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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-07-29 たおやかな漢字遣いの魅力 『黒いハンカチ』 小沼 丹 / 創元推理文庫
2003-07-21 『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社
2003-07-14 『死と彼女とぼく』 川口まどか / 講談社漫画文庫
2003-07-07 アンリ・ミショー「安穏をもとめて」 〜あるコミック作品の前奏として〜
2003-06-30 『謎解き 少年少女世界の名作』 長山靖生 / 新潮新書
2003-06-15 『ゴースト・ラプソディー』(全2巻) 山下和美 / 講談社漫画文庫
2003-06-09 バリ島版陰陽師 『踊る島の昼と夜』 深谷 陽 / エンターブレイン BEAM COMIX
2003-06-03 『怪しい日本語研究室』 イアン・アーシー / 新潮文庫
2003-06-02 たまには少し辛口で…… 『毎月新聞』 佐藤雅彦 / 毎日新聞社
2003-05-26 [雑感] 旧石器捏造事件,プロ野球,100円USBケーブル


2003-07-29 たおやかな漢字遣いの魅力 『黒いハンカチ』 小沼 丹 / 創元推理文庫


【──お這入んなさいな,なんて変だわ。】

 昭和32年4月から翌年3月までというから……もう45年以上も昔,雑誌「新婦人」に「ある女教師の探偵記録」とサブタイトルを付して読切連載された短編作品の初文庫化。
 探偵役はA女学院のニシ・アズマ先生。小柄で愛嬌のある顔をした彼女は,その鋭い観察眼から,ふとしたきっかけをもとに事件を見つけ出し,控え目にその真相を説く……。事件といってもいくつかは窃盗や寸借詐欺の類で,全12話のうち1話にいたっては犯罪ですらない。また,血なまぐさい殺人事件においても犯人の動機やその逮捕は物語の外にあり,ささやかで成就しないアズマ嬢のラブアフェアのほうがむしろ心に残る。

 この作品をして,チェスタートンのブラウン神父の子孫,あるいは昨今の北村薫をはじめとする「日常の謎」系ミステリの祖とみなして論を張るのは不可能ではないだろう。しかし,どちらかといえばそれは牛刀をもっての類ではないか。『黒いハンカチ』の一連の作品にはブラウン神父譚のような論理のアクロバットは用意されていないし,「日常の謎」に素材を求めざるを得なくなった現代ミステリの枯渇感もない。悠揚たる筆致で描かれるは,女学院という女の園を主舞台とした,エスプリあふれる軽妙洒脱なプチパーティの記録である。
 実際,探偵小説の系譜の中で論じるより,同じ著者の『小さな手袋』(講談社文芸文庫)というエッセイ集の惹句に記された「日々のささやかな移ろいの中で,眼にした草花,樹木,そして井伏鱒二,木山捷平,庄野潤三,西条八十,チエホフら親しんだ先輩,知己たちについてのこの上ない鮮やかな素描」の一節のほうが,この作品の本質を格段によく表すものと思う。なるほどチエーホフが女性誌向けにユーモアミステリ短編を書いたら,このような雰囲気になるかもしれない。

 書かれた時代のせいもあって,本書では少しばかり古めかしい言葉遣い,正確にいえば「漢字遣い」に心を魅かれた。初めのほうのほんの十数ページをもう一度軽くひもといただけでも次のような具合である。

 「おやおや,さてはあそこで午睡でもする心算じゃなくて?」(ひるね,つもり)
 「それなら茲へお通しして頂戴な」(ここへ)
 「真逆……,こんな汚い所へお客さんをお通ししちゃ」(まさか)
 「二分と経たぬ裡に」(うちに)
 「まあ吃驚した。目覚時計のベルだったのね?」(びっくり)
 「卒業して暫く会わなかった」(しばらく)
 「頗る面白くなかった」(すこぶる)
 「兎も角,もう一度その専門家とか」(ともかく)
 「これ真物でしょうね?」(ほんもの)
 「狼狽てて呼び留めて」(あわてて)

 さりとて漢字の割合がそう高いわけではない。一般に,漢字が多いと「堅い」「固い」「硬い」文体,ひらがなが多いと「柔らかい」「軟らかい」文体とされるが,上記のような言葉が漢字で書かれていることが決して文体を硬直させていないのである。
 むしろ,これらの漢字遣いは,やまとことばが漢字で表記されてなお柔軟でたおやかな意味を含みもてることを示してくれるような気がする。『黒いハンカチ』にて採られた口調はややもすれば中間小説的であり,決して名文,美文調とは言いがたいが,それでも短冊に書くかのようにさらりと記された文言は日本語の機能の豊かさを嬉しく感じさせてくれるものである。

 収録12作品をミステリとしてとらえれば,とくにお奨めするようなものではないかもしれない。ミステリとして「頭に」残るようなものではないからだ。その代わり,本書はささやかに読み手の「心に」残る。
 ──そうじゃなくって?

先頭 表紙

2003-07-21 『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』 監修 青島広志 / 飛鳥新社


【けれどもあれは死んでいる うごかない…あれもレド・アールだ】

 どこで小耳にしたものか,長男が突然「アバンギャルドって何?」と言い出した。既存の権威や流派を否定する芸術上の手法,作品のこと……といった程度の知識は持ち合わせているが,しかし,これをピカソやシュルレアリスムはおろか,「芸術」という概念さえない小学生にどう教えればよいのか。モナリザが,ピアノ発表会の選曲が,書道の練習が,と回答に到る道とも思えぬあれやこれやの話題が飛び交って,あげくに我が家の食卓ではカンディンスキーのように,どちらが上だか下だかわからないのがアバンギャルドということとなった。

 言われてみれば,アバンギャルドという言葉に縁遠くなって久しい。1960年代,70年代には,ファッションや映画について,まだまだ日常的に耳にする機会が少なくなかった。「キーハンター」で大川栄子演ずる丸顔のお嬢さんがちょっと奇抜な洋服を着て現れると丹波哲郎がすかさず「アバンギャルドだねえ」とつぶやく,とか。
 一方,現在,ちゃんとした主旋律もなく,意味不明なつぶやきや自然音だけを組み合わせた音楽CDが発売されたとして,それが面白いか面白くないか,売れるか売れないかは語れても,アバンギャルドとは言われないような気がする。スタンダードがなければ,それに対するアンチも動機足り得ない,そういうことなのだろう。

