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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2005-11-19 『眼の壁』『殺す風』ほか マーガレット・ミラー
2005-11-15 オバケの本 その十一 『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』 諸星大二郎 / 講談社
2005-11-09 〔非書評〕 テレビはどれほど駄目になっているか 『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森 達也,森巣 博 / 集英社新書
2005-11-07 『暴れん坊本屋さん(1)』 久世番子 / 新書館 UN POCO ESSAY COMICS
2005-11-01 『宗像教授異考録(1)』 星野之宣 / 小学館 ビッグコミックススペシャル
2005-10-31 『これよりさき怪物領域』 マーガレット・ミラー,山本俊子 訳 / ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス
2005-10-28 〔プロ野球雑感〕 新リーグ案再燃
2005-10-24 オバケの本 その十 『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社
2005-10-20 オバケの本 その九 『諸怪志異(4) 燕見鬼』 諸星大二郎 / 双葉社
2005-10-17 オバケの本 その八 『あやかし通信『怪』』 大迫純一 / ハルキ・ホラー文庫


2005-11-19 『眼の壁』『殺す風』ほか マーガレット・ミラー


 先月末に取り上げたマーガレット・ミラー,『これよりさき怪物領域』(1970年)以外の既訳作品について,思うところを少しずつ書いておきます。数字はアメリカでの発表年。

『眼の壁』(小学館文庫,船木 裕 訳,1943年)
 交通事故で視力を失った富豪の娘ケルジー。彼女はピアニストとの婚約を一方的に解消しながら,それでも彼を離そうとしない。ケルジーが懼れるもの,そして悲劇の真相とは……。
 デビューが1941年とのことなので,かなり初期の作品。プロットはミラーならではのものだが,トリック先にありき,人物が少し遅れてそれを羽織って,という印象。逆に,ミラー作品としての味わいを求めないなら──つまり少し古風な叙述ミステリとしてなら──この結末はなかなか滋味に富む。とくにサンズ警部の最後の判断はいい。
 気になるのは小学館文庫の校正の品質で,誤植や段落・改行の送りミスが随所に見受けられる。例を挙げるなら,303ページ「彼女もう決して降りて来なかった」,304ページ「もう臭い匂いがしたきたわ」,305ページ「男はすわなち重要な存在のだから」,306ページに改行抜け(「アイダがむっつりして言った。」の後で改行しないと語り手と地の文が噛み合わない),など。本文中の強調用の太字フォントも選択ミスではないか。

『鉄の門』(ハヤカワ・ミステリ文庫,青木久恵 訳,1945年)
 未入手。

『狙った獣』(創元推理文庫,雨沢 泰 訳,1955年)
 ホテル暮らしのオールドミス,ヘレンに,ある夜かかった一つの電話。エブリン・メリックと名乗るその声は最初は穏やかに友情を語り,やがてはヘレンを呪い,その死をほのめかした。エブリンはヘレンの周囲に悪意のこもった電話をかけ続け,やがて……。
 メイントリックのみに注目すると,のちにB級類似サスペンスが多発,またストーカーやサイコパスの話題があふれかえる現在では展開そのものがやや生ぬるい印象。ただ,文章が練り込まれているため,小説としての読みざわりがとてもいい。翻訳もよし。

『殺す風』(創元推理文庫,吉野美恵子 訳,1957年)
 若く凡庸な実業家,ロン・ギャラウェイ。彼はいつものように妻と言い争い,いつものように二人の息子に土産を約束し,いつものように疲れた体をひきずって友人たちの待つ別荘に向かい,そのまま消息を絶った。やがて死体となって発見されたロン。事故か,他殺か,自殺か。登場人物たちと苛立ちを共有しつつ読み進み,最後に真相が明らかになったところで,それ以外の結末があり得なかったことに気がついて愕然とする。表向きの展開の中に,入れ子のようにおさまった別の苦い物語。数年経ってからまた読み返したいオトナのドラマ。お奨め。

『耳をすます壁』(創元推理文庫,柿沼瑛子 訳,1959年)
 未読。解説のページを開こうとして,うっかり本文最後の1行を読んでしまった。大失態。痛恨。打ち身切り傷ヤケド冷え性腸捻転。忘れるまで読み始めることができな〜いっ!
                                                        (つづく)

先頭 表紙

↑を書いているうちに,『耳をすます壁』読了。メキシコ旅行先で女友達の一人はホテルのバルコニーから墜死,一人は夫を残して失踪。いったいそこで何が起こったのか? 残された夫を中心に静かに謎が深まる中盤まではいい感じでしたが,事態が動き出す後半は少しあわただしい印象。最後の1行を読んだのはやはり大失敗でした。 / 烏丸 ( 2005-11-20 02:01 )
あーっ……。東野芳明,急性心不全で死去。僕は今を去ること三十年前,この人の評論に導かれてどっぷり首までマルセル・デュシャンにひたったのでした(自分の部屋に小ガラスを作成したくらい)。黙祷。 / 烏丸 ( 2005-11-19 23:21 )

2005-11-15 オバケの本 その十一 『稗田のモノ語り 妖怪ハンター 魔障ヶ岳』 諸星大二郎 / 講談社


【あそこにいますよ あなたたちの 見たいものが…】

 このところバッドチューニングが舌に楽しい『栞と紙魚子』や中国の志怪に想を得た『諸怪志異』など洒脱な奇譚集が続いたため,諸星大二郎が本来怖い作家であるということをうっかり失念していた。迂闊だった。

