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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2004-07-26 『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』 エドワード・D・ホック,木村二郎 訳 / ハヤカワ文庫
2004-07-18 UFJと東京三菱が統合?
2004-07-13 (大袈裟だけど)我が人生の一冊 『イシミツ』 白土三平 / 小学館文庫
2004-07-06 どこに向かう技量 『退屈姫君伝』 米村圭伍 / 新潮文庫
2004-06-30 のびやかに吹くべしホラを 『後宮小説』 酒見賢一 / 新潮文庫
2004-06-21 大人のための銀河鉄道の夜…… 『鳥類学者のファンタジア』 奥泉 光 / 集英社文庫
2004-06-18 『さみしさの周波数』 乙一 / 角川スニーカー文庫 (including 『森の死神』 ブリジット・オベール,香川百合子 訳 / ハヤカワ文庫)
2004-06-14 取り上げられた本より面白い? 『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』 ちくま文庫
2004-05-31 少女マンガにおける「甘美」と「内省」の変遷 『ジェシカの世界』 西谷祥子 / 白泉社文庫
2004-05-28 『あの素晴らしい 日ペンの美子ちゃん をもう一度』 岡崎いずみ+mico secret service / 第三文明社


2004-07-26 『怪盗ニック対女怪盗サンドラ』 エドワード・D・ホック,木村二郎 訳 / ハヤカワ文庫


【コブラにかまれたぐらいじゃ,わたしは落ち込まないのよ】

 怪盗ニックシリーズ,1年あまりで早くも4冊めの登場。

 本作は1960年代の海外サスペンスドラマ,とくに『プロ・スパイ(スパイのライセンス)』を思い起こさせ,読んでいてどこか懐かしい。
 『プロ・スパイ』はロバート・ワグナー主演(あのナタリー・ウッドと二度結婚した二枚目俳優だ),CIAに首根っこをつかまれた大泥棒が東西冷戦期のスパイとして活躍するという話だった。

 一方,本シリーズのニック・ヴェルヴェットは,現金とか宝石とか絵画とか,価値のあるものは盗まないというルールを自らに課した頭脳派の泥棒である。
 今回は,トリッキーな犯行のあとに

   白の女王
   不可能を朝食前に

というカードを残す女怪盗サンドラ・パリスが,ニックのライバルとして登場する。二人はあるときは競い合い,あるときは助け合って依頼主の奇妙な注文をクリアしていく。
 バースデイ・ケーキのロウソクを盗め,禿げた男の櫛を盗め,色褪せた国旗を盗め,蛇使いの籠を盗め,など,収録作品は十編。

 競い合い,助け合う怪盗とライバルの女怪盗といえば,ルパン三世と峰不二子を思い浮かべる方も少なくないだろう。作者のエドワード・D・ホックもふーじこちゃんの熱烈なファンではないかと想像されるくらい設定は似ている。要するに,女優の経験もあるサンドラ・パリスは,いまや決して若くはないが美人でオシャレで不可能犯罪の才能も度胸も抜群なのである。さすがのニックも,サンドラに先を越されて何度か悔しい思いをする。

 サンドラの登場によって,価値のないものばかり盗むという,頭脳的ではあるもののどうしても地味にならざるを得ないピカレスクが,一転ゴージャスとなった。
 とはいえ,ニックにはグロリアという長年連れ添った恋人がおり,サンドラと共闘するにもいちいち彼女の顔色をうかがうあたり,作者の真面目さというか,小市民的な印象がぬぐえない(そういえば,同じ作者の『サム・ホーソーンの事件簿』も,生真面目な田舎医者の話だった)。テレビドラマ化されそうでされないのは,そのあたりが原因かも。

先頭 表紙

中島らも,死去。酔っ払って転げ落ちて死ぬなんて,まるで狙ったかのような。天晴れな文士の最期に黙祷。 / 烏丸 ( 2004-07-27 23:01 )

2004-07-18 UFJと東京三菱が統合?

 
 また,銀行名,変わるんですか……?

 現在とその直前の行名はたとえばこちらのページなど見ればわかるんですが,割合詳しめのこの表だって,そもそもは
  第一銀行+日本勧業銀行
   ⇒ 第一勧業銀行
とか,
  協和銀行+埼玉銀行
   ⇒ 協和埼玉銀行
   ⇒ あさひ銀行
あるいは,
  神戸銀行+太陽銀行
   ⇒ 太陽神戸銀行
そして
  三井銀行+太陽神戸銀行
   ⇒ 太陽神戸三井銀行
   ⇒ さくら銀行
とかいうのを省略しているわけで……。

 我が家には,学生時代に住んでいた池袋の第一勧銀の通帳とか,以前会社のビルの近所にあった富士銀行高輪支店(もうない)の通帳とかがあって,始末に困ります。
(とっくに扱いが停止しているのかもしれないし,そもそも残金もカードでおろせない数十円,数百円しかないに違いないのだけれど,廃棄するとお金の神様のバチが当たりそう)

 以前は,銀行が統合したり,支店が統廃合されると,その都度連絡がきて,通帳やカードをリメークしなくてはならなかったように記憶しているのですが,最近は「銀行なんてそのうち名前も場所も変わるもの」という意識が当たり前になったのか,そもそも全顧客に連絡していたら金がかかってしかたないせいなのか,ほったらかしですね(普通預金しかしてないから連絡こないのかな? まぁこの利率では定期にするメリットも感じませんが)。
 手間はかからなくていいのだけれど,そうなったらそうなったで,たとえば三和銀行のカードをなくした! というとき,どこに電話すればよいか,とっさに出てこないのがやっかい。戦前とかは別として,1970年ぐらいから後の統合,再編について,一望にできる図があるといいですね。

 それにしても,安全のために預金先を振り分けても,振り分け先が勝手に統合しちゃうのはかないませんね。もっとも,メガバンクが倒れたとき,銀行側が名寄せするのも大変そうです。

 ふと思ったこと。
 現役の銀行員で,当人が入退職したわけでもないのに勤務先の行名が最も変わった人って,どの銀行の,誰なんでしょう? 太陽 ⇒ 太陽神戸 ⇒ 太陽神戸三井 ⇒ さくら ⇒ 三井住友,これで5銀行。もっと変わった(なおかつリストラされずに頑張ってる)人っているんでしょうかね?


