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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2005-10-28 〔プロ野球雑感〕 新リーグ案再燃
2005-10-24 オバケの本 その十 『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社
2005-10-20 オバケの本 その九 『諸怪志異(4) 燕見鬼』 諸星大二郎 / 双葉社
2005-10-17 オバケの本 その八 『あやかし通信『怪』』 大迫純一 / ハルキ・ホラー文庫
2005-10-13 めざせ俳句甲子園 『アカシヤの星(3)』より「僕らは長く夢をみる」 たくまる圭 / 小学館イッキコミックス
2005-10-09 オバケの本 その七 『日本怪奇小説傑作集(2)』 紀田順一郎, 東 雅夫 編 / 創元推理文庫
2005-10-06 オバケの本 その六 『日本怪奇小説傑作集(1)』 紀田順一郎, 東 雅夫 編 / 創元推理文庫
2005-10-01 オバケの本 その五 『闇夜に怪を語れば−百物語ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫
2005-09-30 オバケの本 その三,四 『江戸怪奇草紙』『新編 百物語』 志村有弘 編訳 / 角川ソフィア文庫,河出文庫
2005-09-27 オバケの本 その二 『聊斎志異』〈上・下〉 蒲 松齢, 立間祥介 訳 / 岩波文庫


2005-10-28 〔プロ野球雑感〕 新リーグ案再燃

 
 巨人・渡辺恒雄球団会長(79)が24日夜,オリックス,村上ファンドを球団,もとい糾弾,さらに一方でライブドアによる広島カープ買収計画も暴露して,「ハゲタカファンドの運営するハゲタカリーグと,正々堂々と試合をする反ハゲタカリーグを作ればいい」と巨人を含めた数球団による新リーグ創設プランを口にした。

 ……という報道を元に,それでは新リーグはどのような顔ぶれになるか,ひとつ考えてみよう。

 今回,渡辺氏が怒ったのは,野球協約では球団の二重所有を禁じているにもかかわらず,オリックスが村上ファンドの株式を45%保有しており,その村上ファンドが阪神,横浜,西武の株主となっているということだ。また,楽天がすでに球団を持っているにもかかわらず,横浜の親会社であるTBSの筆頭株主となったという構造である。

 そこで。
 氏の言う「ハゲタカ」を,会社の売買(M&A)で利益を上げる投資会社,もしくは氏の嫌いな小口無担保の消費者金融を身内に持つ企業と定義すると,新プロ野球リーグは

  ハゲタカリーグ:
    オリックス,阪神,横浜,西武,楽天,ソフトバンク

  反ハゲタカリーグ:
    巨人,中日,広島,ロッテ,日ハム,ヤクルト

と,ちょうど6チーム同士に分かれることになる。

 しかし。
 もし,ライブドアが広島の買収に成功すると,その均衡はあっけなく崩れる。

 さらに。
 もし,ハゲタカリーグ側が「ボビーマジックでいちやく人気のロッテは欲しい」「新庄の日ハムは外したくない」「古田はうるさいので手元で監視したい」と考えたとき,楽天・三木谷,ライブドア・堀江,ソフトバンク・孫各氏のいずれかがロッテ,日ハム,ヤクルトの株を数十億円分ばかりも取得すればよいのである。そうすれば,反ハゲタカリーグ加盟球団協約(?)の規定によって,それらの球団は自動的にハゲタカリーグに移行してしまうことになる。

 その結果,新々プロ野球リーグは,

  ハゲタカリーグ:
    オリックス,阪神,横浜,西武,楽天,ソフトバンク,広島,ロッテ,日ハム,ヤクルト

  反ハゲタカリーグ:
    巨人,中日

の2リーグ制となる(新聞社は株式を公開していないので購入できない)。

 すると。
 ああ。確立2分の1でも,オレ流・中日に負け越して優勝できない巨人の哀しさよ。

〔追記〕
 上のように書きましたが,ロッテは株式を公開していません。念のため。


〔さらに追記〕
 と書いたまま,アップをぐずぐずしていたら,今度は「オレの生きている間は12球団2リーグ」なんて言い出しているようですね。まったくあのオッサンは……。

先頭 表紙

どこかのハゲタカファンドがこっそり読売新聞に敵対的TOBをかけたりしないもんか,とか,野次馬は株のルールもよく知らないままにちゃちゃ入れてしまうわけです。 / 烏丸 ( 2005-10-31 01:34 )
巨人は日テレが持っているのではなかったでしょうか?ヴェルディが日テレでしたっけ? / 八百八六助 ( 2005-10-29 17:01 )

2005-10-24 オバケの本 その十 『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社


【人はこれを虫袋と呼んで恐怖する。】

 ふと。
 密室トリック,鉄道アリバイ,吸血鬼ホラーなど,世にアンソロジーさまざまに競う中で,「虫」にテーマを限定したホラーアンソロジーを読んだ記憶がないことに思いいたりました。

 「虫」の登場する怪奇小説が少ないとは思えません。つまらないとも思えません。十分面白い(気持ち悪い)アンソロジーが組めそうな気がするのですが……。

 一つに,「なぜか突然大発生,ウゴウゴ人を襲う」パニックものが主流で,長編が多いということがあるかもしれません。
 しかし,虫の怖さ,気持ち悪さは,たくさんわらわらという現れ方以外にもいろいろあるはずです。
 たとえば,毒。あるいは蝶や蛾の鱗粉への生理的嫌悪。もしくは虫の側に悪意(?)はなくとも,ぶちぶちと踏んでしまう気色悪さ。

 探してみたところ,北宋社に『夢見る妖虫たち』というアンソロジーがあることがわかりました。収録作品は

   I 羽化(メタモルフォーズ)するもの
      妖蝶記(香山滋)
      タマゴアゲハのいる里(筒井康隆)
      蝉(登史草兵)
      雨祭(森内俊雄)
      虫づくし(新井紫都子)
   II 人を壊(やぶ)る
      泰皮(とねりこ)の木(M・R・ジェイムズ,紀田順一郎訳)
      蜂ガ谷庄(岡本好古)
      いも虫(E・F・ベンスン,平井呈一訳)
      復讐(ジャン・レイ,榊原晃三訳)
      羽根枕(オラシオ・キローガ,安藤哲行訳)
    解題 地より湧きでるものたちの夢(さたな きあ)

