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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-09-08 最近読んだコミック その一 『のだめカンタービレ(6)』『ヒカルの碁(23)』
2003-09-01 骨になっても踊り続けろ 『屍体狩り』 小池寿子 / 白水Uブックス
2003-08-25 『怪盗ニック登場』 エドワード・D・ホック,小鷹信光 編,木村二郎・他 訳 / ハヤカワ文庫
2003-08-20 切り番ゲット 2000000番!
2003-08-18 〈葬儀屋探偵〉明子シリーズ 『赤い霊柩車』『猫を抱いた死体』『毎月の脅迫者』『華やかな誤算』『大江山鬼伝説殺人事件』 山村美紗 / 新潮文庫
2003-08-11 『殺しも鯖もMで始まる』 浅暮三文 / 講談社ノベルス
2003-08-03 企業人必読! 『社長をだせ! 実録 クレームとの死闘』 川田茂雄 / 宝島社
2003-07-29 たおやかな漢字遣いの魅力 『黒いハンカチ』 小沼 丹 / 創元推理文庫
2003-07-21 『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社
2003-07-14 『死と彼女とぼく』 川口まどか / 講談社漫画文庫


2003-09-08 最近読んだコミック その一 『のだめカンタービレ(6)』『ヒカルの碁(23)』


『のだめカンタービレ(6)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

 何度か取り上げてきた「のだめ」だが,いまだテンション下がらず。

 今回もスパークするギャグの中に,
「いいえ! 軽くなんて…… そんな練習 ないんです! わたし」
と泣けるセリフも散りばめ,油圧ショベルとフォークリフトで社交ダンスを踊るような濃い世界が展開する。

 ところで,主人公のだめ(野田恵)を除く,千秋真一,奥山真澄,鈴木萌・薫らのSオケメンバーはこの巻で学部を卒業である。飛行機恐怖症,海(船舶)恐怖症の千秋は海外留学もできず院に進むが,それ以外のSオケのメンバーはそれぞれの道に進む。
 本作は読み切りでこそないものの,ギャグの印象が強く,『サザエさん』『ドラえもん』『うる星やつら』的時間の停止した無限ループをついつい想定してしまう。しかし実のところ作者の資質はそういったループ系ではない。前作の『GREEN』でも,最終巻で主人公たちの結婚というかなり思い切りのよい展開を見せている(その結婚式に用意されたエピソードが,また,ほかの作者ならまず選ばないような思い切りのよいものであったが)。

 逆に言えば,『のだめカンタービレ』には,読み手の予想などまったく通用しないということだ。ダイナミックに揺れながら長く続くのか,それとも思いがけないアップダウンを見せて数巻内で物語を閉ざすのか。そのとき,読み手はカラカラと笑うのか,それとも「やられた」と下唇を噛みながら涙を落とすのか。

『ヒカルの碁(23)』 原作 ほったゆみ,漫画 小畑 健,監修 梅沢由香里四段(日本棋院) / 集英社(ジャンプ・コミックス)

 『ヒカルの碁』が終わった。
 以前も「佐為編」完結後に再度連載が始まったという経緯はあるが,いちおう原作者による挨拶もあり,単に「北斗杯編」が終わったということではなさそうだ。
 この作品が絵柄,ストーリーともに非常によく出来ているにもかかわらず,根っこのところでなぜつまらないかは以前述べたので繰り返さない。……が,この最終巻はそれにしてもひどい幕切れであった。

 たとえば,ボクシングマンガの『はじめの一歩』なら,いじめられっ子がプロボクサーの鷹村と知り合い,ライバルと出会い,その時点までに用意されていた身体的資質を伸ばし始め,その成長に応じて闘う相手の壁も高くなる。つまり,1巻めから,摂理はゆきわたっているのである。
 それに対し,ヒカルは23巻を費やして,いまだ碁盤の上で闘う理由を見出すことができない。最終巻でも泣いてみたり無理繰り言葉で説明したりはしてはみせたが,説得力に欠け,対局相手にさえ鼻で笑われる始末だ。今後彼が訓練によっていかに勝率をあげようが,彼の存在が他者を脅かすことは当分ないだろう。彼は本質的にまだ勝負師のステージには上がれていないのだ。
 にもかかわらず,塔矢アキラは,小学生の頃にヒカルに憑依した藤原佐為に完膚なきまでに敗北したことから,ヒカルを自らのライバルとみなし,彼を意識し続ける。匿名の悪戯メールに恋をしてしまうようなものだ。気の毒でならない。

 この構図は最終回にいたるまで変わることはなく,登場人物たちにはなんら救済は提示されない。
 ヒカルは今後も虚偽申告ベースの人生を歩み続け,周囲は多かれ少なかれそれに歩みを揺らされるのだろう(アキラの,同年代の他の棋士たちへの態度を思い起こしてみよう。本来,佐為抜きなら,ヒカルもあのように扱われるのが妥当なのである)。
 心理学的に鑑みれば,ヒカルは遅かれ早かれ精神状態に変調をきたすだろう。早めにカウンセリングを受けることをお勧めしたい。

 今,ふと思い当たった。
 『ヒカルの碁』は,『ドラえもん』と構図的には実によく似ているのだが,野比のび太には,ドラえもんがいかにサポートしてみせてもそれがのび太本人の成長を示しているわけではないことを把握し,のび太を叱咤してくれるママがいる。のび太の将来も十分に心配ではあるが,ヒカルのそれほど陰惨なことにはならないだろう。

先頭 表紙

カラスもなんとかいう寺の檀家なのですが,寺というものに対しては観光意識しかなくて……。法事の依頼に訪れても,仏像はないのか,とか,鐘はたたいていいのか,とか,ややこのフジの木は樹齢100年とな,とか,うろきょろするばかりです。 / 烏丸 ( 2003-09-15 02:17 )
う〜む。法隆寺「遺跡」ですか。おそれいりやした(‥;) うちは、長谷寺の檀家です。でもお墓以外のとこ観光したことないです。長谷寺のホームページはお茶目で必見です。あぁ、どんどん横道。 / Hikaru ( 2003-09-14 18:07 )
うーん,抗議の真偽より,そも法隆寺が「現役」の寺であると認識してませんでした。遺跡か何かのイメージだったもので。考えたらそんなはずありませんね。檀家とかあるんでしょうか。いいな,法隆寺の檀家。 / 烏丸 ( 2003-09-13 03:06 )
『日出処の天子』連載中に、”法隆寺が抗議している”という記事を、地元新聞紙で読みました。その後”法隆寺はそんなことはしていない”という報道もあり、実のところよくわかりません。本題から横道失礼。 / Hikaru ( 2003-09-13 00:33 )
「自分の打つ碁の中に佐為を見付けた」程度で,プロの,それも精神的にも肉体的にも極限までに厳しい勝負を闘っていけるものでしょうか。ちょっと信じられません。ヒカルはつまり,他者(佐為)との関係維持のために碁を打つということになります。それで勝てちゃうお話は,子供たちにはあまり読ませたくないですねえ。 / 烏丸 ( 2003-09-10 19:09 )
こんにちは。かつて『日出処の天子』が打ち切りになった,と話題になりましたね。今回はアニメ化,カードゲーム化もされたドル箱作品であり,編集部が打ち切ったというのはないんじゃないかと思います。もちろん,人間関係のこじれは外からはわかりませんけどね。 / 烏丸 ( 2003-09-10 19:09 )
はじめまして。ヒカルが「碁盤の上で闘う理由」は、「自分の打つ碁の中に佐為を見付けたから」(コミックス16,17巻)ではないんでしょうか。あと、最終回に関しては「打ち切り説」など奇怪な噂が飛び交いましたが、実際のところどうなんでしょう…。 / ぽちっ ( 2003-09-10 00:03 )

