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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-02-24 ちょっぴりエッチな捕物帳 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』 横溝正史 / 徳間文庫
2003-02-10 『短編復活』 集英社文庫 編
2003-02-03 ブルクミュラー 25の練習曲
2003-01-25 『まんがサイエンスVIII ロボットの来た道』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)
2003-01-19 『MISSING』 本多孝好 / 双葉文庫
2003-01-12 『あのこにもらった音楽』 勝田 文 / 白泉社 花とゆめCOMICS
2003-01-10 『のだめカンタービレ(4)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC
2003-01-05 2002年烏丸ミステリ大賞!? 『喰いタン 1』 寺沢大介 / 講談社 モーニングKC
2003-01-02 『続・お父さんは急がない』 倉多江美 / 小学館PFコミックス
2002-12-30 『百鬼夜行抄 10』 今 市子 / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス


2003-02-24 ちょっぴりエッチな捕物帳 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』 横溝正史 / 徳間文庫


【二度と人前に出られぬ体にしてやらにゃ……】

 往路の通勤電車でインクの匂いもかぐわしい新刊を開いては装丁やデザインを味わい,オープニングに引き込まれれば途中下車してドトールから急遽商談が入ったと電話をかける。復路の電車ではずみがつけば,郊外の四阿(あずまや)にたどり着く間も待ち遠しく,グラスとチョコチップを片手に深夜の時を刻む……。
 まこと本好きにとって至福の日々といえよう。
 ところが最近は,いっこうに上司の机の書類が減らないことに業を煮やした有能スタッフH嬢が,行き帰りの通勤電車で目を通すようにと宿題を出すのである。
「Hさん,宿題はいいけれど,これ,社外秘の,電車の中で隣の人に見られてよい書類じゃないような気がするのだけれど」
「ええ,ええ,その通りです。ですから,それがお気にかかるようでしたら,全部ご覧になってから帰ってください」
 そういうわけで,某私鉄線で,一枚一枚に「社外秘」と大きく赤くプリントされた書類の束相手にあたふたとハンコを押したり赤ペンを入れたりしている怪しい中年オヤジがいたら,それが私である。
 ……もちろん,H嬢には申しわけないが,その程度で日々の読書の手を止めるような私でもない。今日はN社,明日はS社とミーティング,もちろんこれらは架空のスケジュールで,黒いレザーのカバンはマンガと文庫本で張り裂けんばかりだ。

 さて,最近は徳間文庫や光文社文庫の,黒い背表紙の捕物帳がお気に入りである。
 『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』『花の通り魔』は,横溝正史の「お役者文七捕物暦」の一連のシリーズ,文庫化は今回が初めてとのこと。

 横溝正史は「人形佐七捕物帳」で知られる,いわば捕物帳の大御所。
 なんでも捕物帳の執筆を始めたのは,昭和八年,大喀血に襲われて転地療養した際に,博文館の「講談雑誌」編集長乾信一郎に半永久的な収入につながるに違いないと勧められて,とのことらしい。それが昭和四十年代の前半まで,二百篇を越す人気シリーズとなった(光文社文庫『人形佐七捕物帳』,縄田一男の解説より)。
 横溝の捕物帳の特徴は,彼のミステリ作品にも共通する,一種の官能臭が濃密に漂う点である。もちろん,現在のインターネットのホームページにあふれるストレートなセックス描写に比べればいずれも穏やかなものだが,その分,想像をかきたてる面もなきにしもあらず。
 たとえば,麻布飯倉の上屋敷で幽鬼のごとく怪しい男の後を追ってみれば,
「そこには女体のはかない哀しみが無残にもまざまざとうきだしている。強い麻薬の陶酔に,姫はおそらく意識をうしなっているのであろう。しかも,姫の肉体は男のあたえる刺戟にたえかねて,のたうちまわっているのである。あらわな腕が男の首にまきついている。……」(蜘蛛の巣屋敷)
 具体的な行為や肢体描写はほとんど何もないにもかかわらず,ねっとりと官能的であることご覧のとおり。
 あるいは,気丈な岡っ引きの娘が悪人どもに捕らえられて,
「憎いやつ,そう聞いてはいよいよ捨ててはおけぬ。二度と人前に出られぬ体にしてやらにゃ……」(比丘尼御殿)
 二度と人前に出られぬとは正直どうされるんだかよくわからないし,この後もとくに描かれているわけではないが,なんともぞくぞくさせられるわけである。

 そもそも,主人公のお役者文七たるや,水もしたたるいい男にしてもとお役者,神免二刀流の達人にして実は名家の御落胤。今はサイコロに身を持ち崩して大根河岸の岡っ引き,だるまの金兵衛のところに居候を決め込んでいるが,ひとたび事件の気配をかぎとるや,狂言一座の一人に化けて(要するに女装して)邸内を探り,大岡越前守を交えての推理に立ち回り,江戸を騒がす怪しい事件に快刀乱麻の大活躍。
 とはいえ,物語前半ではあでやかなお狂言師姿の文七が囚われていたぶられるなど,単にはらはらさせる趣向を越えた隠微さのただよう筆致なのは先にも述べたとおり。

 ただ,上記のような設定が重厚に活かされているのは『蜘蛛の巣屋敷』『比丘尼御殿』の2作までで,3作めの『花の通り魔』では主人公がお役者文七でも人形佐七でも大差ないような具合となっている。また,前2作ではセリフの一行一行にねっとりした江戸言葉が感じられていたものが,3作めではごく現代的な言葉遣いが多くなっており,読みやすい分,興を削がれる面もなくはない。
 逆にいえば,1作2作めの豊穣さたるや相当なもので,映画化を想定して書かれたというが,実際よき時代のよくできた時代劇をみるようなストーリー,スクリーンにちりちりとフイルムの痛みが煌めき,場内の吐息に映写機のカタカタという音が重なるような,懐かしさと楽しさを感じさせてくれる。

