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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-12-01 読むのに時間がかかった本 『蔭桔梗』 泡坂妻夫 / 新潮文庫
2003-11-24 読むのに時間がかかった本 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』 朝日文庫
2003-11-17 読むのに時間がかかる本
2003-11-10 雨の夜の楽しみ...
2003-10-27 眼球譚 〜ある日の恐怖体験〜
2003-10-20 『ドスコイ警備保障』 室積 光 / アーティストハウス(角川書店)
2003-10-15 『都立水商!』 室積 光 / 小学館
2003-10-06 書評未満 『AV女優』『AV女優2 おんなのこ』 永沢光雄 / 文春文庫
2003-09-27 『東電OL殺人事件』 佐野眞一 / 新潮文庫
2003-09-16 最近読んだコミック その三 『頭文字D(27)』『蟲師(1)〜(3)』


2003-12-01 読むのに時間がかかった本 『蔭桔梗』 泡坂妻夫 / 新潮文庫


【静乃は眩しいようなあどけない笑顔を見せた。】

 読むのに時間がかかった,どころか,実はまだ読み終えていない。

 発行が平成五年二月とあるから,かれこれ十年近くもの間,通勤の鞄の中と本棚の未読コーナーを行ったり来たりしているということになる。我ながら,少々情けない。

 別に晦渋な学術書でもなければ,両手に重い超大作でもない。たかだか300ページに満たない文庫本に,収録短編11作品である。悪文で不評轟々というわけでもなく,実は作者の(遅めの)直木賞受賞作にあたる。
 だが,しかし……なぜかページを繰る手が止まってしまうのだ。

 泡坂妻夫のトリックはすごい。そのトリックを提供する展開がすごい。その展開の合間にほの見える人間関係に妙にほろほろと苦味があって,いわゆる「行間を読ませる」ところがすごい。
 デビュー短編を含む『亜愛一郎の狼狽』1冊だけで,作者がこの国のミステリ史上,最高の業師であることは明らかである。かと思えば,とことん設定で遊んだように見える初期の長編『乱れからくり』に登場する女探偵・宇内舞子の堂々たる存在感はどうだろう。彼女の過去については何一つ描かれていないにもかかわらず,両の腕を伸ばして抱えなければとても相手できそうもない,その肉の厚み。

 そんな泡坂妻夫が直木賞を受賞したのがやはりミステリではなく,紋章上絵師としての人情譚でだった,それが悔しい。作者当人がどう考えるかは別として,「失われゆく江戸情緒」を評価されて直木賞を受賞したのなら,亜愛一郎や宇内舞子,あるいは最近は初期の論理の妖艶さを失ってしまったとはいえ,奇術探偵 曾我佳城の価値はいったいどうなってしまうのか。

 いや,もちろんそれはミステリやSFになかなか賞を与えようとしない直木賞の選者,出版社側の問題であり,一方で初期のタッチを見せてくれない作者の作風の変化によるわけだが,それにしてもアクロバティックな魅力を失ってしまった泡坂妻夫,それにもかかわらず相変わらずほめてばかりの解説担当者たちの情けなさ。

 誰か,「読みたいのは,こうではなくて,こういうのではなくって……」とはっきり泡坂妻夫に提言しないものか。

 もちろん,『蔭桔梗』に収録されているような,紋章上絵師など古い技術にかかわる人々をしっとりと描き上げた作品がつまらない,というのではない。主人公が作者と同じ紋章上絵師であるからと,すなわち私小説的に日々の出来事を淡々と描いたのだろうなどと微温なことを想像するつもりもない。
 それぞれの作品にはそれなりに苛烈な設定やアイデアがこめられているのもまた事実であって,『蔭桔梗』収録作では,「竜田川」や「くれまどう」にその魅力を感じる。しかし,表題作の「蔭桔梗」そのものは,それほど褒めちぎるべきものだろうか。あるいは最近の長編で,読み終えたとたん最初から読み直したくなるような作品があっただろうか。

 などということを思いつつ読んでいると,なんだか没頭できずに短編の一つ二つ読んだところでまた本棚に戻してしまう。数ヶ月,あるいは数年して再度取り上げたときには,その空気になじむためにまた最初のページからめくることになる。
 いったいいつになったら読み終えることやら。

 ちなみに,出版された作品はほとんど読んでいるはずの泡坂妻夫なのだが,この『蔭桔梗』以外にもあと2冊,どうしても読めない「本」がある。
 1冊は長編『写楽百面相』,江戸中期の浮世絵師・写楽の正体をめぐって……ということのようだが,どうも文体だか冒頭の展開だか,あるいはその両方になじめず,これまた鞄と本棚を何度も行きつ戻りつしている。
 もう1冊は『生者と死者 酩探偵ヨギガンジーの透視術』……これを読めていないのは自分が悪い。出版されてすぐにもう1冊買っておくべきだった。これは,手元に2冊ないと,読むわけにはいかない類の「本」なのである……。新潮文庫ではとうに絶版,再販の気配もなければ,古本屋に出回りそうな本でもない。実に困っている。

先頭 表紙

……などという私評を書いたら,さすがに私評を書くためにぱらぱら目を通して,その勢いのまま最後まで読んでしまったさ。感想はとくに変わらず。 / 烏丸 ( 2003-12-07 03:11 )

2003-11-24 読むのに時間がかかった本 『東海林さだおのフルコース “丸かじり”傑作選』 朝日文庫


【様々な葛藤があったが いまはやすらかにかつ丼をいただくご婦人】

 1巻め『東海林さだおの弁当箱』が791ページ,2巻め『東海林さだおのフルコース』が457ページ,3巻めの『東海林さだおの大宴会』が469ページ。
 大変なボリュームである。ところがこの3冊ですら「自選・特選」と銘打たれた,早い話「傑作集」に過ぎない。

