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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2004-06-30 のびやかに吹くべしホラを 『後宮小説』 酒見賢一 / 新潮文庫
2004-06-21 大人のための銀河鉄道の夜…… 『鳥類学者のファンタジア』 奥泉 光 / 集英社文庫
2004-06-18 『さみしさの周波数』 乙一 / 角川スニーカー文庫 (including 『森の死神』 ブリジット・オベール,香川百合子 訳 / ハヤカワ文庫)
2004-06-14 取り上げられた本より面白い? 『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』 ちくま文庫
2004-05-31 少女マンガにおける「甘美」と「内省」の変遷 『ジェシカの世界』 西谷祥子 / 白泉社文庫
2004-05-28 『あの素晴らしい 日ペンの美子ちゃん をもう一度』 岡崎いずみ+mico secret service / 第三文明社
2004-05-14 沈みゆく悲しみ 『深海蒐集人(1)(2)』 かまたきみこ / 朝日ソノラマ
2004-05-06 最近《ちょっと》がっかりしたコミックス 『栞と紙魚子 何かが街にやって来る』 諸星大二郎 / 朝日ソノラマ(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)
2004-04-26 最近《ちょっと》がっかりしたコミックス 『珍犬デュカスのミステリー(2)』 坂田靖子 / 双葉社(ジュールコミックス)
2004-04-20 『真相はこれだ! 「昭和」8大事件を撃つ』 祝 康成 / 新潮文庫


2004-06-30 のびやかに吹くべしホラを 『後宮小説』 酒見賢一 / 新潮文庫


【なによ。ばつがわるいじゃないの】

 『鳥類学者のファンタジア』のもう一方の魅力は,小説たるものは本来突拍子もないホラ話であるべし,ということをがつんと思い出させてくれることにある。

 もちろん,ブンガクの使命はほかにもきっとある。多分,あるに違いない。だが,どうも「自分探しに懸命なワタシ」や「衝動的に破壊に走ってしまうワタシ」ばかりだと少々うんざりしてしまう。
 作者自身の惑いや心理衝動を散文にのせただけなら,それは「ワタシ小説」に過ぎない。純文学と分類される小説の側にも,他人を楽しませ,喜ばせ,救う,いうなれば「他小説」がもう少しあってもよいのではないか。もしくはもう少し評価されてもよいのではないか。どうも小乗小説が多いような気がしてならない。

 上記に思い至ったのは,『鳥類学者のファンタジア』に続いて酒見賢一『後宮小説』を読んだためでもある。

 『後宮小説』は第一回ファンタジーノベル大賞受賞作で──といわれても,ファンタジーノベル大賞というものをよく知らないのでうなずくしかないのだが──また,テレビアニメ『雲のように風のように』(1990年3月21日放映)の原作としても知られる作品である。
 このTVアニメ作品をうっかり(?)見てしまったため,これまで原作を読む意欲を失していた。だが,15年近く経って,ふと,アニメのほうはヒロイン銀河を演じた佐野量子のちょっとはかない(というか頼りない)声を除き,ほとんどなんにも記憶にないことに気がついて,今さらながら原作を読んでみようと思い立った。

 さて,その原作だが……なかなか,よかった。

 『後宮小説』は,田舎娘の銀河が,腹上死した先帝の後を継いで素乾国の皇帝となった槐宗の後宮に入り,物怖じしない天真爛漫な言動に周囲を巻き込み,あげくに後宮軍隊を組織して反乱軍に立ち向かう,というお話である。

 まぁ,詳細を覚えてもいないアニメと比較してもしようがないが,『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』の近藤勝也によるアニメのキャラクターの銀河はおよそ美人には見えないが,原作では性格はともかく王都で流行している衣装を着せ,公女のように髪を結えば「宦官の身でさえはっとするほどの姫君」とされている。要するに,原作では銀河は美麗であること一流なのである。
 また,原作の文体には,アニメでは表現されなかった,架空の「素乾国」の歴史などをまるごとデッチアゲた「かろみ」が漂っている。架空の王朝の後宮について,架空のしきたり,架空の学問をしゃらりと描き上げる。「素乾」というネーミングからして,素晴らしいではないか。
 本書は,「素乾書」「乾史」「素乾通鑑」という(当然ながら架空の)文献をもとに書かれたことになっており、随所にそれが示される。曰く,

『強ヒテ望ム,ソノ答ヲ出ダサレンコトヲ。判然トセザルハ心気安セザルナリ』
 と銀河が叫んだことになっている。
「ちゃんとした答えを教えてもらわないと,夜も気になって眠れなくなるじゃないの」
 師に対するには不躾すぎる物言いであろう。さらに,『卑怯ナリ』と言ったともいわれるが,どうだろうか。


 ここで,筆者も馬鹿かと思わないこともない。この小説のもとだねとなっている歴史書のひとつ「素乾書」を編纂した無名の史官に対してである。正史とは国家の歴史の正式な記録である。にも拘らず,このような痴戯の類まで馬鹿正直に記載しているのである。そんな史官の執筆態度に筆者も好意を覚えざるを得ない。

 などなど。
 タワケているといえばこの上なくタワケた書きっぷりだが,これが本書の魅力と「かろみ」の真髄である。

 また,テレビ用のアニメではほとんど触れられなかったが,原作では素乾国後宮における一種の性愛哲学に大きな比重がおかれている。それを語るに作者は角先生という人物を用意して,作者直接でなく角先生に語らせ,処女の銀河に問答させることで,そのあたりの生臭さを巧みにすり抜け,バートン版『カーマ・スートラ』同様本来のそのことの尾籠さをうまく隠蔽している。
 ただ,なにぶん全編にこの話題の占めるボリュームが大きく,本書を子供に勧めるとなるとやや躊躇するものがあるだろう。

 最後に,『後宮小説』は本来子供っぽくてのびやかな銀河の魅力(年ごろになったハイジを想像すればよい?)によるものだが,それ以上に魅力的なのは,素乾国を滅ぼした幻影達の背後にいた,渾沌なる人物である。
 この気まぐれ,かつ妙に文化人たる混沌,アニメでは気のいいおじさん程度にしか描かれなかったが,原作では一種の「怪物」である。おそらく,混沌という人物の側から素乾史を描いたなら,本書はおよそ手触りの違う暗黒小説となったかもしれない。本書が,いかにもジブリアニメの原作のようでありながら,中に一種の鉛の錘を置いたような按配なのはこの渾沌という人物のせいであろう。

