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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2005-09-24 オバケの本 その一 『日本妖怪変化史』 江馬 務 / 中公文庫BIBLIO
2005-09-23 オバケの本
2005-09-18 元気でなにより 『のだめカンタービレ(13)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC
2005-09-15 あなたは試す 読み手を 『長い道』 こうの史代 / 双葉社(ACTION COMICS)
2005-09-11 グッジョブ!! なのだが…… 『恋するA・I探偵』 ドナ・アンドリューズ,島村浩子 訳 / ハヤカワ文庫
2005-09-05 〔雑談〕 ネットの音楽配信
2005-08-26 〔雑談〕 危うし!? 将門の首塚
2005-08-17 仕事モードオン!! 『働きマン』(現在2巻まで) 安野モヨコ / 講談社モーニングKC
2005-08-08 『スパイシー・カフェガール』 深谷 陽 / 宙出版
2005-08-04 ブックオフに出回るまで待ってもよいかもね 『陰陽師 12 天空』 原作 夢枕獏,作画 岡野玲子 / 白泉社(Jets comics)


2005-09-24 オバケの本 その一 『日本妖怪変化史』 江馬 務 / 中公文庫BIBLIO


【これが実在しょうがせまいが,かくのごとき枝葉の穿鑿は無用のことで,過去において吾人の祖先がこれをいかに見たか,これを実見していかなる態度を取りこれに対したかをありのまま,毫もその間に仮作の攙凜入なく材料を蒐集して組織的に編纂すれば風俗史家の能事を終れりとすべきである。】

 これぞまさしく認識体系を再調整し,火照った頭を鎮静化してくれる好著。
 1976年に文庫化されたあと,久しく品切になっていたのですが,昨年,装いも新たに「中公文庫BIBLIO」の1巻として復刊されました。

 もともとは著者江馬務の本業たる風俗史研究の一環として,さまざまな妖怪変化を,古今の膨大な資料から掬い上げ,通覧しようとしたもの。
 文庫,モノクロという制限はありますが,豊富な図版も魅力的です。ひまむしょ入道や山地々,雛の僧など,あまりメジャーでない妖怪変化のぬらくらした図版がなんとも言い難い妙味をかもし出しています(京極堂でおなじみの鉄鼠やのっぺらぼうも図入りで紹介されています。その他,いろいろなホラー作家の元ネタが本書ないし本書の系譜から得られていることがうかがえます)。

 しかし,本書の一番の魅力は,そういった妖怪変化の羅列,いわば「オバケ図鑑」にあるわけではありません。

 「八百万(やおよろず)の神」「百鬼夜行」「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」「百物語」などの言葉に示されているように,この国では神やオバケは「たくさん」「いろいろ」いるもの,現れるもの,とされてきました。狐や獺(かわうそ)や河童,鬼や鵺(ぬえ)やろくろっ首……つまり,野や川や市中に偏在,点在するのです。そのためか,古今のオバケ本では,(悪くいうと)ともかくいろいろなオバケを列挙し,それぞれを漫然と論評するような作りが少なくありません。

 それに対し,本書『日本妖怪変化史』は,柳田國男以前の大正十二年に書かれたにもかかわらず,極めて冷静に,妖怪変化をその「容姿」から細かく分類し,位置付けを明確にしています。

 「妖怪」は得体の知れない不思議なもの,「変化」はあるものが外観的にその正体を変えたものと解したらよいであろう。

どうでしょう,これは当たり前のようでその実いまだ新鮮な指摘であり,なんというか目を洗われるような気がします。著者はこの視点に立脚して「妖怪変化」をその「本体」から明哲な系統樹にちゃきちゃきと割り振っていきます。
(見開きページに系統樹として掲載されたものなので少しわかりにくいかもしれませんが,妖怪変化の全体を「変化」と「妖怪」に分け,「変化」はそれぞれ「人間」「動物」「植物 器物」に,「人間」は「現世的」「来世的」,「現世的」は「精神的」「具象的」……,また「妖怪」は「単独的容姿」と「複合的容姿」に,……といった按配。)

 のちに柳田國男も妖怪を分類しましたが,その大項目はたとえば
   山の怪
   道の怪
   木の怪
   水の怪
    :
   動物の怪
といった具合でした。江馬分類のほうに格段に妖怪変化そのものをきちんと切り分けようとする意思を感じます。

