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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2009-01-20 翻訳の難しさ 『高慢と偏見』 ジェーン・オースティン、富田 彬 訳 / 岩波文庫、『自負と偏見』 オースティン、中野好夫 訳 / 新潮文庫
2008-11-17 「退屈な話」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」ほか ──アントン・チェーホフ
2008-11-04 名探偵、結末の後も霧の中 『僕を殺した女』 北川歩実 / 新潮文庫
2008-10-20 名探偵、だかなんだかわからない 『未明の悪夢』『恋霊館事件』『赫い月照』 谺 健二 / 光文社文庫
2008-10-14 名探偵の英才パズル塾 『千葉千波の事件日記 試験に出るパズル』ほか 高田崇史 / 講談社文庫
2008-10-06 名探偵、意地悪に黒く笑う 「とむらい鉄道」 小貫風樹 / 初出 光文社文庫『新・本格推理03 りら荘の相続人』
2008-09-28 大人の距離、大人の眠り 『シマシマ』(現在2巻まで) 山崎紗也夏 / 講談社モーニングKC
2008-09-21 名探偵、虚実とりまぜること悪魔のごとし 『硝子のハンマー』 貴志佑介 / 角川文庫
2008-09-13 名探偵は泣き言の名手 『生首に聞いてみろ』 法月綸太郎 / 角川文庫
2008-09-06 日なたと日かげの物語 『オチビサン 1巻』 安野モヨコ / 朝日新聞出版


2009-01-20 翻訳の難しさ 『高慢と偏見』 ジェーン・オースティン、富田 彬 訳 / 岩波文庫、『自負と偏見』 オースティン、中野好夫 訳 / 新潮文庫


【独りもので、金があるといえば……】

 トーマス・マンの『魔の山』同様、いや、それ以上に一生縁がないと思っていたオースティンの『高慢と偏見』だが、この年末、ふと手に取り、風呂や新幹線の中でぱらぱらめくっているうちに気がついたら読み切ってしまっていた。いつかはこんなふうに『失われた時を求めて』を読みたいと思う日が訪れるのだろうか。まさか、ね。……いや、人生何が起こるかわからない。

 さて、『高慢と偏見』、あるいは『自負と偏見』(原題 Pride and Prejudice)というのは……。
 今から200年ほど前に書かれた、イギリスの片田舎を舞台に、ベネット家の次女エリザベスが資産家のダーシー氏と出逢い、舞踏会、散歩、旅行、誤解が生じ、誤解が解け、紆余曲折の末にめでたく結婚する、それだけといえばそれだけの話だ。
 ハリウッド映画のように急展開やどんでん返しがあるわけではない。人間の存在について深くえぐるとかそういうものでもない。だが、確かに、不思議と面白い。眠れなくなるほどではないが、ページをくるうち静かにたっぷりと章が進んでいく。ときどきページをめくり返して人物の紹介や小さな事件、主人公の観察の意味を確認し、また読み進む。すると、作者の周到な用意に驚かされる。誰それが後半でこうなることは、ここですでに予見されていたのか! 誰それのここでの困惑が後半のあのシーンにつながるとは! などなど。面白さにはちゃんと理由がある。
 作者は本当に頭のよい人だったようだ。

 岩波文庫版は1983年発行(90年代に改版)とわりあい最近の翻訳なのだが、全体に英文直訳調で堅苦しい。たとえば
 「貴下と私の亡父との間につづいていた不和は、ひどく私を不安にしました」
とかいった按配。
 新潮文庫版の翻訳が評価も高いようなので、岩波文庫版を読み終えてすぐ新潮文庫版を手に入れて読んでみる。
 先ほどの同じところが、新潮文庫版だと
 「貴殿および小生亡父との間に生じていました不和につきましては、多年小生心痛の種でありました」
と、なるほどこちらは(手紙だからと意図的に大げさな言葉遣いが用いられているものの)流れとしてはスムーズで読みやすい。

 ただ、岩波文庫版より新潮文庫版のほうがすべてにおいてまさっているかといえば、やはり一概にそうでもないから悩ましい。

 英文直訳調だからこそ伝わるものもある。先に引用したのはコリンズ氏なる人物がベネット家にあてた手紙の冒頭の一節なのだが、彼の慇懃な物言い(=早い話がおべんちゃら)に対する作者の皮肉、手厳しさは岩波文庫のほうが格段にわかりやすい。新潮文庫版では一つひとつの表現が読みやすいだけ、コリンズ氏やキャサリン夫人ら敵役の言動がすんなり流れてしまい、その分作者のまぶした毒粉の苦さが残らないのだ。

 また、心のうちに恋慕を秘めた若い男女の会話、これがなかなかよろしくない。
 岩波文庫版はあまりにも堅苦しいし、新潮文庫版では文末の「ねえ」の多用が気になる。

 1813年に発表された作品とはいえ、オーソドックスな英文、ストーリーや単語も日常的なものだけに翻訳はさほど難しくないだろうに、と考えてしまうのが素人の浅はかさ。岩波文庫版、新潮文庫版を(とくに細部を比較しようなどという意図なしに)続けて読んだだけで、翻訳という作業、選択の難しさがしのばれる。

 たとえば……。

 物語の後日譚として、エリザベスの父親が、先のコリンズ氏に思いっきり嫌味な手紙を送る一節がある。「(娘のエリザベスとダーシー氏の結婚に反対した)キャサリン夫人をできるだけ慰めてあげてほしい、もっとも自分ならキャサリン夫人より甥のダーシー氏の肩を持つだろう」と記して手紙を〆るのだが、その理由が岩波文庫版では
 「甥の方がたんまりくれますもの──」
 ……どうもピンとこない。ダーシー氏がいかに金持ちであっても、結婚相手の父親に「くれる」ものだろうか?
 新潮文庫版では、同じ一文が
 「勿論彼のほうが、たんまり持ち居る故なり」
となっていて「くれる」ニュアンスがない。こちらのほうがシンプルで納得しやすい。
 ついでに河出文庫版(阿部知二訳)も調べてみた。
 「そちらのほうが、たくさんの贈与聖職禄を持っておられます」
 なんとダーシー氏がコリンズ氏にお金を「くれる」話になってしまった。
 ちくま文庫版(中野康司訳)も
 「聖職禄の件など、ダーシー氏のほうがいっそう貴殿のお役に立つと思われます」
と、河出文庫版に右へなれ。しかし……これでは慇懃だが無神経なコリンズ氏に最後に一発きつい皮肉を投げつけるという読み手の楽しみが失われてしまうと思えるのだが。

 この一文、原書ではなんと書かれているのか。インターネットで探してみた。すぐに見つかった。

 “He has more to give.”

