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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2004-01-19 『紙の中の黙示録 三行広告は語る』 佐野眞一 / ちくま文庫
2004-01-13
2003-12-29 読むのに時間がかかった本 『ばってんBOX(1)』 笈川かおる / 集英社ヤングユーコミックスワイド版
2003-12-22 読むのに時間がかかった本 『[完全版]夜の画家たち 表現主義の芸術』 坂崎乙郎 / 平凡社ライブラリー
2003-12-15 ドーナツブックスいしいひさいち選集 37『蜜月マーヤの暴言』 いしいひさいち / 双葉社
2003-12-08 読むのに時間がかかった本 『ワンダフル・ライフ バージェス頁岩と生物進化の物語』 スティーブン・ジェイ・グールド,渡辺政隆・訳 / ハヤカワ文庫NF
2003-12-01 読むのに時間がかかった本 『蔭桔梗』 泡坂妻夫 / 新潮文庫
2003-11-24 読むのに時間がかかった本 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』 朝日文庫
2003-11-17 読むのに時間がかかる本
2003-11-10 雨の夜の楽しみ...


2004-01-19 『紙の中の黙示録 三行広告は語る』 佐野眞一 / ちくま文庫


【近所の人達は誰れも知らぬ。過去と今後の進路は一切問わぬ。重病の父に一目だけでも会って欲しい。真佐子】

 佐野眞一といえば,読売新聞,日本テレビ,プロ野球巨人軍の上に君臨した正力松太郎を取り上げた『巨怪伝』,ダイエーの中内功を主軸に戦後の流通史を描き上げた『カリスマ』,そして『だれが「本」を殺すのか』『東電OL殺人事件』など,骨太で長大な著作で知られるノンフィクション作家。
 一方で彼は生活に密着した低い目線のルポルタージュ雑誌連載も得意で,ゴミや業界紙といった身近な素材から現代日本を浮き彫りにしてみせる。
 本書『紙の中の黙示録 三行広告は語る』は,新聞の三行広告をトリガーに,さまざまなメディアの小さな広告群から浮かび上がる社会の実相に着目した作品である。

 読み手はまず,巻頭に例示された赤瀬川原平収集による三行広告に圧倒される。そこでは,なんらかの経緯で家を出た「隆」に対するその母親らしい「真佐子」の執拗なまでの語りかけが繰り返されている。十五回にわたるその尋ね人広告の中で,隆の父は倒れ,入院し,死んでいく。当人たち以外にはわからぬドラマが短い活字の向こうで展開され,消えていく。
 そして,これら尋ね人広告,お詫び広告,黒枠広告の裏でしのぎをけずる新聞,広告代理店の面々。

 面白いのは,
  「三行の活字の裏側にひそむ社会の諸相と,この時代のみえない底辺を,文字通りフィールドワークしていきたい」
という著者の作業そのものが,本書が「モノマガジン」に連載された1988年から翌89年,つまりバブル経済最盛期(バブルがはじける直前)の世相を期せずして克明に描き上げていることである。

 たとえば,
  「未曾有の好景気による求人広告出稿数の激増ぶり」
  「もはや給与面の待遇など,一点だけをアピールするだけでは,なかなか人が集められない時代」
といった表記を,現在のリストラクチャ当事者たちはどう読むだろう。
 もちろん,バブル最盛期とはいえ,財界の大物のレポートを得意としただけあって著者の視点にブレはなく,
  「三行広告は,ふくらむだけふくらんではいるが,内部の空洞もそれだけ広がっているゴム風船のような日本経済そのものを象徴している」
の一節は,流石と評価してなお余りある。

 ただ,雑誌連載のメリハリに窮してか,大阪・釜ヶ崎,訪問販売業者,求人情報誌など,素材や対象を広げ過ぎてやや散漫な印象があるのが残念。
 また,『東電OL殺人事件』などでも時折りみられた,
  「そのカラフルな頁には,時代という名の共犯者に追従し,彼らが無意識のうちに犯してきたその咎(とが)もまた,あぶりだしのように滲みだしている」
  「もし三行広告に声があるとするならば,時代と社会の澱の底からわきあがるようなおらび声やうめき声が,紙面の背後から聞こえてくるはずである」
といったウェットに過ぎる表現が気にかかる。
 これほどに扇情的にあおらず,事実の積み重ねだけで読み手を圧倒するのが,ルポルタージュのあるべき姿ではなかっただろうか。

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 ところで,三十余年を経た今も記憶に残る,尋ね人広告について,一ネタ。
 おそらく1971年の秋だと思われる。講談社・少年マガジン本誌の『巨人の星』の連載が完結し,少年マガジン別冊として厚さ2cm程度の『巨人の星』総集編本が発売された。マンガの単行本文化がまだ発達しておらず,人気連載マンガを追体験するにはそういった別冊を購入するしかなかった時代である。
 さてその『巨人の星』総集編本の最後を飾る1巻の,そのまた巻末に掲載された埋め草ページ,読者の声やイラストにちょっとしたギャグをあしらったその見開き,新聞の体裁をとった確か左ページ右下にその尋ね人広告はあった。

  「飛雄馬 パーフェクトかたついた帰れ 一徹」

先頭 表紙

クラッセさま、いらっしゃいませ。本書を読まれるかもしれない方には、今回の私評は余計なお世話の領域まで書いているのではないかと少し心配しています。もちろん、この程度で本書の内容を伝えられたなどとおごったことを考えているわけではないのですが。 / 烏丸 ( 2004-01-24 02:55 )
はじめまして。本屋で買おうか迷った本のタイトルを目にしてやって来ました。とても参考になりました。過去の日記も参考にさせて頂きます。私も「なんたってショージ君」を同じ頃に読んでいたので、何となくおかしかったです(11/30と12/18の日記に書いてあります)。デペッシュモードは「See You」の頃からのファンです。 / クラッセ@突然おじゃましました ( 2004-01-23 19:06 )