 新作『魔障ヶ岳』は,そんなつもりで軽く読んでしまうと足をすくわれる。どのページも薄気味悪い。無闇に怖い。
 スプラッターなエグさ不気味さ,幽霊の蒼白い恐ろしさなどとは少し違う。なにかもう少し原初のというか,「祟り」の領域,境内の裏手で踏んではいけないものを踏んでしまったような怖さ。

 山伏も避けるという難所「魔障ヶ岳」の,さらに奥にある忘れられた古代の祭祀遺跡「天狗の秘所」。調査に訪れた稗田礼二郎たちがそこで出会ったものは……。
 今回の『魔障ヶ岳』は「枠組み」の堅牢さに特徴があり,その枠の中でさまざまな事象が複雑に絡み合い,220ページを読み終えるとすぐ最初のページに戻って読み返したくなる。僕の場合,電車を途中下車してドトールコーヒーに飛び込み,結局都合3回続けて読んだ。

 ちなみに「稗田のモノ語り」「妖怪ハンター」「稗田礼二郎のフィールド・ノートより」などという(主に営業サイドの都合と思しき)サブタイトルの山が示すとおり,本作は異端の民俗学者稗田礼二郎が巻き込まれた怪事件を描く「妖怪ハンター」シリーズの新作だ。同シリーズには『海竜祭の夜』『黄泉からの声』『天孫降臨』などがあり,作者の代表作の1つとなっている。
 「妖怪ハンター」は元々少年ジャンプに連載されたことからおじゃらけたシリーズタイトルが付されているが,元々のテーマは「妖怪」レベルでなく,もう少し「神話」に近い領域のモノが扱われている。

 今回驚いたのは,小道具として「旧石器捏造事件」「ラップミュージック」「イラク自爆テロ」「若者のケータイ文化」など,ここ数年の事件や若者文化が違和感なく使われていることだ。
 この作者は元来古文書や土着的な伝承から素材を借りることが少なくなく,作中に今風の風俗を描き込むタイプではなかった。今回は珍しくそれを取り入れ,またなんら違和感なくストーリーに溶け込んでいる。いや,見事に活かされている。
 もちろん「ラップミュージック」や「ケータイ」はあくまで小道具にすぎず,作者の本領たる古代からこの国の闇に伝わる怪しくも恐ろしい存在,しかも「祟り神などではない」モノを描いては余念がない。
 久しぶりに重厚かつ上質なホラー漫画を読んだ気分である。通常の意味でのおどろおどろしい場面も怖いが,それ以上に,すべてにかたがついた後の静かな黒いコマが怖い。

 モノは試し,ご一読をお奨めしたい。あなたならこのモノをどうするだろうか。

先頭 表紙

ところでけろりんさま,烏丸は先月の中ごろ,突然足がぐがぐぎぐげと痛くなって(医者に言わせると年相応に軟骨が磨り減っているためだそうですが)しばらくお出かけができず,くまの着ぐるみをかぶるチャンスを逸してしまったもようです。残念。 / 烏丸 ( 2005-11-18 00:59 )
諸星大二郎の「妖怪ハンター」と星野之宣の「宗像教授」ほかは同じ題材から書き起こされることが少なくなく(登場人物の本棚に互いの本があったりする),なかなか興味深いものがあります。 / 烏丸 ( 2005-11-18 00:53 )
お久しぶりです。実はこのシリーズ未読なのですが、これは読まねば〜と思いました。モーニングで塀内夏子が山岳ものの連載を始めるということで楽しみな今日この頃。 / けろりん ( 2005-11-17 16:57 )

2005-11-09 〔非書評〕 テレビはどれほど駄目になっているか 『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』 森 達也,森巣 博 / 集英社新書


【じゃあ日本テレビはニュース項目を数字で決めているの? と誰かが聞いたら,当たり前でしょうと】

 楽天 三木谷氏がTBSとの経営統合を目論むも,外野からうかがう限り,失敗に終わる可能性が高い。
 失敗に終わるならその理由は明白で,十分な資金を用意できていない状態から「敵対的買収」を図ったためである(「敵対的」であることには議論の余地もない)。総資産が1兆円といっても,当たり前だが売りにかかれば株価は下がる。現金で1兆円用意できるわけではないのだ。本気でTBSの経営権を得るつもりなら,すぐ自由になる資金が最低でも3千5百億円程度は必要だったと読む。楽天1社にはまだその力はない。
 したがって,三木谷氏に同情はしない。市場のロジックで敵対的買収をはかるにあたり,市場のロジックで弱点があれば負ける。負けなら長期戦にメリットはない。早急に撤退すべきである。

 ただし,その──三木谷氏の挑戦を受けたTBSにも,同情はまったく感じない。

 昨今,放送局に対する敵対的買収やプロ野球球団の存続について,やたら「放送は公共的な存在」「プロ野球の公共性」といったことが口にされるが,なにか勘違いがあるに違いない。

 プロ野球については,公共性,国民的人気ということにあぐらをかいた結果が近年の凋落である。ハゲタカファンドが手を出してけしからぬと声を荒げる前に,手を出せば即ゆるぐ程度の「戸締り」しかしてなかったこと,そもそも今やハゲタカファンドにとってしか魅力ない素材になり下がっている事実を先に反省すべきだろう(TBSは果たしていつまでベイスターズという荷物を保持できるだろう?)。

 一方フジテレビ,TBSなど放送局については,株を買われて困惑するならそもそも株式を上場すべきではなかった。
 株式の上場,公開とは,極言すれば経営権の切り売りである。株主は少しずつ投資せよ,経営には口をはさむな──そんな都合のよい理屈は株主に対して失礼というものだろう。

