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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2005-03-21 愛以外もいろいろこもっていて嬉しい 『『エロイカより愛をこめて』の創りかた』 青池保子 / マガジンハウス
2005-03-19 テレビについて,少しだけ
2005-03-14 テレビマンの周到な言い訳? 『テレビの嘘を見破る』 今野 勉 / 新潮新書
2005-03-07 a centenary 『名短篇』 荒川洋治編集長 / 新潮社
2005-02-28 fall in 『てんから』 かまたきみこ / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス
2005-02-21 小学生向け科学マンガ誌の熾烈な争い 『かがくる』 vs. 『そーなんだ!』
2005-02-14 「棚をあけておけといったろ」「ぎゃぼーっ」 『CDつきマガジン クラシック・イン(全50巻)』 小学館
2005-02-07 〔短評〕最近の新刊から 『おうちがいちばん(1)』 秋月りす / 竹書房
2005-01-31 〔短評〕最近の新刊から 『燕京伶人抄』 皇なつき / 潮漫画文庫
2005-01-23 〔短評〕最近の新刊から 『蟲師(5)』 漆原友紀 / 講談社アフタヌーンKC


2005-03-21 愛以外もいろいろこもっていて嬉しい 『『エロイカより愛をこめて』の創りかた』 青池保子 / マガジンハウス


【ほー,そーかね】

 当節まれな,嬉しくなる本である。

 ドリアン・レッド・グローリア伯爵のモデルが明らかにされて嬉しい(ジェイムズ君やボーナム君をお供に引き連れていることから自明だったど)。
 見開きカラーグラビアや書き下ろしイラストがたくさん載っていて嬉しい。
 あまつさえ,エーベルバッハ少佐の五分刈り姿が見られて嬉しい。
 「仔熊のミーシャ」,「白クマ」,「ミスターL」さらには「部長」の若いころの姿が見られて嬉しい(そうか?)。
 その他さまざまなシーンの裏話があれこれ読めて嬉しい。
 ドイツの古都エーベルバッハ市から作者に名誉賞が授与されたと聞いて嬉しい。
 『エロイカ』がドイツ連邦軍の広報誌『Y.(イプシロン)』で好評を博していると知って嬉しい。
 なんだか釈然としない番外編「ケルンの水 ラインの誘惑」が,作者にとっても釈然としない作品であったことがわかって嬉しい。
 大島弓子(!),おおやちき(!),樹村みのり(!)とのかなりキレた合作が掲載されていて嬉しい。


 だが,それら以上に,舞台となる国や都市の景観,建造物,美術品,歴史などの下調べに時間と手間をかける作者の生真面目さが嬉しい。
 何よりも何よりも,作者の作品にかける誠意がストレートに伝わってきて嬉しい。


「だが,いかに体制が変わろうと,人の心は容易に変わるものではない。彼らは,長い間敵として闘った大嫌いな男と協力せざるを得ない葛藤を抱えて,これからも任務に励むのだ。」
「大切なのは題材に対する敬意だ。漫画だからといって,いい加減な扱いは失礼だし自分の仕事を貶めることにもなる。題材に関連する資料をできるだけ多く集めて,間違いのない知識を得たい。そこから新たなアイデアも湧く。想像力を駆使して自分流の漫画を創作するのはそれからだ。手抜きのない基礎工事の上にこそ,堅牢な創作世界が構築できるのだ。」
「やはり小説家が加工した歴史より,歯を食いしばっても学者が調べた事実を読むほうが有益でアイデアも湧きやすい。」
「恐らく,結婚するまで私と同居していた姉も,妹が編集部との打ち合わせの帰り道に,江戸川橋の上で悔し涙にくれていたのを知らなかったはずだ。」


 『エロイカ』は,そのように描かれてきた。だから僕たちは心まかせて時間をゆだねることができるのかと思う。
 永遠なれ,と思う。

先頭 表紙

ふとamazon.co.jpで『エロイカ』を検索してみると,マーケットプレイスつまり古本が……10円,9円,7円,2円……い,1円。本業の古本屋さんの出品のようですが,1円でも販売したほうが儲かるのでしょうか。 / 烏丸 ( 2005-03-24 01:34 )
相前後して発売された『エロイカ』の31巻は,おおなんと素晴らしい,シリーズ初の番外編短編集です。冷戦後のストーリーの展開についていきかねた読者には一服の清涼剤となりそうな1冊です。このスキに,20巻あたりから読み直すもよいでしょう。 / 烏丸 ( 2005-03-24 01:30 )