 それにしても,「半七」を元祖とする捕物帳の歴史には,「佐七」だの「文七」だの「伝七」だの,「七」のつく名親分が少なくない。宇宙からきたならず者にお縄をかけるウルトラセブンがファイブでもエイトでもなくてセブンだったのはこの伝統にのっとったものであったろうか……。

先頭 表紙

最初の段落はフィクションであり,ここに登場する人物,団体は実在する人物,団体とは一切関係ありません。多分。 / 烏丸 ( 2003-02-24 02:06 )

2003-02-10 『短編復活』 集英社文庫 編


【すごい有名じゃん。刀を千本集めてんだよね。】

 集英社「小説すばる」創刊15周年を記念し,157冊の中から選ばれた秀作短編小説のアンソロジーである。文字通りの短編集なので,こちらも短冊ふうに。

 以前,ある大手出版社の廊下を,当時飛ぶ鳥落とす勢いだったコミック誌の編集者と歩いていると,向こうからきた背広の数人が,さほど狭くもない通路で道を譲るかのようにわきに避け,顔を伏せた。
 今どき大名行列でもあるまいに「なんだいあれ」と尋ねると,利益の出ない文芸誌の編集者だという。どうして赤字の雑誌を廃刊にしてしまわないのかと問うと,総合出版社としての体裁のためだという。
 その言葉の真偽は知らない。単にそのコミック誌編集者と文芸誌編集者の個人的な折り合いの問題だったのかもしれない。それでも,文芸誌が産業として厳しいことは伺えた。

 本書に収録されているのは赤川次郎,浅田次郎,綾辻行人,伊集院静,北方謙三,椎名誠,篠田節子,志水辰夫,清水義範,高橋克彦,坂東真砂子,東野圭吾,宮部みゆき,群ようこ,山本文緒,唯川恵の16人の各作品。
 これで利益が上がらなかったら,文芸というジャンルが産業として成り立つまい,というレベルの作家群である。

 赤川次郎,相変わらず緻密とは言い難いが上手い。浅田次郎,並べてみると赤川次郎と音韻表記がこんなに似た名前だったとは。
 ……と,ここで気がついたのだが,全16作は,作家名の五十音順に掲載されているのだった。なんと無造作。いやむしろ,それぞれの作家の顔を立てようとした結果か。

 ならば逆に,この16作の選から惜しくも漏れた作家,作品は,誰,何だったのだろう。

 ユーモア,ペーソス,恋愛,ミステリ,ハードボイルドなど,さまざまなテイストの作品,それもさすがに高いクオリティのものがそろっている。
 ただ,綾辻行人「特別料理」は,小松左京に同じオチの短編があり,しかも小松作品のほうが格段にディープかつビターで,少々興醒め。
 椎名誠「猫舐祭」も,これより“らしい”作品はあったろうに,と思われないでもない。

 一方,清水義範「苦労判官大変記」は見事。もともとパスティーシュとかなんとかいいつつ,切り口もオチもヌルいことの多い作家だが,本作はとっかかりから最後の1行まで,パロディ歴史小説として実によくできた逸品。

 志水辰夫「プレーオフ」,ストーリーはひねった作りになっているが,登場人物の純朴さ,直裁さが少しばかり異様で,まるで中学生向けユーモア小説のよう。凝った短編の並ぶ中で,かえって最も奇妙な風味をかもし出しているように思われた。

 文庫の表紙は,小説すばる創刊号の表紙イラストの流用。1994年に急逝したペーター佐藤氏の手によるもの。このような強い視線,濃い眉毛に惹かれる。

 巻末の「著者紹介」のそのまた欄外に「特にことわりのないもの以外はすべて,単行本は集英社より刊行されました。現在すべての作品が集英社文庫でお読みいただけます。」との一節。
 こういう商魂は嫌いではない。ただし,「ことわりのないもの以外」では逆ではないか?

先頭 表紙

ふだんジョギングもしてないのに市民マラソンに出場は無謀。それと同じように,長編を読むのには若さと体力がいる,と言ったのは誰だったか……。 / 烏丸 ( 2003-02-11 02:55 )
しっかり老眼もすすみ、集中力はPCに吸い取られ、へろへろになった私には短編を読むのが精一杯。ふぅ・・ / ねんねこ ( 2003-02-10 09:57 )

2003-02-03 ブルクミュラー 25の練習曲

 
 子供向けの作品のセンチメンタリズムつながりということで……。

 ブルクミュラーの練習曲に対する感情,これを何と言い表せばよいのでしょうね。
 楽曲として好もしい,というのとは少し違う。たとえばこれをぜひとも高名なピアニストの演奏で聞きたいとか,CDで手元におきたい,という欲求はとくにありません。
 バスを降り目的地に向かう週末の昼下がりの住宅地,夾竹桃の植わったブロック塀の向こうからとつとつとした「パストラル(牧歌)」が聞こえたりする,そんなシチュエーションがよいのです。

 多分,黄色バイエルあたりではまだその子が「練習させられている」イメージが強すぎ,さりとてブルクミュラーより難しくなってしまうとそれはそれで「ちゃんと弾けないといけない」,そんな痛々しさがあるのですね。
 ブルクミュラーはその合間の,ちょうど自分が「弾ける」ことに指が踊るというかそんな楽しさ,さりとて勉強のためにそろそろピアノをやめなきゃとか音大に進もうかとかそんな重みもなく,要は子供の側が自在で軽やかなのです。

 とはいえ,曲そのものはそう簡単でもない。
 このへんまでくる子は頑張ればとりあえず最後まで弾くことはできるのですが,うまく演奏するのはなかなか難しい。発表会では「タランテラ」や「貴婦人の乗馬」あたりが重なることが少なくありませんが,同じ期間一生懸命練習してきたはずなのに,見事に差が現れます。うまく弾けたら,それはもうとても素敵です。