 (「会社は誰のものか」という命題がある。この命題は抽象的で「会社は株主のものである」とする考えにはさすがに首肯できない。しかし「上場会社における経営権は誰のものか」という命題ならば回答は自明である。経営権は株主のものだ。誰かが株式の過半数(ないしそれにあたる信任)を得たなら,その者が経営権を支配できる議決権を持つ。これは株式というもののもつ,本質的かつフェアなルールである。)

 フジテレビ,TBSは,自社の株式を取得した堀江氏,三木谷氏に対して批判的だったが,外野からみれば,フジテレビ,TBSこそは,彼らが公共性が高いと主張する放送局の経営権を株式上場することで危険にさらした責任を負う。

 さてでは,フジテレビ,TBSなどは本当に公共的なメディアなのか。

 (先に,2つばかり命題を提示しておきたい。数だけをみるなら,カローラやカップヌードルやオセロは利用者が多い。これらは公共性の高い製品として保護されるべきだろうか? メディアに限定しよう。少年ジャンプも週刊ポストもLEONも広辞苑も2ちゃんねるも部数やアクセス数が多い。これらは公共性の高いサービスとして保護されるべきだろうか?)

 現在,民放各局の主業務は,電波を視聴率で切り売りし,広告による売り上げをあげることである。ドラマ,ワイドショーは言うにおよばず,ある1日に事件が10件あり,10分のニュース番組でそのうち5件を扱うといった場合ですら,選択の基準は視聴率である。彼らにとって,売れないニュースは放送に値しないのだ。
 ちなみに筆者は朝昼のワイドショーと夕夜の報道番組の区別がつかない。煽りの大小はあれ,肝心なことが切り捨てられていることについてはまったく同じにしか見えない。記者クラブを対象とする(都合の悪い部分を隠蔽した,あるいは捻じ曲げた)「公式」発表を内省なく垂れ流すのなら,インターネット上のポータルサイトのようにニュース提供元を明確にして垂れ流してくれたほうがよほど(隠された事実の輪郭が)わかりやすい。発表元を不明確にし,あたかもそれが最大多数向けの重大事実であるかのように放送することのほうがよほど危険が大きい。かつて,そのようなものを「大本営発表」と言わなかっただろうか。

 ここで,視聴率を民意になぞらえ,上記のような放送局の姿勢を視聴者の意向の反映とみなすこともできなくはない。だが,民意におもねるバラエティ番組のことをワイドショーと呼ぶ。それは商品としての電波の切り売りのバリエーションの1つに過ぎない。ならば,政府,クライアント,一部の視聴者からの抗議をおそれ,お上の定める放送法に守られ,ただ無難に数字を求める御用メディアになにも今さら「公共」の言葉を冠して尊重する必要はない。

 たとえば,小泉首相の靖国神社参拝について,民放各局が放映するのは,首相が参拝に向かうほんの数秒の画像,あるいは違憲裁判のほんの数行分の判決内容で,せいぜい「内外情勢は厳しさを増すものと」「アジア諸国との関係悪化が懸念され」などの定型コメントを付して終わるというのが通例だろう。これは夏の行楽イベントに対する「ゆく夏を惜しんでいました」コメントと意味のなさにおいて大差ない。
 民放各局は,首相の靖国神社参拝について,靖国神社の特殊性,あるいは首相がアジア諸国の反発をおしてまでなぜ参拝するか,などきちんと報道しているだろうか。討論番組などでの個人発言はさておいて,局として,報道番組としてのきちんとした説明は見た記憶がない。あるいは,違憲という裁判結果について,歴代の首相に強く回答を求めた映像を見た記憶がない(一言尋ね,首相が一言答えてオシマイというのは質疑応答とは言わない。そのレベルのものはジャーナリズムではなく,政権直轄の掲示板と称すべきである。首相が「会話していく」と答えるならせめていつ,誰と,どのように,程度は重ねて追求してほしい)。

 念のため。ここでは靖国神社参拝の是非を話題にしているのではない。
 問題は,他国の反発を招き,違憲の判決が下りるような行為を,行楽イベントと同列に垂れ流し,それで報道を済ませたつもりでいる現在の民放各局の姿勢である。これは事実上,何も考えていないに等しい。
 靖国神社参詣についてみれば,新聞はテレビ局より多少は報道「っぽい」ところはあるが,いずれ「記者クラブ」の恩恵に属した記者団のやっていることは五十歩百歩に見える。いざというときに質問を重ねて真意を問うことができない──結局は強い者の言いなりである。先の選挙で(自民党が圧勝したことの是非はやはりおいて),小泉自民党のメディア戦略にたあいもなくひねられ,迎合する自称プロのメディアの対応はこっけいですらあった。大手メディアがいずれも和田アキ子にはむかえない若手歌手とかぶって見えたといえば多少はわかりやすいだろうか。

 そのような存在ならば,公共性,報道などといった偽りの看板はいったんおろしてしまってはどうか。公益性ではなく,広告クライアントからの利益を最大目標とする私企業であることを内外に宣言してはどうか。
 堀江氏,三木谷氏が適材であったかどうかは別として,なまじ信用ならない公共性などというものをふりかざす現状の経営陣や現場スタッフより,市場,利益という点から明確に事業を語れる人物に任せるのは1つの判断だろう。
 それは,哀しいことではあるが,現在の放送局の姿,こと「志」において少年ジャンプや週刊ポストにも劣ることを正しく広く提示することにつながるだろう。

 もっとも,ここで書いたような指摘は,すでに手遅れなのかもしれない。

 何がどのように手遅れなのか,ご自身で考えてみたい方には森達也氏と森巣博氏による対談集『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』をお奨めしたい。2人の発言がすべて正しいなどとは間違っても言わないし,対談中,マスコミの報道姿勢の問題とその報道内容の(彼らにとっての)是非の切り分けができていないという難点もある。
 しかし,ご一読いただければ現在のマスメディアの問題点についていろいろ思い当たるふしがあるのではないかと思う。そして考えていただきたい。考えていただきたい。