2003-09-01 骨になっても踊り続けろ 『屍体狩り』 小池寿子 / 白水Uブックス


【骸骨探しには推理小説のような面白味と興奮がある。】

 「普段は黒いスーツの似合うクールな葬儀屋青年,いざ事件に邂逅するや屍体と古今東西の文献についての豊富な知識をもとに快刀乱麻の推理を展開し,警察も一目置く葬儀屋探偵」を創造し,年に1冊の長編,3年に1冊の短編集を発表するやそれがいずれもベストセラーに,映画化もあたってイタリアはトスカーナの片田舎で印税生活を送る……。

 惜しくも山村美紗に先を越されてベストセラーの夢は果たせなかったが(んなことはミステリ短編の1つも書いてからおっしゃいなさい),今回はその幻と終わった「蒼い棺シリーズ」の素材というか参考資料として秘蔵していた書物を1冊,特別にナイショでご紹介しよう。

 小池寿子『屍体狩り』は,美学美術史家たる著者が「屍体」をテーマにした古今の絵画・彫刻作品を取り上げて死を語った雑誌連載エッセイをまとめたもの。
 取り上げられた作品は著者が専門とするヨーロッパ中世のものが中心だが,アジアの壁画や外国煙草の商標にいたるまで,その対象は自在,内容もしかつめらしい美術講釈でなく,のびのびと思索の翼を広げて享楽しい。ただし,その翼の黒い風切り羽根は常に「屍体」に触れているのだが。

 43の各章(本書では第1体,第2体……と数えているが)には絵画や彫刻の写真が数葉ずつそえられ,テキストを補っている。本来はそちらの写真がメインとなるべき章も少なくないが,いかんせん新書サイズの1ページにモノクロ写真を2,3点,つまり一辺せいぜい数cmの写真では「屍体」ぶりもそうリアルとはいかず,そうとうエグい作品のはずも,一部を除き気持ち悪いレベルには至らないのでご安心。
 それにしても,死者に誘惑される女や,高貴な人々が死んだ際に墓を飾るトランジ(腐敗屍骸像)など,ヨーロッパ中世の人々はいかに毎日死と向き合って生きてきたことか。ペストの流行や宗教的な必然性から,というのもわからないではないが,要するにいたるところ骸骨と腐敗屍骸だらけである。それでも飽き足らず,フラッシュ撮影不可の修道院の塀を乗り越えようとする著者は天晴れ,「屍体屋」のカガミといえよう。

 個人的には先に触れた「トランジ(腐敗屍骸像)」を興味深く思った。
 これは「みずからの朽ち果てる屍をあえて見せしめにして,道ゆく人に生のむなしさを思い起こさせ,せめて生前に神の加護を請い,道徳的に正しい生活を送って,あまりにぶざまな姿では死なないように教え諭す」ことを意図し,「腐乱状態の表現が残酷であればあるほど,見る者の恐怖心をあおり,善生善死の効用を説く効果があった」というものである。
 別の章にある,カトリーヌ・ド・メディチが「とある彫刻家に腐敗屍骸像の見本帳を見せてもらった彼女は,おそるおそる『死後数日ていどのもの』を注文した」といったエピソードも楽しいが,現在の日本社会においては,葬儀の風習があまりに屍体を小奇麗に扱い,またすぐに荼毘に付してしまうため,屍体が腐敗するものであることが隠蔽され,ひいては現代日本人が死と向かい合う機会を失っているのではないか,ということにも思い至った。
 1995年に相次いで起こった阪神・淡路大震災,地下鉄サリン事件が当時社会に大きな動揺を与えたのは,これらが単に大規模な災害を引き起こしたから,だけではなく,これらの事件が私たちに「メメント・モリ(死を想えよ)」と強く訴えたからではないか。

(無茶を承知で言うなら,阪神・淡路大震災で祖父を喪った少年Aがのちにあのような事件を起こしたのは,この地震災害によって直面した「死」を彼がうまく処理できなかったからではないか。さらに極言するなら,民主主義の名目のもと,宗教や天皇制や戦争を正面から見据えようとしなくなった日本社会がいまや「死」を扱うマニュアルを見失っていることを少年Aの事件は証明してみせてしまったのではないか。)

 それにしても,いくら自他ともに認める「屍体屋」さんとはいえ,東大医学部解剖学教室の養老孟司教授に招かれるままに献体に触れ,あまつさえ「せっかくの機会だからとメスをとり,開きかけた胸の皮膚を切り剥がそうとする」のは……小池先生,いかがなものか。遺体を解剖に提供した当人も,そんな扱いを受けるとは予想外だったと思うのだが。

先頭 表紙

フィー子さま,カラスは「ソリッド」という言葉を使いたがる傾向があるのですが,「うざい」「きもい」で笑いながら通り過ぎることのできない「ソリッド」な存在から目をそらしたような昨今の風潮が少し気になります。誰もが死ぬまでその存在を知らずに生きていけるならそれは別に知ったことではありませんが……。 / 烏丸 ( 2003-09-09 01:28 )
↓そうでーす。確かに烏丸さんのおっしゃるとおり、現代日本は死体が現実生活と離れすぎていますよね。もっと身近なものであっておかしくないのに。( )内のご意見、うなずきながら読みました。私が死者の奢りが好きなのはそういうことも関係してるのかなあ、なんて思ったりして。 / フィー子 ( 2003-09-08 20:54 )
東大医学部解剖学教室といえば,確か大江健三郎『死者の奢り』の舞台だったかと……。 / 烏丸 ( 2003-09-02 16:30 )

2003-08-25 『怪盗ニック登場』 エドワード・D・ホック,小鷹信光 編,木村二郎・他 訳 / ハヤカワ文庫


【文字どおりにからっぽだった。ニック・ヴェルヴェットが盗むような物はなにもなかった。】

 山村美紗の本を読むというのは,民放のサスペンスドラマを見るのと同様,「馬鹿がうつり」そうでまことにいやなものだ。当方が馬鹿ではない,などと思い上がったことを言っているわけではない。念のため。馬鹿は馬鹿でも,違う種類の馬鹿がうつって救いようがない,そんな感じである。

 たとえば,新聞のテレビ面にはときどきサスペンスドラマの紹介記事が掲載されているが,あのコラムの担当者の苦労を思うと2時間で肺に影ができそうだ。山村美紗原作,片平なぎさ主演のドラマの,何をどうほめればよいのか。中村玉緒演ずる女刑事とかね。
 ところが,なかには,何の苦労も感じさせずにサスペンスドラマを褒めちぎることのできる輩がいる。根っからのプロなのか,それとも底抜けに馬鹿なのか。

 新潮文庫『赤い霊柩車』の解説担当者は,明らかに後者だった。
 デビュー当時はいざしらず,量産体制後の山村美紗をあのチェスタートンと比較するだけでも噴飯ものなのに,山村美紗の作品数が多いことを褒め上げるために,チェスタートンにはブラウン神父ものの短編しかない,だから山村美紗のほうがすごいかも,とおっしゃるのである。漱石には『坊っちゃん』というユーモア小説,鴎外には『舞姫』という恋愛短編しかない,と言うのと大差ないことに気がつかない著者,その原稿をチェックもできず素通りで載せてしまう編集者。
 ちなみに,ギルバート・キース・チェスタートンには,ブラウン神父シリーズのほか,『奇商クラブ』『詩人と狂人たち』『ポンド氏の逆説』『木曜の男』といったやはり奇想にあふれた短編集,長編があり,これらは創元推理文庫で簡単に手に入る。現在入手は難しいが,さまざまな論評,評伝をまとめた著作集も翻訳されている。

 念のため,山村美紗の作品やサスペンスドラマがこの世の中には不要だ,などと言っているのではない。
 テレビドラマが朝から晩までタルコフスキーの作品のようだったら,それはそれで息が詰まるだろう。この世には気分転換というものもの必要なのだ。ただ,24時間,サスペンスドラマの水準で省みないようなら,いや,山村美紗すら読めないほど活字や本を必要としないのであるなら,それはよほど幸福な人生か,あるいはよほど……否,思うことを全部書けばよいわけではない。