【おまけ】

 松任谷由実が,全盛期のインタビューで

 「あたしが売れなくなるのは,都市銀行がつぶれるような時代になるってこと」

というなかなかゴージャスな発言をしたそうで,これが実は予言として的中していたというのはなかなか考えさせられます。


【おまけ その2】

 そういえば,カラスは「UFJ」が何の略だか,結局知らないまま終わりそうです。いや,別に,教えてほしいということではありません。その程度のお付き合いなんだな,と思っただけ……。

先頭 表紙

メガバンク1つになってしまったら、日本中の駅前はすかすかになってしまいそうですね。そのメガバンクの銀行担当者一人が融資してくれないと即倒産,という構図もちょっと怖い。 / 烏丸 ( 2004-08-02 22:38 )
おまけが興味深い話ですね。ほんとにいっそひとつに?なんて冗談でも言いたくなりますね。 / フィー子 ( 2004-07-31 23:02 )
あややん,見ましたよ。わはは。それにしても,興銀の本店って,ADSLモデムみたいですね。 / 烏丸 ( 2004-07-20 22:47 )
おお,Hikaru様,まったくたまたまですが,カラスも「太陽神戸銀行」の並びの居酒屋○○であるはずが,そこが「さくら銀行」になってしまっていたために開始時間の集まりが非常に悪かった,という宴会の記憶があります。 / 烏丸 ( 2004-07-20 22:47 )
ああ、この文章を読んで、ぜひ読んでいただきたいものが・・・。http://www.s-shibuya.com/essays/planofbanks.html 烏丸さんなら一緒にわははと笑っていただけそうです。 / あやや ( 2004-07-20 14:26 )
Σ(‥;) う。なんか下の文章変! / Hikaru ( 2004-07-18 00:41 )
かつて友達と太陽神戸銀行の前で友人と待ち合わせた母は、場所が見つからずオロオロしましたが、無事さくら銀行の前で出会えたそうです。まだ携帯も普及していないころの笑い話ですが。(‥ ) / Hikaru ( 2004-07-18 00:41 )

2004-07-13 (大袈裟だけど)我が人生の一冊 『イシミツ』 白土三平 / 小学館文庫


【イシミツならおまえたちに毎日のませていたではないか!!】

 木ヘンに「色」,身ヘンに「黒」の異体字,人ベンにやはり「黒」の異体字,サンズイに「黄」。これで「イ」「シ」「ミ」「ツ」と読む。

 忍者文字は七種のヘンに七種のツクリを組み合わせ,それをいろは文字にあてはめて一種の暗号をなしたものだそうである。ただし,実際に忍者文字というものが存在したのか,白土三平の創作なのかはわからない。

 今では笑い話にもならないが,大学生がマンガを読む,それだけで事件になった時代があった。1960年代後半だったろうか。その少し後には,サラリーマンが電車の中でマンガを読む写真が新聞紙面をにぎわしたこともある。

 一点明らかなのは,少なくとも当時,マンガはしょせん子供だましの低劣なものであり,成人,文化人が読むに足るものではないという考えがあったことだ。当時の,とくに劇画的表現に対する社会的反感はさらに苛烈で,新聞紙面などでごく当然のように非人間的,暴力的,野卑,俗悪と罵られたものである。

 『イシミツ』はそれらの報道よりさらに以前の昭和38年(1963年),少年サンデー誌上に掲載された作品である。
 物語は「イシミツ」と呼ばれる不老長寿の霊薬をめぐって展開する。
 平安,鎌倉,戦国,そして江戸中期,それぞれの時代の忍者たちが,あるときは奪い合い,あるときは共闘して「イシミツ」の謎を追う。

 史実,実在の人物に虚構をちりばめ,忍者同士の壮絶な戦闘と忍法についての薀蓄,さらに各時代における農民たちと支配層の対立を巧みに織り込んで間然するところもない。これで150ページに満たないとは,何度読み返しても信じがたい。

 添付画像は昭和52年2月20日発行の小学館文庫版。
 幸い,『イシミツ』は現在も小学館文庫などで入手できるようなので,機会があったらぜひともご覧いただきたい。
 昭和38年に,マンガはすでにここまできていたのだ。

 白土三平は『カムイ伝』『忍者武芸帳−影丸伝』『サスケ』といった長編は別格として,この『イシミツ』のように1つの謎,忍法等をとことん追求するタイプの中編,連作がいい。たとえば,傷一つなしに人を呪い殺す「丑三の術」をめぐる『真田剣流』。

先頭 表紙

2004-07-06 どこに向かう技量 『退屈姫君伝』 米村圭伍 / 新潮文庫


【(すてきすてき。今日はなんとも波乱万丈だわ)】

 先日紹介した『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』においても

 読み手の予想を快く裏切って,意外な展開を続ける米村圭伍の手並みに,すでに「作家の自負」とでもいうべきものが揺るがずに立っているのを感じる。

と賞賛された作品である。
 しかし,そのあとの作品まで俯瞰して見ると,はたしてそうか,どうか。

 本書『退屈姫君伝』そのものはなかなか面白い。
 美貌ながら生来のいたずら好き,陸奥盤台藩五十万石の末娘,めだか姫が讃岐の小藩にお輿入れ。そんな彼女がある日退屈しのぎに屋敷を抜け出し,幕府隠密,くノ一,長屋の町人まで巻き込んで,藩の七不思議ならぬ六不思議の謎解き,あげくに陰謀めぐらす田沼意次と対決することに……。
 云々という筋書きを古いと読むか,今風と見るかはともかく,天真爛漫,物怖じしないのびやなか性格で,周囲の者たちは呆れはてつつやがて味方となってわいのわいの,というめだか姫,アニメ化の話がないのが不思議なほどである。