先頭 表紙

街頭インタビューなども,誘導尋問が透けて見え,なおかつそのニュースの報道の方向に好ましい,都合のよい返答だけが選ばれて放映されます。テレビ局のスタッフは報道発信のプロのはずなのですが,ネット上の掲示板の指摘に鋭いツッコミを発見して「テレビはこの事件について何も報道できてないじゃないか!」と思うこともしばしばです。 / 烏丸 ( 2005-11-14 10:51 )
たとえば(これは単なる想像ですが)数日前の町田の高1生殺害事件のような事件が起こったとき,よしんば彼女と非常に親しい者5人が「2人が付き合っていたかどうかは知らない」と言ってもそれはニュースにならず,そんなに親しくない者1人が「以前付き合っていた」と言うとそれが放送される,みたいな傾向はないでしょうか。 / 烏丸 ( 2005-11-14 10:50 )
彼らの中で,先に「この事件の報道はこうでなくっちゃ」「ゴルフ番組はこうするのが普通だから」という絵柄や展開があって,それを一生懸命なぞる面があって,それが行き過ぎると「やらせ」とか言われて事件になるようですが,実は「やらせ」かどうかはたいした問題ではなく,本当の問題はそのずっと前にあるように思います。 / 烏丸 ( 2005-11-14 10:50 )
(ほんの数回ですが)個人的な体験としては,テレビ局の取材は,映像の内容や時間割が先に頭の中にあり,それを埋めるために撮影やヒアリングをする,そんな印象がありました。その件の専門家がわざわざ「それは本質と違いますよ」と指摘しても,まず聞いてはもらえません。 / 烏丸@未ログイン ( 2005-11-14 10:50 )
ニュースについて子どもから質問された時に適切な説明が出来ない。知りたいニュースを求めていくつものニュース番組を探さなくてはならないのは、そういうことなのですね。しかも最近子ども達とのニュースに関する会話がネットでニュースを見たけど、どうなっているんだろうに変わりつつあるのも寂しいものです。 / koeda ( 2005-11-13 09:11 )
新聞で話題になっている事件が、すごくわかりやすく説明していただけたような気がします。機会があれば「ご臨終メディア」という本も読んでみたいと思います。 / えり ( 2005-11-10 01:22 )

2005-11-07 『暴れん坊本屋さん(1)』 久世番子 / 新書館 UN POCO ESSAY COMICS


【今欲しい! 今売りたい!! しかも沢山!! 今!! そーゆー本は思い通りに入ってこない事が多い!!】

 思ったよりオバケ本に手間取って,紹介が遅れてしまった。
 表紙がすさまじくてちょっと引いてしまうが──表紙に限らず中身も全ページこのオバQなのだが──この本を早くから平積みしていた書店は信用できる,かも,しれない。

 本書は,マンガ家久世番子が,大型書店で働く日々の出来事を綴ったギャグマンガ。書店業務の大変さ,出版業界のオモテウラを教えてくれる,なかなかにスパイシーなカリカチュアとなっている。

 くどいようだが絵柄は豪放だし(ほかになんと言えばよいのか),ボーイズラブの「あっやだ,びくっ」なイラストは唐突に出てくるし,オフィスや電車の中でおおっぴらには読みづらい。しかし,書店店員の知られざる仕事や工夫,とんちんかんで迷惑な客とのやり取りなど,これまでになかったブラックな笑いがたまらない。

 「『サティ』って雑誌ない?」→「正解:サライ」,「『誠のうわさ』って雑誌……」→「正解:噂の真相」など,お客さんの言うタイトルは「6割がた間違ってるね」話の究極は「新聞に載ってたアレ」「ハリー・ポッターの書いた『ビーターラビット』」だし,店舗オープン準備中にコミック本全部にビニールのシュリンクをかける話には,取次への返品時に袋を全部はずさねばならないというオチがある。新古書店に転売するために売れ筋本を大量万引きするあくどい手口や,ドリルの解答集をなくして書店店頭に答え合わせにくる親子……。

 1個の職業のノウハウ,苦労話を集中的に描いたマンガには概して秀作が多いのだが,本品はその典型。豪放な絵柄(くどい)ながら,ここに描かれた書店店員たちがいずれも無条件に本好きであることが,読み手にもまた無条件に嬉しい。

 シリアスに見れば『出版大崩壊』『だれが「本」を殺すのか』でも取り上げられた,書籍流通の問題点の書店側からの検証レポートと読め,本好きなあなたなら手に取って絶対損はないだろう。ただし,「本屋の店員さんはこんなふうに客を見ているのか。すると……」,と,あのあたりのコミックやあのあたりの写真集を買いにくくなっても,当局は一切関知しない。

先頭 表紙

鋼鉄製のステッキをふるう宗像教授とハタキを手に暴れる番子,,,似てる? / 烏丸 ( 2005-11-08 01:20 )

2005-11-01 『宗像教授異考録(1)』 星野之宣 / 小学館 ビッグコミックススペシャル


【この目は閉じてる── 見えねえ目だ。】

 宗像教授に解けぬ謎なし。
 『諸怪志異』が6年ぶりなら,こちらは3年ぶり。こっパゲ,黒マントのヒゲおやじ,『宗像教授伝奇考』シリーズ(既刊7巻,潮出版。いずれも潮漫画文庫でも入手可)が,装い新た,発表の場も変えての復活である。