 さて,口直しということを考えてみた。

 『殺しも鯖もMで始まる』の口直しには鮎川哲也の三番館シリーズなどいかがであろう。創元推理文庫から『鼓叩きはなぜ笑う』『サムソンの犯罪』『ブロンズの使者』『材木座の殺人』の4冊が今年の4,5,7,8月と続けて発行され,以下続刊の予定である。
 三番館シリーズというのは,いずれも「事件が起こる」「弁護士が主人公の探偵に相談する」「捜査の壁にぶちあたった探偵がバー三番館のバーテンに相談すると見事な回答が得られる」という三幕ものの展開を示す,典型的な安楽椅子探偵譚の短編集である。これが,もう,精緻にして,素晴らしい。各編とも荒い筆でなぞったような描写しかないにもかかわらず,犯人や被害者が実にいきいきと描かれ,主眼がアクロバティックなトリックとその看破であるにもかかわらず,豊かな時間,得した気分を得られるのである。往年の『刑事コロンボ』を見たような手応えとでもいえばよいだろうか。
 なお,バーテンが相談者との対話だけで事件を解決するのは,アシモフの『黒後家蜘蛛の会』と偕老同穴,じゃなくて大同小異,いや換骨奪胎かな,まぁいいやともかく設定が似ているわけだが,これは決して鮎川哲也が真似したわけではなく,まったく偶然の一致らしい。雑誌発表時期もほぼ同時なのだそうである。

 一方,〈葬儀屋探偵〉明子シリーズの口直しには,たとえばエドワード・D・ホックの『怪盗ニック登場』などいかがだろう。
 主人公ニック・ヴェルヴェットの職業は盗賊。二万ドルの報酬で仕事を引き受ける盗みのプロフェッショナルである。ただし,彼は現金や宝石など,ありきたりのものは盗まない。動物園の虎,ビルの看板の文字,大リーグのチーム,ただのカレンダー,恐竜の尾骨,陪審員一同などなど,なぜそれを盗む必要があるのか,それをどう盗むのか,盗んだあとどうするのか……いずれも一筋縄ではいかない絶品揃いの短編集である。『ルパン三世』,いや,むしろ昔懐かしい『ナポレオン・ソロ』『スパイ大作戦』など,ジャズサウンドに載せた難関突破型の海外ドラマの香りとでもいおうか。その中でも,ロバート・ワグナー扮する大泥棒を主人公とした『プロスパイ』(のち『スパイのライセンス』)を彷彿とさせるカッコ良さである。
 もちろん,単なるカッコ良さだけでなく,不可能犯罪ミステリの専門家だけあって,幾重にも織り込まれた謎とそれを一気に解きほぐしてみせる手腕は見事の一言。
 同じ気分転換ならこういう本でリフレッシュしたいものである。

※8月末には続巻『怪盗ニックを盗め』発刊。その腰巻の惹句が(ハヤカワらしからず)素晴らしい。曰く,
 “貫井徳郎氏(作家)慟哭す。「ニック大好き!」”

先頭 表紙

多分,問題は,タイトルや表紙で欧米のB級ペイパーバックのパロディを狙ったものの,結局はずしてしまってなんだかよくわからないものになってしまったことでしょうか。そもそも皮肉だのパロディだのといっても,さほど明確な意図もなかったように思われますし……。 / 烏丸 ( 2003-09-15 02:14 )
そこまでシンプルではありません。軽く弁護するなら,さすがに『殺しも鯖も……』のタイトルや表紙は「それらしく英語が散りばめてあれば」よし,あるいは「アルファベットをありがたがって」いるわけではないと思います。本文中でもいちおう,アメリカ育ちの探偵が英語の慣用句を撒き散らすのをいかにも迷惑,という描き方をしていますし。 / 烏丸 ( 2003-09-15 02:13 )
(↓の続き) などと、店頭で憤慨したりしてみるのは、ただのあやしい年寄りくさい変人なんでしょうね、きっと。 ……すいません、勝手に暴れちゃいました。まぁたまには濃いめのツッコミも悪かないでしょ、ということで、ご容赦ください。 / 西澤 ( 2003-09-13 03:35 )
この手の傾向は、「それらしく英語が散りばめてあれば若年層の興味を惹くのではないか」という、少しでも作品を世に広めたい編集側の苦肉の策なのかもしれませんが、そういう風に読者に擦り寄る必要はないのではないか。新しい試みとして奇を衒うなら、もっと徹底してほしい。本編が日本語でしっかり書かれてあればそれで十分なはずで、アルファベットをありがたがって小道具に取り入れてみたり、半端な英訳を添えたりするのは、日本語作品への冒涜ではないか、 / 西澤 ( 2003-09-13 03:34 )
表紙もいただけない。8月11日にご紹介いただいている小さい画像からでさえ素人っぽさの匂いたつ、この英語遣いはなんでしょう。「サバは英語でマーダーとおんなじMで始まるマカレルっていうんだよ、ぼくちん知ってるおりこうさん」 はぁそうかいそうかい、ならばその路線で徹底せんかい。ミノウ、マーリン、ミュレット、ミンククジラ、、、Mで始まる魚はたくさんおろうが、「サバ」に続いて「ミソ」を持ってくるという駄洒落なセンスはいかがなものか、心のせまい読者代表たるわたくしとしては、苛立ちを禁じえないのであります。 / 西澤 ( 2003-09-13 03:33 )
たまに日本の書店を覗くと、見かけだけのカッコよさを狙ったかのような(実際にはカッコいいどころか、むかつくほど勘違いだらけの)英語併記の本が増えているようで、首を傾げてしまいます。  たとえば『殺しも鯖もMで始まる』について、作者や内容についてまったく知らないわたくしとしては何も語る資格はないのですが、構わずに好き勝手言わせていただきますと、まずはわざとらしい翻訳調の題名によって手にとる意欲を大いに削がれます。 / 西澤 ( 2003-09-13 03:32 )
Kさま,いらっしゃいませ。山村美紗についての私評が続いたのは少ししつこかったですか。うーん,でも,葬儀屋探偵についてはもう少し書きたいこともありますので(死体についての,よい本があるのです),残念ながら個別のメールを書き起こす時間はなさそうです。 / 烏丸 ( 2003-08-28 03:01 )
しつこすぎでした。後味わるしなので 良ければ メールいただければ此れ幸い。 / K. ( 2003-08-27 00:45 )

2003-08-20 切り番ゲット 2000000番!


 
 3年もひまじんしてきたんだし……たまには踏んでもいいですよね?

