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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-03-24 事件の領域。 『Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて』 林 明輝 / 講談社モーニングKC
2003-03-17 ノートPC購入に向けての雑感(烏丸は電気手帳の夢を見るか)
2003-03-09 『剣豪 その流派と名刀』 牧 秀彦 / 光文社新書
2003-03-03 ですます調のファンタジー 『伝七捕物帳』 陣出達朗 / 光文社文庫
2003-02-24 ちょっぴりエッチな捕物帳 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』 横溝正史 / 徳間文庫
2003-02-10 『短編復活』 集英社文庫 編
2003-02-03 ブルクミュラー 25の練習曲
2003-01-25 『まんがサイエンスVIII ロボットの来た道』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)
2003-01-19 『MISSING』 本多孝好 / 双葉文庫
2003-01-12 『あのこにもらった音楽』 勝田 文 / 白泉社 花とゆめCOMICS


2003-03-24 事件の領域。 『Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて』 林 明輝 / 講談社モーニングKC


【これは土壇場で 人生を変える一発が 出せるかどうかの 練習なんです】

 少年マガジン『はじめの一歩』,少年サンデー『KATSU!』,ヤングサンデー『パラダイス』,スーパージャンプ『リングにかけろ2』,そして『あしたのジョー』の復刊。ボクシングマンガが元気である。

 ボクシングそのものの人気が決して快調とはいえない現状を鑑みれば,この盛況は特筆すべきことのように思われる(実際,現在どれほどの日本人が,今日の時点での日本人チャンピオンの名をあげられるだろう。ヘビー級の世界チャンピオンの名を知っているだろう。オリンピックの金メダリストを覚えているだろう)。
 要するに,リアルなボクシングに結びついての人気ではなく,一対一,決着のはっきりした戦いの構図が読者にわかりやすい,あるいは勝ち上がりマンガとして描きやすいだけなのではないか。
 その1つの顕れとして,物理法則を超えた必殺パンチの飛び交う一部作品は論外としても,大半の作品で,いっこうにホンモノのボクシングの匂いが感じられないということがある。その原因は,それらの作品の登場人物の顔つきや体つきがちっとも「ボクサー」らしくないことにつきる。

 ごく大雑把にいえば,重量級の一部の選手を除き,プロボクサーの多くは顔も腕も格闘技の選手としてはラインが細い。スピードが命のこの競技では,贅肉は敵であり,さらに選手は試合前の減量でとことん水分をしぼり取られる。丸顔でずんぐり筋肉質な体系というのは,およそプロボクサーとしてのリアリティに欠けるのである。
 その点,モーニング誌上で断続的に掲載され,この3月に同時に1,2巻が発行された『Big Hearts』は,実にプロボクシングの匂いがする。ボクサーの,余分なものを削り落とされた,一種薄っぺらいまでの戦闘性がきちんと描かれているためだ(添付の表紙画像からでも、それはご理解いただけるだろう)。

 だから『Big Hearts』はリアリティあふれており,……と話を進められるなら紹介も楽なものである。
 しかし,『Big Hearts』の魅力は,実はそんなところにはない。

 主人公は,プレッシャーに弱く,プレゼンで失態をさらして会社を辞めた26歳の青年・保谷栄一と,メジャーデビューしたばかりの新人歌手・古谷カオリの2人。思いがけずプロとしてデビュー,鍛錬を重ねる栄一と,脱アイドルをはかり,自分の作った曲で人を感動させたいと願うカオリの2人の軌跡が,つかず離れず展開していく。
 粗筋だけみると陳腐なほどにオーソドックスなボクシングマンガだし(最近のトレンドとして,これに「死んだ父親もボクサーだった」を加えればデキアガリ),絵柄そのものも決して流麗とは言いがたい。決してこれだけで人気が出そうな造型とは言えないだろう。

 しかし,本作が鳥肌が立つほどに感動を呼ぶのは,無名なボクサーの生活や心情を上手く描いている,などといったナイーブな次元の問題ではない。
 2度,3度読み返すうちに明確になってくるのだが,この作品ではシンプルな線や登場人物の言動の背後に,驚くほど細密な計算が行き渡っている。いや,計算という言葉は誤った印象を与えるかもしれない。どちらかといえば,橋であるとか,塔であるとか,そういった建造物のイメージである。

 たとえば,栄一のために招かれた,まじめだがちょっとピントのはずれたトレーナー,梁瀬。彼は四六時中ボクサーらしからぬ丁寧な口調でボクシングを説くのだが,それが栄一の試合のゴングとともにぼそりと敬語モードを捨て去る……彼がですます調で語っていたのは,その効果のためだったのである。
 あるいは,栄一の試合の最中に,いわゆる回想シーンが見開きで入る。これは同じ2巻の最初のほうに登場したシーンのコピーなのだが,最初に登場したときは1ページだったのに,後の回想シーンは見開き2ページ分に絵柄が広がっている。つまり,このコピーは,連載を抱えたマンガ家の苦し紛れのコピーではなく,最初から反復効果を意図して用意されていたものなのである。
 これらの点に気がついてみると,たとえば栄一が大手ジムに出稽古に赴き,スパーするシーン。おそらく取材の写真をもとにした構図なのだろうが,2度登場するスパーの見開きシーンで,エプロンに立つ2人のトレーナーの姿勢が鏡に描かれたように逆転していることにも効果が見えてくる。

