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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2008-10-06 名探偵、意地悪に黒く笑う 「とむらい鉄道」 小貫風樹 / 初出 光文社文庫『新・本格推理03 りら荘の相続人』
2008-09-28 大人の距離、大人の眠り 『シマシマ』(現在2巻まで) 山崎紗也夏 / 講談社モーニングKC
2008-09-21 名探偵、虚実とりまぜること悪魔のごとし 『硝子のハンマー』 貴志佑介 / 角川文庫
2008-09-13 名探偵は泣き言の名手 『生首に聞いてみろ』 法月綸太郎 / 角川文庫
2008-09-06 日なたと日かげの物語 『オチビサン 1巻』 安野モヨコ / 朝日新聞出版
2008-08-25 名探偵はペダントリーがお好き 『古墳殺人事件』 島田一男 / 扶桑社文庫
2008-08-16 さよならヤングサンデー
2007-04-16 届かないねーその充電,僕まで届かないね 「コミックチャージ」 角川書店
2007-04-02 濁流のような情報そして時間 『気まぐれコンセプト クロニクル』 ホイチョイ・プロダクションズ / 小学館
2007-03-19 近況,『眠れる美女』,加えて『アヒルと鴨のコインロッカー』,今さら『Death note』


2008-10-06 名探偵、意地悪に黒く笑う 「とむらい鉄道」 小貫風樹 / 初出 光文社文庫『新・本格推理03 りら荘の相続人』


【事態を解決することと、解明することは違うんだ】

 ミルク味もいいだろう。ナッツ入り、ウィスキーボンボンも捨てがたい。しかし、舌の奥でほろ苦く溶けるブラックチョコレートの味わいはまた格別だ。
 探偵も同様、五月蠅いのから呑気なのまで、いろいろ登場するから楽しい。楽しいが、語ることなすことに容赦逡巡ない黒い探偵の切れ味鋭いパフォーマンスを味わいたいというのもまた、秋の夜長の心音である。
 そんな探偵を一人紹介しよう。
 久世弥勒(くぜみろく)。ミステリ短篇「とむらい鉄道」に登場する探偵である。

 作者の小貫風樹(おぬきかざき)は、その名において職業作家ではない。プロの作家がペンネームを用いて寄稿した可能性も否定しないが、その蓋然性は低い(後述する)。
 今のところ、本格推理小説の投稿先として知られる『新・本格推理』(※1)の『03 りら荘の相続人』に「とむらい鉄道」「稷下公案」「夢の国の悪夢」の3作が発表されているのみ。

 ともかく、「とむらい鉄道」が際立って素晴らしい。
 「全国赤字路線安楽死推進委員会会長」を名乗る何者かによる爆破テロが全国で頻発し、語り手春日華凛(かすがかりん)の叔父も巻き込まれて死んでしまう。葬儀の帰りのローカル線で間違えて終電を途中下車してしまった華凛だが、天候は最悪、体調も思わしくなく、途方に暮れたところに現れた青年は、彼女を自分の宿に案内する。彼こそはテロ犯なのだろうか、それとも……。

 奇妙な味付けと間断ないスピーディな論理展開がスリリングな作品だが、体幹に「意地悪」としか言いようのない探偵のスタイルがある。作者がそのような言葉で意識したかどうかは知らないが、「底意地の悪い」探偵を描こうという強い意思が、すべてのエピソード、すべての論理展開を導き出した、そんな印象である。

 この作品は、アマチュアの登竜門たる『新・本格推理』に掲載された後、日本推理作家協会編集の『推理小説年鑑─ザ・ベストミステリーズ〈2004〉』(※2)にも収録された。2003年に国内で発表されたすべてのミステリ短篇から20作品中の1として選ばれたということである。アマチュアの投稿作品がこの年鑑にそのまま選ばれるのは極めて珍しい。珍しいがそれだけの価値はある。一読をお奨めしたい。

 なお、小貫風樹はプロ作家のペンネームではあるまいと考えたのは、同時掲載の「夢の国の悪夢」について二階堂黎人が無理やり探偵のキャラクターを変えたとの推移が前書きに載っていたため。いくら何様俺様二階堂をもってしても、プロ作家にそこまで強要はすまい。また「とむらい鉄道」そのものに目をやれば、華奢で女性とみまがう久世弥勒が前半はそれらしく「ですます」調で喋っていたものが、後半ではつっけんどんな「だ・である」調になってしまう不統一、とくに「反省もしやがらないで」などの野卑な言葉遣いはこのクールで論理的な探偵に似つかわしくなく、このあたりおよそプロの仕事とは思えない。
(職業推理小説家でも、その程度の不統一はあるのではないかって? 確かにあるかもしれない。しかしそういう輩はプロと言わない。言うべきでもない。したがっていずれにしても小貫風樹はプロではない。 Q.E.D.)