という具合で,不勉強にして初めて聞く作家も何人かいますが,なかなか力瘤のうかがえる顔ぶれではないでしょうか。

 ただ,全体にホラー,怪奇というよりは「幻想文学の素材に虫が出てくる」印象の作品が少なくない。
 前半「羽化するもの」に顕著で,筒井康隆「タマゴアゲハのいる里」にしても,期待した崩落感や底なしに黒いギャグはありません。登史草兵「蝉」に出てくる虫は蝉1匹。どちらかといえばその蝉より,ほかのあるモノのほうが妖怪めいて段違いに恐ろしい。森内俊雄「雨祭」も非常にいやな話ではありますが,虫より主人公が直面する不条理な状況,言動のほうに恐怖があります。
 唯一,新井紫都子「虫づくし」こそは正面から虫に挑んだ作品で,個々の虫の描写には透徹した存在感があります。ただ,これだけ密度が高いと,もはや散文詩の領域で,息を止めて数ページが限界,これ以上長いと何か別の縦糸をもってこないと読み切るのがつらいでしょう。

 一方,いよいよ(?)虫が暴れまわる後半「人を壊る」ですが……それぞれ短編小説としては無駄なく緊張感あふれるものばかりですが,こと「虫」の異様さ,気持ち悪さが全面的に描かれているかというと,どうも少し物足りません。
 E・F・ベンスン「いも虫」に登場するいも虫は,ある同音異義語を持ち出すために描かれており,ホラーとしては秀逸ですが,蝶や蛾の幼虫の生態としては少し無理を感じます(なお,この同音異義語は阿刀田高も作品中で扱っていました)。ジャン・レイ「復讐」では,虫はその他大勢の役どころ。オラシオ・キローガの「羽根枕」でようやく間違っても触りたくない虫が登場しますが,この作品では逆に虫以外の怖さがもの足りません(ほんの6ページの掌編とはいえ,被害者の若妻,その夫,医者や女中にいずれも影がなさすぎます。少なくとも夫はもっとエキセントリックであってほしかった)。

 本アンソロジーで,「この味付けがやや弱い」と思われたのは,先にも触れた虫の怖さのさらにもう1つ別の側面,小さいがゆえにヒトの体内に入り込んでしまう,あのおぞましさです。
 たとえば人の皮膚に卵が産みつけられ,孵った幼虫がうごめくのが透かして見える,などという話の気持ち悪さ。あるいは血管を通して脳に入り込む寄生虫のなんともいえない薄気味悪さ。

 もし僕が「虫」をテーマにアンソロジーを編むなら,ぜひとも収録したい作品をいくつかあげておきましょう。とくに最初の2編は,「虫」に対する生理的嫌悪抜きに,ホラー短編としても絶品です。入手が難しい本もありますが,機会がありましたらぜひご一読ください。そして食欲をなくしてください。
    埋葬虫(津原泰水)
    反乱(村田 基)
    虫愛づる老婆(草上 仁)
 長編では『孤虫症』(真梨幸子)が注目です。

先頭 表紙

北宋社からは,この『夢見る妖虫たち』(虫)に『幻獣の遺産』(鳥獣),『釣魚の迷宮』(魚)を加えた合本『幻想小説大全 鳥獣虫魚』も発行されているそうです。 / 烏丸 ( 2005-10-24 01:31 )

2005-10-20 オバケの本 その九 『諸怪志異(4) 燕見鬼』 諸星大二郎 / 双葉社


【違うね 邪じゃない】

 『諸怪志異』は,北宋末期の中国を舞台に,さまざまな妖異,怪事を描いた作品集。『捜神記』や『剪燈新話』,『聊斎志異』等から拾ったバケモノ噺が中心ですが,いずれも独自のグロテスクな味付けがコクマロで,よい意味での(?)悪趣味至極,絶品です。

 連載開始当初より,道士の五行先生とその弟子の燕見鬼(妖異を見破る能力を持つ。幼名は阿鬼)の二人が怪事を暴く話と,時代や登場人物を限定しない読み切り怪談とが,ほぼ交代で発表されてきました。サニー・トーンズの歌うエンディング「恐怖の町」も魅力的ですね。

    ♪闇を引き裂く 怪しい悲鳴
     誰だ 誰だ 誰だ
     今夜も 悪魔が 騒ぐのか

 ……おっと,これは円谷プロの『怪奇大作戦』(昭和43〜44年)でした。ぺしっ。

 さて,『諸怪志異』は非常にゆったりしたペースで双葉社の「漫画アクション」誌に掲載され,1巻めの「異界録」が1989年5月,2巻め「壺中天」が1991年2月,3巻め「鬼市」が1999年10月と単行本化されてきたのですが,その後の「漫画アクション」誌面刷新にともない,続く数話を掲載したところで事実上打ち切りとなっていました。
 今回の第4巻が6年振りの新刊,しかも困ったことに収録作品は一部の書き下ろしを除いていずれも1999年当時の「漫画アクション」やさらにその前に朝日ソノラマ社の「眠れぬ夜の奇妙な話」(ネムキ)誌などに掲載されたもの。これはつまり,6年経っていまだ『諸怪志異』を継続して発表する場がないことを示しています。

 さらに困ったことには,この諸星大二郎,画風作風からしても決して筆が早いほうでなく,『諸怪志異』もこのままでは二十年,三十年がかりの長期連載になってしまうおそれが……いったいいつになったら第3巻の後半から続いている(はっきり言ってそう面白くない)『諸怪志異』初の長編「推背図」編に決着がつくのでしょうか。

 一方,4巻巻末に付録的に掲載された「土中の怪」「麗卿」2編ですが,こちらは実に素晴らしい。
 燕見鬼(阿鬼)がまだ子供の頃の話で,中国の古典的な妖怪や幽鬼を題材に,ただオリジナルをなぞるのでなく,なんとも魅惑的な怪異譚を提供してくれています。

 たとえば──「麗卿」といえば有名な「牡丹灯籠」のヒロイン(幽鬼)名ですが,ここでは設定を変え,視点を変え,「牡丹灯籠」とはおよそ異なる少し切ない恋愛物語となっています。やや読み飽きた気味のある「牡丹灯籠」をこんなふうにアレンジしてしまおうという意欲,発想だけでもう脱帽です。
 もう一方の「土中の怪」は,「媼(おう)」というあまり聞き慣れない名前の,土の中から現れるキショク悪い妖怪を軸に,悪意に満ちた話となっています。とくに,羊のようで犬のようで豚のような「媼」の造形,また復讐を果たす白い服の少女の墓所での立ち居振る舞いがスピリチュアルでなんともいえません。
 作者には勝った負けたの剣劇アクション化した「推背図」編などとっとと片付けて,この2編のような読み切り短編に力を注いでいただきたいと切に願う次第です。

先頭 表紙

2005-10-17 オバケの本 その八 『あやかし通信『怪』』 大迫純一 / ハルキ・ホラー文庫


【濡れ雑巾が砂の上を引きずられるような音だったという。】

 筆者の友人,知人が直接体験した恐ろしい話,奇怪な話を取材して書き起こした全46話。

 設定,構成が木原浩勝,中山市朗による『新耳袋 現代百物語』によく似ていますが,これは『あやかし通信』の筆者たる大迫氏が,木原・中山両氏の大学の後輩にあたり,『新耳袋』の企画にも初期は参加していたためとのこと(一部に共通の知人から取材したと思われる話も収録されています)。「あとがき」によると大迫氏が彼らと袂をわかったのには何か「わけあり」だったもようですが,そのあたりは当方の興味の外なのでこれ以上は触れません。