 さて,小説はホラ話,ということでは,もう一人取り上げたい作家がいる。
 次回はその作家の作品を。

先頭 表紙

アレックス・タイムトラベルですね。あのシリーズは泣けます。青いバラといえば,『Z −ツェット−』の第一話もそうでしたね。 / 烏丸 ( 2004-07-04 01:44 )
アニメを観た後すぐに原作読んだクチですが、なんだー原作の方がおもしろいなぁと思った私はアレですか。(^ ^;)青いバラって清原なつのさんのマンガ思い出しますね。 / けろりん ( 2004-07-01 12:58 )
おお。青いバラだ。発売は数年後だって。 / レインボウズ ( 2004-06-30 20:34 )

2004-06-21 大人のための銀河鉄道の夜…… 『鳥類学者のファンタジア』 奥泉 光 / 集英社文庫


【もう,なにもいうことは,ないのでした。】

 楽しい。

 本を読む楽しみをたっぷりと堪能できる1冊である。
 文庫で700ページを超える長編だが,読み終えたとき,美味しいチョコレートケーキの最後の一匙を食べてしまったような気分になる。パラパラとあちらこちら拾い読みしてしまう。また最初から読みたくなる。

 粗筋はカバーから失礼させていただこう。曰く,
 「フォギー」ことジャズ・ピアニストの池永希梨子は演奏中に不思議な感覚にとらわれた。柱の陰に誰かいる……。それが,時空を超える大冒険旅行の始まりだった。謎の音階が引き起こす超常現象に導かれ,フォギーはナチス支配下,1944年のドイツへとタイムスリップしてしまう──。

 つまり,本書はフィリップ K.ディック『高い城の男』や,ジェリー・ユルスマン『エリアンダー・Mの犯罪』と並び称すべきタイムスリップSFの巨編で……。

 ウソウソ。そういう予断なしに手に取るのがいいと思います。

 本書の惹句や推奨コピーの中には「モダンジャズファンにはたまらない!」とか,そういった表現もあるようだが,それも気にしないほうがよい。確かに主人公のフォギーはジャズ・ピアニストだし,ストーリーには音楽が大きくかかわっている。しかし,ジャズに詳しくなければわからない,といった構えは,イギリスで書かれた小説はイギリスに行ったことがなければ楽しめない,とかいうのに等しい。

 そもそも,本書にはキーワードとして
   フィボナッチ数列
   オルフェウスの音階
   ピュタゴラスの天体
   ロンギヌスの聖槍
   宇宙オルガン
などが仰々しく登場する。つまりは,
   チャーリー・パーカー
   チュニジアの夜
などもそれに並ぶパズルのピースとして配置すればよいのだ。

 それにしても,Web上の本書に対する評価の揺れは面白い。やれ笑えない,冗長だ,散漫だ,自分つっこみが多くてうんざり,などなど。酷評の多くはこの文体についていけたかどうかで異なるように思われる。

 想像するに,日ごろからマンガを読みつけている人は,本書の文体にも比較的スムーズに入り込めるのではないか。
(別に本文中に「佐知子ちゃんが峰不二子(ただし胸のない)なら,こっちは『風の谷のナウシカ』だ(やや意味不明ですが,おなじ宮崎監督関係ということで)」などという「笑えない」「自分つっこみ」があるから,というわけではない。)
 要するに,本書は文体上のテクニックを強く意識して書かれているのではないか,ということだ。

 昨今の小説のどれほどにおいて,作者によって明確に「文体」というものが意識されているだろう。どうもあまり意識されていないのではないか。
 たとえば,文体のみで他と区別できる作家がどれほどいるだろう。また,複数の文体を意図的に使い分けられる作家がどれほどいるだろう。

 一方,マンガというものは,本来的にテクニックの産物である。あらゆるコマは,他の作家の作品ではないことを歴然と示している。作者は1コマ描くにおいても己のテクニックを駆使し,読み手は高速にページをめくりつつ,そこに込められたテクニックを評価する。

 本書『鳥類学者のファンタジア』は,(読み手の好みに合うか否かは別として)文体において相当に意識的だ。
 ノンシャランなジャズ・ピアニストの視点から語られる本文はぶっきらぼうかつ若干無神経な「である調」で,1944年のナチス支配下にタイムスリップするという超常現象に対しても36歳の独身女が酔った帰りにコンビニの棚を見て歩く程度の精度,緊張感しか表さない。超常現象以上にそのことが異常なのだが,それに慣れたとき,読み手はフォギーにシンパシーを抱き,彼女と旅をともにできるだろう。

 それを実現しているのが,作者の文体上のテクニックである。
 おそらく,マンガの熱心な読み手であるなら,そこに「テクニックが込められている」一事をもって,本書に好感を抱くのではないか。逆に,そういう読み方に慣れていない「文学系」の読み手は,かえって本書の文体を余計なものの多い,ゴミゴミしたものに感じてしまうのではないか。

 作者は主人公フォギーのジャズ・ピアノに対する信念として,「アイデアを肉体化し現実の音楽にもたらすのは技術であり,パワーであり,そうした技術やパワーを獲得するには地道な練習以外に方法はない」と記している。こうした考え方は音楽の演奏やマンガの世界ではごく普通だと思われるが,なぜ昨今の文学ではそうした技術や練習に対する敬意が軽んじられているのか,不思議でならない。
 著者は明らかに,技術や練習の側にいようとしているのである。

 壮大といえば壮大,インナーといえばインナーなフォギーの旅は,この世の芸術の全貌を語りつくすような大技を,微苦笑を誘う中年女の冒険譚に織り込んで,軽く読もうと思えばとことん軽く(正直なところ,ここしばらくこんなに笑える本はなかった),重く読もうと思えばどっぷり重く(ここしばらく,これほど音楽について正面から考えた記憶がない),結局のところ,フォギーに対する友情以上,恋愛未満の感情を抱いて本書は終わる。