※1…光文社文庫『新・本格推理』は、1993年の発刊以来、読者から募集した本格推理短篇を編纂している。初代編集長は鮎川哲也、現在は二階堂黎人。このシリーズでアマチュア投稿家として名乗りを上げ、その後単行本を発刊するなど活躍中の推理作家も少なくない(北森鴻、柄刀一、霧舎巧、光原百合、大倉崇裕、石持浅海、蘇部健一、黒田研二、剣持鷹士ほか多数)。

※2…この年鑑は、講談社から『ミステリー傑作選』(日本推理作家協会編)シリーズとして1974年から文庫化されている。「とむらい列車」はその1冊『孤独な交響曲』に収録。

先頭 表紙

2008-09-28 大人の距離、大人の眠り 『シマシマ』(現在2巻まで) 山崎紗也夏 / 講談社モーニングKC


【僕はただの添い寝相手ですから 抱き枕と一緒ですよ】

 山崎紗也夏(沖さやか、山崎さやか)は、青年誌らしい、コマ割りや時制のはっきりした明瞭なペンタッチと、女性作家ならではの不定形、情感あふれる心理描写力を合わせもつキメラ的作家である。小奇麗なコマ運びに油断していると足を掬われる。

 沖さやかと名乗っていた初期には描きたいことのクオンティティが作家としてのクオリティを上回って、ともすれば白っぽい稚拙な線画にハードな内容を詰め込み過ぎ、たとえば『マイナス』という作品では掲載誌の回収騒ぎを巻き起こしている(ハイキングで道に迷った女教師が、同行の女児が頭を打って死んだのをいいことに躊躇なくそれを焼いて食べるシーンがそのまま載ってしまったのだから、回収騒ぎ以前に編集部や印刷所のチェックを通り抜けたことのほうが不思議だ)。

 しかし、気がついてみればこの作家は圧倒的な筆力を身につけ、山崎さやか名義の『NANASE』ともなると、その画力はもはや爆圧的だ。筒井康隆の『七瀬ふたたび』をベースにしたこの単行本4冊、ストーリーはほぼ原作にならいながら、あらゆるコマ、あらゆるキャラクターが読み手を圧倒し、ここでは初期とは逆に、ストーリーより見開きそのものが暴走するかのごとき事態が発生している。マンガ作品としてすさまじいものでありながら、バランスに欠け、安易に推奨しづらいのもそのためだ。

 その後作者の技量はさらに変遷し、モーニングに掲載誌を変えて連載開始された『はるか17』では、意識的にか無意識にか、絵柄もストーリーの突飛さもむしろ凡庸なほどに抑えられ、それゆえ人気連載として作者の作品中で最長の作品となった。『はるか17』はありがちなタレント成長物語ではあるのだが、数週に一度エキセントリックなコマが発露する、掲載の待ち遠しい連載ではあった(はるかが舞台で人形を演ずるシーンには、比喩でなく鳥肌が立った)。

 さて、現在モーニングに連載中の『シマシマ』だが、これがまた、凄い。

 アロマエステ「グリーン」のオーナー・箒木汐(シオ)。彼女にはもう一つの顔がある。それは、眠れない女性達に添い寝相手の青年達を派遣する<添い寝屋>「ストライプ・シープ」の店長。……

 添い寝屋といえば、吉本ばなな初期の名品『白河夜船』を思い出す。『シマシマ』の主人公も眠りに振り回されてはいるが、『白河夜船』ほど設定は暗くない。観念的でもない。

 『シマシマ』というタイトルは、主人公シオの
  隣に寄り添いはするものの 決して交わらない平行の関係
という添い寝屋としてのポリシーによる。
 つまり、この作品は、シオとイケメンでオシャレな「ストライプ・シープ」の4人のメンバー(ガイ、ラン、リンダ、マシュ)、シオと元・ダンナ、シオとエステの客、添い寝屋のメンバーと眠れない女性客達、などなど、登場人物同士のつかずはなれずの「距離」の物語である。そのあたりをクール、かつ手札を隠さず描いてみせる作者の手腕は冴え冴えとして見事。また、その気になって読めば、大小のあらゆるエピソードやセリフがこの「距離」をテーマにしていることが伺えるのも天晴れだ。

  警戒されて当然…… でも…… こっちだってトラブルは避けたい
     (添い寝客に事前カウンセリング)

  どれくらいぶりだろ男の人と寝るの…… あっこれこれ…… この感じがいいかな……
     (添い寝客がガイと同衾して)

  肌に触れていくうちに こっちのエネルギーをどんどん吸い取ってしまうような人がいる……
     (エステの客について)

  男の子4人がしょっちゅう泊まっていって 一度も色目で見られたことがない……
  コイツらって…… 植物?