 掲載されている怪談について。
 『新耳袋』もそうですが,筆者個人による怪異観の主張がやや五月蠅い面がありますが,それを除くと──つまり収録された怪異譚そのものを見ると,プリミティブというか,取材したものをそのまま削りも磨きもせずに載せた風情です。いったん木綿を水にさらした感のある『新耳袋』に比べて夾雑物が多いだけ,「怪しさ」の塩梅も濃い,そんな感じです。
 ここで「怪しさ」というのは,語り手がどこかで読み聞きした既存の怪談を語っているだけかもしれない,単なる勘違いかもしれないといったいわゆる“眉唾”の「怪しさ」もありますし,一方そうではなくて何か本当におかしなことが起こったのかもしれないといった「怪しさ」もあります。
 本書がインターネット上で話題になるほど怖いとされたのなら,その故はそのあたり洗われていない「怪しさ」の原石のごつごつした手応えにあったのではないでしょうか。

 そういうわけで本書は,『新耳袋』が第十夜で完結してしまったことに無沙汰を覚えている方,あるいは最近の『新耳袋』になにかこざっぱりした物足りなさを感じておられた方にお奨めです。

 ところで,本書『あやかし通信』を読んでいて,ふと,気になったことがあります。

 本書の「第一夜」は幽霊の話で始まります。そこで,幽霊とは

    生臭い風とともに人魂をともなって,ひうどろどろ,と現れる,あの幽霊である。

と説明されています。
 もちろん,その後に続く幽霊譚は平成の実録怪談ですから「生臭い風」などともなわず,「人魂」も……。

 ちょっと待ってください。その,「人魂」は,平成の現在,いったいどこに行ってしまったのでしょう?

 「人魂」といえば,この国の怪談を形作る伝統的な怪現象の一つであり,最近の文庫を見ただけでも,たとえば江馬務『日本妖怪変化史』では「第五章 陰火と音響」,柴田宵曲『妖異博物館』では「人魂」「怪火」,また今野圓輔『日本怪談集 幽霊篇』でも「第二章 人魂考」と,それぞれ紙数を費やして丁寧に取り上げています。少なくとも昭和三十年代後半までは,「人魂を見た」「怪火が飛んでいた」という目撃談が新聞雑誌に載る程度には珍しくない(とされる)怪現象だったのです。
 ところが,『あやかし通信』『新耳袋』や平山夢明の著書をはじめとする昨今の実録系怪談集では,この人魂の類の怪火をほとんど目にしません。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 一つには,怪火の多くが科学で説明されるようになってしまったということがあるかもしれません。
 たとえば怪火の一部は「火球」といって,明るい流星にともなう自然現象と説明されています(「火球」は今年の5月にも新聞紙上をにぎわしています)。また,人魂は,墓地で発生するリン(黄燐)の自然発火によるものなのだが,火葬の割合が高くなった最近は見られなくなった──とする説もあるようです。さらには,かつてなら人魂とされたものが,昨今ではUFOの目撃談にすり替わってしまったものもあるかもしれません。

 しかし,誰かの死に際して幽かに蒼く,音もなく飛ぶ人魂は,本当は変わらずすうすうと飛んでいるのだが,もしや昨今のこの国が電灯で明るすぎて人の目に見えにくくなっているだけではないか──そんな思いもないわけではありません。

 昭和三十年頃の父のアルバムには,ただ「はじめて人魂を見た」と,赤と青の色鉛筆で長く尾を引く火の玉が描かれています。
 いつ,どこで見たのか,幾度か尋ねても笑って答えてくれないまま父は亡くなってしまいましたが,彼が死んだときも,病室の外には静かな人魂が低く飛んだのでしょうか。それとも。

先頭 表紙

もう一点,書き忘れていました。昭和40年代を境に人魂の目撃談が激減しているように見えるのは,いうなれば「ヒカリモノ」目撃派がUFOのほうに流れたという見方はいかがでしょう……。 / 烏丸 ( 2005-10-20 01:41 )
中公文庫BIBLIOからは,自然界のさまざまな発光現象を科学的に解明しようとした神田左京『不知火・人魂・狐火』も再刊されていますが,まだ読めていません……。 / 烏丸 ( 2005-10-18 12:00 )

2005-10-13 めざせ俳句甲子園 『アカシヤの星(3)』より「僕らは長く夢をみる」 たくまる圭 / 小学館イッキコミックス


【僕達には伝えたい言葉がある。】

 オバケの話ばかり続くと祟りがあるんじゃないの? とご心配のあなたに(大丈夫! そんなことはめったにありません……多分……),ここらでひとつインターミッション,オバケなんて一切出てこない,すがしい作品をご紹介いたしましょう。

 2001年,ヤングアニマルに掲載された『吉浦大漁節』は,マンガ好きの間でちょっとした事件となりました。
 まわりをぐるり海に囲まれた小さな港町「吉浦」で,両親を相次いで亡くした少年カジメが真っ直ぐな気持ちを失わず健やかに成長する……などと書くとまるきり課題図書の帯ですが,まぁ実際そんなふうなお話です。
 漁師町を舞台にといえば青柳裕介『土佐の一本釣り』があまりにも有名ですが,晩年の青柳作品は,海の男とは,真っ直ぐな心とは,と「べき」を強く追求するあまり,少しばかり肩の凝る展開に陥りがちでした。それに比べて,『吉浦大漁節』は,とことんほんにゃらとこだわりなく少年と周囲の人々を描き上げています。

 『吉浦大漁節』におけるたくまる圭の画法は,大ゴマと人物のアップを多用したダイナミックな筆遣いが印象的で──ことに母親の病室のシーンはたった6ページながら大きなプールを一気に磨き切るほどの力で読み手を洗ってくれます──自然,描画に力点を置いた作品と見えてしまいますが,何度か読み返すうち,実は(決して器用ではないが)ナイーブな言葉のやり取りにこそ作者の思いが込められていることがわかってきます。だからこそ,登場人物は大ゴマのアップ,あるいは手足を伸ばしたアクションを思い切り描けばよかったわけです。

 そんなたくまる圭の最新刊が,『アカシヤの星(3)』。
 『アカシアの星』は,さまざまな国から訪れた貧しい人々の集うアカシヤ商店街の幼稚園を舞台とするやや波乱含みの佳作ですが,今回ご紹介したいのはそちらではありません。第3巻に併録されている中篇「僕らは長く夢をみる」のほうです。