 本シリーズは,民俗学の権威──ただし学会,教授会では異端扱い──の宗像伝奇(むなかたただくす)教授が,記紀や口碑に伝わる「謎」に遭遇してはその都度思いがけない仮説や豪快な推理を示して周囲を圧倒する,というもの。

 楽しみは,なんといっても日本人が古くから慣れ親しんできた伝承や民話をまな板に乗せての奇想天外な謎解きにある。しかも,そのいくつかは宗像教授の専門分野という設定の鉄器文明伝播とからめられ,トータルとしての説得力もなかなかだ。
 各地に昔話の残るダイダラ坊をギリシア神話の巨人族タイタンに見立てる「巨人伝説」,平将門と西遊記の奇妙な一致に天海僧正までからめた「西遊将門伝」,瓜子姫とシンデレラの類似を指摘し、殺人事件をも詳らかにしてしまう「瓜子姫殺人事件」など,いずれも作者の博識,取材に基づいた展開のワザが冴える。

 もちろん,サービス精神旺盛な星野之宣だけに,文字による解説,アームチェアディテクティブに終始するわけはない。
 あるときは日本を縦断するフィールドワークに紀行ガイド,あるときは怨念濃密な土着ホラー,あるときは伝説に綾なす悲恋物語,またあるときは果敢なアクションスペクタクル(現世滅亡をはかるカルト集団に教授がたった一人で闘いを挑むような話まであり)と,一篇ごとに素材を変え,味わい,速度感を変え,エンターテインメントとして間然するところがない。
 テーマの多くはその時代時代の宗教と密着しているが,それを解明する各作には宗教臭が一切ない。それが読み切り中・短編という形式と相まって,前頭葉をほどよく爽快に刺激してくれる。たとえば,信長を酒呑童子に重ねた「酒呑童子異聞」の読後を支配する寂寥感にいたっては,異論もあるだろうが,伝奇漫画における1つの到達点と思われてならない。

 発表の場をビッグコミックに移しての新作『宗像教授異考録(1)』は,既刊の7冊に比べて最もよい出来とは正直言い難いが,新たなライバル(星野ファンならどこかで見た人物である)も登場し,今後しばらくは退屈せずにすみそうだ。まずは喜ばしい。

 ところで,この宗像教授や鯨統一郎『邪馬台国はどこですか?』『新・世界の七不思議』の宮田六郎によって示された古代史の謎解きは,本家の歴史学,民俗学の世界からはどのように見えるのだろう。凡庸な定説や根拠不明瞭な俗説より,彼らの諸説のほうがよほど説得力があるようにも思われるのだが……。

先頭 表紙

2005-10-31 『これよりさき怪物領域』 マーガレット・ミラー,山本俊子 訳 / ハヤカワ・ポケット・ミステリ・ブックス


【事故と呼ばれるものをよく調べてごらんなさい。決してただの偶然じゃあないってことがわかりますよ。】

 通りの向こうで誰かが弾いているバイオリンのような味わい。音色はあるときは苦く,あるときは遠い。

 ……などと情緒寄りの比喩で書き起こすのは,おおむね,「面白いのだけれど,紹介の仕方がうまくまとまらない」場合である。これなんかまさにそんな本ですね。

 マーガレット・ミラー(1915-1994)はアメリカを代表する女流ミステリ作家の一人。ロス・マクドナルドの妻でもあったそうだ。
 作品は強いて分類すれば心理サスペンス。あらすじや結末だけ見るとTVのサスペンスドラマと大差ない。ただし,楽器の質が違う。
 登場人物の「失踪」をモチーフとすることが多く,その失踪と同時に触れてはいけない日常のカードが一枚一枚さらけ出され,最後のカードがめくられたところで真相が明らかになる。猟奇的な殺人事件を重ねる昨今の作品より,ある意味で残酷な結末。残された者の漠とした苛立ちがユーモアさえ交えて静かに描かれる,中期から後期にかけての作品が好ましい。

 作品の多くは絶版ないし品切れで,新刊での入手が難しくなっている。これまで一番心に残ったのは創元推理文庫の『殺す風』だが,今回たまたま手に入った『これよりさき怪物領域』もとてもいい。届いたその日のうちに読んでしまったが,何年か経ったらまた読み返したくなるに違いない。ストーリーはざっと次のようなものだ──。

 メキシコとの国境に近いサンディエゴの片田舎,オズボーン農場の若い農場主ロバートが一夕失踪してしまう。大量の血痕や血のついた飛び出しナイフなどから,彼はすでに死んでいるものとみなされるが,懸命の捜索にもかかわらず死体は発見されない。物語はその1年後,待つことに倦み果てた新妻のデヴォンが州裁判所に彼の死亡認定を求める時点から始まる。デヴォン,ロバートの母アグネス,農場マネジャーのエスティバール,近隣の農場主レオ・ビショップ,警官バレンスエーラたちの会話からロバートの姿がゆっくりあぶり出され,事件の意味が少しずつ書き変わっていく。そして──。

 探偵が鮮やかな推理を見せるわけではない。ヒーロー,ヒロインが犯人を追い詰めるわけでもない。
 展開に際立った起伏はないし,結末の意外性も昨今から見ればそれほど強烈なものではない。
 ただ,残された者たち,一人一人の微妙な感情──痛痒とでもいうか,それがじわじわと染み広がり,読み手の部屋の空気まで変えてしまう。

 ミステリとして物足りなさを指摘するのは容易だろうが,上質な映画を見る気分が得られることを思えば枝葉に過ぎない。もちろん,作家が映像化を前提として長編を書き散らすようになる前の,古きよき時代のよき映画についての話である。