 しかしてその正体はといえば,週刊朝日に現在も連載中の食べ物エッセイ「あれも食いたいこれも食いたい」なのだが,これがすでに単行本にして
  タコの丸かじり
  キャベツの丸かじり
  トンカツの丸かじり
  ワニの丸かじり
  ナマズの丸かじり
  タクアンの丸かじり
  鯛ヤキの丸かじり
  伊勢エビの丸かじり
  駅弁の丸かじり
  ブタの丸かじり
  マツタケの丸かじり
  スイカの丸かじり
  ダンゴの丸かじり
  親子丼の丸かじり
  タケノコの丸かじり
  ケーキの丸かじり
  タヌキの丸かじり
  猫メシの丸かじり
  昼メシの丸かじり
  ゴハンの丸かじり
ぜはぜは,つまりその,ひぃふぅ,だるまさんが転んだ,インド人のクロ…(Pi!),合わせて20冊が発行済みの,さすがは老中松平定信の寛政の改革当時すでに江戸八百八町に名を知られた老舗名代エッセイだけのことはある(ウソ)。

 さてではその本領といえば,とにもかくにも,これほどまでに美味しそうに,これほどまでに楽しそうにモノを食べてよいのだろうか,というくらいうひゃうひゃと楽しそうなその文体にある。

  ゴハンと黄身が上アゴにひっつき,舌にひっつき,口の中はニッチャコ,ニッチャコとなって,目はなんとなく上目づかいになって,口はOの字になったりヘの字になったり,これはなんともこたえられまへんな,という心境になり,はたから見たら,ともて利口には見えまへんな。

  浅漬けの塩ラッキョウは,果実の種のように硬く引き締まり,噛むとカリカリ,シャキシャキと口の中が騒がしい。

  まずすることは,ナイフでもってホットケーキの表面をペシペシとたたくことである。

  チャーシューが六枚という店が多い。八枚だったりすると,思わず店主の顔を見上げ,「そういうヒトだったんですね」と尊敬の目になる。


 なーどなど。

 そもそも,取り上げられた素材がよい。
 同じ食べ物エッセイといっても,代官山のフランス料理のなにがしが……といった取り上げ方もあるわけで,20年近く連載を続けていればたまにはそういう方向に走りたくなるに違いないと思われるのだが,にもかかわらず本シリーズはどこを開いても

  福神漬の鉈豆とは何か
  ゴハンに海苔を巻いて食べるとき,海苔の醤油は内か外か
  立ち食いそば屋の七味唐辛子の二穴式の缶は一体誰がしめているのか
  なぜどの辞書も小倉餡の「小倉」の由来については固く口を閉ざすのか
  スイカを皮から剥いて食べたら……
  カレーラーメンはなぜないのか

といった具合で,まったくどこからどこまでこの国の朝ごはん! もうなんとも日常的かつ素朴な食材を取り上げて次から次へとアクティブな問題提起を行って油断がならない。

 油断といえば経済企画庁長官も務めた堺屋太一が以前どこかの雑誌誌面で「これまで一食何万円もしてサラリーマンには手の届かなかったある料亭の懐石料理が3,500円でランチになった。デフレにもよい面がある」とタワけたことをのたまわったのを読んで呆れ果てた記憶があるが,東海林さだおの食べ物エッセイにはそのような不快極まりない金銭感覚,あるいはグルメぶった居丈高さは一切ない。
 取り上げられた食べ物の大半は立ち食いそばやインスタント食品,おにぎりや串カツ,お汁粉であり,チャーシューメンやかつ丼がハレの日のごちそう扱いである。

 もちろん,作者がマンガ家であることも,(当たり前のことだが)忘れてはならない。
 それぞれのエッセイに添えられたおばさん,おじさんたちはもう実に情けないほどに見事におばさん,おじさんである。このおばさん,おじさんたちがテーマの食材を手に口に,ハグハグ,モゴモゴ食べては目をうるませたり口を尖らせたりしてくれるのだが,そのそれぞれがそれはもう味わい深くたたまらない。

 逆にいえば,さっくり読める軽妙なエッセイといかにもB級のカットの向こう側に徹底的に隠蔽されて,いくら読んでもこの著者には家族がいるのかどうかさえ見えてこない(自宅での食事の話がこれほどあるにもかかわらず!)。また,連載開始当時と最近の作品を並べて読んでも,まるで鮮度に違いが見られない。
 これがプロの技術者による作品でなくて何であろう。

 ちなみに,本書を読むのになぜ時間がかかったかといえば,別に分厚いからではない。
 こういう本はダラダラ続けて読んでは味わいに鈍してしまうので,ベッドに入ったところでまず少々重めの本を選んで読んで1時間,2時間,微妙に眠くなったところですかさず本書に切り替えて,ああ今日も幸せな1日だった,明日はこの○○を食べてみようかな……などと余韻を抱きながらスタンドを消してほにゃららと眠りにつく,そんな読み方をしたためであった。

 まだ未読の丸かじりシリーズが何冊も残された,この世界は幸いである。
 多分,1ヶ月もしたら,一度読んだものも忘れているに違いないし……。

先頭 表紙

最近の枕の友,『なんたって「ショージ君」−東海林さだお入門』(文春文庫)にいたっては,1340ページ。眠くなる前に手が痛くなるのであります。 / 烏丸 ( 2003-12-02 02:57 )

2003-11-17 読むのに時間がかかる本

 
 読み終えるのに時間のかかる本というのがある。

 音楽はとりあえずプレイヤーに任せておけば最後までたどり着くことはできる。
 マンガは多少好みと違ったり,展開が許しがたかったりしても,単行本1冊10数分程度で「読み捨てる」ことが可能だ。
 もちろん,音楽やマンガにも聞き流す,読み捨てることができないほどつまらないもの,耐えがたいものはある。
 映画(ビデオ)についても,見ることができずに放置しているものが少なくない。映画の場合はむしろつまらないものより,「きちんと見たい」と思うものについて,見始めて数分,数十分経ったところで「また今度にしよう」と巻き戻してしまう傾向が強いようだ。ゴダールやタルコフスキーの一部の映画がこれにあたる。

 活字の詰まった本の場合,読み進めるために必要なエネルギーは音楽,マンガ,映画の比ではない。とにもかくにも表紙をめくり,文字を目で追い,その意味を咀嚼しなければ1ページも先に進めないのだから。

 もちろん,哲学書だとか読み手が詳しくない専門書を読了するのに時間がかかるのは当然といえば当然のことである。前者は論理の流れを追うために一句一句丁寧に言葉を消化しなければならないし,後者はものによると主語も述語も形容詞も専門用語で固められていてまるで歯が立たないことも少なくない。
 たとえば