 さらに加えて,単にコラージュ的であったり幾何学的であったり上下が判別不明であったりすることと,アバンギャルドとはまた少し異なるような気がしないでもない。シュルレアリスムや表現主義においても,ダリやキリコ,ムンクらはアバンギャルドとはまた違うような気がする。アバンギャルドという言葉が似合うためには,もう少し乾いてなくてはダメだ。たとえばピカソの「ゲルニカ」など。

 ひるがえって我が国のマンガ誌において,アバンギャルドなる言葉が雑誌単位で最もよく似合ったのは,虫プロ商事の月刊誌「COM」だったような気がする。たとえば「COM」と同時代,青林堂の「ガロ」に掲載されたつげ義春の「ねじ式」などは,悪夢を自動記述的に描くことにおいてシュルレアリスムの類縁にあるが,どうもアバンギャルドという言葉は似合わなかった。やはり,アバンギャルドを称するためには,(裏にいかなる七転八倒があれど)あくまでクールで既存のものにとらわれないドライさを持ち合わせていなくてはならない気がする。

 そして,1960年代の「COM」のアバンギャルドな空気を代表する作家の一人,それが岡田史子である。
 岡田史子については,かつて朝日ソノラマから発刊された『ガラス玉』を紹介しているので,そちらを参照いただきたい。

 岡田史子は萩尾望都をして「天才」と呼ばしめた稀代の短編コミック作家であり,その鮮烈さにおいて比較し得る対象を知らない。
 しかし,今回飛鳥新社から発刊された『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』は,残念ながら朝日ソノラマ版に比べておよそオススメに足るものではない。一人の作家の作品集を編み上げるにおいて,編集や監修の力はそう影響を及ぼすまいと考えるのが普通だ。朝日ソノラマ版と今回の作品集においても,かなりの作品が重複して収録されていることでもあるし……。
 だが,「ODESSEY」というおよそ岡田史子の作風に似合わないサブタイトルを含むごちゃごちゃした書名,表紙カットの選択,その色遣い,作品の収録順,著者への回顧談の依頼にいたるまで……あらゆる切り口からみて,本書は1冊の書物として最低の次元にある。

 岡田史子本人の思いがいかなるものであったにせよ,岡田作品は,プライベートな感傷とは別の次元で読み手に意味を問うものであった。際立って特殊な技法ではなかったにもかかわらず,それはアバンギャルドと呼ぶに足る衝撃を当時の読者,ことにマンガ家や作家をめざす者に大きなショックを与えたものだった。
 たとえば,作品ごとにタッチ,とくに登場人物の「目」の描き方を変えた「とらわれなさ」。作品内世界の木で鼻をくくったような会話の「不親切さ」。それらのすべてが読み手に突きつけられた問いの刃だったのである。

 それを,作家の家族構成だの,作品がコンテストで評価されるかどうかに一喜一憂するさまだの,要するに楽屋ネタばかり加えてどうするのか。いや,百歩譲って資料的価値ありとして掲載するまでは容認するとしても,作品そのものの魅力を邪魔せんばかりに巻き散らかしてどうするというのか。

 コミック作家としての岡田史子は,実際のところは,キャリア的にもテクニック的にも,およそプロといえる水準にはない。作家としてのキャリアを一望にしてみれば,決して商業的に成功したとはいえない「COM」という雑誌の,そのまた「投稿者」に毛の生えた程度の存在に過ぎない。その作品が……場合によっては佳作扱いで,雑誌の1ページに2ページ分ごと縮小されて掲載された程度の作品が,あれほどの衝撃を残したことを思い起こすべきだろう。それを,今さら40年近く昔の「投稿者」としての作者の等身大の姿を紹介することに何の意味があるのか。

 そもそも,このような作りの『ODESSEY 1966 2003 岡田史子作品集 episode 1 ガラス玉』を手にして,新たに岡田史子に衝撃を受ける者がどれほどいるだろう。本書は岡田史子という資源の浪費にすぎない。

先頭 表紙

いえいえ,もちろん岡田史子フリークの烏丸としては,ここで入手し損ねていたら痛恨失態河童の砂漠巡りとなるところでした。episode 2も発売されれば速攻で注文の心算。ただ,この1冊で岡田史子と初めて出会う人のことを思うと,余計なお世話ながらもちょっと心配……。 / 烏丸 ( 2003-07-29 01:35 )
ひぃぃぃぃ。いやー、私もまだ手に取ってなかったのですみません。朝日ソノラマ版は読んだことないので見てみたいものです。おわびに最近作ったブツを送らせていただいきますので、ちょっとお待ちを。 / けろりん ( 2003-07-22 20:43 )
それにしても,多分,マズいのは監修の青島なにがしと,それから岡田史子当人なのでしょう。あの時代,あの「COM」にあのような形で作品を発表した,ということの特異性が,当人たちにはかえってわかっていなかったということではないかと思います(朝日ソノラマの編集者は,そのあたりが非常にわかっていたものと想像されます)。 / 烏丸 ( 2003-07-21 03:47 )
けろりんさまからお誕生祝いにご紹介いただいた本をここまで叩きのめして,まぁどうしましょう。 / 烏丸 ( 2003-07-21 03:46 )

2003-07-14 『死と彼女とぼく』 川口まどか / 講談社漫画文庫


【 「オリは…… ハナをみてる」 「そうか花か キレイだもんな」 「うん キレイ」 】

 ……死者を見る能力を持つ少女,時野ゆかり。
 死者の声を聞く能力を持つ少年,松実優作……。

 死者の孤独と恐怖が見えてしまう,聞こえてしまう彼らの孤独は深く,少女はいっそそんな目を針でつぶそうか,薬で焼こうかとまで思いまどい,少年は聞こえないはずの声をかき消すために1日中ヘッドホンをはずさす,あげくに三度にわたって自ら鼓膜を破る。