 個人的にも、先だって私評が500を突破しました。
 でも、500番めが、ぜんぜんお奨めの本でなくて。
 次の1000私評めに期待しよう……。
                                                                                                                                                                                                                                                                                               

先頭 表紙

ぷる2さま,カラスは人形者ではありませんが,ぷる2さまのところのシオン(ちゃん? さん?)の写真には目からウロコ,耳からケムリ級のショックを受けました。それ以来毎日拝見させていただいています。お人形さんたちの写真の撮影がまた……ほぅ……そのへんは,いずれまたおりをみて。 / 烏丸 ( 2003-08-28 02:40 )
匿名希望さま,カラスの辞書では「とくめい」で変換するとanonymousと出てきます(本当)。アノネモウシマスケドもしくはアノネモシモシと読みます(ウソ)。 / 烏丸 ( 2003-08-28 02:38 )
パンドラさま,200万と一口でいっても,カラスの貧弱な脳みそでは実際のところどれほどの数字だかわかりません。せめて東京ドーム何杯分,とか,東京・大阪間を何往復分,とか……。 / 烏丸 ( 2003-08-28 02:37 )
と,昔のことに思いを寄せれば,akemiさんのひまじんデビューは鮮烈でしたねぇ……(はぁと)。カラスも負けてならじとファイト燃やしたものです(何に?)。 / 烏丸 ( 2003-08-28 02:37 )
やや,そうおっしゃるよちみさまも,まさしく本日でジャスト3年めではありませんか。 / 烏丸 ( 2003-08-28 02:37 )
Buquiさま,今回の切り番は不思議と掲示板でも話題にならず,妙だなとは思っていた次第。 / 烏丸 ( 2003-08-28 02:36 )
マイケルさま,ということはつまり,ひまじんネットは実はすでに400万アクセスを超えているということかもしれませんね。その数字にはKGBの残党と南アメリカの麻薬地帯に潜むテロリストたちに対するひまじん管理人スタッフ諸氏の夜を徹して昼間寝る闘いの深い意味がこめられて……ほんまかいな。 / 烏丸 ( 2003-08-28 02:36 )
おめでとうございます!綺麗なキリ番ですね、羨ましい。私がとったのは「1666666」という獣の数字の二つ並びでしたから、ちょっとイヤンでした。 / ぷる2 ( 2003-08-26 00:33 )
↓これが面倒なんですね。 自分で 自分の尻、ぬっぐときました。(皮肉屋さんの ところで・・・。) / 匿名希望 ( 2003-08-25 06:31 )
こんばんは はじめまして。凄いキリ番 おめでとです。私は よく お節介を やきます。 マジで。。。 そこで、あなたの いっておられた 面倒とは なんでしょう。 気になるので きてしまいました。 で・・・思い切り 私のことかな。 いいんです。 はっきり いってください。感情的になると 結構 やっちゃったり ・・・。 しますんで・・・・。 きつすぎない程度に・・・。よろしく・・・。 / でも、気の弱いKin.だけど・・・。 ( 2003-08-24 22:57 )
おめでとうございます! きれいなキリ番、お見事です。 / パンドラ@つっこみははじめましてです。 ( 2003-08-24 22:09 )
おひさしぶりです〜。やっぱり気持ちいいもんですねえ。^^ / akemi ( 2003-08-23 12:11 )
おめでとうございます!すごいです〜〜!もう3年ですかあ。。。 / よちみ ( 2003-08-21 16:49 )
ヘー!ヘー!ヘー! おめでとうございます。そろそろだとは思っていましたが。 / Buquiさん@お初につっこませていただきます。 ( 2003-08-20 21:11 )
ありゃ、同時だったようですね。 / マイケル(ご無沙汰してます) ( 2003-08-20 19:57 )

2003-08-18 〈葬儀屋探偵〉明子シリーズ 『赤い霊柩車』『猫を抱いた死体』『毎月の脅迫者』『華やかな誤算』『大江山鬼伝説殺人事件』 山村美紗 / 新潮文庫


【顔は比較的傷んでなかったので,着物を着せると,なんとかみられる姿になった。】

 誰に聞いたのだったか,「葬」という字は,草の上に死体を横たえ,その上に草をかぶせる,そういう行為を表したものだそうである。
 もちろん,人口の爆発的に増えてしまった今,そのような弔いふうでは聖衆来迎寺の「人道九不浄相之図」のごとき有様をあちこちに見ることになっていただけない。これは要するに源信の『往生要集』の思想を具体化したもので,墓地に捨てられた死体が青黒く膨れ上がり,ただれて皮が破れ,血膿が流れ出し,犬猫に食い荒らされ,蛆がわき,白骨となり,ついには粉々に砕けて土とひとつになってしまう,その推移を克明に描いたものである。これが野山,町中,いたるところにあふれ返るわけだ。

 そこで,葬儀屋という職業が存在する。おかげで僕たちは父や母あるいは妻や夫,子供の亡骸を野山に捨てにいかずにすんでいるのだ。ありがたいことである。

 年齢がある程度いくと,同じ冠婚葬祭でも,結婚式より葬式のほうが多くなってくるような気がする。否,よしんば回数がおなじでも,同世代や若い世代の葬式が増えて,若いころのそれよりこたえるのだ。
 その葬式のひとつで,読経の際,ふと思いついた。
 「葬儀屋を本職とする探偵はいなかったのではないか。普段はクールで無口な葬儀屋の青年,葬式で死体を扱いながら,その死体の有様や遺族の言動にふと疑念を抱き,卓抜な推理力をもって見事に事件を解決していく。冠婚葬祭の作法や葬儀業界の裏表なども交えれば,推理以外の部分も読み応えが増すのではないか……」

 残念ながら,すでに先例があった。
 山村美紗の〈葬儀屋探偵〉明子シリーズ,『赤い霊柩車』『猫を抱いた死体』『毎月の脅迫者』『華やかな誤算』『大江山鬼伝説殺人事件』の5冊である(いずれも新潮文庫に収録)。
 主人公・明子は,交通事故で亡くなった父の跡を継ぎ,京都で葬儀社を切り盛りするようになる。葬儀の現場で遺体を検め,遺族とやり取りするうちにふと疑念が生じ……といったストーリーで,片平なぎさ主演でサスペンスドラマにもなっているらしい。
 文庫1冊に数編ずつ収められた中短編はいかにもサスペンスドラマの原作向き,京都を舞台に,ドラマにしやすそうな脇役も取り揃え(葬儀社の有能なベテラン社員や,明子の恋人の医者の卵など),推理ともいえない荒っぽい事件の発生から解決までの顛末が山村美紗ならではの箇条書きのような文体で描かれている(事件の発端から解決まで,ラブシーンも女事務員と茶飲み話をするシーンも,全編まったく同じ厚みの文章が続くのは驚嘆に値するほどである)。

 事件やストーリーは主人公が葬儀屋であろうが検察官であろうが女医であろうが別にかまわないようなしろものだが,それでも,葬儀屋の社員がいち早く死亡の情報を得るために病院の看護婦に付届けをしたり,警察無線を傍受したりといった(どこまで本当かは知らないが)営業努力を重ねていることや,友引を避け,火葬場の込み具合と調整し,といった葬儀のスケジュール感など,葬儀屋探偵譚「ならでは」の知識も得られ,その点ではなかなか面白い。

 ただ,個人的には本シリーズ,なんというか,少々,いや,かなり気持ちの悪いものだった。
 死体や殺害シーンが出てくることが気持ち悪いのではない。それらにまったく無頓着な主人公・明子やその恋人で医者の卵の黒沢が,気持ち悪いのだ。
 明子と黒沢は東京で知り合い,その後明子が父の跡を継ぐために京都に戻って,現在は遠距離恋愛中である。黒沢はときどき東京から明子に会いにくるのだが,休みの日でも葬式が入ると二人で出かけることもできなくなる。その按排は明子の職業が検察官であろうが女医であろうが変わらなかったに違いないが,それにしても火事で焼けただれた,あるいは発見が遅れて腐敗の進んだ死体の処置を施したその数時間後にその死体の有様を語り合いながら仲良く食事をし,それから二時間ばかり「愛をたしかめ」合う,二人の神経は太い。サスペンスドラマ向けサービスなのか,いずれの作品でも似たような展開で,このシリーズをそのように描いた山村美紗もまたそのような神経の持ち主だったということだろうか。

 この夏,ちょっとした旅行で京都に赴き,晴明神社を含むいくつかの寺社仏閣と,太秦の映画村を散策した。映画村では「最恐のお化け屋敷」というものに入ったのだが,(誰と入ったかはさておき)三十年ばかり前に入った縁日のお化け屋敷とは少しばかり様変わりしていて興味深く思った。
 昔の縁日のお化け屋敷も映画村のお化け屋敷も,迷路ふうの暗く狭い通路と音や風によって人を怯えさせる仕組みは似たりよったりなのだが,前者にまだ見受けられた一つ目小僧,ろくろっ首,唐傘といった「お化け」「妖怪」のたぐいは一切なくなり,「幽霊」でさえなく,映画村のお化け屋敷の恐怖の根源は惨殺された死体,磔られた死体,獄死した死体,要するに「死体」なのだった。ここのお化け屋敷のウリは人形にまじってプロの俳優が突然現れ,恐怖を演出することなのだが,彼らが演ずるのも「幽霊」というよりは,怨念のあまり死ぬに死ねない「死体」なのであった。
 つまり,科学や理屈が妖怪や幽霊を追いやった結果,リアルな恐怖として残されたものはソリッドな「死体」に対するそれ,ということだろうか(太秦のお化け屋敷1つでそこまで言うのも何だが)。