 たとえるなら,骨董の焼き物について,「皿か壺か」「陶器か磁器か」とストレートに用途や製法から仕分けようとしたのが江馬流,「織部か古九谷か」「窯変が綺麗寂が」とそのものの由来や品質にこだわったのが柳田流でしょうか。前者は学者のやり方であり,後者は蒐集家のやり方,という気がします。
 どちらがよい悪いの話ではありません。ただ,現代科学にはそぐわない素材だけに,後者に傾いた流れは留めがたく,柳田以降のオバケ研究は,フィールドワークを重視する民俗学の手法にのっとって,まずともかく用例をかき集め,フラットに並べる作業工程に偏ってしまったように思われてなりません。……門外漢がこうまで言い切るのも無茶とは思いますが,つまりはそんな印象です。
(妖怪変化の分類に努めた本書が,コレクションとしても魅力的なのは皮肉といえば皮肉です。)

 本書に図版が豊富なのは,著者のビジュアル嗜好ゆえではなく,妖怪変化の「容姿」を分類する資料として,リアルな図版がまたとない典拠となっているためではないでしょうか。この分類,分析への理性的な意志ゆえに,本書は本来おどろな怪異を語りながら,芯からすがしくなるような読み心地を提供してくれています。

 本書は,最近の文庫本としてはやや薄手で,そのうち本編「日本妖怪変化史」はさらに120ページ程度にすぎません。にもかかわらず,大部の冊子を読み終えたような手応えがあるのは,文章に無駄がなく,短い中に妖怪変化が一つひとつ端的に紹介されていること,さらに加えて,函をきちんと見立て,類の中から典型を選ぶ目があれば,ボリュームなくともより多くを語れるからではないでしょうか。
 私たちも本書の理知的な精神を糧に,ただ脈絡なく右往左往堂々巡るばかりの妖怪談義は慎み,冷静な目と耳をもって妖怪変化を語りたいものです。……って,別にみんなしてオバケを論じなくたっていいっちゃいいんですが。

先頭 表紙

「かもし出す」といえば,○○市の△△書店のマンガコーナーの棚に,イブニングに『もやしもん』連載中の石川雅之の色紙発見。その色紙には,こうじ菌と,「○○ △△書店さんを かもすぞー」の一文が。わかる人だけウケてくれー。わからんやつは,かもすぞー。わー。 / 烏丸 ( 2005-09-27 02:04 )
こちらで本書の「自序」と「序説」を立ち読みできるようです。「序説」だけでもオススメです。 / 烏丸 ( 2005-09-27 00:35 )
こりゃー永久保存版だね,と本棚にしまおうとしたら,1976年版もしっかりそこに鎮座ましましてました。忘れていたことはともかく,30年前も今も,読書の趣味は一緒かい! / 烏丸 ( 2005-09-24 03:28 )

2005-09-23 オバケの本

 
 紹介の順番が前後しますが,7,8月は怪談本の何冊かで「無聊を慰め」ました。

 この夏の夜のお気に入りは,ひやひや怖い心霊モノやぬちゃぬちゃキモいスプラッタより,中国や日本の古典的な怪異奇談集のほう。当初からはっきりした心づもりがあったわけではなく,その種の文庫の新刊・復刊を引き金に,読まないまま放置していた書棚の片付けが続いた,そんな感じです。

 それにしてもたとえば『聊斎志異』や『雨月物語』,『耳袋』を読む楽しさ,これは何によるのでしょう。

 最近発刊された蜂巣敦『実話怪奇譚』(ちくま文庫)の前書きには

 つまるところ,本書は,扇情的な事象に惹かれながらも絶えず現実からの逃避を試みるという,気の弱った病人≠フためのものなのだ。人生の負け犬≠フための書物ととらえてもらってもかまわない。

とありました。さすがに少々へりくだりが過ぎる気がします。
 一方,同じちくま文庫新刊の柴田宵曲『続 妖異博物館』の西崎憲の解説によれば,

 「不思議」は人に「驚異」の感覚をもたらす。「驚異」には効用が多い。……(中略)……大袈裟に言えば,驚異を感ずる度にわたしたちの世界は新生するのである。なぜか? もちろんわたしたちの認識体系がその瞬間再調整されるからである。

とのこと。こちら(とくに「新生」「再調整」!)により本手に近いものを感じますが,いかがでしょう。

 ただ,同じ怪異を扱っても,『新耳袋』や稲川淳二らの現代の怪談と,『聊斎志異』や『耳袋』などの古典では明らかに様子が違います。
 もちろん,後者の,菊の精と契ったり,仙人が悪戯したり,猫が鳩を逃がして残念なりと言ったりとかいう話を今さら信じる者はいないでしょう(いたら失礼)。方や前者の,午後二時にエレベーターで後ろ向きに立つ白い女,自殺者の相次ぐ部屋,髪の長い死者が逆さにぶら下がるトンネルなどは,ひょっとしたらありそうな気もしないではありません。
 しかし,そういった「信じる」「信じない」とは別に,前者は意識の攪乱・動揺を誘い,後者は鎮静・収束を招くという違いがあります。興奮剤と鎮静剤。同じ怪異を扱いながら効果が真反対なのが不思議です。