 今日,たまたま久しぶりにそのページを開いて,それぞれの曲が1ページかせいぜい2ページなのに正直驚きました。どれ,とピアノに向かって……錆びた指は最初のページの「すなおな心」に対してさえまるで動かないのでありました。

先頭 表紙

けろりんさま,タイトルがあるのがよい,というのはまったく同感です。カラスは最初の1冊が赤バイエルでなくメトードローズという教本だったのですが,これはフランスの古い歌などが取り上げられており,その1つ1つの曲名はよくわからないまでも指から胸に染み込んだものです。 / 烏丸 ( 2003-02-10 01:20 )
あややさま,さらには楽譜の入った布のバッグを手に下げたチェックのスカートの少女,小さな麦わら,木漏れ日でカラスの「郷愁」は出来上がりです。ちなみに,丘の上の廃城,角の写真館のガラス戸の観葉植物,ピアノ教室のアトムのマンガなども個人的には。 / 烏丸 ( 2003-02-10 01:20 )
ツェルニーやバッハはイヤイヤやってましたが、ブルグミュラーは好きでした。番号じゃなくて曲にタイトルがあるのがよいのです。これぐらいなら譜面見ればまだ弾けるんですけどねー。(^^;) / けろりん ( 2003-02-04 20:40 )
言い得て妙。私も、ブルグミュラーについては、同じようなことを思います。「帰途」でしたっけ、あれ、冬の日の学校帰りを連想させます。あの練習曲が、どこかのおうちから聞こえてくると、知らない土地でもほっとしますね。 / あやや ( 2003-02-03 09:44 )

2003-01-25 『まんがサイエンスVIII ロボットの来た道』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)


【今の時代にキミはいないんだよね】

 くるくる回転図書館でも何度か取り上げてきた『まんがサイエンス』の最新刊である。
 (既刊の『まんがサイエンス』についてはこちらこちらを参照。)

 今回の主人公は,池上タクミ少年。
 ある日彼の家に「タクミさんはわたしのことを知りませんか」とロボットが尋ねてきた。タクミはこのロボットがどこから来たのか,どこに行くのかを求めて,近所のお姉さんとともに調べて歩く。なぜロボットは人間と似た姿を持つのか。二足歩行することの困難とは。心を持つロボットは実現可能なのか。

 今回は,過去のシリーズでおなじみだったよしおくんもあさりちゃんも,あやめちゃんもまなぶくんも登場しない。これは「5年の科学」「6年の科学」に連載された作品であり,1年間のひと区切りを越えて同一のアイデンティティを保つ必要はないのだ。
 ではあのよしおくんは,あさりちゃんは,あやめちゃんは,まなぶくんはどこへ行ってしまったのか。

 ……などとセンチメンタルな気分になってしまうのは,今回の第VIII巻が,どこかうら寂しい雰囲気を漂わせているせいかもしれない。
 登場する少年型のロボットは,最後まで名前を与えられない。彼はヘルメットの下の「目」を描かれない。どこから来たのか,どこへ行くのか,明快な答えは最後まで得られない……1つの未来の「可能性」は描かれるにしても。
 そして,その未来にすら,やはり強い孤独の匂いがたちこめる。

 自分がどこから来たのかを淡々とタクミに尋ねるロボットの姿はとても痛々しい。自分が人間に作られた目的を求め,ロボットの完成の意味を問い,この時代に自分のようなロボットはいないことを悟る彼の言葉はこの上なく切ない。胸が引きちぎられるようだ。

 その切なさの裏側には,あの夏の日のようにロボットに無限の夢を重ねることのできなくなった自分がいる。このロボットは,僕たちが未来の世界で「二度と出会えない」友人の姿なのかもしれない。それはもう,遠い,遠い,遠い,遠い……。

先頭 表紙

「4年の科学」連載の『ヴァイスの空』の単行本化も予定されているそうで,とても楽しみ。原作あさりよしとお,まんがカサハラテツローなのだそうです。 / 烏丸 ( 2003-01-25 04:13 )

2003-01-19 『MISSING』 本多孝好 / 双葉文庫


【それはつまり謎々なのだと。ルコが僕にあてて出した最後の謎々なのだと。】

 昨年の末,この『MISSING』,そして同じ作者による『ALONE TOGETHER』の2冊は,立ち寄る書店のいくつかで信じがたいほどうず高く詰まれて目を引いていた。ドラマ化,映画化等のメディアミックス展開というわけでもないらしい。単に秋に文庫化された『ALONE TOGETHER』の行き過ぎたプロモーションだったのか。いまだ背景,そして平積みのボリュームに応えるほどに売れたのかどうかはわからない。ヨイケドネ。

 当方,もともとドラマ化,映画化といった話題を追うのは得手でない。ベストセラーは3年ほど寝かせて,それでも手元に降ってくるならそれはご縁があるか,本当に読む価値があるのだろう,などと急がないほうである。したがって本書の平積み攻勢にも多少敬遠していたところがあったのだが,第16回小説推理新人賞受賞作収録だとか「このミステリーがすごい!2000年版」10位ランクインとかいう話も小耳に入り,かつ短編集でもあることだし,肩肘張らずに読んでみることにした。

 一読後の印象は,「こういうのなんて言ったっけ,そうか,センチメンタルか」。
 多分,20年かもう少し以前なら,もっと没頭していたに違いない。

 収録された5つの短編には,それぞれ,いちおう「謎」といえるものが内包されている。主人公が後半でそれを解きほぐすという展開は,それなりにミステリの形式を踏んでいるようにも見えるが,これらはやはりミステリーというよりは青春小説と呼ぶべきだろう。
 恋慕というより思慕といったほうが近い,そういった相手が永遠に失われてしまう,それに対して叫ぶわけでも泣くわけでもなく……いずれの短編にも共通する,そういった展開は嫌いではない。「瑠璃」などの作中に登場するエキセントリックな女性像も,どちらかといえば魅かれるほうである。いくつかの作品で主人公の青年が少しばかり背伸びした口調で暑苦しい韜晦を重ねるのも,お約束といってよいだろう(こういった青春小説では,語り手がある水準以上に静謐な境地にいたってしまうと,詩の領域に入ってしまい,やがては語られる必然性を喪ってしまうのである)。

