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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-03-01 悠揚として迫らず、泰然として自在 『若さま侍捕物手帖(1)(2)』 城 昌幸 / ランダムハウス講談社 時代小説文庫
2009-02-24 怪物たちに酩酊する 『ヒストリエ(5)』 岩明 均 / 講談社 アフタヌーンKC
2009-02-22 追想のアンドレ・ブルトン その三
2009-02-18 追想のアンドレ・ブルトン その二
2009-02-17 追想のアンドレ・ブルトン その一
2009-01-20 翻訳の難しさ 『高慢と偏見』 ジェーン・オースティン、富田 彬 訳 / 岩波文庫、『自負と偏見』 オースティン、中野好夫 訳 / 新潮文庫
2008-11-17 「退屈な話」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」ほか ──アントン・チェーホフ
2008-11-04 名探偵、結末の後も霧の中 『僕を殺した女』 北川歩実 / 新潮文庫
2008-10-20 名探偵、だかなんだかわからない 『未明の悪夢』『恋霊館事件』『赫い月照』 谺 健二 / 光文社文庫
2008-10-14 名探偵の英才パズル塾 『千葉千波の事件日記 試験に出るパズル』ほか 高田崇史 / 講談社文庫


2009-03-01 悠揚として迫らず、泰然として自在 『若さま侍捕物手帖(1)(2)』 城 昌幸 / ランダムハウス講談社 時代小説文庫


【ハッハハハ!】

 「出来」と書いて「しゅったい」と読むことがあります。
 その意味の一つには、何か事件が起こること。岡本綺堂の『半七捕物帳』など読んでいると、ときに「その繁昌の最中に一つの事件が出来しました」といった味わい深い口運びが現れて楽しませてくれます。
 「出来」のもう一方の意味は、何かができ上がること。最近はめったにお目にかからなくなりましたが、出版物の広告に「増刷出来!」などとあるのがそれです。
 今回は『若さま侍捕物手帖』出来! のお話です。

 先に取り上げた『半七捕物帳』、佐々木味津三『右門捕物帖』(むっつり右門)、そして野村胡堂『銭形平次捕物控』、この三作を並び称して「三大捕物帳」と言います。ボリュームにおいてやや見劣りする『右門捕物帖』の代わりに横溝正史『人形佐七捕物帳』を推すこともあるようです。
 最近では、上記四作に城昌幸『若さま侍捕物手帖』を加えて「五大捕物帳」とすることが多くなっているようです。
 しかし、最初の四作がそれぞれ文庫や全集で再版が重ねられているのに比べ、どういうわけか若さま侍シリーズは不遇をかこってきました。

 『若さま侍捕物手帖』は1980年代半ばに春陽文庫から『双色渦巻』『五月雨ごろし』『人化け狸』『天を行く女』『虚無僧変化』の長短篇集が発行ないし再販されましたが、いずれも現在では新刊としては入手不可。1990年に光文社文庫から長編『百鬼夜行』の上下巻が出ましたが、これも品切れ。その後2003年に中公文庫と光文社文庫から相次いで傑作短篇集が発行され、これらは現在でも入手できますが……昭和14年(1939年)に「週刊朝日」誌上に「舞扇三十一文字」で登場して以来、30有余年にわたって書き続けられた人気シリーズが、ジュンク堂池袋本店を上から下まで探しても文庫本2冊しか手に入らない! というまことに侘しいありさまがここしばらくずうっと続いていたのです。

 ──理由はわかりません。捕物帳という内容が古臭い、ということではないでしょう。本を読む世代が高齢化したことや、NHK大河ドラマの久々のヒットによるものか、書店では時代小説の平積みが目立ちます。また『若さま侍捕物手帖』の語り口は、昨今発表されたと言われても違和感がないくらい切れ味がよく、スピーディかつクールです。

 と、苛々を募らせてきた若さまファンにとって、昨年、今年は盆と正月がいっぺんに来たような(…古っ…)目出度くも有り難い文庫の発刊が続いています。まさに「出来!」です。
 
  『若さま侍捕物手帖』(徳間文庫 中編「紅鶴屋敷」「五月雨ごろし」収録)
  『人魚鬼−若さま侍捕物手帖』(徳間文庫 長編)
  『若さま侍捕物手帖』(1)(2)(ランダムハウス講談社時代小説文庫 傑作短篇集)

 両社ともこの後も続刊を予定しているとのこと。もちろん、これでも、著者曰く「短篇だけで二百五十篇(中略)、或は、三百に近いかもしれない」、ほかに中・長編が約二十篇とあのWikipediaでさえ全体像をまとめきれない膨大な若さまシリーズの、まだ本当にごく一部にすぎませんが、それでも一昨年までの旱魃状態に比べれば夢のような恵みの雨です。

 さて、『若さま侍捕物手帖』の主人公「若さま」とはいったい何者なのでしょうか。作品中では最後まで氏素性は明らかにされません。幕府の大物と知遇があるなど、随所になにやら高貴な身分であることが暗示されているのですが……(捕物帳と称される時代小説では、通常主人公は同心、目明し、御用聞きのいずれかですが、若さまはそのいずれにも属しません)。

 江戸は柳橋、船宿「喜仙」の居候にして、いつもは「床柱に軽く背をもたせかけて右の立膝、前に徳利を乗せた黒塗り高脚の膳部を控え、楽しそうにちびりちびりと盃をあげ」、この「喜仙」の一人娘で明けて十九になった「おいと」のお酌を相手に無駄話。そこに御用聞きの遠州屋小吉が不可解な事件を持ち込んで……というのが毎度おなじみのパターン。
 若さまはどこまで本気やら、小吉の話に「ハッハッハ!」と笑って春は花見、冬は雪見にごろりと寝そべり、気が向けば「どれ」と出かけて、いつの間にやら快刀乱麻、事件は解決してしまいます。