 このひと夏は,通して,鎮静剤のほうを静かに楽しく読みました。読んだ順も覚えていないいい加減さですが,いくつか取り上げてみたいと思います。

先頭 表紙

2005-09-18 元気でなにより 『のだめカンタービレ(13)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC


【近づいたかち 思うたら 離れてく……】

 最近あれこれ難癖つけて「そこらのマンガに比べればよっぽど面白いのにね」と心の中でごめんなさいしていた「のだめ」だが,新刊は久しぶりにおなかいっぱい。笑えたし,先の展開も気になった。
 つまるところこの作者,この作品,すれ違いが甚だしければ甚だしいほど読み手の琴線に訴える,らしい。良い子はマネをしないように。今回の千秋への天の配剤は,並の人間にはかなりツラいぞ。

 新刊は立ち寄る本屋という本屋で,平積み通り越してヒラひらヒラの三段,四段積みだった。
 「初版限定キャラコレしおり」つき,何十万部刷ったか知らないが,アニメ化,ドラマ化の話題なしで東京ドーム何杯分という領域に入りつつあるこの作品。
 オーケイ,かまやしない。どんどん刷ってどんどん売っておくれ。音楽を描き,人と人の距離を描くこの作品がいくら売れても,そのせいでこの国が悪くなることは決してない。

先頭 表紙

koedaさま,CD,卓上カレンダーに続いて,キャラクターブックも発売が予定されているそうです。のだめのおっかけも大変。 / 烏丸@とりあえずカレンダーは予約済み ( 2005-09-23 01:59 )
子ども達が大好きで、CD買いました。こんどは卓上カレンダーですか? / koeda ( 2005-09-19 09:05 )
ポストカード型卓上カレンダーも予約受付中。会社に置くか,自宅に置くか,それが問題だ。 / 烏丸 ( 2005-09-18 00:43 )

2005-09-15 あなたは試す 読み手を 『長い道』 こうの史代 / 双葉社(ACTION COMICS)


【荘介どの それを見てごらん】 ← 「早春の怪談」の一場面。そこらのホラー小説よりこわやこわや……

 ある種のことに妙に勘のよい家人が,こうの史代の作品を一切受け付けない。面白いから,といつものオススメ棚に置いておいても,なんだか,とすぐに返してくる。
 その心持ちや,わからないでもない。被爆の悲哀を棍棒で殴るように描いた前作『夕凪の街 桜の国』はおろか,「のほほん」をうたいにお気楽な夫婦を描いた(ように見える)本作『長い道』にさえ,なにやら,よほど怖いものがある。

 「家族」ではなく「夫婦」を描いたコミック作品はそう多くはない。
 とくに4コマからせいぜい数ページのギャグで展開するものとして,著名なものなると
   坂田靖子『チューくんとハイちゃん』
   秋月りす『奥さま進化論』『ミドリさん−あねさんBEAT!!』
   森下裕美『ここだけのふたり!!』
   みつはしちかこ『ハーイあっこです』(初期)
   業田良家『自虐の詩』
   安野モヨコ『監督不行届』
くらいしか思い浮かばない。

 『長い道』は,ギャグマンガでありながら,これらとはどこか違う。表層的なところでなく,根っこから違う。
 『チューくんとハイちゃん』や『ここだけのふたり!!』では──あるいは『自虐の詩』においてさえ──夫婦は(どのように出会い,どうして結婚にいたったかを問わず)今日も明日も夫婦であることが約束されている。それがゲームの基本ルールなのである。
 『長い道』の荘介と道には,そんなルールへのキマジメさがぽっかり欠落している。
 なにしろ一人暮らしの荘介の前に突然現れた道は,酒の場で,父親によって,荘介の父親に嫁としてタダで受け渡されてしまったというのである。貰い子でなくて貰い嫁。人身売買より軽い。

 荘介は,「派手で金持ちでいつもつんけん怒っている女」好きでギャンブル好きで失業好き(?)のゴクツブシである。心の底では道を愛しながら……などというおためごかしでは説明つかないことも二度三度しでかしてしまう。荘介は一個の成人である。高校生の諸星あたるがラム以外の宇宙人や女医を追いかけるのとはわけが違う。
 かたや道のほうも,ノー天気な風情の下に一筋縄でいかないものを抱く。彼女が荘介のところにきた理由は,その町に彼女の思い人がいたからである。もし,荘介に本当に思い合う相手がいたら,彼女の登場はいかなる意味をもっただろう。もし物語の途中でほかの誰かが道を求めたら,それでも彼女は荘介を選んだのだろうか。