先頭 表紙

2005-10-28 〔プロ野球雑感〕 新リーグ案再燃

 
 巨人・渡辺恒雄球団会長(79)が24日夜,オリックス,村上ファンドを球団,もとい糾弾,さらに一方でライブドアによる広島カープ買収計画も暴露して,「ハゲタカファンドの運営するハゲタカリーグと,正々堂々と試合をする反ハゲタカリーグを作ればいい」と巨人を含めた数球団による新リーグ創設プランを口にした。

 ……という報道を元に,それでは新リーグはどのような顔ぶれになるか,ひとつ考えてみよう。

 今回,渡辺氏が怒ったのは,野球協約では球団の二重所有を禁じているにもかかわらず,オリックスが村上ファンドの株式を45%保有しており,その村上ファンドが阪神,横浜,西武の株主となっているということだ。また,楽天がすでに球団を持っているにもかかわらず,横浜の親会社であるTBSの筆頭株主となったという構造である。

 そこで。
 氏の言う「ハゲタカ」を,会社の売買(M&A)で利益を上げる投資会社,もしくは氏の嫌いな小口無担保の消費者金融を身内に持つ企業と定義すると,新プロ野球リーグは

  ハゲタカリーグ:
    オリックス,阪神,横浜,西武,楽天,ソフトバンク

  反ハゲタカリーグ:
    巨人,中日,広島,ロッテ,日ハム,ヤクルト

と,ちょうど6チーム同士に分かれることになる。

 しかし。
 もし,ライブドアが広島の買収に成功すると,その均衡はあっけなく崩れる。

 さらに。
 もし,ハゲタカリーグ側が「ボビーマジックでいちやく人気のロッテは欲しい」「新庄の日ハムは外したくない」「古田はうるさいので手元で監視したい」と考えたとき,楽天・三木谷,ライブドア・堀江,ソフトバンク・孫各氏のいずれかがロッテ,日ハム,ヤクルトの株を数十億円分ばかりも取得すればよいのである。そうすれば,反ハゲタカリーグ加盟球団協約(?)の規定によって,それらの球団は自動的にハゲタカリーグに移行してしまうことになる。

 その結果,新々プロ野球リーグは,

  ハゲタカリーグ:
    オリックス,阪神,横浜,西武,楽天,ソフトバンク,広島,ロッテ,日ハム,ヤクルト

  反ハゲタカリーグ:
    巨人,中日

の2リーグ制となる(新聞社は株式を公開していないので購入できない)。

 すると。
 ああ。確立2分の1でも,オレ流・中日に負け越して優勝できない巨人の哀しさよ。

〔追記〕
 上のように書きましたが,ロッテは株式を公開していません。念のため。


〔さらに追記〕
 と書いたまま,アップをぐずぐずしていたら,今度は「オレの生きている間は12球団2リーグ」なんて言い出しているようですね。まったくあのオッサンは……。

先頭 表紙

どこかのハゲタカファンドがこっそり読売新聞に敵対的TOBをかけたりしないもんか,とか,野次馬は株のルールもよく知らないままにちゃちゃ入れてしまうわけです。 / 烏丸 ( 2005-10-31 01:34 )
巨人は日テレが持っているのではなかったでしょうか?ヴェルディが日テレでしたっけ? / 八百八六助 ( 2005-10-29 17:01 )

2005-10-24 オバケの本 その十 『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社


【人はこれを虫袋と呼んで恐怖する。】

 ふと。
 密室トリック,鉄道アリバイ,吸血鬼ホラーなど,世にアンソロジーさまざまに競う中で,「虫」にテーマを限定したホラーアンソロジーを読んだ記憶がないことに思いいたりました。

 「虫」の登場する怪奇小説が少ないとは思えません。つまらないとも思えません。十分面白い(気持ち悪い)アンソロジーが組めそうな気がするのですが……。

 一つに,「なぜか突然大発生,ウゴウゴ人を襲う」パニックものが主流で,長編が多いということがあるかもしれません。
 しかし,虫の怖さ,気持ち悪さは,たくさんわらわらという現れ方以外にもいろいろあるはずです。
 たとえば,毒。あるいは蝶や蛾の鱗粉への生理的嫌悪。もしくは虫の側に悪意(?)はなくとも,ぶちぶちと踏んでしまう気色悪さ。

 探してみたところ,北宋社に『夢見る妖虫たち』というアンソロジーがあることがわかりました。収録作品は

   I 羽化(メタモルフォーズ)するもの
      妖蝶記(香山滋)
      タマゴアゲハのいる里(筒井康隆)
      蝉(登史草兵)
      雨祭(森内俊雄)
      虫づくし(新井紫都子)
   II 人を壊(やぶ)る
      泰皮(とねりこ)の木(M・R・ジェイムズ,紀田順一郎訳)
      蜂ガ谷庄(岡本好古)
      いも虫(E・F・ベンスン,平井呈一訳)
      復讐(ジャン・レイ,榊原晃三訳)
      羽根枕(オラシオ・キローガ,安藤哲行訳)
    解題 地より湧きでるものたちの夢(さたな きあ)

という具合で,不勉強にして初めて聞く作家も何人かいますが,なかなか力瘤のうかがえる顔ぶれではないでしょうか。

 ただ,全体にホラー,怪奇というよりは「幻想文学の素材に虫が出てくる」印象の作品が少なくない。
 前半「羽化するもの」に顕著で,筒井康隆「タマゴアゲハのいる里」にしても,期待した崩落感や底なしに黒いギャグはありません。登史草兵「蝉」に出てくる虫は蝉1匹。どちらかといえばその蝉より,ほかのあるモノのほうが妖怪めいて段違いに恐ろしい。森内俊雄「雨祭」も非常にいやな話ではありますが,虫より主人公が直面する不条理な状況,言動のほうに恐怖があります。
 唯一,新井紫都子「虫づくし」こそは正面から虫に挑んだ作品で,個々の虫の描写には透徹した存在感があります。ただ,これだけ密度が高いと,もはや散文詩の領域で,息を止めて数ページが限界,これ以上長いと何か別の縦糸をもってこないと読み切るのがつらいでしょう。