 死者たちは天井のすみ,休んでいる生徒の机の下,ロックされた車の中,立ち読みする人のとなり,あるいは道にあふれ,ゆかりや優作の部屋に押し寄せ,泣き,わめき,騒ぎ,訴える。

 設定そのものはホラーマンガとして決して珍しいものではない。だから,本作をオーソドックスなホラー作品とみなすのはたやすい。が,ホラー作品とのみみなすのは難しい。

 もちろん,この作品においても,死者の多くは悪意に満ち,血まみれで臓腑をさらし,グロテスクだ。人としての姿形を維持していないものも少なくない。
 だが,死者の造形に対する作者の考えは明確で,「ほとんどの死者はどうしても内面をかくせなくなっていくの だってしかたないわ もともと肉体のない 心だけの存在ですもの」,そういうものである。
 つまり,たとえば事故の死のショックに動転して我を忘れた死者は顔の半分を喪った血まみれの姿で現れ,自分が誰かを思い出し,残された家族のことを思いやれば同じ死者が穏やかな若い父親のはにかみを見せる。悪意をもった死者は悪意を剥き出しにし,突然の死にとまどい,不安を隠しきれない死者はときどき子供の姿にフラッシュバックし,水に沈んでぶよぶよと膨れた死者は生者の優しさにふれたとき生前の姿に戻って涙を流す。
 逆に,どこまでも生者を呪ってやまない死者の肢体はゆがみ,凝固し,痛みに苦しみながらだんだん石化して身動きならないまま何年もその場で苦しんだり,熔けて動けなくなってしまったりする。

 本作では死者は生者同様に明るく,あるいは暗く,おしゃべり,あるいは無口,攻撃的,あるいは穏やかだ。……しかし,妄執に我を忘れて生者を呪う死者も含めてすべての死者が切なく,哀しい。
 なぜなら彼らはすでに死んでいるのであり,「生きていくことが 幸せの宝庫だと 気づいてしまって」,その限りではもうどうにも取り返しがつかないことを彼ら自身がよくわかっているからだ。

 死者の姿が見えてしまうゆかりは,死者たちからみると光ってよい匂いのするものらしく,死者はゆかりを見そめては彼女を追い,彼女に迫る。生者たる彼女の体を乗っ取ろうとする死者もあれば,性的虐待すら辞さない死者もいる。死者がゆかりをコントロールしきれないのは,結局のところ死者は死者であり,弱いからにすぎない。

 そんなゆかりの絶望を描く川口まどかの絵柄は,お世辞にも巧みとは言いがたい。
 感動的なシーンで登場人物の手足がドラえもんのそれのようであったり,キスシーンで優作の唇が河童の口のようだったりする。第一話から最新作にいたるまで,川口まどかの絵柄は大きく変化しているが,最新作にしてもせいぜいレディスコミックレベルの,デリカシーに欠けた大雑把な絵柄に過ぎない。ことに瞳や唇の描き方は山岸凉子や大矢ちき,萩尾望都,山本鈴美香らの開拓したテクニックを無視して,まるで60年代の少女マンガのようだ(60年代の週刊少女マンガ誌には,ままこのような絵柄のB級ホラーサスペンスが掲載されていたような気がする。もちろん,実際は川口まどかのほうが格段に洗練されてはいるのだが)。

 ……と,ここまでの大まかな紹介では,実はこの作品についておよそ語ったことにはならない。

 まず,互いにその予兆を知りながら,何年もかかってようやく出会うことのできたゆかりと優作の間の固い絆。この面において,本作は赤面しそうなほどの甘いラブロマンス,いやファンタジーの領域にある。

 いや,そんなことより,死者だ。

 かつて,いかなるホラーサスペンスにおいて,その死者(幽霊)が見えてしまう者をして,死者に対し
「そんなことばかりしてちゃ 暗闇に閉ざされて動けなくなるわ!! ひとり苦しむのは いずれ あなたよ」
「冷静に よーく考えることだ やりきれなさから 逃れたいのか やりきれなさの虜になりたいのか 自分を救うには最終的には 自分しかいないんだ 自分しかな」
「赤ちゃんはね どんな死者にでも さわろうとするわけじゃないの キレイで ステキな そして 幸せになって当然の 死者にしか 近よろうとしたりしない」
と語らしめるような作品があっただろうか。

 『死と彼女とぼく』の中では,時間はゆっくり流れ,ときには逆行して何年も昔のことが語られ,あるいは長きにわたって1人の死者と過ごした時が数コマの間に語られる。
 ある死者と出会い,その死者とゆかりと優作が語り合う穏やかな何日,何ヶ月,何年の月日。その死者がいつかはこの世界から消える(一種の成仏ということだろうか),その寂寥感。
 生き残った者たちを愛する死者,さらには誰という具体的な対象すら越えて人々の幸福を願う死者。

 説話文学というジャンルが喪われ,きまじめな道徳訓話が忌避される時代に,この作品のうちいくつかは,あらすじだけ切り出すと鼻につきそうなほど教訓的である。しかし,それが不快に感じられないのは,先に挙げたような教科書的,宗教説話的なセリフが,ゆかりや優作,あるいは死者たちのおかれた状況の切実さから発せられた言葉だからではないか。ただ死者を恐れ,逃げまどっていたゆかりと優作は,成長とともに,死者のいる生活に慣れ,死者たちの哀しみを見つめ,自分たちにできること,できないことを見すえるようになる。

 つまり,ここで語られる死者とは,ゆかりや優作にとっては(ほかの人間たちに見えない,聞こえないというだけで)閉じた,彼らの社会の構成員なのである。そして,人間社会において疎ましい,呪わしい人物がいるように,あるいは美しい,愛しい人物がいるように,あるいは暴力的なあるいは甘美な人物がいるように,死者たちにもさまざまな存在があり,さまざまなコミュニケーションの物語がつむがれる。

 だから,これはホラーサスペンスではなく,切ないまでのコミュニケーションギャップと,その裏返しとしての稀有なコミュニケーションの果実を描いた物語なのである。そしてそれは,ゆかりや優作が,あるいは死者が,自らの思いを伝え得ない,あるいは伝える相手をもち得ない子供であるときに,いっそう悲哀のこもった旋律が流れることになる。