 これだけ? これだけ。

 なるほど……翻訳は難しい。

先頭 表紙

そういえば、エリザベスを「パイレーツ・オブ・カリビアン」のキーラ・ナイトレイが演じたDVD『プライドと偏見』も入手済み。本の記憶が薄れたころにゆっくり見るつもり(エリザベスは少し現代風美人に過ぎるかな。ダーシー氏は笑っちゃうほど想像とそっくり)。 / 烏丸 ( 2009-02-22 03:15 )
オースティンについては、『高慢と偏見』『自負と偏見』のあと、『分別と多感』(今ひとつ)、『説得』(すごくよかった)と読み進み、現在『マンスフィールド・パーク』の最初のほうで停滞中。先に『エマ』にしたほうがよかったかな? 別に読み急ぐ必要はないのだけれど。 / 烏丸 ( 2009-02-22 03:06 )

2008-11-17 「退屈な話」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」ほか ──アントン・チェーホフ


【わたしは訊きたい、《それじゃ、ぼくの葬いにはきてくれないの?》】

 ここしばらく、チェーホフばかり読んでいた(最近取り上げているミステリは、少し前、あるいはずっと以前に読んだものです)。

  『チェーホフ・ユモレスカ 傑作短編集1』 松下裕 訳 /新潮文庫
  『カシタンカ・ねむい』 神西清 訳 / 岩波文庫
  『かわいい女・犬を連れた奥さん』 小笠原豊樹 訳 / 新潮文庫
  『退屈な話・六号病室』 湯浅芳子 訳 / 岩波文庫
  『たいくつな話・浮気な女』 木村彰一 訳 / 講談社文芸文庫
  『かもめ』 中村白葉 訳 / 角川文庫
  『かもめ・ワーニャ伯父さん』 神西清 訳 / 新潮文庫
  『桜の園・三人姉妹』 神西清 訳 / 新潮文庫

 読み始めたらもうとまらなくなった──別にそういうわけではない。
 手元にあったものをぽつぽつ読み返し、未読を取り寄せるうちに、ほかの本が騒々しく思え、煩わしくなってしまったのだ。
 (もともとほとんど見ないのだが)とくにテレビが耐えられない。ドラマ、報道、バラエティに限らず、音が聞こえるだけでしばらくするとどうもざらざらした心持ちになってしまう。

 チェーホフは短篇小説にせよ、戯曲にせよ、似たような舞台設定、雰囲気の作品が多い。なので、一気にたくさん読むわけではない。
 やはり、「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」の戯曲、とくに「かもめ」がとてもよかった。
 小説の中では、今回、「退屈な話(たいくつな話)」が心に沁みた。二十代であの老人の諦念を描けるものか。

 事件そのものより登場人物の心情の流れが主眼となる作品では、翻訳者による言葉遣いの違いが気になる。
 
 わたしは努めてグネッケルのなかにわるい特徴ばかりを見つけようとし、間もなくそれを見つけて、彼の花婿席にわたしの仲間のそれでない人間が座っていることをくるしむ。彼がそこにいることはまた別の点でもわたしにわるく影響する。

は岩波文庫「退屈な話」(湯浅芳子訳)。これはあんまりだ。同じ部分を講談社文芸文庫「たいくつな話」(木村彰一訳)で読むと、ようやく何を言っているのかわかるような気がする。

 私はグネッケルのわるい点だけを見いだそうとつとめる。それはまたすぐに見つかる。そして私は自分の仲間でもない人間が花婿候補者の座にすわっているのを見て煩悶するのである。グネッケルを見ると胸がわるくなるのは、もうひとつ理由がある。

では湯浅訳はまるで駄目で木村訳のほうが万事万全かといえば、そのようなこともない。同じ作品の(非常に重要な)最後の一段をみてみよう。

 いやちがう、振り返らなかった。黒い服が最後にちらりとみえて、足音はきこえなくなった……さようなら、わたしのまたとないひとよ!

 いや、彼女はふり返らなかった。黒い服がちらりとひらめいたのが最後の見納めで、やがて足音もしだいに消えた……さようなら、私のたからよ!

どのセンテンス、どの単語を比べても、前者(湯浅訳)がいい。

 神西清訳が総じて安心して読める。中村白葉は古い本で旧かな遣いだが、これはこれでいかにも露文を読んでいる気持ちになって懐かしい。


 チエーホフの作品には、光がある。
 悲惨な話であれ、多少は救いのある話であれ、さらさらした砂地の洞窟の向こうのほうに小さくうかがえるような、ほの白い、細い光。
 自分自身や、自分の眷属、社会はもう駄目かもしれないが、どこか遠く、いつか遠い未来で、ほかの見知らぬ誰かが多少はうまくやれるかもれない、そのようなほんのかすかな期待。
 この光はまた、エセーニンがその詩の中で「明日、早く起こしてね」と母親に頼んだ、その、とうとうやってこなかった朝の薄明と同じ、柔らかな白い色かと思ったりもする。

先頭 表紙

2008-11-04 名探偵、結末の後も霧の中 『僕を殺した女』 北川歩実 / 新潮文庫


【……いいえ、もちろん知識としては、記憶喪失後に教えられて、知っていたんですよ。】

 セバスチアン・ジャプリゾの『シンデレラの罠』は、「私は事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、そのうえ犯人でもある。いったい私とは何者か?」という名コピーで有名だ。しかし、このコピーを成り立たせているのが「記憶喪失」だと知るや、どうしても興趣は塩水をかぶったナメゴンのようにしぼんでしまう。アンフェアに騙されている気分が最後までぬぐえないためである。早い話、「記憶喪失」モノは苦手なのです。