 夫婦マンガの大半は,登場人物が夫婦であることを前提としながら,決して夫婦間のセックスを話題としない。『長い道』が,二人のセックスレスを語り,酒の勢いでのセックスを描き,キスシーンで終わるのはゆえなきことではない。キスはセックスより難度が高い。荘介と道は,連載が終わった時点にいたってすら,まだ十分に約束された夫婦とはいえないのだ。書類上は夫婦であっても2人の間は恋愛関係というも危うく,同棲という言葉さえ似合わない。
 本作は,その2人が,夫婦マンガの登場人物として描かれてよいか否か,それを試すような不安定かつアンバランスな時期を描いて描いて描いて唐突に終わってしまう。逆説的にいえば,夫婦と言いづらい2人を描いたこの作品のみが,正しく夫婦を描いたマンガなのかもしれない。

 『長い道』のもう一つの特徴として,各話,各コマが,さながらギャグマンガの一大実験場と化していることがある。全盛期の赤塚不二夫や『カスミ伝』等における唐沢なをきに匹敵する(一度や二度読んだ程度では気がつかないほどの)大小の挑戦が,むしろクラシカルな,60年代を想起させる絵柄でなされているのだ。
 この作者は,アマチュアなのだな,という気がする。悪い意味でのことではない。また,原稿による収入の多寡,テクニックの巧劣についてでもない(テクニックについては,こうの史代はそこらのベテランプロより格段に巧い)。プロというものが生活の糧として職業を選び,そこに安住できることをひとつの指標とするのに比べ,この作者は決してひとつの作品,ひとつのコマに安住しようとしない。
 前衛的というのともまた違う。当人の衝動が,新しい工夫や実験を勝手に誘発するのである。世界に名だたる登山家たちが本質的にアマチュアだった,そんなあり方に近いかもしれない。

 いかにも私小説ふうなさまざまなシチュエーションと,凝りに凝ったアクロバティックなギャグ技法が,自分のしっぽを食うヤマタノオロチのように複雑な入れ子になって区別がつかない。『夕凪の街 桜の国』は単に登場人物の悲惨ゆえに読み手を引き込む作品ではなかったが,本作においても,おそらく作品を見せる以外に説明のしようのない効果が読み手の「時間」の色合いを変える。

 それがこの作者の(深い淵の前でつい本気のケンカをしてしまうような)底知れぬ怖さである。
 その力は読み手に「参加」を求める。読み流すことができない。流すくらいなら読み飛ばすほうがまし。ギャグマンガにそのような読み方が妥当とは思えないし,もっと「のほほん」,「ほのぼの」とすましてしまえばよいのかもしれない。しかし,そのようにすますことができない。すませられないのが魅力でもある。
 「のほほん」をキャッチフレーズとするギャグマンガと,あれほどツラい思いに沈む『夕凪の街 桜の国』が,ほとんど同じタッチ,同じ読み応えであるというのはいかなることか。
 ……考えてもおよそ答えに近づきそうにないので,同じ作者のもう少しは気楽に読める『ぴっぴら帳』に手を伸ばし,ソファの上でまた「く」の字になる。

先頭 表紙

2005-09-11 グッジョブ!! なのだが…… 『恋するA・I探偵』 ドナ・アンドリューズ,島村浩子 訳 / ハヤカワ文庫


【申し分ない? 何もかもがきわめて違法だし,この情報操作を行うには何人かのいささかいかがわしい人物にいくつもの頼みごとをきくと約束しなければならなかった。】

 鳥シリーズのドナ・アンドリューズの新シリーズ,第1作。
 今朝,私鉄駅の書店で発見,先ほど読了。文庫400ページのボリューム以上に読み応えあり。

 従来の鳥シリーズは,アメリカ南部の田舎町に住む鍛冶職人メグ・ラングスローが,家族,親族,友人,はては近所の人々の身勝手な依頼に翻弄,忙殺され,あげくに殺人事件に巻き込まれるラブストーリー(なのか?)だった。
 その作者の新シリーズとなれば,舞台は違えど似たようなユーモア路線を想像するが……あにはからんや,今回の主人公チューリング・ホッパーは人口知能パーソナリティ(AIP),つまりコンピュータのプログラムなのだ。チューリングはユニヴァーサル・ライブラリー(UL)社のシニア・プログラマー,ザック・マローンの開発した会話型リサーチャー(顧客の検索を手助けするツール)であり,その開発工程でさまざまな名作ミステリをスキャンしてデータとして読み込んだ変わり種なのだが,あるときから人間のような感情を持つにいたる。そして彼女は,ある日,自分を開発したザックが失踪したことを知り,彼の行方を追い始める。