2005-03-19 テレビについて,少しだけ

 
 テレビの本を取り上げたので,テレビそのものについて少しだけ。

 普段,テレビはほとんど見ない。
 見ていない者がそれを批評してもしようがないのだが,新聞のテレビ欄を見れば,民放各局がほとんど一日中いわゆる「バラエティ」を垂れ流している程度のことはわかる(最近は「報道」と「バラエティ」の区別さえ曖昧だ)。
 ああいった番組を一日中必要とする生活とは,いったいどのようなものなのか。荒涼,薄ら寒いとまで言っては言い過ぎだろうか。

 ライブドアによるニッポン放送株式取得,ひいてはフジテレビ支配の可能性について,「放送局は公共のものだからマネーゲームの対象とするのはいかがなものか」といった発言があったようだが──そのような公共のものを株式上場してしまったことの是非はさておき──その御仁は民放各局の番組表をご覧になったことがあるだろうか。
 あのラインナップなら,ライブドア堀江社長の趣味に任せても大同小異,五十歩百歩と思われるのだが。

 そのライブドアのおかげで(?),NHKの醜聞はすっかり影が薄れてしまった。
 ところが,話題の中心から席を譲ったにも関わらず,受信料の不払いは治まる気配を見せない。間もなく70万人にいたるとさえ言われるこの受信料不払いは,一部職員の不祥事,海老沢元会長ら経営陣への反感といったアクティブな要因から,すでに「よく考えれば受信料を払って職員を食わせてやってまで見るほどのものではないような気がする」といった実質を伴わない次元に移りつつあるようにも見える。
 だとするなら,今回のプロデューサーの不祥事が一段落しようが,経営陣の顔ぶれが刷新されようが,不払いの波は止められないことになる。

 不祥事といえば,「失言」扱いはされていないようだが,来年度のNHKの事業収入減についての「支出は減らしはするが,番組の質は低下させない」という橋本新会長の発言は実は大きな問題を孕んでいる。
 数十億円の収入減にもかかわらず番組の質が低下しないのなら,それはつまり数十億円が番組の質とは別のところに消えていることを示しているからだ。

 たとえば,NHKが2003年度に使用したタクシー代は,約43億円。
 海老沢会長ら役員,幹部はタクシーなどではなく専用車に運転手を用意されていたと想像されるから,これらタクシー代は職員が使った,ということである。NHKに職員が何人いるかは知らないが,何百万人もいるわけではないだろう。

 この金額を見ただけで,今回のプロデューサーの使い込みが特殊例ではないことが想像される。そうではないというのなら,43億円のタクシー代の使用目的をすべて明らかにすべきだ。
 電車を利用すべき通勤にタクシーを使用していないか。打ち合わせ,打ち上げ等と称して私的な飲食代を計上していないか。取材,福利厚生の名目で私事に経費が使われてはいないか。

 1億円の使い込みをチェックできない組織に,5万,10万,100万円の領収書のチェックができているはずがないと思われるのだが,如何。

先頭 表紙

地上波デジタルの場合,受信料未払い者は見られないようにすることが技術的には可能です。しかし,だとするとそれは単なる有料放送であって,NHKのもつ文字通りの公共性が喪われることになりません。また,未払いに対して罰則の導入を,という説もありますが,罰金は払っても受信料は払わないという判断もまた魅力的かも……。 / 烏丸 ( 2005-03-22 00:30 )
ヒット番組「プロジェクトX」はほとんど見ていなかったし、強いていえば教育テレビの「サイエンスZERO」くらいでしょうか、見ても良いと思うのは。受信料拒否は一人暮らしを始めた大学時代からですが、未だに支払の意義が認められず今に至っております。タクシー代なんか自分が出してやる必要なんかないだろー、とこれは実感ですね(^-^)。 / あめんほてっぷ ( 2005-03-19 13:46 )
そのNHKの携帯電話向けニュースが,17日から18日にかけて,「都内全域でJR各線の線路が炎上」「新宿駅が陥没した」などのニュースを誤配信していたそうです。炎上,陥没……テスト用データの誤配信だそうだけれど,誰だそんなテスト書いたの。 / 烏丸 ( 2005-03-19 03:29 )

2005-03-14 テレビマンの周到な言い訳? 『テレビの嘘を見破る』 今野 勉 / 新潮新書


【とくに制作者の言葉が,視聴者やその代弁者を任じる活字マスコミの人の心に届いていない,というのが私の実感でした。】

 読み通すという一点において,『テレビの嘘を見破る』は,軽い。読書ズレした読み手なら30分程度で読み終わってしまうかもしれない。
 だが,どうだろう,同じ新潮新書の某スーパーベストセラーなどに比べると,本書はよほど「知らなかった」ことに目を向けてくれる。それも,「問題があると知らなかったところに知識が至ることで,大きな問題が明らかになる」という,痛快な知的体験を味わうことができる。例証も豊富。お薦めだ。