 つまり,本作は,素朴な青年の成長を素朴に描いたように見えながら,多数の伏線,造型上の工夫が縦横に張り巡らされているのである。そのため,ただのジムでの反復練習シーンをみても,その効果は深い。
 実際,2巻のうち何箇所か,数十コマにわたってただ鍛錬の様子が続くページがあるのだが,これが異常なほどに心に残る。その数十コマを通して,栄一の肉体とハートが,ボクサーとして削られ,尖っていくことが如実に伝わるのだ。
 これは,稀有な経験だ。このようなボクシングマンガ,いやスポーツマンガは記憶にない。

 本作が非常に高度かつ複合的な構成意識に基づいて描かれていることの例証として,もう1点あげておこう。次のセリフは,カオリが脱アイドルのために作品を持ち込んだプロデューサー,ミカミの独白である。

  「わたしはこういうネイキッドなのは好きではない!! 断じて好きではない!! だが………」

 このプロデューサーの揺れは,そのまま『Big Hearts』を前にした読者の動揺でもあるだろう。この相似形は偶然とは思えない。作者は確信犯的に「狙って」いるのである。

 単にネイキッドな「勝ち上がり」マンガとして読むか,計算し尽くされた緻密にして大胆な建造物として読むか。
 このあと,勝ち抜きマンガに流れてしまうくらいなら,現在までの2冊で終わってほしいと思うほどの力作である。推奨度120%。

先頭 表紙

この作品の呼び招く「鳥肌」感は,あの不世出のチャンピオン,大場政夫を思い出させるものがあります。 / 烏丸 ( 2003-03-24 02:29 )

2003-03-17 ノートPC購入に向けての雑感(烏丸は電気手帳の夢を見るか)

 
 愛用ノートPCのハードディスクが不調で,近々買い換えることになりそうだ。

 これまで使っていたのは,2000年春に発表されたメーカー製B5ノートで,CPUはセレロン450MHz,液晶は10.4型の800×600と現在からみればかなり貧弱だが,会議や出先でメールを見ながら議事録を取るといった用途には全く不満はなかった。足りないとしたら9GBのハードディスク容量で,GPS用の地図や趣味の音楽データ数百曲分等を詰め込んでしまうと残るは1GB程度しかなく,いつも汲々と不要なファイルを削除していたものだ。
 仕事がら,業務のメールは日に数十MB,保存フォルダはこの1年分でも合計数GBにのぼる。それを常に持ち歩きたいができないのもフラストレーションの種ではあった。

 しかし,新たに買い換えるとなると,なかなか「これ1台」と断言できる機種が少ないのもまた事実だ。今回壊れた機種に比べれば,最近のノートPCはいずれもCPUパワー,メモリ・ハードディスク容量,イーサネットに無線LAN内蔵等々,充分なうえにも充分なパワー,機能を持ち合わせているのだが,どうも自分の望むものとバランスがとれないのである。

 今回の個人的なテーマは,まずなんといっても軽量であること。
 これまで持ち歩いていたものは1.4kg,ノートPCとしてもかなり軽いほうではあったが,それでも連日肩に下げると疲れの残る重量ではあった。ところが,1kg前後の機種となると,意外とバリエーションがないのである。VAIOの一部や東芝Libretto,富士通LOOKのように,PCというよりはPDA的要素が強まって,液晶やスロット等にクセが強いものも少なくない。
 次に,価格だが……これはある程度しかたがないことなのだろう,軽量,コンパクトであることは電子機器としては重要な付加価値だ。なんとか無線LAN機能とOfficeと消費税を併せて20万以内におさまればと思う。
 コンパクトな機種で問題となるのは,キーボードだ。当たり前だが,狭いスペースに無理やり詰め込めば,使い勝手が悪くなるのは当然のことである。それが容認できるかどうかは,困ったことに使い慣れてみないとわからない。これまで使ってきた何機種かのノートPCだって,最初のころはキートップの幅が狭い,タッチが浅い,配列が違うとイライラさせられたものだ。ノートPCを通販で買う勇気がなかなか湧かないのも,キーボードの問題が大きい。

 ……などなど,実のところ,買い物そのものより,どのような機種を購入するかあれこれ迷うのがPC選びの楽しみではあるのだが,今回周囲の知人などに相談した結果,しみじみと感じたことは,やはりメーカー,ブランドイメージには誰しもしばられているのだな,ということだ。