 さて,〈葬儀屋探偵〉シリーズに登場する恋人たちは,この「最恐のお化け屋敷」に入っても冷静に観察して歩ける,職業的経験に裏打ちされた強心臓の持ち主なのだろうか。それとも単に無神経なのだろうか。どうも後者のように思われてならず,それがグロテスクで底なしに気持ち悪いのである。

先頭 表紙

ところで「太秦」って,広隆寺など,聖徳太子と秦氏にゆかりがある土地だから,太と秦の字があてられている,のだそうです(MKタクシーの運転手さん曰く)。でも,なんでその読みが「うずまさ」なんでしょうね? / 烏丸 ( 2003-08-28 23:05 )
添付画像はシリーズ第二作の『猫を抱いた死体』。表紙の恋人達(多分)に菊の花をあしらったミステリって珍しいと思う。 / 烏丸 ( 2003-08-18 03:07 )

2003-08-11 『殺しも鯖もMで始まる』 浅暮三文 / 講談社ノベルス


【魚はジャック・ロビンソンといい終わる前に腐っちゃいますからね。】

 推理小説が,見ていて,つらい。

 新本格,日常の謎,と多少の盛り返しはあったものの,このところ「新機軸」といえるほどの潮流は現れず,江戸川乱歩,松本清張といった大巨人も登場しない。島田荘司を上回る者さえ噂を聞かず,少なくともここ数年の新作を読むくらいなら,過去数十年間の傑作を手に取り直したほうがよほど充実した時間が過ごせそうだ。

 そもそも,前提条件が厳しいのである。
 たとえば,密室殺人のトリックは,主だったものがすでに出揃ってしまった。一見新しそうなアイデアも,過去のいずれかのカテゴリーに折りたためてしまう。無理やりアクロバティックなトリックを捻出しても,やれ紐や装置を用いる機械トリックはつまらない,心理トリックとしては過去の何々という作品に似ている,などなど。

 けだし,推理小説の作者やファンは大きく2つに分かれるようで,一方はやたらとお勉強好きで記憶力がよろしい。やれ誰の作品のトリックが,やれこのプロットは誰の作品で,と過去の作品の生き字引であることがすなわち権威であるかのような,そのような一派がいる。かと思えば,もう一方は不思議なくらいそういったことに頓着しない,極端にいえば同じ作品の中の十数ページ前と矛盾することを書いてもとくに気にしないような,そんな一派である。
 前者はおもに「本格」という旗のもとに集いたがり,後者は決して集わない代わりに推理小説は体力勝負とばかりに百も二百も長編を生産し続ける。B級C級サスペンスドラマの原作としてスタッフロールをにぎわすのも主に後者のつとめである。興味深いのは,後者の作家の担当編集者もまた忘れっぽい御仁が少なくないようで,使い古された,いや同じ作家の作品で何度も用いられたトリックにせいぜい国内日帰り旅行パックをかぶせた程度の作品に「本格」「驚愕」「空前絶後」等の惹句をつけたがる傾向が強いようだ。
 閑話休題。

 さて,今回ご紹介する『殺しも鯖もMで始まる』は,昨今の推理小説の素地,素材の枯渇を思い切り現すような……要するに痛々しいまでにつまらない作品の1つである。

 発覚した殺人の状況そのものは,なかなか面白い。
 死体が発見されたのは地中の空洞であり,その空洞のあった原っぱには穴が掘られた形跡がまったくない。死んでいたのは奇術師であり,彼はなぜか「餓死」しており,空洞の中には「サバ」なるダイイングメッセージが残されていた。……

 この作品が傑作として記憶に残るためには,この殺人が地中の空洞で行われた理由になるほどと手をうち,「サバ」の文字の解釈にそれはごもっともと指を鳴らし,さらにそれらすべてを指摘して犯人を割り出す探偵の手腕に溜飲が下がらねばならない。
 だが……。
 未読の方へのネタばらしはご法度なので詳細には書けないが,この作品では,犯人がなぜ地下の空洞で殺人を行わねばならなかったのかについて,とくに明確な理由がない。いや,探偵は説明したつもりなのかもしれないが,アリバイを目的とするなら,このような発見されにくい犯行現場には意味がない。逆に,「サバ」というダイイングメッセージのわかりにくさも説明がつかない。もし被害者が犯人を示したかったのなら,堂々と名前や殺害方法を記せばよいのだ。この状況では,犯人に消される心配など別にないし,消されるなら何を書こうが同じなのだから。
 「サバ」に続いて「ミソ」なるダイイングメッセージが残される第二の犯行は,第一の犯行に比べれば目的はわからないでもない。しかし,第一の犯行同様,作者が「密室殺人」「ダイイングメッセージ」を描くために起こされた感は否めない。

 その他,本作について文句を言い出せばキリがない。
 登場人物の一人が何十回も繰り返す「なんだ,ほりゃ」「なんじゃ,ほりゃ」という口癖はうるさい限りだし,刑事の部下の妻についてのやり取りもしつこくてうざったい。それ以上に鬱陶しいのが,探偵役の青年が突拍子もない警句を撒き散らすことだが,これについては作者も確信犯的なところがあるらしく,とりあえず是非は問わないでおこう。

 そして,一番残念だったことは,探偵の青年は葬儀屋として事件にかかわってきたにもかかわらず,彼が葬儀屋であるという事実は全編を通してとくに何の布石にもなっていなかったことである。
 実は今回,これほど酷評する作品を捜し求めて読んだ理由は,探偵が葬儀屋である,という一点につきたのである。これについては,次回に続けて取り上げたい。

先頭 表紙

もし皆様が誰かに殺されかかって,もしそこでダイイングメッセージを残したいと思われたなら,オススメしたいのは,顔でも胸でも,自分の体にツメでかきむしって犯人の名前を書き残すことです。被害者は必ず解剖されますし,それを消すのはまず不可能。書かれた部分を切り取られたら? いやいや,そんな余裕がある犯人なら,そもそもダイイングメッセージなど残すいとまもなく,きちんととどめを刺すに違いありません。その際はあきらめて天国にまいりましょう。 / 烏丸 ( 2003-08-11 21:46 )
ダイイングメッセージですが、よく床や壁に血文字でえらくわかりにくいことが書き残されていた,ということになっている。たいがいは,直接犯人の名前を書くと犯人が戻ってきて消してしまうから,という説明で押し通していますが,生死の境目で被害者にそこまで知恵が働くものでしょうか?(スペードのジャックを手に,なんてもってのほか!) / 烏丸 ( 2003-08-11 21:34 )
次回を楽しみに待っておりまする。そのダイイングメッセージの件、ワタシも昔から不思議でした。何故殺されてまで回りくどいんだ被害者たちよ… / 皮肉屋彦左衛門 ( 2003-08-11 13:18 )

2003-08-03 企業人必読! 『社長をだせ! 実録 クレームとの死闘』 川田茂雄 / 宝島社


【「あなたね,これは,いるのいらないのの問題じゃありませんよ。」】

 好著である。
 サポートセンター,サービス窓口など,インバウンド接客を主業務とする部署の方はもちろん,営業企画や製品開発にかかわる方々にもぜひとも読んでいただきたい。

 本書の構成はきわめてシンプルで,とあるカメラメーカーで製造部門,消費者相談室,サービスセンター所長等を務め,数多くのクレーム処理にあたってきた著者が,その経験をもとにクレームとそれに対する対応を語る,というもの。当然ながらカメラ,レンズという製品に固有のクレームが少なくないが,クレームなるものの本質,それに対する処置,対策が平易な文体でまとめられており,その内容は業種を超えて説得力がある。