2004-01-13 雨

 
 今年は……
 雨がたくさん降るといい。
 雨は好きだ。窓を打つ雨の音を聞きながら本を読んだり,お茶を飲んだり。ささやかに人をののしったり,ひざまずいて小さな嘘をついたり。
 雨の日に似合う音楽や雨の日にふさわしい本というものがあって,それは普段はそれとわからないのだけれど,雨が降り出して通りを子供たちの走る声がすると静かに思い出されるのだ。
 子供のころ,雨が降り出すと父親の車に本を持ち込んで寝転んでそれを読みふけったものだ。車の後部座席は子供が寝そべるにも狭く,空は暗く,本を読むのに快適とは言いがたかったけれど,雨とガソリンの匂いの中で本を読むのが好きだった。
 雨の日,人は楽天的にこそなれないけれど,どうしようもないほどに投げやりにもならないものだ。
 雨の日に似合う苛立ちや悲哀というものがって,それは普段はそれとわからないのだけれど,雨が降り出すとやがてそれも静かに降ってくる。
 雨は好きだ。愛だの恋だの思い出だのはカビや苔と同じで湿ったところにしか生えないのだから。

先頭 表紙

ニナさま,いらっしゃいませ。冬の雨はとがった感じ,春の雨はティアードロップな感じがしますね。夏の夕立はそりゃもうでっかいまん丸というか。 / 烏丸 ( 2004-01-18 01:56 )
雨をうたう歌も好きです。1970年ごろにエアチェックしたカセットテープに「雨」という題名しかわからない女性ボーカルの曲(歌謡曲? フォーク?)が残っているのですが,歌手もわからず心の隅にずっとひっかかっています。 / 烏丸 ( 2004-01-18 01:46 )
私もみなみさんと同じく、春の雨が特に好きですね。それは子どもの頃の出来事と思春期の頃読んだ本と繋がって、何とも説明難い原風景のような。 / ニナ ( 2004-01-14 18:27 )
雨、わたしもだいすきです。雨の音を聞きながら眠りにつくのがいいんだよなぁ。春の雨が特に好きですね。 / みなみ ( 2004-01-13 02:14 )
2004年の1冊め,なにをもってきてもしっくりこないのでこんなものをアップしてしまいました。今年の目標は,1つ1つの私評をもう少し短めに……。 / 烏丸 ( 2004-01-13 01:33 )

2003-12-29 読むのに時間がかかった本 『ばってんBOX(1)』 笈川かおる / 集英社ヤングユーコミックスワイド版


【あなたのは 夢ですら なかったのよ】

 ずっと以前の書き込みのつっこみ返しでもふれたように,笈川かおるは非常に好きな漫画家の一人だ。清原なつのと同じくらい,といえばおわかりいただけるだろう(か?)。
 単行本はほぼ揃っている。単行本未収録作品のいくつかを掲載誌からの切り抜きで保存してあるのはちょっとした自慢だ。
 残るは集英社の『ばってんBOX』1冊……。

 となってから,本書を入手するまでが長かった。

 『ばってんBOX』は1997年5月の発行なのだが,なにしろ紀伊国屋BookWebすら十数冊しかない単行本の全貌を把握できないほどのマイナー作家である。
 不覚にも『ばってんBOX』の発売に当時は気がつかず,気がついたときはすでに品切れになっていた(発売から1年もたなかった印象だが,いったい何部刷られたのだろう?)。

 紀伊国屋BookWebで「入手付加」の文字を見たその日から,『ばってんBOX』を探し求める孤独な兵士の旅が始まった(いや,それほどのもんでも)。

 訪ねた古書店は北は網走から南は石垣島まで(嘘デス,ゴメンナサイ),少なく勘定しても50軒はくだるまい(こっちは本当)。いや,古書店の前を通りがかるたびに中に入って集英社のヤングユーコミックスのコーナーをチェックする習性がほとんど体にしみついて3年,4年,5年……。
 ある日,Amazon.co.jpのユーズドブック欄にそのタイトルがあった。

 売り値やコンディションなどどうでもよい。震える指でクリックし,飛び立つ思いで(怪しいエステ系の通販商品の推奨文みたいね)注文して待つこと数日,封筒が届いた。

 ヤングユーコミックスの棚をいくら探しても見つからないわけだ。ヤングユーコミックス「ワイド版」だったとは……。
 同じ集英社のヤングユーコミックスから発行された『ソルジャーオブレイン』や『夏だったね』が普通のコミック版だったから,てっきり同じサイズかと……いや,確認してなかった自分が馬鹿なのよ。

 ともかく,ようやく手に入った『ばってんBOX』である。
 人の心のすれ違いをテーマにしたそれぞれ十ページ程度のショートショート集で,ここしばらくの(といってもいずれも十年以上前の作品だが)単行本の中でも笈川かおるらしさがよく顕れていて,とても面白く,そして切なく思われた。
 女の子はきれいでかわいい。男の子もほどほどに二枚目で,シックな場面も笑えるギャグも巧みに描き分ける。にもかかわらず,照れなのか,何かあったのか,この作者はいつも正面から「ちょっと目をそらして」しまう。
 笈川かおるが実はマンガ嫌いなのではないか,ということについては以前ふれたので繰り返さない。

 マンガと笈川かおるの関係をトレースするかのように,「すれ違い」や「勘違い」ばかり描いたショートショート集の(1)だけを残して,及川かおるは少女マンガに続いてレディースコミックの表舞台からも消えてしまう。

 その後の仕事が『集英社版・学習漫画 世界の歴史人物事典』『集英社版・学習漫画 世界の歴史(11) 市民革命とナポレオン : イギリスとフランスの激動』だというのは……ファンとしてはあくまで追いかけるべきなのか,それとも,痛みにうつむくべきなのか。

先頭 表紙

2003-12-22 読むのに時間がかかった本 『[完全版]夜の画家たち 表現主義の芸術』 坂崎乙郎 / 平凡社ライブラリー


【「いや,これはエクスプレションなのだ」】

 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』のところでは,「ベッドに入ったところでまず少々重めの本を選んで読んで1時間,2時間,微妙に眠くなったところですかさず本書に切り替えて」と書いた。その「重めの本」の1冊として長きにわたり一種の就眠儀式の台本として君臨してきたのが,この『夜の画家たち』である。