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 形而上学を独断的に実現しようとしたこれまでの試みは全てなかったものと見なすことができるし,また見なさねばならない。なぜなら,これまでの試みの中に見られる分析的な部分は,我々の理性に先天的に宿っている概念を単に分析しただけで,それは本来の形而上学の目標ではなく,その準備に過ぎないからである。本来の形而上学とは先天的認識を総合によって拡大することだからである。
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といったような文章が数十,いや数百ページ続いていたらどうか。
 いや,これはどちらかといえば「読み終えるのに時間がかかる」ではなく,「ハナから開きもしない」本の例として提示されるべきかもしれなかった……。

 続いて,分厚い本,あるいは何巻にもわたる本,これに時間がかかるのは当たり前だ。

 ただ,意外と,分厚い本,とくに小説に限っていえば,読み始める際には確かに「はずみ」が必要だが,いったんその世界に突入したら最後,寝食を忘れて読み進み,あっという間に読了! というケースも少なくない。作者の側も長編となるとシチ面倒な理屈や修辞は後回しで,ぐいぐい登場人物を走らせ,語らせることが多いためである。

 したがって,分厚い本については,読み始める際の「はずみ」こそが重要である。
 ドストエスフキーの『カラマーゾフの兄弟』は,最初の数十ページがまことに面倒くさい。そこには登場人物の家系だとか関係だとかが綿密に紹介されているのだが,あとで考えてみれば別にそらんじておく必要もなければ,気が向いたときに立ち返ればよい程度のものでしかないのだが,なにしろ相手は世界の大文豪である,読み飛ばしてはいけない深い内容が込められているのかもしれないと正面から格闘して何度も何度も放り投げた記憶がある。そこさえ突破してしまえば,あとは一気呵成に数日で読めてしまったのだが(ちなみに,ドストエフスキーの作品の中で『罪と罰』が傑作とされるのは,その内容だけではなく,冒頭の入りやすさ,随所に見られる探偵小説的オカズなど,ともかく他の長編に比べて読者サービスに満ちていることがあるに違いない)。

 さて,没頭できたら小説は早い,ということの裏返しに,小説以外の書物は分厚いとともかく厳しい。ノンフィクション,ドキュメンタリーの類は小説的な演出を工夫したものが少なくないからまだよいのだが,やっかいなのはイメージの断章を延々と切り張って長編に仕立て上げたような作品である。たとえばロートレアモンの『マルドロールの歌』は,この二十数年にわたってときどきかじり読みはするのだが,どうしても通して読むことができない。こういった手合いはフランスの現代文学に多い。マンディアルグが好ましく思えるのは,その作品の多くがほどよい短編だからかもしれない。

 というわけで最近読了するのに時間のかかった本を紹介しようと思い立ったところで以下次回。

先頭 表紙

2003-11-10 雨の夜の楽しみ...

 
 今夜のように小雨がそぼ降る肌寒い夜は,熱燗が恋しい。
 ただ,ゆえあってアルコールから遠ざかること久しく,そこで小腹おさえに熱いお茶と煎餅とか,まあそういったものをたしなむことになる。
 最近のお気に入りはMORINAGAの「甘酒」。赤いパッケージに4袋入りのフリーズドライタイプなのだが,インスタントとは思えないほっこりした甘さがたいへん心地よい。小学生時代,親戚の家で甕いっぱいに拵えられた甘酒を柄杓で湯呑に注いでもらった,あの舌触りを思い出す。熱湯100mlを注いでとあるが,甘さをおさえるためにそれよりややお湯を大目にしてショウガをしぼった汁を入れるとよいようだ。
 それでも小腹がおさまらないときは,昼間に買っておいたヤマザキの「黒糖フークレエ」を取り出す。沖縄産の黒糖風味の蒸パンなのだが,ほろほろした柔らかな甘みが口の中をいやすようで,ノートPCに向かう仕事にささくれ立った気分が多少でもほどけようというものだ。5つに切れ目が入っていて,適当なところで切り上げられるのも気楽でよい。
 本気で食事がしたいとなると,最近の我が家の深夜のトレンドは味の素「アジアめん」シリーズの「ベトナム フォー」である。米から作られた麺はインスタントラーメンの類と違って余計な脂肪分が使われておらず,どこか安心できる。逆にボリュームが足りないときは玉子,カマボコ,野菜など冷蔵庫にあるものを適当に投げ込めばよい。ちなみにアジアめんシリーズは「ベトナム フォー」以外にも「台湾 汁ビーフン」「上海白湯 ビーフン」「台湾 焼ビーフン」「タイ レッドカレー麺」「タイ トムヤム麺」「シンガポール ビーフン」の計7種類が発売されているが,透明感をもって「ベトナム フォー」に匹敵するものは見当たらないようだ。

先頭 表紙

Hikaruさま,即席麺の大半は油で揚げられているようですし,スープもラードが使われていたりしてNGですね。甘酒,フークレエ,フォーがありがたいのは,そのあたりの都合もあってのことなのです。 / 烏丸 ( 2003-11-17 03:07 )
あややさま,カラスめの勤め先は宵っぱりガラスの巣窟で,朝9時に「お先に失礼」も決して珍しいことではなかったりいたします。最近のカラスはだいたい午前中出勤を守っておりますけれども。 / 烏丸 ( 2003-11-17 03:06 )
う〜む。即席麺はOKなのでありますか。(今日は11月10日ですねへ) / Hikaru ( 2003-11-10 17:12 )
もちろん、「来たばっかだけど美味しそうな文章読んじゃったから帰る」という妄想でござい。 / あやや@今日はフォーにする ( 2003-11-10 16:32 )
午前9;16に「お先に失礼」な職場って,いったい(などと,ついさっき出社したばかりのカラスが書き込むのもなんですが)。 / 烏丸 ( 2003-11-10 13:20 )
うー、この小ぬか雨降る午前中に読んでしまっては、さっさと自宅に帰ってすべてを試したい衝動に駆られるではないですか。・・というわけで、職場のみなさん、お先に失礼。 / あやや@帰り支度 ( 2003-11-10 09:16 )

2003-10-27 眼球譚 〜ある日の恐怖体験〜

 
 症状が進むと,ステロイド系の薬品を使わざるを得ないわけだが,これを長期にわたって使用した場合リバウンドの危険もあり,できるなら避けたいと医者は言う。私も避けたい。
 また,この薬品には眼圧が上がるという副作用があり,ある朝目を覚まして視野が真っ白に靄っていたのには肝を冷やした。急遽点滴を受けて事なきを得たが,眼科で診察台に横になって点滴を受ける体験はそうざらにできるものではない。