 北川歩実『僕を殺した女』も『シンデレラの罠』に負けず劣らずの設定である。「記憶喪失」がメインディッシュであることもまた同様。

 「ある朝目覚めると、大学生で『篠井有一』だった僕は、見知らぬ部屋で若い女になっていた。しかも昨日から5年後にタイムスリップして…」というカバーの惹句はご覧のとおりすごい。そしてこの設定に、論理的な理由づけをしてみせようとする志たるや半端ではない。
 最終ページまでに、その試みはほぼ実現されている。
 ……にもかかわらず、どうもすっきりしない、いわゆるカタルシスが得られないのはなぜだろう。

 1つには──設定ゆえしかたないのだろうが──構成に難を感じる。
 先のとおり、物語はある朝とびきりの謎を提示して始まるのだが、その後、さまざまな出会いや出来事によるどんでん返しと説明が繰り返され、読み手はやがて当面のプチ決着に麻痺して驚きもしなければ安心もできないようになってしまう。絶叫マシンの多くが一発勝負なのは理由があるのである。いくつかのどんでん返しの1つで物語が終わるのでは盛り上がるわけがない。

 もう1つ、人物の描写が気になる。
 物語は主人公の視点、「僕」という一人称で語られるのだが、これがどうにも粘着質かつ妙にガラが悪いのだ。「男の記憶」を持つ「女性」として両性の悪いところが剥き出しになった感じだが、どうも主人公に限らず登場人物の言動がそろって粗野で、知的ゲームを楽しむ気分にひたれない。
 キャラクター、とくに男女の描き分けはこの作品では大きな意味を持つだけに、意図的だったとしても成功しているとは思えない。

 しかし、そういった構成や人物描写以上に、「記憶喪失」が問題なのだ。
 ストーリー中に「記憶喪失」アリ、なら、それはつまり記憶の部分的消去が可能だということになる。さらにその記憶に暗示や刷り込みが可能となると、これはもう何が真相であってもよいことになってしまわないか。

 若い女性として目覚めた主人公は、その後の現実の事件や関係者の証言から誤った記憶を少しずつ剥いでゆき、真相にたどり着く(ということになっている)。シーンシーンはある意味「誠実」で、「○○とは書いてなかったから、実は」などといった叙述トリックで騙されるわけでもない。しかし、いかに記述に嘘がないといえ、記憶喪失や都度の暗示が可能なら、今目の前で事実と見えていることはさらに別の暗示によるものかもしれないではないか。
 なので、『僕を殺した女』の最後のページ、決着にいたってなお、「しかし、実は」という別の真実、別の決着があってもおかしくない……そう思えてしまうのである。

 北川歩実は、この後、短篇集を1冊読んでみた。
 今のところ、そのほかの長編を続けて読もうというファイトは沸いていない。

先頭 表紙

『青春少年マガジン1978〜1983』は単行本にもなるそうです。少年マンガファン必読。 / 烏丸 ( 2008-11-08 01:12 )
『1・2の三四郎』の小林、『タフネス大地』の大和田夏希、『純のスマッシュ』の小野新二の3バカトリオが出会って親交するにいたる経緯が描かれているのですが、大和田はのちに自殺、小野はその翌年に肝機能障害で亡くなっているんですね。 / 烏丸 ( 2008-11-08 01:11 )
少年マガジン、サンデーが50周年ということでいろいろ企画モノが掲載されていますが、出色はマガジンに今週まで連載されていた小林まことの『青春少年マガジン1978〜1983』。 / 烏丸 ( 2008-11-08 01:11 )

2008-10-20 名探偵、だかなんだかわからない 『未明の悪夢』『恋霊館事件』『赫い月照』 谺 健二 / 光文社文庫


【テントに入ると、圭子は相変わらず毛布にくるまって横になっていた。】

 人は、巨大な岩や壮大な伽藍の前に立てばとりあえず驚嘆の声を上げ、拝観料のなにがしかを支払うにやぶさかでない。ただし、その岩や伽藍が本当に感嘆に値するものだったかとなると、後で記念写真を見返してもよくわからない。

 谺(こだま)健二の三部作『未明の悪夢』『恋霊館(こりょうかん)事件』『赫(あか)い月照』は、その分厚さで巨大な岩のように読み手の前に起立する。

 物理的なボリュームのことではない。
 ページ数でもっと分厚い本なら観光地の数ほどある。1冊めの『未明の悪夢』は447ページ、当節のミステリ長編として長いほうですらない。
 しかし、この447ページが、厚い。この作品に描かれた猟奇殺人事件は、1995年1月17日の未明に神戸を襲った阪神・淡路大震災を背景としており、ページの大半は震災前、震災後の神戸の街のありさまを記録することに費やされているためだ。

 やがて土の間から、からまった植物の根のような物が出てきた。小石を払いのけている内、それが人の頭だということに気が付いて、有希は愕然となった。

 その少し南の十二階建てのニッセイビルは、途中からへし折れていた。四階がなく、これも車道の方に傾いている。砕け散った窓々から凧の足のような物が白く無数に垂れ下がっているのはブラインドだろうか。

 四角いチーズケーキを上からバターナイフで叩き潰したように、横に長いスーパー・ダイエーの建物が中央部を陥没させて潰れている光景を前に、有希はこの日、何度目かの自失に陥った。

 決して器用とは言いがたい震災の描写に背を押され、読み手は続く『恋霊館事件』を手に取る。テント生活を続ける主人公達のその後と奇妙な事件を描く中・短編集だ。さらに、(少し首を傾げながら)3冊めの『赫い月照』にも手を伸ばす。こちらは辞書と見まがう913ページ、震災後の神戸市須磨区で起こったあの現実の連続殺人に想を得た長編ミステリである。

 3冊めを読み終わったころ、読み手はふと我に返る。

 地震による倒壊のショックで震災以後ずっと公園のテントや仮設住宅で寝たきりの占い師、雪御所圭子が名探偵足り得るのはなぜだろう? ほとんどオカルトではないか。
 ワトスン役の私立探偵有希真一が、私立探偵らしい活動を見せる場面がほとんどないのはなぜ?
 複雑怪奇と思われた事件の大半で、「偶然」が大きな要素を占めているように見えるのだが、本格ミステリとしてこれでいいのだろうか?
 バラバラ死体、密室殺人、犯人消失など、猟奇的、トリッキーな事件が連発するが、はたして犯人にはそこまで事件を複雑にする必然性があったのだろうか?