 添付の画像ではなにやらお侍たちが切り結んでいますが、若さまはこんな無粋なことは決していたしません。「酒は灘の……」とふらつきながら、
 「若さま、どちらまで?」
 「ぶらぶら」
 「な、なにやつ!」
 「物好き」
 「お武家様、どうしてここへ…」
 「見物」
そのくせ、剣の達者な悪人が背後から切り込もうにもすきがなく、ただもう
 「ハッハッハ!」

 バロネス・オルツィ作『隅の老人』に想を得たというアームチェア・ディテクティブかと思えば、長編では東海道、中仙道とすたすた長旅に出ることいとわず、巨悪、こそ泥、怪談まがいとあらゆる難事件を解決して爽快です。

 作者城昌幸は城左門の名で詩人としても知られる人物。日夏耿之介主催の「奢霸都(サバト)」に参画したというのですからこれはハイカラです。
 『若さま侍捕物手帖』は「痛快」とか「春風駘蕩」とかよく評されますが、同じ「痛快」「春風駘蕩」でも山手樹一郎などとまた味わいが違うのは、詩人として磨かれた言葉に対する細やかなセンス、あるいは西欧文学への趣味嗜好が背景にあってではないかと推われます。説明に走らず、無駄を切り捨てたショートセンテンスで「こく」より「きれ」を重視し、濁りのない、颯爽とした作風を最後まで保ちました。

 続刊は3月の初旬。ひとつ若さまを気取って黒の着流し、ふところ手でぶらりと本屋をのぞいてみましょうか。
 「ハッハハハ!」

先頭 表紙

2009-02-24 怪物たちに酩酊する 『ヒストリエ(5)』 岩明 均 / 講談社 アフタヌーンKC


【すまんな エウメネス】

 岩明均『ヒストリエ』の新刊。

 酔った。まっすぐに歩けない。

 3巻、4巻が最初の2巻に比べるとやや冗漫な印象で、さほど期待せずに読み始めたのだが、全ページ岩明テイスト炸裂だ。
 電車の中で読み始めて一巡、途中下車してコーヒーを飲みながらもう一巡。クールダウンにほかの本を少し読んだあと、もう一巡。だめだ。寝る前に1巻から通して読み返そう。

 主人公をはじめ、登場人物の唇を表す :-) あるいは :-( といった表情の線一本一本に青白い幽気がこもっている。
 涙を誘うウェットな場面と岩明得意のカラクリに対する興趣を描いたシーンが同じ重さで屹立する。「そうか そりゃよかった」「さようなら 兄さん……」といった他愛ないセリフが強い。
 殺陣は理と利にかない、権力は黒く、笑いは白い。

 『ヒストリエ』はマケドニア、アレキサンダー大王の書記官エウメネスを主人公として古代地中海世界の歴史を描く作品とのことだが、違う。そうではない。『ヒストリエ』が描かれる現在(いま)が歴史なのだ。

 「ヘビ」ね。「ヘビ」か。

先頭 表紙

2009-02-22 追想のアンドレ・ブルトン その三


「アンドレ・ブルトン集成」は完結に至りませんでしたが、収録を予定された作品のうち、『狂気の愛』は思潮社から(のちに『カラマーゾフの兄弟』をベストセラーに仕立て上げた光文社古典新訳文庫にも収録)、『秘法十七』は晶文社、のちに人文書院から、『シュルレアリスムと絵画』は人文書院から、『魔術的芸術』は河出書房新社から(普及版と完全版あり。完全版は29,400円…)、『黒いユーモア選集』は国文社から(のちに河出文庫に収録)、という具合にそれぞれ発行され、ブルトンの著作のかなりの部分が翻訳本として読むことができるようになりました。
もっとも、肝心の「アンドレ・ブルトン集成」の既刊6巻は今や絶版で、いずれにせよブルトンの著作を日本語でそろえるのはやはり非常に困難な作業となっています。

さて、アンドレ・ブルトンの作品ですが、これがいずれも難しい。アンドレ・ブルトン本人が「くねくねと蛇行する、頭がへんになりそうな文章」(シュルレアリスム宣言)と評したとおり、長い針金をくしゃくしゃにからませたような、ごく当たり前のことを書くのにもわざとややこしくしているかのような表記が並びます。

パリで出会ったエキセントリックな女性をシュルレアリスムの顕在化とみなして自らの情動をさらけ出す『ナジャ』など実はまだわかりやすいほう。続く『狂気の愛』にいたっては光文社古典新訳文庫の続刊案内に「過去の邦訳では通読不可能と言われてきた」と紹介されるほどです。『狂気の愛』は訳者によれば
  表記が波乱に富み、破綻に満ち、論理的な文章のはずが、いつの間にか燦爛するイマージュの詩的言語にすり替わっていたりする
書物なのだそうです。「通読不可能」で「破綻に満ち」。困ってしまいますね。

アンドレ・ブルトンの著作から有名どころをいくつか抜き出してみましょう。

  生きること、生きるのをやめることは、想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。(シュルレアリスム宣言)
  美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。(ナジャ)
  愛のどんな敵も、愛がみずから讃える炉で溶解する。(狂気の愛)
  眼は野生の状態で存在する。(シュルレアリスムと絵画)
  この自由、そのために火そのものが人間と化したのだ。(サド侯爵について)

