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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-05-04 『東京伝説 うごめく街の怖い話』 平山夢明 / 竹書房文庫
2003-05-02 『ほんとにあった怖い話 裏観光ガイド心霊スポット特集』 朝日ソノラマ ASコミックス
2003-04-21 [雑感] 鉄腕アトムの誕生日
2003-04-14 [非書評] 五大捕物帳
2003-03-31 『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』 ナンシー関 編・著 / 角川文庫
2003-03-24 事件の領域。 『Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて』 林 明輝 / 講談社モーニングKC
2003-03-17 ノートPC購入に向けての雑感(烏丸は電気手帳の夢を見るか)
2003-03-09 『剣豪 その流派と名刀』 牧 秀彦 / 光文社新書
2003-03-03 ですます調のファンタジー 『伝七捕物帳』 陣出達朗 / 光文社文庫
2003-02-24 ちょっぴりエッチな捕物帳 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』 横溝正史 / 徳間文庫


2003-05-04 『東京伝説 うごめく街の怖い話』 平山夢明 / 竹書房文庫


【だめ…この首がいいから…】

 「ある意味」という慣用句は,じっくり考えてみるまでもなく,もともとたいした意味は持たない。
 「米政府の選択はある意味正しい」「人の命はある意味地球より重い」などという文言は,大袈裟な雰囲気を取り除くと,実のところ何も言ってないに等しいのである。
 とはいえ,これが便利な用法であることは確かで,たとえば次のような使い回しはどうだろう。

 平山夢明の『東京伝説 うごめく街の怖い話』は彼の得意な心霊モノではないが,ある意味心霊モノよりよほど恐ろしい……。

 平山夢明は『怖い本』などで知られる怪談コレクターにして小説家。
 木原浩勝・中山市朗の『新耳袋』と比べるとやや作った感,つまり作為的なエンターテインメント臭は否定できないが,市井から取材した体験談の素朴さ,得体の知れなさに,こなれた怪談の物語性がほどよくブレンドされている。そのくせ一話一話は引き締まって短く,展開に弛みがない。
 もっとも,弛みがないということは,「出るか,出るか……でっ,出た〜っ!」といった演出には適さないわけで,稲川淳二の怪談と比べればその利用法(?)はまるで違う。女子大生をスタジオに集め,青いライトを揺らして悲鳴を上げさせるのには向いていないだろう。

 さて,新刊の文庫書き下ろし『東京伝説 うごめく街の怖い話』である。
 平山夢明には,類似タイトルの『東京伝説 呪われた街の怖い話』(ハルキ・ホラー文庫)という怪談集があるが,正統派(?)の心霊体験談であるそちらに対し,こちらは<幽霊のでない怖い話>をまとめたものである。著者の前書きから引用すれば,
 “エレベーターから降りたら,なかに残った男に髪を掴まれ引きこまれそうになった”
 “かつての同級生が滅茶苦茶な整形をし,誰なのかわからないようになってやってきた”
 “知らない人から何枚も犬の生皮を送りつけられる”
といった体験談話であり,要は<あちら側へ行ってしまった人たち>が日常生活の中にするりと入り込んできて,さりげなく,あるいは猛然と語り手たちに現実の被害を及ぼす物語である。
 「くるくる回転図書館」でも再三取り上げてきたストーカーたちがこれに含まれるだろうし,ここしばらくテレビのワイドショーを賑わしている白い集団,「パナウェーブ研究所」とやらの醸し出す気配もそれに通じるかもしれない。

 本書に掲載された恐怖譚にはいくつかのパターンが見られる。たとえば,アパートの大家の壊れた息子。相手を選ばない尖った殺意。あるいは,ちょっとした善意の行為が呼ぶ悲惨な結末(自殺幇助など)。都市の仕事の裏の真実……。
 宅配便のあるコースの担当者が,髪の毛が束になって抜け,次々と癌で死んでいくという話には,新たな都市伝説として定着しそうな気配がある。いや,新しい都市伝説を著者がたまたま拾ってきてしまったのか。

 いずれにしても,恐ろしさのわりには意外と実害の少ない心霊譚に比べ,本書で扱われている事件はその多くが関係者の人生を徹底的に破壊しかねないものである。そのいくつかは「まさか」で切り捨てられそうだが,もし事実であったとき,直接の被害者は「まさか」ではすまない思いをすることだろう。旅先のホテルで幽霊を見た,といった話との違いとして,その多くが現在進行形の事件であることも一段と恐怖を募る。

 それにしても……プロフィールに「生理的に嫌な話を書かせたら日本で三指に入る」と紹介される著者も著者である。三指の残りの二指が誰なのかも気になるところではあるが。

先頭 表紙

asitaさま,いらっしゃいませ。本書での「怖さ」はもう少し直接的で,たとえば最近でいえば,割烹着を着て自転車に乗って包丁を振り回す通り魔,といった感じでしょうか・・・あまりおめにかかりたくはないものです。 / 烏丸 ( 2003-05-11 03:00 )
都会の人間関係の希薄さが産む不気味さはホラー映画のような「出たー!!」っていうのとは違って「何となく」、「ぼんやりと」、でも「明らかに感じる」怖さが有りますよね。 / asita@はじめまして。 ( 2003-05-07 09:27 )

2003-05-02 『ほんとにあった怖い話 裏観光ガイド心霊スポット特集』 朝日ソノラマ ASコミックス


【一応全部はがしたよ】

 リバイバルブームである。たとえばシルヴィ・バルタンのベストアルバムが売れる。というか,洋楽CDの棚を見ればいにしえのミュージシャンのベストアルバムだらけである。
 そのこと自体は別に悪いことではない。夏目漱石や三島由紀夫の作品が手に入らないような時代がやってきたら,それこそ異常だ。
 問題は,新しい時代をになうミュージシャンが登場しているかどうかということだが,それについては正直よくわからない。大物が出てきていないのではないか,と感じているのは事実だが,それは単に昨今のウェイブにこちらが対応できていないだけかもしれないからだ。