 一方,いよいよ(?)虫が暴れまわる後半「人を壊る」ですが……それぞれ短編小説としては無駄なく緊張感あふれるものばかりですが,こと「虫」の異様さ,気持ち悪さが全面的に描かれているかというと,どうも少し物足りません。
 E・F・ベンスン「いも虫」に登場するいも虫は,ある同音異義語を持ち出すために描かれており,ホラーとしては秀逸ですが,蝶や蛾の幼虫の生態としては少し無理を感じます(なお,この同音異義語は阿刀田高も作品中で扱っていました)。ジャン・レイ「復讐」では,虫はその他大勢の役どころ。オラシオ・キローガの「羽根枕」でようやく間違っても触りたくない虫が登場しますが,この作品では逆に虫以外の怖さがもの足りません(ほんの6ページの掌編とはいえ,被害者の若妻,その夫,医者や女中にいずれも影がなさすぎます。少なくとも夫はもっとエキセントリックであってほしかった)。

 本アンソロジーで,「この味付けがやや弱い」と思われたのは,先にも触れた虫の怖さのさらにもう1つ別の側面,小さいがゆえにヒトの体内に入り込んでしまう,あのおぞましさです。
 たとえば人の皮膚に卵が産みつけられ,孵った幼虫がうごめくのが透かして見える,などという話の気持ち悪さ。あるいは血管を通して脳に入り込む寄生虫のなんともいえない薄気味悪さ。

 もし僕が「虫」をテーマにアンソロジーを編むなら,ぜひとも収録したい作品をいくつかあげておきましょう。とくに最初の2編は,「虫」に対する生理的嫌悪抜きに,ホラー短編としても絶品です。入手が難しい本もありますが,機会がありましたらぜひご一読ください。そして食欲をなくしてください。
    埋葬虫(津原泰水)
    反乱(村田 基)
    虫愛づる老婆(草上 仁)
 長編では『孤虫症』(真梨幸子)が注目です。

先頭 表紙

北宋社からは,この『夢見る妖虫たち』(虫)に『幻獣の遺産』(鳥獣),『釣魚の迷宮』(魚)を加えた合本『幻想小説大全 鳥獣虫魚』も発行されているそうです。 / 烏丸 ( 2005-10-24 01:31 )

2005-10-20 オバケの本 その九 『諸怪志異(4) 燕見鬼』 諸星大二郎 / 双葉社


【違うね 邪じゃない】

 『諸怪志異』は,北宋末期の中国を舞台に,さまざまな妖異,怪事を描いた作品集。『捜神記』や『剪燈新話』,『聊斎志異』等から拾ったバケモノ噺が中心ですが,いずれも独自のグロテスクな味付けがコクマロで,よい意味での(?)悪趣味至極,絶品です。

 連載開始当初より,道士の五行先生とその弟子の燕見鬼(妖異を見破る能力を持つ。幼名は阿鬼)の二人が怪事を暴く話と,時代や登場人物を限定しない読み切り怪談とが,ほぼ交代で発表されてきました。サニー・トーンズの歌うエンディング「恐怖の町」も魅力的ですね。

    ♪闇を引き裂く 怪しい悲鳴
     誰だ 誰だ 誰だ
     今夜も 悪魔が 騒ぐのか

 ……おっと,これは円谷プロの『怪奇大作戦』(昭和43〜44年)でした。ぺしっ。

 さて,『諸怪志異』は非常にゆったりしたペースで双葉社の「漫画アクション」誌に掲載され,1巻めの「異界録」が1989年5月,2巻め「壺中天」が1991年2月,3巻め「鬼市」が1999年10月と単行本化されてきたのですが,その後の「漫画アクション」誌面刷新にともない,続く数話を掲載したところで事実上打ち切りとなっていました。
 今回の第4巻が6年振りの新刊,しかも困ったことに収録作品は一部の書き下ろしを除いていずれも1999年当時の「漫画アクション」やさらにその前に朝日ソノラマ社の「眠れぬ夜の奇妙な話」(ネムキ)誌などに掲載されたもの。これはつまり,6年経っていまだ『諸怪志異』を継続して発表する場がないことを示しています。

 さらに困ったことには,この諸星大二郎,画風作風からしても決して筆が早いほうでなく,『諸怪志異』もこのままでは二十年,三十年がかりの長期連載になってしまうおそれが……いったいいつになったら第3巻の後半から続いている(はっきり言ってそう面白くない)『諸怪志異』初の長編「推背図」編に決着がつくのでしょうか。

 一方,4巻巻末に付録的に掲載された「土中の怪」「麗卿」2編ですが,こちらは実に素晴らしい。
 燕見鬼(阿鬼)がまだ子供の頃の話で,中国の古典的な妖怪や幽鬼を題材に,ただオリジナルをなぞるのでなく,なんとも魅惑的な怪異譚を提供してくれています。