 著者はもともと民放の演出・脚本家で,現在テレビマンユニオン取締役副会長,武蔵野美術大学映像学科教授。
 本書ではテレビにおける「やらせ」「捏造」と「忠実な再現」の間のグレーゾーンがいかに深く広いものかを,NHKのドキュメンタリー「奥ヒマラヤ 禁断の王国・ムスタン」についての「やらせ」報道など,さまざまな実例をもとに立証する。
 その例は盛り沢山で,帯に記された
  「幻の魚は,なぜ旅の最終日に釣れてしまうのか!?」
  「聞き手の頷きは後から加えるインタビュー」
  「帰路で車の向きを変え,往路を撮影する秘境紀行」
など,読めば思わずなるほどである。
 要するに,事件の現場にたまたま居合わせ,たまたまカメラを回してでもいない限り,なんらかのドキュメンタリーは,その事象の「再現」フィルムとなる。その際,その事象をより視聴者にわかりやすく「再現」しようとすることは,そもそもが「誇張」→「歪曲」→「捏造」と裏表だというのだ。

 ここ数年間に話題になったテレビの「やらせ」に対する非難について,著者はおおむね否定的で,その多くは従来,あるいは世界各国のテレビ局で「ドキュメンタリー」の手法として採られてきたものの範疇だと主張する。
 意地悪な見方をすれば,これは制作現場の言い訳に過ぎない。だが,一つひとつの実例を追うと,必ずしもそう言い切れなくなってしまうのが,本書の面白いところである。本書全体が一種思考のロールプレイとなっているからだ。

 結果的に本書は,著者の初期の目的にもかかわらず,「ドキュメンタリー」のあり方について,堅牢な結論を導くことには失敗してしまっている。それどころか,「ドキュメンタリー」という言葉の従来の定義すら放棄して,本書は終わる。

 豊富な実例によって構築された大きなクエスチョンマークのモザイク,それが本書の限界であり,同時に成果である,とでも言おうか。ともに考える側に立つべきか,「勝手にしろ」と投げ捨てるべきか。今はまだ結論が出せない。

先頭 表紙

2005-03-07 a centenary 『名短篇』 荒川洋治編集長 / 新潮社


【「新潮」百年の年表を眺めると,読みたいものが,次々に見つかる。楽しみだ。これからも百年に会える。】

 ここ十年二十年で有難みの薄れたものに,プロ野球の四番,大臣の肩書,芥川賞の価値がある。
 野球の首位打者や大物政治家はまだその世界内で多少は大切にされているようだが,芥川賞の地盤沈下は深刻だ。

 そもそも「文学で身を立てる」という考え方が今ではすっかり喪われてしまった。もちろん平成の現代だってベストセラー小説はある。だが,そこでは,作家の技量や生き様といった裏付けなど誰にも求められていない。極端な話,十台の若者が十冊二十冊本を読み,ちょっぴり風変わりなストーリーを書き上げれればそれで十分なのである。作者は美人か,何か話題付きならさらに言うことなし。映画かTVドラマの原作になってヒットすればそれで「あがり」である。それ以上をいったい誰が期待しているだろう。

 過去十数年の芥川賞受賞作家をほとんど知らない読書家は不勉強だろうか。誰が受賞するかとハラハラしたり,受賞作の掲載された文藝春秋を買いに走ったりする必要がまるで感じられない。『蹴りたい背中』や『蛇にピアス』を読んでいないことで何か問題はあるだろうか……?

 さて,『名短篇』は,「新潮創刊一〇〇周年記念 通巻一二〇〇号記念」と銘打ち,文芸誌「新潮」に掲載された過去の名品佳品を三十八篇選んで掲載したものである。

 その大半は「文学で身を立てる」ことにまだ大いに意義のあった時代の作品だ。作家名からして大変である。森鴎外,島崎藤村,荒畑寒村,志賀直哉,正宗白鳥,葛西善蔵,宇野浩二,徳田秋声……。文学史の教材でよく見かけたが,実作は一度も手にしたことのない小説家がわらりわらりと並んでいる。梅崎春生,椎名麟三,深沢七郎,安岡章太郎,色川武大あたりになるととぼけた味も加わってかなり現代的だ(梅崎の『幻化』なんて大好きだった。椎名,安岡は沢山読んだけれど,正直言ってよくわからなかった……)。