 マンガも,リバイバルが盛んだ。
 マンガ文庫の定着によって,雑誌掲載から単行本,せいぜいたまに豪華本,という循環しかなかったものが,古い名作を再度店頭に並べる仕組みが用意された感じである。たとえばここしばらくの間に書店に平積みされたものの中には,『ちかいの魔球』『柔道賛歌』『ひとりぼっちのリン』『七つの黄金郷』などの過去の名作がある。いずれも,近年は入手が難しく,とはいえ高額な古本を探し出してまでは,といったレベルの作品ばかりである。
 文庫サイズで緻密なタッチを味わえるか,といった点はさておき,こうしてさまざまな作品が発掘されることで多少なりとも読者の層が広がったり,現在の作家がインスピレーションを得たりすることは期待できるのではないか。

 最近は,このマンガのリバイバル,リサイクルブームに,さらに新しいチャンネルが加わっている。それが主にコンビニエンスストアの店頭に並ぶA5サイズ,糊綴じのコミック冊子である。要するに旧作をチープな作りで安く(300円代〜)販売するというもの。流通のルールはよくわからないが,雑誌コードが付いているところをみると雑誌として期限を設けてコンビニに卸し,返本は即断裁なのだろう。つまり制作費を抑えるだけでなく,単行本と違って在庫リスクを負わないわけである。
 月単位なのか週単位なのかはわからないが,雑誌のサイクルだとすると,いつまでもコンビニ店頭に並んでいるはずはない。各社,すでに相当さまざまな作品を投入しているようで,全貌となるとおよそよくわからない。著名な作品の,それも面白いところを切り取るような発行をして,出版物というよりはまったくのマーケ商品である。
 もちろん,読み手にとっては,それが面白ければどのような経路で販売されようと知ったことではない。値段,サイズの手ごろさもあって,手持ちの本に倦んだ帰りの通勤電車用にコンビニで無造作に購入したりする。それは『あずみ』であったり『アストロ球団』であったり『Papa told me』であったり,極端な場合は『哭きの竜』や高橋留美子の作品集のように,自宅の棚を探せば単行本を所有していることがわかっていても,時間つぶしとばかり買ってしまったりもする。
 問題は,うっかり前後編の片割れを買ってしまった場合,もう一方も入手できるとは限らないことだ。原哲夫『公権力横領捜査官中坊林太郎』など,上巻を購入してしまったために,その続きが気になってしかたがない。しかし,雑誌扱いだけに紀伊国屋BookWebなどにも在庫はないし,そもそも単行本を探してみようというほどの作品でないのもまた事実……。

 そんなこんなで,今夜は朝日ソノラマの心霊体験コミック集『ほんとにあった怖い話 裏観光ガイド心霊スポット特集』を購入してきた。遅い夕飯を食べながら,先ほど読了した次第。

 この手の心霊マンガオムニバス本の面白さは,どうにも絵の下手なのからけっこう巧いのまで,さまざまなマンガ家によってさまざまな「恐怖」が描かれることである。たとえば,血まみれの女がアップになっても,それはかならずしも怖くはない。むしろ,そぼふる雨の中,車の後ろにしゃがんでいる霊のほうがなにか「危ない」ものが感じられたりするものだ。あるいは,血まみれの女が振り向く際,首をやや剣呑な角度で描き,そこに「ぐるん」と効果音を付け加えるだけでそれなりに「死体」感が増す,といったテクニックなど。

 今回は,巻頭に並ぶ霊能者・寺尾玲子モノで,心霊スポットで霊を「拾う」,そこを再度たずねて霊を「はがす」という言い回しが登場人物たちの中ですんなり日常化している気配なのを興味深く読んだ。

  「とりあえずそいつは元の場所に戻した 一体ずつ確認しながらはがしていくの」
  「ここで二体目を拾ってる これも置いてくね」
  「この交差点だよ 元凶である奴を拾ってるのは──」
  「たぶんこれが最後だね 一応ぜんぶはがしたよ」

 こんな具合に抜き出してしまうと,いやはや何の会話であることやら。

先頭 表紙

あらら、知りませんでした。探してみますね。ありがとう / 風歌 ( 2003-05-06 05:58 )
フィー子さま,最近は一条ゆかり『砂の城』が並んでいました。わりあい新しい作品があったり,とんでもなく昔の作品があったり……それ自身を売りたいのか,撒き餌としたいのか,各出版社のオモワクが読みにくいシリーズでもあります。 / 烏丸 ( 2003-05-03 01:27 )
風歌さま,その若者たちがもっぱら利用するのがケータイのメールなんでしょうか。それでもコミュニケーションが存在するだけけっこうなことかもしれません。ところで,澁澤龍彦の『フローラ逍遥』(平凡社ライブラリー)という書物をご存知でしょうか。東西の風雅な植物画75点にエッセイを添えた作品ですが。 / 烏丸 ( 2003-05-03 01:25 )
漫画を買う(読む)という習性がないので気づきませんでしたがそういうのが出ているんですか。私のようにこれまで読まなかったような者には手軽で良さそうですね。コンビニで見てみます! / フィー子 ( 2003-05-02 20:47 )
現代の若者は漫画すら読まないし、CDは買わずにすぐコピー。本にCDにお金を落とすのは中年、で「懐かしさ」に訴える商法。なのかしらん? / 風歌@旧HNはがしましたの ( 2003-05-02 08:17 )

2003-04-21 [雑感] 鉄腕アトムの誕生日

 
 「2003年4月7日は,鉄腕アトムの誕生日!」……というテレビや雑誌の笛太鼓に,一抹の寂しさを感じたのは僕だけだったろうか。

 2003年のこの春,いったいどれほどの子供たちが,本当にアトムのファンだったといえるのだろう。
 『鉄腕アトム』が国産初のTVアニメとして,当時の子供たちの胸を熱くした功績を否定するつもりはない。しかし,当時のアトムというキャラクターそのものの魅力はすでに過去のものとなり,今回のお祭りはどこか親が子供に自分の好みの人形を買い与えるような,そんな乖離を感じてならなかった。
 少なくとも,何度か試みられた,アトムという番組そのものの再放送,リニューアルはとくにヒットしていない。今回の誕生日イベントで,グッズの類は多少売れたかもしれないが,その多くは配り手の思惑によるものであり,ニーズがあったためではなかったのではないか。