それぞれ何を表しているのか、などと問われても困ります。アンドレ・ブルトンを(日本語で)読むということは、とにかくこういうことなのです。

こうしたアンドレ・ブルトンの作品を七転八倒して読み切ったところで振り返ると、実は、案外他愛ない発見や、無理やりなこじつけの山? と思われることもないわけではありません。
通常のセンスをもって冷静にアンドレ・ブルトンの主張、作品を評価すると、少なくともさまざまな価値観がさらに変遷、崩壊した現代から見て、低い評価をする方がいても、それは仕方ないのかもしれません。

しかしそれでも、アンドレ・ブルトンは魅力的です。
批評の目と時代が洗っても、流しても、それでも胸踊り、ときめくものが水の底にさりさりと残るのです。雲のようにむくむくと湧き上がるのです。
それは、彼が一見机上の「批評の人」「選択の人」に見えながら、実はあくまで創作という「行為の人」だったからではないかという気がします。彼は眺める人ではなく、最初から最後まで同じ角度で高みに至ろうとした人でした。
だから、彼の作品は、(あれほど読むにあたって難解、晦渋であるにもかかわらず)何か新しいものを書こうとする者に元気を与えるのです。

最後に。
初代ウルトラマンに登場する四次元怪獣ブルトンの名称はアンドレ・ブルトンに由来し、その存在、その攻撃が超常的だったのは多分に「シュルレアリスム」を意識したものだったそうです。ウルトラマンには三面怪人ダダという宇宙人も登場しました。粋な脚本家もいたものですね。

ブルトンについてはまたいつか。

先頭 表紙

この拙文は、昨年の秋、とうとう『シュルレアリスムと絵画』をえいやっと買って(お値段は女房にはナイショ)、久しぶりにシュルレアリスム関連の本をばたばためくり返したときに勢いで書いたもの。ジュリアン・グラックを読んでみたり、ちょっと30年前の自分に戻った気分です。 / 烏丸 ( 2009-02-22 03:29 )

2009-02-18 追想のアンドレ・ブルトン その二


アンドレ・ブルトンは、中高い、押しの強そうな顔をしていました。ハンサムな白クマのイメージです。

シュルレアリスムはマン・レイという恰好のカメラマンを得て、そのおかげでメンバーのさまざまな(すごくかっこいい!)写真が多数遺されているのですが、どの写真をみても、ブルトンの顔はすぐわかります。最初から最後まで、「シュルレアリスムの法王」として君臨し得たのは、エリュアールでもアラゴンでもスーポーでもなく、ブルトンでしかあり得なかった、それはもうしょうがないと思わせる、他を圧倒する風貌です。
道ですれ違ってもカラヤンやオザワはすぐわかる、そんな感覚。

そのように、モッブ写真を撮ってもすぐ目立つブルトンは、その独裁性、傲慢さでも知られており、シュルレアリスムというあまり科学的とは言いがたい運動に生涯を捧げた面と、単なるパリのジャイアンという面を併せ持ち、評価もあい半ば……というより、昨今ではあまり話題にされません。マルクス、エンゲルスやサルトルだって以前ほどには目にしませんが、それにしても「シュール」という言葉の蔓延度合いに比べると、その提唱者としてはまったく忘れられているに近い印象です。

そのせいか、アンドレ・ブルトンについては、日本では完結した「全集」もありません。もともと「作家」というより「運動家」の要素の高い人物だったせいでもあるのでしょうが、その「読まれなさ」は不思議なほどです。

もちろん、「全集」にあたるものを出版しようという機運もなかったわけではありません。人文書院による「アンドレ・ブルトン集成」がそれです。B6版の小さな版型、黒い箱にグレイのカバー、本の表紙は濃いグレイの布張りという非常にシックな造り。全12巻の構想で1970年代にぽつりぽつりと発刊されたのですが、半分の6巻分まで発刊されたところで沙汰やみになってしまいました。
以下が人文書院「アンドレ・ブルトン集成」の内容で、○印が実際に発行されたものです。

  ○第 1巻 ナジャ/通底器
   第 2巻 狂気の愛/秘法十七
  ○第 3巻 詩篇 I
  ○第 4巻 詩篇 II
  ○第 5巻 シュルレアリスム宣言集ほか
  ○第 6巻 失われた足跡/黎明
  ○第 7巻 野をひらく鍵
   第 8巻 シュルレアリスムと絵画
   第 9巻 魔術的芸術ほか
   第10巻 黒いユーモア選集
   第11巻 対談集
   第12巻 政治・芸術論集

もう少し続きます。

先頭 表紙

写真のタイプライターに向かって何か打っているのがシモーヌ・ブルトン(ブルトンの妻)、顎に手をやってそれを見ているのがアンドレ・ブルトン。右下で右手を開いているのははロベール・デスノスかな? 右後ろのキリコがいい味出してます。 / 烏丸 ( 2009-02-22 02:54 )

2009-02-17 追想のアンドレ・ブルトン その一


ウィキペディアふうに記すなら、
《この「アンドレ・ブルトン」は、フランス文学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています》
といったところでしょうか。
だらだらした文章ですが、お時間のある方はご笑覧ください。

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1970年代の日本で、シュルレアリスムという文芸思潮がブームになったことがありました。
ブームといっても、パンダやユリ・ゲラーや紅茶キノコに比べればささやかなもので、せいぜい書店の海外文学の棚にコーナーが設けられる程度のものではあったのですが。
最近になって文庫化された(誰が読むのだか想像もできない)シュルレアリスム関連の書籍には、その当時に出版されたものが少なくありません。