 六不思議の謎解きをはじめ,さまざまな事件,登場人物を交えながら,それでも作中の時間はゆっくり過ぎていく。展開が遅いわけではない。文体というより,作品内時間の経過の仕方が際だって「落語」的なのである。

 だが,本作が一種の連作であることを考えたとき,作者の手腕を手放しで讃えてよいものかどうか,若干の疑念がよぎる。

 デビュー作『風流冷飯伝』,本作『退屈姫君伝』,さらに続く3作めの『面影小町伝』(文庫化に際し『錦絵双花伝』より改題)の3作を見ると,一部の人物が複数の作品に登場しており,これらが連作であることは明らかだ。
 だが,作品のもつ手ごたえは,これが同じ作者によるものかと思われるほどに異なる。
 とくに,1作,2作めののんびり明るい風情を好もしく思った者にとって,3作め『面影小町伝』の凄惨な展開は衝撃だろう。また,それと知ったとき,1作めの『風流冷飯伝』も,決して万事にほのぼのした物語ではあり得なかったことに気がつくだろう。

 もちろん,一人の作家がユーモアとシリアスを書き分けることは珍しくない。しかし,三部作で,しかも登場人物や舞台が重なりながらこれだけタッチが異なるのも珍しい。
 これを,狐の書評のように「読み手の予想を快く裏切って」と評価すべきか,それとも作者のフォームが安定しないとみるべきか,そのあたりは難しいが,どうも後者を否定しきれない。
 極端にいえば,三部作を通して共通するのは,作者米村圭伍の「技量」だけなのである。

 この構造は,『後宮小説』のあと,小説を書くという行為そのものをテーマにしたような短編集『ピュタゴラスの旅』を提示した酒見賢一のあり方と一見似ているようで,実はまるで違う。
 酒見賢一は小説が「技量」によって成立していることを作品中でも明示し,いわば手の内をさらしたところでファンタジーを書いた。読み手は,その構造を理解したうえで,その構造も含めて酒見賢一を面白がることが可能である。
 しかし,米村圭伍の文体は,酒見賢一のようにあるにはあまりに口あたりがよすぎる。おそらく落語などの芸能への傾倒が良くも悪しくも米村圭伍の作品をとっつきやすくしているのだろう。そのため,読み手は,そこにある濁りに気がつきにくい。そして,その濁りをメインテーマにされたとき,一部の読み手は途方に暮れるに違いない。

 なんとなく遠回しな書き方をしてきたが,つまりはこういうことだ。
 『退屈姫君伝』は,近来まれにみる,読みやすく楽しい作品である。時代小説が苦手という方にも,凝ったミステリが好きという方にもお勧めしたい,非常によくできたソフトファンタジーである。
 だが,もし『退屈姫君伝』が貴方のお気に召した場合,別の意味で非常によくできた伝奇ファンタジー『面影小町伝』をお勧めすべきかどうか……それは実に悩ましい問題なのである。

先頭 表紙

2004-06-30 のびやかに吹くべしホラを 『後宮小説』 酒見賢一 / 新潮文庫


【なによ。ばつがわるいじゃないの】

 『鳥類学者のファンタジア』のもう一方の魅力は,小説たるものは本来突拍子もないホラ話であるべし,ということをがつんと思い出させてくれることにある。

 もちろん,ブンガクの使命はほかにもきっとある。多分,あるに違いない。だが,どうも「自分探しに懸命なワタシ」や「衝動的に破壊に走ってしまうワタシ」ばかりだと少々うんざりしてしまう。
 作者自身の惑いや心理衝動を散文にのせただけなら,それは「ワタシ小説」に過ぎない。純文学と分類される小説の側にも,他人を楽しませ,喜ばせ,救う,いうなれば「他小説」がもう少しあってもよいのではないか。もしくはもう少し評価されてもよいのではないか。どうも小乗小説が多いような気がしてならない。

 上記に思い至ったのは,『鳥類学者のファンタジア』に続いて酒見賢一『後宮小説』を読んだためでもある。

 『後宮小説』は第一回ファンタジーノベル大賞受賞作で──といわれても,ファンタジーノベル大賞というものをよく知らないのでうなずくしかないのだが──また,テレビアニメ『雲のように風のように』(1990年3月21日放映)の原作としても知られる作品である。
 このTVアニメ作品をうっかり(?)見てしまったため,これまで原作を読む意欲を失していた。だが,15年近く経って,ふと,アニメのほうはヒロイン銀河を演じた佐野量子のちょっとはかない(というか頼りない)声を除き,ほとんどなんにも記憶にないことに気がついて,今さらながら原作を読んでみようと思い立った。

 さて,その原作だが……なかなか,よかった。

 『後宮小説』は,田舎娘の銀河が,腹上死した先帝の後を継いで素乾国の皇帝となった槐宗の後宮に入り,物怖じしない天真爛漫な言動に周囲を巻き込み,あげくに後宮軍隊を組織して反乱軍に立ち向かう,というお話である。

 まぁ,詳細を覚えてもいないアニメと比較してもしようがないが,『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』の近藤勝也によるアニメのキャラクターの銀河はおよそ美人には見えないが,原作では性格はともかく王都で流行している衣装を着せ,公女のように髪を結えば「宦官の身でさえはっとするほどの姫君」とされている。要するに,原作では銀河は美麗であること一流なのである。
 また,原作の文体には,アニメでは表現されなかった,架空の「素乾国」の歴史などをまるごとデッチアゲた「かろみ」が漂っている。架空の王朝の後宮について,架空のしきたり,架空の学問をしゃらりと描き上げる。「素乾」というネーミングからして,素晴らしいではないか。
 本書は,「素乾書」「乾史」「素乾通鑑」という(当然ながら架空の)文献をもとに書かれたことになっており、随所にそれが示される。曰く,