 鳥シリーズに比べ,本作では,手放しで笑える場面はほとんどない。本文の約半分が,AIPの独白によるという面もあるが,そもそもプログラマの失踪を追ううちにIT企業内の陰謀に触れてしまうという設定そのものがシリアスなのである。

  科学の時代は終わった。今は企業の時代にはいっているんだ。

 これは重要な登場人物の一人が後半の一場面で述懐する言葉だが,実のところこの言葉の示すものは重い。

 本作は現在のIT産業の構造や今後の展開についての(風刺をやや越えた)苦い批評にもなっているのだが,正直なところ,このチューリング・ホッパーのようなプログラムの存在を許容してよいのかどうか,難しい問題かと思う。ヒトのクローンの命題に近いかもしれない。
 たとえば,アメリカの企業が容認するAIPと,イスラム国家が容認するAIPは異なるだろう。中国が容認するAIPの権限と,イギリスが認める権限は異なるだろう。あるいは子供の教育にAIPをかかわらせてよいのか。そもそも人間の生活に感情をもったAIPをどの程度加担させてよいものか。本作のエンディングは,いかにもハッピーエンドを装ってはいるが,けっこうとんでもない処理である。個人的にはこんな反オープンソースなエンディングにかかわるのは真っ平御免だ。

 作者は,AIPが存在することやその倫理的な権限については十分注意を払っているように見える。そのうえでミステリ,少なくともエンターテインメントとして本作を提供していることは明らかである。
 ただ,ミステリとしてみると,少なくとも本作においてはまだ,主人公のAIPが古今のミステリに長じていることはとくにストーリーに大きな魅力を呈していない。主人公やその友人たち(人間,AIP含む)は開発者の失踪から派生する謎とそれに続く事件の解決をはかるが,どちらかといえばそれは直接自分たちに降りかかってくる災難との戦いであり,多くのいわゆる「本格ミステリ」における探偵たちのように事件に対して第三者的に推理を働かせるわけではない。
 もちろん,ストーリー的にはそれが独特のサスペンスを呼び,作品としては成功しているといってよいと思うのだが,少なくともこのシリーズ第一作については,鳥シリーズほどあらゆる設定が成功しているようには見えない。

 次作品以降に期待,と書きたいところだが,さて果たして次作も読むだろうか? 現時点では留保。肉体派の探偵が主人公のミステリは苦手なのだが,本作はプログラムが主人公でありながら,意外なことにストーリー展開ははっきり肉体派の側に属すのだ。


 以下,雑感。
 
 ソフトウェア業界,あるいはプログラマを登場させるミステリ作品は最近少なくない。本作はその中ではかなりリアリティがあると評してよいように思う。もちろん,(現在のハードウェア環境で)感情を持つAIPというのはSFどころかファンタジーの領域かと思うが,それでも本作においてコンピュータやネットワークシステムが,ハードウェアとソフトウェア,そしてプログラムとデータにきちんと区別して描かれているのは(当たり前のことなのに)けっこう衝撃だ。逆にいえば,その程度の区別もなしにソフトウェア開発者を描いてしまうミステリ作家が少なくないのである。メールそのものと,メールシステムにアクセスしたログとを区別するなど,言ってみれば,この作者はUserではなくAdministratorなのだ。

 ストーリー中で,ことデータ処理とプログラム開発に関しては万能に近いAIPのチューリングが,英語を発声する訓練についてはなかなかうまくいかないシーンがある。しかし,人口知能とは別に,通常の文章をそれなりに発声するツールはすでに何年も前から存在しており(8ビットパソコン時代のBASICにTALKコマンドとして提供されていたものでさえ,文章を聞き取ることはそれなりに可能だった),チューリングほどの,つまり感情を持って自立的に自己プログラムを書き換えてグレードアップできるほどのAIPがうまく会話できないというのは,妙にアンバランスな気がしないでもない。

 技術的にもう一点,いくらなんでもと思うのは,データ転送速度の問題である。専用線を張り巡らした中ならともかく,通常の電話回線を通したダイヤルアップ接続でこれだけの処理は無理。あと,物理的なファイアーウォールはもう少しマシな機能を持つと思うが,これはファンタジーの領域ということでしょうがないか。

 さて,そういった現状の技術的な限界はさておいて,国税庁や電話局をはじめ,あらゆるデータベースに侵入できてデータを取り込める主人公を探偵とするのは,はたしてミステリとしてフェアかどうか? かつてアイザック・アシモフが,未来世界のロボットを刑事としながら,作品内で用意したルールに極めて厳密なミステリを書いたことで知られるが,本作にはそこまで厳格な印象はない。ミステリ40%,ファンタジー45%,SF15%,といったところか。