 眼底の検査も,なかなかにシビアな場合がある。
 まず目薬を注して瞳孔を開く。片目ずつならどうということもないが,両方の目を一度に開くとまぶしいなんてものではない。焦点が合わなくなってもちろん本も読めず,ただくらくらしながら診察の順番を待つばかりである。
 ようやく名前が呼ばれ,診察室に入り,なにやらものものしい椅子に座らされる。なぜか看護婦が互いに呼び合って数名ざわざわと集まってくる。心なしか彼女たちが嬉しそうなのは気のせいだろうか……。ここから先は,思い出すのもおぞましい。つまり彼らは眼底を撮影するために私の頭を撮影機に押さえつけ,瞳孔が開いてすでにまぶしくて仕方のない両の目の眼前でフラッシュをバシバシ,ガシガシと焚きまくったのである。呼び集められた看護婦たちの一人は撮影する側のまぶたを力ずくで押し開く係,それ以外は暴れて立ち上がろうとする患者を無理やり押さえつける係なのであった。
 このときの至近距離で際限なく繰り返されるボシャ,ボシャ,ボシャという重いフラッシュの音,頭蓋骨の内側のすみずみまで赤く青く鉄槌で砕かれるようなまぶしさは今も忘れられない。私がベルリンに潜入した屈強のスパイであったとしても,同僚の名と任務をあっさり売ったに違いない。撮影が終わっても視野いっぱいに赤い火花が消えず,目の奥には激痛が飛び交い,しばらくは歩くこともできなかった。

 さて,恐ろしいのは眼底検査だけではない。
 撮影が終わり,ほとんど人間であることを放棄する寸前,ずた袋のようになった私に,眼科医はなにやら意味のよくわからない専門用語を連発し,看護婦になにやら得体の知れない薬品の名前を告げる。ガンチュー,ガンチューという言葉が飛び交う。何だろうとようやく顔を上げた私の前に立ちふさがる白い悪魔が手にしているのは,細く鋭い注射器である。
「目薬では効果が得られないようですので,ガンチューしましょう」
 だからガンチューってなんだ。
「先ほど痛み止めの目薬を注してはいますが,これは痛いですよ」
 痛いのなら止めてくれ。こら,何をする。なんでまた押さえつける。
「動かないでください。針が抜けて大変なことになりますから」
 大変なことってなんだ。なぜ注射器を目のほうに向けるのだ。わあ。針が。目にぶすりと。目に。目に。
「はい,動かない。今,薬品を注入していますから」
 ぐぎぎ。ぐぎ。痛い,痛いぞ。こら,何が起こっているんだ。
「しばらく目を動かさないでください。今,眼球の白目のところが,ぷくっと,蚊にかまれたときみたいにふくらんでますから」
 いでで。いでで。

 世界はくるくる回ってすうっとどこかへ行ってしまったのであった。

先頭 表紙

2003-10-20 『ドスコイ警備保障』 室積 光 / アーティストハウス(角川書店)


【この人,今すごくいいこと言ってる,と豪勇は思った。】

 で、その『都立水商!』の室積光の第二作がこれ。
 今回は、廃業後の力士の就職先として警備会社を作ろう,という話だ。

 警備会社そのものは最初のほうでわりあいあっけなくでき上がってしまって,あとはそこからのさまざまな展開。いや,会社ができてからも順風満帆というか,「ドスコイ警備保障(株)」は幾多のイベントを経て,すたすたとステータスを上げていく。ハリウッド映画もかくやのご都合主義の山である。
 しかし,この作者の作品は,多分,ストーリーが,とか,人物の描き方が,とか,そんな読み方をしてはいけない。

 いや,もちろん欠点があることを認めないわけではない。
 前作もその傾向があったが,本作では「主人公」がはっきりせず,状況を語る視点も明確ではない。これは,部分部分では笑わせられたり泣かされたりしつつも,一つのカタマリ,つまり小説として,なんとなく座りの悪い,物足りない印象につながっている。
 たとえば,木原敦子という非常に魅力的な人物が登場するのだが,主人公がはっきりしないため,彼女の魅力が主人公としての(つまり読み手の視点からの)魅力なのか,登場人物の誰かの視点からの信頼やあこがれの対象なのかがはっきりせず,結局敦子の魅力が浮かび上がらない。

 だが,非常によく出来た小説ができないことを,この作品がしてのけてくれることもまた事実だろう。それはつまり……いや,言葉にしてしまったらオシマイの,馬鹿馬鹿しいようなことなのだが。

 前作『都立水商!』でもそうだったが,細部を見れば,作者は渡る世間に苦い面があることは否定していない。世の中にはどうしても付き合いにくい人々がいること,その人々による悪意が不愉快な出来事を巻き起こすことも実は描き込まれている。
 だが,「主人公」と目される側の登場人物たちはすべて途方もなく好人物であり,多少の弱点欠点などものともせずに前向きに生きていこうという人々ばかりである。それがどんなに浪花節に聞こえようが,お涙頂戴と見えようが,作者は臆することなく彼らの歩みを讃えるのだ。
 だから,十分に,もしくは少しは幸せな方に,本書はオススメである。本書はあなたをさらに,よりハッピーにしてくれるだろう。しかし,あまり幸せでない方にまでそのマジックが通じるかというと,それは申し訳ないがよくわからない。

 それにしても,まさかとは思うが,作者には,世界がこのように見えているのだろうか? だとすると,それは実にうらやましいことだと思う。
 それとも,ある程度わかったうえで,余計なものをそぎ落とし,技術としてこのような世界を描いてみせているのだろうか。
 だとすると,それは……やはりそれなりにうらやましいことには違いない。

先頭 表紙

いらっしゃいませ,めぐみさま。室積光は気疲れしなくてよいですね。作者が必要以上に「巧く書こう」としてない感じというか。 / 烏丸 ( 2003-10-27 01:30 )
あ・・・AV女優は、好きな作品というのとはちょっと(いや、大分)違うような気がします。訂正させていただきます。 / めぐみ ( 2003-10-22 20:46 )
はじめまして。「都立水商!」「AV女優」「ドスコイ・・・」は私も読みました。好きな作品ですので、はじめましての書き込みをさせていただくことに致しました。こちらのページをまだ全部読めていませんが、これから読み進めるのが楽しみです♪関係ないのですが、私、ずっと「とりつみずしょう」だと思っていました・・・烏丸さんの文章を読んで、自分の間違いに気づきました / めぐみ ( 2003-10-22 20:45 )