『強ヒテ望ム,ソノ答ヲ出ダサレンコトヲ。判然トセザルハ心気安セザルナリ』
 と銀河が叫んだことになっている。
「ちゃんとした答えを教えてもらわないと,夜も気になって眠れなくなるじゃないの」
 師に対するには不躾すぎる物言いであろう。さらに,『卑怯ナリ』と言ったともいわれるが,どうだろうか。


 ここで,筆者も馬鹿かと思わないこともない。この小説のもとだねとなっている歴史書のひとつ「素乾書」を編纂した無名の史官に対してである。正史とは国家の歴史の正式な記録である。にも拘らず,このような痴戯の類まで馬鹿正直に記載しているのである。そんな史官の執筆態度に筆者も好意を覚えざるを得ない。

 などなど。
 タワケているといえばこの上なくタワケた書きっぷりだが,これが本書の魅力と「かろみ」の真髄である。

 また,テレビ用のアニメではほとんど触れられなかったが,原作では素乾国後宮における一種の性愛哲学に大きな比重がおかれている。それを語るに作者は角先生という人物を用意して,作者直接でなく角先生に語らせ,処女の銀河に問答させることで,そのあたりの生臭さを巧みにすり抜け,バートン版『カーマ・スートラ』同様本来のそのことの尾籠さをうまく隠蔽している。
 ただ,なにぶん全編にこの話題の占めるボリュームが大きく,本書を子供に勧めるとなるとやや躊躇するものがあるだろう。

 最後に,『後宮小説』は本来子供っぽくてのびやかな銀河の魅力(年ごろになったハイジを想像すればよい?)によるものだが,それ以上に魅力的なのは,素乾国を滅ぼした幻影達の背後にいた,渾沌なる人物である。
 この気まぐれ,かつ妙に文化人たる混沌,アニメでは気のいいおじさん程度にしか描かれなかったが,原作では一種の「怪物」である。おそらく,混沌という人物の側から素乾史を描いたなら,本書はおよそ手触りの違う暗黒小説となったかもしれない。本書が,いかにもジブリアニメの原作のようでありながら,中に一種の鉛の錘を置いたような按配なのはこの渾沌という人物のせいであろう。

 さて,小説はホラ話,ということでは,もう一人取り上げたい作家がいる。
 次回はその作家の作品を。

先頭 表紙

アレックス・タイムトラベルですね。あのシリーズは泣けます。青いバラといえば,『Z −ツェット−』の第一話もそうでしたね。 / 烏丸 ( 2004-07-04 01:44 )
アニメを観た後すぐに原作読んだクチですが、なんだー原作の方がおもしろいなぁと思った私はアレですか。(^ ^;)青いバラって清原なつのさんのマンガ思い出しますね。 / けろりん ( 2004-07-01 12:58 )
おお。青いバラだ。発売は数年後だって。 / レインボウズ ( 2004-06-30 20:34 )

2004-06-21 大人のための銀河鉄道の夜…… 『鳥類学者のファンタジア』 奥泉 光 / 集英社文庫


【もう,なにもいうことは,ないのでした。】

 楽しい。

 本を読む楽しみをたっぷりと堪能できる1冊である。
 文庫で700ページを超える長編だが,読み終えたとき,美味しいチョコレートケーキの最後の一匙を食べてしまったような気分になる。パラパラとあちらこちら拾い読みしてしまう。また最初から読みたくなる。

 粗筋はカバーから失礼させていただこう。曰く,
 「フォギー」ことジャズ・ピアニストの池永希梨子は演奏中に不思議な感覚にとらわれた。柱の陰に誰かいる……。それが,時空を超える大冒険旅行の始まりだった。謎の音階が引き起こす超常現象に導かれ,フォギーはナチス支配下,1944年のドイツへとタイムスリップしてしまう──。

 つまり,本書はフィリップ K.ディック『高い城の男』や,ジェリー・ユルスマン『エリアンダー・Mの犯罪』と並び称すべきタイムスリップSFの巨編で……。

 ウソウソ。そういう予断なしに手に取るのがいいと思います。

 本書の惹句や推奨コピーの中には「モダンジャズファンにはたまらない!」とか,そういった表現もあるようだが,それも気にしないほうがよい。確かに主人公のフォギーはジャズ・ピアニストだし,ストーリーには音楽が大きくかかわっている。しかし,ジャズに詳しくなければわからない,といった構えは,イギリスで書かれた小説はイギリスに行ったことがなければ楽しめない,とかいうのに等しい。

 そもそも,本書にはキーワードとして
   フィボナッチ数列
   オルフェウスの音階
   ピュタゴラスの天体
   ロンギヌスの聖槍
   宇宙オルガン
などが仰々しく登場する。つまりは,
   チャーリー・パーカー
   チュニジアの夜
などもそれに並ぶパズルのピースとして配置すればよいのだ。

 それにしても,Web上の本書に対する評価の揺れは面白い。やれ笑えない,冗長だ,散漫だ,自分つっこみが多くてうんざり,などなど。酷評の多くはこの文体についていけたかどうかで異なるように思われる。

 想像するに,日ごろからマンガを読みつけている人は,本書の文体にも比較的スムーズに入り込めるのではないか。
(別に本文中に「佐知子ちゃんが峰不二子(ただし胸のない)なら,こっちは『風の谷のナウシカ』だ(やや意味不明ですが,おなじ宮崎監督関係ということで)」などという「笑えない」「自分つっこみ」があるから,というわけではない。)
 要するに,本書は文体上のテクニックを強く意識して書かれているのではないか,ということだ。

 昨今の小説のどれほどにおいて,作者によって明確に「文体」というものが意識されているだろう。どうもあまり意識されていないのではないか。
 たとえば,文体のみで他と区別できる作家がどれほどいるだろう。また,複数の文体を意図的に使い分けられる作家がどれほどいるだろう。

 一方,マンガというものは,本来的にテクニックの産物である。あらゆるコマは,他の作家の作品ではないことを歴然と示している。作者は1コマ描くにおいても己のテクニックを駆使し,読み手は高速にページをめくりつつ,そこに込められたテクニックを評価する。