 『死と彼女とぼく』の世界において,多くの死者は生きた人間以上に人間らしい。死者たちは呪い,攻撃し,願い,泣く。
 この作品世界で死者として存在することは,生半可な生者とは比較にならないほどあざらかに生きることなのである。

先頭 表紙

どうもありがとうございました! 烏丸師をうならせる文章は程遠いでありますが・・・あのキャラで今後も・・・?  遅くなりましたが・・・【お誕生日おめでとうございます】  / ムッシュ ( 2003-07-18 12:03 )

2003-07-07 アンリ・ミショー「安穏をもとめて」 〜あるコミック作品の前奏として〜


 「この世をうけいれない者は家を建てない。寒さを覚えずに風邪をひき,熱くもないのに熱がる」
 アンリ・ミショーの散文詩「安穏をもとめて」(思潮社『ミショー詩集』,小島俊明訳)はこのように始まる。

 「あんのんをもとめて」という何となく呑気で穏やか極まりない音感の題名とは裏腹に,そこで描かれるのは苛烈な男の生きざまだ。何が苛烈かといえば,その生きざまが,ことごとくずれているからである。彼は「まるで何もうち倒さないかのように,死刑執行人をうち倒す」,「渇きを覚えないのに彼は水を呑み,岩のなかへ平気で入っていく」。
 そして彼は「荷馬車にひかれて脚が折れても」「空気のない大暴風が彼のなかで吹き荒れ」ても,平和に思いをはせる。「地獄に堕ちて痛みもだえている平和,彼の平和,人びとがその平和以上だという平和に思いをはせる」のだ。

 ミショーが何を思ってこの作品を書いたのかは知らない。
 「彼」や「死刑執行人」「水」が何の暗喩(メタファー)であるのか,この「平和」がいかなる意味をもつ「平和」であるのか,まるでわからない。
 だが,この作品は心をうつ。正確にいえば,心をはがす,もしくは心をはぎ分ける。

 人間の衝動や,その衝動がもたらす行為,その結果。それらとはまるで別のところで,別の色合い,別の次元,別の音程で,常に願われ,常に描かれ,常に奏でられ続けられる希い。それが「安穏への思い」であるとするなら,ここで語られる「安穏」はただ一人の人間の生活における安逸などであるはずもない。単なる戦争と反対の状態としての平安などであるわけはないのだ。

先頭 表紙

おお,けろりんさま,貴重な情報をだうも〜。さっそく注文いたしました。「episode 1」というのがなんとも,スターウォーズみたいですね。 / 烏丸 ( 2003-07-14 00:45 )
フィー子さま,この烏丸,さすがにもう誕生日を祝う年でもありませんが,子供たちとケーキを買いにいくのはそれなりに楽しいものがあります。次男が,ケーキ屋にいくと,欲しいのがなかったり,長男の言動が気になったりで毎度毎度必ず涙を流すハメにおちいるのがまたかわいい。 / 烏丸 ( 2003-07-14 00:45 )
お誕生日祝いにプチ情報を。岡田史子さんの新刊が出ましたよ〜。詳しくは飛鳥新社のサイトでチェックを! / けろりん ( 2003-07-09 01:04 )
本当にいろんな分野の本をお読みですね。お誕生日おめでとうございます。 / フィー子 ( 2003-07-08 17:44 )

2003-06-30 『謎解き 少年少女世界の名作』 長山靖生 / 新潮新書


【(『若草物語』のジョーとローリィは)揃いも揃って,自分が現実に所有している性と,こうでありたいと望んでいる性が分裂している倒錯者なのである】

 試みは素晴らしく面白い。

 要は,「少年少女世界の名作」として扱われてきた過去の文学作品のあれこれをまな板に乗せ,これまでとは違う切り口で料理してみようというものである。
 取り上げられた作品は『フランダースの犬』『王子と乞食』『小公子』『宝島』『家なき子』『十五少年漂流記』『ドリトル先生物語』『ピーター・パンとウェンデー』『野性の呼び声』など,懐かしくも記憶に鮮やかな作品ばかりだ。

 だが,1つ1つの論評を読んでの印象は,残念ながらあまり鮮やかとは言いがたい。

 たとえば斎藤美奈子の『妊娠小説』『紅一点論』と比較してみよう。その差は歴然だ。過去の名作を思いがけない角度から切りほぐしてみせる手法は両者とも変わらない。しかし,斎藤美奈子の論評は,ある「名作とされている作品」読了後に残る一抹の怪しさ,信用しきれない頼りなさを,たとえば「妊娠小説」あるいは「紅一点」といった独自の視点から切って捨てる。つまり,斎藤論評では,「名作とされているが,どこか信用できないような気がする」→「この視点から見てみるとなるほど実に情けない」→「なぁんだ怪しいと思ったがやっぱりダメじゃん」と,一連の流れが強烈に「ツジツマ合ってる!」のである。

 一方,『謎解き 少年少女世界の名作』はどうか。
 なるほど,個々の論評は作者の経歴や時代背景をもよく調べ,論旨にもそれなりの説得力はある。しかし,それはいずれも一種の積み上げ的な情報でしかなく,あっと驚く意外さには乏しい。
 たとえば,『フランダースの犬』の悲劇が,絵を売ることを是としないネルロ少年の「謙虚というより,ひきこもり的な,性格欠損」にあるとする視点,さらにはそういったシャイで繊細な芸術家のイメージを愛好する傾向は日本人独特のもので,実は『フランダースの犬』は日本人にしか読まれていないという事実……。これらは児童書やアニメで『フランダースの犬』に親しんできた者には思いがけない指摘かもしれない。しかし結局のところ,著者はこの指摘をもって何を語ろうとしているのだろう。何を破壊,あるいは構築しようとしているのだろうか。
 『宝島』が契約精神に貫かれた経済的な物語であるとの指摘,教育と無関係に天才的に「よい子」として育った『小公子』の物語が子育てになんら役立ちはしないという指摘,孤児である『少女パレアナ』の「喜びのゲーム」は周囲の者たちへの執拗な攻撃であるとする指摘。これらはいずれも一見スジが通ってはいるのだが,では読み手はいったいそれをどう受けとめればよいのか。これらの「少年少女世界の名作」をもう名作扱いするのを止めるべきなのか,それとも反面教師として深読みしながら付き合い続けるべきなのか。