 賢治ファンが納得するかどうかしらないが,本書は大人のための『銀河鉄道の夜』なのではないか。
 この世のさまざまな事象を別世界に投影して意味を問い,問うだけで明確な回答を用意しないことによってより開放的な回答を求めるという意味で。また,ともに旅をする近しい者との別れが物語が始まる前に確定されているという意味で。

 ところで,本書の魅力の1つに,ぶっきらぼうな「である調」の中に,ごくまれに,かつ唐突に「ですます調」が現れることがある。たとえば,
「水際立つというのは,こうした場合に使う言葉なのかもしれないと思ったりしたのは,やや評価が高すぎるきらいはあると,わたしも思います。」
 この「思います」の主語は,フォギーなのか,作者なのか。それとも著述者=フォギーという構造なのか。そのあたりがえもいわれぬ瑞々しい揺れを感じさせてくれるのだ。
 もう一箇所例示してみよう,
「ついていくことだけに集中したせいで,フォギーは二回角を曲がった段階でもう帰り路がわからなくなった(普通に歩いても同じだったと思いますが)。」
 これだけ抜き出されてもわかりにくいだろうが,冷たい美味しい水に出会えて,そこで自分が渇いていたことに気がついたような,そんな感じです。

先頭 表紙

「葦と百合」もよかったですよ。ネタばれになりそうでうまく言えませんが、一読して、物語が現実を乗りこえる/という現実もありうることについてのフィクション、といった印象を受けました。烏丸さんもいつか論じておられましたね、言葉が事象を超えて、リアル以上にリアルに機能する瞬間があると。意外とツボを突かれるかもしれません。お試しあれ。 / 西山 ( 2004-07-25 18:55 )
ノヴァーリスの『青い花』って……今でも文庫で手に入るのですね。そのことに少しびっくり。老舗の書店でも詩集やら翻訳文学やら(ミステリとシェルダン除く)のコーナーがどんどん狭まっているこのご時世に,こういう本のニーズって,年間どのくらいあるのでしょう。 / 烏丸@岩波文庫は読みにくくて… ( 2004-07-13 12:33 )
実はこの作家のほかの作品は,いくつか手にはとってみたのですが,文体が重くてなかなか波に乗ることができません。『鳥類学者』はうまくノセられた気がしないでもない……。 / 烏丸 ( 2004-07-13 12:32 )
私も、霧子が登場する頃から主語の「揺れ」が気になりました。たぶんこれは、最初の章の末尾で説明されている「わたし」についてのくだりと、無関係ではないように思います。作中のアイディアが文体上で表現されている、といったところでしょうか。こういうテクニック?を意識させられたのは初めてで、驚いています。  ところで、Foggy's Moodのテーマを最初に思いついたのは、けっきょく誰になるんでしょうか?(笑) / 西山 ( 2004-07-08 18:26 )
読了しました。これ、素晴らしいですね。作者風に言えば、ポリーニによるリスト全曲でも聴き通したような充実感を覚えました。「ケンプが前座」「カラヤンがいました」等等、もう大うけ。ジャズがわかればもっと楽しめるんでしょうね。 次いで「ノヴァーリスの引用」を読んでみて、作者の文体上のテクニックの厚みを更に実感しました。いい作家をご紹介いただきありがとうございます。 / 西山 ( 2004-07-08 18:24 )

2004-06-18 『さみしさの周波数』 乙一 / 角川スニーカー文庫 (including 『森の死神』 ブリジット・オベール,香川百合子 訳 / ハヤカワ文庫)


<Part A>

 乙一(おついち)をときどき読む。

 正面から挑むとか,およそそんな感じではない。枕元に積んだ本の中にあって,ときにnightcap代わりに,短編を1つか2つ。16歳でジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞し,話題になったという『夏と花火と私の死体』すらまだ読んでいない。その程度。

 だから,今回は別に《切なさの達人》と呼ばれる乙一を正面から語ろう,とかいうつもりはない。

<Part B>

 海外ミステリをときどき読む。

 しばらくミステリらしいミステリから遠ざかっていたのだが,最近また何冊かに1冊の割合で海外ミステリを手にするようになった。とくにはきっかけも,意図するものもない。
 たまたま女流作家の作品が続いている。それなりに楽しんではいる。しかし,正直なところ,臓腑が揺れるほどには没頭していない自分がいる。読後感も淡々としたものである。

 たとえば,『森の死神』

 テロ事件に巻き込まれて全身麻痺に陥り,目も見えず,口をきくこともできなくなった女性を主人公とするブリジット・オベールのこの作品は,その設定の巧みさゆえ,絶妙なもどかしさを味わえる。事件はほとんどすべて主人公エリーズの耳に入った周囲の人々の言葉だけで展開し,彼女はイエスの意思表示の代わりに人差し指を持ち上げることしかできない。そんな状態で,彼女は,いかにして次々と子供たちを殺してはその体の一部を切り取って持ち去る殺人鬼の正体を暴くのか……。

<Part C>

 乙一の短編集『さみしさの周波数』に収録された「失はれた物語」は,交通事故で全身麻痺に陥り,目も見えず,口をきくことも,さらには音を聞くこともできなくなった男性の物語である。
 残された──いや,彼は生きてはいるのだから「残された」という表現は正確ではないのだが──妻は,かすかに痛点の残る右腕に文字を書くことで彼と会話を交わす。彼は,右手の人差し指を一度上げることでイエス,二度上げることでノーの意思表示をする。
 作品中の記述はすべて彼の一人称で描かれる。妻の言動は,彼の右腕の痛みを通して以外,一切描かれない。

<Part D>

 全身麻痺の人物が,唯一動かせる指やまぶたで意思表示するという設定は,ミステリの世界ではとくに初めてというわけではない。
 たとえばウィリアム・アイリッシュ「じっと見ている目」(創元推理文庫『アイリッシュ短編集3 裏窓』所収)では,やはり全身麻痺の老婆が,まばたき一度でイエス,二度でノーという意思表示をすることによって息子の仇を討つ。アイリッシュ(=コーネル・ウールリッチ)のファンは少なくなく,のちに複数の作家たちが似たような設定を選んだとしても,とくに驚くにはあたらないだろう。