 古い作家の文章となると,当たり前のことかもしれないが,漢字の率が高い。

  富津行の荷物,其他上総通ひの客を載せて横浜を出発した帆船は実に快く走つた。

 これは藤村の「海岸」という作品の冒頭のなんということもない一節だが,実に漢字が多い。とくに現代と異なる言葉遣いでもないのに,何故だろう。
 そういえば,ファーストネームで呼称される作家とそうでない作家の違いも気になる。漱石,鴎外,藤村,白鳥はOKで,龍之介,直哉,健三郎はNG。時代の違いだけでもなさそうだ。

 本書には,三十八の短篇のほか,「名長篇──新潮が生んだ四十作」というコラムが織り込まれている。この顔ぶれがまた凄い。

  太宰治『斜陽』
  川端康成『みずうみ』『眠れる美女』
  檀一雄『火宅の人』
  三島由紀夫『金閣寺』『豊饒の海』
  伊藤整『氾濫』
  大江健三郎『遅れてきた青年』
  北杜夫『楡家の人々』
  井伏鱒二『黒い雨』
  吉行淳之介『夕暮れまで』
  ……

 これだけでやはり文学史の教材が組めてしまいそうだ。

 逆に,これだけの重みが現在の「新潮」誌にあるかと問えば,果たしてどうか。名短篇として選ばれた最も新しい作家は町田康。ところが新しいほうから二人目,三人目がもう瀬戸内寂聴,小川国夫である。続いて三浦哲郎,河野多恵子,大江健三郎。
 長篇も,小川洋子『博士の愛した数式』,水村美苗『本格小説』,村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』と今ふう路線の奮闘は否定しないが,いずれも単行本から話題になった印象で,「新潮」という雑誌のイメージは薄い。

 「新潮」一誌に限らない。これから,文学はただ希薄な,「ベストセラー」の中の一ジャンルになってしまうのか,それとも何か新しいものとして再生はあり得るのか。

 本書に掲載された作品の,のびやかで巧みな文章,一瞬で克明に人生を切り抜くような鉈の業に驚嘆しつつも,それが今後そのまま踏襲されるとはとても思えない。その当時と現代とでは,人の抱える荷物が違う。荷物に刻まれる時間の尺度が違う。だから,面白い,やっぱり凄い,と驚嘆しつつも,一晩に一作かそこらしか読むことができない。短篇なのに途中で投げ出してしまったものもある。

 もちろん,過去の名品を伝統工芸品のように扱うことが「文学」への正しい対処とは思えない。
 このあたりは,いつか……正面から考える日が来るだろうか。それとも。

 最後に。
 もう三十年ばかり昔のことになるが,本書の編者である荒川洋治先生に小品を褒めていただいたことがある。それも,絶賛と言ってよい評価だった。結局そちらの道には進まなかったが,今もその折りの先生の言葉は心のつっかえ棒の1本とさせていただいている。

 もう一つ。百周年で通巻一二〇〇号というのは,さりげない表記だが大変なことだ。
 戦時中も含めて,百年にわたり,一号も欠かさず毎月発行されたということだ。これがどれほどのことか……。試しに十年,通巻一二〇号ばかり継続してみればよい。

先頭 表紙

表紙の「欅に鸚哥図」は伊藤若冲の手によるものだそうだ。なんとも,いい。 / 烏丸 ( 2005-03-07 03:12 )

2005-02-28 fall in 『てんから』 かまたきみこ / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス


【少し田舎へ行きますが── 来てくれますね?】

 かまたきみこが,なぜ,「降りる」シーンにこれほどまでにこだわるのかはよくわからない。

 ベランダやバルコニー,橋の欄干など,高さを示す構造物が作品中にあふれ,多くの登場人物がその高みから「降りる」者として描かれる『クレメンテ紹介』
 あらゆる都市が海中に沈んだ時代,人類の思い出を求めて水底に潜るシーン満載の『深海蒐集人』

 そして初の短編集『てんから』は,文字どおり「天から」降る話である。
 何が,何故,降るのか。それをここで語ってしまうのは興覚めというものだろう。

 表題作のほか,IT産業の取締役兼開発室長が急死して,自身が開発したコンピュータ上のサイバー墓地(お墓参りソフト)に転生して,という話。
 観葉植物が人の会話を記憶することを盗聴に利用する諜報組織が,あるとき,という話。などなど。

 収録5作,奇想にあふれてはいるが,いずれも恋,もしくは恋のようなものの話である。
 ある思いはむくわれ,ある者はむくわれない。むくわれない物語が実のところハッピーエンドで,ハッピーエンドはアンハッピーエンドよりよほど寂しいものだったりもする。