 期待が大きかったせいもあるだろうが,この企画ならもう少し技のふるいようがあったろうにと惜しまれてならない。たとえば一人の著者に任せるのではなく,中経出版『ウルトラマン研究序説』のように,さまざまなジャンルの専門家がさまざまな切り口から「少年少女世界の名作」を論ずるなど……。

先頭 表紙

円谷プロが持ち去ったというのは,今ひとつよろしくありませんな。たとえば企画を立てた編集者が印税をかっぱぎ,というのならまだ少しは許せますが……。『ウルトラマン研究序説』は,企画が中身(本文)を格段に上回る数少ない書物の1つだったように思います。 / 烏丸 ( 2003-07-14 00:44 )
中経出版『ウルトラマン研究序説』、ご存知でしたか。あれには知り合いも参加してたり。印税の大半は、円谷プロが持ち去って、みんなは1人5,000ちよいしかもらえなかったよし。 / mishika ( 2003-07-07 06:51 )

2003-06-15 『ゴースト・ラプソディー』(全2巻) 山下和美 / 講談社漫画文庫


【君は メロディーを 聴いたはずだ】

 「反体制」なんて言葉は今ではも死語というほどにも生き残っていないわけだが,それでも「権威」とされる何かについつい刃向かってしまう衝動というのはそこここに顕在する(問題は権威に刃向かうより弱いものを虐待する衝動のほうが生活やネットの上で数倍数十倍顕在していることなのだが……それはまた別の話)。

 山下和美は,とくにロックミュージシャンへの共感を描くことでそのあたりの攻撃性を追体感させてくれる稀有な作家の一人で……あったのだが,『天才柳沢教授の生活』という恰好の素材を得てブレークしてしまい,最近では次に何を描けばよいのかわからなくなったかのようにも見える。描きたいものがはっきりするまで描かないという選択肢もあるだろうに,出版社やアシスタント等とのしがらみもあるのだろうか,このところ迷走気味である。余計なお世話もいいところだろうが,何もしないのも創作行為の一環だと思うが……。

 さて,『ゴースト・ラプソディー』は山下和美の攻撃性がまだ明らかだった時代の好編だ。
 好みは分かれるだろうが,ここに描かれたジェットコースターのような,ロックミュージシャンの幽霊を含む四角関係の展開には,明らかに『柳沢教授』の連載の過程において作者が喪っていった,そして『不思議な少年』の読み切り掲載でも再構築できない何かがビビッドにほとばしっている。それは,主人公が,常に自分にとって必要な何かを追い求めている,その姿勢から出てくるものだ。それがピュアな恋愛感情であれ,一過性の快楽であれ,打算,欺瞞臭あふれる擬似恋愛であれ,かまやしない。求める高み,あるいはソリッドな手応えがあるということは,少なくとも作品世界では何にも増して主人公の言動を光らせるものなのだから。

 個人的には,主人公がライブのステージでミネラルウォーターか何かのボトルを投げ捨てる,そのボトルが宙に浮いたワンカットに最も魅かれる。描き手にそのつもりがあったか否かは知らないが,そのカットにみなぎる浮遊感と攻撃性は,この作品全体のテーマと(たまたま?)合致するもののように思われてならないからだ。

 要は,ここ十冊分ばかりの『柳沢教授』を読むくらいなら,そんなものあブックオフにでも投げ込んで山下和美の旧作を読んでみてはいかが,つーことである。
 『柳沢教授』については,あっさり終わってしまったつまらないテレビドラマに対しても言いたいことの一つ二つなくもないが,正直言ってほとんどテレビを見ない者には最近のテレビドラマは文法レベルで理解できないので……。

先頭 表紙

『喰いタン』2巻。早くもネタに詰まった感はありますが,主人公のしあわせそうな顔を見るだけで価値ありです。行列のできるラーメン屋に並びながら,ほかのラーメン屋から出前をとるシーンは圧巻。しかし,巻末の爆発ネタは無理だと思うぞ。 / 烏丸 ( 2003-06-15 02:12 )
『空想科学エジソン』のカサハラテツローが「4年の科学」に連載した『ヴァイスの空』(原作あさりよしとお)が単行本化なりました。はっきり言って古いSFジュブナイルには何度も登場するような設定,展開ではありますが,やっぱり泣けます。これをリアルタイムに読めた去年の4年生くん達はしあわせだね。 / 烏丸 ( 2003-06-15 02:11 )
コミックレポート,いくつか。『ヒカルの碁』22巻。主人公がその競技の本当の魅力を理解しないうちから強力なコーチの指導で鍛えられ,そのコーチを喪った慟哭の中,国際ジュニア大会で自分自身の実力を発揮していく。……『エースをねらえ!』みたい。しかし,ストーリーがこうシリアスになってくると,黒髪と茶髪を組み合わせたヒカルの髪型が……。 / 烏丸 ( 2003-06-15 02:11 )

2003-06-09 バリ島版陰陽師 『踊る島の昼と夜』 深谷 陽 / エンターブレイン BEAM COMIX


【「それほどの事態」だったってことだよ】

 これまでここ「くるくる回転図書館」で紹介してきた深谷陽作品は次のとおり。
  『アキオ紀行 バリ』
  『アキオ無宿 ベトナム』
  『運び屋ケン』
  『レディ・プラスティック』
  『楽園夢幻綺譚 ガディスランギ gadis langit』
 要するに単行本化されているもの,全部。しかし,これらはすべて品切れか絶版で,今はもう手に入らない。知名度,読み手の皆さんからの反応を考えると,取り上げ方が少々度が過ぎているかもしれない。また逆に,深谷作品を語ることで何かを伝えようとか,そんな目論見や手応えがあるわけでもない。