 オベールの作品では,主人公の麻痺が完治することはないものの,事件についてはそれなりにハッピーエンドが用意されている。一方,乙一の作品では,およそ救いのない,哀切な最後が待っている。作品としての厚み,伏線,サスペンス,それらについてはすべてオベールの長編がまさり,それでもなおかつ乙一の描いた絶望は圧倒的にオベールにまさる。

<Part E>

 両作品とも,そのサスペンス,その絶望は,人差し指を上下することでイエス,ノーしか意思表示できない,そのコミュニケーションの障壁がキーとなっている。
 不思議なことに,主人公の周囲の人々は,なぜか,時間をかけてでも「言葉」による会話を実現しようという発想にはいたらない。アルファベットはたった26文字。人差し指を速く=10の桁,ゆっくり=1の桁,などと使い分ければ,文字を表すのも難しくはないだろう。モールス信号を学習させるという方法もある。時間だけはふんだんにあるのだ。

<Part F>

 結局,作者たちは「言葉」が伝えられない状況こそを描きたかったということか。

 さらにいえば,オベールは二重三重の条件を仕掛けた中でのサスペンスそのものを描きたかったのであり,そのために主人公の置かれた状況は厳しければ厳しいほうがよかった。したがって,事件が解決してしまえば,主人公は穏やかな融和の中に再配置される。

 一方,乙一はコミュニケーションの喪失そのものを描きたかったのであり,それはある程度成功している。「失はれた物語」は,短編小説としては図抜けて素晴らしいといえるほどのものではない。だが,ここに描かれたものはかつて類を見ない,徹底的な孤独として記憶されるべきものである。

 イエス。あるいは,ノー?

先頭 表紙

2004-06-14 取り上げられた本より面白い? 『水曜日は狐の書評 日刊ゲンダイ匿名コラム』 ちくま文庫


【この一冊を待っていた。】

 圧倒される。
 たった八百字程度なのに。いや,たった八百字程度だから,かもしれない。

 筆名は「狐」。夕刊紙「日刊ゲンダイ」に匿名で連載された書評コラムである。掲載は毎週水曜日。今回まとめられたのは,およそ四年分にあたる二百二編,文庫にして四百四ページ。この四百四ページが,広漠,かつ濃密な海をなして読み手を満たす。

 物語によく「命を削って」なにがしかをこしらえる話が登場する。本書に漂う殺気はそれに類するものだ。
 なにしろ書き出しからして凡百の書評とは《威力》が違う。
 たとえば。


 一読,積年の胸のつかえが下りる。気持ちがいい。啓蒙されるというのは本来,このように快適なことなのだ。
   安保徹著『医療が病いをつくる』(岩波書店)

 これが天才編集者の仕事である。
   ヘルマン・ヘッセ著/フォルカー・ミヒェルス編/倉田勇治訳『雲』(朝日出版社)

 嵐山光三郎が気合を入れた。
   嵐山光三郎『美妙,消えた。』(朝日新聞社)

 馬には乗ってみよ,ナボコフには添うてみよ。
   沼野充義ほか訳『ナボコフ短編全集 II』(作品社)

 厚い。重い。千三百二十ページ余りもある。読んでも読んでもゴルゴである。
   さいとう・たかを/さいとう・プロダクション著『リーダーズ・チョイス BEST13 OF ゴルゴ13』(小学館)


 全編全文,このような感じである。キレのよい名言のカタマリと言ってよい。

 なぜ,どうしたらこのような読書ができて、どのようにしたらかくのごとき書評が書けるのか。
 古今(イグナチオ・デ・ロヨラからナンシー関まで)の著述やどこから見つけてきたかというような専門書,チエーホフ,中島敦,野坂昭如にまじって東海林さだお,黒鉄ヒロシ,高野文子,川原泉,岡崎京子らがいるのも選択の自在さを顕して信頼に足る。

 丁寧に読んでみれば,決して奇をてらっているわけではない。
 書物の来歴を少ない文字数で的確に著し,その魅力と難点を遠慮なくまっすぐな言葉にしたらこうなる。……それが,難しい。本当に難しいことをこの著者はすっぱりとやってのける。

 権威ある出版社の全集本などに対して,権威への反抗としてでなく,正面からその解釈の誤りを指摘するますらおぶりも魅力的だ。底知れぬ学識をそれと意識させず,あくまで好もしい本との出会いを悦ぶその姿勢が嬉しい。

 ただし。

 書評のあまりの面白さに,紹介された本を何冊か手にとってみたものの……著者のようにあらゆる書物を読み解き,己の楽しみとするのもまた才能の1つなのかもしれない。
 いたらぬ修行,痛感である。

先頭 表紙

のだめといえば,新刊が出ましたね。今回も期待を裏切らないよい出来です。ただ,いつの間にか笑える要素はほとんどなくなってしまいました。ギャグはあるけれど,「音楽」に完全に負けている。それがよいことかどうかよくわかりません。感動できるんだから,別にいいんですけど。 / 烏丸 ( 2004-06-15 02:11 )
烏丸さんをうならせる書評って、それだけで興味あります。たまたま見つけたセンスのいいBlogに「信頼できる書評サイト」としてこのページが紹介されていたのでちょっとうれしくなりました。ちなみにここの紹介で「のだめ」を知ってはまったそうです。 / けろりん ( 2004-06-14 22:41 )

2004-05-31 少女マンガにおける「甘美」と「内省」の変遷 『ジェシカの世界』 西谷祥子 / 白泉社文庫


【じゃあこれから考えるのね ちっともおそくはないわ】

 2002年に水野英子のいくつかの作品が文庫化されたことはすでに紹介した(あとはどこかの出版社が『赤毛のスカーレット』を復刊してくれるのを待つばかり)。それに続いて,今年は西谷祥子(にしたに よしこ)の代表作の文庫化が進んでいる。1960年代の「週刊マーガレット」という,ピュアな意味での少女マンガの黄金期を代表する作品群である。