 今気がついたが,チューリングに一番近いのは,ブリジット・オベール『森の死神』などに登場する車椅子探偵なのかもしれない。「できる」ことより「できない」ことのほうにサスペンスの重きが置かれるという点で,本作とそれらはまさしく同じ星のもとにある。

 などなど,書きたいことは尽きない。
 読み応えはあったし,面白かったとも思うが,少々疲れたというのも実感だ。ネットワーク上にこんな自己改変,増殖機能をもった巨大なワームがいるかと思うと……。

 できれば次は鳥シリーズがいいな。

先頭 表紙

2005-09-05 〔雑談〕 ネットの音楽配信

 
 ネットビジネスの嚆矢として再三話題にのぼりながらなかなかブレークしきれなかった音楽配信ですが,ここにきて携帯の着ウタに引っ張られ,あっという間に身近になった感がありますね。

 Yahoo!ミュージックをそれなりに便利に使っていたのですが,アップルコンピュータのiTunesの圧倒的な使い勝手のよさには驚きました。ミュージシャン名なり曲名なり,思いつく言葉をちょいと入れて,あとはリンクをクリック,クリック。しばらく時間を忘れて検索&試聴ザルになってしまいます。
 日本のiTunes Music Storeサイトには登録されていない曲でも,ほかの国で検索してみましょう。イギリスのミュージシャンなのになぜかイタリアやフランスのサイトのほうが登録アルバム数が多い,なんてこともあるようです。

 長年心の片隅に引っかかっていて,でもわざわざCDを注文するほどでもない……そんな曲(たとえばLoboの"Me and You and a Dog Named Boo"を試聴できただけでもかなり得した気分。そのうちベストアルバムをまるごとダウンロードしようと思っていますが,今後いつでも手に入るということがこれほど豊かな気分につながるとは。

 想像するに,しばらくは新譜を宣伝をかねて公開,というのが中心になっていくのでしょうが,ネット配信には在庫管理のりスクがないから,古い,ニッチな曲でも,いったんコーディングしてアップロードしておけばそのうちにペイする可能性があります。たとえば,長谷川きよしや石川セリといったかつての実力派のアルバムは,全国のCDショップ店頭に常置するほどの売り上げは見込めないでしょうが(全アルバムを店頭や倉庫に置いておくとなると,在庫管理だけで大赤字必至),オンラインなら昔からのファンがダウンしたり,あるいはCMソングかTV番組の主題歌への採用をきっかけに新しいファンが古いアルバムにさかのぼることも期待できます。カラオケがレーザーディスクから通信カラオケになって飛躍的に曲が増え,マイナーなミュージシャンやキワモノ(お経など)をそろえられたのと同じことが起こってくるのではないでしょうか。

 逆に,曲順,ジャケットなどを含む,一ミュージシャンのトータル作品としての「アルバム」を考えるとき,少なくとも過去の名作について,ネット配信は限界を抱えざるを得ません。
 たとえば,Led Zeppelinのセカンドアルバムにおいて,"Heartbreaker"と続く"Livin' lovin' maid (she's just a woman)"の文字通り「間髪入れない」つなぎは,スピード感,リズム,艶やかさといった彼らの魅力をきぱっと示してくれるものでした。その手応え抜きに"Heartbreaker"や"Livin' lovin' maid (she's just a woman)"をいわばシングル曲としてダウンロードしても,セカンドアルバムの魅力は伝わらないでしょう。

 1曲100〜200円。アルバム1枚分ダウンしたら,輸入CDを購入したほうが安い場合もあります。今後,どのプレイヤーが生活の中心となるかで曲の入手方法も変わっていくのでしょうね。

先頭 表紙

日本はともかく,よその国のサイトで,「karaoke」で検索するとものすごい量の楽曲がヒットするのがまた楽しい。世界共通語なんだなぁ。 / 烏丸 ( 2005-09-05 01:53 )

2005-08-26 〔雑談〕 危うし!? 将門の首塚

 
 新聞報道によると,東京都は,現在「旧跡」に指定されている歴史文化財約230件のうち約9割について,「伝承や物語に過ぎない」「史実の根拠があいまい」として指定廃止を視野に総点検を進めているそうです。

 見直しの対象として挙げられている旧跡には,「四谷怪談」のお岩さんが信仰したという田宮稲荷神社跡,京都で斬首された平将門の首が宙を飛んできて落ちたとされる将門の首塚,そして赤穂浪士の一部が切腹したという熊本藩江戸屋敷跡なども含まれているとか。