 実は、3冊めを読み終わったときには1冊め『未明の悪夢』の犯人が誰だったのかをもう思い出せない。
 2冊め『恋霊館事件』では、思わず失笑してしまうような推理ばかり記憶に残っている(猫を……に使う? 洋館の壁が……!?)。
 3冊め、『赫い月照』内の中学生が書いたような作中作は、少なくとも
  「さあゲームの始まりです」
  「今までも、そしてこれからも透明な存在であり続けるボクを、せめてあなた達の空想の中でだけでも実在の人間として認めて頂きたいのである」
  「ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」
等々キレのよい名言と抑制にあふれた少年A=酒鬼薔薇聖斗の犯行声明、犯行メモの足元にも遠く及ばない。

 ……だが、これほどに難点、粗だらけでありながら、本三部作は重く、長く、そして読了後に後をひく。震災は確かに町並み以外の何かを内側から破壊したのであり、そしてそれは底のほうを通して伝染するのだ。
 ただ、幸か不幸か3冊めがあのような没義道な閉じ方をしたことで、読み手は空しく4冊めを待つということだけはせずに済みそうだ。バモイドオキ神の思し召しである。

先頭 表紙

2008-10-14 名探偵の英才パズル塾 『千葉千波の事件日記 試験に出るパズル』ほか 高田崇史 / 講談社文庫


【まあ、今日も色々とあったけれど、終わり良ければ全て良しってことだね。】

 1980年代後半から90年代前半にかけて、新本格派と称される若手ミステリ作家が続々と登場した。彼らの手になるトリッキーな作品群は、本格推理に餓えた読者に熱烈に歓迎される一方、書評欄などで「人間が描かれていない」と酷評されることも少なくなかった。
 新本格派の作家たちからは、繰り返し「大切なのはトリック」「目的は小説でなくパズル」といった反論がなされたが、とはいえ実際のところ、彼らの作品の多くは(少なくとも外面上)小説の体裁を捨てず、動機や犯意の発露において悩める人間をなぞることをやめてしまうわけでもなかった。

 ところが、いたのである。「小説でなくパズル」をとことん具現化してみせる作家が。

 高田崇史は、本格ミステリでは後発の一人だが、歴史上のさまざまな事項、人物に着目し、その謎解きと現在に起こる事件のトリックをからめて重厚な作品に仕上げる実力派とされている。代表作はメフィスト賞受賞の『QED 百人一首の呪』を端緒とする『QED』シリーズ。
 ……との評判を受けて『百人一首の呪』を手に取ってみたのだが、なるほど噂にたがわずその薀蓄はもの凄い。ただ、個人的には感心しなかった。百人一首の謎解きには圧倒されるのだが、その謎とストーリー中の殺人事件とがばらけた感じなのだ。
 「百人一首の謎解きだけで本になってたほうがすっきり面白かったのではないか?」、これほどの労作に対し、申し訳ないがそれが正直なところで、高田崇史は結局それきりになっていた。

 『千葉千波の事件日記 試験に出るパズル』を読んだのは、理由を書くほどもないたまたまのことだったのだが、いや、驚いた。脱帽だ。

 この作品において、作者はもはや「小説」などという作法も体裁もかなぐり捨ててしまっている。一読すぐにわかることだが、あの懐かしいクイズ本のベストセラー、多湖輝の「頭の体操」に肌触りがそっくりなのだ。
 登場人物は「ぴいくん」(語り手、浪人生)、「千葉千波」(ぴいくんの従弟、眉目秀麗な天才高校生)、「饗庭慎之介」(ぴいくんの同級生)ほか若干名。ストーリーは、この3人が時間を持て余したり、なんらかのイベントで集まって、それから時間つぶしにパズルが出題され、それを解くうちに周囲に奇妙な事件が起こりさらにそれを解く……ただそれだけ。

 この事件というのが、怨恨による殺人などといったどろどろしたものではなく、
  正直者の小坊主、嘘しかつかない小坊主、本当のことと嘘とをきちんと交互に口にする小坊主……
とか、
  二人乗りが精一杯な船で、犬をふくめて全員川を渡るには……
といった、まさに「頭の体操」テイストのクイズ、パズルなのである。
 そんなパズルが、

 その上千波くんときたら色白の文学青年で、背はスラリ、髪の毛サラリ、時折りそれをパサリと掻き上げる、スラリ・サラリ・パサリ青年なんだ。

 だってぼくらは、受験生なんだからね。いつだって余分な時間なんてないんだ。本当だよ。

といったライトな文体に乗って、クイズ本でおなじみのシンプルなイラストや図式と一緒にスラリ・サラリ・パサリと提供される。

 快感である。少なくとも小説としてどうとか、人間が描かれているかとかに悩む必要はないんだからね。本当だよ。……と1冊読み終わるころには「ぴいくん」口調にすっかり染まり、気がつけばほかのどんな探偵より、真鍋博テイストのぴいくんや千波のほうが心地よくシャープにみえてくるんだからふしぎだね。続刊が楽しみだよ。

 文体を戻そう。『千葉千波の事件日記』は『試験に出るパズル』『試験に敗けない密室』『試験に出ないパズル』『パズル自由自在』とシリーズ化され、いずれも文庫で手に入る。シリーズ4冊の文庫には、それぞれ森博嗣、真中耕平、有栖川有栖、大矢博子の解説が付与されているが、いずれも(首をかしげたいところも含めて)読みでがある。解説だけでも立ち読みに耐えるクオリティである。