 たとえば,SONY VAIOシリーズに感じる抵抗。宇多田ヒカルや浜崎あゆみのCDを購入する際の照れくささのようなもの。「かっこよいから」「人気があるから」選んだ,ように見られることへの抵抗,とでもいえばいいだろうか。ただの思い込みとはわかっているのだが,思い込みが生むのがブランドイメージなのである。
 次に,NEC 98シリーズに感じる抵抗。いかにも「パソコンに詳しくないオヤジが,店員に薦められるままに購入してしまった」イメージ。コネクタ類にひらがなで名称が書いてありそうな雰囲気,とまでいうと失礼だろうか。
 富士通だとFMV BIBLOとなるのだが,これも若干オヤジっぽさが漂うかもしれない。少なくとも,マニア臭は今はなく,かつてのFM-7,77時代のユーザーカラーを知る者には寂しい限り。
 シャープは,ある時期までノートに力を入れていたように見えたが,最近はどうだろう。なんとなく焦点がしぼれない。熱意を感じないというか。
 東芝は,ノートはさすがに強い。バラエティも充実している。……が,なぜか,東芝のノートPCは,分厚くフルスペックでCD-ROMはおろかFDまで付いているような機種は安いくせに,小さくてちょっとかっこよいと思われる機種はめっぽう高い。
 高いといえば,IBMは個人で手を出すのはちょっと。壊れにくい,との評判だが。
 デル,コンパックあたりは,十把一絡げ,文句をいうスジ合いもないが,B5コンパクトサイズはあまり見受けられず,正直なところ,よくわからない。A4スリムノートを企業でまとめて納入,といったあたりが向いているのだろう。

 などなど,などなど……こうしてみると,パナソニックのレッツノートが軽くてデザインもちょっと特殊で,面白いかなと思っているのだが,さてどうだろう。
 もっとも,重量よりキーボードよりブランドイメージより,秋葉原に買い物にいく時間,そして家人に了解を取る勇気がポイントなのは言うまでもないことなのだが。

先頭 表紙

その楽しみを少しでも味わいたくて……ぐずぐずしているわけではないんですが,この週末も秋葉原に出られませんでした。ああっ,このままでは春の新製品が出てしまう(←嬉しそう)。 / 烏丸 ( 2003-03-24 01:07 )
こうやって買うが際前提にあっての、あれやこれや・・・一番たのしい時間かもしれない・・・ / ねんねこ ( 2003-03-21 15:13 )
Hikaruさま,そうなんですよ,バッテリパックを買い換えて1週間もたたない命でした。ちょっとした事故がありまして……。いや,その,決して会議の最中に「いい加減にしろっ! 同じことを何度も言わせるなっ!」と液晶ディスプレイをばこんと叩いて,そのためにHDDが破損したなんてことは……。 / 烏丸 ( 2003-03-17 21:51 )
マッキ〜さま,R1は小さくて見目もエッジが切れた感じで麗しいですね。銀のナイフをイメージさせられます。1kgを割るライトさも魅力ですね。一方,無線LAN内蔵で1.07kgのT1の最上位機種も(値段はちと張るものの)なかなかリッチで魅力的です。う〜むむむ。 / 烏丸 ( 2003-03-17 21:51 )
ふと。バッテリーを新調したばかりではなかったでしょうか?? うちにも最近「いいパソがほし〜」が口癖になってるのが若干一匹(こやつ、今度出るNTT関連の業界誌に載るので、お目に留まるかもです) / Hikaru ( 2003-03-17 17:32 )
レッツノートのR1ってのを使ってますよ。画面もきれいだし、キーを押してる!って感じで、マッキ〜は好みです。気になるのは、右の小指で押す辺りのキーが小さくて打ち間違えることと、HDDにアクセスしてるとき(?)に音が気になること。いざとなったら、オンラインで注文! / マッキ〜 ( 2003-03-17 09:59 )

2003-03-09 『剣豪 その流派と名刀』 牧 秀彦 / 光文社新書


【剣豪にとって剣術がスキルなら,日本刀はツールであろう。】

 「あらすじではなく,自分の思ったこと,感じたことを書かなくてはいけません」というのは,小・中学校を通して読書感想文の指導として何度も言われてきたことだ。そのためか,いまだこうして趣味の書評を書いていても,ただタイトルと内容紹介だけですますとまるで悪いことをしているかのように後ろめたい思いにかられてしまう。ついつい余計なことを書きつらねては書評を長くしてしまうのはそのせいでもある。
 しかし世の中には,評者の狭い了見に基づいた感想などより,ただ内容を端的に紹介したほうがよほどその価値を明確にできる本というものもある。本日取り上げる『剣豪 その流派と名刀』もそういった本の1冊だろう。

 本書は『図説 剣技・剣術』など,剣術や日本刀についての書籍を次々とものしている著者が,刀を扱うための“スキル”たる剣術流派と,“ツール”たる名刀を紹介するものである。取り上げられた流派は塚原ト伝の新当流,薩摩国の示現流,宮本武蔵の二天一流,佐々木小次郎の巌流,現代剣道のルーツとも言われる一刀流,柳生十兵衛を輩出した柳生新陰流,池波正太郎『剣客商売』の父子の無外流,千葉周作の北辰一刀流,近藤勇の天然理心流など五〇。刀鍛冶は正宗,村正,孫六,虎鉄,童子切安綱などやはり五〇。
 随所に挿入された
  免許皆伝
  本当の「真剣勝負」とはどのようなものか?
  誰も教えてくれなかった「峰打ち」の真実
  日本刀のメンテナンス
などのコラムも剣技,剣術にうとい者には新鮮だ(日本刀の手入れで剣豪がポンポンと刀を叩く,あのタンポの正体がやっとわかった)。また,流派,名刀を取り扱った作品として,小説のみならず,映画,コミック作品まで自在に紹介するフットワークも軽快である。なにしろ井上雄彦『バガボンド』や小池一夫『子連れ狼』あたりまではともかく,渡辺多恵子『風光る』まで取り上げられているのだ。