 実際のところ,深谷陽の作品は,誰にでもお奨めできるわけではない。絵柄やストーリーテリングはもっちゃりしているし,登場人物はパターンが限られている。バリ島やベトナムの風俗習慣をリアルに描くという点では独特だが,その点についてはデビュー連載『アキオ紀行 バリ』での描き込みが圧倒的で,それ以降の作品はそれほどでもない……。

 などなど,言い訳めいたことを並べてしまったが,要は面白ければよい。その意味で,この5月に発売されたばかりの『踊る島の昼と夜』はなかなかの……いや,かなりお奨めの1冊である。
 舞台は(深谷得意の)インドネシア,バリ島。主人公は和風居酒屋“KAMAKURA”の日本人オーナー・ヨリトモ(通称)。日本人旅行者のよき相談相手である彼には,不思議な力を操る“裏の顔”があった……。

 つまり『踊る島の昼と夜』は,バリ島を舞台にした,バリ島ならではのオカルトホラー短編集である。
 ホラーといっても,角川ホラー文庫によくあるずちゃずちゃぬたぬた系ではないし,『新耳袋 現代百物語』のように日常生活の中にすっと異界が入り込んでくるといったタッチでもない。日本でいえば貴船神社の丑の刻参り,藁人形に五寸釘,あの「呪術」系の話である。かなり原始的で,それがバリという空間を舞台にしているため,一種独特なリアリティを持つわけである。

 たとえば,部屋に異変(ポルターガイスト)が続き,玄関を開けると表札代わりの名前のタイルに緑の蛇が囲むように置いてあった……。あるいは,島で出会った若者に,観光用でない祭りに連れていかれたあげく,「誰かにちゃんと祓ってもらわないと3日以内に死ぬぞ」と言われてしまう。ヨリトモはいかに彼女たちにかけられた呪術を暴き,敵を倒すのか……などと書くとまるで必殺なんとか人シリーズだが,ヨリトモにしても狙われた日本人女性を助けるのはあわよくば彼女たちとひとつよろしい関係になろうというシタゴコロ丸出し,決して道徳的な人物とは言いがたい。つまるところこれは,浮世離れした「神」と「魔」の島における,呪術を小道具とした大人のコメディなのである。

 ……と,毎度のごとくとりとめもなく終わるしかないのだが,本書では各短編にそっと登場する“サトミサン”が魅力的だ。
 白い服の“サトミサン”は午後の光の中,日傘をさしてどこかに歩いていくのだが,誰も話しかけることができない。本当の名前も,どこに住んでいるのかもわからない。声をかけようとしても,不思議と近づくことができないのである。「バリに想いを残して死んだ日本人OLの幽霊」なんて説さえある。……

 夜の呪術と昼の“サトミサン”。
 対するのがストイックな安倍晴明ならぬ和風居酒屋の女たらしオーナーであるあたりがほどよいサジ加減であろうか。

先頭 表紙

『無宿ベトナム』がお気に召したのでしたら『紀行バリ』はオススメですね。ただ,発行部数は多くはなかったでしょうし,また購入した物好きは簡単には手放さないでしょうから,古本屋でも入手は簡単ではないかもしれませんが。それにしてもこういう人がシレっと出てくるから,モーニングはじめ講談社系の青年誌はチェックを欠かせません。 / 烏丸 ( 2003-06-30 01:58 )
無宿ベトナムだけ、持ってます。なんか大好きなんですよ。一緒に売っていたバリを買わなかったのを後悔しています。烏丸さんのレビューを読んで、今からでも探してみたくなりました。 / みなみ ( 2003-06-22 20:07 )

2003-06-03 『怪しい日本語研究室』 イアン・アーシー / 新潮文庫


【G7でこの問題についての協議がなされないというふうに断定的にとることは必ずしも正しくないというふうに思っとるんです。】

 帯の惹句に「読書中,お腹の皮がよじれることがあります」とあるが,内容はいたってまじめな日本語論考エッセイである。
 著者のイアン・アーシー氏はカナダ出身の「和文英訳」翻訳家。スキンヘッドの著者近影を見ると目つきの怪しいボブ・サップみたいで,こういうのがUFOから降りてきて流暢な日本語で話しかけてきたらちょっと怖そうだ。

 本書ではまず「外人」「我が国」という言葉に見え隠れする日本語における属人,属地域的な特性から書き起こし,さまざまな切り口の日本語論を展開する。
 著者は通算で十年以上日本に暮らし,そこらの平均的日本人よりよほど日本語に堪能なのだが,それでもぶつかる言語的障壁に日本語の特性が浮き彫りにされていく。

 たとえば,日本語での一人称,二人称の難しさ。
 あるいは「線をもうちょっと細く書かれたほうがいいんじゃないですか」「正しいんじゃないですか」といった曖昧な言葉遣い(実はこれらは曖昧なわけではなく,「線をもっと細く書いたほうがいいよ」「○×って,日本語として正しいよ」と真意のほどは明快なのである)。
 もしくは,「OL」「TPO」などのアルファベット略語,「パソコン」「セクハラ」などのカタカナ略語,「どたキャン」「朝シャン」「ボキャ貧」「MOF担」などの和洋折衷略語,はては「キムタク」「ブラビ」「橋龍」などの人名略語にいたる省略好き。
 など,など,などなどなど。

 かなり攻撃的に語られるのは,社長の挨拶文や官庁用語,つまりは「権威スジ」の用語用法である。

 著者が用意した架空会社の架空の社長ご挨拶文はまったく馬鹿馬鹿しいほど内容が空疎で,そのくせいかにも日本中の社長が挨拶文に用いていそうな立派なシロモノである。

 また,「整備」という言葉に代表される霞ヶ関の日の丸官僚言葉。
 パソコンを買ってくる,でなく「パソコンの整備」,道路に木を植えるのは「街路樹の整備」。著者が実際の役所書類から見つけ出してきた,次の文言群の意味ははたしてご想像いただけるだろうか(答えはあとで)。
   非自発的離職休職者
   語学学習意欲の高まり
   各主体の自主的対応尊重
   緑資源の基盤が脆弱化する
   人的資本の流動性の拡大のため,環境整備を行う
   平均的な勤労者の良質な住宅確保は困難な状況にある
   円滑な垂直移動ができるよう,施設整備を進めていく
   住宅のあり方が夫婦の出生行動に大きな影響を与えている
   制度を整備した上で措置する
     :