 一つ付け加えるとしたら、作者高田崇史は『QED』シリーズの探偵同様、薬剤師という本業をもっているとのこと。思い起こせばE.A.ポーの創始以来、探偵は本来ディレッタントだった。小説、人間を描く、犯罪を描く、そういったいわば「正面ワザ」ではなく、趣味、脇道の方面から、しかし正面からに比べても格段に精緻、柔軟、深みにいたる、それが本格推理の由緒正しいあり方ではないか、などと思ってみたりもする。

 もう一つ。諸氏の解説でも取り上げられていることだが、「頭の体操」や本シリーズに漂う、奇妙な怖さの問題。よくわからないが、たとえば、本作のとことん明るくて好人物だらけのパズル世界では、嘘つき村の住人が嘘しかつかないように、いつかとことんピュアな悪意も登場し得る、その恐ろしさ、というのは、さてどうだろうか。

先頭 表紙

2008-10-06 名探偵、意地悪に黒く笑う 「とむらい鉄道」 小貫風樹 / 初出 光文社文庫『新・本格推理03 りら荘の相続人』


【事態を解決することと、解明することは違うんだ】

 ミルク味もいいだろう。ナッツ入り、ウィスキーボンボンも捨てがたい。しかし、舌の奥でほろ苦く溶けるブラックチョコレートの味わいはまた格別だ。
 探偵も同様、五月蠅いのから呑気なのまで、いろいろ登場するから楽しい。楽しいが、語ることなすことに容赦逡巡ない黒い探偵の切れ味鋭いパフォーマンスを味わいたいというのもまた、秋の夜長の心音である。
 そんな探偵を一人紹介しよう。
 久世弥勒(くぜみろく)。ミステリ短篇「とむらい鉄道」に登場する探偵である。

 作者の小貫風樹(おぬきかざき)は、その名において職業作家ではない。プロの作家がペンネームを用いて寄稿した可能性も否定しないが、その蓋然性は低い(後述する)。
 今のところ、本格推理小説の投稿先として知られる『新・本格推理』(※1)の『03 りら荘の相続人』に「とむらい鉄道」「稷下公案」「夢の国の悪夢」の3作が発表されているのみ。

 ともかく、「とむらい鉄道」が際立って素晴らしい。
 「全国赤字路線安楽死推進委員会会長」を名乗る何者かによる爆破テロが全国で頻発し、語り手春日華凛(かすがかりん)の叔父も巻き込まれて死んでしまう。葬儀の帰りのローカル線で間違えて終電を途中下車してしまった華凛だが、天候は最悪、体調も思わしくなく、途方に暮れたところに現れた青年は、彼女を自分の宿に案内する。彼こそはテロ犯なのだろうか、それとも……。

 奇妙な味付けと間断ないスピーディな論理展開がスリリングな作品だが、体幹に「意地悪」としか言いようのない探偵のスタイルがある。作者がそのような言葉で意識したかどうかは知らないが、「底意地の悪い」探偵を描こうという強い意思が、すべてのエピソード、すべての論理展開を導き出した、そんな印象である。

 この作品は、アマチュアの登竜門たる『新・本格推理』に掲載された後、日本推理作家協会編集の『推理小説年鑑─ザ・ベストミステリーズ〈2004〉』(※2)にも収録された。2003年に国内で発表されたすべてのミステリ短篇から20作品中の1として選ばれたということである。アマチュアの投稿作品がこの年鑑にそのまま選ばれるのは極めて珍しい。珍しいがそれだけの価値はある。一読をお奨めしたい。

 なお、小貫風樹はプロ作家のペンネームではあるまいと考えたのは、同時掲載の「夢の国の悪夢」について二階堂黎人が無理やり探偵のキャラクターを変えたとの推移が前書きに載っていたため。いくら何様俺様二階堂をもってしても、プロ作家にそこまで強要はすまい。また「とむらい鉄道」そのものに目をやれば、華奢で女性とみまがう久世弥勒が前半はそれらしく「ですます」調で喋っていたものが、後半ではつっけんどんな「だ・である」調になってしまう不統一、とくに「反省もしやがらないで」などの野卑な言葉遣いはこのクールで論理的な探偵に似つかわしくなく、このあたりおよそプロの仕事とは思えない。
(職業推理小説家でも、その程度の不統一はあるのではないかって? 確かにあるかもしれない。しかしそういう輩はプロと言わない。言うべきでもない。したがっていずれにしても小貫風樹はプロではない。 Q.E.D.)


※1…光文社文庫『新・本格推理』は、1993年の発刊以来、読者から募集した本格推理短篇を編纂している。初代編集長は鮎川哲也、現在は二階堂黎人。このシリーズでアマチュア投稿家として名乗りを上げ、その後単行本を発刊するなど活躍中の推理作家も少なくない(北森鴻、柄刀一、霧舎巧、光原百合、大倉崇裕、石持浅海、蘇部健一、黒田研二、剣持鷹士ほか多数)。

※2…この年鑑は、講談社から『ミステリー傑作選』(日本推理作家協会編)シリーズとして1974年から文庫化されている。「とむらい列車」はその1冊『孤独な交響曲』に収録。

先頭 表紙

2008-09-28 大人の距離、大人の眠り 『シマシマ』(現在2巻まで) 山崎紗也夏 / 講談社モーニングKC


【僕はただの添い寝相手ですから 抱き枕と一緒ですよ】

 山崎紗也夏(沖さやか、山崎さやか)は、青年誌らしい、コマ割りや時制のはっきりした明瞭なペンタッチと、女性作家ならではの不定形、情感あふれる心理描写力を合わせもつキメラ的作家である。小奇麗なコマ運びに油断していると足を掬われる。

 沖さやかと名乗っていた初期には描きたいことのクオンティティが作家としてのクオリティを上回って、ともすれば白っぽい稚拙な線画にハードな内容を詰め込み過ぎ、たとえば『マイナス』という作品では掲載誌の回収騒ぎを巻き起こしている(ハイキングで道に迷った女教師が、同行の女児が頭を打って死んだのをいいことに躊躇なくそれを焼いて食べるシーンがそのまま載ってしまったのだから、回収騒ぎ以前に編集部や印刷所のチェックを通り抜けたことのほうが不思議だ)。