2003-10-15 『都立水商!』 室積 光 / 小学館


【これが今では有名な,「水商ソープ科の手こすり千回」である。】

 タイトルの「水商」は「おみずしょう」と読む。

 帯の惹句をそのまま引用しよう。
「平成××年3月2日,東京都教育局は,水商売(風俗営業)に関する専門教育を行う都立高校を歌舞伎町に設立すると発表。正称『東京都立水商業高等学校』。同校は,ホステス科,ソープ科,ホスト科など七学科で発足する。またこの発表を行った3月2日を,東京都では『お水の日』に指定した。」

 大変なチカラワザである。
 上の惹句でおわかりのように,発想がすごい。その素っ頓狂な発想を,照れずに(←これがポイント!)まっつぐに押し切る,作者の朴訥さが切ない。猫も杓子もホラーもミステリも深刻ぶらないと評価されにくい時代に,ストレートなユーモア,正面切ってのお涙頂戴に徹した覚悟がエラい。

 一例だけ挙げる。

   毎朝生徒が登校してくると,担任が教室の前で待ち受けていて,
   厳しい服装チェックが始まる。
   「何だこの髪は? 染めてこんかア!」

 思えば,30年,40年ばかり昔,「中一時代」とか「高一コース」とかいった雑誌には,純然たるジャンルとして「青春ユーモア小説」なるものが掲載されていた。作品の中にギャグがあるのではない。全体として「ユーモア小説」としか言いようのない,呑気な登場人物,起伏のない展開,数段読んだ程度ではどこがオチなんだかわからないような,そんな漠々たる小説群。現在なら「いやし系」「なごみ系」とでも分類されるのだろうか。……いや,あのさじ加減はもう少しプロの技術者としてのワザによるものだったように思う。
 この『都立水商!』の魅力の1つは,その,懐かしい「青春ユーモア小説」に通ずる素朴さだ。ただ,職業小説家による手慣れた「青春ユーモア小説」とは違い,『都立水商!』はおそらく作者にとって,まっしぐらに目的地めざして投げ込んだボールではないか。

 だから,本書はさまざまな意味で教育論の素材たり得る。間違っても教育論そのものではない。その素材となり得る,のである。
 また,だから本書は随所に泣ける。ひねくれた読書家がナナメに構えても,ドッジボールが胸元に飛んでくるように登場人物たちの思いがぶつかってくる。

 後半の,スポーツ小説と化した部分については,賛否あるに違いない。面白くは読めるのだが,「水商」という発想をセンターラインとすると,どうしても外れてしまう面が否めない。

 そのほか,弱点,難点はいろいろあるかもしれない。
 当たり前である。
 本書は現代において作品として提供するのが最も困難な「純情」の花を描いた一大挑戦なのだ。
 「水商」の設立は無理として,どこぞの小粋な教育委員会が本書を「課題図書」に選んでくれないものか。

 なお,『都立水商!』は週刊ヤングサンデー誌上で猪熊しのぶのペンでマンガ化されているが,残念ながらヘタなマンガよりよほどマンガ的魅力にあふれた原作の特異性は表現しきれてないようだ。

先頭 表紙

『AV女優』を頂点に,『東電OL殺人事件』とこの『都立水商!』を左右に配した直角二等辺三角形なんてものを考えたりもします。 / 烏丸 ( 2003-10-15 03:10 )

2003-10-06 書評未満 『AV女優』『AV女優2 おんなのこ』 永沢光雄 / 文春文庫


【「キスっていうか,小学校六年生の時,フェラチオをしました」】

 『東電OL殺人事件』については,早くもこの9月末に続編『東電OL症候群(シンドローム)』が文庫化されている。
 『東電OL殺人事件』のほうはネパール人容疑者が一審で無罪判決を得る時点までをまとめた内容だったのに対し,『東電OL症候群』はその直後,東京地検によって容疑者の再拘留が請求されたことに始まり,あげくに逆転有罪・無期懲役判決,また一方で容疑者の再拘留にかかわった東京高裁判事が少女買春容疑で逮捕,弾劾裁判によって法曹資格剥奪を受けるまでの経緯を諸外国のマスコミの反応までを含めて追うものである。

 骨のように痩せた身をひさぎつつ,かかわる人々に次々とタールを擦りつけるごとく黒い運命を司る闇の巫女。その女を抱いてしまったばかりにカフカ的な審判の迷宮につなぎとめられて出口を見出せない容疑者。……本来フィクションに描かれるステージの事象が現実世界に無造作に展開されていく。確かに,何かおかしい。
 そもそもそのようであった禍々しい世界が,たまたまこの事件を契機に露見しているだけなのか。
 それとも,何かが音を立てて崩壊していく,この事件はそのささやかな予兆に過ぎないのか。

 『東電OL殺人事件』に対しては,女性からの生々しい反響が数多く届いたという。この事件,つまり上場企業社員でありながら夜になると几帳面に売春を繰り返した被害者が,少なからぬ女性読者のどこか,何かをインスパイアした,ということである。
 『東電OL症候群』においても紹介されているが,女性読者からの投書には自らの人生が詳細に語られ,「親との愛情の葛藤,早すぎる結婚,結婚後のみだらな性関係,拒食症による激やせ,アルコール依存等」と事件の被害者との類似点が多々告白されているのだそうだ。

 これらのまさしく東電OL「症候群」について,ふと脳裏をよぎる本がある。
 永沢光雄『AV女優』『AV女優2 おんなのこ』の2冊である。
 ロングセラーであり,ご存知の方も少なくないに違いない。内容は,AV,つまりアダルトビデオを紹介するビデオ雑誌誌上のAV女優へのインタビューを連綿とまとめたものなのだが,これが本として抜群におもしろいのだ。