 本書『鳥類学者のファンタジア』は,(読み手の好みに合うか否かは別として)文体において相当に意識的だ。
 ノンシャランなジャズ・ピアニストの視点から語られる本文はぶっきらぼうかつ若干無神経な「である調」で,1944年のナチス支配下にタイムスリップするという超常現象に対しても36歳の独身女が酔った帰りにコンビニの棚を見て歩く程度の精度,緊張感しか表さない。超常現象以上にそのことが異常なのだが,それに慣れたとき,読み手はフォギーにシンパシーを抱き,彼女と旅をともにできるだろう。

 それを実現しているのが,作者の文体上のテクニックである。
 おそらく,マンガの熱心な読み手であるなら,そこに「テクニックが込められている」一事をもって,本書に好感を抱くのではないか。逆に,そういう読み方に慣れていない「文学系」の読み手は,かえって本書の文体を余計なものの多い,ゴミゴミしたものに感じてしまうのではないか。

 作者は主人公フォギーのジャズ・ピアノに対する信念として,「アイデアを肉体化し現実の音楽にもたらすのは技術であり,パワーであり,そうした技術やパワーを獲得するには地道な練習以外に方法はない」と記している。こうした考え方は音楽の演奏やマンガの世界ではごく普通だと思われるが,なぜ昨今の文学ではそうした技術や練習に対する敬意が軽んじられているのか,不思議でならない。
 著者は明らかに,技術や練習の側にいようとしているのである。

 壮大といえば壮大,インナーといえばインナーなフォギーの旅は,この世の芸術の全貌を語りつくすような大技を,微苦笑を誘う中年女の冒険譚に織り込んで,軽く読もうと思えばとことん軽く(正直なところ,ここしばらくこんなに笑える本はなかった),重く読もうと思えばどっぷり重く(ここしばらく,これほど音楽について正面から考えた記憶がない),結局のところ,フォギーに対する友情以上,恋愛未満の感情を抱いて本書は終わる。

 賢治ファンが納得するかどうかしらないが,本書は大人のための『銀河鉄道の夜』なのではないか。
 この世のさまざまな事象を別世界に投影して意味を問い,問うだけで明確な回答を用意しないことによってより開放的な回答を求めるという意味で。また,ともに旅をする近しい者との別れが物語が始まる前に確定されているという意味で。

 ところで,本書の魅力の1つに,ぶっきらぼうな「である調」の中に,ごくまれに,かつ唐突に「ですます調」が現れることがある。たとえば,
「水際立つというのは,こうした場合に使う言葉なのかもしれないと思ったりしたのは,やや評価が高すぎるきらいはあると,わたしも思います。」
 この「思います」の主語は,フォギーなのか,作者なのか。それとも著述者=フォギーという構造なのか。そのあたりがえもいわれぬ瑞々しい揺れを感じさせてくれるのだ。
 もう一箇所例示してみよう,
「ついていくことだけに集中したせいで,フォギーは二回角を曲がった段階でもう帰り路がわからなくなった(普通に歩いても同じだったと思いますが)。」
 これだけ抜き出されてもわかりにくいだろうが,冷たい美味しい水に出会えて,そこで自分が渇いていたことに気がついたような,そんな感じです。

先頭 表紙

「葦と百合」もよかったですよ。ネタばれになりそうでうまく言えませんが、一読して、物語が現実を乗りこえる/という現実もありうることについてのフィクション、といった印象を受けました。烏丸さんもいつか論じておられましたね、言葉が事象を超えて、リアル以上にリアルに機能する瞬間があると。意外とツボを突かれるかもしれません。お試しあれ。 / 西山 ( 2004-07-25 18:55 )
ノヴァーリスの『青い花』って……今でも文庫で手に入るのですね。そのことに少しびっくり。老舗の書店でも詩集やら翻訳文学やら(ミステリとシェルダン除く)のコーナーがどんどん狭まっているこのご時世に,こういう本のニーズって,年間どのくらいあるのでしょう。 / 烏丸@岩波文庫は読みにくくて… ( 2004-07-13 12:33 )
実はこの作家のほかの作品は,いくつか手にはとってみたのですが,文体が重くてなかなか波に乗ることができません。『鳥類学者』はうまくノセられた気がしないでもない……。 / 烏丸 ( 2004-07-13 12:32 )
私も、霧子が登場する頃から主語の「揺れ」が気になりました。たぶんこれは、最初の章の末尾で説明されている「わたし」についてのくだりと、無関係ではないように思います。作中のアイディアが文体上で表現されている、といったところでしょうか。こういうテクニック?を意識させられたのは初めてで、驚いています。  ところで、Foggy's Moodのテーマを最初に思いついたのは、けっきょく誰になるんでしょうか?(笑) / 西山 ( 2004-07-08 18:26 )
読了しました。これ、素晴らしいですね。作者風に言えば、ポリーニによるリスト全曲でも聴き通したような充実感を覚えました。「ケンプが前座」「カラヤンがいました」等等、もう大うけ。ジャズがわかればもっと楽しめるんでしょうね。 次いで「ノヴァーリスの引用」を読んでみて、作者の文体上のテクニックの厚みを更に実感しました。いい作家をご紹介いただきありがとうございます。 / 西山 ( 2004-07-08 18:24 )

2004-06-18 『さみしさの周波数』 乙一 / 角川スニーカー文庫 (including 『森の死神』 ブリジット・オベール,香川百合子 訳 / ハヤカワ文庫)


<Part A>

 乙一(おついち)をときどき読む。

 正面から挑むとか,およそそんな感じではない。枕元に積んだ本の中にあって,ときにnightcap代わりに,短編を1つか2つ。16歳でジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞し,話題になったという『夏と花火と私の死体』すらまだ読んでいない。その程度。