 困った。ことさらにけなすつもりはないのだが,どうもこれ以上うまく表現できない。

 では,こんな薦め方はどうか。
 初期の村上春樹や,大林宣彦監督の尾道三部作を好もしく思われる方にはお奨めかもしれない。あるいは書店店頭で手にとってみて,この表紙に胸キュンとなる方向け。

先頭 表紙

2003-01-12 『あのこにもらった音楽』 勝田 文 / 白泉社 花とゆめCOMICS


【俺には まだ ブラームスがいたからな】

 『のだめカンタービレ』の欠点としては,いや,欠点というのもおかしいのだが,少々読者に緊張を強いる点をあげることができる。この作品には,ギャグにしてもシリアスにしても,1ページで一気に針をマックスまで振り切ってしまうようなところがあって,主人公のだめがいたってノンシャランなキャラクターであるにもかかわらず,読み手は常に反応を強く急かされてしまうのである。

 しかし,峠をタイムアタックするのが車の楽しみなら,コンパクトワゴンで行くあてもなく旧道をのたのたうろつくのもまたドライブの極意というもの。
 続いては同じ音楽を素材にしながら,およそ『のだめ』とは手応えの違う作品を取り上げてみよう。

 勝田文については,何一つ知らない。「文」は「あや」ではなく「ぶん」と読むらしい。
 『あのこにもらった音楽』は,新聞か雑誌の書評欄で取り上げられているのを見た記憶がある。その直後,書店で探すまでもなく目に入り,これも何かのご縁だろうと買い求めた。
 内容は,カバーの惹句によれば次のとおり。
「幼くして母と死別した梅子は,母の幼なじみの女将が営む梅木旅館で健やかに育ちます。旅館の一人息子・蔵之介は,かつて天才と謳われたピアニストでしたが…。ある日,18年音信不通のドイツ人の父が,梅子の前に現れて!? 和風・ほのぼの音楽旅館ストーリー。」

 ストーリーを明かしてしまえば,収録短編6作の最初の一編で梅子は蔵之介とあっさり結婚してしまう。『あのこにもらった音楽』は,梅子と蔵之介の恋愛アップダウンストーリーではないのである。
 では,ひなびた旅館を舞台にした人情話に終始するかといえば,その割には蔵之介の「元」天才ピアニストとしての扱いが大きく,かと思えばその他の登場人物があまりにも音楽に無頓着でもある。
 そのほか,作中の音楽についてはいろいろ言いたいことはあるし(一番納得がいかないのは,日々の練習が軽んじられていることだ),旅館業務についてもリアリティの疑われる面が少なくない。

 ……などと,細かいことにチェックを入れるタチの方には本書はお奨めしない。「ほのぼの」と「のどか」にちょっとドタバタしたギャグをまぶして,三十分から小一時間ばかりまったりしたい方が手に取ればよろしいかと思う。

 それにしてもこの作者,現時点では,というより本質的に「アマチュア」なのではないかと思われてならない。
(「アマチュア」という言葉をとくに悪い意味で用いているつもりはない。ほめているわけでもないが。)

 絵柄がガタガタして安定しない,コマ割りがちまちまとうるさいといった「読みにくさ」について言っているのではない。少女マンガにおいては,たとえば手描き文字が散らされることによる「読みにくさ」は読み手のシンパシーを呼ぶ一種のアイキャッチ技法だし。また,そもそも勝田文より絵やコマ割りのヘタな「プロ」などいくらでもいる。
 勝田文にことさらアマチュア性を感じるのは,作品中の随所で作者が登場人物をどう動かしていいかわからないように見える,そのためである。たとえば蔵之介に怪我をさせてピアニストの道をあきらめる原因となったフランス人ピアニスト,エマ・ベラについてなど,作者自身が最後の一編までどう描いてよいのかまるで決められなかったようにしか見えない。彼女は蔵之介をどうしたかったのか。どうありたかったのか。
 言ってみれば,人間の描き方におけるフォームが身についていないのだ。
 だから,エマ・ベラに限らず,梅子や蔵之介やその他の脇役にいたるまで,あらゆる登場人物たちはしょっちゅうどうふるまうかを決めかねたような表情やポーズをしている。稚拙と言えばケチをつけることになるが,そのどこか途方に暮れた描き方が読み手の緊張を解くと言えば言えなくもない。また,確信にいたらないまま描かれたため,存外に含みのあるよい表情になった,そんなコマが突発的に現れるのもアマチュア性が強いゆえのメリットである。

 逆にいえば,今後作品を描き続けて経験を踏み,プロとしてのフォームを身につけたとき,勝田文はそう面白い作家ではなくなってしまうだろう。少なくともこの『あのこにもらった音楽』のように,読み手を束の間浮世から解き放つ力は失われてしまうに違いない。
 それを乗り越えるには,また違う方向への「突破」が必要なのだ。大きなお世話だけど,多分。

先頭 表紙

けろりんさま,このタイトル,この表紙は「ナニカアリソウ」な気配がありましたし,また実際ぱらぱら読み始めたところではけっこう悪くない……のに,なぜこんなにも誤差があるのでしょうね。ごみごみしたタッチ,ときどきふっと決まるアップなどは初期の清原なつのに近いのですが,どうも,こう,なんというか。 / 烏丸 ( 2003-01-17 02:01 )
ついでに、のだめの5巻は3月発売(超早ペース)。物語としてひとつの山場なので、必見デス! / けろりん ( 2003-01-16 05:37 )
ああっ!この本、私も先日何の予備知識もなく買いました。絵の雰囲気はすごく好みなのに自分が期待した内容でなかったせいか、いまいちな読後感だったんですが・・なるほど。 / けろりん ( 2003-01-16 05:34 )