 僕自身は『鉄腕アトム』を第1回めから最終回までリアルタイムで見ていることもあり,「アトム世代」と呼ばれることに違和感はない。実際,自分の中のある種の正義感,ある種の思いやりは,その一部が当時のアトムの独白に結びついているように感じられるのも事実だ。
 だがそれは,今となって,決して心地よい結びつきとは思えない。アトムの歩みは常に迷いの道であり,敗北への坂道であった。「心」というものにこだわって事態を複雑にするアトムの姿は,いうなれば,ブッシュのイラク攻撃に対してハンバーガーを食べないことで反戦を訴えたつもりになるような,どこか脆弱で,本質的には身勝手なものだった。
 それを人間的なドラマというなら,それは決して的外れではない。少なくとも,同時代の『鉄人28号』やのちの『仮面ライダー』に比べて,その内面,思索の深さは比較にならない。
 だが,深いからよい,というわけでもない。僕は手塚作品全般にただよう作者の妙なこだわりに,性的な,それも若干不健康なものを感じてしかたがない。たとえば子供に見せたいアニメというテーマで比較するなら,僕は文句なしに『ポケットモンスター』の明るさを選ぶだろう。

 ところで,『スターウォーズ』の世界観が,高速宇宙船で自在にほかに星に飛べることを除けば本質的に西部劇とそう変わらないように,アトムに登場する2003年の未来世界も,意外なほどに現実を超えてはいない。
 10万(のちに100万)馬力,自由に歩行し,腕のジェット,足のロケットで空を飛び,目や耳で状況を認識して人と会話できるというアトムという超常的なロボットそのものを除けば,壁掛けテレビ,大型旅客機,宇宙ステーションなど,質はともかくすでに実現しているものも少なくない(タイムマシンや瞬間物質伝送機など,破天荒な技術は登場していない)。

 逆に,コンピュータやネットワークについては,現実のほうがアトムの世界を格段に凌駕してしまった。
 子供から大人までが携帯電話を持ち歩き,その場で撮影した画像をメールで送信,ニュースの配信や商品の売買まで手元で手軽にできてしまう世界。
 アトムは最終回には地球を救うために太陽めざして飛び去るのだが,もしそれが2003年の出来事なら,ハードディスクのバックアップを取らなかったお茶ノ水博士は厳しく糾弾されてしかるべきだろう。

先頭 表紙

烏丸,子供たちに「ファイズとカイザ,どっちが好き? どっちが強いと思う?」などなど,執拗に聞かれて困っております。日曜日朝8時からの番組の感想だなんて……。 / 朝帰りの週なら見られるんだが…… ( 2003-04-23 02:56 )
アトムの新作アニメ、あんまり観る気しませんね。手塚作品って説経くささがいい方に転んでいる作品は好きなんですが・・。最近はまっているのは仮面ライダー555です。 / けろりん ( 2003-04-22 04:34 )
アトムの誕生日なんて今さらな話題なんだけれど,今夜,子供と一緒にスターウォーズエピソードIIを見て,その感想を書こうとパソコンを立ち上げたらなぜかこういう内容になってしまった……。そちらについて言いたかったことは,「ハリウッド映画の主人公って,なぜあんなふうにお馬鹿ばっかりなんだろう?」。ホラー映画で,一人になったら殺されるとわかっていて一人になる若い女,みたいな。 / 烏丸 ( 2003-04-21 03:11 )

2003-04-14 [非書評] 五大捕物帳


 2週間も更新が滞り,「あのお喋りカラスめが,そろそろ我慢できずに新しいのをアップしているころであろう」とチェックに来ていただいた皆様にはたいへん失礼いたしました。このところちと「書評」などという御大層な取り上げ方にはそぐわない,ただのんびりと読書を楽しむ,そのような本の読み方ばかりしていたものですから……。
 はい,この春の烏丸的マイブームは「捕物帳」なのでありました。

 捕物帳には,「五大捕物帳」と称される一種の代表的な古典群がありまして,その作者,発表時期を縄田一男氏の資料をもとに紹介すれば,

  岡本綺堂 『半七捕物帳』 大正六年〜昭和十二年
  佐々木味津三 『右門捕物帖』 昭和三年〜八年
  野村胡堂 『銭形平次捕物控』 昭和六年〜三十二年
  横溝正史 『人形佐七捕物帳』 昭和十三年〜四十三年
  城 昌幸 『若さま侍捕物手帖』 昭和十四年〜四十三年

という具合になります。
 いずれも読み物として有名なだけでなく,映画やテレビで再三取り上げられて広く知られるところですね。
 烏丸がこの春,ムヤミヤタラと読み散らかしているのが,これらの捕物作品群なのですが,ところが,これらの原作を読んでみようとすると,意外や入手が難しい。

 本家本領,古典中の古典,『半七捕物帳』は光文社文庫から新装版全6巻が発売されたばかりということもあり,さほどの苦労もなしに全作品が手に入るのですが,それ以外は全作通して読むのはなかなかたいへんそうです。

 いや,そもそも『若さま侍捕物手帖』など,作者自身が長短篇併せて「三百に近いかもしれない」おびただしい作品数,しかもそれがいまだ作品リストさえ作成されていないとのこと。また,『銭形平次捕物控』はそれ以上の短篇数三八三を誇り(加えて長篇もいくつか)。『人形佐七捕物帳』も二百篇以上。
 いずれにしても,文庫でさらりと発刊できるようなボリュームではありません。おのずと,ごく一部の代表作を集めたものでその世界をうかがうしかない。
 また,『右門捕物帖』は時代小説の老舗,春陽文庫から全4巻が発行されているのですが,残念ながら3巻,4巻は現在品切れで入手できませんでした。もっとも,こちらはときどき増刷がかかっているようなので,オンライン書店などでこまめにチェックしていればいつかそのうち入手できるでしょう。

 それにしても,時代小説専門の春陽文庫はともかく,ここしばらくの光文社文庫の努力は光ります。半七,人形佐七,若さま,伝七など,入手しづらい捕物作品を新装で発刊してくれて嬉しい限り。もちろん,それでも全数百作品中の十作程度だったりするのですが。

 さて,本来ならここでそれぞれの捕物帳の特徴を紹介したり,比較したりすべきかもしれませんが,まだほんの一部の作品しか読めていないこともあり,きちんと紹介するのは荷が重い。一種のメモレベルのコメントでお茶を濁させていただくことといたしましょう。はい。