 しかし、気がついてみればこの作家は圧倒的な筆力を身につけ、山崎さやか名義の『NANASE』ともなると、その画力はもはや爆圧的だ。筒井康隆の『七瀬ふたたび』をベースにしたこの単行本4冊、ストーリーはほぼ原作にならいながら、あらゆるコマ、あらゆるキャラクターが読み手を圧倒し、ここでは初期とは逆に、ストーリーより見開きそのものが暴走するかのごとき事態が発生している。マンガ作品としてすさまじいものでありながら、バランスに欠け、安易に推奨しづらいのもそのためだ。

 その後作者の技量はさらに変遷し、モーニングに掲載誌を変えて連載開始された『はるか17』では、意識的にか無意識にか、絵柄もストーリーの突飛さもむしろ凡庸なほどに抑えられ、それゆえ人気連載として作者の作品中で最長の作品となった。『はるか17』はありがちなタレント成長物語ではあるのだが、数週に一度エキセントリックなコマが発露する、掲載の待ち遠しい連載ではあった(はるかが舞台で人形を演ずるシーンには、比喩でなく鳥肌が立った)。

 さて、現在モーニングに連載中の『シマシマ』だが、これがまた、凄い。

 アロマエステ「グリーン」のオーナー・箒木汐(シオ)。彼女にはもう一つの顔がある。それは、眠れない女性達に添い寝相手の青年達を派遣する<添い寝屋>「ストライプ・シープ」の店長。……

 添い寝屋といえば、吉本ばなな初期の名品『白河夜船』を思い出す。『シマシマ』の主人公も眠りに振り回されてはいるが、『白河夜船』ほど設定は暗くない。観念的でもない。

 『シマシマ』というタイトルは、主人公シオの
  隣に寄り添いはするものの 決して交わらない平行の関係
という添い寝屋としてのポリシーによる。
 つまり、この作品は、シオとイケメンでオシャレな「ストライプ・シープ」の4人のメンバー(ガイ、ラン、リンダ、マシュ)、シオと元・ダンナ、シオとエステの客、添い寝屋のメンバーと眠れない女性客達、などなど、登場人物同士のつかずはなれずの「距離」の物語である。そのあたりをクール、かつ手札を隠さず描いてみせる作者の手腕は冴え冴えとして見事。また、その気になって読めば、大小のあらゆるエピソードやセリフがこの「距離」をテーマにしていることが伺えるのも天晴れだ。

  警戒されて当然…… でも…… こっちだってトラブルは避けたい
     (添い寝客に事前カウンセリング)

  どれくらいぶりだろ男の人と寝るの…… あっこれこれ…… この感じがいいかな……
     (添い寝客がガイと同衾して)

  肌に触れていくうちに こっちのエネルギーをどんどん吸い取ってしまうような人がいる……
     (エステの客について)

  男の子4人がしょっちゅう泊まっていって 一度も色目で見られたことがない……
  コイツらって…… 植物?

     (ストライプ・シープのメンバーについて)

  ホっとする…… あれ以上自分のペース乱されるのすごく嫌……
     (意中でない男に食事に誘われて)

  会わなきゃいけないのか……
     (振り捨てた男について)

  僕はただの添い寝相手ですから 抱き枕と一緒ですよ
     (添い寝客に)

  いろいろこらえて笑ってくれたじゃないですか
     (添い寝客に)

 そしてもう一つ、この作品を読み返すたびに感じることがある。
 マンガ作品についてはよく「キャラが立つ」という言葉が使われる。たとえば新人の投稿作品について、技術はないがキャラは立っている、ストーリーはよくまとまっているがキャラが立ってない、と言われたりする、あれだ。
 『シマシマ』に登場する人物はいずれもすっきりキャラが立っている。シオもクールなら、添い寝屋に招かれた学生4人もそれぞれ手本にしたいようないい出来だ。だが、それだけではこの作品のリアリティは説明できない。
 キャラ以外に、もう一つ立っているものがある。この作品のあらゆるコマに描かれた「モノ」である。たとえば、眠れない女性の部屋にあふれるブランドの紙袋。食器。スリッパ。カーテン。シオが用いるエステ用の小物、大物。缶ビール、グラス、目覚まし時計、ソファ、蛍光灯のヒモ。それらすべてに意味があり、何一つおそそかにされていない。こういうことに悩む女はこういう部屋に住み、このような衣服を選び、こういう値段の、こういう小物を集め、このように扱う。
 それらの「モノ」が質、さらに量においてすべて的確に描かれなければ伝えられないもの、この作品はそういった精度の上に成り立っている。

 『シマシマ』については、おそらく、もう少しエピソードが溜まると日テレあたりからドラマ化のオファーがかかるのだろう。テレビに詳しくなくても、シオ、ガイほか、登場人物達の配役が容易に予測できる。だが、現在の幼児化したテレビドラマの手腕で、この大人の作品は描ききれるだろうか?

先頭 表紙

2008-09-21 名探偵、虚実とりまぜること悪魔のごとし 『硝子のハンマー』 貴志佑介 / 角川文庫


【純子は、とうとう我慢しきれなくなって訊く。「何か、つかんだの?」「まあ、いろいろと」「もったいぶらずに教えて」】

 あまり大きな声では言えないが、ミステリは嫌いなほうではない。
 我が家の二階の納戸、一階のクローゼットからあふれ出し、寝室まで占拠しつつあるミステリ本の土石流。その土ぼこりの向こう、つり上がった目、尖った角……も、もちろん今のは目の錯覚に過ぎない。

 かくのごときミステリ好きではあるが、洋の東西、古今、快作駄作を問わず、納得がいかない、というより許しがたい場面がある。
 それは、巻も半ばを過ぎ、ワトスン役が名探偵に犯人の名を問うと、まるでそれが聞こえないかのように虚空を見つめた名探偵、「もう一つ、それさえ確かめられれば」などと考え込み、その合間に真犯人がどこかで新たな犠牲者の胸にナイフを突き立てる、あのおなじみの展開である。
 理解できない。そこで考え込むヒマがあるなら「犯人はこいつかこいつ、どっちか。まだ調べたいことがあるので逮捕は無理だけど、これ以上被害者が増えないよう見張っててください」と言えばすむことなのだ。探偵が「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)と情報共有の責務さえ果たしていれば、新たな被害者が1つしかない生命を奪われることもなかった。中間管理職なら降格だし、経営陣だとしても株主総会か取締役会で責められること必定。探偵と役人だけが甘やかされてよい理屈はない。