 「僕らは長く夢をみる」は,たくまる圭が「言葉」へのこだわりに正面から取り組んだ作品と言えるでしょう。なにしろ,本作は「俳句甲子園」を目指す若者たちを描いた,多分マンガ史上でも初めての作品なのですから。
 愛媛県松山市で年に一度開かれる「俳句甲子園」については,「俳句甲子園ホームページ」をご参照ください。ルールや傾向と対策,第7回大会までの詳細な結果報告,対戦者各人の句まで詳しく紹介されています(うあっ,商店街の路上で予選やってるよ。いいなあ。松山に住みたいねえ)。
 「僕らは長く夢をみる」では松山の「俳句甲子園」そのものではなく,本戦に参加するための神奈川地区予選が描かれています。

 無風流なカラスめは俳句はまったく不得手で,この作品中で詠まれる俳句の一つひとつがどれほどの水準なのか,正直申し上げてわかりません。ただ,松山での本戦を目指す吉橋(部長),前野(マメ),金子の3人の高校生を(多少荒っぽく)描いたこの作品が,なにか非常に大切なことを描いていることはわかります。3人の俳句にかける思いはいかにも幼く,青い,甘いと言ってしまえばそれまでですが,その分得がたい瑞々しさにあふれています。

 万人向けとは言いがたい作風,内容ではありますが,少しでも気にかかった方はぜひとも手にとって読んでいただきたいものです。……と,ここで締めに一句ひねれればよいのですが,なかなかそううまくはイルカのしっぽ。

先頭 表紙

2005-10-09 オバケの本 その七 『日本怪奇小説傑作集(2)』 紀田順一郎, 東 雅夫 編 / 創元推理文庫


【ネエ旦那,竿はこっちにあるんじゃありませんか。】

 第1巻について書いているうちに第2巻も発刊,さっそく読んでみました。

   日本怪奇小説の独自性(紀田順一郎)
   人花(城昌幸)
   かいやぐら物語(横溝正史)
   海蛇(西尾正)
   逗子物語(橘外男)
   鬼啾(角田喜久雄)
   幻談(幸田露伴)
   妖翳記(久生十蘭)
   怪談宋公館(火野葦平)
   夢(三橋一夫)
   木乃伊(中島敦)
   人間華(山田風太郎)
   復讐(三島由紀夫)
   黒髪変化(円地文子)
   その木戸を通って(山本周五郎)
   蜘蛛(遠藤周作)
   猫の泉(日影丈吉)

 前回の「蛇」同様,今回の「人花」「人間華」の併録は意図的なものなのでしょう。
 また,1巻2巻通して,海上ないし海浜の保養地を舞台とした作品が目立つように感じます。これは選者の嗜好なのか,そもそも海にまつわる怪奇小説が多いのか。小沼丹の短編など読んでいても海浜の別荘地を舞台にした少し気味の悪い話が出てきたりしますから,書き手にとって「腕をふるいやすい」ところがあるのかもしれません。
 海にまつわる作品の中では露伴の「幻談」が出色で,たまたまこの夏岩波文庫『幻談』を読んだのですが,「骨董」(これがお目当てだった)「魔法修行者」「蘆声」といった他の収録作も該博にして枯淡,さらりとした口述の短編はさながら吟醸の味わいでした。

 興味深いのは,第1巻ではまだまだオバケが怪奇の大半を担っていたのに,本集では,若干の偶然や運命のいたずらを除き,いっさいオバケが登場しない作品があるということです。また,オバケが出てくるにしても,「人花」,「かいやぐら物語」(「かいやぐら」は「蜃気楼(シンキロウ)」のこと),「海蛇」など,オバケに向かい合う人間の側が相当に奇ッ怪至極で,オバケが出てこなくとも十分に怪しい話をこさえられそうなものもあります。
 つまり,この時期の怪奇小説では,恐怖の対象が超常現象から人の心の深遠に移ってきた,そういうことなのでしょう(などと書くとあまりにステロタイプで我ながらアナハイリタガリ症候群を併発しそうですが)。
 その限りでこれらの作品は怪奇小説という括りさえ不要で,オバケが出る出ないにかかわらず,単に文学,小説といってよいのかもしれません。

 そういった流れから,続く第3巻の方向性の予測をしてみましょう。

 おそらく3巻で中心になるはずの戦後の怪奇小説については,新しい要素の1つとして,いわゆる「不条理」という設定,展開があるように思います。
 江戸から明治にかけての怪談でしたら,オバケが現れ,登場人物がそれに恐怖を覚え,最後には狂い死にしてしまう……それがオーソドックスなおさまりどころでした(時代劇の勧善懲悪みたいなものでしょうか)。次いでは,近代的自我の浸透に伴い,人の心のありよう,ひいては人間存在そのものの怖さを描く時期に入ります。

 戦後の怪奇小説は,オバケの恐怖を描いた作品もある一方,なにやら得体の知れない「状況」があって,それが説明されるわけでもなく,決着がつくわけでもなく,ただ奇妙な,あるいは異様な読後感を残して物語が終わってしまう,そのような怪奇,怪奇といってあたらないなら「不安」が描かれた作品があれやこれや現れてきます。直接間接を問わず,戦後の不条理文学やSF(この場合,Speculative Fictionと読みたい)の影響も無視できないでしょう。

 このような作風の広がりによって,戦後〜現在の怪奇小説は,オーソドックスと思わせて不条理,不条理と思わせてオーソドックスな怪異譚,と,あらゆる手段,手法で読み手の「安心」を揺るがすことが可能になっています。
 ただ,あまりにも間口が広がったがゆえに,逆に一つひとつの作品の衝撃は弱まってしまう……ありていに言えば,読み手がスレてしまって,並みの展開では驚かなくなった,怖がらなくなった,それも昨今の特徴です。

 その結果,角川ホラー文庫に代表されるこの10年あまりのモダンホラーは,こと恐怖という切り口においては,誰が何度味わっても総毛立つような原初的な恐怖,つまりスプラッターな惨劇や病魔,拘束,蟲といった生理的な恐怖の連発に走って,かつてのホラームービーへの先祖返りの傾向にある。……最近そんなふうに思えてなりません。

 さて,まだ発売されていない『日本怪奇小説傑作集』の第3巻の収録作品の傾向はどうでしょうか。
 (実は調べればすでに収録作品は公開されているのですが)誰の,どの作品が選ばれているのか,編者の趣味嗜好や出版社から予想して汗かいて「カイジ」ごっこ「アカギ」ごっこするのも一興。僕はこの編者ならあのあたりは避けてあっちのあたり中心じゃないかと思うのですけどね……。