 本書は,印象主義の少し後から主にドイツを中心に花開いた「表現主義」の画家たちを取り上げた論評集なのだが,これがもう,絵画についての書籍としては実に重い。重いというより,はっきり言って熱苦しい。
 なにしろ表紙カバーの惹句からして

  激しい感情表出,死とエロスの,霊と肉の,赤裸々な相剋を伝える緊張と孤独──。
  北欧のムンク,スイスのホードラーを先達とし,ドイツの土壌に開花した表現主義の運動。
  カンディンスキー,クレーを育む現代絵画のひそかな間道としての表現主義芸術を照射する。

といった具合。
 取り上げられた画家も,ムンク,ホードラー,ココシュカ,キルヒナー,ノルデ,ベックマン等々,ヒゲ剃りの後が青々とした(?)こゆいお歴々が並んでいる。後半に登場するカンディンスキーが軽くさわやか!に感じられるのだから,トータルの密度,濃度たるやご想像いただけるのではないか。

 本書から無作為に──いや修辞としてでなく本当に行き当たりばったりにページを繰って──その濃さを示す表記を求めてみよう。

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  闇夜にも似た運命のただ中に浮かび,たえず存在の不安におびえながら,仕事する繊細な腕と対決し,ときに憔悴し,ときに苦渋しながらも,感じ,悩み,愛する人間へのきびしい洞察を,カンヴァスの上に不敵に描き出した生涯こそ,おそらくムンクの生涯だったのではあるまいか。(ムンク)

  自然が,その奥行の全容をうつしだす水の深さを待ってはじめて立体的に,ひとつのまとまりをもった実体としてとらえられるものだとすれば,同様に生もまた,死の深淵に影をうつしてはじめて,その真相をあきらかにすることができるのではあるまいか。(ホードラー)

  印象主義という精神的な遺産をまったくもたないこのドイツの女流画家と詩人とが,この遺産を継承し,これに大きな修正をこころみるセザンヌに血縁を感じたという事実。(モーダーゾーン=ベッカー)

  ノルデの宗教的な作品が,往々にして信仰と狂気,正教と異端,神と悪魔とのあいだの間一髪の綱わたりであると評せられ,みる者に,あきらかに霊と感性とのアンバランスを感じさせるのは,どういう理由によるものであろうか?(ノルデ)

  ココシュカの探求が,事物の本質的な形体や,それの造形的な秩序の把握をめざすものではなく,もっぱら主観の対象への投入と,それによる事物の象徴的な把握から出発していることは疑いのないところだ。(ココシュカ)

  微小なもののなかにひとつの宇宙をみようとする,あるいは単純な表現に深い体験を暗示する象徴性こそ,彼の作品を支える最大の秘密である。(クービン)

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 ……ご覧のとおり,著者の目には,画家の作品など映ってはいない。
 ここにあるのは,画家が描きたかった(つもりの)もの,それを著者が読み取った(つもりの)ものばかりである。是非はともかく,少なくとも絵画作品とは別の次元の話だ。

 そもそも,もし一個の絵画作品を評価するのにこのようなテキストが必要なのだとしたら,それは絵画の敗北である。
 逆にいえば,たとえばムンクの作品は,このようなくだくだしい説明なしに,あの言いようのない不安,虞れ,それらに挑む画家の生きざまを感じさせてくれるからこそ素晴らしいのだ。
 結局,このようなテキストは,その画家,あるいは画家たちがまだ十分に知られていない時期には一種の啓蒙の役割を果たすかもしれないが,一歩違えば予断を押し付けることになりかねない。

 先に引用したテキストが,いかにも学校の入学試験に引用されそうな,そんな雰囲気が立ち込めるのは,だから決して偶然ではない。
  問1 著者はムンクの生涯をどのような生涯だと述べていますか。句読点を含む三十字以内で答えなさい。
  問2 ココシュカの探求について,下線部「それ」は何を指していますか。
  問3 クービンの作品を支える最大の秘密について,下線部と同様の意味で説明されている部分を本文中から抜き出し,最初と最後の5文字で答えなさい。(完全正答)
などなど and so on...
 絵画作品に向かう際,こういった読解の技術は不要でこそないが,必須というわけでもない。少なくとも,表現主義の画家たちの作品に相対するのにこんなテキストが必要かと言われれば,それは疑問である。

 ただ,ベッドで手にする本書には,別の魅力があることもまた事実である。

 本書で取り上げられた画家たちの多くは,ムンクやカンディンスキー,クレーら一部を除けば,概して非常にメジャーとは言いがたい。そして,本書ではそれぞれの画家の作品をいくつか口絵として紹介してはいるものの,いずれもモノクロ,それもあまり精度のよくない小さな写真である。

 だから,本書を読むことは,まだ見ぬ異国の画家の作品についてのびのびと──もとい,著者によるがんじがらめのルールの中で──想像力を働かせる,ということだ。

 たとえば,キルヒナーの「画家とモデル」という作品について,著者が「眼のさめるようなオレンジ色の布地に濃いブルーの横縞の入っているガウンの色彩が,ほとんど画面を決定している」と述べるとき,(その作品を印刷物においてすら見たことのない)読み手は,まざまざと画面の左半分を覆うオレンジと濃いブルーのガウンに圧倒される。これは素晴らしい絵画体験である。
 ……あとでインターネット上でこの作品の画像を発見して,「眼のさめるような? どこが?」とがっかりすることはあっても。

 あるいは,マルクという画家についてはよく知らないのだが,本書にて語られるその作品はひどく魅力的に思われる。ナチスから頽廃芸術の烙印を押されて消息を絶ったとされる「青い馬の塔」はことに心を洗う。