 かまたきみこの作品の多くは,30年前なら「SF」という枠でもっとすっきり語られたかもしれない。奇想については「SF」であることで「そのようなもの」とスルーしてしまう。そして,たとえばあの当時多くのSFファンを魅了した「タンポポ娘」(ロバート・F・ヤング)のように,ただ切なさに打たれればよい。

 『てんから』に収録された作品たちは,「タンポポ娘」がそうであったように,作品として優れているかそうでないか以前に,ただ,はるかな高みから読み手を「恋」に突き落とす。
 そして多くの片恋がそうであるように,恋に落ちた者は,ただ,『てんから』を前に願うように祈るように,見つめ,待つしかない。


 「ええ3日おきですわ 愛されてますわね」

 ……収録作の1つ,「エンセル」の登場人物の言葉である。
 このようなセリフをこのようなシチュエーションでそっけなく語らせることができるのは,ほとんど神業といってよい。だとするなら,かまたきみこは,まぎれもなく創造の神に愛されているのだ。

先頭 表紙

2005-02-21 小学生向け科学マンガ誌の熾烈な争い 『かがくる』 vs. 『そーなんだ!』


 『クラシック・イン』のように,テーマやページ構成を限定した週刊誌あるいは隔週誌のことを「ワンテーママガジン」というそうです(ただし,この名称には,1冊ごとにテーマが異なる場合と,同一のテーマでシリーズ化される場合があり,必ずしも厳密な定義に基づくとはいえないようです)。

 それはともかく,A4サイズのワンテーママガジンの世界で,今年になってちょっとした熱いバトルが繰り広げられています。それは,小学生向け科学マンガ誌,『そーなんだ!』と後発の『かがくる』の覇権をめぐる争いです。

 『マンガでわかる不思議の科学 そーなんだ!』は,ワンテーママガジンの手法をビジネス的に確立したといわれるデアゴスティーニ社の週刊誌で,小学生高学年(おそらく)を対象に毎号6つの科学テーマをマンガで紹介するというもの。テレビ東京系列ではアニメ放映もされています。
 『そーなんだ!』は3年間ほど刊行されたのち,しばらく休止状態だったのですが,今年になって改訂版が発行され始めました。

 一方,『なんでもわかるビックリ科学誌 週刊かがくる』は,やはりワンテーママガジンを長年手がけてきた朝日新聞社の刊行で,A4変型オールカラー,本文32ページという体裁まで,『そーなんだ!』そっくりです。

 『そーなんだ!』(改訂版)と『かがくる』は今年の1月にほぼ同時に創刊され,定価はいずれも490円。ただし,『そーなんだ!』は創刊号特別定価100円(創刊2号は240円で付録に専用バインダー付き),『かがくる』は創刊号サービス定価240円となっています。
 創刊にあたっての値引き合戦ではデアゴスティーニが二歩ばかり先を行っている感じですが,肝心の内容はどうでしょう。……これはもう,申し訳ないけれど明らかに『かがくる』の負け! と感じました。

 先に書いたとおり,2誌の体裁はほぼ同じ,テーマや対象年齢もだいたい同じように見えます。
 しかし,『かがくる』は,いくつかの点で非常に読みづらく,我が家では早々に子供たちからも「次の号からいらない」とNGが出てしまいました。

 まず,『かがくる』では,マンガのキャラクターは登場はするのですが,コマ割りマンガとして読ませるつもりなのか,ただのグラビアの飾りなのかはっきりしません。見開きの写真やCGでグラビア的に説明しようとするページが少なくなく,それらはけっしてわかりやすいとはいえないのです。
 また,いかにも雑誌ふうに,大きなテーマ,小さなテーマにページが分かれているのですが(『そーなんだ!』は各号,各テーマの重み付けをまったく同じにしている),その是非は別として,よく読むとそれらのテーマがいずれもつまみ食いのレベルを出ず,要するに科学の話題として「なぜそうなるのか」が非常にわかりにくいのです。

 たとえば『かがくる』の創刊号では,タイムマシンという大ネタに6ページを費やしているのですが,どうやったら過去に戻れるかという一番気になる問題については「ワームホールをくぐれば過去へ行ける!」の一点張りで,これでは大人にもわけがわかりません(それなのに,タイムマシンの登場する映画や小説の紹介に1ページ割くのは無茶というものでしょう)。
 もちろん,タイムマシンの理論はたいへん難しいもので,小学生に理解させるのが困難なのはわかります。ただ,それならそのようなテーマは選ぶべきではなかったでしょうし,選ぶなら選ぶで,もっとほかに扱い方はあったはずです。