先頭 表紙

ところで,モーニングで連載中の『へうげもの』をご存知だろうか。人ぞ知る古田織部を主人公とする奇態な戦国絵巻で,茶器や焼き物に対する物欲がテーマだ。独特な信長像といい,さすがは『ジャイアント』を最後に平気でへうげさせた山田芳裕。彼の作品は奇天烈な展開にいちいちあきれるのが正しい味わい方。単行本よりまず連載で読むべし! / 烏丸 ( 2005-10-09 03:31 )
以前もふれましたが,ファーストネームで呼べる作家,呼べない作家の違いって何でしょうね。漱石,鴎外,八雲,藤村,鏡花,白鳥,綺堂,犀星,乱歩はOKで,龍之介,正史,由紀夫,直哉,健三郎,康隆はNG。谷崎,川端も姓ですね。最近はそもそも片方では通じない(もしくは姓・名並べてもわからない)作家も少なくありませんが。 / 烏丸 ( 2005-10-09 02:21 )

2005-10-06 オバケの本 その六 『日本怪奇小説傑作集(1)』 紀田順一郎, 東 雅夫 編 / 創元推理文庫


【お父さん,僕はどうしてこうして居るのでしょうか。お魚のようにではないでしょうか。】

 怪談は,実話・体験談と,まったくの創作作品の2つに大きく分かれ……るわけではありません。
 実話と思えば作り話,作り話と思えば体験談,体験談のはずが中国の古い志怪小説に元ネタあり,などなど,そも怪しい談というくらいですからこの世界の裏オモテは難しい。

 『日本怪奇小説傑作集』は,海外ホラーファンには必須アイテムの一つ,同じ創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』(全5巻)の日本版を志向したという短編アンソロジー。明治期から現代まで,この百年あまりの怪奇小説を厳選した全3巻で,7月に第1巻,9月に第2巻,この調子なら第3巻も近日中の刊行が期待されます。

 「小説」とあるので先の分類でいえば創作,作り話中心かと思われますが,開いてみればさにあらず,なかには実話・体験談も含まれています。つまり,本集において重要なのは,創作か否かではなく,作品が怪談,怪奇小説として(その時代を代表して)優れているかどうか,その一点につきるようです。

 また,紀田順一郎,東雅夫という当代きってのこだわり派が練り上げた本集は,作品の選択において,一種独特な緊張感を有しています。
 たとえば,明治期の作家として泉鏡花は絶対はずせない。だが,「   」や「   」を選んだのではありきたり過ぎて読書家の期待には応えられない。さりとて「   」では重厚過ぎて他の作家とバランスが悪い。……等々の逡巡,そしての説得力が言外にこもっており,それがこのラインナップに濃密な印象を与えているのです(「   」のスペースにはお好きな作品名をどうぞ)。

 逆に……もし,鏡花の作品として「海異記」以外のものをあてはめたなら,その途端に八雲は「茶碗の中」でいいのか,その後ろは漱石,鴎外でいいのか,と再検討するハメに陥り,漱石の「蛇」を「夢十夜」に差し替えると内田百・「蓋頭子」を差し替えざるを得なくなり,そのうち春夫の「化物屋敷」,いや続巻にいたるまで収録作が入れ替わってしまう……。
 優れたアンソロジーとはそうあるべきものでしょうし,『日本怪奇小説傑作集』が漂わせる気配はまさにそういうものです。ただ,欲をいうなら,そのようなピリピリした緊張感を読み手にまで強いるのはいかがなものか,またそれが3巻まで同じ精度で続けられるのか,そのあたりが少し気になるといえば気になります。

 いずれにせよ,第1巻の収録作品一覧は以下のとおり。いかがでしょう。

   日本怪奇小説の創始(紀田順一郎)
   茶碗の中(小泉八雲)
   海異記(泉鏡花)
   蛇──「永日小品」より(夏目漱石)
   蛇(森鴎外)
   悪魔の舌(村山槐多)
   人面疽(谷崎潤一郎)
   黄夫人の手(大泉黒石)
   妙な話(芥川龍之介)
   蓋頭子(内田百・)
   蟇の血(田中貢太郎)
   後の日の童子(室生犀星)
   木曾の旅人(岡本綺堂)
   鏡地獄(江戸川乱歩)
   銀簪(大佛次郎)
   慰霊歌(川端康成)
   難船小僧(夢野久作)
   化物屋敷(佐藤春夫)

    ※森鴎外の「鴎」のヘンは「区」でなく「區」

 この中では,たった3ページの掌品ながら,漱石の「蛇」が抜群でした。
 滔々とあふれんばかりの水の音,そこにすっくと立つあやかしの声が野太い笛の音のようで,これが文豪のワザかとうならされます。それに並んだ鴎外の「蛇」は,残念ながら小理屈に落ちていただけませんでした。「蛇」で文豪を並べようという意図に,少しばかり無理があったのでは。

 谷崎の「人面疽」は,直接淫蕩な場面が描かれているわけでもないのにたっぷりネイキッドな肌合いに満ち,ものすごく怖いはずの話が白粉の匂いに包み隠されているような,実にもう恐ろしい仕業になっています。そもそも,これをここで終わらせるか。非道。

 夢野久作からは,どうしてこんな作品が選ばれたのでしょう。
 2巻の解説で「難船小僧」のことが一種“引き合い”に出されていますが,そのためだとすると多少「ため」が過ぎるような気がします。角川文庫や現代教養文庫の夢野本の大半が絶版になって『ドグラ・マグラ』以外の入手が面倒になった今,彼の短編作品へのエントランスとしてなにもこんなガハガハとガサツな作品でなくてもよかったのでは。

 川端の「慰霊歌」についても似たようなことがいえますが,こちらは逆にこのような珍品を発掘,展示したことを評価すべきでしょう。ただ,個人的にはこの方面(降霊など)はパス。

 犀星の「後の日の童子」,何の,後の日なのか。
 子供の幽霊の話は海外の怪奇小説アンソロジーにままみられますが,比べる要もない,青磁のような佳品です。そもそも本作を怪奇小説と言ってよいのかどうか。怪奇小説の定義は,妖怪や幽霊が登場すること,ではないでしょう。童子の去った後の蟲等に妖味は幽かに漂いますが,全体として決して奇怪ではありません。一行一行に,どこか遠くで静かに流れる涙があります。過剰に哀切をうたわず,ため息に留める。さりとて,絶望の深さは底知れず。……これが作家の個人的体験から出たというのなら,作家とはなんと哀しい生き物なのでしょうか。

先頭 表紙

室生犀星というと「ふるさとは遠きにありて思ふもの……」のイメージ,つまりなんというか文部省ご推薦のイメージが強く,小説も敬遠していたところがあるのですが,「後の日の童子」には胸を焼かれました。朔太郎にはない叙情,妖味かと思います。 / 烏丸 ( 2005-10-13 00:09 )
室生犀星はあまり読んだことありませんが「後の日の童子」という作品が気になります。 / えり ( 2005-10-11 01:23 )