先頭 表紙

2003-03-03 ですます調のファンタジー 『伝七捕物帳』 陣出達朗 / 光文社文庫


【十手術にかけては江戸一番といわれた伝七に腰を打たれては,さしものくま男もたまりません。】

 江戸一番の御用聞「黒門町の伝七親分」は,そもそも一人の作家によるオリジナルキャラクターではなく,昭和二十四年に設立された「捕物作家クラブ」(会長・野村胡堂)の会員による競作シリーズだったのだそうである。
 執筆を競った作家には『銭形平次捕物控』の野村胡堂,『人形佐七捕物帳』の横溝正史,『若さま侍捕物手帖』の城昌幸,そして『遠山の金さん』の陣出達朗らがあった。
 いわば「捕物作家クラブの共有財産」(細谷正充)だった『伝七捕物帳』が現在陣出達朗の作品とされているのは,彼がこの企画に深くかかわったことと,もっとも多くの作品を発表したことによる。

 「伝七」が捕物帳としてオーソドックス過ぎるほどにオーソドックスな設定なのも,おそらくかのごとき出自からかと思われる。逆に言えば,オーソドックスな骨組みに,当時の花形作家たちがバリエーションの腕を競った,それが「伝七」だったのだろう。
 テレビでは中村梅之助が「伝七」を演じたが,彼の当たり役だった遊び人・遠山の金さんの印象があまりに強く,また当時はほかのさまざまな名物時代劇が現役だったこともあって,インパクトは今ひとつだったように記憶している(梅之助が北町奉行・遠山左衛門尉,つまり遠山の金さんを二役で演じるなどの楽しみはあったが)。

 さて,光文社文庫『伝七捕物帳』は,陣出達朗の手による捕物譚を十篇揃えたもので,いずれもおおらかなエンターテイメント,肩のこらない娯楽読み物となっている。ストーリーそのものは荒唐無稽といえば荒唐無稽,ときには時代考証や物理法則さえ風呂敷に仕舞い込み,伝七にしても無類のスーパーマンぶりである。なにしろ廊下の縁の下にもぐれば「忍びの術を心得ていますから……座敷のうちの話し声をきくくらいのことは,ぞうさもない」,窮地におちいれば「剣法と,十手術をじゅうぶんに身につけている伝七のまえには,敵ではありません」といった按配。
 しようがないなあと苦笑いしながらも,ページを繰る手はとまらない。不景気だリストラだと世知辛い現在においても,いや,そんな時代だからこそ,シンプルな勧善懲悪に忘我の一時を過ごしたくなるというものである。

 なお,本作はいずれも「ですます調」で書かれている。師・野村胡堂の『銭形平次捕物控』にならったものと想像されるが,銭形平次に比べれば権力への反発,弱い者に寄せる思いなどの込められたいわば厳しく選ばれた「ですます調」ではなく,江戸時代ののどかさ,伝七や周辺の登場人物たちの温かさ,人なつこさ,そして「難しいことは考えず,くつろいでお楽しみください」といわんばかりの作者の姿勢が感じられる文体となっている。
 価値観の多様化によって,もはや「市井のヒーロー」は共有財産たり得なくなったとみなされて久しい。しかし,物語の作り手側がこの「ですます調」にあたる工夫を見失っているのもまた事実のように思われてならない。

先頭 表紙

2003-02-24 ちょっぴりエッチな捕物帳 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』 横溝正史 / 徳間文庫


【二度と人前に出られぬ体にしてやらにゃ……】

 往路の通勤電車でインクの匂いもかぐわしい新刊を開いては装丁やデザインを味わい,オープニングに引き込まれれば途中下車してドトールから急遽商談が入ったと電話をかける。復路の電車ではずみがつけば,郊外の四阿(あずまや)にたどり着く間も待ち遠しく,グラスとチョコチップを片手に深夜の時を刻む……。
 まこと本好きにとって至福の日々といえよう。
 ところが最近は,いっこうに上司の机の書類が減らないことに業を煮やした有能スタッフH嬢が,行き帰りの通勤電車で目を通すようにと宿題を出すのである。
「Hさん,宿題はいいけれど,これ,社外秘の,電車の中で隣の人に見られてよい書類じゃないような気がするのだけれど」
「ええ,ええ,その通りです。ですから,それがお気にかかるようでしたら,全部ご覧になってから帰ってください」
 そういうわけで,某私鉄線で,一枚一枚に「社外秘」と大きく赤くプリントされた書類の束相手にあたふたとハンコを押したり赤ペンを入れたりしている怪しい中年オヤジがいたら,それが私である。
 ……もちろん,H嬢には申しわけないが,その程度で日々の読書の手を止めるような私でもない。今日はN社,明日はS社とミーティング,もちろんこれらは架空のスケジュールで,黒いレザーのカバンはマンガと文庫本で張り裂けんばかりだ。

 さて,最近は徳間文庫や光文社文庫の,黒い背表紙の捕物帳がお気に入りである。
 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』は,横溝正史の「お役者文七捕物暦」の一連のシリーズ,文庫化は今回が初めてとのこと。