シュルレアリスムというと、一般に、ダリの絵のようなわけのわからない絵画作品をイメージされる方が多いのではないかと思います。もともとは第一次世界大戦の後、ダダという従来の芸術や価値をとことん壊しちゃいましょうというムーブメントがあり、それに次いで現れたものでした。

ダダにおいては、たとえば音楽でいえば、帽子の中に五線譜に書いた♪をちぎって入れておき、無作為に取り出して、それを順番に演奏する、といったパフォーマンスがなされたそうです。作曲するという行為からとことん意味や意識を剥ぎ取ってしまおう、という考え方ですね(ちなみに、説明のために持ち出しましたが、ダダ、シュルレアリスムともに「音楽」にはほとんど敬意を払っていません)。

ダダはルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラ(1896-1963)らが発案したと言われていますが、なにしろやることが無茶苦茶なので、歴史的な意義はともかく、素晴らしい作品が残されているわけではありません(ツァラの詩も、フランス名詩選に選ばれるといった形での評価はされていません)。
近代兵器による世界大戦によってそれまでの世の中のいろいろなルールが崩壊した時代に、芸術の分野でもリセットボタンが押された──と、そう考えれば、興味を持ちやすいのではないかと思います。

さて、後発のシュルレアリスムは、「なんでもご破算」のダダに比べると、フロイトのいう無意識から言葉を繰り出したらどうなる? とか、無関係なものを結びつけたらその効果は? など、もう少し意図、志向性のあるものでしたし、また過去のあらゆる芸術作品からシュルレアリスム的なものを見出しては評価する、という体系的な面も持ち合わせた運動でした。

その目指すところを無理くりざっくりまとめると、「既存概念や理性にとらわれず、思考を自由に解き放つことによって、現実に内在する『より高い次元の現実(超現実)』を再発見し、新しい真の人生を達成する」、といったものとなるようです。ここだけ読むと、どこかの新興宗教の教義のようですね。
とまれシュルレアリストたちは、そのために、たとえば、意識下の赴くまま高速にペンを走らせる「自動記述(オートマティスム)」、事物の意外で唐突な出会いによる効果「デペイズマン」、造形美術上の手法である「コラージュ」「フロッタージュ」「デカルコマニー」などを発見、考案し、実践していくことになります。

シュルレアリスムは、アンドレ・ブルトン(1896-1966)という人物が中心となって提唱、推進したものです。この人は言うならば相撲協会理事長と横綱審議会と大関(うーん、横綱ではないんですね)を一人でやっちゃうような人で、パリで「シュルレアリスム宣言」という文章をぶち上げてシュルレアリスムを定義する、率先して実践(詩作など)もしてみせる、シュルレアリスムを広めるために徒党は組むけれど、ともかくメンバーも自分で選ぶ、首を切る。「君は以前はしっかりシュルレアリストだったのに、近頃はちっともシュルレアリストじゃないっ!」、シュルレアリスムの法王と呼ばれた所以です。

逆に、彼の著書において「この作品ときたらそれはもうとってもシュルレアリスム!」と評されたものは、作者にそんなつもりがなくてもシュルレアリストの作品として再評価されることになります。
たとえばロートレアモン伯爵(イジドール・デュカス)の『マルドロールの歌』という難解な作品は、その「ミシンと洋傘の手術台の上での不意の出会いのように美しい」というデペイズマンな一節がシュルレアリスムの精神を体現したものとして当時シュルレアリストたちにもてはやされました。しかし、デュカス本人は1870年、つまりブルトンたちが生まれるより前に亡くなっていますから、当然ながらシュルレアリスムなんて運動を知っていたはずないんです。

シュルレアリストたちに「発掘」され、祭り上げられたロートレアモン伯爵など実はまだマシなほうで、『シュルレアリスム宣言』には次のような一節さえあります。

  それぞれの成果を表面的に見るだけならば、ダンテや、全盛期のシェイクスピアをはじめとして、かなりの数の詩人たちがシュルレアリストとみなされうるだろう。

おやおや。

アンドレ・ブルトンらは、こんな具合に、過去の文学、絵画作品からどんどんシュルレアリスムのイメージを見つけ出し、いわば架空船団を組んで世の中に高らかに宣言し続けたのです。

この項、続きます。

先頭 表紙

2009-01-20 翻訳の難しさ 『高慢と偏見』 ジェーン・オースティン、富田 彬 訳 / 岩波文庫、『自負と偏見』 オースティン、中野好夫 訳 / 新潮文庫


【独りもので、金があるといえば……】

 トーマス・マンの『魔の山』同様、いや、それ以上に一生縁がないと思っていたオースティンの『高慢と偏見』だが、この年末、ふと手に取り、風呂や新幹線の中でぱらぱらめくっているうちに気がついたら読み切ってしまっていた。いつかはこんなふうに『失われた時を求めて』を読みたいと思う日が訪れるのだろうか。まさか、ね。……いや、人生何が起こるかわからない。

 さて、『高慢と偏見』、あるいは『自負と偏見』(原題 Pride and Prejudice)というのは……。
 今から200年ほど前に書かれた、イギリスの片田舎を舞台に、ベネット家の次女エリザベスが資産家のダーシー氏と出逢い、舞踏会、散歩、旅行、誤解が生じ、誤解が解け、紆余曲折の末にめでたく結婚する、それだけといえばそれだけの話だ。
 ハリウッド映画のように急展開やどんでん返しがあるわけではない。人間の存在について深くえぐるとかそういうものでもない。だが、確かに、不思議と面白い。眠れなくなるほどではないが、ページをくるうち静かにたっぷりと章が進んでいく。ときどきページをめくり返して人物の紹介や小さな事件、主人公の観察の意味を確認し、また読み進む。すると、作者の周到な用意に驚かされる。誰それが後半でこうなることは、ここですでに予見されていたのか! 誰それのここでの困惑が後半のあのシーンにつながるとは! などなど。面白さにはちゃんと理由がある。
 作者は本当に頭のよい人だったようだ。