  塔を形成する四頭の馬の眼は,敬虔で神秘の光を放っている。

 ベッドの中で本書をひもとき,そしてこの世にもう存在しないとされる作品の馬の眼の「敬虔で神秘の光」にため息をつき……。
 だが,それは結局のところマルクの作品であって,マルクの作品ではない。本書にとって,「夜の画家たち」は,はたして実在する必要はあったのだろうか。それとも。

先頭 表紙

2003-12-15 ドーナツブックスいしいひさいち選集 37『蜜月マーヤの暴言』 いしいひさいち / 双葉社


【きれいに焼けませんのやで。】

 アズキ相場の勧誘電話なら息せき切って「今,大変なチャンスになっているんですぅ!」と叫びそうな空模様である。
 というのも,なぜかこの秋いしいひさいちの新刊が立て続けで,「急いでお金振り込まなくっちゃ!」な状況なのだ。

 なにしろ。
 『となりの山田くん』シリーズの文庫化(東京創元社)を除けば,『現代思想の遭難者たち』が2002年6月の発行,その次が1年2ヶ月後の2003年8月『ののちゃんのとなり』,これにしても東京創元社の既刊文庫化。
 しかして,この秋は。

  『眼前の敵』(河出書房新社)
  『大統領の陰謀』(双葉文庫)
  『がんばれ!!タブチくん!! 阪神死闘編』(双葉文庫)
  『ドーナツブックスいしいひさいち選集 37 蜜月マーヤの暴言』(双葉社)
  『バイトくん 大学には入ったけれど』(双葉文庫)
  『忍者無芸帳 眠れる森の忍者』(双葉文庫)

 もういったいどうしちゃったの,よっぽど苦しいのか双葉社。いやそのごほん。

 もちろん,『がんばれ!!タブチくん!!』『バイトくん』『忍者無芸帳』は既刊の文庫化だが,いずれも久しく(モノによると20年以上!)入手が困難だったもので,初期からのいしいひさいちコレクターからみればこれらが簡単に入手できるようになったことに悔しい面もなくはないもののまずはメデタイと言っておこう。
 『大統領の陰謀』は『ドーナツブックス』『問題外論』『大問題』などの既刊から「大統領」系の作品をピックアップし,単行本未収録作品を加えたもの。エリツィン,ブッシュ父子,クリントン,金正日,フセインらおなじみの面々がご活躍である。

 そして,『となりの山田くん』『ののちゃん』シリーズを除くオリジナル作品集としては実に久しぶりの『眼前の敵』。河出書房新社から新書サイズという体裁もオシャレ。これは『鏡の国の戦争』シリーズの続刊にあたる戦場,軍隊モノで,「いしいひさいちはテンポを狂わすということはないのか」と思われるほどに,変わらぬ苦味を提供するブラックユーモア集である。

 ……どうもタイトル名,シリーズ名ばかり列挙して申し訳ない。

 それにしても,いしいひさいちはもはや国民的四コママンガ家として「大家」の領域に入るだろうに,この四方八方あたりかまわぬ「嘲笑」はどこから出てくるのだろう。1970年代後半,デビュー当時の『バイトくん』や『タブチくん』なら,作者自身が無名の貧乏マンガ家,つまり弱者の側にいることから理解できなくもなかった。しかし,そのスタンスが朝日新聞連載を得た現在にいたるまで続き,他国の大統領を含めてとことんとんとんオチョクリ倒す,この神経は並みではない。
 しかも,それを支える,たとえばプロ野球,推理小説,戦争映画,時代劇,政治経済,哲学等々についての広範囲な知識……。いったいいつ読んで,観戦して,取材しているというのか。

 今回の新刊,『ドーナツブックスいしいひさいち選集 37 蜜月マーヤの暴言』の巻頭には,「月子」という,どちらかといえば地味な16ページの新シリーズが掲載されている。こーれーがー,怖い。小品ではあるが,いしいひさいち初のホラーである。もちろん,怖いといっても,決してゾンビの首が抜けて血がドーバドバとか,寝ていると天井から老婆が逆さまに顔の真上にぶらんとか,そういう怖さではない。一話一話は四コマギャグなのである……が,それでもやはりホラーなのだ。
 直接の影響は指摘できないものの,ここにあるのは,ラブクラフト,クトゥルー系の闇の系譜である。それが,いつもの白っぽい四コママンガで描かれていることが,怖い。
 いしいひさいちこそは引き出しの底の見えぬ「妖怪」なのである。

 なお,「月子」には,いしいひさいち全作品でおそらく初めての,ディープなキスシーンが挿入されている。いしい作品は足が早いので(書店店頭から消えるのが早いので),ファンの方は急ぐように。

先頭 表紙

もちミケルソンさま,遅ればせながら本年もよろしくお願い申し上げます。さて,萌えともうせば,ミケルソンさま萌え萌えのアレが,また何冊かたまっております。機会がありましたらお送りいたしましょう。 / 烏丸 ( 2004-01-13 01:32 )
月子さん、結構萌えではありませんでしたか。ええ、ええ、萌えでしたとも。 / もちミケルソン ( 2004-01-06 15:20 )

2003-12-08 読むのに時間がかかった本 『ワンダフル・ライフ バージェス頁岩と生物進化の物語』 スティーブン・ジェイ・グールド,渡辺政隆・訳 / ハヤカワ文庫NF


【アノマロカリスは,付属肢を使って獲物をその開口部まで運び,それをすぼめることで獲物を砕いていたのではないかというのだ。ペユトイアと命名されていた環状の板は,内側の縁に歯がついている。】