 ただ,著者はあれこれ途方に暮れることはあっても,決して日本語を見下しているわけではない。いやむしろ,とことん惚れ込んでいるといってよい。

 だから,ときにはその音や表記,構造の魅力を讃えあげる。
 一般にはカタカナ言葉を取り込んでだらしないとされることの多い近代の日本語だが,実は「十前後ある日本語の品詞のうち,外来語が大きく踏み込んでいるのは名詞と,その延長線上にあるものだけ」と論破する。実際,外来語をそのまま動詞として取り込んでいるのは「トラブる」「ダブる」などごくごく特殊な例だけ,形容詞も「ナウい」のようなケースはまれ,副詞にいたっては事実上外来語ゼロ。
 つまり,日本語は,外来語を広く無節操に取り入れているように見えて,実は骨格の部分は揺るがされていない。あらゆる外来語の品詞をいったん名詞化して取り込み,広く浅く分布はさせているが,実のところ日本語の構造はほとんど影響を受けていない。むしろ,日本語の文法に飲み込んでしまっている,というのである。
 カタカナ言葉の多さを卑下する文章は数あれど,このような視点から明快に例を示して語る文章にはあまり記憶がない。おかげでなんとも豊かな気分にひたれた次第。

 なお,先に示した整備文体の著者による口語訳は,以下のとおり。
   クビになって仕事にあぶれている人
   外国語ブーム
   みんな勝手にやればいい
   緑が少なくなる
   転職しやすくする
   普通のサラリーマンは家を買えない
   エレベーターを入れる
   うちが狭いから子供はもうつくれない
   少しあとでやります

先頭 表紙

2003-06-02 たまには少し辛口で…… 『毎月新聞』 佐藤雅彦 / 毎日新聞社


【本当に正しく理解すれば両者の長所や欠点がわかるし】

 佐藤雅彦は「ポリンキー」「バザールでござーる」「だんご3兄弟」等の仕掛け屋なのだそうだ。企画事務所を運営するかたわら,慶應義塾大学教授を務め,竹中平蔵との共著『経済ってそういうことだったのか会議』(日本経済新聞社)をものし,ゲームソフト『I.Q』(ソニー・コンピュータエンターテインメント)を開発,NHK教育番組『ピタゴラスイッチ』を担当。
 なるほど,ピカピカの職業インテリである。テレビCM,慶応,竹中,日経,NHK……見事なまでにハナモチナラヌ取り合わせといっていいだろう。SCEが入っているのが逆にソニーの昨今の内情を露呈するようで,物悲しさがつのる。

 問題は,こういった職業インテリは,『ロシアは今日も荒れ模様』の米原万里の例でも顕著なように,世間一般的にみればまずまず興味深い情報や視点を提供してくれ,手軽でウィットに富んだ(ように見える)プチ・インテリゲンチャな気分を満喫させてくれることである(佐藤雅彦の一部の著作のタイトルが『経済ってそういうことだったのか会議』や『プチ哲学』であることはその意味でなかなか示唆的だ)。したがって,彼らはえてして高い人気をほこり,またサブカルチャー派より半歩ばかり高いステータスをお持ちのようにふるまわれることが少なくない。

 ……と,思い切りこきおろした書き起こしから始めてしまったが,今回取り上げる『毎月新聞』はそれほど不愉快な書物というわけではない。これは著者が毎日新聞紙上で1998年の秋から4年にわたって「毎月新聞」という月一のコラムを掲載し,日常の不可思議や物事に対する新しい見方を世に問うたものである。おそらく,本書収録の48のコラムに「はっ」としたり,我が意を得たりと手を打つ方も少なくないのではないか。

 たとえば,表紙にも流用されている「じゃないですか禁止令」など,なかなか面白い。著者は最近の若者から中高年齢層にまで広まった「じゃないですか」という物言いに,誰かがその言葉を用いた瞬間にそれが既成事実と化したかのように思えること,それは同時に自分の責任を一般論に置き換えるずるさをもった便利な言葉であること,を指摘する。だから禁止しよう,と。なかなかパワフルな切り込みである。
 実は,僕自身,ある関連会社の若手役員がこの「じゃないですか」をなかなか巧みに連発するのに苦戦した経験もあり,この指摘には納得できるものがあった。もちろん,今後は勝ち目の薄い会議などで「じゃないですか」を要所要所で連発していこうと考えている。

 しかしその一方,なんというか,著者が頭でっかちな,理屈だけで働いてきたことを感じる部分も少なくはない。たとえば,自分が経済であるとか,音楽であるとか,特定のジャンルに疎い場合,それについて何か教えてもらうと必要以上にその内容を紹介したがる面。あるいは,田舎の葬式のように,自らの日頃の生活とかけはなれたものに出会うと妙に大仰に取り上げたがったりする面。
 巻末の付録エッセイ「テレビを消す自由」では,故郷の高齢の母親が自分の好きなテレビ番組を見たあとで迷いもなくテレビを消す姿を見て,「僕達」はテレビを楽しむ自由と同時にテレビを消す自由も持っているのだ,と気がつく……これはまったく馬鹿げた指摘で,リモコンの登場とともにテレビジャンキーと化して,面白い面白くないにかかわらずテレビを消さないのは「僕達」などではなく「僕」=佐藤雅彦だったはずなのだ。