 岩波文庫版は1983年発行(90年代に改版)とわりあい最近の翻訳なのだが、全体に英文直訳調で堅苦しい。たとえば
 「貴下と私の亡父との間につづいていた不和は、ひどく私を不安にしました」
とかいった按配。
 新潮文庫版の翻訳が評価も高いようなので、岩波文庫版を読み終えてすぐ新潮文庫版を手に入れて読んでみる。
 先ほどの同じところが、新潮文庫版だと
 「貴殿および小生亡父との間に生じていました不和につきましては、多年小生心痛の種でありました」
と、なるほどこちらは(手紙だからと意図的に大げさな言葉遣いが用いられているものの)流れとしてはスムーズで読みやすい。

 ただ、岩波文庫版より新潮文庫版のほうがすべてにおいてまさっているかといえば、やはり一概にそうでもないから悩ましい。

 英文直訳調だからこそ伝わるものもある。先に引用したのはコリンズ氏なる人物がベネット家にあてた手紙の冒頭の一節なのだが、彼の慇懃な物言い(=早い話がおべんちゃら)に対する作者の皮肉、手厳しさは岩波文庫のほうが格段にわかりやすい。新潮文庫版では一つひとつの表現が読みやすいだけ、コリンズ氏やキャサリン夫人ら敵役の言動がすんなり流れてしまい、その分作者のまぶした毒粉の苦さが残らないのだ。

 また、心のうちに恋慕を秘めた若い男女の会話、これがなかなかよろしくない。
 岩波文庫版はあまりにも堅苦しいし、新潮文庫版では文末の「ねえ」の多用が気になる。

 1813年に発表された作品とはいえ、オーソドックスな英文、ストーリーや単語も日常的なものだけに翻訳はさほど難しくないだろうに、と考えてしまうのが素人の浅はかさ。岩波文庫版、新潮文庫版を(とくに細部を比較しようなどという意図なしに)続けて読んだだけで、翻訳という作業、選択の難しさがしのばれる。

 たとえば……。

 物語の後日譚として、エリザベスの父親が、先のコリンズ氏に思いっきり嫌味な手紙を送る一節がある。「(娘のエリザベスとダーシー氏の結婚に反対した)キャサリン夫人をできるだけ慰めてあげてほしい、もっとも自分ならキャサリン夫人より甥のダーシー氏の肩を持つだろう」と記して手紙を〆るのだが、その理由が岩波文庫版では
 「甥の方がたんまりくれますもの──」
 ……どうもピンとこない。ダーシー氏がいかに金持ちであっても、結婚相手の父親に「くれる」ものだろうか?
 新潮文庫版では、同じ一文が
 「勿論彼のほうが、たんまり持ち居る故なり」
となっていて「くれる」ニュアンスがない。こちらのほうがシンプルで納得しやすい。
 ついでに河出文庫版(阿部知二訳)も調べてみた。
 「そちらのほうが、たくさんの贈与聖職禄を持っておられます」
 なんとダーシー氏がコリンズ氏にお金を「くれる」話になってしまった。
 ちくま文庫版(中野康司訳)も
 「聖職禄の件など、ダーシー氏のほうがいっそう貴殿のお役に立つと思われます」
と、河出文庫版に右へなれ。しかし……これでは慇懃だが無神経なコリンズ氏に最後に一発きつい皮肉を投げつけるという読み手の楽しみが失われてしまうと思えるのだが。

 この一文、原書ではなんと書かれているのか。インターネットで探してみた。すぐに見つかった。

 “He has more to give.”

 これだけ? これだけ。

 なるほど……翻訳は難しい。

先頭 表紙

そういえば、エリザベスを「パイレーツ・オブ・カリビアン」のキーラ・ナイトレイが演じたDVD『プライドと偏見』も入手済み。本の記憶が薄れたころにゆっくり見るつもり(エリザベスは少し現代風美人に過ぎるかな。ダーシー氏は笑っちゃうほど想像とそっくり)。 / 烏丸 ( 2009-02-22 03:15 )
オースティンについては、『高慢と偏見』『自負と偏見』のあと、『分別と多感』(今ひとつ)、『説得』(すごくよかった)と読み進み、現在『マンスフィールド・パーク』の最初のほうで停滞中。先に『エマ』にしたほうがよかったかな? 別に読み急ぐ必要はないのだけれど。 / 烏丸 ( 2009-02-22 03:06 )

2008-11-17 「退屈な話」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」ほか ──アントン・チェーホフ


【わたしは訊きたい、《それじゃ、ぼくの葬いにはきてくれないの?》】

 ここしばらく、チェーホフばかり読んでいた(最近取り上げているミステリは、少し前、あるいはずっと以前に読んだものです)。

  『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集1』 松下裕 訳 /新潮文庫
  『カシタンカ・ねむい』 神西清 訳 / 岩波文庫
  『かわいい女・犬を連れた奥さん』 小笠原豊樹 訳 / 新潮文庫
  『退屈な話・六号病室』 湯浅芳子 訳 / 岩波文庫
  『たいくつな話・浮気な女』 木村彰一 訳 / 講談社文芸文庫
  『かもめ』 中村白葉 訳 / 角川文庫
  『かもめ・ワーニャ伯父さん』 神西清 訳 / 新潮文庫
  『桜の園・三人姉妹』 神西清 訳 / 新潮文庫