 たとえば,海外旅行にカメラを持っていったが,その故障のせいで貴重な写真がすべてダメになった,旅行費用を全額弁償してほしい。そうでないならそれに匹敵する金額のカメラ,レンズが欲しい……そう主張して説得に応じず,自分の言い分が通らないと泣き,わめく女性。
 クレーム対応のポイントは「さじ加減」にある。正直言って,この著者の対処がすべての場合に正しかったとも思えない。たとえばある事例で著者はクレームをしかけてきた相手に対し何十万円かを手渡そうとする。結果的に渡さずにすんだとはいえ,一般的にそれがよい対応とは思えない(相手が総会屋スジなら思うツボである)。さりとてこの事例でほかにどのような対処があり得たかといえば,わからない。それがクレーム処理の難しさだ。

 また,これは経験的にいえることだが,クレーム処理には向き,不向きがある。低姿勢に出なくてはダメだが卑屈に謝り通してもダメ。顧客の側に立つことは大切だが,一緒に会社やサービスの悪口を言ってるようではダメ。トークの中に顧客の言い分が法的に通らないことを交えなければならないが,だからといって高圧的になってはダメ。つまりは,顧客の言い分を承りつつ企業として主張すべきは主張し,丸く四角く好感を持たれなくてはならない。風貌や服装,髪型,声のトーンなども影響するだろう。

 知人にクレーム対応のスペシャリストがおり,いざヘビークレームが発生したと聞けば「いやーまただよ,まいった」と口ではぼやきつつ喜色満面で日本全国どこへでも飛んでいく。技術やサービスオペレーションについての知識はけっこういい加減なのだが,にもかかわらず重大クレームをなんとなく片付ける。あげくに全国に彼のいうところの「お客様」,つまりお友達にしてシンパの情報源を得てしまう。
 彼の場合,組織運営や管理面では何度もトラブルを起こしているのだが,ともかくクレーム対応のプロとして評価を受け,役職とは別に,常に部長待遇を受けているらしい。

 ただ,かつて東芝事件で話題になった人物がそうであったように,業者側から一種「有名人扱い」されるような,クレームのスペシャリストが存在することもまた事実だ。
 ある電気製品の業界では,もう十数年も前にある製品を購入し,些細な問題点を騒ぎ立てて代金を払わず(ここまでならまだわかる),その問題点についていつまでもしつこくクレームを発し続け,担当者を呼びつけては新品と交換させ(ここまでもまだ理解できるが),あげくにその製品について新製品が発売されるたびになんだかんだと持ってこさせ,一度も代金を払わないままに十数年間新しい製品を使い続けているという人物がいる。
 この例ではメーカー担当者の初動がまずかったのだろう……と批判するのはたやすいが,実際にここまで横暴な顧客(正確には顧客とすら言えないか)に自分がとりつかれた場合を思うと,想像しただけで脂汗が吹き出しそうである。

 自分でもライトからヘビーまで,何度かクレーム処理に苦労したこともある。
 そんな経験から漠然ととらえていた顧客のクレームを,本書のように【ごね得型】【プライド回復型】【神経質型】【新興宗教型】【自己実現型】【愉快犯型】などときちんと分類してもらえると,過去のそれぞれの例が顧客のタイプ,目的,クローズの仕方など,非常に明確になったような気がする。
 また,このクレームの分類において,著者が【泣き寝入り型】,つまりクレームを言ってこない顧客こそが企業にとって最も厳しいクレームである,と指摘するのには目を洗われる思いがした。確かにそういった顧客を放置することは,その企業,製品からの顧客離れを進め,また製品やサービスの改善の機会を失うことでもある。
 サポートセンターは単に顧客の質問に答え,クレームを撃退するためにあるわけではないのだ。

 とにもかくにも,穏やかな口調で淡々と書かれてはいるが,奇妙な,あるいは過激なクレーマーたちの言動を読むだけでも十分読み応えがあるし,さらにそこからさまざまな企業対応のノウハウが読み取れる。中堅サラリーマン必読の1冊である。チーズや金持ちとーさんなどよりよほどオススメ。
 ただし,読んで万一つまらなくても,「くるくる回転図書館」にクレームのつっこみを入れてきたりしないように。

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※本評はベストエフォート型の私評であり,取り上げる書籍,コミックの紹介の品質を保証するものではありません。
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※本評の開封後はお早めにお召し上がりください。
※夏場はいたみやすいウニ,ウズラ玉子のお持ち帰りはお断りしております。

先頭 表紙

なるほど。では,カラスが架空の書物の書評を書いて遊んだこちらの『暴走』の項もご覧いただければ,笑っていただける,かも。 / 烏丸 ( 2003-08-11 21:22 )
過去に一時期サポート業務の末席を汚していた者としても非常に興味があります。これは旧仲間たちにも薦めてみようかとワタシも思っておりまする。良い本のご紹介、ありがとうゴザイマシタ。 / 皮肉屋彦左衛門 ( 2003-08-11 13:20 )
皮肉屋さま,本書をして,うちの会社の「夏の課題図書」に指定,感想文を提出させてはどうか,なんて考える今日このごろであります。 / 烏丸 ( 2003-08-11 02:24 )
このカバーがまたイイですな。(笑) / 皮肉屋彦左衛門 ( 2003-08-05 00:28 )
あややん,お久しぶり〜♪ カラスは昔,クレーム電話1本の間に「バカか」と四十数回罵倒されたことがあります。正正正と書いて数えたの。面白かったのはその電話,まずカラスが出て,「上司と変われ」と言うからカラスの部下に変わって,「お前じゃ話にならん,もっと上司と変われ」と言うのでもう一度カラスが(ちょっと声を低くして)出たのでした。 / 烏丸 ( 2003-08-04 00:39 )
ははははは!とっても面白い書評でした。クレーム処理には人並みならぬ思い(いれ?)があります。この本はぜひ手にとってみます。 / あやや ( 2003-08-03 20:57 )

2003-07-29 たおやかな漢字遣いの魅力 『黒いハンカチ』 小沼 丹 / 創元推理文庫


【──お這入んなさいな,なんて変だわ。】

 昭和32年4月から翌年3月までというから……もう45年以上も昔,雑誌「新婦人」に「ある女教師の探偵記録」とサブタイトルを付して読切連載された短編作品の初文庫化。
 探偵役はA女学院のニシ・アズマ先生。小柄で愛嬌のある顔をした彼女は,その鋭い観察眼から,ふとしたきっかけをもとに事件を見つけ出し,控え目にその真相を説く……。事件といってもいくつかは窃盗や寸借詐欺の類で,全12話のうち1話にいたっては犯罪ですらない。また,血なまぐさい殺人事件においても犯人の動機やその逮捕は物語の外にあり,ささやかで成就しないアズマ嬢のラブアフェアのほうがむしろ心に残る。

 この作品をして,チェスタートンのブラウン神父の子孫,あるいは昨今の北村薫をはじめとする「日常の謎」系ミステリの祖とみなして論を張るのは不可能ではないだろう。しかし,どちらかといえばそれは牛刀をもっての類ではないか。『黒いハンカチ』の一連の作品にはブラウン神父譚のような論理のアクロバットは用意されていないし,「日常の謎」に素材を求めざるを得なくなった現代ミステリの枯渇感もない。悠揚たる筆致で描かれるは,女学院という女の園を主舞台とした,エスプリあふれる軽妙洒脱なプチパーティの記録である。
 実際,探偵小説の系譜の中で論じるより,同じ著者の『小さな手袋』(講談社文芸文庫)というエッセイ集の惹句に記された「日々のささやかな移ろいの中で,眼にした草花,樹木,そして井伏鱒二,木山捷平,庄野潤三,西条八十,チエホフら親しんだ先輩,知己たちについてのこの上ない鮮やかな素描」の一節のほうが,この作品の本質を格段によく表すものと思う。なるほどチエーホフが女性誌向けにユーモアミステリ短編を書いたら,このような雰囲気になるかもしれない。