2003-01-10 『のだめカンタービレ(4)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC


【フォルテ! 新しいエピソードのはじまりです】

 昨年1年の間だけで4巻というハイテンポ,ハイテンション,『のだめカンタービレ』の最新刊だ。

 ストーリーは世界のマエストロ シュトレーゼマンの思惑を含んでますます先が読めず,夏の高原は天国,一皮焼ければ二日酔い地獄。ぎゃぼ〜!!
 おまけに今回も妙に気合が入っていて,ページの約3割くらいは仮面ライダー龍騎並みのシリアスさだ。千秋は指揮者になれるのか。のだめの才能は開花するのか。

 話の続きは新刊を待つとして,ふとこんなことを考えてみた。

 「『のだめ』はテレビドラマ化できるだろうか」

 それはまぁ,テレビ局がその気になればできるだろう,多分。
 だが,当たり前だが,テレビドラマの柳沢教授がどこを切っても柳沢教授ではなかったように,およそ『のだめ』が『のだめ』でないものになってしまうのは予想にかたくない。
 いや,千秋に今ふう二枚目の俳優をあてがうのは簡単そうだし,のだめだって適当な若手女優がいるに違いない(セリフだけなら演技抜き,地でなんとかなりそうだ)。オケはどこかの音大とタイアップし,指揮やピアノはプロの演奏家の手タレ。なんなら一人くらい本気で高名な音楽家を連れてきてもよい。
 もともと,二ノ宮知子の作風はテレビドラマの強い影響下にある。少なくとも文学や過去のコミック作品よりは,トレンディドラマの血のほうがずっと濃いように思われる。

 しかし。
 テレビにははたして本作にあふれる雑駁な魅力は表現できるだろうか。

 テレビは昔に比べれば技術的にも倫理的にもずいぶんと解放された。
 しかし逆に,スポンサーからの圧力や視聴率を理由に,無難で判で押したような作りになっていることもまた事実(若者の怒りの表現など,テレビ内文法が完成していて,そこから踏み外すことがない。それを若者がまたマネして,リアルと映像のちっぽけな無限ループだ)。『のだめ』を『のだめ』たらしめている要素は,おそらくテレビがもっとも苦手とするものの1つのように思われてならない。それがテレビにとってよいことか悪いことかは知らないが。

 とりあえず二ノ宮知子には,しばらく読みを外し続けてほしい。ただし……しいたけはいらな〜イ。

先頭 表紙

やまのたかねさま,最近,仕事の現場でぽっちゃり系のあんちゃんと名刺交換などする際に,あやうく「ハム系」と口にしそうで我ながらはらはらしています。このマンガ,細かいところで妙にリアルというか説得力があって,それがまたなんともいえません。 / 烏丸 ( 2003-01-12 00:10 )
毎号立ち読みで(爆)連載を楽しませていただいているのですが、最近のテンションあがりっぱなしはすごいですね!(笑)>のだめ 千秋さまカッコいいし(笑)のだめは天然だし真澄ちゃんもおかしいし…。ドラマ化、「アンティーク」っぽくなってしまうのかなあ(;^_^Aと思うと諸手を上げて賛成!とまでは私も言えませんねえ…。 / やまのたかね ( 2003-01-10 08:30 )