 半七……コナン・ドイルとほぼ同時代に生きた作者が,シャーロック・ホームズの魅力を日本に持ち込もうとした作品。江戸期の市井の風物や情緒を描いた点に特徴ありとよく言われるが,それ以上に端正で美しい日本語が魅力的。

 右門……五大捕物帳の中でも最も「芝居がかった」名調子連発。たとえば地の文に「右門はどこまでもわれわれの尊敬すべき立て役者です」,右門の台詞に「のう,お弓どの,よくご納得なさるがよろしゅうござりますぞ。そなたがわたくしへの美しいお心根は,右門一生の思い出としてうれしくちょうだいいたしまするが,不幸なことに,そなたは豊臣恩顧のお血筋,わたくしは徳川の禄をはむ武士でござる」などなど。それにしても,「むっつり右門」のはずが,よく喋る,喋る。

 平次……真犯人を明らかにしない事件多数。人情譚としてはよいのだろうが,検挙率はそれでよいのか江戸の民衆。

 佐七……半七を真似た設定に作者得意のトリックをあてはめた,いうなれば定型的な捕物帳だった初期作品から,後期にはだんだん油がのって耽美,猟奇といった傾向が強まったように思われる。

 若さま……身分も姓名も一切不詳の若さまが,酒を呑んでは快刀乱麻の大活躍。持ち込まれた事件を卓抜した推理力で解きほぐす設定は,バロネス・オルツイの著名なミステリ短編集『隅の老人』に想を得たと言われる。しかし,本作の魅力の本筋は,そういった推理の過程より,かつてのチャンバラ映画が持ち合わせていた底抜けの明るさ,豪放さではないか。事件が起こって「ハッハッハ!」,身を乗り出して「ハッハッハ!」,解決して「ハッハッハ!」,若さまの笑い声が実に楽しい。作者は日夏耿之介門下の詩人城左門として活躍したそうだが,詩人でありながら,他の4つの捕物帳に比べても格段に展開がノンシャラン,主人公若さまの口調がべらんめえといったあたりがまた魅力的。高笑い,春風駘蕩。

先頭 表紙

これらに加えて平岩弓枝『御宿かわせみ二十七 横浜慕情』(文春文庫)も発売され,まことに時代劇につかった日々であります。 / 烏丸 ( 2003-04-14 03:03 )

2003-03-31 『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』 ナンシー関 編・著 / 角川文庫


【でも,言っておきますが揃いも揃ってパンダではないです。】

 昨年6月にナンシー関が亡くなってからの寂寥感ときたら,心にぽつんと穴があいたとかいうレベルではない。部屋の一方の壁がぶっ飛んで,雨風が無造作にばらばら吹き込んでくるような,そんな感じだ。彼女の1ページ単位のエッセイがコンスタントにあちらこちらの週刊誌に掲載されていたことで,僕たちは多分、安心することができていたのだ。テレビという,放っておくと底なしに(それ自身が,あるいは視聴者が)ダメになってしまいそうなメディアに対して,自分は決して気を許しているわけではないことを,ナンシー関の厳しさが代弁してくれるような気がしていたわけだ。
 だが,彼女を喪った今,当たり前のことだが,僕たちは,あのように語り,あのように描き,あのように立ちふさがっていたのがナンシー関であって自分ではないことをもう知っている。僕たちは,いや,僕は,ナンシー関に甘えすぎていたのだ,多分……。

 『ナンシー関の記憶スケッチアカデミー』は,そんなナンシー関の残してくれた,彼女ならではのグラフィカルな思考実験のコレクションである。
 「記憶スケッチ」とは,提示されたお題を記憶のみに頼って描いてみること,そしてその作品を愛でながらも「人間と記憶とは,そして絵心とは」などについて考察していくのが「記憶スケッチアカデミー」である。具体的にはカタログ雑誌「通販生活」(カタログハウス発行)誌上において,同誌読者からの投稿を募ったものにナンシー関が寸評を加えたものがそれにあたる。
 文庫化された本書には,数年間にわたる成果の中から,「カエル」「ペコちゃん」「フランケンシュタイン」「カマキリ」「ガイコツ」「パンダ」「自由の女神」「スフィンクス」「鬼」などのお題に応えた作品が収録されている。いずれも,ナンシーいわく「人間の記憶のでたらめさを白日の下にさらす」,「症例とかカルテと言い換えてもいいかも」しれない珠玉の作品群である。要するに,いずれも,カエルにも,ペコちゃんにも,フランケンシュタインにも,カマキリにも,見えない。それは何か別のものであったり,何か別のものですらなかったりする。

 だから,これらの作品とそれに添えられたナンシーの寸評は,大いに笑えると同時に,どこかで心を黒くする。
 記憶にのみ頼ったスケッチは,不思議な「傾向」を見せる。たとえば,年をとると一気に線が描けなくなり,短い線を何本も重ね描くことで長い線を描くようになる。あるいは,誰もが本来「眉毛」のないものについつい眉毛を描いてしまう習癖,ハガキ1枚の隅に絵を描いてしまう習癖……。
 これらに対する巻末のナンシー関の「考察 〜記憶のあやふやとスケッチのうやむや〜」と,押切伸一,いとうせいこうを交えた「記憶スケッチ学会座談会」は必ずしも学術的とは言えないが,記憶と,それを描くことについて,激しく読み手を揺さぶる。パンダやムーミンをちゃんと描けないからといってどうということないように思えるが,実のところ衝撃は小さくない。なぜなら,僕たちが確かなものと信じている記憶が,これほどあいまいであること,うやむやであることが,言い訳できないほどに剥き出しにされてしまうからだ。
 試しに,長年連れ添った家族の顔を記憶だけで描いてみようか。……これは,なかなか恐ろしい試みである。

 なお,「記憶スケッチアカデミー」収録作品の多くは,ナンシー関の公式サイトNANCY SEKI's FACTORY『ボン研究所』で見ることができる。
 だが,本書の考察欄にて「何も恐れることはない。これからもふるって御参加いただきたい。責任は私がとる。」と豪気に断じてくれた,あのナンシー関はもういない。