 横溝正史は「人形佐七捕物帳」で知られる,いわば捕物帳の大御所。
 なんでも捕物帳の執筆を始めたのは,昭和八年,大喀血に襲われて転地療養した際に,博文館の「講談雑誌」編集長乾信一郎に半永久的な収入につながるに違いないと勧められて,とのことらしい。それが昭和四十年代の前半まで,二百篇を越す人気シリーズとなった(光文社文庫『人形佐七捕物帳』,縄田一男の解説より)。
 横溝の捕物帳の特徴は,彼のミステリ作品にも共通する,一種の官能臭が濃密に漂う点である。もちろん,現在のインターネットのホームページにあふれるストレートなセックス描写に比べればいずれも穏やかなものだが,その分,想像をかきたてる面もなきにしもあらず。
 たとえば,麻布飯倉の上屋敷で幽鬼のごとく怪しい男の後を追ってみれば,
「そこには女体のはかない哀しみが無残にもまざまざとうきだしている。強い麻薬の陶酔に,姫はおそらく意識をうしなっているのであろう。しかも,姫の肉体は男のあたえる刺戟にたえかねて,のたうちまわっているのである。あらわな腕が男の首にまきついている。……」(蜘蛛の巣屋敷)
 具体的な行為や肢体描写はほとんど何もないにもかかわらず,ねっとりと官能的であることご覧のとおり。
 あるいは,気丈な岡っ引きの娘が悪人どもに捕らえられて,
「憎いやつ,そう聞いてはいよいよ捨ててはおけぬ。二度と人前に出られぬ体にしてやらにゃ……」(比丘尼御殿)
 二度と人前に出られぬとは正直どうされるんだかよくわからないし,この後もとくに描かれているわけではないが,なんともぞくぞくさせられるわけである。

 そもそも,主人公のお役者文七たるや,水もしたたるいい男にしてもとお役者,神免二刀流の達人にして実は名家の御落胤。今はサイコロに身を持ち崩して大根河岸の岡っ引き,だるまの金兵衛のところに居候を決め込んでいるが,ひとたび事件の気配をかぎとるや,狂言一座の一人に化けて(要するに女装して)邸内を探り,大岡越前守を交えての推理に立ち回り,江戸を騒がす怪しい事件に快刀乱麻の大活躍。
 とはいえ,物語前半ではあでやかなお狂言師姿の文七が囚われていたぶられるなど,単にはらはらさせる趣向を越えた隠微さのただよう筆致なのは先にも述べたとおり。

 ただ,上記のような設定が重厚に活かされているのは『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』の2作までで,3作めの『花の通り魔』では主人公がお役者文七でも人形佐七でも大差ないような具合となっている。また,前2作ではセリフの一行一行にねっとりした江戸言葉が感じられていたものが,3作めではごく現代的な言葉遣いが多くなっており,読みやすい分,興を削がれる面もなくはない。
 逆にいえば,1作2作めの豊穣さたるや相当なもので,映画化を想定して書かれたというが,実際よき時代のよくできた時代劇をみるようなストーリー,スクリーンにちりちりとフイルムの痛みが煌めき,場内の吐息に映写機のカタカタという音が重なるような,懐かしさと楽しさを感じさせてくれる。

 それにしても,「半七」を元祖とする捕物帳の歴史には,「佐七」だの「文七」だの「伝七」だの,「七」のつく名親分が少なくない。宇宙からきたならず者にお縄をかけるウルトラセブンがファイブでもエイトでもなくてセブンだったのはこの伝統にのっとったものであったろうか……。

先頭 表紙

最初の段落はフィクションであり,ここに登場する人物,団体は実在する人物,団体とは一切関係ありません。多分。 / 烏丸 ( 2003-02-24 02:06 )

2003-02-10 『短編復活』 集英社文庫 編


【すごい有名じゃん。刀を千本集めてんだよね。】

 集英社「小説すばる」創刊15周年を記念し,157冊の中から選ばれた秀作短編小説のアンソロジーである。文字通りの短編集なので,こちらも短冊ふうに。

 以前,ある大手出版社の廊下を,当時飛ぶ鳥落とす勢いだったコミック誌の編集者と歩いていると,向こうからきた背広の数人が,さほど狭くもない通路で道を譲るかのようにわきに避け,顔を伏せた。
 今どき大名行列でもあるまいに「なんだいあれ」と尋ねると,利益の出ない文芸誌の編集者だという。どうして赤字の雑誌を廃刊にしてしまわないのかと問うと,総合出版社としての体裁のためだという。
 その言葉の真偽は知らない。単にそのコミック誌編集者と文芸誌編集者の個人的な折り合いの問題だったのかもしれない。それでも,文芸誌が産業として厳しいことは伺えた。

 本書に収録されているのは赤川次郎,浅田次郎,綾辻行人,伊集院静,北方謙三,椎名誠,篠田節子,志水辰夫,清水義範,高橋克彦,坂東真砂子,東野圭吾,宮部みゆき,群ようこ,山本文緒,唯川恵の16人の各作品。
 これで利益が上がらなかったら,文芸というジャンルが産業として成り立つまい,というレベルの作家群である。

 赤川次郎,相変わらず緻密とは言い難いが上手い。浅田次郎,並べてみると赤川次郎と音韻表記がこんなに似た名前だったとは。
 ……と,ここで気がついたのだが,全16作は,作家名の五十音順に掲載されているのだった。なんと無造作。いやむしろ,それぞれの作家の顔を立てようとした結果か。