 忙しいときは忙しい。
 当たり前のようだが,本当のことだ。

 会議,会議,会議の用意,会議で決まったことの落とし込み,また会議。会議が3つ5つとブッキングし,自分で主催したミーティングで議事進行をとりながら,手元のノートPCから別の会議に指示を送る。ある部下は会議の最中に議題の業務をフロー化し,会議が終わると同時に議事録とフロー図の記されたExcelシートを出席者全員に送りつけ,確認を要請した。アッパレ,モノノフのかがみである。
 このような業務スパイラルにはまり込むと,昼飯を食べに出るのはなかなかに難しい。昼時といえど打ち合わせのお招きはメールや電話で押し寄せ,相談という名の業務押し付けがあらゆる通路で多発する。やむなく支援部隊に買いにいかせたコンビニのおにぎりとお茶を会議中にはむはむ流し込んで空腹を押さえ,そのうちコンビニメシを手配する暇もなくなり,最後はトイレに行く時間もなくなって往生する(本当)。
 夜9時から始まる会議に向かうエレベーターでなんだか足がふわふわするのでおかしいと思ったら,朝から固形物を一切口にしてなかった。その時間の会議ともなるとさすがに気心の知れた面子中心なので,急遽会議場を向かいのコーヒー店に移した。

 無茶苦茶ではあるが,この不景気なご時世,忙しいというだけで幸福なことだ。
 仕事をする自分を会社の歯車にたとえて社会を批判する者がいるが,そういう輩に限って歯車としても使い物にならない。目先の仕事や上司の命令に追われているのは本当の自分ではない,「自分らしさ」「本当の自分」を求めて有給を観光地で過ごす……勝手にすればよいが,その「弛緩」を会社に持ち帰らないでほしい。どうせその程度の「自分」は会社でも観光地でもその他大勢のワンピースにすぎないのだから。

 ……などなど,ちょいとモーレツ社員ぶってみたが,新しい商品やサービスを扱う際にたまに会議が重なるだけで,実態はそれほどでもない。ただ普段からそれなりに忙しいのは確かで,そうなると一人で昼食を食べに出られるときには,せいぜい仕事と関係ない本を手にその数十分をくつろぎ,リフレッシュしたいものだと思う。「自分らしさ」「本当の自分」を求めて……コラコラ。

 というわけで,ここ数ヶ月,昼食時に持ち歩いていたのがこの『ワンダフル・ライフ』である。昼食時だけに限定したので,読み終わるのにずいぶん時間がかかった。

 『ワンダフル・ライフ』は,カナダ,ブリティッシュ・コロンビア州の山中の「バージェス頁岩」にて発見された約5億年前の奇妙な小動物たちの化石をめぐって,生物の進化の謎を追うノンフィクションである。

 当初,バージェス頁岩の発見者であるウォルコットは,その生物たちを従来の節足動物の枠にあてはめた。すなわち,三葉虫やエビの一種とみなしたわけである。しかし,のちの研究でそれらは既存の分類体系のいずれにも収まらないことが明らかになってくる。それどころか,それは,従来の進化についての考え方を大きく覆すきっかけとなるものだった……。

 書物としてはまことに面白い。
 スリリングであり,説得力があり,ファンスティックで,さらになんといっても化石から復元された小動物たちの見目姿がよい。
 たとえば表紙の右に描かれたハルキゲニアは,どちらが前か後ろか,どちらが上か下かさえわからない。表紙左のオパビニアは,一見エビの一種のように見えるが,5つの目と先が爪状になったノズル(口?)を持ち,体節の上面には鰓,尾には3つの節がある。
 二対の棘が長く突き出た頭部とエレガントな鰓脚を持つマルレラ(当初は三葉虫の一種とされたがのちに否定された),頭部は節足動物に見えるがそれ以外は脊索動物のように見える(!)ネクトカリス,遊泳する扁平な動物オドントグリフスは円形型の歯が独特だ。
 本書に登場する小動物たちはいずれも謎に満ちて魅惑的である。マリアン・コリンズによる細密な復元画がまた魅力的で,嬉しい,たまらない。

 もっとも,進化に関する著者の主張については,若干首を傾げてしまう面もなくはない。
 グールドが指摘するのは,従来の進化の系統樹が逆円錐形をしており,現在に近づくにつれて枝が多くなり,複雑化することに対する疑問符である。彼はバージェス頁岩に見られる「カンブリア紀の爆発」に,生命は発生初期にこそ多様性が最大で,そこから悲運多数死によってどれかの種が偶然生き残る,という進化観をとる。
 この考え方がおかしいと言いたいわけではない……いや,そうではなくて,むしろ当然のような気がするのだが,違うのだろうか。つまり,グールドがこぶしを振り上げて否定したがっている進化についての思い込みは,そもそもそのような思い込みがあること自体馬鹿馬鹿しくはないか。
 どうもキリスト教に基づいた西欧文明というのは,動物の中では哺乳類,哺乳類の中では霊長類,霊長類の中ではヒト,といった具合に生物を「高等」「下等」に分けて悦に入るところがあって,逆円錐形の系統樹もそれと同じ根の上にはびこっているように思えてならない。「未開民族はすべて同一の発展段階を経て,西欧型の最終段階文明に到達すると考えていた十九世紀的進化論の遺物的な思想」(唐沢俊一『カラサワ堂怪書目録』光文社知恵の森文庫),これとそっくりな思考フォーマットである。
 しかし,そもそもそのような進化のとらえ方そのものがピンとこない者には,グールドの主張は今ひとつ意味がよくわからない。三葉虫は人類より下等だ,と言われても,すぐにはうなずけない。少なくとも,人類はあれほど幾何学的に美しくはない。
 グールドは本書において我田引水が過ぎ,コンウェイ・モリスらの研究者から反発を買ったらしい。その前に,東洋的,仏教的な輪廻観などを,(是非はともかく)進化学者たちにばら撒いてみたいような気がしないでもないがどうだろうか。

 いずれにせよ,バージェス頁岩の小動物たちは,夢のように美しい。
 のちの研究では,彼らの大半は(あのハルキゲニアすら!),実は従来の分類に収められると言われているそうだ。だが,別に進化や生物の分類学について正確な情報が欲しくて本書を手にしたわけではない。本書は十分に魅力的で,かつかなり論理的でもある。よい書物は,よしんば内容が古びてしまっても,読むに足るものなのだ。