2005-10-01 オバケの本 その五 『闇夜に怪を語れば−百物語ホラー傑作選』 東 雅夫 編 / 角川ホラー文庫


【百すじの灯心はみな消されて,その座敷も真の闇となった。】

 「百物語」といえば,ご承知のとおり──人々が集って次々に百の怪談を語り,語り終えるごとに用意した百本の灯心もしくは蝋燭の灯を一つずつ消していくと,最後の一灯が消えたところで怪異が現れる──というものですが,こちらはその「百物語」について,短編怪奇小説,対談,突入ルポ(!),お作法(!!),短歌(!!!)まで,総覧的に集めたアンソロジーです。

 突入ルポといっても,当節ワイドショーふうのじゃらかしを想像してはいけません。なんと文豪・森鴎外が,破産寸前の大富豪が道楽に開催した「百物語」に赴き,その模様を語るのです。さらに,それが実際にいつ,どこで行われたものかを確定せんと当時の史料をあたり,その場で配られた弁当まで調べ上げた森銑三のレポートまでそえて,編者・東雅夫の意気込みや並々ならぬものがあります。

 ただ,いかんせんテーマが限定的だけに,一冊の書籍としてのふくらみにはやや欠ける印象あり。畢竟,「百物語という催しで語られる怪談」ではなく「百物語なる催し」そのものに着目する以上,変格はともかく,正攻法の落としとしては「百物語に招かれていったら,何かが起こった」「何も起こらなかった」,そのどちらかしかないのですから。
 (もっとも,鴎外のルポは,そのどちらでもありません。気になる方は「青空文庫」こちらをどうぞ。)
 テーマをしぼったことによる窮屈さは,収録作品のタイトルをご覧いただいただけでもある程度おわかりいただけるのではないかと思います。

   新説「百物語」談義(京極夏彦&東雅夫)
   蜘蛛(遠藤周作)
   暴風雨の夜(小酒井不木)
   露萩(泉鏡花)
   怪談会(水野葉舟)
   怪談(畑耕一)
   怪談(福澤徹三)
   怪談(杉浦日向子)
   百物語(仙波龍英)
   百物語(森鴎外)
   森鴎外の「百物語」(森銑三)
   百物語(岡本綺堂)
   百物語(都筑道夫)
   百物語(高橋克彦)
   百物語(阿刀田高)
   百物語(花田清輝)
   百物語異聞(倉阪鬼一郎)
   岡山は毎晩が百物語(岩井志麻子)
   贈り物(若竹七海)
   鏡(村上春樹)
   百物語という呪い(東雅夫)

     ※鴎外の「鴎」のヘンは「区」でなく「區」

 実にもう,著者名がバラエティに富んでいるだけに,閉塞感というか,なんともツラいものがありますね。

 細かいことを二,三。
 タイトルだけみても,岩井志麻子が相当に「強い」作家であることがうかがえます。そして,実際に,強いのです。
 概して怖くない話,こしらえた話の多い本書の中で,ほとんど唯一直截に恐ろしいのが「岡山は毎晩が百物語」のラスト数行でしょう。鋭利な刃物で裂くのでなく,生皮も荒い丸太を無理やり腹に突き込まれるような怖さ。

 最近亡くなった杉浦日向子,「その『百物語』の正しい方式をきちんと書いた本が少ないようですので,ここで,正調・百物語をおさらいいたします」などと相変わらず出典も明記せず,どこが正調なのかわかりません(まあ,ここで書かれているのは,だいたいは浅井了意の「伽婢子」からの引用なんですけれども)。いいじゃないですか,ねえ,蝋燭を一本ずつ消す,程度のルールだって。公式なやり方でないとオフィシャルなオバケが現れない,というわけでもないでしょうし。

 森鴎外にせよ,遠藤周作にせよ,都筑道夫にせよ,「百物語」に招かれた作中の語り手がこぞって「け,しようもない」とばかりハスに構えているのが不思議です。ムキになるだけ,余計に青い感じがするのに。祭りにオバケ屋敷が出れば女,子どももろとも飛び入り,「うお」「わあ」と声を上げるくらいでいいじゃないですか。文士の皆さんつまらんところで武張っているなぁ,というのが正直なところです。

 そういえば,「百物語」をテーマにさまざまなジャンルからアンソロジーを組むのなら,マンガにもよくできた作品があっただろうに,という気がします。楳図かずお,高橋葉介,三山のぼる……「怪談集」程度の意味で「百物語」をタイトルに付しているものは除くとしても,探せばもう少しありそうです。

 さらに本書からはずれますが,手塚治虫の中篇に『百物語』という作品がありました。
 『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』などの子供向けマンガと,『きりひと賛歌』『奇子』などの大人向けマンガのちょうど中間あたりに位置する作風です。
 主人公,一塁半里はお家騒動に巻き込まれて腹を切るはめに陥り,それを助けた魔女のスダマが,死後の魂と引き換えに3つの願いをかなえてくれる,というもの。もう一度たっぷりと人生をすごすこと,天下一の美女を手に入れること,一国一城の主になること,その3つの願いをかなえるため,一塁は不破臼人という美青年に生まれ変わって戦国の世に挑みます……。
 一読おわかりのように,この設定はゲーテの『ファウスト』にほかなりません(主人公の名前,一塁はファースト,半里はハインリッヒの略,不破臼人もフワウストですね)。手塚は『ファウスト』という作品がことのほかお気に召していたようで,彼の作品中,中長編だけでも初期の『ファウスト』,この『百物語』,そして遺作の『ネオ・ファウスト』がファウストとメフィストフェレスの契約をモチーフとしています(思えば,モブシーンの多い手塚作品を俯瞰して見れば,いずれもなんと「ワルプルギスの夜」的だったことでしょう)。
 それはさておき……実は,なぜこの『百物語』のタイトルが『百物語』なのかは,説明がつきません。ストーリー中にスダマをはじめとする妖怪たちが登場するというだけで,最初から最後まで,一度も人々が集まって怪を語れば怪を招くという「百物語」の催しはかかわってこないのです。
 手塚本人のアイデアの中では,もっと「百物語」にあたるイベントが用意されていたのでしょうか。それとも単に武士の時代,妖怪も登場,という程度の意識でつけたタイトルだったのでしょうか。何か資料が残っているなら,そのあたり確認したいものです。