 先の『生首に聞いてみろ』の際にも取り上げたが、名探偵なるもの、往々にして推理力をほこる割には目の前の犯罪に弱い。「問題を最後まで教えてください。そうすればたちどころに解いて見せましょう」、これでは足の速い連続殺人事件には対処のしようがない。というより、数少ない状況証拠からほかの誰も気づかない真相を暴き出すという彼の特殊技能をこそ、先の展開は否定する。情報を上げ膳据え膳でそろえてもらえるなら、あんたでなくとも犯人くらい特定できるわ、と世界中のレストレード警部たちも声を大に主張したいに違いない。

 要するに、あれだ、殺人鬼が跋扈跳梁するコテージで、一人シャワーを浴びてみたり湖に漕ぎ出したりするお嬢さん、それとどっこいレベルの振る舞いが「もう一つ、それさえ確かめられれば」展開なのである。死体が増えればサスペンスは増すかもしれないが、その分探偵は無能に見える。
 もちろん、探偵が自分の推理を常にオープンにワトスンに語ってしまっては大団円前に犯人が割れてしまう。ワトスンに、そして読者に手の内を明かさないなら、それは、探偵が「実は無能」以外の、何か別の理由が必要となるに違いない。それに回答はないのか。その回答に基づいたミステリはないのか。

 回答はある。「探偵は意地悪」、これだ。

 さて、本題。
 『硝子のハンマー』は、『黒い家』などで知られるホラー作家貴志祐介の(おそらく)初めての本格推理長編だ。
 『硝子のハンマー』は2005年に日本推理作家協会賞を受賞するなど、発表時期、評価、ボリュームなどいろいろな面で『生首に聞いてみろ』と酷似しており、角川もこの2作を「ペア」ととらえているふしがある。同月同日に文庫化された両作品には解説の変わりに貴志、法月両作家の座談会が相互のインタビューという体裁で掲載されている。
 だが、当然ながら2作で違う点も少なくない。その最たるものは、登場する探偵のキャラクター、そして資質だ。

 『硝子のハンマー』では、エレベーターの暗証番号や廊下の監視カメラなどによって二重三重に閉ざされた密室で上場直前の介護会社の社長が殺される。人に危害を加えないようプログラムされた介護ロボットを組み合わせたパズル趣味、探偵役に怪しげな「防犯コンサルタント」を持ち出すアイデアが秀逸だ。
 そしてこの探偵役の榎本径がまた、実に素敵に「意地悪っ」なのだ。彼は目的達成のためなら多少の逸脱など躊躇しない。「探偵」より今どき珍しい「悪漢」という言葉が似合うかもしれない。榎本は自分の推理の途中経過をよく喋るが、それには必ず裏に隠された目的がある。隠すときには隠す意味、隠さないときには隠さない意味がある。本作ではワトスン役としてそれなりに有能な女性弁護士、青砥純子を配しているのだが、榎本のさばきが巧みすぎ、相対的に相手にならない。
 探偵とワトスンのあり方は、こうでなくては。

 本作のメイントリックは魅力的だが、わかりやすいヒントも随所に用意され、読み手が推察するのも困難ではない。また、犯人も意外とか驚愕とかいう按配ではなく、どちらかといえば唐突な印象のほうが強い。つまり、本作ではハウダニット、フーダニットに強く焦点が当てられているように見えて、実はそうでもない。作者は事件の真相については、読者が読み当てることをむしろ期待し、そのためにヒントをばらまいた気味がある。
 では、読み終えてすぐ再読したくなるような本作の魅力はどこにあるのだろう。それはまさしく主人公の「探偵ぶり」、そのテイストではないだろうか。意地悪で悪漢、口は軽いが本音はうかがわせない……。
 探偵のあり方は、こうでなくては。

 そういえば、(まさしくこの貴志祐介が)法月綸太郎を評して用いた言葉が「マジシャン」だったが、あなたは「マジシャン」という言葉にどのような風貌を思い浮かべるだろう。魔法使い、魔術師、奇術師……いろいろあるだろうが、すんなり連想できるのは、黒の燕尾服、口ひげをくりんと巻いて、得体の知れない笑みを浮かべた、あの躊躇を知らないメフィストフェレス、「悪魔」の姿に近いものではないだろうか。

 「悪魔のように賢い」と人は口にするが「天使のように賢い」とは言わない。元来、天才的犯罪人を凌駕する探偵は、悪魔のごとくあるべきなのである。「しまった」「ぼくの責任だ」などと泣き言を口にする悪魔はいない。いたとしたなら、そんなのは悪魔としても探偵としても三流に違いない。

先頭 表紙

2008-09-13 名探偵は泣き言の名手 『生首に聞いてみろ』 法月綸太郎 / 角川文庫


【綸太郎は乾いた唇を噛んでうなだれた】

 横溝正史の生成した金田一耕助は、事件にかかわりながら殺人の被害者が増え続けるのを妨げられない探偵として知られている(『活字探偵団』(本の雑誌編集部編 / 角川文庫))。モジャモジャ頭をかきむしりながら石坂浩二が「しまったああ」と顔をしかめるシーンの数々を思い起こせばさもありなんと思う。
 これには異論もあって、『八つ墓村』『悪魔が来りて笛を吹く』など被害者の数がめったやたら多い一部の事件を除けば、金田一の成績はさほど悪くないという。
 だ、と、すると。ことは重大、金田一個人の名誉でことは済まされない。なぜなら、世の名探偵たちは、そろいもそろって、目の前の殺人を防げないこと、モジャモジャ頭の石坂浩二とどっこいどっこいだってことなのだから(ちなみに、『八つ墓村』も『悪魔が来りて笛を吹く』も金田一役を演じたのは石坂ではなかった。よほどまずい)。