 出身者の一部がタレントとして成功する例もなくはないが,いまだ決して「世間」的に好ましい評価を受ける側とは思えないアダルトビデオ,それに出演する女性は,自分の生い立ちや家族について,ビデオ会社やマネージャーにどれほど真実を語っていることだろう。ましてや,営業行為の一対象たる雑誌インタビューにおいて,どれほど本当のことが語られるだろう。そこでは営利的な,あるいは精神的な障壁としての,作られた情報が提供されるに違いない。すべてをオープンにしてしまったら人間関係的に,あるいは金銭的にトラブルを招く場合もあるかもしれない。さらにいえば,ビデオ雑誌のインタビュアーや編集者は,その場で彼女らの口から漏れた内容をどこまで忠実に再現するだろう。

 こう考えれば,本書の内容は,「虚々実々」どころか「虚々々々々々々々々々々々々実」,くらいではないかと想像される。ある生い立ちについては巧妙に作為が施され,ある人生経験はその場限りの口から出まかせかもしれない。実際,初期の『AV女優』では悲惨な生い立ち,無残な恋愛体験が語られるケースが少なくなく,後期の『AV女優2』ではごく普通に育ち,ごく普通の職業感覚でAVにスカウトされたというケースが少なくないが,これは彼女たちの側の事情が変わったというより,AVの視聴者,雑誌の読者の側のニーズに応えただけのように思われてならない。

 だが,「虚々々々々々々々々々々々々実」,しょせんハリボテの出来レースとばかりナメてかかると,ときにくいっと足をすくわれて痛い思いをすることもある。本書がおもしろいのは,そこだ。実は著者の筆さばきは抜群の腕前で,本シリーズに登場するAV女優たちは,誰もみな営業的なスタンスなど知ったことかとばかりに飲んべぇの著者に向かってあっさりさっぱりと本音を語っているように見えるのだ。そして,その中に,油断していると倒される,そんな凄みが数十ページに一行くらい現れる。

 その一つは,彼女たちの「張り」である。それはもう,感覚的に「張り」とでもいうしかない。どのような経緯からAVの世界に足を踏み入れたのであっても,彼女たちのセックス──顔やスタイルを含めて──は「売り物」だという誇りである。それはある場合には,惨めな,売ってはいけないものまで売ってしまった諦観の裏返しかもしれない。しかし,そこまで売ってしまった人間の,最後の,それも剥き出しの「矜持」がときにインタビュアーの永沢を突き刺し,それはそのまま読み手まで強く圧倒してくるのである。

 そして,もう一方が,『東電OL殺人事件』の被害者にも通底する,まっすぐに下に,底に向けて落ちていってしまうような,そのような精神のありようである。『AV女優』『AV女優2』に登場する「おんなのこ」たちは,アダルトビデオというものについて素人が想像するより格段に明るく,凛々しく,清々しい。しかし,物語をつむいでもつむいでも,どうしても「でもなぜ君が」のところで説明ができないヒロインがいる。冗談にまぎれないシリアスな顔が現れてしまう。それが,苦い。

 そういえば,長野県奈良井川河川敷で知人の車のそばで焼け焦げて発見されたAV女優もいた。車の中で死んでいた男性による無理心中という扱いで落ち着きつつあるようだが,これもまた,よくわからない。

先頭 表紙

ぶっちゃけた話,いつ,どのような事件に巻き込まれても不思議でないような生活のしかたをしていたなら,それを「被害者」とだけ言ってよいのかしらん,未必の故意ってこともあるだろに,ってことです。その人物の「事件」に巻き込まれた人々は……やはり悲惨というか,お気の毒。 / 烏丸 ( 2003-10-13 00:37 )
ちなみに,本文で「確かに,何かおかしい。」と書いているのは,裁判の推移についてであって,被害者そのものについては,なんとなく「非常に典型的な」心のありようを感じます。壱弐九八さんに反論する要素があるとするなら,その心のありようによって,被害者は,この事件で殺される前から濃厚な「被害者」もしくは「加害者」であったようにも思われるということです。 / 烏丸 ( 2003-10-13 00:37 )
被害者が加害者のよう,というのは,たとえばつくばの医者による妻子殺害事件で,その妻がなんというか「あばかれまくった」のが記憶に残っています。また,意外と,殺人事件の,加害者でなく被害者の側が一家離散になるケースも少なくないそうで,被害者と加害者の逆転は珍しくないことなのかもしれません(いじめによる死亡事件など)。 / 烏丸 ( 2003-10-13 00:37 )
つっこみ返しの難しい発言が続きますね。まず,「5万とか10万で売春してれば『まぁ、わかるわその金額』」……うー,この商売についての適正価格ってよくわかりません。お金持ちの老人と結婚するのは,その遺産目当てに売春することなのか。それほどお金持ちでない場合には売春の要素はゼロといえるのか。逆に売春業の女性の中にも多少の愛はあるのか。答えは人それぞれなんでしょうが。 / 烏丸 ( 2003-10-13 00:36 )
↓などと読んでもいないのに偉そうに書いてしまった(汗)。この本に限らず烏丸さんが選ばれる本はどれもワタシの琴線に触れるものばかり。もっと本を読まなければ… / 壱弐九八@独り言モード(笑) ( 2003-10-10 22:26 )
悲惨なのは、彼女の周囲は彼女が巻き込まれた殺人事件に巻き込まれたのであって、彼女はこの事件の被害者であり、誰かを巻き込むどころか常にある意味周囲から黙殺され続けた孤独な存在だったにも関わらず、関わった人たちの人生が変わったという結果論をもって、まるで彼女がある種の加害者であるかのようにいわれてしまうことでは? / 壱弐九八 ( 2003-10-09 15:49 )
友達は、じゃなく友達「が」でした。 / Miss_| ̄|○がっくし ( 2003-10-08 03:08 )
東電のOLさんは、5万とか10万で売春してれば「まぁ、わかるわその金額」って感じで理解できたけど、1万円未満だから理解できません。ハァ。売春の目的はお金以外に、それぞれだけれども、AVはもっとわかんない。一度出ちゃうと、「わたしにしかできない!」とか「わたしじゃなきゃ!」っていう責任感とかがでちゃうみたい。あとは出演させるまでの駆け引きみたいです。友達は出演しちゃったみたいでショックでした(涙) / Miss_| ̄|○がっくし ( 2003-10-08 03:07 )
いやいや,なかなか陰惨です。ただし,彼女が,ではなくて,彼女の周辺が。家族とか,容疑者とか,その他かかわったあれやこれや。他人の自分探し?に「まきぞえ」になったなら,それはけっこう悲惨じゃないでしょうかね。 / 烏丸 ( 2003-10-08 01:34 )
なんとなく、そんなに陰惨な話なのかなあ、と思ったりもするんですけれどもね。(笑)<東電OL事件 常人には理解できない形ではあれ、彼女なりに自分を取り戻そうとしてただけなんじゃないんでしょうかね。 / 壱弐九八 ( 2003-10-08 01:26 )