 そりゃ、京都でさらし首にされた首が関東まで自力でぴゅーんと飛んできて落ちたのが「史実」かと言われればそれまでですが,長年恐れられてきた,あるいは長年演劇人が「四谷怪談」を舞台にかける前に必ず参詣したといった事実は,それはそれとして1つの史実といえなくもないような気がするんですが,どうなんでしょう。

 ちなみに,もし今後──あくまで「もしも」ですが──都の検討委員会関係者の何人かが続けて原因不明の熱病死,自殺,発狂,動悸,いきぎれ,めまい,肩こり,だるさ,手足の冷え,風邪などの諸症状が出るようなら……できれば「どの旧跡の呪い」でそうなったのかはっきりわかるよう,点検・廃止の担当者を「旧跡」ごとに明確にしておいてほしいですよね。

先頭 表紙

2005-08-17 仕事モードオン!! 『働きマン』(現在2巻まで) 安野モヨコ / 講談社モーニングKC


【伝えたいのは何だ?】

 吾妻ひでお『失踪日記』を紹介した折に「このところ,新聞の書評欄をにぎわすような,いわば文化人ウケするマンガの単行本が続いて……」と書いたのは,続いて安野モヨコ『監督不行届』,そしてこうの史代『夕凪の街桜の国』を取り上げようと思ったからだった。

 ところがこの2冊,とくに『夕凪の街』は,なんというか,自分の中のある部分と正面から向き合わないと書いてはいけないような気がして,結局形にならないままだらだらと今日に至っている。
 多分,書かないでいたほうがよい。そういう作品なのだ。

 さて,そこで『働きマン』である。

 『働きマン』は自分と対峙せずに読めるの,と聞かれると,あれっそういえばと思い当たるフシがないわけではないのだが,こちらはなんだか平気で楽しく読めるのであった。

 主人公・松方弘子(28)は週刊『JIDAI』(発行部数60万部,月曜日発売)のライター編集者。
 『働きマン』は彼女を中心に,編集の現場で働く人々の「働く」ことの意味をさまざまな角度から描き出す短編集。校了後は人と喋りながら寝てしまうほどのハードワーク,思うように動かない同僚たち,思うように企画をまとめられない自分,屈辱,疲弊,迷い,その中で跳躍的に何かが得られる瞬間,何かを失う瞬間。

 安野モヨコの絵柄はどちらかといえばかなり苦手なほうに属する。目が大きすぎる。フリーハンドでぐじゃぐじゃした印象。……
 だが,『働きマン』で,その印象がずいぶん変わった。

 アバウトな絵柄に見えて,コマ割り,人物のアップの配置が素晴らしくテクニカルなのに驚く。正面のアップには正面でなければならない理由が,右45度の苦笑いには同じく右45度の理由がある。勘によるものかもしれないが,さまざまな描写がリーズナブルに,最大効果を求めた結果となっているのだ。また,第2巻の「昔も今も働きマン」,最後の1ページが唐突に登場人物の独白で終わるなども非常に技巧的で,その技巧の的確な効果が心地よい。

 松方弘子という働きマン,その弘子の目に映るさまざまな働きマン,そしてそれをマンガに描き上げる安野モヨコという働きマン。1作め,2作め……という作品の横軸とは別の垂直な糸がおりて,『働きマン』は「働く」ことを強く,柔軟に編み上げてみせている。

 ただ,いかんせん「不覚にも涙が」というほどの心持ちになれないのは,この作品の舞台が週刊誌編集部という,ハードではあるがある意味呑気で保障された「働き場」であるせいかもしれない。いくら当人が優秀でも,本作のように周囲をどなり散らしたり,上司に反論したりできる「働き場」はそう多くはないだろう。というよりほとんどないだろう。
 早い話,思いっきり「働く」ことを許される職場というのは,案外と少ないのだ。
 その意味で,『働きマン』は,働きマンたちにとっての,ささやかなファンタジーなのかもしれない。

 ……それにしても,確かにいるよなあ,プレゼントページで何度もリテイクくらう使えない編集者。あれはいったいなぜ(なに)なんだろう?