 書かれた時代のせいもあって,本書では少しばかり古めかしい言葉遣い,正確にいえば「漢字遣い」に心を魅かれた。初めのほうのほんの十数ページをもう一度軽くひもといただけでも次のような具合である。

 「おやおや,さてはあそこで午睡でもする心算じゃなくて?」(ひるね,つもり)
 「それなら茲へお通しして頂戴な」(ここへ)
 「真逆……,こんな汚い所へお客さんをお通ししちゃ」(まさか)
 「二分と経たぬ裡に」(うちに)
 「まあ吃驚した。目覚時計のベルだったのね?」(びっくり)
 「卒業して暫く会わなかった」(しばらく)
 「頗る面白くなかった」(すこぶる)
 「兎も角,もう一度その専門家とか」(ともかく)
 「これ真物でしょうね?」(ほんもの)
 「狼狽てて呼び留めて」(あわてて)

 さりとて漢字の割合がそう高いわけではない。一般に,漢字が多いと「堅い」「固い」「硬い」文体,ひらがなが多いと「柔らかい」「軟らかい」文体とされるが,上記のような言葉が漢字で書かれていることが決して文体を硬直させていないのである。
 むしろ,これらの漢字遣いは,やまとことばが漢字で表記されてなお柔軟でたおやかな意味を含みもてることを示してくれるような気がする。『黒いハンカチ』にて採られた口調はややもすれば中間小説的であり,決して名文,美文調とは言いがたいが,それでも短冊に書くかのようにさらりと記された文言は日本語の機能の豊かさを嬉しく感じさせてくれるものである。

 収録12作品をミステリとしてとらえれば,とくにお奨めするようなものではないかもしれない。ミステリとして「頭に」残るようなものではないからだ。その代わり,本書はささやかに読み手の「心に」残る。
 ──そうじゃなくって?

先頭 表紙

2003-07-21 『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社


【けれどもあれは死んでいる うごかない…あれもレド・アールだ】

 どこで小耳にしたものか,長男が突然「アバンギャルドって何?」と言い出した。既存の権威や流派を否定する芸術上の手法,作品のこと……といった程度の知識は持ち合わせているが,しかし,これをピカソやシュルレアリスムはおろか,「芸術」という概念さえない小学生にどう教えればよいのか。モナリザが,ピアノ発表会の選曲が,書道の練習が,と回答に到る道とも思えぬあれやこれやの話題が飛び交って,あげくに我が家の食卓ではカンディンスキーのように,どちらが上だか下だかわからないのがアバンギャルドということとなった。

 言われてみれば,アバンギャルドという言葉に縁遠くなって久しい。1960年代,70年代には,ファッションや映画について,まだまだ日常的に耳にする機会が少なくなかった。「キーハンター」で大川栄子演ずる丸顔のお嬢さんがちょっと奇抜な洋服を着て現れると丹波哲郎がすかさず「アバンギャルドだねえ」とつぶやく,とか。
 一方,現在,ちゃんとした主旋律もなく,意味不明なつぶやきや自然音だけを組み合わせた音楽CDが発売されたとして,それが面白いか面白くないか,売れるか売れないかは語れても,アバンギャルドとは言われないような気がする。スタンダードがなければ,それに対するアンチも動機足り得ない,そういうことなのだろう。

 さらに加えて,単にコラージュ的であったり幾何学的であったり上下が判別不明であったりすることと,アバンギャルドとはまた少し異なるような気がしないでもない。シュルレアリスムや表現主義においても,ダリやキリコ,ムンクらはアバンギャルドとはまた違うような気がする。アバンギャルドという言葉が似合うためには,もう少し乾いてなくてはダメだ。たとえばピカソの「ゲルニカ」など。

 ひるがえって我が国のマンガ誌において,アバンギャルドなる言葉が雑誌単位で最もよく似合ったのは,虫プロ商事の月刊誌「COM」だったような気がする。たとえば「COM」と同時代,青林堂の「ガロ」に掲載されたつげ義春の「ねじ式」などは,悪夢を自動記述的に描くことにおいてシュルレアリスムの類縁にあるが,どうもアバンギャルドという言葉は似合わなかった。やはり,アバンギャルドを称するためには,(裏にいかなる七転八倒があれど)あくまでクールで既存のものにとらわれないドライさを持ち合わせていなくてはならない気がする。

 そして,1960年代の「COM」のアバンギャルドな空気を代表する作家の一人,それが岡田史子である。
 岡田史子については,かつて朝日ソノラマから発刊された『ガラス玉』を紹介しているので,そちらを参照いただきたい。

 岡田史子は萩尾望都をして「天才」と呼ばしめた稀代の短編コミック作家であり,その鮮烈さにおいて比較し得る対象を知らない。
 しかし,今回飛鳥新社から発刊された『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』は,残念ながら朝日ソノラマ版に比べておよそオススメに足るものではない。一人の作家の作品集を編み上げるにおいて,編集や監修の力はそう影響を及ぼすまいと考えるのが普通だ。朝日ソノラマ版と今回の作品集においても,かなりの作品が重複して収録されていることでもあるし……。
 だが,「ODESSEY」というおよそ岡田史子の作風に似合わないサブタイトルを含むごちゃごちゃした書名,表紙カットの選択,その色遣い,作品の収録順,著者への回顧談の依頼にいたるまで……あらゆる切り口からみて,本書は1冊の書物として最低の次元にある。

 岡田史子本人の思いがいかなるものであったにせよ,岡田作品は,プライベートな感傷とは別の次元で読み手に意味を問うものであった。際立って特殊な技法ではなかったにもかかわらず,それはアバンギャルドと呼ぶに足る衝撃を当時の読者,ことにマンガ家や作家をめざす者に大きなショックを与えたものだった。
 たとえば,作品ごとにタッチ,とくに登場人物の「目」の描き方を変えた「とらわれなさ」。作品内世界の木で鼻をくくったような会話の「不親切さ」。それらのすべてが読み手に突きつけられた問いの刃だったのである。

 それを,作家の家族構成だの,作品がコンテストで評価されるかどうかに一喜一憂するさまだの,要するに楽屋ネタばかり加えてどうするのか。いや,百歩譲って資料的価値ありとして掲載するまでは容認するとしても,作品そのものの魅力を邪魔せんばかりに巻き散らかしてどうするというのか。

 コミック作家としての岡田史子は,実際のところは,キャリア的にもテクニック的にも,およそプロといえる水準にはない。作家としてのキャリアを一望にしてみれば,決して商業的に成功したとはいえない「COM」という雑誌の,そのまた「投稿者」に毛の生えた程度の存在に過ぎない。その作品が……場合によっては佳作扱いで,雑誌の1ページに2ページ分ごと縮小されて掲載された程度の作品が,あれほどの衝撃を残したことを思い起こすべきだろう。それを,今さら40年近く昔の「投稿者」としての作者の等身大の姿を紹介することに何の意味があるのか。

 そもそも,このような作りの『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』を手にして,新たに岡田史子に衝撃を受ける者がどれほどいるだろう。本書は岡田史子という資源の浪費にすぎない。

先頭 表紙

いえいえ,もちろん岡田史子フリークの烏丸としては,ここで入手し損ねていたら痛恨失態河童の砂漠巡りとなるところでした。episode 2も発売されれば速攻で注文の心算。ただ,この1冊で岡田史子と初めて出会う人のことを思うと,余計なお世話ながらもちょっと心配……。 / 烏丸 ( 2003-07-29 01:35 )
ひぃぃぃぃ。いやー、私もまだ手に取ってなかったのですみません。朝日ソノラマ版は読んだことないので見てみたいものです。おわびに最近作ったブツを送らせていただいきますので、ちょっとお待ちを。 / けろりん ( 2003-07-22 20:43 )
それにしても,多分,マズいのは監修の青島なにがしと,それから岡田史子当人なのでしょう。あの時代,あの「COM」にあのような形で作品を発表した,ということの特異性が,当人たちにはかえってわかっていなかったということではないかと思います(朝日ソノラマの編集者は,そのあたりが非常にわかっていたものと想像されます)。 / 烏丸 ( 2003-07-21 03:47 )
けろりんさまからお誕生祝いにご紹介いただいた本をここまで叩きのめして,まぁどうしましょう。 / 烏丸 ( 2003-07-21 03:46 )