2003-01-05 2002年烏丸ミステリ大賞!? 『喰いタン 1』 寺沢大介 / 講談社 モーニングKC


【このお茶は…… 苦過ぎる】

「いったいいつまで,待たせるつもりだ」
「あ,あたし,なぜこんなところに呼び出されたのか,わけがわ,わからないわ」
「まあまま皆さん,お忙しいところまことに申しわけありません。しかし皆さんも例の事件については,気にかかっておられるはず。今夜はかの高名な探偵,鳥丸氏が,例の事件について重要な発見があるということで,こうしてお集まりいただいたわけです。どうぞ,鳥丸さん」
「ああ,ありがとうオガタ警部,いや,ありがとう。……さて,皆さん。魅力的なミステリの条件とはいったい何でありましょう。エッセイ集『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』において,澁澤龍彦は『推理小説はペダンティックでなければならない』と断じました。さらに加えて『それに恐怖,怪奇,パラドックス,ユーモアがふくまれていれば申し分ありません。描写はあくまで冷たく,きざったらしいまでにダンディーである必要があります』とも述べています。異論もあることでしょうが,いかがでしょう。いの一番にペダンティック(衒学的)が出てくるあたり,なんとも澁澤らしい」
「シブサワだかシブガキだか知らないが,青臭い文学談義を聞きにきたわけじゃないぞ」
「ふむ,確かに,ミステリは果たして文学なのか否か,それもたいへん興味深いテーマではあります。が,今夜は魅力的なミステリの条件というテーマをもう少し考えてみましょう。ミス・キョウコ,あなたのホラー映画についての批評記事,楽しく読ませていただきました。ひとつうかがいたいのですが,ホラー映画で映画館が悲鳴に包まれるのはいったいどのようなときでしょう」
「そうですね。もちろん怖いシーンなのですけれども,ただ血なまぐさいだけではだめ。やはり思いがけないところに,いきなり何かが現れたときこそ悲鳴が上がるものなのですわ」
「そのとおり。ミステリでも『思いがけなさ』,これは大切な要素です。いかにも人殺しをしそうな粗暴な者が,いかにも人に恨みを買いそうな金持ちを殺害して金品を奪い,それが明らかになったからといって,誰も驚きはしません。非力で,その金持ちの死に悲しみにくれているように見える,か弱くはかない乙女が実の犯人であったことが露見してはじめて人は驚くのであります」
「その犯人像は,少しばかり古くさくありませんこと?」
「よくご存知でした。これは英米のミステリ黄金期にまま見られたパターンです。最近では読み手の目が肥えてしまい,多少のことでは誰も驚きません。機械的にこしらえた密室は密室とみなされず,探偵が真犯人であっても二番煎じと失笑を買うばかりです。意外な犯人,意外な殺害方法,意外なアリバイトリック……これらの資源はまさに今,世界規模で枯渇しようとしています」
「そのわりにはミステリの大量出版は続いているように見えるが」
「いや,ここ数年は一時ほどではないようです。『新本格』と銘打ってのパズルブームもさすがに熱が冷めてきたように見えます。が,しかし皆さん,ミステリの『思いがけなさ』は本当に枯渇しつつあるのでしょうか。これは,今回の事件の現場に落ちていた1冊の本です」
「『喰いタン』……麻雀の教則本かね」
「いえ,これは物を食べるのが好きで好きで,高級フランス料理から立ち食いソバ,学食のカレーまで,食べてさえいれば幸せという探偵が登場するミステリコミックです」
「なんだマンガか」
「作者の寺沢大介は『ミスター味っ子』『将太の寿司』といった料理マンガで知られる作家です。『ミスター味っ子』はアニメ化され,人気を博しました。ただ,十年二十年後にマンガ評論で重く語られるような作家かといえば,そうはならないでしょう。人情,ユーモア,肩の力の入らない,まことにマンガらしいマンガの描き手であり,それはエンターテインメント,立派なB級の証しでもあります。その寺沢大介が2002年春,『また料理マンガかよ』とぼやきながら講談社の月刊誌『イブニング』に連載し始めた作品が,この『喰いタン』だったのです」
「寺沢大介の過去の作品は署のほうでもファイリングしております。今回の事件の解決に直接結びつくとは思えませんが……」
「警部,それが予断というものだ。まずこの連載第一回目を読んでみたまえ」
「は。……うう。……なんと。ふーむ。いや,なるほど」
「いかがかな。この探偵の素っ頓狂さ。意外な犯人を明らかにしていく手法。犯人逮捕後のしみじみとした味わい。私見だが,2002年に発表された,いかなるミステリ長短編より,この作品は面白かった。物を食べることに底知れぬ意欲を燃やし,殺人事件の現場でも冷蔵庫を開けては中の料理を全部平らげ,現場を叩き出されてなおケーキ屋を捜し求める探偵。そのくせその推理は料理を味わい分ける舌先に負けず劣らず快刀乱麻,痛快無比。ここには澁澤龍彦の規定中,恐怖,怪奇を除けば,ペダンティック,パラドックス,ユーモア,ダンディー,すべてがそろっている。しかもとびきりのテリーヌのように上質なそれが」
「なるほど! すると鳥丸さん,その『喰いタン』が今回の事件の鍵となるわけですね」
「いや,私はあまりに面白かったので,皆さんにもぜひご一読いただこうと思って,ほらこの通り,人数分」
「ま,待ってくださいよ,鳥丸さん。それで事件のほうは」
「それは警察の仕事でしょ。素人に過大な期待をしてはいけないよ」
「いや,その,ですが」
「そろそろヘンリーにワインとオードブルを出してもらおうか。皆さん,今日も警部のおごりだそうですよ」
「おごりって……な,何を言ってるんだ。警視庁若手ナンバー1と言われようが,しょせん若い警官にそんな金があるもんか。一度ならず二度ならず毎回毎回。叔父も叔父だ,もうほんの少し金を貸してくれと,そんなにたくさんじゃないんだ,ろくに推理もできないくせに資料だ食事だと金ばかりかかる探偵と付き合うために,それをあの叔父ときたら少しばかりの金を出し渋るから,あの日俺はマンガなんぞを手にこれでも読んで捜査を勉強しろと言うのを鉄パイプで」
「あ」
「あ」

先頭 表紙

ねんねこさま,カラスはその前に水(お湯?)びたしになった神棚のその後のほうが興味シンシンであります。 / 烏丸 ( 2003-01-05 15:54 )
ふふふ・・・黒にだけ反応しない我が家のプリンター。年賀状は皆ブルーで・・・一種のミステリー感じていただけたかしらね? / ねんねこ ( 2003-01-05 11:32 )
はい,TAKEさま,本年もよろしくお願いいたします。本作は,寺沢大介の代表作とはならないでしょうが,村上もとかでいえば『水に犬』的な位置付けになるのではと……おっと,あちらも食いしん坊マンガだ。ともかく,笑えます。で,けっこう,カッコいい。 / 烏丸 ( 2003-01-05 02:46 )
あけましておめでとうございます。最近、資金不足のため(笑)、イブニング誌をチェックしておりませんでした。寺沢氏のミステリーって、すぐに想像ができません(笑) 早速チェックしてみます。 / TAKE@今年もよろしくお願いします ( 2003-01-05 00:12 )

2003-01-02 『続・お父さんは急がない』 倉多江美 / 小学館PFコミックス


【ほ〜っ プロも打たないところにお打ちになる】

 新春でもあるし,好きな作家を取り上げよう。
 どのくらい好きかといえば,好きで好きで,寡作なのをありがたく思うくらいである。さりとて全作品を暗誦しているとか,そういうのでもない。入手し損ねた単行本も少なくないが,それを追うのに汲々とはしたくはない,そんな感じ。この世にその作家があり,あれらの作品に出会えただけでよかった,どうにも大袈裟だが偽りのないところである。

 倉多江美を知ったのは萩尾望都や大島弓子,竹宮恵子,樹村みのりらが毎号のように作品を発表していた当時(1974年)の別冊少女コミックで,初めて読んだのは「ドーバー越えて」だった。
 驚いた。
 今もあのときの目から火花が出るようなショックを体が忘れていない。24年組全盛,つまりそれまでの少女マンガの在り様に飽き足らず,その状況を激変させていった作家たちのただ中にあって,なおその特異性は明らかだったからだ。