2003-09-27 『東電OL殺人事件』 佐野眞一 / 新潮文庫


【「ねえ,お茶しません」】

 「古ぼけたアパートの一室で絞殺された娼婦,その昼の顔はエリートOLだった。なぜ彼女は夜の街に立ったのか。逮捕されたネパール人は果たして真犯人なのか,そして事件が炙り出した人間存在の底無き闇とは……」(文庫表紙カバーの惹句より)

 文庫にして540ページの大作である。
 が,実は,著者 佐野眞一がなぜこれほどまでにこの事件に入れ込んだのか,よくわからない。

 プロローグにおいて著者は「『東電OL殺人事件』が起きたとき,世間は『発情』といってもいいほどの過剰な反応を示した」と評しているが,正直なところ,当時の報道についての記憶は「スキャンダラスな事件なのでスキャンダルとして扱った」といった程度の印象しかない。
 上場企業のエリート女性社員が夜になると立ちんぼうの売春婦,そのあげくに殺されたのだ。週刊誌やテレビがこれに飛びついて扇情的に扱わないほうがどうかしている。
 「ついには彼女がベッドの上で撮った全裸写真を掲載する週刊誌まで現れた」とあるが,事件にかかわる女性のヌードが入手できたら掲載したがるのは彼らの「仕事」としての本スジだろう。被害者だから加害者だからと載せない方針を打ち出すとしたらそちらのほうがよほどどうかしている(人権問題から掲載されることはあり得ないだろうが,どこそこ大学の学生たちによる集団レイプ事件の現場写真があったならそれを入手したがらない,載せたがらないブンヤがいるだろうか?)。

 だが,とにもかくにも佐野眞一はこの事件に「大量のアドレナリンを身内から分泌」し,円山町の事件現場,被害者の父親の出身地,あげくに遠くネパールの高地まで足を運んで取材を重ねる。その過程は面白くないといったら嘘になる。
 年収1000万はあったのではないかと想像されるOLが,セックス1回について5000円,場合によってはもっと安い売春婦として几帳面に毎晩働き続けたこと(その方面には詳しくないが,この金額が相当安いほうであることは想像にかたくない)。いや,そのような枠組み以上に,「コンビニエンスストアで百円玉を千円札に,千円札を一万円札に『逆両替』し,井の頭線の終電で菓子パンを食い散らかし,円山町の暗がりで立ち小便をする」,あるいはどこかで拾ってきたと思われるビール瓶を酒屋に持ち込んで五円,十円と金に換える……そういった被害者の一種の「奇行」がなんともいえないリアリティをかもし出すのだ。ことに,なんというか「たまらない」のは,被害者が円山町のセブン-イレブンでオデンを買うのに,一つのカップに一つの具を入れて,汁をどぶどぶといれ,そのカップをいつも五つくらい使ったというエピソードだ。これらの行動になんらかの病的な要素,あるいは意味を求めることも不可能ではないかもしれない,だが,そのような解釈を拒絶する高い壁のような手応えがここにはある。

 一方,犯罪事件捜査の面からも,この事件は奇妙な様相を示す。
 警察や検察は,意図的であるかのように愚かの上にも愚かな対応をし続ける。まるで探偵の推理を引き立てるためにとしか思えないほど短絡的な推理を繰り返すミステリ小説の警部,あるいは一度島流しにあった前科者をすぐ犯人扱いして引っ立てる敵役の岡引のようだ。しかし困ったことに,その裏の活動はそれなりに組織的で,一見まっとうな法治国家に見えるこの国が実はきっちりと構築された愚かさの上に成り立っていることがよくうかがえる。
 もっともこれは考えてみれば当たり前のことで,上場企業であろうが官庁であろうが,親しく仕事で付き合ってみれば4人に1人,いや3人に1人はどうしようもない輩だということはすぐわかる。警察や検察にだけきちんとした人材がそろっているなどと夢見るほうが無茶なのだ(それにしても,これだけ具体的な証拠のない案件を担当させられ,なおかつベストセラー作家にその無能を書きたれられた検察官たちには同情を禁じ得ない。もしかしたら彼らは調書に目を通した時点で「あちゃーこりゃシロだ」と思っていたかもしれないではないか)。

 さて,著者の視点に戻ろう。
 先に書いたとおり,著者は事件に発情し,被害者にアドレナリンを分泌し,被疑者の潔白を信じて疑わない。ネパール人の被疑者は,アリバイその他の面から確かに犯人とするには無理があるのだが,それにしても詳細を調べる先から犯人ではあり得ないと断定的な書き方をしてしまう著者もいかがなものかと思う。これでは先の警察,検察の対応の裏返しにすぎないのではないか。

 また,巻末の精神科医 斎藤学と著者の対談,これがなかなか面白い。ここでは被害者の女性の行動が,敬愛する父親と同じ企業に入りながら,父親のようになれなかった自分への(懲罰的超自我による)一種の自己処罰であることが示唆される。出来すぎと言っていいほど実にわかりやすい。
 だが,自ら堕落として娼婦の道を選んだ被害者にはすなわち東電のエリート社員であることを上,娼婦であることを「落ちる」先とみなす意識があったということだ。しかし,そもそも,東電に勤めることを無条件にイコール品行方正なエリートとみなしてしまうことのほうが正直言って不思議だ。一部上場の大企業,大手銀行,官公庁……。これらのどこがどのように売春業よりエラいのだろうか? 被害者の選択はプロの娼婦を見下すようでもあり,実は彼女が端緒(ハナ)っから低い水平線にいたことの顕れのように思われてならない。

 一流企業と呼ばれる組織で何億という金を動かせることが上流で,円山町の暗い駐車場でまぐわうのが下流。セックスに対する侮蔑であり,そのような貧しい性行為は5000円ですら高い,と思えてしまう所以である。