     (ストライプ・シープのメンバーについて)

  ホっとする…… あれ以上自分のペース乱されるのすごく嫌……
     (意中でない男に食事に誘われて)

  会わなきゃいけないのか……
     (振り捨てた男について)

  僕はただの添い寝相手ですから 抱き枕と一緒ですよ
     (添い寝客に)

  いろいろこらえて笑ってくれたじゃないですか
     (添い寝客に)

 そしてもう一つ、この作品を読み返すたびに感じることがある。
 マンガ作品についてはよく「キャラが立つ」という言葉が使われる。たとえば新人の投稿作品について、技術はないがキャラは立っている、ストーリーはよくまとまっているがキャラが立ってない、と言われたりする、あれだ。
 『シマシマ』に登場する人物はいずれもすっきりキャラが立っている。シオもクールなら、添い寝屋に招かれた学生4人もそれぞれ手本にしたいようないい出来だ。だが、それだけではこの作品のリアリティは説明できない。
 キャラ以外に、もう一つ立っているものがある。この作品のあらゆるコマに描かれた「モノ」である。たとえば、眠れない女性の部屋にあふれるブランドの紙袋。食器。スリッパ。カーテン。シオが用いるエステ用の小物、大物。缶ビール、グラス、目覚まし時計、ソファ、蛍光灯のヒモ。それらすべてに意味があり、何一つおそそかにされていない。こういうことに悩む女はこういう部屋に住み、このような衣服を選び、こういう値段の、こういう小物を集め、このように扱う。
 それらの「モノ」が質、さらに量においてすべて的確に描かれなければ伝えられないもの、この作品はそういった精度の上に成り立っている。

 『シマシマ』については、おそらく、もう少しエピソードが溜まると日テレあたりからドラマ化のオファーがかかるのだろう。テレビに詳しくなくても、シオ、ガイほか、登場人物達の配役が容易に予測できる。だが、現在の幼児化したテレビドラマの手腕で、この大人の作品は描ききれるだろうか?

先頭 表紙

2008-09-21 名探偵、虚実とりまぜること悪魔のごとし 『硝子のハンマー』 貴志佑介 / 角川文庫


【純子は、とうとう我慢しきれなくなって訊く。「何か、つかんだの?」「まあ、いろいろと」「もったいぶらずに教えて」】

 あまり大きな声では言えないが、ミステリは嫌いなほうではない。
 我が家の二階の納戸、一階のクローゼットからあふれ出し、寝室まで占拠しつつあるミステリ本の土石流。その土ぼこりの向こう、つり上がった目、尖った角……も、もちろん今のは目の錯覚に過ぎない。

 かくのごときミステリ好きではあるが、洋の東西、古今、快作駄作を問わず、納得がいかない、というより許しがたい場面がある。
 それは、巻も半ばを過ぎ、ワトスン役が名探偵に犯人の名を問うと、まるでそれが聞こえないかのように虚空を見つめた名探偵、「もう一つ、それさえ確かめられれば」などと考え込み、その合間に真犯人がどこかで新たな犠牲者の胸にナイフを突き立てる、あのおなじみの展開である。
 理解できない。そこで考え込むヒマがあるなら「犯人はこいつかこいつ、どっちか。まだ調べたいことがあるので逮捕は無理だけど、これ以上被害者が増えないよう見張っててください」と言えばすむことなのだ。探偵が「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)と情報共有の責務さえ果たしていれば、新たな被害者が1つしかない生命を奪われることもなかった。中間管理職なら降格だし、経営陣だとしても株主総会か取締役会で責められること必定。探偵と役人だけが甘やかされてよい理屈はない。

 先の『生首に聞いてみろ』の際にも取り上げたが、名探偵なるもの、往々にして推理力をほこる割には目の前の犯罪に弱い。「問題を最後まで教えてください。そうすればたちどころに解いて見せましょう」、これでは足の速い連続殺人事件には対処のしようがない。というより、数少ない状況証拠からほかの誰も気づかない真相を暴き出すという彼の特殊技能をこそ、先の展開は否定する。情報を上げ膳据え膳でそろえてもらえるなら、あんたでなくとも犯人くらい特定できるわ、と世界中のレストレード警部たちも声を大に主張したいに違いない。