 当たり前のことだが,世の中というものはさまざまで,別の地域(単に都道府県市町村といった括りではない)に行けば別の地域の生活やものの考え方,別の社会にいけばそれぞれの社会のスペシャリストがその社会で機能している,という,それだけのことを,佐藤雅彦はしょっちゅう見失ってしまうらしい。そして,(かなり狭い)自分の世界に相容れないものと出会うと,その都度その衝撃を読者と共有したがるのである。
 妙なたとえかもしれないが,新大陸を「発見」してみせた大航海時代の船長たちのことを思い出さないでもない。それは欧州の王宮で報告を待つ身にはなかなか興味深いレポートだろうが,発見される側にしたら面白くもなんともない話である。「デジタル」という言葉に対する過剰反応,カマキリが1匹部屋に飛び込んだだけで大騒ぎする感覚。こういう人物は20世紀と21世紀の切れ目だとか,インターネットの普及などにも大袈裟な反応を示しがちである。もちろん,それがいけないわけではない。需要があるところには,供給がなされるべきなのだ。

 ところでこのコラム「毎月新聞」には,毎回,(あのだんご3兄弟のタッチの)「ケロパキ」という3コママンガが掲載されている。はっきり言って,おだやかですこやかなカエルのケロパキ少年の日々を描くこの作品は,高校教師の説教臭い本文より格段に好感が持てる。定価1,300円(税別)の本書だが,このケロパキを読むために1,100円くらい出しても惜しくないといったらほめすぎだろうか。

先頭 表紙

ただ,自分の周りの何人かの視野の狭さ,頭の堅さを例にして,それが「世間」や「社会」,「若者」の平均を表すかのような(それに対してまるで教師然と訓示を垂れるような),そんな角度の書き方はなるべく控えてほしいものです。 / 烏丸 ( 2003-06-03 01:02 )
本文いささか辛口ですが,大半が「こういった人々」への不快感の露呈であって,本書そのものは手にとって損はないものと思います。実際「おっ」と思わされるような指摘の類もいくつかありますし,要は読み手がどれだけ吸収,活用できるかなのでしょう。 / 烏丸 ( 2003-06-03 00:59 )
この本、本屋で見て気になったんですが・・。佐藤氏の描くマンガやアニメは好きです。「プチ哲学」はオリーブで連載していた頃からチェックしてたし。なんだかんだ言ってもうまいんですよね。(^^;) / けろりん ( 2003-06-02 18:09 )

2003-05-26 [雑感] 旧石器捏造事件,プロ野球,100円USBケーブル

 
 東北旧石器文化研究所の藤村・元副理事長がかかわったとされる前期・中期旧石器遺跡について,180以上の遺跡のうち162遺跡で捏造が確認された。要するに彼の「発見」はすべて「捏造」だったということだ。捏造が暴露された際,この「くるくる回転図書館」でも「もし最初の1つがフェイクなら,全部チャラ」ということを指摘したが,結局そうなったわけだ。
 藤村氏の行為を責めるのはたやすい。しかし,問題はむしろ162回にわたって繰り返された捏造をチェックできなかった考古学会の怠慢……否,そもそも学説としてきちんと発表,検証されてもいないレベルで「発見」イコール「通説」としてまかり通してしまった体質のほうだろう。
 それは,少なくとも科学的な姿勢ではない。

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 あまり指摘されないようだが,ヤンキースの松井秀喜のプレイはつまらない。
 49試合を経て3本のホームラン,2割6分台の打率がものたりない……それも事実だが,それだけではない。もっとスポーツ観戦の根幹にかかわること,つまり,わくわく,どきどきしないのである。体が重そうだし,こねるようなバッティング,再三のセカンドゴロがなんだかいかにも思い切りが悪そうで,すっきりしない。
 打てなければブーイング,打たれればマイナー送り,それがMLBの痛快さ,ひいては魅力だったのではなかったっけ。

 ひるがえって,日本のプロ野球が今年はなかなか面白い。
 各チームとも中継ぎ,抑えの強化や調整に大失敗したらしく,やたら大差をひっくり返される逆転試合が少なくない。終盤で5点差や6点差あってもちっとも安全圏ではない。年がら年中荒っぽい試合ばかりというのも困るが,とりあえずフランクリン・ルーズベルトも言ったように「もっとも面白いのは8対7の試合だ」。7回を終わって7対2の試合が,終わってみれば同点,延長,大逆転! 見る側からしてみればまことにけっこうなことではないか。
 ペナントレースが面白いのは,もう1つ,例によって金にものを言わせて強化を重ねたジャイアンツがいっこうにパッとせず,タイガースが2位に6.5ゲーム差をつけて独走していることがある。31勝のうちなんと22勝が逆転と,終盤の粘りがファンを沸かせているのも盛り上がりの材料だ。
 しかし。逆転が多いということは,冷静に考えれば序盤に先発投手が点を取られるケースが多いということだ。6月,7月に向けてまだまだセ・リーグもこじれそうである。こじれにこじれたあげく,ジャイアンツはヤクルトに足を掬われ,僅差でタイガース優勝,といったあたりがもっとも「沸く」展開だろうか。

 パ・リーグではダイエーの若手投手陣をおおいに応援したい。寺原,杉内,和田,新垣……松坂と競い合って,客を呼べるパ・リーグにしてほしいものだ。

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 最近,ノートPCが新しくなったのに合わせて,コンパクトフラッシュの512MBのものを購入。1万円あまりで買えて,驚いた。何年か前,デジカメが登場して浸透し始めたころには,8MBや16MBの製品が1万円以上していたような記憶がある。
 コンパクトフラッシュは相次いで登場するメモリカードの中ではすでに負け組みとまではいかないまでも,なんとなく進化の止まってしまった規格だが,大容量の製品が他のメモリカードより早く出ること,容量あたりの単価が安いことが魅力だ。512MBを無造作に使いながら,自分はこのまま容量について無神経になってしまうのだろうかと妙な危惧さえ覚える。

 廉価なPC器具といえば,近所の100円ショップにUSBケーブルがあった。1mのUSBケーブル,オス⇔オス,オス⇔メスがいずれも100円である。
 机の下のデスクトップ機の背面からUSBケーブルを引き回すのが面倒と日ごろから感じていたので(さりとてUSB HUBを購入するほどの用途でもない),1本買ってきたが,缶コーヒー1本より安いとはなんともメーカーが気の毒になってしまう。自分が買っておいてなんだが,いったい100円ショップでUSBケーブルを購入する者がどれほどいるというのだろうか……。

先頭 表紙


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