 読み始めたらもうとまらなくなった──別にそういうわけではない。
 手元にあったものをぽつぽつ読み返し、未読を取り寄せるうちに、ほかの本が騒々しく思え、煩わしくなってしまったのだ。
 (もともとほとんど見ないのだが)とくにテレビが耐えられない。ドラマ、報道、バラエティに限らず、音が聞こえるだけでしばらくするとどうもざらざらした心持ちになってしまう。

 チェーホフは短篇小説にせよ、戯曲にせよ、似たような舞台設定、雰囲気の作品が多い。なので、一気にたくさん読むわけではない。
 やはり、「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」の戯曲、とくに「かもめ」がとてもよかった。
 小説の中では、今回、「退屈な話(たいくつな話)」が心に沁みた。二十代であの老人の諦念を描けるものか。

 事件そのものより登場人物の心情の流れが主眼となる作品では、翻訳者による言葉遣いの違いが気になる。
 
 わたしは努めてグネッケルのなかにわるい特徴ばかりを見つけようとし、間もなくそれを見つけて、彼の花婿席にわたしの仲間のそれでない人間が座っていることをくるしむ。彼がそこにいることはまた別の点でもわたしにわるく影響する。

は岩波文庫「退屈な話」(湯浅芳子訳)。これはあんまりだ。同じ部分を講談社文芸文庫「たいくつな話」(木村彰一訳)で読むと、ようやく何を言っているのかわかるような気がする。

 私はグネッケルのわるい点だけを見いだそうとつとめる。それはまたすぐに見つかる。そして私は自分の仲間でもない人間が花婿候補者の座にすわっているのを見て煩悶するのである。グネッケルを見ると胸がわるくなるのは、もうひとつ理由がある。

では湯浅訳はまるで駄目で木村訳のほうが万事万全かといえば、そのようなこともない。同じ作品の(非常に重要な)最後の一段をみてみよう。

 いやちがう、振り返らなかった。黒い服が最後にちらりとみえて、足音はきこえなくなった……さようなら、わたしのまたとないひとよ!

 いや、彼女はふり返らなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが最後の見納めで、やがて足音もしだいに消えた……さようなら、私のたからよ!

どのセンテンス、どの単語を比べても、前者(湯浅訳)がいい。

 神西清訳が総じて安心して読める。中村白葉は古い本で旧かな遣いだが、これはこれでいかにも露文を読んでいる気持ちになって懐かしい。


 チエーホフの作品には、光がある。
 悲惨な話であれ、多少は救いのある話であれ、さらさらした砂地の洞窟の向こうのほうに小さくうかがえるような、ほの白い、細い光。
 自分自身や、自分の眷属、社会はもう駄目かもしれないが、どこか遠く、いつか遠い未来で、ほかの見知らぬ誰かが多少はうまくやれるかもれない、そのようなほんのかすかな期待。
 この光はまた、エセーニンがその詩の中で「明日、早く起こしてね」と母親に頼んだ、その、とうとうやってこなかった朝の薄明と同じ、柔らかな白い色かと思ったりもする。

先頭 表紙

2008-11-04 名探偵、結末の後も霧の中 『僕を殺した女』 北川歩実 / 新潮文庫


【……いいえ、もちろん知識としては、記憶喪失後に教えられて、知っていたんですよ。】

 セバスチアン・ジャプリゾの『シンデレラの罠』は、「私は事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、そのうえ犯人でもある。いったい私とは何者か?」という名コピーで有名だ。しかし、このコピーを成り立たせているのが「記憶喪失」だと知るや、どうしても興趣は塩水をかぶったナメゴンのようにしぼんでしまう。アンフェアに騙されている気分が最後までぬぐえないためである。早い話、「記憶喪失」モノは苦手なのです。

 北川歩実『僕を殺した女』も『シンデレラの罠』に負けず劣らずの設定である。「記憶喪失」がメインディッシュであることもまた同様。

 「ある朝目覚めると、大学生で『篠井有一』だった僕は、見知らぬ部屋で若い女になっていた。しかも昨日から5年後にタイムスリップして…」というカバーの惹句はご覧のとおりすごい。そしてこの設定に、論理的な理由づけをしてみせようとする志たるや半端ではない。
 最終ページまでに、その試みはほぼ実現されている。
 ……にもかかわらず、どうもすっきりしない、いわゆるカタルシスが得られないのはなぜだろう。

 1つには──設定ゆえしかたないのだろうが──構成に難を感じる。
 先のとおり、物語はある朝とびきりの謎を提示して始まるのだが、その後、さまざまな出会いや出来事によるどんでん返しと説明が繰り返され、読み手はやがて当面のプチ決着に麻痺して驚きもしなければ安心もできないようになってしまう。絶叫マシンの多くが一発勝負なのは理由があるのである。いくつかのどんでん返しの1つで物語が終わるのでは盛り上がるわけがない。

 もう1つ、人物の描写が気になる。
 物語は主人公の視点、「僕」という一人称で語られるのだが、これがどうにも粘着質かつ妙にガラが悪いのだ。「男の記憶」を持つ「女性」として両性の悪いところが剥き出しになった感じだが、どうも主人公に限らず登場人物の言動がそろって粗野で、知的ゲームを楽しむ気分にひたれない。
 キャラクター、とくに男女の描き分けはこの作品では大きな意味を持つだけに、意図的だったとしても成功しているとは思えない。