先頭 表紙

これは皮肉屋彦左衛門さま,いらっしゃいませ。「耳部長」「小耳にはさもう」「聞く猿」など「耳」にこだわったタイトルで知られるナンシー関を語るに「耳掻き」をもってするとは,さすがですね。ツッコミ返しについての論考など,参加こそしておりませんが,いろいろ賛同する面もありました。 / 烏丸 ( 2003-04-01 01:25 )
ねんねこさま,カラスはときどき子どもとの交換日記(カラスは子どもの起きている時間にはまず家にいないか,いたら寝ているので,そういうことをしているのです)で動物の絵など描きますが……子どもはまっつぐに「これなに?」とたずねてきたり。しくしく。 / 烏丸 ( 2003-04-01 01:25 )
耳の穴にピッタリ合った耳掻きのように、気持ち悪いと思ってたところにピタッと届いて感動するぐらい気持ちよく引っかかりを取り除いてくれたナンシー関。ホントにすごい人でしたね。 / 皮肉屋彦左衛門@お初様でゴザイマス ( 2003-03-31 10:39 )
記憶のお絵かきっこはたまにシテ遊んでます。性格が現れてけっこう楽しいですよ / ねんねこ ( 2003-03-31 06:58 )

2003-03-24 事件の領域。 『Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて』 林 明輝 / 講談社モーニングKC


【これは土壇場で 人生を変える一発が 出せるかどうかの 練習なんです】

 少年マガジン『はじめの一歩』,少年サンデー『KATSU!』,ヤングサンデー『パラダイス』,スーパージャンプ『リングにかけろ2』,そして『あしたのジョー』の復刊。ボクシングマンガが元気である。

 ボクシングそのものの人気が決して快調とはいえない現状を鑑みれば,この盛況は特筆すべきことのように思われる(実際,現在どれほどの日本人が,今日の時点での日本人チャンピオンの名をあげられるだろう。ヘビー級の世界チャンピオンの名を知っているだろう。オリンピックの金メダリストを覚えているだろう)。
 要するに,リアルなボクシングに結びついての人気ではなく,一対一,決着のはっきりした戦いの構図が読者にわかりやすい,あるいは勝ち上がりマンガとして描きやすいだけなのではないか。
 その1つの顕れとして,物理法則を超えた必殺パンチの飛び交う一部作品は論外としても,大半の作品で,いっこうにホンモノのボクシングの匂いが感じられないということがある。その原因は,それらの作品の登場人物の顔つきや体つきがちっとも「ボクサー」らしくないことにつきる。

 ごく大雑把にいえば,重量級の一部の選手を除き,プロボクサーの多くは顔も腕も格闘技の選手としてはラインが細い。スピードが命のこの競技では,贅肉は敵であり,さらに選手は試合前の減量でとことん水分をしぼり取られる。丸顔でずんぐり筋肉質な体系というのは,およそプロボクサーとしてのリアリティに欠けるのである。
 その点,モーニング誌上で断続的に掲載され,この3月に同時に1,2巻が発行された『Big Hearts』は,実にプロボクシングの匂いがする。ボクサーの,余分なものを削り落とされた,一種薄っぺらいまでの戦闘性がきちんと描かれているためだ(添付の表紙画像からでも、それはご理解いただけるだろう)。

 だから『Big Hearts』はリアリティあふれており,……と話を進められるなら紹介も楽なものである。
 しかし,『Big Hearts』の魅力は,実はそんなところにはない。

 主人公は,プレッシャーに弱く,プレゼンで失態をさらして会社を辞めた26歳の青年・保谷栄一と,メジャーデビューしたばかりの新人歌手・古谷カオリの2人。思いがけずプロとしてデビュー,鍛錬を重ねる栄一と,脱アイドルをはかり,自分の作った曲で人を感動させたいと願うカオリの2人の軌跡が,つかず離れず展開していく。
 粗筋だけみると陳腐なほどにオーソドックスなボクシングマンガだし(最近のトレンドとして,これに「死んだ父親もボクサーだった」を加えればデキアガリ),絵柄そのものも決して流麗とは言いがたい。決してこれだけで人気が出そうな造型とは言えないだろう。

 しかし,本作が鳥肌が立つほどに感動を呼ぶのは,無名なボクサーの生活や心情を上手く描いている,などといったナイーブな次元の問題ではない。
 2度,3度読み返すうちに明確になってくるのだが,この作品ではシンプルな線や登場人物の言動の背後に,驚くほど細密な計算が行き渡っている。いや,計算という言葉は誤った印象を与えるかもしれない。どちらかといえば,橋であるとか,塔であるとか,そういった建造物のイメージである。

 たとえば,栄一のために招かれた,まじめだがちょっとピントのはずれたトレーナー,梁瀬。彼は四六時中ボクサーらしからぬ丁寧な口調でボクシングを説くのだが,それが栄一の試合のゴングとともにぼそりと敬語モードを捨て去る……彼がですます調で語っていたのは,その効果のためだったのである。
 あるいは,栄一の試合の最中に,いわゆる回想シーンが見開きで入る。これは同じ2巻の最初のほうに登場したシーンのコピーなのだが,最初に登場したときは1ページだったのに,後の回想シーンは見開き2ページ分に絵柄が広がっている。つまり,このコピーは,連載を抱えたマンガ家の苦し紛れのコピーではなく,最初から反復効果を意図して用意されていたものなのである。
 これらの点に気がついてみると,たとえば栄一が大手ジムに出稽古に赴き,スパーするシーン。おそらく取材の写真をもとにした構図なのだろうが,2度登場するスパーの見開きシーンで,エプロンに立つ2人のトレーナーの姿勢が鏡に描かれたように逆転していることにも効果が見えてくる。

 つまり,本作は,素朴な青年の成長を素朴に描いたように見えながら,多数の伏線,造型上の工夫が縦横に張り巡らされているのである。そのため,ただのジムでの反復練習シーンをみても,その効果は深い。
 実際,2巻のうち何箇所か,数十コマにわたってただ鍛錬の様子が続くページがあるのだが,これが異常なほどに心に残る。その数十コマを通して,栄一の肉体とハートが,ボクサーとして削られ,尖っていくことが如実に伝わるのだ。
 これは,稀有な経験だ。このようなボクシングマンガ,いやスポーツマンガは記憶にない。