 もう1つ例を挙げましょう。『かがくる』創刊号の最後には「やってみよう!かがくるマジック」と称して「リンゴにささるふしぎなストロー」,つまりストローの口を親指でしっかりふさげばリンゴに突き刺さる,という現象が扱われています。しかし,ここでもその理由,理論の解説はあっさりしたもので,「子供向け科学誌ではそこがキモでしょう!?」と思われるところがなんだかおざなりなのです。

 『かがくる』の『そーなんだ!』に対するアドバンテージは,カラフルで綺麗な写真が少なからず使われていることがありますが,それでもチープな二線級マンガ家の手による『そーなんだ!』にまったくかなわない感じがするのは,『そーなんだ!』は決して読者を“子供扱い”せず,難しいテーマでも無骨なまでに理屈をゼロから説こうとしているからではないかと思います。
 そのため,『そーなんだ!』は時に大人が読んでも理解に苦労するような難しい内容が登場することもあります。しかし,それが科学の真実なのであり,写真やギャグでお茶を濁すよりは格段によいように思います。子供たちに本当に与えたいのは,わかったような気にさせる子供だましではないのですから。

 もちろん,『かがくる』はこれから内容,水準を調整,改善してくることでしょう。しかし,『そーなんだ!』は,3年ほど前の創刊時以来,不思議なほど品質が一定していること,つまり発刊前に相当にテーマや難易度を練り込んだフシがあることも付け加えておきたいと思います。

先頭 表紙

そのほか,『かがくる』では,「恐竜は絶滅していない」として恐竜から鳥への進化を取り扱っていますが,この論理展開も気になりました。「恐竜は滅びたんじゃなくて,鳥に姿を変えて生きているとも言えるね」というのは,いくらなんでも強引でしょう。 / 烏丸@恐竜の子孫?? ( 2005-02-21 03:03 )

2005-02-14 「棚をあけておけといったろ」「ぎゃぼーっ」 『CDつきマガジン クラシック・イン(全50巻)』 小学館


 薄手で大判,コーティングの綺麗なカラー印刷をウリにした雑誌には,以前から美術,歴史,旅行・建造物,科学・医学などさまざまなテーマのものがありました。
 最近小学館から発刊された『クラシック・イン』は12cm音楽CDつきの雑誌……というより,2週間に1枚,980円でクラシックのCDが発売されて,それにA4変型20ページのカラフルなブックレットがついてくる,そう言ったほうがわかりやすいでしょう。
 新聞日曜版の1面広告などでよく「魅惑のクラシック全集」とかいって通販されている,あれの隔週バラ売りです。

 全50巻の内容はこちらに紹介されています。
 全体的に宗教色の濃くない(もちろん時代的に宗教曲がないわけではありませんが,「レクイエム」とか「ミサ曲」といった曲名は表向き1曲もありません),また比較すれば若干近代寄りの選曲のように思われます。たとえばバッハやヘンデルはドヴォルザークやストラヴィンスキーより扱いが小さい,ガーシュウィンやロドリーゴがタイトルを飾っている号がある,など。
 とはいえ,従来のクラシック全集に比べて決して冒険的前衛的というわけでは決してなく,びっくりするような選曲は皆無。無難というか,オーソドックス,教科書的な選曲が大半です。

 指揮者,演奏家は,全体にそこはかとなくチープな印象が漂うのはやむを得ないとして,個々を見ればそれなりにメジャー。カラヤンとかバーンスタインとかはおりませんが,小澤征爾が2枚ありますし,千住真理子(Vn)や諏訪内晶子(Vn)など,日本の演奏家も何人か取りあげられていて,とくに昨秋家族でTVドラマを見たフジ子・ヘミング(P)は子供たちも楽しみにしています。

 ところで本シリーズ,ベートーヴェンが髪をふるわせて「なぜ創刊号に自分でなくモーツァルトが」と怒るTV CMが笑わせてくれますが,その創刊号にやや疑問が残ります。
 モーツァルトを選ぶのは安易ながら無理からぬところとは思います(ベートーヴェンでは重すぎるし,ヴィヴァルディでは迎合しすぎでしょう)。ただ,その選曲がバレンボイムのピアノ,指揮による
   ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K466
   ピアノ協奏曲第26番 ニ長調 K537「戴冠式」
   ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K331より 「トルコ行進曲」
となると,この手の「創刊号をキャンペーン価格で売りまくり,その勢いで50巻を押し切る」企画雑誌としては,地味に過ぎるのではないでしょうか(録音も1967年,1974年,1984年とやや古くてくすんだ印象。音のクリアさだけを比較すれば,創刊2号のヴィヴァルディのほうがずっとよいように感じられました。チョン・キョンファはそのあたり厳しそうだものな……)。
 モーツァルトは全50巻のうち5巻を占め,企画側が力を入れているのはわかるのですが,その選曲は広く浅くでもなければ深く重くでもなく,なんだか焦点がよくわかりません。