先頭 表紙

そういう一夜,車座型でなく,オンラインで何ヶ月もかけてというのでしたら,ずいぶん昔ですが参加したことがあります。その中で自分で書いたものだけ抜き出し,さらに書き加えて,一人で百話にいたるよう練っていますが,八十を超えると,つい,似たようなのやつまらないのを消して番号を詰めてしまうので,なかなか百に近づかないのです。 / 烏丸 ( 2005-10-03 16:40 )
つまり,5人から10人,多くともせいぜい30人ほどで車座になり,ぶっ通しで順繰りに怪談語りまくって8時間。ちょっと現実的ではないように思いますし,第一深夜に始めても,夜が明けてしまいます。さりとて,怖くもないやっつけの短い怪談を百話並べても,それで呼び寄せられる怪異なんてたかがしれてそうです。 / 烏丸 ( 2005-10-03 16:39 )
えりさま,いらっしゃいませ。本当の「百物語」ですか……。実は,烏丸は催し物としての「百物語」を信用していません。というのは,よほど冴えたものを除き,そこそこに妖味のこもる怪談(怪を呼び寄せそうなもの)を語るなら,1話最低でも5分程度はかかると思われるからです。5分×100話÷60分≒8.3時間。 / 烏丸 ( 2005-10-03 16:39 )
はじめまして。コミックやミステリーの本をいつも参考にさせていただいています。烏丸さんは本当の百物語は試されたことはあるのですか。お化けは出てきましたか。 / えり ( 2005-10-02 01:35 )
本書の表紙の蝋燭は,久世光彦の『怖い絵』の表紙でも用いられた,生涯にわたって蝋燭ばかり描き続けたという高島野十郎の蝋燭ですね。 / 烏丸 ( 2005-10-01 02:24 )

2005-09-30 オバケの本 その三,四 『江戸怪奇草紙』『新編 百物語』 志村有弘 編訳 / 角川ソフィア文庫,河出文庫


【いよいよ本式に祟ってきましたよ】

 『江戸怪奇草紙』(角川ソフィア文庫)は,日本近世の怪談5篇を収録したアンソロジー……なのですが,5篇という収録数,220ページ余りというボリュームも中途半端なら,編者の意図が見えてこないのも「ハテ?」な印象です。

 そもそも『江戸〜』なるタイトルにふむふむと読み進むと,突然「汽車に乗る金もなし,歩いてゆくより仕方がありません」(「怪談 青火の霊」)で脱線転覆。久留米まで汽車が走るたあ,どこの国の江戸時代じゃ。
 また,「牡丹灯籠」「稲生物怪録」と超のつくスタンダードが巻頭巻末を飾るので大物古典主義かと思えば,その間に発行年も著者名も不明なマイナー作品がはさまっている。ではB級もとりそろえて恐怖を決め手に選んだかといえば怪談「累ヶ淵」の底本となった「死霊解脱物語聞書」は史実に基づいた仏教説話。そんなこんなで怪談としての色合いもまとまりません。

 もちろんアンソロジーの収録作品が長さまちまち内容まちまちなのは別に珍しいことではありませんが,その中にどのような編者の意図,こだわりが込められているか,そこがポイントかと思います。それが,感じられないのです。

 結局,主旨のはっきりしない掻き集め企画本としか伺えず(各篇のタイトルに底本にない「怪談」「妖怪談」を付けているのもなにかこしらえたふう),さりとて有名どころの怪談の資料とするには,編訳者いわく「随所に読物風の工夫を凝らした」点が気にかかります。
 訳出にあたってそれぞれどのように手を加えたかは,あとがきに「勧化的色彩の濃厚な部分や作者の感想なども一部省筆」「誤植・誤記と思われる箇所の訂正や小見出しを短くするなどの補綴」等おおまかに記されています。しかし,アンソロジー全体の意図がはっきりしないだけに,なにか不安がつのるのです。たとえば「人口に膾炙している」からと「死霊解脱物語聞書」の登場人物の名前を「塁」とするのは翻訳の節度を踏み越えていないでしょうか。これでは「稲生物怪録」にどんなオバケが何種類出てきたか,オバケのありさまは原文に忠実なのか,そういった資料としても不安が残ってしまうのです。

 志村有弘氏は中国の志怪本から捕物小説集まで,膨大な書物の翻訳,編纂にかかわってこられた方ですが,どうも全体に焦点が鮮明でなく,アンソロジーにも「ほこりっぽい」手触りが否めません。田舎のバス停横の雑貨屋の菓子棚のように,古い商品が多いだけでなく店主の志向性が見えない。翻訳,編纂作業の中から,オバケや時代小説に対する愛情,夢,恐れといったものが艶として立ち上がってこないのです。

 『江戸怪奇草紙』と同じくこの夏に文庫で刊行された『新編 百物語』(河出文庫)についても,印象は同様。
 本書では『今昔物語集』から『耳嚢』にいたるまで,有名どころの古典から,「鬼篇」「幽鬼篇」「予兆怪奇篇」「人魂篇」など八つに分けて百篇の怪異譚を紹介しています。
 しかし,あとがきによると「伝えられている『百物語』関係書からは敢えて話を取ることをしなかった」とのことなのですが,ではどういうものを選んだのか,そこが判然としません。それが読みとれないのです。

 怪談の古典を紹介する,既出作を避けて新しくアンソロジーを組む,そこまではよいのです。その選択や翻訳翻案,その折り折りの所作ににじむべく「やむにやまれぬ」もの,それがもっとページから伝わるべきだと思うのです。

 そのためでしょうか,「百物語」と称しながら百の一つ手前で留めたり,一篇分だけ通し番号を避けたりする書物が多い中,『新編 百物語』はまことに無造作に百篇に達しています。……が,通読後,天井から手が降りてきたり,奥の座敷でお女中が首を吊っていたりということはとくにありませんでした。

 ことほど左様に,いずれも尋常小学校の国語の教科書のような怪談集。オタク度,マニア色は弱いのですが,しいていえば妙なこだわりがない分,読みやすいのが長所といえば長所でしょうか。

先頭 表紙

2005-09-27 オバケの本 その二 『聊斎志異』〈上・下〉 蒲 松齢, 立間祥介 訳 / 岩波文庫


【世間には人に害をあたえない狐はいるけれど,人に害をあたえない幽鬼はいないというのは,陰の気が盛んだからよ。】

 言わずと知れた中国清代の怪異短編小説集ですが,この『聊斎志異』をはじめ,ここ十年ばかりの間に,岩波文庫の新刊や改版本がずいぶんと読みやすくなりました。

 五十刷,六十刷という古典の珍しくない岩波文庫の場合,もともと最近の文庫に比べて活字が小さいということもあったでしょうが,それ以上に「紙型」を用いることの弊害が大きかったような気がします。
 戦前の印刷物の多くは,頭に凸状に文字を刻印した鉛のバーを並べることで組版されました。いわゆる「活版印刷」です。版を保存する際は,活字を組み合わせて作成されたページを「紙型」といって特殊な厚紙にぎゅっと押し当てて凸凹の形で残し,増刷する際はその紙型に再度鉛を流し込んで版下を作成する,そんな手法で再生産を実現していました。鉛でできた活字には欠けや位置ずれがありますし,紙型には乾燥による縮みが発生するため,古い文庫では増刷を重ねるたびに活字が乱れて読みづらくなってきていたのではないかと思います。
 腰の重かった岩波書店も,さすがに印字の品質が気になってか,近年は古い文庫の活字を組み替えたり,翻訳を新たにして再発行したり,といった工夫を進めているようです。
(最近の岩波文庫が写植活字を用いているのか,一気にDTPまで進んでいるのかは,フォントに詳しくないのでわかりません。ただ,『聊斎志異』などの印字並びのクオリティの高さを見る限り,なんらかのDTP(デスクトップパブリッシング)システムを用いているのではないかと思われます。)