     ☆    ☆    ☆

 既刊の『マリイ・ルウ』(おお! ちなみに「マリイ」と「ルウ」の間はハートマーク),『ジェシカの世界』(うう!),『レモンとサクランボ』(ぎゃお!)……。
 続刊は,連載当時どんどん救いがなくなっていく展開に驚きつつ読み呆け,そのくせ肝心なクライマックスを読み逃した,痛恨の『学生たちの道』だそうだ。40年近くそれが記憶の咽喉(のど)にトゲのようにひっかかってきたが,その最終回を知ることは,果たして人生の充足といえるだろうか,それとも。

     ☆    ☆    ☆

 西谷祥子は,ヨーロッパの貴族社会やアメリカのハイスクール,そして日本の高校の自由な青春群像と,当時の少女たちがあこがれた世界を次々取り上げてはハイテンポかつオシャレに描き上げてみせた。
 のちにデラックスマーガレットの表紙を飾った美麗な(高橋真琴ばりの)イラストの印象も強く,どうもこの少女の「あこがれ」や「オシャレ」のベクトルばかり強調されているような気がしないでもない。しかし,実のところ西谷祥子が少女マンガに持ち込んだのは「内省的な心理描写」だったのではないだろうか。

 ご記憶の方は,他愛ない青春コメディの一幕であったはずの『ジュンの結婚』を思い起こしていただきたい。
 マンガのセリフはご存知のとおり,風船のような吹き出し(どの人物のセリフかは「<」の向きで示される)と,吹き出しと人物を「〇〇〇」で結んだ心中のセリフに分けられる。ところが,『ジュンの結婚』では,さらに登場人物の背景の地に文字で書かれた,いわば内省的なセリフが随所に活用されていた。
 つまり,それまでの少女マンガの登場人物たちが,「嬉しい」「悲しい」「楽しい」「残念」等,いわば一次的な感情のままに喋り,行動していたのに比べ,西谷作品の登場人物は,たとえば「わたしが嬉しいのはあの人の不幸を喜んでいることになるわ」とか,「残念と思うわたしは,彼のことが気になっているということかしら」と二手,三手先まで自分の心を読もうとしたのである。文学では当たり前のことだが,当時の少女マンガの世界ではそれはかなり斬新なことだったのだ。

 元来,マンガのキャラクターは純真で疑いを知らないのを善しとされ,およそ内省的とはいい難い。だからこそ,トゥシューズに画鋲が入っていても周囲を憎むことなく翌日も頑張ってレッスンに励むことができたのだ。
 しかし,西谷作品の登場人物は,そこで相手の悪意を考える。ただし,単に高慢なお嬢さまグループを敵とみなすのではなく,なぜ彼女がその行為をするにいたったのか,自分のせいではないのか,自分としてはどうすればよいのか,まで考える。

 内省的に過ぎる結果,なかなか思いを相手に伝えられなかったり,大切な一歩を踏み出せないということはあるだろう。だから西谷作品では,主人公の恋愛がテーマでありながら,得恋あるいは失恋という明確な結果が得られないことが多い。
 思いを伝えられないブルーな日々,ところが思いがけない事件ののち両想いが明らかになってピンクの日々……そういった,それまでのオーソドックスな少女マンガ作品の多くのように恋愛が簡単に割り切れるものではないことを,たとえば『レモンとサクランボ』は示す。ラブ・アフェアにあふれたストーリーでありながら,この作品では主人公の礼子とさくらは最後までステディな彼氏を持たないのだ(「ステディ」も「彼氏」もいまや死語ではあるが……)。

     ☆    ☆    ☆

 ヨーロッパの貴族社会,アメリカン・ハイスクール……西谷作品がこれらを舞台にしたのは,当時の少女マンガが,当時の少女たちの「甘美な夢」を代わりに描いてみせるものだったためだ。
 いわく,はじめてのドレス,はじめてのデイト,はじめてのダンス・パーティー……。

 もちろん,昨今の少女マンガにもそういった傾向がないわけではない。
 しかし,最近の作品の大半には「この程度ならあり得るだろう」というリアリティが染み付いている。たとえばミュージシャンとの恋愛を描くにしても,プロのミュージシャンの生活はキラキラ光る別世界ではなく,アマチュアバンド,インディーズのセミプロ,その先のプロの世界と,読み手の日常生活と地続きである。

 しかし,西谷祥子らが活躍した時代,とくに60年代は,そうではなかった。
 その一つの現れが,『ジェシカの世界』のエンディングである。ネタバレで申し訳ないが,本作では主人公の少女が最後には発狂して,自分の世界に閉じこもってしまう。当時,一条ゆかり『風の中のクレオ』,水野英子『ファイヤー!』など,主人公が発狂して終わる少女マンガは少なくなかった。
 つまり,当時,少女マンガに求められていたものは日常生活と地続きでない「甘美」さであり,狂気はその「甘美」の側にあったのである。

 現在,登場人物が発狂するエンディングを「甘美」に描くことはかなり難しいだろう。描かれる世界が日常と地続きとなった時代,狂気は結局のところやっかいな,あるいは治療の対象たる「病気」の一種なのだから。

     ☆    ☆    ☆

 西谷祥子は,考える主人公を創造し,おそらくそれは見えにくいところで少女マンガの系譜に極めて大きな影響を残した。

 「甘美」へのニーズに応えつつも,「考えないお人形」から「考える少女」に。それは少女マンガの主人公がのちに「少女」から生身の「女」に変わるために開かねばならなかった扉ではなかったかと思うのだが,どうだろうか。

先頭 表紙

2004-05-28 『あの素晴らしい 日ペンの美子ちゃん をもう一度』 岡崎いずみ+mico secret service / 第三文明社


【ペン字検定一級合格者の4割は日ペンの出身者】

 出版,それもコミック関連の書籍にたずさわる者なら,誰しも本書のタイトルにショックを受け,悔しさと情けなさと羨望をこめたため息を「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっ」とたっぷり150秒はもらし続けるはずだ。
 
(何年か前,いかにもオタク然とした三代め美子ちゃんの作者(=さとうげん,男性)が深夜番組「タモリ倶楽部」にブリキのロボットを持って現れたとき,なぜこの企画を思いつかなかったのか……編集者がオノレのヘソを噛んで死んでしまいたくなるのはこんなときである。)

 日ペンの美子ちゃんは,1972年から1999年にかけて,主に少女マンガ誌の裏表紙を飾った広告マンガだ。

 『エースをねらえ!』や『たそがれ時に見つけたの』をリアルタイムにお読みの方には説明の必要もないだろう,そう,あの強引な展開,ペットのネコ,

  なにしろ55年の歴史をもつ日ペンで字をならったんだもの……
  先生方も一流だし……
  バインダー式の教材がステキよ
  テキストもわかりやすいし漢字の筆順やお手紙の書き方もマスターできるの!