 だから,今回は別に《切なさの達人》と呼ばれる乙一を正面から語ろう,とかいうつもりはない。

<Part B>

 海外ミステリをときどき読む。

 しばらくミステリらしいミステリから遠ざかっていたのだが,最近また何冊かに1冊の割合で海外ミステリを手にするようになった。とくにはきっかけも,意図するものもない。
 たまたま女流作家の作品が続いている。それなりに楽しんではいる。しかし,正直なところ,臓腑が揺れるほどには没頭していない自分がいる。読後感も淡々としたものである。

 たとえば,『森の死神』

 テロ事件に巻き込まれて全身麻痺に陥り,目も見えず,口をきくこともできなくなった女性を主人公とするブリジット・オベールのこの作品は,その設定の巧みさゆえ,絶妙なもどかしさを味わえる。事件はほとんどすべて主人公エリーズの耳に入った周囲の人々の言葉だけで展開し,彼女はイエスの意思表示の代わりに人差し指を持ち上げることしかできない。そんな状態で,彼女は,いかにして次々と子供たちを殺してはその体の一部を切り取って持ち去る殺人鬼の正体を暴くのか……。

<Part C>

 乙一の短編集『さみしさの周波数』に収録された「失はれた物語」は,交通事故で全身麻痺に陥り,目も見えず,口をきくことも,さらには音を聞くこともできなくなった男性の物語である。
 残された──いや,彼は生きてはいるのだから「残された」という表現は正確ではないのだが──妻は,かすかに痛点の残る右腕に文字を書くことで彼と会話を交わす。彼は,右手の人差し指を一度上げることでイエス,二度上げることでノーの意思表示をする。
 作品中の記述はすべて彼の一人称で描かれる。妻の言動は,彼の右腕の痛みを通して以外,一切描かれない。

<Part D>

 全身麻痺の人物が,唯一動かせる指やまぶたで意思表示するという設定は,ミステリの世界ではとくに初めてというわけではない。
 たとえばウィリアム・アイリッシュ「じっと見ている目」(創元推理文庫『アイリッシュ短編集3 裏窓』所収)では,やはり全身麻痺の老婆が,まばたき一度でイエス,二度でノーという意思表示をすることによって息子の仇を討つ。アイリッシュ(=コーネル・ウールリッチ)のファンは少なくなく,のちに複数の作家たちが似たような設定を選んだとしても,とくに驚くにはあたらないだろう。

 オベールの作品では,主人公の麻痺が完治することはないものの,事件についてはそれなりにハッピーエンドが用意されている。一方,乙一の作品では,およそ救いのない,哀切な最後が待っている。作品としての厚み,伏線,サスペンス,それらについてはすべてオベールの長編がまさり,それでもなおかつ乙一の描いた絶望は圧倒的にオベールにまさる。

<Part E>

 両作品とも,そのサスペンス,その絶望は,人差し指を上下することでイエス,ノーしか意思表示できない,そのコミュニケーションの障壁がキーとなっている。
 不思議なことに,主人公の周囲の人々は,なぜか,時間をかけてでも「言葉」による会話を実現しようという発想にはいたらない。アルファベットはたった26文字。人差し指を速く=10の桁,ゆっくり=1の桁,などと使い分ければ,文字を表すのも難しくはないだろう。モールス信号を学習させるという方法もある。時間だけはふんだんにあるのだ。

<Part F>

 結局,作者たちは「言葉」が伝えられない状況こそを描きたかったということか。

 さらにいえば,オベールは二重三重の条件を仕掛けた中でのサスペンスそのものを描きたかったのであり,そのために主人公の置かれた状況は厳しければ厳しいほうがよかった。したがって,事件が解決してしまえば,主人公は穏やかな融和の中に再配置される。

 一方,乙一はコミュニケーションの喪失そのものを描きたかったのであり,それはある程度成功している。「失はれた物語」は,短編小説としては図抜けて素晴らしいといえるほどのものではない。だが,ここに描かれたものはかつて類を見ない,徹底的な孤独として記憶されるべきものである。

 イエス。あるいは,ノー?

先頭 表紙

2004-06-14 取り上げられた本より面白い? 『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』 ちくま文庫


【この一冊を待っていた。】

 圧倒される。
 たった八百字程度なのに。いや,たった八百字程度だから,かもしれない。

 筆名は「狐」。夕刊紙「日刊ゲンダイ」に匿名で連載された書評コラムである。掲載は毎週水曜日。今回まとめられたのは,およそ四年分にあたる二百二編,文庫にして四百四ページ。この四百四ページが,広漠,かつ濃密な海をなして読み手を満たす。

 物語によく「命を削って」なにがしかをこしらえる話が登場する。本書に漂う殺気はそれに類するものだ。
 なにしろ書き出しからして凡百の書評とは《威力》が違う。
 たとえば。


 一読,積年の胸のつかえが下りる。気持ちがいい。啓蒙されるというのは本来,このように快適なことなのだ。
   安保徹著『医療が病いをつくる』(岩波書店)

 これが天才編集者の仕事である。
   ヘルマン・ヘッセ著/フォルカー・ミヒェルス編/倉田勇治訳『雲』(朝日出版社)

 嵐山光三郎が気合を入れた。
   嵐山光三郎『美妙,消えた。』(朝日新聞社)

 馬には乗ってみよ,ナボコフには添うてみよ。
   沼野充義ほか訳『ナボコフ短編全集 II』(作品社)

 厚い。重い。千三百二十ページ余りもある。読んでも読んでもゴルゴである。
   さいとう・たかを/さいとう・プロダクション著『リーダーズ・チョイス BEST13 OF ゴルゴ13』(小学館)


 全編全文,このような感じである。キレのよい名言のカタマリと言ってよい。

 なぜ,どうしたらこのような読書ができて、どのようにしたらかくのごとき書評が書けるのか。
 古今(イグナチオ・デ・ロヨラからナンシー関まで)の著述やどこから見つけてきたかというような専門書,チエーホフ,中島敦,野坂昭如にまじって東海林さだお,黒鉄ヒロシ,高野文子,川原泉,岡崎京子らがいるのも選択の自在さを顕して信頼に足る。