 ならば逆に,この16作の選から惜しくも漏れた作家,作品は,誰,何だったのだろう。

 ユーモア,ペーソス,恋愛,ミステリ,ハードボイルドなど,さまざまなテイストの作品,それもさすがに高いクオリティのものがそろっている。
 ただ,綾辻行人「特別料理」は,小松左京に同じオチの短編があり,しかも小松作品のほうが格段にディープかつビターで,少々興醒め。
 椎名誠「猫舐祭」も,これより“らしい”作品はあったろうに,と思われないでもない。

 一方,清水義範「苦労判官大変記」は見事。もともとパスティーシュとかなんとかいいつつ,切り口もオチもヌルいことの多い作家だが,本作はとっかかりから最後の1行まで,パロディ歴史小説として実によくできた逸品。

 志水辰夫「プレーオフ」,ストーリーはひねった作りになっているが,登場人物の純朴さ,直裁さが少しばかり異様で,まるで中学生向けユーモア小説のよう。凝った短編の並ぶ中で,かえって最も奇妙な風味をかもし出しているように思われた。

 文庫の表紙は,小説すばる創刊号の表紙イラストの流用。1994年に急逝したペーター佐藤氏の手によるもの。このような強い視線,濃い眉毛に惹かれる。

 巻末の「著者紹介」のそのまた欄外に「特にことわりのないもの以外はすべて,単行本は集英社より刊行されました。現在すべての作品が集英社文庫でお読みいただけます。」との一節。
 こういう商魂は嫌いではない。ただし,「ことわりのないもの以外」では逆ではないか?

先頭 表紙

ふだんジョギングもしてないのに市民マラソンに出場は無謀。それと同じように,長編を読むのには若さと体力がいる,と言ったのは誰だったか……。 / 烏丸 ( 2003-02-11 02:55 )
しっかり老眼もすすみ、集中力はPCに吸い取られ、へろへろになった私には短編を読むのが精一杯。ふぅ・・ / ねんねこ ( 2003-02-10 09:57 )

2003-02-03 ブルクミュラー 25の練習曲

 
 子供向けの作品のセンチメンタリズムつながりということで……。

 ブルクミュラーの練習曲に対する感情,これを何と言い表せばよいのでしょうね。
 楽曲として好もしい,というのとは少し違う。たとえばこれをぜひとも高名なピアニストの演奏で聞きたいとか,CDで手元におきたい,という欲求はとくにありません。
 バスを降り目的地に向かう週末の昼下がりの住宅地,夾竹桃の植わったブロック塀の向こうからとつとつとした「パストラル(牧歌)」が聞こえたりする,そんなシチュエーションがよいのです。

 多分,黄色バイエルあたりではまだその子が「練習させられている」イメージが強すぎ,さりとてブルクミュラーより難しくなってしまうとそれはそれで「ちゃんと弾けないといけない」,そんな痛々しさがあるのですね。
 ブルクミュラーはその合間の,ちょうど自分が「弾ける」ことに指が踊るというかそんな楽しさ,さりとて勉強のためにそろそろピアノをやめなきゃとか音大に進もうかとかそんな重みもなく,要は子供の側が自在で軽やかなのです。

 とはいえ,曲そのものはそう簡単でもない。
 このへんまでくる子は頑張ればとりあえず最後まで弾くことはできるのですが,うまく演奏するのはなかなか難しい。発表会では「タランテラ」や「貴婦人の乗馬」あたりが重なることが少なくありませんが,同じ期間一生懸命練習してきたはずなのに,見事に差が現れます。うまく弾けたら,それはもうとても素敵です。

 今日,たまたま久しぶりにそのページを開いて,それぞれの曲が1ページかせいぜい2ページなのに正直驚きました。どれ,とピアノに向かって……錆びた指は最初のページの「すなおな心」に対してさえまるで動かないのでありました。

先頭 表紙

けろりんさま,タイトルがあるのがよい,というのはまったく同感です。カラスは最初の1冊が赤バイエルでなくメトードローズという教本だったのですが,これはフランスの古い歌などが取り上げられており,その1つ1つの曲名はよくわからないまでも指から胸に染み込んだものです。 / 烏丸 ( 2003-02-10 01:20 )
あややさま,さらには楽譜の入った布のバッグを手に下げたチェックのスカートの少女,小さな麦わら,木漏れ日でカラスの「郷愁」は出来上がりです。ちなみに,丘の上の廃城,角の写真館のガラス戸の観葉植物,ピアノ教室のアトムのマンガなども個人的には。 / 烏丸 ( 2003-02-10 01:20 )
ツェルニーやバッハはイヤイヤやってましたが、ブルグミュラーは好きでした。番号じゃなくて曲にタイトルがあるのがよいのです。これぐらいなら譜面見ればまだ弾けるんですけどねー。(^^;) / けろりん ( 2003-02-04 20:40 )
言い得て妙。私も、ブルグミュラーについては、同じようなことを思います。「帰途」でしたっけ、あれ、冬の日の学校帰りを連想させます。あの練習曲が、どこかのおうちから聞こえてくると、知らない土地でもほっとしますね。 / あやや ( 2003-02-03 09:44 )