の,あの美子ちゃんである。

 本書はあの時代に誰もが目にしつつ,誰もがなんとなく見過ごしてきた日ペンの美子ちゃんを正面から取り上げ,初代から4代めまでの主な作品を紹介するとともに,それぞれの作者のインタビューや中村うさぎらの寄稿エッセイなどで資料性を高めたものだ。

 美子ちゃんの趣味。美子ちゃんのパパの仕事。美子ちゃんの住所。美子ちゃんの意外な苗字。
 美子ちゃんの就職。初代から3代めまでがそろったレアな作品。さらにレアな美子ちゃんの結婚後……!

 あなたが出会った美子ちゃんは,どの美子ちゃんだったろう。
 ちなみに,カラスにとっては,やはり,初代の矢吹れい子,すなわちのちの中山星香による美子ちゃんが,どうしてもナンバーワンにしてオンリーワンだ。美子ちゃんはやっぱりお姫さまカットでなくっちゃ。

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 ところで,本書の後半には美子ちゃんのパロディとして,パソコン雑誌「Oh!X」に掲載された「満開の電子ちゃん」が紹介されている。掲載許可をとろうとしたが制作元の「満開製作所」と連絡がつかないという。
 仕方ないだろう,電子ちゃんの原作者,祝一平氏は数年前に亡くなっている。満開製作所も消散したように聞いている。
 ……祝さん,僕は寂しいよ。

先頭 表紙

日ペンはやろうとした矢先に身辺のゴタゴタで挫折しました。それさえなければ買ってたかも、この本。私は多分2代目か3代目の頃ですね。 / Hikaru ( 2004-06-10 16:20 )
そういえば,カラスも本書を知ったのは電車の中吊りででした。忘れないようその場でケータイから自分宛に「日ペン美子ちゃん」とメール,自宅のPCでそのメール開いてそっこーAmazonで注文,という具合です。サイバー度35%くらい,ですね。 / 烏丸 ( 2004-05-29 19:15 )
中吊りで見てとても気になっていました。初代美子ちゃんは中山星香の手になるものだったとは! ちなみにわたしは3代目美子ちゃんで育ちました☆ / みなみ ( 2004-05-29 16:40 )
そうですか,買いましたか! カラスは当時,手書き文字には自信があったので──美しいという意味ではなく,ガリ版向きの非常に読み違えのない文字だったのです──美子ちゃんはまったくの「1ページマンガ」でした。「とってもしあわせモトちゃん」みたいな感じね。 / 烏丸@今どき「ガリ版」で会話通じるかな? ( 2004-05-28 14:56 )
↓しかも「あ、い、う」の3文字しかやってない(実話) / あやや ( 2004-05-28 10:07 )
はぁ〜〜〜(150秒) しかも私、買ったし!! / あやや ( 2004-05-28 10:07 )

2004-05-14 沈みゆく悲しみ 『深海蒐集人(1)(2)』 かまたきみこ / 朝日ソノラマ


【アラン・ボームのカレイドスコープ…】

 3年ばかり前に紹介した『クレメンテ商会』は,コピー機やFAX機と会話をかわせる主人公を描いた,素敵にエキセントリックで,不思議にノスタルジックな作品。

 その私評の中で

> 描かれたコマには,ベランダやバルコニー,橋の欄干など,高さを表す構造物
> があふれている。OA機器の世界は古代ギリシア風の柱が立ち並び,登場人物は
> 階段を走り,コピー機は階上のフロアから蹴り落とされる。そして多くの場合,
> 登場人物はその高いところに「登る」のではなく「降りる」姿として描かれる。

と書いた自分を,今はちょっとだけほめてやりたい。新シリーズ『深海蒐集人』は,地球の温暖化が進み,人類の築いた文化のほとんどが海中に沈んだ時代の女性天才ダイバーが主人公である。もう,「降りる」,いや「潜る」シーン満載。

 地球温暖化で都市が水に沈むという発想は,SF作品では枚挙にいとまがない(J.G.バラード『沈んだ世界』,椎名誠『水域』,ケヴィン・コスナー主演の映画『ウォーターワールド』など)。
 その際,人類が限られた土地を植物と動物のために割り当て,一部の限られた人々だけが陸での生活を送り,残る人々が肺や筋肉を海に適合させて海上で生活する,という設定もそう無理ではないだろう。
 驚くのはその先だ。本来なら海水に侵食されるはずの金属や木質に,水と調和する処理を施したため,街は水に沈んだままの形で生き残り,主人公は海の人々の中でも傑出したプロのダイバーであり,「図書館」の依頼に応じて海底に潜り,カードキーで目的の家に入り込み,古い絵や本,貴重品を取ってくる……。

 『深海蒐集人』は,遺跡のように静謐で神々しい海底の街と,騒音に満ちた船の上,陸の上とを行きつ戻りつして展開する。ある短編は財産や欲望にまみれたサスペンスであり,ある作品は古代都市の郷愁を招く歴史ドラマだ。

 ……私評なんて無力なものだと思う。
 『クレメンテ商会』の際もそうだったが,このような設定,あらすじをいくら書きつらねたところで,かまたきみこの作品の奇妙さ,ひたひたと満ちるような哀感はおよそかけらほどにも伝えられそうにない。

 かまたきみこは明らかに萩尾望都らいわゆる24年組の作家たちの影響下にある。が,そのわりにタッチにはあまり気を遣わないほうなのか,多くのコマはかならずしも美麗とは言い難い。また,しみじみと泣ける話なのにばたばたと笑えない三枚目が見開きを走り回ったり,主人公のミミにしても読書好きな地味な性格なのか,がちゃがちゃした元気一辺倒の性格なのか統一がとれていない。全編,驚くほど美しいコマと,一種乱雑なコマとが入り乱れる。