 丁寧に読んでみれば,決して奇をてらっているわけではない。
 書物の来歴を少ない文字数で的確に著し,その魅力と難点を遠慮なくまっすぐな言葉にしたらこうなる。……それが,難しい。本当に難しいことをこの著者はすっぱりとやってのける。

 権威ある出版社の全集本などに対して,権威への反抗としてでなく,正面からその解釈の誤りを指摘するますらおぶりも魅力的だ。底知れぬ学識をそれと意識させず,あくまで好もしい本との出会いを悦ぶその姿勢が嬉しい。

 ただし。

 書評のあまりの面白さに,紹介された本を何冊か手にとってみたものの……著者のようにあらゆる書物を読み解き,己の楽しみとするのもまた才能の1つなのかもしれない。
 いたらぬ修行,痛感である。

先頭 表紙

のだめといえば,新刊が出ましたね。今回も期待を裏切らないよい出来です。ただ,いつの間にか笑える要素はほとんどなくなってしまいました。ギャグはあるけれど,「音楽」に完全に負けている。それがよいことかどうかよくわかりません。感動できるんだから,別にいいんですけど。 / 烏丸 ( 2004-06-15 02:11 )
烏丸さんをうならせる書評って、それだけで興味あります。たまたま見つけたセンスのいいBlogに「信頼できる書評サイト」としてこのページが紹介されていたのでちょっとうれしくなりました。ちなみにここの紹介で「のだめ」を知ってはまったそうです。 / けろりん ( 2004-06-14 22:41 )

2004-05-31 少女マンガにおける「甘美」と「内省」の変遷 『ジェシカの世界』 西谷祥子 / 白泉社文庫


【じゃあこれから考えるのね ちっともおそくはないわ】

 2002年に水野英子のいくつかの作品が文庫化されたことはすでに紹介した(あとはどこかの出版社が『赤毛のスカーレット』を復刊してくれるのを待つばかり)。それに続いて,今年は西谷祥子(にしたに よしこ)の代表作の文庫化が進んでいる。1960年代の「週刊マーガレット」という,ピュアな意味での少女マンガの黄金期を代表する作品群である。

     ☆    ☆    ☆

 既刊の『マリイ・ルウ』(おお! ちなみに「マリイ」と「ルウ」の間はハートマーク),『ジェシカの世界』(うう!),『レモンとサクランボ』(ぎゃお!)……。
 続刊は,連載当時どんどん救いがなくなっていく展開に驚きつつ読み呆け,そのくせ肝心なクライマックスを読み逃した,痛恨の『学生たちの道』だそうだ。40年近くそれが記憶の咽喉(のど)にトゲのようにひっかかってきたが,その最終回を知ることは,果たして人生の充足といえるだろうか,それとも。

     ☆    ☆    ☆

 西谷祥子は,ヨーロッパの貴族社会やアメリカのハイスクール,そして日本の高校の自由な青春群像と,当時の少女たちがあこがれた世界を次々取り上げてはハイテンポかつオシャレに描き上げてみせた。
 のちにデラックスマーガレットの表紙を飾った美麗な(高橋真琴ばりの)イラストの印象も強く,どうもこの少女の「あこがれ」や「オシャレ」のベクトルばかり強調されているような気がしないでもない。しかし,実のところ西谷祥子が少女マンガに持ち込んだのは「内省的な心理描写」だったのではないだろうか。

 ご記憶の方は,他愛ない青春コメディの一幕であったはずの『ジュンの結婚』を思い起こしていただきたい。
 マンガのセリフはご存知のとおり,風船のような吹き出し(どの人物のセリフかは「<」の向きで示される)と,吹き出しと人物を「〇〇〇」で結んだ心中のセリフに分けられる。ところが,『ジュンの結婚』では,さらに登場人物の背景の地に文字で書かれた,いわば内省的なセリフが随所に活用されていた。
 つまり,それまでの少女マンガの登場人物たちが,「嬉しい」「悲しい」「楽しい」「残念」等,いわば一次的な感情のままに喋り,行動していたのに比べ,西谷作品の登場人物は,たとえば「わたしが嬉しいのはあの人の不幸を喜んでいることになるわ」とか,「残念と思うわたしは,彼のことが気になっているということかしら」と二手,三手先まで自分の心を読もうとしたのである。文学では当たり前のことだが,当時の少女マンガの世界ではそれはかなり斬新なことだったのだ。

 元来,マンガのキャラクターは純真で疑いを知らないのを善しとされ,およそ内省的とはいい難い。だからこそ,トゥシューズに画鋲が入っていても周囲を憎むことなく翌日も頑張ってレッスンに励むことができたのだ。
 しかし,西谷作品の登場人物は,そこで相手の悪意を考える。ただし,単に高慢なお嬢さまグループを敵とみなすのではなく,なぜ彼女がその行為をするにいたったのか,自分のせいではないのか,自分としてはどうすればよいのか,まで考える。

 内省的に過ぎる結果,なかなか思いを相手に伝えられなかったり,大切な一歩を踏み出せないということはあるだろう。だから西谷作品では,主人公の恋愛がテーマでありながら,得恋あるいは失恋という明確な結果が得られないことが多い。
 思いを伝えられないブルーな日々,ところが思いがけない事件ののち両想いが明らかになってピンクの日々……そういった,それまでのオーソドックスな少女マンガ作品の多くのように恋愛が簡単に割り切れるものではないことを,たとえば『レモンとサクランボ』は示す。ラブ・アフェアにあふれたストーリーでありながら,この作品では主人公の礼子とさくらは最後までステディな彼氏を持たないのだ(「ステディ」も「彼氏」もいまや死語ではあるが……)。