 DTPに用いられるPageMakerやQuarkXPressなどのレイアウトソフトは,早い話がワープロの編集機能を高度にしたようなツールですが,これらを利用すると入稿や編集作業が安直簡便な分,活版や写植に比べて,出版社,編集者の「版下」に対する思い入れが失われはしないか,そう心配するベテラン編集者もいるそうです。
 実際,新雑誌を創刊するにあたって,ベースとなるページレイアウトすら検討せず,ただテキストと画像ファイルをメールでデザイナー宛に入稿し,あとはお任せモードの編集者がいて,驚いたこともあります(細い罫線,太い罫線をそれぞれ「オモテ罫」「ウラ罫」というのは活版の鉛活字の仕様から出た言葉なのですが,最近は,その由来どころか「オモテ罫に」という指定がDTPオペレータに通じないことすら珍しくありません)。
 とはいえ,DTPが導入されれば,レイアウトや活字について,その程度の知識でも十分雑誌ができてしまうのも事実です。そのため,最近の雑誌の表紙や記事にはいかにもPhotoShopで文字にエフェクトをかけただけといったタイトルや見出しが目につきますが,目的に合致しているなら効率を喜ぶべきなのでしょう。

 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』で主人公ジョバンニが巻頭の「午后の授業」の帰り,家計を助けるために「活版処」で「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾」うのが活版印刷の活字でした(別役実脚本のアニメ映画でも静かで大好きなシーンです)。しかし,グーテンベルグ以来のそんな活版印刷の文化や技術も,少なくともこの国では事実上滅びてしまいました。今や「紙型」をとる工具も技術者も,ほとんど残っていないそうです。
 是非はいろいろ議論もあるところでしょうが,こと岩波文庫においては,ただでさえ流して読めない思索系カテゴリーの本が多いだけに,最近の新刊の読みやすさは歓迎したいと思います。

 岩波文庫の『聊斎志異』が読みやすいもう1つの理由は,立間祥介氏の訳文の流暢さによるものが大きいと思います。枯淡にして鮮やか,月明かりの下の明晰さ,志怪の気配を上品に伝えてくれて実にもう心地よいのです。また,登場人物たちの会話をいかにも古典といった強張ったものにせず,現代風にさらりと流したのも好感がもてます。

 この上下巻で『聊斎志異』全体の全491篇分の91篇だそうですが,ちょっと印象としては「幽鬼」や「なんとかの精」との恋愛譚の比率が高いような気がしないでもありません。思ったより「怖い話」の比率が低い印象。こんなものでしたっけ。
 「幽鬼」とは日本でいう「幽霊」のことなのですが,当時の中国の死人は,滅するのではなく,幽鬼の世界に移行し,そちらで役人になって働くなど,生活感あふれるものだったようです。こちらの世界と幽鬼の世界を行ったり来たりは当たり前,若い女の幽鬼はハンサムな学生に言い寄られれば「あれぇ」と歓を尽くし,焼き餅はやくわ,子供は生むわ,もうどこが死人なのという大騒ぎです。同じ中国の『剪灯新話』を元とする「牡丹灯籠」の粘着質な幽鬼などむしろ例外的な印象で,アンハッピーエンドな作品においても,さっぱりした大恋愛を楽しむ幽鬼のほうが多数派です。

 そして,その大恋愛において,多くは主人公の若い男が天女のような幽鬼と出会い,愛の行為にいそしむのですが,この表現が,原文がそうなのか訳者の工夫か,バラエティに富んでまことに楽しいのです。ちょっと(悪趣味かもしれませんが)そのいたすところを抜き出してみましょう。

 いきなり抱きしめると,かたちばかり抗ってみせただけだったので,その場でねんごろになった。
                                           「壁画の天女──画壁」
 夢に思った仙女とほんとうに褥をともにして,月の宮居は雲の上と限ったものではないと思ったものであった。
                                           「美女と丸薬──驕娜」
 董は相好をくずして着物を脱ぎ,一緒に寝たが,まるで天にも昇るような心地であった。
 擦り寄って戯れかかられ,ついその気になってまた交わってしまった。

                                           「女狐と二人の男──董生」
 歓を求めたところ,拒む色も見せなかったので,喜んで情をかわした。
                                           「侠女──侠女」
 すると,女がひょっこりやって来たので,また愛をたしかめあった。
                                           「二人妻──蓮香」
 「でも人の精血を受け入れなければ,生き返ることはできないのです」(中略)と言うので,ともに歓を尽くした。
                                           「夜毎の女──連瑣」
 「色気違い。良くなったかと思うと,もういやらしいことを考えるなんて」と言うのを,「せめてものご恩返しですよ」と,ひとつ床に入り,心ゆくまで楽しんだ。
                                           「山中の佳人──翩翩」

 上巻のみざっと見ただけでこんな感じ,どれ一つとして同じ言葉遣いがありません。
 幽鬼も狐の精も,ともかく鬱々とせず,現世の歓を求めて縦横に現れ,語り,褥をともにするか,別れに涙をくれるか,ともかく「いきいき」の一言です。
 全体に,一部を除いて情けなくも受身の貧乏男が多く,勝気で溌剌とした女(の幽鬼や狐の精)が多いのも『聊斎志異』の特徴のような気がします。

 小学生向けジュブナイルから今回の岩波文庫版まで,さまざまな『聊斎志異』の訳本を手にしてきましたが,なんだか年を経るにつれて,ますます現代的な内容であるように思われてなりません。『捜神記』などに通じる素っ頓狂な志怪の面白さもありますが,現代に通用する上質な「短編小説」としての軽妙な味わいがあるのが『聊斎志異』の魅力ではないでしょうか。

 その意味で,今回の通読では,どれ一篇とは決めかねますが,ある程度の長さをもち,ある程度の起承転結を明らかにし,なおかつどこかぽっかり説明の欠けた作品を最も楽しく読みました。
 唐突に現れ,また唐突に去っていった「おきゃん」な幽鬼の娘たちを思い,胸のどこかに穴が空いたような心持の今日この頃です。

先頭 表紙


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