも株価を下げ,日経平均株価も大幅安。
 とことん,うるさい奴。 > ホリエモン

◇幼女連続誘拐殺人事件,宮崎勤被告の死刑確定。
 それに先立つasahi.comの記事,
   宮崎勤被告,17日に最高裁判決 「精神鑑定して」
   http://www.asahi.com/national/update/0117/TKY200601160306.html
 この記事の結語は,臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授による「パーソナリティー障害と離人症などが交ざった状態とみる。まだ精神状態が解明されたとは言えないのではないか。10年以上前と比べ,鑑定の技術は格段に上がっている。改めて鑑定する必要性を感じた」というコメントなのだが,何を言っているのだろう? 宮崎被告の犯した犯罪同様,理解を絶している。
 改めて鑑定する必要性……。事件は,1988〜89年,つまり15年以上前に起きたものだ。あれだけの犯行を起こし,拘置されて15年以上経った人物が,当時と同じ精神状況でいると考えるほうがおかしい。そんな理屈がまかり通るなら,犯罪を犯しても,あとで悩みに悩んでおかしくなってしまえばとりあえず無罪?
 この国では,精神障害で犯罪を起こした人物を抑留する病棟についての規定はないので,場合(症状)によるとすぐ釈放もあり得る。この期に及んで宮崎被告の精神鑑定を繰り返そうという人々の願いは何なのか。
 1988〜89年のあのとき,宮崎勤は,多少の錯誤や幻聴はあったとしても,自分が誰を殺し,何をしたかは理解していた。ビデオ機器を操作する理性,被害者の家に遺骨や犯行声明を送り付ける知性も失ってはいなかった。それで十分だろう。

 時代のせいではない。狂気のせいではない。断じて。

※ ちなみにこの問題は,『ウルトラセブン』の後番組『怪奇大作戦』でも鋭く扱われている(第24話「狂鬼人間」)。「脳波変調機」によって精神異常者になって殺人を犯し,2ヶ月ばかりで回復して釈放されるというシナリオ。設定,岸田森の演技も見事なら,エンディングの悲鳴のインパクトもすさまじい。現在ビデオ等では欠番。

◇耐震強度偽装事件のヒューザー小嶋社長,証人喚問で証言拒否27連発。
 痛い腹をさぐられたくない一部政治家が証人喚問を(報道の集中する)17日に強要したという説あり。埋没ということではこれ以上ない日となったが,この人物の目立ち具合もまた並みではない。これもまた,理解を越えた人。もとい,理解を下回った人。いずれ誰かが「精神鑑定の必要」を言い出すのだろうか。
 最近「朝まで生討論」を見ないが,ヒューザー小嶋vsライブドア堀江とかいう企画はどうか。とりあえず視聴率はかせげると思うが。

◇阪神・淡路大震災から11年。
 関東大震災を,自分はどこで迎えるのだろう。病院か。

◇芥川賞,直木賞発表。
 よりによってこんな日に。
 直木賞の東野圭吾,今までなぜとれなかったか,そちらのほうが不思議。
 芥川賞の絲山秋子,「芥川賞は足の裏に付いたご飯粒のようなもので,とれないと気持ち悪かった」。
 ……素晴らしい! 天下の芥川賞も,足の裏のご飯粒扱い。

先頭 表紙

http://www.nikkansports.com/ が「堀江社長 23日中に逮捕へ」という記事(本文では4人逮捕とのこと)をトップに持ってきたので注目していたら、すぐに「堀江社長、任意で事情聴取」という1つ前の記事に戻してますね。ガセをつかまされたか、単なるフライングか。何にしても、急場にさしかかってきました。 / 烏丸@未ログイン ( 2006-01-23 19:06 )
ところで,これまでホリエモンは,真偽はともかくディベートに強いというイメージがありました。ただしそれは,話題や議論の方向を強引に自分に都合よく引っ張ってそれで優位に立つというやり方で,でした(ディベートの初歩なのかな)。地検特捜部相手にそれは通らないだろうから,その際,つまり攻められたときのホリエモンの実力はどうなのか,それがこれから明らかに〜♪ / 烏丸 ( 2006-01-22 01:41 )
そもそも,ある程度実績のある作家に対する評価を表す直木賞はとれないと悔しいものだと想像できますが,芥川賞って,今,何の価値があるんでしょう? 数年前のお嬢さんたちも,ビートたけしの娘の歌手デビュー状態。ディレクションがまずいのか? 本当に才能ないのか? / 烏丸 ( 2006-01-21 11:17 )
この絲山さん,芥川賞賞金の半分を寄付。うーん,想像ですがこの方,ハナから芥川賞に思うところがあって,受賞したらプチ反抗期やってみたかったのかも。でも,100万円の半分寄付,ではねえ。反抗する対象のショボさが浮き彫りになるだけだ。せめて受賞拒否しなくちゃ。 / 烏丸 ( 2006-01-21 11:14 )

2006-01-16 まわれまわれカザグルマ 止まらず走れ 『のだめカンタービレ(14)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC


【慣れデス ……夫婦ですから】

 さて,では,50代,40代,30代が「面白い」と評価するような作品とはどのようなものか。どのような指標のもとに提供すべきなのか。

 ……と,『テヅカ・イズ・デッド』を受けて書き始めたら,大長文,もうまるでまとまりがつかなくなって,いったん留保。
 素材として扱っていた作品のうち2つが豊田徹也『アンダーカレント』と山田芳裕『へうげもの』だったのが,(『テヅカ・イズ・デッド』も含めて)朝日新聞日曜版の書評欄の後追いをしているようでそれもまた不愉快。
 ちなみに朝日日曜版の吉田豪氏による「コミック教養講座」は著者の目利きが心地よい。朝日の鬱陶しい教養主義が周辺のページを覆ってなければもっと手放しでほめるところだ。

 それはともかく,年末,いや秋口から紹介したいと思いつつそのままになった本,コミックが納戸にうず高く積滞して,下のほうなど化石化して三葉虫かムカシトンボか。ひどい場合など,いざ紹介しようと掘り起こしてみたらすっかり内容を忘れていた(あえて書名はあげるまい)。

 ええ,ここはともかく,今日買ってきたコミックを取り上げてお茶を濁そう。
 回転図書館ではおなじみの『のだめカンタービレ』である。家人がセーターをとかいう買い物につき合って,3店めだか5フロアめだかで限界を越えて同じビルの最上階の書店に逃げ込み,そこではけーん。
 相変わらずのハイテンションだが,しいていえば今回は登場人物が多くて少しほこりっぽい印象。ただ,方向性として,あらゆる人物が誠実に自分にとっての音楽を求めている点ではシンプルにまとまっており,決して(一時のように方向性が分散して)落ち着かないわけではない。

 綾なす心,出会いと別れ,もはや1冊で序破急,起承転結と簡明でわかりやすいカタルシスを得るのは難しい複雑な作品になってしまった。いつの間にか大河ドラマ,ときどき1巻から読み直さないと登場人物の把握も難しい。
 「のだめ」も,ある日を境に「エロイカ」のように,現役でありながら復習の必要な思い出の作品になってしまうのだろうか。甚だしい単行本化のスピードは,カザグルマがとまらないようにという作者の必死の疾走のようにも思われたり(この品質で息が続くだけでもすごいのだけどね)。

先頭 表紙


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