 要するに、あれだ、殺人鬼が跋扈跳梁するコテージで、一人シャワーを浴びてみたり湖に漕ぎ出したりするお嬢さん、それとどっこいレベルの振る舞いが「もう一つ、それさえ確かめられれば」展開なのである。死体が増えればサスペンスは増すかもしれないが、その分探偵は無能に見える。
 もちろん、探偵が自分の推理を常にオープンにワトスンに語ってしまっては大団円前に犯人が割れてしまう。ワトスンに、そして読者に手の内を明かさないなら、それは、探偵が「実は無能」以外の、何か別の理由が必要となるに違いない。それに回答はないのか。その回答に基づいたミステリはないのか。

 回答はある。「探偵は意地悪」、これだ。

 さて、本題。
 『硝子のハンマー』は、『黒い家』などで知られるホラー作家貴志祐介の(おそらく)初めての本格推理長編だ。
 『硝子のハンマー』は2005年に日本推理作家協会賞を受賞するなど、発表時期、評価、ボリュームなどいろいろな面で『生首に聞いてみろ』と酷似しており、角川もこの2作を「ペア」ととらえているふしがある。同月同日に文庫化された両作品には解説の変わりに貴志、法月両作家の座談会が相互のインタビューという体裁で掲載されている。
 だが、当然ながら2作で違う点も少なくない。その最たるものは、登場する探偵のキャラクター、そして資質だ。

 『硝子のハンマー』では、エレベーターの暗証番号や廊下の監視カメラなどによって二重三重に閉ざされた密室で上場直前の介護会社の社長が殺される。人に危害を加えないようプログラムされた介護ロボットを組み合わせたパズル趣味、探偵役に怪しげな「防犯コンサルタント」を持ち出すアイデアが秀逸だ。
 そしてこの探偵役の榎本径がまた、実に素敵に「意地悪っ」なのだ。彼は目的達成のためなら多少の逸脱など躊躇しない。「探偵」より今どき珍しい「悪漢」という言葉が似合うかもしれない。榎本は自分の推理の途中経過をよく喋るが、それには必ず裏に隠された目的がある。隠すときには隠す意味、隠さないときには隠さない意味がある。本作ではワトスン役としてそれなりに有能な女性弁護士、青砥純子を配しているのだが、榎本のさばきが巧みすぎ、相対的に相手にならない。
 探偵とワトスンのあり方は、こうでなくては。

 本作のメイントリックは魅力的だが、わかりやすいヒントも随所に用意され、読み手が推察するのも困難ではない。また、犯人も意外とか驚愕とかいう按配ではなく、どちらかといえば唐突な印象のほうが強い。つまり、本作ではハウダニット、フーダニットに強く焦点が当てられているように見えて、実はそうでもない。作者は事件の真相については、読者が読み当てることをむしろ期待し、そのためにヒントをばらまいた気味がある。
 では、読み終えてすぐ再読したくなるような本作の魅力はどこにあるのだろう。それはまさしく主人公の「探偵ぶり」、そのテイストではないだろうか。意地悪で悪漢、口は軽いが本音はうかがわせない……。
 探偵のあり方は、こうでなくては。

 そういえば、(まさしくこの貴志祐介が)法月綸太郎を評して用いた言葉が「マジシャン」だったが、あなたは「マジシャン」という言葉にどのような風貌を思い浮かべるだろう。魔法使い、魔術師、奇術師……いろいろあるだろうが、すんなり連想できるのは、黒の燕尾服、口ひげをくりんと巻いて、得体の知れない笑みを浮かべた、あの躊躇を知らないメフィストフェレス、「悪魔」の姿に近いものではないだろうか。

 「悪魔のように賢い」と人は口にするが「天使のように賢い」とは言わない。元来、天才的犯罪人を凌駕する探偵は、悪魔のごとくあるべきなのである。「しまった」「ぼくの責任だ」などと泣き言を口にする悪魔はいない。いたとしたなら、そんなのは悪魔としても探偵としても三流に違いない。