先頭 表紙

2005-08-08 『スパイシー・カフェガール』 深谷 陽 / 宙出版


【カラッ…ウマイ ツーン じ…ん この辛さとキャベツの甘みがなんとも】

 こってり匂いたつような東南アジアンテイストを描かせれば天下一品……というかその方面ではそもそも比較対象の思い浮かばない深谷陽の新作単行本。コミックバンチに掲載されたものに書き下ろしを加えた208ページ。

 ふと立ち寄ったタイ料理店「ドゥアン」の味が気に入り,思いがけず翌日からそこで働くことになった料理人志望のテツヤ。
 いかにも「ワケあり」ふうなごっついマスター,謎の美人ウェイトレス……と身構えるヒマもあらばこそ,あっという間に事件に巻き起まれてさあたいへん。国際陰謀に巨大ルビーに3億円の現ナマ。『運び屋ケン』に通じるノンストップジェットコースターハードボイルドハートウォームサスペンス(ながっ),でもあくまで味付けは東南アジア。
 食べる,驚く,逃げる,料理を作る,また逃げる,また食べる。重い話もあきれた話もテツヤといっしょにわあわあと一気呵成。

 ただ……主人公とヒロイン,あるいは悲運のアフガン少女との交流など,深谷陽特有の「言葉は通じなくとも」タッチは快いが,この作者の作品を読み込んだ者からすると充足感は想像を超えるほどではない。無国籍な話に見えて,実のところこの国で,この国の者によって描かれた,というエリア内での面白さに思われなくもない。

 やっぱり深谷陽は初期の『アキオ紀行 バリ』『アキオ無宿 ベトナム(1)(2)』の3冊が一番「くる」。
 その後の作品も面白いことは面白いのだが,なにしろ『アキオ〜』ではすべてのページ,すべてのコマを流れる時間の色が違う。空気が違う。密度が違う。この国から見た異国なのではなく,バリやベトナムの,がたついた午後のテーブルで食べ物をちょっと寄せて描かれた異国,そんな感じ。それが読み手をねぶる。

 本作のような波乱万丈なストーリーも悪くはないのだが,ただアジアの片隅で食べて寝そべって子供と遊ぶ,そんな深谷陽も久しぶりに読んでみたい。切に願う。

先頭 表紙

『踊る島の昼と夜』は最近の発行なのに,105円とはよい買い物でしたね。あれは,深谷陽の最近の作品の中ではコテコテすぎず,好きな1冊です。 / 烏丸 ( 2005-08-30 11:42 )
昨夜ブックオフで『踊る島の昼と夜』を購入しました(105円でした……安い)。嬉しかったので、ご報告させてください。 / みなみ ( 2005-08-27 13:54 )

2005-08-04 ブックオフに出回るまで待ってもよいかもね 『陰陽師 12 天空』 原作 夢枕獏,作画 岡野玲子 / 白泉社(Jets comics)


【もし私が… 重大なことを間違えてしまったら… 何としよう…】

 ある作品が万人向けであるかどうかは,その作品の評価とは別の話。
 一部であれ,読み手の心を深くとらえるなら,それだけでも十分価値のあることであり,その作品を評価しない者たちがいかに否定しても,その作品の評価が減ずるわけではない。

 ……と弁明しといた上で断言してしまうが,12巻は,11巻にも増して最低。

 「深い」といった評価もなくはないようだが,深いとか深くないとか,そんなこと以前にそもそも論外。この書き手は読み手に何かを正確に伝えようとする努力を放棄しているようにしか見えない。そのため,この12巻にいたっては,読み通すのが面倒を通り越して苦痛。
 それを,たまたま波長の合う読み手が評価したとしても,知ったことではない。

 美しいことと美しいものを描くことは別だ。正しいことと正しさを訴えることも,また別。
 作品が作品であるためには,作者の中にア・プリオリに存在するテーマをなんらかの手段で読み手に伝える作業,ないし工程が必要である。その工程と効果抜きにシンパシィだけが成立するなら,それは独りよがりと独りよがりがたまたまシンクロする,悪い意味でのローカル宗教に過ぎない。
 たとえば,同じ少女マンガ系列でいえば,佐藤史生の一部の作品も相当に難解な作風ではある。だが,佐藤史生の場合は,そのテーマを伝えるにはその展開をもってそのように描くしかないという懸命さがある。誠意がある。岡野玲子の『陰陽師』のここ数冊については,その切実さ,誠実さがぽっかり欠落しているように思われてならない。

 少なくとも,ことここに至るまでに,「原作・夢枕獏」の肩書きははずすべきだったろう。
 夢枕獏の作品をすべて高く評価するわけではないが,それでも彼は作家であることを踏み外してはいない。理屈と情をこね回す岡野晴明に比べ,調子がよいばかりの夢枕晴明は浅薄に思われるかもしれない。が,こと「呪」に関して夢枕晴明は深い浅いを論ずる必要のないほど明晰だ。だいいち,夢枕晴明は,情けなくうざうざうろたえたりしない。

 結局のところ,深いわけではない。晴明を維持するに弱いだけなのだ。岡野玲子が。

先頭 表紙

このところ,コミック新刊の酷評が続いて心苦しい。いずれも,一時期本当に面白く読んだものだけに,残念。 / 烏丸@未ログイン ( 2005-08-04 12:26 )

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