 「ドーバー越えて」は,デビュー2作目にもかかわらず,恐ろしいほどによく出来た短編である。
 主人公はロンドンからパリに留学してきたルーテル(ハンサムでプレイボーイでケンカも強い)。彼はいとこのドミニの家に居候しているが,彼女は化学の実験に夢中でドレスやボーイフレンドには興味を示さない。ところがある日,ドミニの試験管に偶然できた赤い液を飲まされて,ルーテルの心は女になってしまう……。
 設定だけみれば少女マンガにときどき見られる男女入れ替え譚のバリエーションなのだが,ともかくスピードあふれる展開がすごい。手足の細い絵柄が斬新。リズムが独特。セリフが憎い。
 しかも,今見ると,ルーテルのしんっと冴え渡った表情といい,精神分析の世界に踏み入ったのちの暗く重い作品を予見させるコマもあったり。この私評を書くために久々に手にとって読み返してみたのだが,あまりの「匠」に溜息しか出なかった。

 倉多江美の作品は大半が掌編,数少ない長編も短いとっぴんしゃんな事件をつなぎ合わせたものが多く,初期はギャグ,のちに人の心をさくりと鋭敏なメスで切り取って標本にしてみせるような作品も得意とした。その2つは不可分で,たとえばお気楽な王国を舞台にしたファンタジー「ジョジョシリーズ」で不意に死後の世界を描いたり等,およそテーマ選びの自在さが倉多江美の大きな特徴となっている。
 ただし,執着がない,こだわりがない,というわけでもなさそうで,単行本を何冊か続けて読んでみると,「傷つけてしまうこと」というテーマが何度も取り上げられていることに気がつく。傷つける側の受ける傷,傷つけないためには超然とした存在たること。彼女の作品に再三登場する突拍子もない人物たちは,それゆえ迷惑ではあっても,他人を傷つけもしなければ,他人から傷つけられもしない。

 さて,倉多江美はデビュー当時から変貌しただろうか。
 絵柄はさらに白っぽくなり,対象年齢が上がったせいか,いかにも少女マンガ然としたファンタジーはほとんどなくなった。どちらかといえば,どこかの街角の一日をさっくりとスケッチしてみせたような作品が少なくない。
 この作風は,単行本『バンク・パムプキン』(主婦の友社)に収録された作品群,とくに1980年にポップティーンに掲載された「はなび」で定着したように思われる。本作では,若い男女が海辺の花火大会を見に行くシーンが距離をもって淡々と描かれていく。鎌倉駅での待ち合わせから実際に花火が打ち上がるまで,すれ違うなんの変哲もない人々の言動がなぜか読み手の印象に残る。そしてそのスケッチは最後の4ページに青年が彼女を家に連れて行き両親に会わせようと言い出すところで突然動き出して,終わる。
 多分,倉多江美はこのとき「着地」したのだ。
 彼女は現実から浮遊した物語を描く必要がなくなった。それは初期からのファンからみれば少しばかり残念なことではあるが,代わりに,私たちは類似する作家の思い当たらない素描家を得た。

 『続・お父さんは急がない』はそんな倉多江美の最新刊で,前作『お父さんは急がない』から2年半ぶりの単行本である。

 主人公・佐江子の父は万年プロ4段のうだつのあがらない棋士。趣味は居眠りと散歩,夢は三百年生きること。プロは大変なのになぜなったのかと聞かれ,「でも冷静になってみると そうか ほかに何もできないんだ…… …… …… …… と気が付くわけ」とゆっくり答えるような浮世離れした人物である。
 物語はこの父を中心に口うるさい母(夫に甲斐性がないためパートに出ている),高校生の主人公,優等生で囲碁好きの弟,の4人家族それぞれの日々を達筆でさらりと描いていく。
 主人公は,少女マンガ的な表現でいえばとくに魅力的に描かれているわけではない。どこにでもいそうなしもぶくれの「娘さん」である。しかし,それが,何度か読み返すうちに心に染みてくる。単行本2冊のページの大半で主人公は高校生として描かれているのだが,巻末の後日談に大学卒業後すぐに結婚して子供をもうけた姿が描かれており,彼女は結婚を前提としてその魅力が描かれていたことがそこでわかる。うまく言えないが,そうなのである。

 いわゆる「純文学」が蛭子のように骨のない「奉られ者」扱いされて久しい現在,文学の果たすべき役割の何割かをコミックが担っていることは今さら言うまでもない。その中でも闊達な倉多江美の作品は,決して多作ではないものの,いや寡作だけに貴重であるように思われる。
 ……とはいえ,このような大仰な扱いが似合わないのも,また倉多江美なのだが。

先頭 表紙

けろりんさま,今年もどうぞおよろしゅう〜。倉多江美は,ご本人もカバーにて「わたしってまだ漫画家なのかな,と思ってしまうこのごろ」とのたまわっていますね。単行本はいまやPFコミックスの3冊(本作含む)除いてすべて品切れないし絶版。うーん。 / 烏丸 ( 2003-01-03 23:58 )
今年もよろしくお願いします。倉多さんってまだ描いてらしたんですね〜。このシリーズ読んでみたいです。私もアルプス社のプリンタを愛用してたんですが、故障をきっかけにE社に乗り替えてしまいました。文字はすごくきれいなんですよねー。 / けろりん ( 2003-01-03 03:23 )

2002-12-30 『百鬼夜行抄 10』 今 市子 / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス


【お手々もね まだ片っぽしかないんだって】

 さて,どうしたわけか最近誰も口にしたがらないが,岡野玲子の『陰陽師』が山岸凉子の『日出処の天子』の影響下に初めて成立し得たことは今さら言うまでもないだろう。
 少女マンガの世界に歴史,それも飛鳥時代という描きにくいはずの極めて古い時代を持ち込み,そこで単なる恋愛絵巻ではなく国政,文化,さらには宗教,モノノケさえ持ち込んだ『日出処の天子』の功績はわざわざここで主張する必要もない。
 振り返って『陰陽師』は,夢枕獏の比較的淡白な原作に,『日出処の天子』の切り開いたものを全面的にかぶせたような構成になっている。時代的にも近いし,オカルティックな(魔性の)主人公は底知れぬ知性と能力を認められながらも朝廷で直接権勢をふるおうとせず,ワトソン役の多少とぼけた好青年と親しく,朝廷(国)の行く末を宗教的な目で見据え,周囲の人々に理解できぬ特異な儀式を取り計らう。決して多弁とはいえない主人公が,説明を排した物言いでワトソン役を煙に巻くのも似ていれば,後半女が出てきてストーリーが水びたしになるという大難点までそっくりといえばそっくりである。
 『日出処の天子』は強引というか中途半端な幕切れもあって(白泉社から角川書店への作者の移籍にからんだとも噂される),最近では山岸凉子の代表作という扱いはあまり受けていないように思われる。いや,むしろ現時点での評価の低さは驚くばかりだ。
 『陰陽師』が今後どのような影響を残せるかは……。

 おっと失礼。『日出処の天子』や『陰陽師』のレビューではなかった。今回は今市子『百鬼夜行抄』の新刊の話である。

 『日出処の天子』が『陰陽師』に与えた多大な影響は先に述べたが,『日出処の天子』が残したものは設定,ストーリーといった大枠だけではない。とくにホラー系少女マンガにおける「モノノケ」たちの描き方への影響は見逃せないだろう。
 ここでいう「モノノケ」とは,厩戸皇子の指の間をちろちろとうごめき,水をかけると追い払われてしまう,あれである。当時,あの怪異の描き方にショックを受けた者は少なくなかったのではないか。少年マンガに「ぐわーっ」と登場するような血まみれずちゃぬたの化け物とはまったく異なる,新たな表現技法として,あのちょろにょろ小物モノノケに日本中のマンガ家のタマゴたちが感銘を受けたのは間違いない。その結果,畳のへりをうよふよするようなモノノケの描き方は,ホラー系の少女マンガでは今日かなり日常的になった。
 そのようなモノノケを描ける代表的な作家の一人が,今市子である。

 ところで,ここで「モノノケ」という言葉を選んでいるのには,理由がある。
 『日出処の天子』も『陰陽師』も,さらには『百鬼夜行抄』もそうなのだが,ホラー,霊感系の少女マンガにおいては「神」と「妖怪」と「幽霊」の区分が不明確なのである。『日出処の天子』や『陰陽師』では,主人公は人間界とは違う次元の存在を見たり感じたりコントロールできたり,という描き方をされている。したがって,「神」と「妖怪」には大物か小物,高次か低次かの区別はあれど,本質的にそう大きな違いはない。彼らが人間に害悪を為すのはたまたまの結果であって,象が蟻を踏む,踏まないに近い。
 『百鬼夜行抄』では主人公はせいぜい少し「見える」だけなので,「神」にあたる存在はめったに語られず(登場したこともあるが,どちらかというと土着の強力な妖怪としての描かれ方だった),作中では「妖怪」「妖鬼」といった言葉が頻繁に使われる。ここでいう妖怪の多くは,鳥や蛇,狐狸の類など,要するに長生きした生き物,土地や樹木,はては物品などから派生した精霊,アニミズムの系譜である(「百鬼」というタイトルは,確かに身を表している)。
 したがって,『百鬼夜行抄』は「キツネ,タヌキにばかされた」ような手ごたえの話が多くなり,登場人物は「ひどいめ」には遭うが死んだり地獄に落ちたりはしない。

 ……などと安心していると,突然足をすくわれることがある。
 なぜか。
 それは,ときどき「幽霊」の話がまざってくるためだ。

 『百鬼夜行抄』における幽霊たちは,ある意味妖怪たちより格段に始末が悪い。
 妖怪は基本的に人間界と互いに接点をもたぬよう心がけているが,幽霊はなんらかの妄執をもって現世をさ迷っている。あるいはある場所に足を踏み入れることで,スイッチが入るように突然かかわりをもってくる。
 これらの霊や怨念のうち,比較的妄執の軽いものは,主人公たちの活躍によって「往生」する。主人公たちが一時的に危機的状況に陥る場合もあるが,そこは主人公を守る式神・青嵐がぶつぶつ言いながら守る,という筋書きである。非常に大雑把な言い方をすれば,幽霊こそ登場するが,実質は陽性のオカルト冒険譚である。
 問題はそう簡単にはいかない霊の場合だ。その大半は人間界における事件(多くは殺人事件)で殺されたほう,ときによると殺したほうの怨念が色濃く残り,トラブルを引き起こすものである。……これが,怖い。『百鬼夜行抄』が「飯嶋律と愉快な仲間たち」ではなく,ホラー作品であったことを唐突に思い出される瞬間である。
 いくつかの物語で,霊や怨念は,主人公たちがなすすべもないまま,第三者に対する彼らの目的を達成する。主人公たちは,ただそれ以上かかわりにならないよう,脱出するしかない。主人公たちが立ち去ったあとの状況は……想像して楽しいものではなさそうだ。

 今回発売された第十巻は,そんな幽霊譚がいくつか含まれた,ここ数冊では久しぶりに怖い1冊である。気をつけよう。モノノケの世界に時効はないのだ。

先頭 表紙

人格のない幽霊といえば,杉浦日向子『百物語』に,庭に現れた祖父の霊が手も使わずに八つ手の葉をかじる,という話が出てきます。ふりかざすような怖さはありませんが,ちょっと「いやな」感じ。 / 烏丸 ( 2002-12-30 21:53 )
少女(ばかりではありませんが・・)漫画では「幽霊」にも知性の人格が与えられている。のがおもしろいですね。果たして「霊」に知性があるのか?私的には現時点では否定しているんですけどね〜ああ・・岡野さんの対談本で読みました。ほ〜ってそれだけでした。 / ねんねこ@漫画表現やめたら?って感じ ( 2002-12-30 21:10 )

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