 本作が非常に高度かつ複合的な構成意識に基づいて描かれていることの例証として,もう1点あげておこう。次のセリフは,カオリが脱アイドルのために作品を持ち込んだプロデューサー,ミカミの独白である。

  「わたしはこういうネイキッドなのは好きではない!! 断じて好きではない!! だが………」

 このプロデューサーの揺れは,そのまま『Big Hearts』を前にした読者の動揺でもあるだろう。この相似形は偶然とは思えない。作者は確信犯的に「狙って」いるのである。

 単にネイキッドな「勝ち上がり」マンガとして読むか,計算し尽くされた緻密にして大胆な建造物として読むか。
 このあと,勝ち抜きマンガに流れてしまうくらいなら,現在までの2冊で終わってほしいと思うほどの力作である。推奨度120%。

先頭 表紙

この作品の呼び招く「鳥肌」感は,あの不世出のチャンピオン,大場政夫を思い出させるものがあります。 / 烏丸 ( 2003-03-24 02:29 )

2003-03-17 ノートPC購入に向けての雑感(烏丸は電気手帳の夢を見るか)

 
 愛用ノートPCのハードディスクが不調で,近々買い換えることになりそうだ。

 これまで使っていたのは,2000年春に発表されたメーカー製B5ノートで,CPUはセレロン450MHz,液晶は10.4型の800×600と現在からみればかなり貧弱だが,会議や出先でメールを見ながら議事録を取るといった用途には全く不満はなかった。足りないとしたら9GBのハードディスク容量で,GPS用の地図や趣味の音楽データ数百曲分等を詰め込んでしまうと残るは1GB程度しかなく,いつも汲々と不要なファイルを削除していたものだ。
 仕事がら,業務のメールは日に数十MB,保存フォルダはこの1年分でも合計数GBにのぼる。それを常に持ち歩きたいができないのもフラストレーションの種ではあった。

 しかし,新たに買い換えるとなると,なかなか「これ1台」と断言できる機種が少ないのもまた事実だ。今回壊れた機種に比べれば,最近のノートPCはいずれもCPUパワー,メモリ・ハードディスク容量,イーサネットに無線LAN内蔵等々,充分なうえにも充分なパワー,機能を持ち合わせているのだが,どうも自分の望むものとバランスがとれないのである。

 今回の個人的なテーマは,まずなんといっても軽量であること。
 これまで持ち歩いていたものは1.4kg,ノートPCとしてもかなり軽いほうではあったが,それでも連日肩に下げると疲れの残る重量ではあった。ところが,1kg前後の機種となると,意外とバリエーションがないのである。VAIOの一部や東芝Libretto,富士通LOOKのように,PCというよりはPDA的要素が強まって,液晶やスロット等にクセが強いものも少なくない。
 次に,価格だが……これはある程度しかたがないことなのだろう,軽量,コンパクトであることは電子機器としては重要な付加価値だ。なんとか無線LAN機能とOfficeと消費税を併せて20万以内におさまればと思う。
 コンパクトな機種で問題となるのは,キーボードだ。当たり前だが,狭いスペースに無理やり詰め込めば,使い勝手が悪くなるのは当然のことである。それが容認できるかどうかは,困ったことに使い慣れてみないとわからない。これまで使ってきた何機種かのノートPCだって,最初のころはキートップの幅が狭い,タッチが浅い,配列が違うとイライラさせられたものだ。ノートPCを通販で買う勇気がなかなか湧かないのも,キーボードの問題が大きい。

 ……などなど,実のところ,買い物そのものより,どのような機種を購入するかあれこれ迷うのがPC選びの楽しみではあるのだが,今回周囲の知人などに相談した結果,しみじみと感じたことは,やはりメーカー,ブランドイメージには誰しもしばられているのだな,ということだ。

 たとえば,SONY VAIOシリーズに感じる抵抗。宇多田ヒカルや浜崎あゆみのCDを購入する際の照れくささのようなもの。「かっこよいから」「人気があるから」選んだ,ように見られることへの抵抗,とでもいえばいいだろうか。ただの思い込みとはわかっているのだが,思い込みが生むのがブランドイメージなのである。
 次に,NEC 98シリーズに感じる抵抗。いかにも「パソコンに詳しくないオヤジが,店員に薦められるままに購入してしまった」イメージ。コネクタ類にひらがなで名称が書いてありそうな雰囲気,とまでいうと失礼だろうか。
 富士通だとFMV BIBLOとなるのだが,これも若干オヤジっぽさが漂うかもしれない。少なくとも,マニア臭は今はなく,かつてのFM-7,77時代のユーザーカラーを知る者には寂しい限り。
 シャープは,ある時期までノートに力を入れていたように見えたが,最近はどうだろう。なんとなく焦点がしぼれない。熱意を感じないというか。
 東芝は,ノートはさすがに強い。バラエティも充実している。……が,なぜか,東芝のノートPCは,分厚くフルスペックでCD-ROMはおろかFDまで付いているような機種は安いくせに,小さくてちょっとかっこよいと思われる機種はめっぽう高い。
 高いといえば,IBMは個人で手を出すのはちょっと。壊れにくい,との評判だが。
 デル,コンパックあたりは,十把一絡げ,文句をいうスジ合いもないが,B5コンパクトサイズはあまり見受けられず,正直なところ,よくわからない。A4スリムノートを企業でまとめて納入,といったあたりが向いているのだろう。

 などなど,などなど……こうしてみると,パナソニックのレッツノートが軽くてデザインもちょっと特殊で,面白いかなと思っているのだが,さてどうだろう。
 もっとも,重量よりキーボードよりブランドイメージより,秋葉原に買い物にいく時間,そして家人に了解を取る勇気がポイントなのは言うまでもないことなのだが。