2003-01-25 『まんがサイエンスVIII ロボットの来た道』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)


【今の時代にキミはいないんだよね】

 くるくる回転図書館でも何度か取り上げてきた『まんがサイエンス』の最新刊である。
 (既刊の『まんがサイエンス』についてはこちらこちらを参照。)

 今回の主人公は,池上タクミ少年。
 ある日彼の家に「タクミさんはわたしのことを知りませんか」とロボットが尋ねてきた。タクミはこのロボットがどこから来たのか,どこに行くのかを求めて,近所のお姉さんとともに調べて歩く。なぜロボットは人間と似た姿を持つのか。二足歩行することの困難とは。心を持つロボットは実現可能なのか。

 今回は,過去のシリーズでおなじみだったよしおくんもあさりちゃんも,あやめちゃんもまなぶくんも登場しない。これは「5年の科学」「6年の科学」に連載された作品であり,1年間のひと区切りを越えて同一のアイデンティティを保つ必要はないのだ。
 ではあのよしおくんは,あさりちゃんは,あやめちゃんは,まなぶくんはどこへ行ってしまったのか。

 ……などとセンチメンタルな気分になってしまうのは,今回の第VIII巻が,どこかうら寂しい雰囲気を漂わせているせいかもしれない。
 登場する少年型のロボットは,最後まで名前を与えられない。彼はヘルメットの下の「目」を描かれない。どこから来たのか,どこへ行くのか,明快な答えは最後まで得られない……1つの未来の「可能性」は描かれるにしても。
 そして,その未来にすら,やはり強い孤独の匂いがたちこめる。

 自分がどこから来たのかを淡々とタクミに尋ねるロボットの姿はとても痛々しい。自分が人間に作られた目的を求め,ロボットの完成の意味を問い,この時代に自分のようなロボットはいないことを悟る彼の言葉はこの上なく切ない。胸が引きちぎられるようだ。

 その切なさの裏側には,あの夏の日のようにロボットに無限の夢を重ねることのできなくなった自分がいる。このロボットは,僕たちが未来の世界で「二度と出会えない」友人の姿なのかもしれない。それはもう,遠い,遠い,遠い,遠い……。

先頭 表紙

「4年の科学」連載の『ヴァイスの空』の単行本化も予定されているそうで,とても楽しみ。原作あさりよしとお,まんがカサハラテツローなのだそうです。 / 烏丸 ( 2003-01-25 04:13 )

2003-01-19 『MISSING』 本多孝好 / 双葉文庫


【それはつまり謎々なのだと。ルコが僕にあてて出した最後の謎々なのだと。】

 昨年の末,この『MISSING』,そして同じ作者による『ALONE TOGETHER』の2冊は,立ち寄る書店のいくつかで信じがたいほどうず高く詰まれて目を引いていた。ドラマ化,映画化等のメディアミックス展開というわけでもないらしい。単に秋に文庫化された『ALONE TOGETHER』の行き過ぎたプロモーションだったのか。いまだ背景,そして平積みのボリュームに応えるほどに売れたのかどうかはわからない。ヨイケドネ。

 当方,もともとドラマ化,映画化といった話題を追うのは得手でない。ベストセラーは3年ほど寝かせて,それでも手元に降ってくるならそれはご縁があるか,本当に読む価値があるのだろう,などと急がないほうである。したがって本書の平積み攻勢にも多少敬遠していたところがあったのだが,第16回小説推理新人賞受賞作収録だとか「このミステリーがすごい!2000年版」10位ランクインとかいう話も小耳に入り,かつ短編集でもあることだし,肩肘張らずに読んでみることにした。

 一読後の印象は,「こういうのなんて言ったっけ,そうか,センチメンタルか」。
 多分,20年かもう少し以前なら,もっと没頭していたに違いない。

 収録された5つの短編には,それぞれ,いちおう「謎」といえるものが内包されている。主人公が後半でそれを解きほぐすという展開は,それなりにミステリの形式を踏んでいるようにも見えるが,これらはやはりミステリーというよりは青春小説と呼ぶべきだろう。
 恋慕というより思慕といったほうが近い,そういった相手が永遠に失われてしまう,それに対して叫ぶわけでも泣くわけでもなく……いずれの短編にも共通する,そういった展開は嫌いではない。「瑠璃」などの作中に登場するエキセントリックな女性像も,どちらかといえば魅かれるほうである。いくつかの作品で主人公の青年が少しばかり背伸びした口調で暑苦しい韜晦を重ねるのも,お約束といってよいだろう(こういった青春小説では,語り手がある水準以上に静謐な境地にいたってしまうと,詩の領域に入ってしまい,やがては語られる必然性を喪ってしまうのである)。

 困った。ことさらにけなすつもりはないのだが,どうもこれ以上うまく表現できない。

 では,こんな薦め方はどうか。
 初期の村上春樹や,大林宣彦監督の尾道三部作を好もしく思われる方にはお奨めかもしれない。あるいは書店店頭で手にとってみて,この表紙に胸キュンとなる方向け。