 いずれにしても,『のだめカンタービレ』で重度の“突発性クラシックでも聴いてみようか症候群”に感染した患者の皆さん(俺だ!)にはオススメ。ご一緒に2年間,つまみ食いはいかがでしょう。

先頭 表紙

うーみゅ。「時計じかけ・・・」は、活字でしか知らないのです。あれをどう映像化したのか、見るのが怖くて(‥;) / Hikaru ( 2005-02-22 21:33 )
同じキューブリックでは,「時計じかけのオレンジ」のベートーヴェンも忘れがたいです :-) / 烏丸 ( 2005-02-21 02:52 )
17,23,27あたりは、ちと心引かれますな。(‥ ) 32,34もなかなか... ツァラトゥストラは、美しき青きドナウと組み合わせて欲しいと思うのは、偏ってますか? / Hikaru ( 2005-02-21 00:24 )

2005-02-07 〔短評〕最近の新刊から 『おうちがいちばん(1)』 秋月りす / 竹書房


 どうしちゃったの,というレベル。

 前作『かしましハウス』も実のところ連載開始当初は各キャラクターの味付けが安定せず,手放しで笑えるようになったのは3巻か4巻めあたりからだった。それに比べて,本作はそもそも登場人物に味付けをしようという意志,推理小説でいえば「伏線」にあたる設定すら用意されていない印象。

 1巻を読み終わった時点で,たとえば夫は優しいのかだらしないのか? 有能なのか無能なのか? 趣味,嗜好は? などなど,まるで思い出せない。主人公たる妻のほうも,育児と勤めを両立するしっかり者なのか『OL進化論』のじゅんちゃんの如きうっかり者なのか,印象が散漫だ。主人公夫婦にしてこれなのだから,ほかの登場人物は推してはかるべしである。

 4コマギャグというものは──と大上段に構えるつもりもないが──登場人物に対して,ある程度の毒の調合は必要だろう。作者の仕向けた毒に耐性をもった登場人物たちが,バイタリティあふれる言動で読み手の予想を覆してみせる,たとえばそういう構造が必要なのだ。テレビのバラエティ番組でもそうだが,「ほのぼの」で笑いをとるというのは,非常にデリケートな毒の処方を必要とする高等技術なのだ。

 一見かわいらしくほのぼのした絵柄ではあるが,秋月りすの魅力は意外なまでに毒のきいた味付けだったように思う。帯の惹句にある「子育てに仕事にバリバリ頑張る元気ママ応援します」などという評価は秋月りすの魅力からもっとも遠いものだったのではないか。

 2巻以降の巻き返しに期待。

先頭 表紙

『おうちがいちばん』は,設定の似た『ミドリさん あねさんBEAT!』と比べるとエッジの甘さがよくわかるような気がします。それから,この人は,ほかの世代に比べると子供(幼児)の対象化がヘタですね(と書いて,ふと森下裕美は全世代を幼児として描いてしまうなぁと思ってみたり)。 / 烏丸 ( 2005-02-09 01:49 )
↓ それ,いいですね。竹書房はけっこうハイブリッドな単行本を出してくれるところなので,期待したいですね。 / 烏丸 ( 2005-02-09 01:44 )
「中年ポルカ」と「中間管理職刑事」を合わせて単行本化してくれないかなぁ・・と思ってますが、会社違うから無理かな。 / けろりん ( 2005-02-08 00:05 )
かしましハウス時代は「まんがライフオリジナル」を買ってたんですが、「おうちがいちばん」になってから数号で買うのをやめてしまいました。なんというか誰にも感情移入出来ない中途半端さを感じてしまって。なのでめずらしくこれは単行本買ってませんです。 / けろりん ( 2005-02-07 23:59 )

2005-01-31 〔短評〕最近の新刊から 『燕京伶人抄』 皇なつき / 潮漫画文庫


 角川書店から単行本として発行された『燕京伶人抄』(1996年),『燕京伶人抄[弐]女兒情』(1997年)の合本,文庫化。

 「燕京」は北京の古名,雅名で,周代にその地に燕の都があったことに由来するそうだ(わざわざ「燕京」と表記しておいて「ペキンれいじんしょう」と読ませるのは少し妙な感じだが)。