 遅い昼食にのんびり箸を運びながら,カンブリアの海底に思いをはせる。穏やかだが,にぎやかな午後の海。君たちの波,君たちの光,君たちの闘いと生産性。

 ここに大きな泥の波が押し寄せて何億年かののちに発掘されたなら,僕たち人類はどのように評されるのだろう。僕たちはオパビニアやサンクタカリスのように魅力的に見てもらえるだろうか。少なくとも進化の長と認めてはもらえそうにないように思われてならないのだが。

先頭 表紙

2003-12-01 読むのに時間がかかった本 『蔭桔梗』 泡坂妻夫 / 新潮文庫


【静乃は眩しいようなあどけない笑顔を見せた。】

 読むのに時間がかかった,どころか,実はまだ読み終えていない。

 発行が平成五年二月とあるから,かれこれ十年近くもの間,通勤の鞄の中と本棚の未読コーナーを行ったり来たりしているということになる。我ながら,少々情けない。

 別に晦渋な学術書でもなければ,両手に重い超大作でもない。たかだか300ページに満たない文庫本に,収録短編11作品である。悪文で不評轟々というわけでもなく,実は作者の(遅めの)直木賞受賞作にあたる。
 だが,しかし……なぜかページを繰る手が止まってしまうのだ。

 泡坂妻夫のトリックはすごい。そのトリックを提供する展開がすごい。その展開の合間にほの見える人間関係に妙にほろほろと苦味があって,いわゆる「行間を読ませる」ところがすごい。
 デビュー短編を含む『亜愛一郎の狼狽』1冊だけで,作者がこの国のミステリ史上,最高の業師であることは明らかである。かと思えば,とことん設定で遊んだように見える初期の長編『乱れからくり』に登場する女探偵・宇内舞子の堂々たる存在感はどうだろう。彼女の過去については何一つ描かれていないにもかかわらず,両の腕を伸ばして抱えなければとても相手できそうもない,その肉の厚み。

 そんな泡坂妻夫が直木賞を受賞したのがやはりミステリではなく,紋章上絵師としての人情譚でだった,それが悔しい。作者当人がどう考えるかは別として,「失われゆく江戸情緒」を評価されて直木賞を受賞したのなら,亜愛一郎や宇内舞子,あるいは最近は初期の論理の妖艶さを失ってしまったとはいえ,奇術探偵 曾我佳城の価値はいったいどうなってしまうのか。

 いや,もちろんそれはミステリやSFになかなか賞を与えようとしない直木賞の選者,出版社側の問題であり,一方で初期のタッチを見せてくれない作者の作風の変化によるわけだが,それにしてもアクロバティックな魅力を失ってしまった泡坂妻夫,それにもかかわらず相変わらずほめてばかりの解説担当者たちの情けなさ。

 誰か,「読みたいのは,こうではなくて,こういうのではなくって……」とはっきり泡坂妻夫に提言しないものか。

 もちろん,『蔭桔梗』に収録されているような,紋章上絵師など古い技術にかかわる人々をしっとりと描き上げた作品がつまらない,というのではない。主人公が作者と同じ紋章上絵師であるからと,すなわち私小説的に日々の出来事を淡々と描いたのだろうなどと微温なことを想像するつもりもない。
 それぞれの作品にはそれなりに苛烈な設定やアイデアがこめられているのもまた事実であって,『蔭桔梗』収録作では,「竜田川」や「くれまどう」にその魅力を感じる。しかし,表題作の「蔭桔梗」そのものは,それほど褒めちぎるべきものだろうか。あるいは最近の長編で,読み終えたとたん最初から読み直したくなるような作品があっただろうか。

 などということを思いつつ読んでいると,なんだか没頭できずに短編の一つ二つ読んだところでまた本棚に戻してしまう。数ヶ月,あるいは数年して再度取り上げたときには,その空気になじむためにまた最初のページからめくることになる。
 いったいいつになったら読み終えることやら。

 ちなみに,出版された作品はほとんど読んでいるはずの泡坂妻夫なのだが,この『蔭桔梗』以外にもあと2冊,どうしても読めない「本」がある。
 1冊は長編『写楽百面相』,江戸中期の浮世絵師・写楽の正体をめぐって……ということのようだが,どうも文体だか冒頭の展開だか,あるいはその両方になじめず,これまた鞄と本棚を何度も行きつ戻りつしている。
 もう1冊は『生者と死者 酩探偵ヨギガンジーの透視術』……これを読めていないのは自分が悪い。出版されてすぐにもう1冊買っておくべきだった。これは,手元に2冊ないと,読むわけにはいかない類の「本」なのである……。新潮文庫ではとうに絶版,再販の気配もなければ,古本屋に出回りそうな本でもない。実に困っている。

先頭 表紙

……などという私評を書いたら,さすがに私評を書くためにぱらぱら目を通して,その勢いのまま最後まで読んでしまったさ。感想はとくに変わらず。 / 烏丸 ( 2003-12-07 03:11 )

2003-11-24 読むのに時間がかかった本 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』 朝日文庫


【様々な葛藤があったが いまはやすらかにかつ丼をいただくご婦人】

 1巻め『東海林さだおの弁当箱』が791ページ,2巻め『東海林さだおのフルコース』が457ページ,3巻めの『東海林さだおの大宴会』が469ページ。
 大変なボリュームである。ところがこの3冊ですら「自選・特選」と銘打たれた,早い話「傑作集」に過ぎない。

 しかしてその正体はといえば,週刊朝日に現在も連載中の食べ物エッセイ「あれも食いたいこれも食いたい」なのだが,これがすでに単行本にして
  タコの丸かじり
  キャベツの丸かじり
  トンカツの丸かじり
  ワニの丸かじり
  ナマズの丸かじり
  タクアンの丸かじり
  鯛ヤキの丸かじり
  伊勢エビの丸かじり
  駅弁の丸かじり
  ブタの丸かじり
  マツタケの丸かじり
  スイカの丸かじり
  ダンゴの丸かじり
  親子丼の丸かじり
  タケノコの丸かじり
  ケーキの丸かじり
  タヌキの丸かじり
  猫メシの丸かじり
  昼メシの丸かじり
  ゴハンの丸かじり
ぜはぜは,つまりその,ひぃふぅ,だるまさんが転んだ,インド人のクロ…(Pi!),合わせて20冊が発行済みの,さすがは老中松平定信の寛政の改革当時すでに江戸八百八町に名を知られた老舗名代エッセイだけのことはある(ウソ)。