先頭 表紙

??さま,続刊の『東電OL症候群』によると,女性読者からのなまなましい反響に比べて,男性読者からのそれは,通り一遍で常識にとらわれたものが多かったようです。本事件の被害者の心のありようは,男の側からはどうしてもわかり得ないものなのかもしれません。 / 烏丸 ( 2003-10-06 01:19 )
私も読みました。でも読んでいる途中で気持ち悪くなってしまって読むのを辞めてしまいました。彼女のお金の使い方が気になります。金満というわけではなさそうだけど、洋服や化粧品、そして貯蓄高。。。お金が欲しくてやったわけではなさそうだけど、この事件、やはりオンナとして気になりますね。。。 / ?? ( 2003-10-02 23:50 )
神戸の少年Aの事件でも,少年Aの写真を公開した雑誌は大顰蹙を買ったのに,被害者の少年の写真は一種さらし者扱いで,気の毒でなりませんでした。全般に容疑者側のプライバシーのほうが尊重されているようで,なんだかルールがヨクワカラナイ。佐渡の少女拉致事件は珍しく犯人(容疑者か)が正面から写ってましたね。 / 烏丸 ( 2003-09-30 01:53 )
この事件あたりから「被害者の人権」というものをかなり言われるようになりましたな。この人の場合、職場の人たちも家族も薄々彼女の「夜の顔」を知っていた、というのがまたすごいと思ったものでした。 / 壱弐九八 ( 2003-09-29 15:40 )

2003-09-16 最近読んだコミック その三 『頭文字D(27)』『蟲師(1)〜(3)』


『頭文字D(27)』 しげの秀一 / 講談社(ヤングマガジンKC)

 今夜はどのテレビ局も,阪神の優勝シーン一色(正確には黄色と黒のタテジマ二色)だった。
 一球団の優勝がこうまで一般報道を圧するのは,永田町の猿芝居では視聴率が取れないという事実はさておき,今さら言うまでもないが18年ぶりの,それもその間ほとんどBクラスにあえいだチームだから,という要素があるからに違いない。

 要するに,高揚するためには「反動」が必要なのである。引っ張ったり押し縮めたりしてこそ,バネははじける。御託を連ねるまでもない当たり前のことで,スーパーマンは日ごろはメガネをかけた冴えない新聞記者クラーク・ケントでなくてはならない,それだけのことだ。

 ヤングマガジンという雑誌で比較的地味に始まった『頭文字D』の強烈なインパクトは,その「反動」から得られるものだった。
 藤原拓海は四六時中ぼーっとしている,部活は先輩を殴って退部,そのきっかけとなった女の子とはロクに口もきけない,「藤原豆腐店」と書かれた素のハチロクで最新の強力な車とバトルするハメに陥る,等々と,およそヒーローらしからぬ主人公である(もちろんマンガの主人公だから,見てくれは十分に二枚目なのだが)。ともかく初期の数巻は,そのパッとしない拓海が,並みいる強敵と峠のダウンヒルを闘っては勝ち進む,その「反動」がえもいわれぬカタルシスを誘ったものである。
 しかし,最近は冷静かつ攻撃的な群馬エリア最速のダウンヒラーとしてその名も響き渡り,愛車ハチロクもレース仕様のエンジンが積まれてパワー対決でひけをとらなくなった。『頭文字D』の初期からのファンは変わらず拓海を応援してはいるが,考えてみれば拓海にはもう応援など必要ないのである。

 プロのドライバーにも勝ってしまったプロジェクトD,今後読み手が納得できる壁はあり得るのか。勝ち続けるからついつい単行本を買ってしまいながら,そんな心配ばかり浮かぶ27巻であった。

『蟲師(1)〜(3)』 漆原友紀 / 講談社(アフタヌーンKC)

 『蟲師』はアフタヌーン増刊,アフタヌーン本誌に発表されてきた連作短編集,現在3巻まで発売されている。作者の漆原友紀は女性だろうか?

 いつの時代,どこの国とも知れぬ世界で,「蟲」と呼ばれる原始的な生命体(それはカビのようであったり,オーロラや山の神のようであったり,言霊のようであったりする)と人々のかかわりを,ギンコという狂言回しの目を通して描く。
 それぞれの「蟲」の発想,造形はなかなか見事で,それによって人生を捻じ曲げられた人々の悲哀,あるいは復活をひっそりと描く筆のクオリティは非常に高い。
 しかし,これだけ好みの設定でありながら,なぜだか雑誌掲載当時から今ひとつ没頭しきれないものがあった。今回単行本を3冊通して読んでみて強く感じたのだが,この短編集はファンタジーでありながらどうも「意外性」に乏しいのである。

 『蟲師』の作品世界では,決して思いがけない事件は起こらない。
 平穏が続くとみえて急転直下悲劇が起こる,とか,朗らかな笑みの裏に暗い冷たい過去が,といった「反動」がないのだ。いかにも悲劇が起こりそうだなと読み進むと悲劇が起こり,まことに暗い過去がありそうだなと思われる人物にはたっぷり暗い過去がある。
 それでは心は波打たない。
 もちろん,作者の意図は角川ホラー文庫的絶叫世界ではない。ひたひたと溢れる静謐な悲哀感の描写を(おそらく)目的としている以上,必要以上の過剰過激な演出は無用である。しかし,静謐な悲哀感で読み手を満たすためには,やはりその前にいったんは心を泡立たせる必要があるのではないか。そうでないとその悲哀は表面的な皮膚感覚に終わってしまうのではないか。

 いくつか,本来ならとても切ない話が,あるいは底なしに恐ろしいはずの話が,さほど切なくも恐ろしくもないのは,やはり何か「ばね」が足りないように思われてならない。どうだろうか。

先頭 表紙

本文でけなしといてなんですが,『蟲師』はオススメです。今ひとつな感じはあるけれど,こういったもの(?)としてはクオリティが高く,またよくも悪しくも三巻めまで質が落ちません(アイデアの一発,二発で息切れする作品が少なくないだけに)。欲をいえば,ときどきでよいからもう少しテンションが高いのがあればいいなぁ,と。 / 烏丸 ( 2003-09-16 15:16 )
んまあ、烏丸さんったら、こんなマンガも読んでらっしゃるんですね。しげのさんは「バリバリ伝説」以来ノーチェック。「蟲師」は読もう読もうと思って未読のまま今日に至ります。 / けろりん ( 2003-09-16 03:19 )

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