 だが,なにはともあれ。
 彼女が水音も立てずに水面に飛び込み,まっすぐな体で潜り,静かに扉を開けるとき,水底,かつてそこで暮らした人々の悲しみが封じ込められた世界は彼女を黙って受け入れ,彼女が絵や本を手にすると,そこには豊かな物語が水に揺れながらつむがれる。奇想というタペストリいっぱいに,ゆっくりと,音楽のように。

先頭 表紙

2004-05-06 最近《ちょっと》がっかりしたコミックス 『栞と紙魚子 何かが街にやって来る』 諸星大二郎 / 朝日ソノラマ(眠れぬ夜の奇妙な話コミックス)


【そう… 困ったわねえ ああいう用で来られる方は たいてい何か忘れて行くから…】

 一昔,いや二昔ばかり前までの文芸同人誌の合評会では,「直接的」というしごく便利な論評用語がまかり通っていた,らしい。
 「この事件の描写は直接的でいただけないね」
 「このエンディングでは主人公の感情があまりに直接的すぎる」
といった具合に用いて,要は「あまりよろしくない」というのを言い換えているだけ。しかし,文芸同人誌の数十枚の小説に読み手の誰をも瞠目させる描写など簡単になされているわけもなく──そんなことできるくらいなら,そんなとこで書いてたりしません──結局若い作者は自分ではロクに書きもせずただ人の作品を酷評してばかりの先輩同人に「はぁ」とうなずいてみせるしかなかったりするのであった,らしい。
 ただし,ではその「直接的」という品評論評に実がないのかといえばいちがいにそうとも言い切れず,確かに若書きの作品などに生硬というかぎこちないというか,やはり「直接的」としか言いようのない表現はあったように記憶している,そうだ。

 閑話休題。
 『栞と紙魚子』シリーズ,待望の新刊である。

 確かひとたびは掲載誌「ネムキ」に次号で最終回,との予告があったはずだが,作者が気を変えたのか編集が拝み倒したのか,とりあえず連載が終わることはなかったようだ。ファンとしては有り難いことなのだが,いかんせん新刊『栞と紙魚子 何かが街にやって来る』は何やらバタバタした印象が強く,いただけなかった。
 前作『栞と紙魚子と 夜の魚』が切ないほどによい出来だっただけに,少しの瑕でも目につくのかもしれないが……。

 本シリーズの魅力の一つとして,舞台となる胃の頭町のごくありきたりな町並みが,ぐにゃりと異界と通じてしまい,平凡と不可思議が混ざり合ってしまうことがある。
 ここで特筆すべきは,主人公たちが怪奇やモノノケが生息する異界に入り込むのではなく,生活の中に異界が点在するように現れることだ。濃い霧の向こうが異界だった,のではなく,すれ違う人の数人に一人が妙,棚の食器の数枚が自分で歩く,といったような按配。しかも,摩訶不思議な顛末に登場した妙な人物やモノノケは,そのあと,平然と胃の頭公園などに棲息するようになってしまうのである。
 この,平凡と異界,悲惨と太平楽との乱雑でソリッドな混ざりようが,体感的になんともいえない。

 ところが,今回の新刊に収録されたいくつかの作品では,従来の作品に比べ,どこか事件の展開や登場人物の言動が「直接的」なのである。

 たとえば栞が飼っている猫のボリスは一種の化け猫なのだが,今回のある作品ではほとんど主人公のように振る舞い,ドタバタコメディを演じている。化け猫としてのボリスの魅力は,もしかしたら喋るのかもしれない,喋らないかもしれない,もしかしたらモノのわかった,いやそんなはずは……といった曖昧かついい加減な猫もしくは化け猫としてのあり方にあったはずだ。それなのに,本作ではまったくのところストレートな化け猫すぎるのである(もちろん,佐賀の化け猫とはずいぶん佇まいの異なるお化け猫ではあるが)。
 また,いかにもなホラー作品「魔術」も,このシリーズでは珍しく登場人物が本当に殺されてしまうなど,悪意に満ちた魔空間がストレートに描かれている。およそ胃の頭町の事件らしくないし,そもそもこの作者の作品としても違和感が強い。
 わずかに「ゼノ奥さんのお茶」「井戸の中歌詠む魚」の二編は従来の茫洋たる作風を示してはいるが,ゼノ奥さんの庭を描いた作品なら以前のほうが格段に優れていたし,「井戸の中」もどこかピントが合っていない。また,二編とも栞や紙魚子がただの傍観者に過ぎないのがもの足りない。

 「直接的」ということでもう一つ例をあげるなら,本シリーズの名キャラクター,段先生の奥さんは,従来はドアや襖越しに手や顔の一部しか描かれないというまことに魅力的な存在だったものが,本作では再三通常の人間と同じフォルムで登場する。これがつまらなくなくて,なんだろう。

 ……連載を終了すべきとはいわないまでも,いったん休憩して,不定期掲載にしたほうが作品のためにはよかったのではないか。作者こそはゼノ奥さんのお茶を飲んで,何かを忘れてきたほうがよいのかもしれない。

先頭 表紙

「のだめカンタービレ」「バジリスク〜甲賀忍法帖〜」が,講談社漫画賞受賞だそうです。まぁ,両作品ともとくに不思議ではありませんが……。 / 烏丸@でもおめでとうございます ( 2004-05-13 18:28 )

2004-04-26 最近《ちょっと》がっかりしたコミックス 『珍犬デュカスのミステリー(2)』 坂田靖子 / 双葉社(ジュールコミックス)


【玉緒さん 新しく買う税金管理ソフト 何がいいかなあ】

 お気に入りの作家の作品が発売されると知ったとき,その1ヶ月に加えて前後5営業日はバラ色の光に包まれる。だが,万一その作品がハズレだったとき,世界は前後3ヶ月にわたってしっけた闇に覆われるのだ。

 さて,そんなお気に入りの作家の一人,坂田靖子の作品には決してハズレなどない……わけでもない。
 こちらの気分にもよるのだろうが,けっこう出来不出来があるのである。

 たとえば,初期の名作『闇夜の本』シリーズにしても,2巻,3巻は第1巻に遠く及ばない。また,JUNEコミックスの短編集何冊かは,発表の場がカラスの趣味の外だということを差し引いても一編一編が妙に短く食い足りない。いや,あの手の素材で長々こってりされても持て余すかもしれないのだが。