 さてではその本領といえば,とにもかくにも,これほどまでに美味しそうに,これほどまでに楽しそうにモノを食べてよいのだろうか,というくらいうひゃうひゃと楽しそうなその文体にある。

  ゴハンと黄身が上アゴにひっつき,舌にひっつき,口の中はニッチャコ,ニッチャコとなって,目はなんとなく上目づかいになって,口はOの字になったりヘの字になったり,これはなんともこたえられまへんな,という心境になり,はたから見たら,ともて利口には見えまへんな。

  浅漬けの塩ラッキョウは,果実の種のように硬く引き締まり,噛むとカリカリ,シャキシャキと口の中が騒がしい。

  まずすることは,ナイフでもってホットケーキの表面をペシペシとたたくことである。

  チャーシューが六枚という店が多い。八枚だったりすると,思わず店主の顔を見上げ,「そういうヒトだったんですね」と尊敬の目になる。


 なーどなど。

 そもそも,取り上げられた素材がよい。
 同じ食べ物エッセイといっても,代官山のフランス料理のなにがしが……といった取り上げ方もあるわけで,20年近く連載を続けていればたまにはそういう方向に走りたくなるに違いないと思われるのだが,にもかかわらず本シリーズはどこを開いても

  福神漬の鉈豆とは何か
  ゴハンに海苔を巻いて食べるとき,海苔の醤油は内か外か
  立ち食いそば屋の七味唐辛子の二穴式の缶は一体誰がしめているのか
  なぜどの辞書も小倉餡の「小倉」の由来については固く口を閉ざすのか
  スイカを皮から剥いて食べたら……
  カレーラーメンはなぜないのか

といった具合で,まったくどこからどこまでこの国の朝ごはん! もうなんとも日常的かつ素朴な食材を取り上げて次から次へとアクティブな問題提起を行って油断がならない。

 油断といえば経済企画庁長官も務めた堺屋太一が以前どこかの雑誌誌面で「これまで一食何万円もしてサラリーマンには手の届かなかったある料亭の懐石料理が3,500円でランチになった。デフレにもよい面がある」とタワけたことをのたまわったのを読んで呆れ果てた記憶があるが,東海林さだおの食べ物エッセイにはそのような不快極まりない金銭感覚,あるいはグルメぶった居丈高さは一切ない。
 取り上げられた食べ物の大半は立ち食いそばやインスタント食品,おにぎりや串カツ,お汁粉であり,チャーシューメンやかつ丼がハレの日のごちそう扱いである。

 もちろん,作者がマンガ家であることも,(当たり前のことだが)忘れてはならない。
 それぞれのエッセイに添えられたおばさん,おじさんたちはもう実に情けないほどに見事におばさん,おじさんである。このおばさん,おじさんたちがテーマの食材を手に口に,ハグハグ,モゴモゴ食べては目をうるませたり口を尖らせたりしてくれるのだが,そのそれぞれがそれはもう味わい深くたたまらない。

 逆にいえば,さっくり読める軽妙なエッセイといかにもB級のカットの向こう側に徹底的に隠蔽されて,いくら読んでもこの著者には家族がいるのかどうかさえ見えてこない(自宅での食事の話がこれほどあるにもかかわらず!)。また,連載開始当時と最近の作品を並べて読んでも,まるで鮮度に違いが見られない。
 これがプロの技術者による作品でなくて何であろう。

 ちなみに,本書を読むのになぜ時間がかかったかといえば,別に分厚いからではない。
 こういう本はダラダラ続けて読んでは味わいに鈍してしまうので,ベッドに入ったところでまず少々重めの本を選んで読んで1時間,2時間,微妙に眠くなったところですかさず本書に切り替えて,ああ今日も幸せな1日だった,明日はこの○○を食べてみようかな……などと余韻を抱きながらスタンドを消してほにゃららと眠りにつく,そんな読み方をしたためであった。

 まだ未読の丸かじりシリーズが何冊も残された,この世界は幸いである。
 多分,1ヶ月もしたら,一度読んだものも忘れているに違いないし……。

先頭 表紙

最近の枕の友,『なんたって「ショージ君」−東海林さだお入門』(文春文庫)にいたっては,1340ページ。眠くなる前に手が痛くなるのであります。 / 烏丸 ( 2003-12-02 02:57 )

2003-11-17 読むのに時間がかかる本

 
 読み終えるのに時間のかかる本というのがある。

 音楽はとりあえずプレイヤーに任せておけば最後までたどり着くことはできる。
 マンガは多少好みと違ったり,展開が許しがたかったりしても,単行本1冊10数分程度で「読み捨てる」ことが可能だ。
 もちろん,音楽やマンガにも聞き流す,読み捨てることができないほどつまらないもの,耐えがたいものはある。
 映画(ビデオ)についても,見ることができずに放置しているものが少なくない。映画の場合はむしろつまらないものより,「きちんと見たい」と思うものについて,見始めて数分,数十分経ったところで「また今度にしよう」と巻き戻してしまう傾向が強いようだ。ゴダールやタルコフスキーの一部の映画がこれにあたる。

 活字の詰まった本の場合,読み進めるために必要なエネルギーは音楽,マンガ,映画の比ではない。とにもかくにも表紙をめくり,文字を目で追い,その意味を咀嚼しなければ1ページも先に進めないのだから。

 もちろん,哲学書だとか読み手が詳しくない専門書を読了するのに時間がかかるのは当然といえば当然のことである。前者は論理の流れを追うために一句一句丁寧に言葉を消化しなければならないし,後者はものによると主語も述語も形容詞も専門用語で固められていてまるで歯が立たないことも少なくない。
 たとえば