 美男美女の笑顔泣き顔拗ねた顔を描く作者の描画は豪華絢爛,随所に挿入されるルビ付き中国語のかもし出す異国情緒とあいまって,こと描画に関しては世評も高い。

 ところで,この1冊には,3つの「作品内時間」が流れている。
 1つはこの作品の舞台となっている北京の1920年代。1つは,そこで主人公たちがかかわる「京劇」の中で流れる時間。そして残る1つが,この作品が描かれた「現在」。

 気になるのは最後の「現在」で,いかに1920年代の北京の人々を描こうとも,結局は現在の作者の生活や目線が反映されるのが当然の理。テレビの時代劇が,服装や住居に時代考証を重ねたあげく,台詞や言動はとことん現代人のそれになってしまうのと同様だ。

 ところが,『燕京伶人抄』に描かれた若者たちの考え方,言動は往々にしておよそ現代的でなく,あまりの古めかしさにしばしば絶句させられる。
 ざっと台詞を抜粋しても,以下のとおり。

  「これまでもずっと待ってきたわ でも 希望が見つかれば待つのはもうつらくない…」
  「大事なあなたのために ご両親が見つけてくださったお相手でしょう?」
  「私が求めて止まないものをこんなにもはっきりと与えてくれたのは… あなただけだわ…」

 (最近は何をしているのかよくわからない)フェミニスト運動家が聞いたら髪の毛を逆立てそうだが,結局のところ作者はこのような生き方を容認しているのか,それとも徹底して作品の向こうに姿を隠しているのか,そこのところがよくわからない。

 つまるところ,おそろしく労力をかけた美麗な「ぬり絵」,絢爛なお人形さんの印象はぬぐえず,この作者は自分の描く登場人物に人間としての尊厳を付与するつもりなどハナからないのだろう。
 実際,第一話「鳳凰乱舞」の如山,第二話「愁雨歳月」の如海など,そのお馬鹿さ加減は思わず目を覆いたくなるほどで,これをみても,作者にとって,美麗な男女さえ描ければ,彼らの人格などどうでもよいということか。

先頭 表紙

2005-01-23 〔短評〕最近の新刊から 『蟲師(5)』 漆原友紀 / 講談社アフタヌーンKC


 昨秋の発刊であり,コミックで「新刊」というには少し間があいてしまったが──。

 動物でもなく,植物でもなく,生物であるかすら疑わしい──それら異形の一群,「蟲」。
 主人公はこの「蟲」を呼び寄せてしまう体質ゆえ定住できず,蟲封じを生業として里や山あるいは海辺の村を放浪する。

 設定は魅力的だし,細い線や点を丁寧に描き込んだ画風も悪くないのだが──なぜか没頭できない。
 最近1巻から通読して気がついた。リアリティに欠けるのだ。いや,妖怪めいた蟲や光脈が潜在することが科学的でない,というのではない。時代も国も明らかでない世界,多くの人々が和服なのに,蟲師ばかりが洋服姿なのは時代設定的に如何,とかいうことでもない。むしろこれらについては違和感なく読めて身になじむ。
 問題は,蟲たちの多くは人の里に災厄を持ち込むが,その大半が致命的でないことなのだ。そんなはずはない。蟲たちは人に寄生しているわけではない。人と全く違う次元で,違うエネルギーを求め,ただ存続しようとするだけである。
 なら,蟲たちが顕在化したとき,もっと惨事が多発して不思議はないのだ。

 しかし,大概の物語では,人々は少しばかり停滞を被る程度で,それも主人公ギンコの処方で現状維持に終わる。作中で死ぬ人間は人の側の事情で死ぬのであり,悲劇はたとえば人に擬態する蟲が人を駆逐するためでなく,その擬態した蟲たちが駆逐されることで起こる。

 いってしまえば,人の側の安全度が高すぎるのだ。
 村人の大半が血へどを吐いて死に絶える,里の大半が迷い出て二度と戻ってこない,そういった現象の比率がもっと高くないと不自然なのである。

 そんな事態を,あるいはそんな事態になすすべもない主人公を同じ淡々とした筆遣いで描けるなら──。


 なお,昨秋には同じ著者の初期作品集『フィラメント』が発刊されている。短編「岬でバスを降りた人」など一部を別として,総体にまだ習作レベルのように思われた。

先頭 表紙

初期の作品は「ファンロード」掲載だそうです。はー。 / 烏丸 ( 2005-01-23 02:01 )
ザコキャラ(キャラでさえないけど)としてよく登場して,ペシっとつぶされて消える蟲たちの姿って,ムーミンのニョロニョロに似ていると思わないでもない今日このごろ。 / 烏丸 ( 2005-01-23 01:59 )

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