2003-07-14 『死と彼女とぼく』 川口まどか / 講談社漫画文庫


【 「オリは…… ハナをみてる」 「そうか花か キレイだもんな」 「うん キレイ」 】

 ……死者を見る能力を持つ少女,時野ゆかり。
 死者の声を聞く能力を持つ少年,松実優作……。

 死者の孤独と恐怖が見えてしまう,聞こえてしまう彼らの孤独は深く,少女はいっそそんな目を針でつぶそうか,薬で焼こうかとまで思いまどい,少年は聞こえないはずの声をかき消すために1日中ヘッドホンをはずさす,あげくに三度にわたって自ら鼓膜を破る。

 死者たちは天井のすみ,休んでいる生徒の机の下,ロックされた車の中,立ち読みする人のとなり,あるいは道にあふれ,ゆかりや優作の部屋に押し寄せ,泣き,わめき,騒ぎ,訴える。

 設定そのものはホラーマンガとして決して珍しいものではない。だから,本作をオーソドックスなホラー作品とみなすのはたやすい。が,ホラー作品とのみみなすのは難しい。

 もちろん,この作品においても,死者の多くは悪意に満ち,血まみれで臓腑をさらし,グロテスクだ。人としての姿形を維持していないものも少なくない。
 だが,死者の造形に対する作者の考えは明確で,「ほとんどの死者はどうしても内面をかくせなくなっていくの だってしかたないわ もともと肉体のない 心だけの存在ですもの」,そういうものである。
 つまり,たとえば事故の死のショックに動転して我を忘れた死者は顔の半分を喪った血まみれの姿で現れ,自分が誰かを思い出し,残された家族のことを思いやれば同じ死者が穏やかな若い父親のはにかみを見せる。悪意をもった死者は悪意を剥き出しにし,突然の死にとまどい,不安を隠しきれない死者はときどき子供の姿にフラッシュバックし,水に沈んでぶよぶよと膨れた死者は生者の優しさにふれたとき生前の姿に戻って涙を流す。
 逆に,どこまでも生者を呪ってやまない死者の肢体はゆがみ,凝固し,痛みに苦しみながらだんだん石化して身動きならないまま何年もその場で苦しんだり,熔けて動けなくなってしまったりする。

 本作では死者は生者同様に明るく,あるいは暗く,おしゃべり,あるいは無口,攻撃的,あるいは穏やかだ。……しかし,妄執に我を忘れて生者を呪う死者も含めてすべての死者が切なく,哀しい。
 なぜなら彼らはすでに死んでいるのであり,「生きていくことが 幸せの宝庫だと 気づいてしまって」,その限りではもうどうにも取り返しがつかないことを彼ら自身がよくわかっているからだ。

 死者の姿が見えてしまうゆかりは,死者たちからみると光ってよい匂いのするものらしく,死者はゆかりを見そめては彼女を追い,彼女に迫る。生者たる彼女の体を乗っ取ろうとする死者もあれば,性的虐待すら辞さない死者もいる。死者がゆかりをコントロールしきれないのは,結局のところ死者は死者であり,弱いからにすぎない。

 そんなゆかりの絶望を描く川口まどかの絵柄は,お世辞にも巧みとは言いがたい。
 感動的なシーンで登場人物の手足がドラえもんのそれのようであったり,キスシーンで優作の唇が河童の口のようだったりする。第一話から最新作にいたるまで,川口まどかの絵柄は大きく変化しているが,最新作にしてもせいぜいレディスコミックレベルの,デリカシーに欠けた大雑把な絵柄に過ぎない。ことに瞳や唇の描き方は山岸凉子や大矢ちき,萩尾望都,山本鈴美香らの開拓したテクニックを無視して,まるで60年代の少女マンガのようだ(60年代の週刊少女マンガ誌には,ままこのような絵柄のB級ホラーサスペンスが掲載されていたような気がする。もちろん,実際は川口まどかのほうが格段に洗練されてはいるのだが)。

 ……と,ここまでの大まかな紹介では,実はこの作品についておよそ語ったことにはならない。

 まず,互いにその予兆を知りながら,何年もかかってようやく出会うことのできたゆかりと優作の間の固い絆。この面において,本作は赤面しそうなほどの甘いラブロマンス,いやファンタジーの領域にある。

 いや,そんなことより,死者だ。

 かつて,いかなるホラーサスペンスにおいて,その死者(幽霊)が見えてしまう者をして,死者に対し
「そんなことばかりしてちゃ 暗闇に閉ざされて動けなくなるわ!! ひとり苦しむのは いずれ あなたよ」
「冷静に よーく考えることだ やりきれなさから 逃れたいのか やりきれなさの虜になりたいのか 自分を救うには最終的には 自分しかいないんだ 自分しかな」
「赤ちゃんはね どんな死者にでも さわろうとするわけじゃないの キレイで ステキな そして 幸せになって当然の 死者にしか 近よろうとしたりしない」
と語らしめるような作品があっただろうか。

 『死と彼女とぼく』の中では,時間はゆっくり流れ,ときには逆行して何年も昔のことが語られ,あるいは長きにわたって1人の死者と過ごした時が数コマの間に語られる。
 ある死者と出会い,その死者とゆかりと優作が語り合う穏やかな何日,何ヶ月,何年の月日。その死者がいつかはこの世界から消える(一種の成仏ということだろうか),その寂寥感。
 生き残った者たちを愛する死者,さらには誰という具体的な対象すら越えて人々の幸福を願う死者。

 説話文学というジャンルが喪われ,きまじめな道徳訓話が忌避される時代に,この作品のうちいくつかは,あらすじだけ切り出すと鼻につきそうなほど教訓的である。しかし,それが不快に感じられないのは,先に挙げたような教科書的,宗教説話的なセリフが,ゆかりや優作,あるいは死者たちのおかれた状況の切実さから発せられた言葉だからではないか。ただ死者を恐れ,逃げまどっていたゆかりと優作は,成長とともに,死者のいる生活に慣れ,死者たちの哀しみを見つめ,自分たちにできること,できないことを見すえるようになる。

 つまり,ここで語られる死者とは,ゆかりや優作にとっては(ほかの人間たちに見えない,聞こえないというだけで)閉じた,彼らの社会の構成員なのである。そして,人間社会において疎ましい,呪わしい人物がいるように,あるいは美しい,愛しい人物がいるように,あるいは暴力的なあるいは甘美な人物がいるように,死者たちにもさまざまな存在があり,さまざまなコミュニケーションの物語がつむがれる。

 だから,これはホラーサスペンスではなく,切ないまでのコミュニケーションギャップと,その裏返しとしての稀有なコミュニケーションの果実を描いた物語なのである。そしてそれは,ゆかりや優作が,あるいは死者が,自らの思いを伝え得ない,あるいは伝える相手をもち得ない子供であるときに,いっそう悲哀のこもった旋律が流れることになる。

 『死と彼女とぼく』の世界において,多くの死者は生きた人間以上に人間らしい。死者たちは呪い,攻撃し,願い,泣く。
 この作品世界で死者として存在することは,生半可な生者とは比較にならないほどあざらかに生きることなのである。

先頭 表紙

どうもありがとうございました! 烏丸師をうならせる文章は程遠いでありますが・・・あのキャラで今後も・・・?  遅くなりましたが・・・【お誕生日おめでとうございます】  / ムッシュ ( 2003-07-18 12:03 )

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