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 形而上学を独断的に実現しようとしたこれまでの試みは全てなかったものと見なすことができるし,また見なさねばならない。なぜなら,これまでの試みの中に見られる分析的な部分は,我々の理性に先天的に宿っている概念を単に分析しただけで,それは本来の形而上学の目標ではなく,その準備に過ぎないからである。本来の形而上学とは先天的認識を総合によって拡大することだからである。
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といったような文章が数十,いや数百ページ続いていたらどうか。
 いや,これはどちらかといえば「読み終えるのに時間がかかる」ではなく,「ハナから開きもしない」本の例として提示されるべきかもしれなかった……。

 続いて,分厚い本,あるいは何巻にもわたる本,これに時間がかかるのは当たり前だ。

 ただ,意外と,分厚い本,とくに小説に限っていえば,読み始める際には確かに「はずみ」が必要だが,いったんその世界に突入したら最後,寝食を忘れて読み進み,あっという間に読了! というケースも少なくない。作者の側も長編となるとシチ面倒な理屈や修辞は後回しで,ぐいぐい登場人物を走らせ,語らせることが多いためである。

 したがって,分厚い本については,読み始める際の「はずみ」こそが重要である。
 ドストエスフキーの『カラマーゾフの兄弟』は,最初の数十ページがまことに面倒くさい。そこには登場人物の家系だとか関係だとかが綿密に紹介されているのだが,あとで考えてみれば別にそらんじておく必要もなければ,気が向いたときに立ち返ればよい程度のものでしかないのだが,なにしろ相手は世界の大文豪である,読み飛ばしてはいけない深い内容が込められているのかもしれないと正面から格闘して何度も何度も放り投げた記憶がある。そこさえ突破してしまえば,あとは一気呵成に数日で読めてしまったのだが(ちなみに,ドストエフスキーの作品の中で『罪と罰』が傑作とされるのは,その内容だけではなく,冒頭の入りやすさ,随所に見られる探偵小説的オカズなど,ともかく他の長編に比べて読者サービスに満ちていることがあるに違いない)。

 さて,没頭できたら小説は早い,ということの裏返しに,小説以外の書物は分厚いとともかく厳しい。ノンフィクション,ドキュメンタリーの類は小説的な演出を工夫したものが少なくないからまだよいのだが,やっかいなのはイメージの断章を延々と切り張って長編に仕立て上げたような作品である。たとえばロートレアモンの『マルドロールの歌』は,この二十数年にわたってときどきかじり読みはするのだが,どうしても通して読むことができない。こういった手合いはフランスの現代文学に多い。マンディアルグが好ましく思えるのは,その作品の多くがほどよい短編だからかもしれない。

 というわけで最近読了するのに時間のかかった本を紹介しようと思い立ったところで以下次回。

先頭 表紙

2003-11-10 雨の夜の楽しみ...

 
 今夜のように小雨がそぼ降る肌寒い夜は,熱燗が恋しい。
 ただ,ゆえあってアルコールから遠ざかること久しく,そこで小腹おさえに熱いお茶と煎餅とか,まあそういったものをたしなむことになる。
 最近のお気に入りはMORINAGAの「甘酒」。赤いパッケージに4袋入りのフリーズドライタイプなのだが,インスタントとは思えないほっこりした甘さがたいへん心地よい。小学生時代,親戚の家で甕いっぱいに拵えられた甘酒を柄杓で湯呑に注いでもらった,あの舌触りを思い出す。熱湯100mlを注いでとあるが,甘さをおさえるためにそれよりややお湯を大目にしてショウガをしぼった汁を入れるとよいようだ。
 それでも小腹がおさまらないときは,昼間に買っておいたヤマザキの「黒糖フークレエ」を取り出す。沖縄産の黒糖風味の蒸パンなのだが,ほろほろした柔らかな甘みが口の中をいやすようで,ノートPCに向かう仕事にささくれ立った気分が多少でもほどけようというものだ。5つに切れ目が入っていて,適当なところで切り上げられるのも気楽でよい。
 本気で食事がしたいとなると,最近の我が家の深夜のトレンドは味の素「アジアめん」シリーズの「ベトナム フォー」である。米から作られた麺はインスタントラーメンの類と違って余計な脂肪分が使われておらず,どこか安心できる。逆にボリュームが足りないときは玉子,カマボコ,野菜など冷蔵庫にあるものを適当に投げ込めばよい。ちなみにアジアめんシリーズは「ベトナム フォー」以外にも「台湾 汁ビーフン」「上海白湯 ビーフン」「台湾 焼ビーフン」「タイ レッドカレー麺」「タイ トムヤム麺」「シンガポール ビーフン」の計7種類が発売されているが,透明感をもって「ベトナム フォー」に匹敵するものは見当たらないようだ。

先頭 表紙

Hikaruさま,即席麺の大半は油で揚げられているようですし,スープもラードが使われていたりしてNGですね。甘酒,フークレエ,フォーがありがたいのは,そのあたりの都合もあってのことなのです。 / 烏丸 ( 2003-11-17 03:07 )
あややさま,カラスめの勤め先は宵っぱりガラスの巣窟で,朝9時に「お先に失礼」も決して珍しいことではなかったりいたします。最近のカラスはだいたい午前中出勤を守っておりますけれども。 / 烏丸 ( 2003-11-17 03:06 )
う〜む。即席麺はOKなのでありますか。(今日は11月10日ですねへ) / Hikaru ( 2003-11-10 17:12 )
もちろん、「来たばっかだけど美味しそうな文章読んじゃったから帰る」という妄想でござい。 / あやや@今日はフォーにする ( 2003-11-10 16:32 )
午前9;16に「お先に失礼」な職場って,いったい(などと,ついさっき出社したばかりのカラスが書き込むのもなんですが)。 / 烏丸 ( 2003-11-10 13:20 )
うー、この小ぬか雨降る午前中に読んでしまっては、さっさと自宅に帰ってすべてを試したい衝動に駆られるではないですか。・・というわけで、職場のみなさん、お先に失礼。 / あやや@帰り支度 ( 2003-11-10 09:16 )

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