 しかし、そういった構成や人物描写以上に、「記憶喪失」が問題なのだ。
 ストーリー中に「記憶喪失」アリ、なら、それはつまり記憶の部分的消去が可能だということになる。さらにその記憶に暗示や刷り込みが可能となると、これはもう何が真相であってもよいことになってしまわないか。

 若い女性として目覚めた主人公は、その後の現実の事件や関係者の証言から誤った記憶を少しずつ剥いでゆき、真相にたどり着く(ということになっている)。シーンシーンはある意味「誠実」で、「○○とは書いてなかったから、実は」などといった叙述トリックで騙されるわけでもない。しかし、いかに記述に嘘がないといえ、記憶喪失や都度の暗示が可能なら、今目の前で事実と見えていることはさらに別の暗示によるものかもしれないではないか。
 なので、『僕を殺した女』の最後のページ、決着にいたってなお、「しかし、実は」という別の真実、別の決着があってもおかしくない……そう思えてしまうのである。

 北川歩実は、この後、短篇集を1冊読んでみた。
 今のところ、そのほかの長編を続けて読もうというファイトは沸いていない。

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『青春少年マガジン1978〜1983』は単行本にもなるそうです。少年マンガファン必読。 / 烏丸 ( 2008-11-08 01:12 )
『1・2の三四郎』の小林、『タフネス大地』の大和田夏希、『純のスマッシュ』の小野新二の3バカトリオが出会って親交するにいたる経緯が描かれているのですが、大和田はのちに自殺、小野はその翌年に肝機能障害で亡くなっているんですね。 / 烏丸 ( 2008-11-08 01:11 )
少年マガジン、サンデーが50周年ということでいろいろ企画モノが掲載されていますが、出色はマガジンに今週まで連載されていた小林まことの『青春少年マガジン1978〜1983』。 / 烏丸 ( 2008-11-08 01:11 )

2008-10-20 名探偵、だかなんだかわからない 『未明の悪夢』『恋霊館事件』『赫い月照』 谺 健二 / 光文社文庫


【テントに入ると、圭子は相変わらず毛布にくるまって横になっていた。】

 人は、巨大な岩や壮大な伽藍の前に立てばとりあえず驚嘆の声を上げ、拝観料のなにがしかを支払うにやぶさかでない。ただし、その岩や伽藍が本当に感嘆に値するものだったかとなると、後で記念写真を見返してもよくわからない。

 谺(こだま)健二の三部作『未明の悪夢』『恋霊館(こりょうかん)事件』『赫(あか)い月照』は、その分厚さで巨大な岩のように読み手の前に起立する。

 物理的なボリュームのことではない。
 ページ数でもっと分厚い本なら観光地の数ほどある。1冊めの『未明の悪夢』は447ページ、当節のミステリ長編として長いほうですらない。
 しかし、この447ページが、厚い。この作品に描かれた猟奇殺人事件は、1995年1月17日の未明に神戸を襲った阪神・淡路大震災を背景としており、ページの大半は震災前、震災後の神戸の街のありさまを記録することに費やされているためだ。

 やがて土の間から、からまった植物の根のような物が出てきた。小石を払いのけている内、それが人の頭だということに気が付いて、有希は愕然となった。

 その少し南の十二階建てのニッセイビルは、途中からへし折れていた。四階がなく、これも車道の方に傾いている。砕け散った窓々から凧の足のような物が白く無数に垂れ下がっているのはブラインドだろうか。

 四角いチーズケーキを上からバターナイフで叩き潰したように、横に長いスーパー・ダイエーの建物が中央部を陥没させて潰れている光景を前に、有希はこの日、何度目かの自失に陥った。

 決して器用とは言いがたい震災の描写に背を押され、読み手は続く『恋霊館事件』を手に取る。テント生活を続ける主人公達のその後と奇妙な事件を描く中・短編集だ。さらに、(少し首を傾げながら)3冊めの『赫い月照』にも手を伸ばす。こちらは辞書と見まがう913ページ、震災後の神戸市須磨区で起こったあの現実の連続殺人に想を得た長編ミステリである。

 3冊めを読み終わったころ、読み手はふと我に返る。

 地震による倒壊のショックで震災以後ずっと公園のテントや仮設住宅で寝たきりの占い師、雪御所圭子が名探偵足り得るのはなぜだろう? ほとんどオカルトではないか。
 ワトスン役の私立探偵有希真一が、私立探偵らしい活動を見せる場面がほとんどないのはなぜ?
 複雑怪奇と思われた事件の大半で、「偶然」が大きな要素を占めているように見えるのだが、本格ミステリとしてこれでいいのだろうか?
 バラバラ死体、密室殺人、犯人消失など、猟奇的、トリッキーな事件が連発するが、はたして犯人にはそこまで事件を複雑にする必然性があったのだろうか?