 たとえば──「麗卿」といえば有名な「牡丹灯籠」のヒロイン(幽鬼)名ですが,ここでは設定を変え,視点を変え,「牡丹灯籠」とはおよそ異なる少し切ない恋愛物語となっています。やや読み飽きた気味のある「牡丹灯籠」をこんなふうにアレンジしてしまおうという意欲,発想だけでもう脱帽です。
 もう一方の「土中の怪」は,「媼(おう)」というあまり聞き慣れない名前の,土の中から現れるキショク悪い妖怪を軸に,悪意に満ちた話となっています。とくに,羊のようで犬のようで豚のような「媼」の造形,また復讐を果たす白い服の少女の墓所での立ち居振る舞いがスピリチュアルでなんともいえません。
 作者には勝った負けたの剣劇アクション化した「推背図」編などとっとと片付けて,この2編のような読み切り短編に力を注いでいただきたいと切に願う次第です。

先頭 表紙

2005-10-17 オバケの本 その八 『あやかし通信『怪』』 大迫純一 / ハルキ・ホラー文庫


【濡れ雑巾が砂の上を引きずられるような音だったという。】

 筆者の友人,知人が直接体験した恐ろしい話,奇怪な話を取材して書き起こした全46話。

 設定,構成が木原浩勝,中山市朗による『新耳袋 現代百物語』によく似ていますが,これは『あやかし通信』の筆者たる大迫氏が,木原・中山両氏の大学の後輩にあたり,『新耳袋』の企画にも初期は参加していたためとのこと(一部に共通の知人から取材したと思われる話も収録されています)。「あとがき」によると大迫氏が彼らと袂をわかったのには何か「わけあり」だったもようですが,そのあたりは当方の興味の外なのでこれ以上は触れません。

 掲載されている怪談について。
 『新耳袋』もそうですが,筆者個人による怪異観の主張がやや五月蠅い面がありますが,それを除くと──つまり収録された怪異譚そのものを見ると,プリミティブというか,取材したものをそのまま削りも磨きもせずに載せた風情です。いったん木綿を水にさらした感のある『新耳袋』に比べて夾雑物が多いだけ,「怪しさ」の塩梅も濃い,そんな感じです。
 ここで「怪しさ」というのは,語り手がどこかで読み聞きした既存の怪談を語っているだけかもしれない,単なる勘違いかもしれないといったいわゆる“眉唾”の「怪しさ」もありますし,一方そうではなくて何か本当におかしなことが起こったのかもしれないといった「怪しさ」もあります。
 本書がインターネット上で話題になるほど怖いとされたのなら,その故はそのあたり洗われていない「怪しさ」の原石のごつごつした手応えにあったのではないでしょうか。

 そういうわけで本書は,『新耳袋』が第十夜で完結してしまったことに無沙汰を覚えている方,あるいは最近の『新耳袋』になにかこざっぱりした物足りなさを感じておられた方にお奨めです。

 ところで,本書『あやかし通信』を読んでいて,ふと,気になったことがあります。

 本書の「第一夜」は幽霊の話で始まります。そこで,幽霊とは

    生臭い風とともに人魂をともなって,ひうどろどろ,と現れる,あの幽霊である。

と説明されています。
 もちろん,その後に続く幽霊譚は平成の実録怪談ですから「生臭い風」などともなわず,「人魂」も……。

 ちょっと待ってください。その,「人魂」は,平成の現在,いったいどこに行ってしまったのでしょう?

 「人魂」といえば,この国の怪談を形作る伝統的な怪現象の一つであり,最近の文庫を見ただけでも,たとえば江馬務『日本妖怪変化史』では「第五章 陰火と音響」,柴田宵曲『妖異博物館』では「人魂」「怪火」,また今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』でも「第二章 人魂考」と,それぞれ紙数を費やして丁寧に取り上げています。少なくとも昭和三十年代後半までは,「人魂を見た」「怪火が飛んでいた」という目撃談が新聞雑誌に載る程度には珍しくない(とされる)怪現象だったのです。
 ところが,『あやかし通信』『新耳袋』や平山夢明の著書をはじめとする昨今の実録系怪談集では,この人魂の類の怪火をほとんど目にしません。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 一つには,怪火の多くが科学で説明されるようになってしまったということがあるかもしれません。
 たとえば怪火の一部は「火球」といって,明るい流星にともなう自然現象と説明されています(「火球」は今年の5月にも新聞紙上をにぎわしています)。また,人魂は,墓地で発生するリン(黄燐)の自然発火によるものなのだが,火葬の割合が高くなった最近は見られなくなった──とする説もあるようです。さらには,かつてなら人魂とされたものが,昨今ではUFOの目撃談にすり替わってしまったものもあるかもしれません。

 しかし,誰かの死に際して幽かに蒼く,音もなく飛ぶ人魂は,本当は変わらずすうすうと飛んでいるのだが,もしや昨今のこの国が電灯で明るすぎて人の目に見えにくくなっているだけではないか──そんな思いもないわけではありません。

 昭和三十年頃の父のアルバムには,ただ「はじめて人魂を見た」と,赤と青の色鉛筆で長く尾を引く火の玉が描かれています。
 いつ,どこで見たのか,幾度か尋ねても笑って答えてくれないまま父は亡くなってしまいましたが,彼が死んだときも,病室の外には静かな人魂が低く飛んだのでしょうか。それとも。

先頭 表紙

もう一点,書き忘れていました。昭和40年代を境に人魂の目撃談が激減しているように見えるのは,いうなれば「ヒカリモノ」目撃派がUFOのほうに流れたという見方はいかがでしょう……。 / 烏丸 ( 2005-10-20 01:41 )
中公文庫BIBLIOからは,自然界のさまざまな発光現象を科学的に解明しようとした神田左京『不知火・人魂・狐火』も再刊されていますが,まだ読めていません……。 / 烏丸 ( 2005-10-18 12:00 )

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