先頭 表紙

その楽しみを少しでも味わいたくて……ぐずぐずしているわけではないんですが,この週末も秋葉原に出られませんでした。ああっ,このままでは春の新製品が出てしまう(←嬉しそう)。 / 烏丸 ( 2003-03-24 01:07 )
こうやって買うが際前提にあっての、あれやこれや・・・一番たのしい時間かもしれない・・・ / ねんねこ ( 2003-03-21 15:13 )
Hikaruさま,そうなんですよ,バッテリパックを買い換えて1週間もたたない命でした。ちょっとした事故がありまして……。いや,その,決して会議の最中に「いい加減にしろっ! 同じことを何度も言わせるなっ!」と液晶ディスプレイをばこんと叩いて,そのためにHDDが破損したなんてことは……。 / 烏丸 ( 2003-03-17 21:51 )
マッキ〜さま,R1は小さくて見目もエッジが切れた感じで麗しいですね。銀のナイフをイメージさせられます。1kgを割るライトさも魅力ですね。一方,無線LAN内蔵で1.07kgのT1の最上位機種も(値段はちと張るものの)なかなかリッチで魅力的です。う〜むむむ。 / 烏丸 ( 2003-03-17 21:51 )
ふと。バッテリーを新調したばかりではなかったでしょうか?? うちにも最近「いいパソがほし〜」が口癖になってるのが若干一匹(こやつ、今度出るNTT関連の業界誌に載るので、お目に留まるかもです) / Hikaru ( 2003-03-17 17:32 )
レッツノートのR1ってのを使ってますよ。画面もきれいだし、キーを押してる!って感じで、マッキ〜は好みです。気になるのは、右の小指で押す辺りのキーが小さくて打ち間違えることと、HDDにアクセスしてるとき(?)に音が気になること。いざとなったら、オンラインで注文! / マッキ〜 ( 2003-03-17 09:59 )

2003-03-09 『剣豪 その流派と名刀』 牧 秀彦 / 光文社新書


【剣豪にとって剣術がスキルなら,日本刀はツールであろう。】

 「あらすじではなく,自分の思ったこと,感じたことを書かなくてはいけません」というのは,小・中学校を通して読書感想文の指導として何度も言われてきたことだ。そのためか,いまだこうして趣味の書評を書いていても,ただタイトルと内容紹介だけですますとまるで悪いことをしているかのように後ろめたい思いにかられてしまう。ついつい余計なことを書きつらねては書評を長くしてしまうのはそのせいでもある。
 しかし世の中には,評者の狭い了見に基づいた感想などより,ただ内容を端的に紹介したほうがよほどその価値を明確にできる本というものもある。本日取り上げる『剣豪 その流派と名刀』もそういった本の1冊だろう。

 本書は『図説 剣技・剣術』など,剣術や日本刀についての書籍を次々とものしている著者が,刀を扱うための“スキル”たる剣術流派と,“ツール”たる名刀を紹介するものである。取り上げられた流派は塚原ト伝の新当流,薩摩国の示現流,宮本武蔵の二天一流,佐々木小次郎の巌流,現代剣道のルーツとも言われる一刀流,柳生十兵衛を輩出した柳生新陰流,池波正太郎『剣客商売』の父子の無外流,千葉周作の北辰一刀流,近藤勇の天然理心流など五〇。刀鍛冶は正宗,村正,孫六,虎鉄,童子切安綱などやはり五〇。
 随所に挿入された
  免許皆伝
  本当の「真剣勝負」とはどのようなものか?
  誰も教えてくれなかった「峰打ち」の真実
  日本刀のメンテナンス
などのコラムも剣技,剣術にうとい者には新鮮だ(日本刀の手入れで剣豪がポンポンと刀を叩く,あのタンポの正体がやっとわかった)。また,流派,名刀を取り扱った作品として,小説のみならず,映画,コミック作品まで自在に紹介するフットワークも軽快である。なにしろ井上雄彦『バガボンド』や小池一夫『子連れ狼』あたりまではともかく,渡辺多恵子『風光る』まで取り上げられているのだ。

先頭 表紙

2003-03-03 ですます調のファンタジー 『伝七捕物帳』 陣出達朗 / 光文社文庫


【十手術にかけては江戸一番といわれた伝七に腰を打たれては,さしものくま男もたまりません。】

 江戸一番の御用聞「黒門町の伝七親分」は,そもそも一人の作家によるオリジナルキャラクターではなく,昭和二十四年に設立された「捕物作家クラブ」(会長・野村胡堂)の会員による競作シリーズだったのだそうである。
 執筆を競った作家には『銭形平次捕物控』の野村胡堂,『人形佐七捕物帳』の横溝正史,『若さま侍捕物手帖』の城昌幸,そして『遠山の金さん』の陣出達朗らがあった。
 いわば「捕物作家クラブの共有財産」(細谷正充)だった『伝七捕物帳』が現在陣出達朗の作品とされているのは,彼がこの企画に深くかかわったことと,もっとも多くの作品を発表したことによる。

 「伝七」が捕物帳としてオーソドックス過ぎるほどにオーソドックスな設定なのも,おそらくかのごとき出自からかと思われる。逆に言えば,オーソドックスな骨組みに,当時の花形作家たちがバリエーションの腕を競った,それが「伝七」だったのだろう。
 テレビでは中村梅之助が「伝七」を演じたが,彼の当たり役だった遊び人・遠山の金さんの印象があまりに強く,また当時はほかのさまざまな名物時代劇が現役だったこともあって,インパクトは今ひとつだったように記憶している(梅之助が北町奉行・遠山左衛門尉,つまり遠山の金さんを二役で演じるなどの楽しみはあったが)。

 さて,光文社文庫『伝七捕物帳』は,陣出達朗の手による捕物譚を十篇揃えたもので,いずれもおおらかなエンターテイメント,肩のこらない娯楽読み物となっている。ストーリーそのものは荒唐無稽といえば荒唐無稽,ときには時代考証や物理法則さえ風呂敷に仕舞い込み,伝七にしても無類のスーパーマンぶりである。なにしろ廊下の縁の下にもぐれば「忍びの術を心得ていますから……座敷のうちの話し声をきくくらいのことは,ぞうさもない」,窮地におちいれば「剣法と,十手術をじゅうぶんに身につけている伝七のまえには,敵ではありません」といった按配。
 しようがないなあと苦笑いしながらも,ページを繰る手はとまらない。不景気だリストラだと世知辛い現在においても,いや,そんな時代だからこそ,シンプルな勧善懲悪に忘我の一時を過ごしたくなるというものである。