 さて,『珍犬デュカスのミステリー』だ。
 このシリーズは,坂田靖子作品としては,駄作とまでは言わないもののどうも今ひとつ満足できずにいる。その理由は割合明快だ。
 先ほど例に出した『闇夜の本』には「浸透圧」という,それはもうエビぞって後頭部がカカトについてしまいそうな大傑作が収録されている。この「浸透圧」の素晴らしさの根底には,2人の登場人物が見事に役割を演じ分けているということがある。漫才におけるボケとツッコミに類する分担だ。

 つまり,こういうことである。
 坂田靖子の作品の多くでは,「浸透圧」に限らず,まず超常的な事件,事態が(なんの説明もなしに)発生する。そして,登場人物の一人がなんとも呑気かつすっとこどっこいな性格で,その超常的な事態をまったく気にもかけず,さらにはてしなく周囲を振り回していく。かたや一方に,これがまた常識人といえば聞こえがよいが要は目の前の異常事態にまるでついていけない生真面目一本やりの登場人物がおり,こちらは事態の異常さにパニックを起こし,すっとこどっこいな人物の言動に呆れ,怒り,必死で事態を常識の範疇におさめようとする。もちろん,彼(彼女)の絶叫(なぜだーっ)や努力はむなしく,世界は底なしにはちゃめちゃに転がっていくばかり……。

 適当に例をあげるなら,『マ−ガレットとご主人の底抜け珍道中』や『闇月王』,『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などはいずれもこのタイプに属する。これらに似ていながら『水の森綺譚』シリーズが今ひとつ破壊力に欠けるのは,この作品の舞台がそもそもファンタジーの世界であり,登場人物の2人が世界のありさまそのものにはとくに疑問を抱いていないためなのである(この2人は役割分担も不明確で,いくつかの物語において役柄を交換してもなんら問題がない)。

 では,『珍犬デュカス』はどうか。

 異常なのは言葉を喋る犬なのか,ふりかかる事件なのか。
 常識的なのは主人公のOL冴子なのか,彼女が勤める設計事務所の社長龍一なのか,龍一の元妻の玉緒なのか,それともデュカスなのか。

 これら役割分担が明らかでないうえに,よく読むと,デュカスや主人公たちは,多くの事件において当事者ではなく,ただの傍観者であることがわかる。
 これでは「まきこまれ」の名手たる坂田靖子らしさがスパークするはずがないではないか。

先頭 表紙

6月とはあーた,けっこうきんきんじゃぁございませんか。遠藤淑子は文庫での再発も始まっていますし,しばらく続いた店頭での「枯渇」状態からは脱したもようですね。やでうれしや。 / 烏丸@らびあんろ〜ず ( 2004-04-28 01:31 )
そんな烏丸さんに朗報!もう今年は出ないんじゃないかと思っていた遠藤淑子さんの新刊がまた6月に出ます。しかもノーチェックの作品だったので、個人的にもすごく楽しみです。 / けろりん ( 2004-04-27 03:06 )

2004-04-20 『真相はこれだ! 「昭和」8大事件を撃つ』 祝 康成 / 新潮文庫


【え,ダメだって? アリバイがあった? カレーライスを食ったって?】

 実際,“この手”の本にはロクなものがない。

 タイトルこそ大仰だが,いたずらにスキャンダラスな素材ばかりかり集め,そのくせすでに新聞や雑誌でさんざん書きふるされた,それも根拠はっきりしない事例をただ声高にあげつらえ……。

 と,こき下ろすだけこき下ろしておいて持ち上げるのも何だが,本書『真相はこれだ! 「昭和」8大事件を撃つ』はなかなか,いや非常に面白かった。コウモリ風見鶏,ばさりと前言撤回。

 本書にて取り上げられた事件は,以下の8つ。

   美智子皇后「失声症」の真相
   府中「3億円事件」で誤認逮捕された男の悲劇
   丸山ワクチンはなぜ「認可」されなかったのか
   美空ひばりが「紅白」から消えた日
   発案者不明?! 「成田空港」最大のミステリー
   疑惑の「和田心臓移植」33年後の新証言
   潜水艦「なだしお」東京湾衝突事件で隠されていた「無謀運転」
   世紀の対決「猪木・アリ戦」の裏ルール

 それぞれが読み物として面白いし,それ以上に筆者の丁寧な取材,インタビューによって浮き彫りにされた事実が恐ろしい。

 たとえば,あれほど大きな,もはや内乱と言うべき大きな戦闘と混乱をもたらした「成田空港」を三里塚に持ち込んだ(決定した)人物が,今もって明白ではない,という空虚な事実。
 あるいは,あれほどもてはやされた国内最初の心臓移植の,暗い真相。本書に記されたことが事実であるなら,それは紛れもない二重の殺人事件だったことになる。名誉,権力にしがみつく医学界のお歴々に,底知れぬ腐臭を感じざるを得ない。
 もしくは,世紀の対決が世紀の大凡戦と化した「猪木・アリ戦」の裏で繰り広げられた激しくも情けない闘い……。

 それ以外も,いずれも短いながら力作ばかりだ。

(個人的には,和田心臓移植についての項を読むためだけに本書を購入しても決して惜しくはないと思う。)

 もちろん,筆者の記述がすべて正しく,沈黙を守る側がすべて悪であった,などと妄信するつもりもない。本書に取り上げられた事件の当事者の一人と,ほんのちょっとした縁で会話を交わしたことがあるが,そこにいたった経緯は本書が暴いた「真実」とはまったく逆の事実を想像させるものだった。
 本当に本当,のことなど,当事者含めて誰にもわからないものなのかもしれない。

 ただ一つ言えることは,本書の独特な手応えの背景には,「昭和」という時代のモノトーンな色合いが静かに裏打ちされていることだ。昭和という時代の澱が,水閼伽のように沈殿した,そんな灰色の事件とその真相。

 それにしても,3億円事件や猪木・アリ戦が歴史上の事件として扱われるのか……思わず「昭和は遠くなりにけり」と凡庸なため息が風見鶏の口をついて出ようというものである。

先頭 表紙


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