     ☆    ☆    ☆

 ヨーロッパの貴族社会,アメリカン・ハイスクール……西谷作品がこれらを舞台にしたのは,当時の少女マンガが,当時の少女たちの「甘美な夢」を代わりに描いてみせるものだったためだ。
 いわく,はじめてのドレス,はじめてのデイト,はじめてのダンス・パーティー……。

 もちろん,昨今の少女マンガにもそういった傾向がないわけではない。
 しかし,最近の作品の大半には「この程度ならあり得るだろう」というリアリティが染み付いている。たとえばミュージシャンとの恋愛を描くにしても,プロのミュージシャンの生活はキラキラ光る別世界ではなく,アマチュアバンド,インディーズのセミプロ,その先のプロの世界と,読み手の日常生活と地続きである。

 しかし,西谷祥子らが活躍した時代,とくに60年代は,そうではなかった。
 その一つの現れが,『ジェシカの世界』のエンディングである。ネタバレで申し訳ないが,本作では主人公の少女が最後には発狂して,自分の世界に閉じこもってしまう。当時,一条ゆかり『風の中のクレオ』,水野英子『ファイヤー!』など,主人公が発狂して終わる少女マンガは少なくなかった。
 つまり,当時,少女マンガに求められていたものは日常生活と地続きでない「甘美」さであり,狂気はその「甘美」の側にあったのである。

 現在,登場人物が発狂するエンディングを「甘美」に描くことはかなり難しいだろう。描かれる世界が日常と地続きとなった時代,狂気は結局のところやっかいな,あるいは治療の対象たる「病気」の一種なのだから。

     ☆    ☆    ☆

 西谷祥子は,考える主人公を創造し,おそらくそれは見えにくいところで少女マンガの系譜に極めて大きな影響を残した。

 「甘美」へのニーズに応えつつも,「考えないお人形」から「考える少女」に。それは少女マンガの主人公がのちに「少女」から生身の「女」に変わるために開かねばならなかった扉ではなかったかと思うのだが,どうだろうか。

先頭 表紙

2004-05-28 『あの素晴らしい 日ペンの美子ちゃん をもう一度』 岡崎いずみ+mico secret service / 第三文明社


【ペン字検定一級合格者の4割は日ペンの出身者】

 出版,それもコミック関連の書籍にたずさわる者なら,誰しも本書のタイトルにショックを受け,悔しさと情けなさと羨望をこめたため息を「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ」とたっぷり150秒はもらし続けるはずだ。
 
(何年か前,いかにもオタク然とした三代め美子ちゃんの作者(=さとうげん,男性)が深夜番組「タモリ倶楽部」にブリキのロボットを持って現れたとき,なぜこの企画を思いつかなかったのか……編集者がオノレのヘソを噛んで死んでしまいたくなるのはこんなときである。)

 日ペンの美子ちゃんは,1972年から1999年にかけて,主に少女マンガ誌の裏表紙を飾った広告マンガだ。

 『エースをねらえ!』や『たそがれ時に見つけたの』をリアルタイムにお読みの方には説明の必要もないだろう,そう,あの強引な展開,ペットのネコ,

  なにしろ55年の歴史をもつ日ペンで字をならったんだもの……
  先生方も一流だし……
  バインダー式の教材がステキよ
  テキストもわかりやすいし漢字の筆順やお手紙の書き方もマスターできるの!

の,あの美子ちゃんである。

 本書はあの時代に誰もが目にしつつ,誰もがなんとなく見過ごしてきた日ペンの美子ちゃんを正面から取り上げ,初代から4代めまでの主な作品を紹介するとともに,それぞれの作者のインタビューや中村うさぎらの寄稿エッセイなどで資料性を高めたものだ。

 美子ちゃんの趣味。美子ちゃんのパパの仕事。美子ちゃんの住所。美子ちゃんの意外な苗字。
 美子ちゃんの就職。初代から3代めまでがそろったレアな作品。さらにレアな美子ちゃんの結婚後……!

 あなたが出会った美子ちゃんは,どの美子ちゃんだったろう。
 ちなみに,カラスにとっては,やはり,初代の矢吹れい子,すなわちのちの中山星香による美子ちゃんが,どうしてもナンバーワンにしてオンリーワンだ。美子ちゃんはやっぱりお姫さまカットでなくっちゃ。

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 ところで,本書の後半には美子ちゃんのパロディとして,パソコン雑誌「Oh!X」に掲載された「満開の電子ちゃん」が紹介されている。掲載許可をとろうとしたが制作元の「満開製作所」と連絡がつかないという。
 仕方ないだろう,電子ちゃんの原作者,祝一平氏は数年前に亡くなっている。満開製作所も消散したように聞いている。
 ……祝さん,僕は寂しいよ。

先頭 表紙

日ペンはやろうとした矢先に身辺のゴタゴタで挫折しました。それさえなければ買ってたかも、この本。私は多分2代目か3代目の頃ですね。 / Hikaru ( 2004-06-10 16:20 )
そういえば,カラスも本書を知ったのは電車の中吊りででした。忘れないようその場でケータイから自分宛に「日ペン美子ちゃん」とメール,自宅のPCでそのメール開いてそっこーAmazonで注文,という具合です。サイバー度35%くらい,ですね。 / 烏丸 ( 2004-05-29 19:15 )
中吊りで見てとても気になっていました。初代美子ちゃんは中山星香の手になるものだったとは! ちなみにわたしは3代目美子ちゃんで育ちました☆ / みなみ ( 2004-05-29 16:40 )
そうですか,買いましたか! カラスは当時,手書き文字には自信があったので──美しいという意味ではなく,ガリ版向きの非常に読み違えのない文字だったのです──美子ちゃんはまったくの「1ページマンガ」でした。「とってもしあわせモトちゃん」みたいな感じね。 / 烏丸@今どき「ガリ版」で会話通じるかな? ( 2004-05-28 14:56 )
↓しかも「あ、い、う」の3文字しかやってない(実話) / あやや ( 2004-05-28 10:07 )
はぁ〜〜〜(150秒) しかも私、買ったし!! / あやや ( 2004-05-28 10:07 )

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