 なお,本作はいずれも「ですます調」で書かれている。師・野村胡堂の『銭形平次捕物控』にならったものと想像されるが,銭形平次に比べれば権力への反発,弱い者に寄せる思いなどの込められたいわば厳しく選ばれた「ですます調」ではなく,江戸時代ののどかさ,伝七や周辺の登場人物たちの温かさ,人なつこさ,そして「難しいことは考えず,くつろいでお楽しみください」といわんばかりの作者の姿勢が感じられる文体となっている。
 価値観の多様化によって,もはや「市井のヒーロー」は共有財産たり得なくなったとみなされて久しい。しかし,物語の作り手側がこの「ですます調」にあたる工夫を見失っているのもまた事実のように思われてならない。

先頭 表紙

2003-02-24 ちょっぴりエッチな捕物帳 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』 横溝正史 / 徳間文庫


【二度と人前に出られぬ体にしてやらにゃ……】

 往路の通勤電車でインクの匂いもかぐわしい新刊を開いては装丁やデザインを味わい,オープニングに引き込まれれば途中下車してドトールから急遽商談が入ったと電話をかける。復路の電車ではずみがつけば,郊外の四阿(あずまや)にたどり着く間も待ち遠しく,グラスとチョコチップを片手に深夜の時を刻む……。
 まこと本好きにとって至福の日々といえよう。
 ところが最近は,いっこうに上司の机の書類が減らないことに業を煮やした有能スタッフH嬢が,行き帰りの通勤電車で目を通すようにと宿題を出すのである。
「Hさん,宿題はいいけれど,これ,社外秘の,電車の中で隣の人に見られてよい書類じゃないような気がするのだけれど」
「ええ,ええ,その通りです。ですから,それがお気にかかるようでしたら,全部ご覧になってから帰ってください」
 そういうわけで,某私鉄線で,一枚一枚に「社外秘」と大きく赤くプリントされた書類の束相手にあたふたとハンコを押したり赤ペンを入れたりしている怪しい中年オヤジがいたら,それが私である。
 ……もちろん,H嬢には申しわけないが,その程度で日々の読書の手を止めるような私でもない。今日はN社,明日はS社とミーティング,もちろんこれらは架空のスケジュールで,黒いレザーのカバンはマンガと文庫本で張り裂けんばかりだ。

 さて,最近は徳間文庫や光文社文庫の,黒い背表紙の捕物帳がお気に入りである。
 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』は,横溝正史の「お役者文七捕物暦」の一連のシリーズ,文庫化は今回が初めてとのこと。

 横溝正史は「人形佐七捕物帳」で知られる,いわば捕物帳の大御所。
 なんでも捕物帳の執筆を始めたのは,昭和八年,大喀血に襲われて転地療養した際に,博文館の「講談雑誌」編集長乾信一郎に半永久的な収入につながるに違いないと勧められて,とのことらしい。それが昭和四十年代の前半まで,二百篇を越す人気シリーズとなった(光文社文庫『人形佐七捕物帳』,縄田一男の解説より)。
 横溝の捕物帳の特徴は,彼のミステリ作品にも共通する,一種の官能臭が濃密に漂う点である。もちろん,現在のインターネットのホームページにあふれるストレートなセックス描写に比べればいずれも穏やかなものだが,その分,想像をかきたてる面もなきにしもあらず。
 たとえば,麻布飯倉の上屋敷で幽鬼のごとく怪しい男の後を追ってみれば,
「そこには女体のはかない哀しみが無残にもまざまざとうきだしている。強い麻薬の陶酔に,姫はおそらく意識をうしなっているのであろう。しかも,姫の肉体は男のあたえる刺戟にたえかねて,のたうちまわっているのである。あらわな腕が男の首にまきついている。……」(蜘蛛の巣屋敷)
 具体的な行為や肢体描写はほとんど何もないにもかかわらず,ねっとりと官能的であることご覧のとおり。
 あるいは,気丈な岡っ引きの娘が悪人どもに捕らえられて,
「憎いやつ,そう聞いてはいよいよ捨ててはおけぬ。二度と人前に出られぬ体にしてやらにゃ……」(比丘尼御殿)
 二度と人前に出られぬとは正直どうされるんだかよくわからないし,この後もとくに描かれているわけではないが,なんともぞくぞくさせられるわけである。

 そもそも,主人公のお役者文七たるや,水もしたたるいい男にしてもとお役者,神免二刀流の達人にして実は名家の御落胤。今はサイコロに身を持ち崩して大根河岸の岡っ引き,だるまの金兵衛のところに居候を決め込んでいるが,ひとたび事件の気配をかぎとるや,狂言一座の一人に化けて(要するに女装して)邸内を探り,大岡越前守を交えての推理に立ち回り,江戸を騒がす怪しい事件に快刀乱麻の大活躍。
 とはいえ,物語前半ではあでやかなお狂言師姿の文七が囚われていたぶられるなど,単にはらはらさせる趣向を越えた隠微さのただよう筆致なのは先にも述べたとおり。

 ただ,上記のような設定が重厚に活かされているのは『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』の2作までで,3作めの『花の通り魔』では主人公がお役者文七でも人形佐七でも大差ないような具合となっている。また,前2作ではセリフの一行一行にねっとりした江戸言葉が感じられていたものが,3作めではごく現代的な言葉遣いが多くなっており,読みやすい分,興を削がれる面もなくはない。
 逆にいえば,1作2作めの豊穣さたるや相当なもので,映画化を想定して書かれたというが,実際よき時代のよくできた時代劇をみるようなストーリー,スクリーンにちりちりとフイルムの痛みが煌めき,場内の吐息に映写機のカタカタという音が重なるような,懐かしさと楽しさを感じさせてくれる。

 それにしても,「半七」を元祖とする捕物帳の歴史には,「佐七」だの「文七」だの「伝七」だの,「七」のつく名親分が少なくない。宇宙からきたならず者にお縄をかけるウルトラセブンがファイブでもエイトでもなくてセブンだったのはこの伝統にのっとったものであったろうか……。

先頭 表紙

最初の段落はフィクションであり,ここに登場する人物,団体は実在する人物,団体とは一切関係ありません。多分。 / 烏丸 ( 2003-02-24 02:06 )

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