先頭 表紙

2003-01-12 『あのこにもらった音楽』 勝田 文 / 白泉社 花とゆめCOMICS


【俺には まだ ブラームスがいたからな】

 『のだめカンタービレ』の欠点としては,いや,欠点というのもおかしいのだが,少々読者に緊張を強いる点をあげることができる。この作品には,ギャグにしてもシリアスにしても,1ページで一気に針をマックスまで振り切ってしまうようなところがあって,主人公のだめがいたってノンシャランなキャラクターであるにもかかわらず,読み手は常に反応を強く急かされてしまうのである。

 しかし,峠をタイムアタックするのが車の楽しみなら,コンパクトワゴンで行くあてもなく旧道をのたのたうろつくのもまたドライブの極意というもの。
 続いては同じ音楽を素材にしながら,およそ『のだめ』とは手応えの違う作品を取り上げてみよう。

 勝田文については,何一つ知らない。「文」は「あや」ではなく「ぶん」と読むらしい。
 『あのこにもらった音楽』は,新聞か雑誌の書評欄で取り上げられているのを見た記憶がある。その直後,書店で探すまでもなく目に入り,これも何かのご縁だろうと買い求めた。
 内容は,カバーの惹句によれば次のとおり。
「幼くして母と死別した梅子は,母の幼なじみの女将が営む梅木旅館で健やかに育ちます。旅館の一人息子・蔵之介は,かつて天才と謳われたピアニストでしたが…。ある日,18年音信不通のドイツ人の父が,梅子の前に現れて!? 和風・ほのぼの音楽旅館ストーリー。」

 ストーリーを明かしてしまえば,収録短編6作の最初の一編で梅子は蔵之介とあっさり結婚してしまう。『あのこにもらった音楽』は,梅子と蔵之介の恋愛アップダウンストーリーではないのである。
 では,ひなびた旅館を舞台にした人情話に終始するかといえば,その割には蔵之介の「元」天才ピアニストとしての扱いが大きく,かと思えばその他の登場人物があまりにも音楽に無頓着でもある。
 そのほか,作中の音楽についてはいろいろ言いたいことはあるし(一番納得がいかないのは,日々の練習が軽んじられていることだ),旅館業務についてもリアリティの疑われる面が少なくない。

 ……などと,細かいことにチェックを入れるタチの方には本書はお奨めしない。「ほのぼの」と「のどか」にちょっとドタバタしたギャグをまぶして,三十分から小一時間ばかりまったりしたい方が手に取ればよろしいかと思う。

 それにしてもこの作者,現時点では,というより本質的に「アマチュア」なのではないかと思われてならない。
(「アマチュア」という言葉をとくに悪い意味で用いているつもりはない。ほめているわけでもないが。)

 絵柄がガタガタして安定しない,コマ割りがちまちまとうるさいといった「読みにくさ」について言っているのではない。少女マンガにおいては,たとえば手描き文字が散らされることによる「読みにくさ」は読み手のシンパシーを呼ぶ一種のアイキャッチ技法だし。また,そもそも勝田文より絵やコマ割りのヘタな「プロ」などいくらでもいる。
 勝田文にことさらアマチュア性を感じるのは,作品中の随所で作者が登場人物をどう動かしていいかわからないように見える,そのためである。たとえば蔵之介に怪我をさせてピアニストの道をあきらめる原因となったフランス人ピアニスト,エマ・ベラについてなど,作者自身が最後の一編までどう描いてよいのかまるで決められなかったようにしか見えない。彼女は蔵之介をどうしたかったのか。どうありたかったのか。
 言ってみれば,人間の描き方におけるフォームが身についていないのだ。
 だから,エマ・ベラに限らず,梅子や蔵之介やその他の脇役にいたるまで,あらゆる登場人物たちはしょっちゅうどうふるまうかを決めかねたような表情やポーズをしている。稚拙と言えばケチをつけることになるが,そのどこか途方に暮れた描き方が読み手の緊張を解くと言えば言えなくもない。また,確信にいたらないまま描かれたため,存外に含みのあるよい表情になった,そんなコマが突発的に現れるのもアマチュア性が強いゆえのメリットである。

 逆にいえば,今後作品を描き続けて経験を踏み,プロとしてのフォームを身につけたとき,勝田文はそう面白い作家ではなくなってしまうだろう。少なくともこの『あのこにもらった音楽』のように,読み手を束の間浮世から解き放つ力は失われてしまうに違いない。
 それを乗り越えるには,また違う方向への「突破」が必要なのだ。大きなお世話だけど,多分。

先頭 表紙

けろりんさま,このタイトル,この表紙は「ナニカアリソウ」な気配がありましたし,また実際ぱらぱら読み始めたところではけっこう悪くない……のに,なぜこんなにも誤差があるのでしょうね。ごみごみしたタッチ,ときどきふっと決まるアップなどは初期の清原なつのに近いのですが,どうも,こう,なんというか。 / 烏丸 ( 2003-01-17 02:01 )
ついでに、のだめの5巻は3月発売(超早ペース)。物語としてひとつの山場なので、必見デス! / けろりん ( 2003-01-16 05:37 )
ああっ!この本、私も先日何の予備知識もなく買いました。絵の雰囲気はすごく好みなのに自分が期待した内容でなかったせいか、いまいちな読後感だったんですが・・なるほど。 / けろりん ( 2003-01-16 05:34 )

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