 実は、金田一シリーズはまだいい。横溝の作品の多くにおいて、背骨となる主題は、閉ざされた村社会の因習、一族内の利害であって、犯人はその構造の虜となり、反逆者となってその社会に楔を打とうとする。探偵は起こった事象、その意味を後から読み手あるいは観客に説く道化にすぎず、だからこそ事件はことをなし終えた犯人の自殺によって落着し、語り役を終えた探偵はただ去っていくばかり。

 しかし一方、高度な完全犯罪を目論む天才的犯罪者との論理(パズル)合戦を主旋律とする本格推理作品において、探偵が目の前の事件を阻むことができないのはあまり望ましいこととはいえない。それは探偵が未成熟な受験者にすぎないこと、より直裁にいえば犯罪抑止にはまったくもって無能だということを曝け出すのだから。

 さて、本題。
 法月綸太郎の仕事は手堅い。ここでいう「法月綸太郎」は作中の同名の探偵のことではなく、ミステリ作家のほうだが(作中の探偵も本業はミステリ作家。ああ鬱陶しい)、デビュー当時から最近にいたるまで、文体、犯行を詰める論理ともに緻密かつ重厚な手応えは変わらない。のちに探偵の存在意義とかいう解けない迷路にはまり込み、根の暗い短篇や論評を主とするようになるが、その時期にしても文体、構成の手堅さは同世代のいわゆる「新本格派」の中でも図抜けていた。逆にいえば破天荒な勢いに欠け、作風に華がない、そういうことでもあった。
 『生首に聞いてみろ』はその法月綸太郎の久方ぶりの長編で、2005年の「このミステリーがすごい!」で堂々1位を取得している。文庫にして500ページをほとんど1つの事件で費やしているのだが、伏線から謎解きまで乱れず散らさず、みっちりと虎屋の羊羹を積んだような作風で、その犯行の特異性含め、評価を受けるに足る力作、労作であるといえる。

 ……だが、理屈ではそうとらえつつも、実際に読んでみるとこれが諸手を踊らせるほどには楽しめない。なぜだろう。被害者、加害者を含め、文字数を費やして丁寧に描かれている割にはなんら人間的厚みが感じられない(たとえば被害者はちっとも気の毒に見えないし、他の登場人物たちも被害者が亡くなったことをさほど嘆いていない。全員、ストーリーのための駒なのだ)、しかし、それだけではない。
 とどのつまり、探偵が、「情けない」のだ。何箇所か抜き出してみよう。

 目の前が真っ暗になった。…(中略)…それどころか、自分は取り返しのつかない大失敗をしでかした可能性がある。

 「(前略)…ぼくの手抜かりです。弁解の余地もありません」
 綸太郎は乾いた唇を噛んでうなだれた。目を伏せているのに、川島の視線を痛いほどに感じる。


 「(前略)…わずか一時間ちょっとの間に、彼女を救うチャンスが二度もあったのに。ぼくはそのチャンスを、二度ともつかみそこねてしまったんだ……」

 ご覧のとおり、「しまったああ」と叫んでモジャモジャ頭をかきむしる探偵と変わるところがない。問題は、この柔弱な探偵が、一方では推理を駆使して事件の真実を明らかにする二枚目探偵の役割を担っていることだ。バランスが悪いのである。それ以前に、そもそも、言い訳がましい。

 単行本のほうの帯の惹句で、有栖川有栖は「お帰り、法月綸太郎! 名探偵の代名詞よ。この事件は、あなたにしか解けない」、貴志祐介は「伏線をたぐり寄せるマジシャンの手際は、驚愕と納得を保障する。」とともに絶賛である。
 帯の惹句などしょせん本を売らんかなのコピーだから眉に唾々するにせよ、「名探偵」にして「マジシャン」が、演出でなく、先の引用のような情けない地をさらしてよいものだろうか?

 金田一は事件が終われば去っていくが、法月は留まって父親の刑事と同居。とことん踏ん切りの悪い探偵なのである。

先頭 表紙

ピンク・フロイドのキーボード奏者、リチャード(リック)・ライト死去。65歳。エコーズ冒頭のシンセ音、虚空のスキャット。 / 烏丸 ( 2008-09-17 01:42 )

2008-09-06 日なたと日かげの物語 『オチビサン 1巻』 安野モヨコ / 朝日新聞出版


【ひとりだって楽しいもの】

 朝日新聞で毎週日曜日に掲載されている『オチビサン』、連載のはじめの頃を見逃していたこともあり、奇麗な単行本にまとめられて、とても、嬉しい。

 登場人物は毎日遊びに忙しい、きりりとした顔つきの「オチビサン」、その友だちで読書家の「ナゼニ」、その友だちの「パンくい」。彼らは昭和の色濃いどこかの町で日々季節をめくる。折々の花。水遊び。柏もち、かき氷、枯れ葉ふみ。日なたの匂い。

 単行本では右ページにグレースケールの英語版が掲載され、作品のリズムやシニカルなやり取りがスヌーピーの『ピーナッツ』によく似ていることがうかがえる。同時に、『オチビサン』の世界が『ピーナッツ』のように明るく乾いた陽光の下にあるわけではないことも、よくわかる。

 子どもと、犬と、老人しか登場しないオチビサンの町は「死者の国」ではないか、ふとそんなことを思う。
 一年を通して(風呂の中でさえ)脱ぐことのないオチビサンの帽子は、ある種の病気、治療の副作用を示すものだったのではないか。

 そうでないなら、何ページかに一度、子どもを亡くした母親のようにたまらなく切なくなる、読み手のこの思いをどう説明すればよいのか。去っていくだけの電車、「どこか遠くの町」にいるという父親、間に合わなかった電話、それらから立ち上る寂しさをどう納得すればよいのか。

 いずれにしても、夕暮れ時に子どもが一人火鉢の前でざぶとんに座って「・・・・寒いな・・・」とりりしく窓を見上げる、それでコマを閉じる作品になどそうそうめぐり合えるものではない。

 四季を描くことは絶え間ない死と出合うこと、などと思ってみたりもする。

先頭 表紙


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