 実は、3冊めを読み終わったときには1冊め『未明の悪夢』の犯人が誰だったのかをもう思い出せない。
 2冊め『恋霊館事件』では、思わず失笑してしまうような推理ばかり記憶に残っている(猫を……に使う? 洋館の壁が……!?)。
 3冊め、『赫い月照』内の中学生が書いたような作中作は、少なくとも
  「さあゲームの始まりです」
  「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである」
  「ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」
等々キレのよい名言と抑制にあふれた少年A=酒鬼薔薇聖斗の犯行声明、犯行メモの足元にも遠く及ばない。

 ……だが、これほどに難点、粗だらけでありながら、本三部作は重く、長く、そして読了後に後をひく。震災は確かに町並み以外の何かを内側から破壊したのであり、そしてそれは底のほうを通して伝染するのだ。
 ただ、幸か不幸か3冊めがあのような没義道な閉じ方をしたことで、読み手は空しく4冊めを待つということだけはせずに済みそうだ。バモイドオキ神の思し召しである。

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2008-10-14 名探偵の英才パズル塾 『千葉千波の事件日記 試験に出るパズル』ほか 高田崇史 / 講談社文庫


【まあ、今日も色々とあったけれど、終わり良ければ全て良しってことだね。】

 1980年代後半から90年代前半にかけて、新本格派と称される若手ミステリ作家が続々と登場した。彼らの手になるトリッキーな作品群は、本格推理に餓えた読者に熱烈に歓迎される一方、書評欄などで「人間が描かれていない」と酷評されることも少なくなかった。
 新本格派の作家たちからは、繰り返し「大切なのはトリック」「目的は小説でなくパズル」といった反論がなされたが、とはいえ実際のところ、彼らの作品の多くは(少なくとも外面上)小説の体裁を捨てず、動機や犯意の発露において悩める人間をなぞることをやめてしまうわけでもなかった。

 ところが、いたのである。「小説でなくパズル」をとことん具現化してみせる作家が。

 高田崇史は、本格ミステリでは後発の一人だが、歴史上のさまざまな事項、人物に着目し、その謎解きと現在に起こる事件のトリックをからめて重厚な作品に仕上げる実力派とされている。代表作はメフィスト賞受賞の『QED 百人一首の呪』を端緒とする『QED』シリーズ。
 ……との評判を受けて『百人一首の呪』を手に取ってみたのだが、なるほど噂にたがわずその薀蓄はもの凄い。ただ、個人的には感心しなかった。百人一首の謎解きには圧倒されるのだが、その謎とストーリー中の殺人事件とがばらけた感じなのだ。
 「百人一首の謎解きだけで本になってたほうがすっきり面白かったのではないか?」、これほどの労作に対し、申し訳ないがそれが正直なところで、高田崇史は結局それきりになっていた。

 『千葉千波の事件日記 試験に出るパズル』を読んだのは、理由を書くほどもないたまたまのことだったのだが、いや、驚いた。脱帽だ。

 この作品において、作者はもはや「小説」などという作法も体裁もかなぐり捨ててしまっている。一読すぐにわかることだが、あの懐かしいクイズ本のベストセラー、多湖輝の「頭の体操」に肌触りがそっくりなのだ。
 登場人物は「ぴいくん」(語り手、浪人生)、「千葉千波」(ぴいくんの従弟、眉目秀麗な天才高校生)、「饗庭慎之介」(ぴいくんの同級生)ほか若干名。ストーリーは、この3人が時間を持て余したり、なんらかのイベントで集まって、それから時間つぶしにパズルが出題され、それを解くうちに周囲に奇妙な事件が起こりさらにそれを解く……ただそれだけ。

 この事件というのが、怨恨による殺人などといったどろどろしたものではなく、
  正直者の小坊主、嘘しかつかない小坊主、本当のことと嘘とをきちんと交互に口にする小坊主……
とか、
  二人乗りが精一杯な船で、犬をふくめて全員川を渡るには……
といった、まさに「頭の体操」テイストのクイズ、パズルなのである。
 そんなパズルが、

 その上千波くんときたら色白の文学青年で、背はスラリ、髪の毛サラリ、時折りそれをパサリと掻き上げる、スラリ・サラリ・パサリ青年なんだ。

 だってぼくらは、受験生なんだからね。いつだって余分な時間なんてないんだ。本当だよ。

といったライトな文体に乗って、クイズ本でおなじみのシンプルなイラストや図式と一緒にスラリ・サラリ・パサリと提供される。

 快感である。少なくとも小説としてどうとか、人間が描かれているかとかに悩む必要はないんだからね。本当だよ。……と1冊読み終わるころには「ぴいくん」口調にすっかり染まり、気がつけばほかのどんな探偵より、真鍋博テイストのぴいくんや千波のほうが心地よくシャープにみえてくるんだからふしぎだね。続刊が楽しみだよ。

 文体を戻そう。『千葉千波の事件日記』は『試験に出るパズル』『試験に敗けない密室』『試験に出ないパズル』『パズル自由自在』とシリーズ化され、いずれも文庫で手に入る。シリーズ4冊の文庫には、それぞれ森博嗣、真中耕平、有栖川有栖、大矢博子の解説が付与されているが、いずれも(首をかしげたいところも含めて)読みでがある。解説だけでも立ち読みに耐えるクオリティである。

 一つ付け加えるとしたら、作者高田崇史は『QED』シリーズの探偵同様、薬剤師という本業をもっているとのこと。思い起こせばE.A.ポーの創始以来、探偵は本来ディレッタントだった。小説、人間を描く、犯罪を描く、そういったいわば「正面ワザ」ではなく、趣味、脇道の方面から、しかし正面からに比べても格段に精緻、柔軟、深みにいたる、それが本格推理の由緒正しいあり方ではないか、などと思ってみたりもする。

 もう一つ。諸氏の解説でも取り上げられていることだが、「頭の体操」や本シリーズに漂う、奇妙な怖さの問題。よくわからないが、たとえば、本作のとことん明るくて好人物だらけのパズル世界では、嘘つき村の住人が嘘しかつかないように、いつかとことんピュアな悪意も登場し得る、その恐ろしさ、というのは、さてどうだろうか。

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