先頭 表紙

2008-09-13 名探偵は泣き言の名手 『生首に聞いてみろ』 法月綸太郎 / 角川文庫


【綸太郎は乾いた唇を噛んでうなだれた】

 横溝正史の生成した金田一耕助は、事件にかかわりながら殺人の被害者が増え続けるのを妨げられない探偵として知られている(『活字探偵団』(本の雑誌編集部編 / 角川文庫))。モジャモジャ頭をかきむしりながら石坂浩二が「しまったああ」と顔をしかめるシーンの数々を思い起こせばさもありなんと思う。
 これには異論もあって、『八つ墓村』『悪魔が来りて笛を吹く』など被害者の数がめったやたら多い一部の事件を除けば、金田一の成績はさほど悪くないという。
 だ、と、すると。ことは重大、金田一個人の名誉でことは済まされない。なぜなら、世の名探偵たちは、そろいもそろって、目の前の殺人を防げないこと、モジャモジャ頭の石坂浩二とどっこいどっこいだってことなのだから(ちなみに、『八つ墓村』も『悪魔が来りて笛を吹く』も金田一役を演じたのは石坂ではなかった。よほどまずい)。

 実は、金田一シリーズはまだいい。横溝の作品の多くにおいて、背骨となる主題は、閉ざされた村社会の因習、一族内の利害であって、犯人はその構造の虜となり、反逆者となってその社会に楔を打とうとする。探偵は起こった事象、その意味を後から読み手あるいは観客に説く道化にすぎず、だからこそ事件はことをなし終えた犯人の自殺によって落着し、語り役を終えた探偵はただ去っていくばかり。

 しかし一方、高度な完全犯罪を目論む天才的犯罪者との論理(パズル)合戦を主旋律とする本格推理作品において、探偵が目の前の事件を阻むことができないのはあまり望ましいこととはいえない。それは探偵が未成熟な受験者にすぎないこと、より直裁にいえば犯罪抑止にはまったくもって無能だということを曝け出すのだから。

 さて、本題。
 法月綸太郎の仕事は手堅い。ここでいう「法月綸太郎」は作中の同名の探偵のことではなく、ミステリ作家のほうだが(作中の探偵も本業はミステリ作家。ああ鬱陶しい)、デビュー当時から最近にいたるまで、文体、犯行を詰める論理ともに緻密かつ重厚な手応えは変わらない。のちに探偵の存在意義とかいう解けない迷路にはまり込み、根の暗い短篇や論評を主とするようになるが、その時期にしても文体、構成の手堅さは同世代のいわゆる「新本格派」の中でも図抜けていた。逆にいえば破天荒な勢いに欠け、作風に華がない、そういうことでもあった。
 『生首に聞いてみろ』はその法月綸太郎の久方ぶりの長編で、2005年の「このミステリーがすごい!」で堂々1位を取得している。文庫にして500ページをほとんど1つの事件で費やしているのだが、伏線から謎解きまで乱れず散らさず、みっちりと虎屋の羊羹を積んだような作風で、その犯行の特異性含め、評価を受けるに足る力作、労作であるといえる。

 ……だが、理屈ではそうとらえつつも、実際に読んでみるとこれが諸手を踊らせるほどには楽しめない。なぜだろう。被害者、加害者を含め、文字数を費やして丁寧に描かれている割にはなんら人間的厚みが感じられない(たとえば被害者はちっとも気の毒に見えないし、他の登場人物たちも被害者が亡くなったことをさほど嘆いていない。全員、ストーリーのための駒なのだ)、しかし、それだけではない。
 とどのつまり、探偵が、「情けない」のだ。何箇所か抜き出してみよう。

 目の前が真っ暗になった。…(中略)…それどころか、自分は取り返しのつかない大失敗をしでかした可能性がある。

 「(前略)…ぼくの手抜かりです。弁解の余地もありません」
 綸太郎は乾いた唇を噛んでうなだれた。目を伏せているのに、川島の視線を痛いほどに感じる。


 「(前略)…わずか一時間ちょっとの間に、彼女を救うチャンスが二度もあったのに。ぼくはそのチャンスを、二度ともつかみそこねてしまったんだ……」

 ご覧のとおり、「しまったああ」と叫んでモジャモジャ頭をかきむしる探偵と変わるところがない。問題は、この柔弱な探偵が、一方では推理を駆使して事件の真実を明らかにする二枚目探偵の役割を担っていることだ。バランスが悪いのである。それ以前に、そもそも、言い訳がましい。

 単行本のほうの帯の惹句で、有栖川有栖は「お帰り、法月綸太郎! 名探偵の代名詞よ。この事件は、あなたにしか解けない」、貴志祐介は「伏線をたぐり寄せるマジシャンの手際は、驚愕と納得を保障する。」とともに絶賛である。
 帯の惹句などしょせん本を売らんかなのコピーだから眉に唾々するにせよ、「名探偵」にして「マジシャン」が、演出でなく、先の引用のような情けない地をさらしてよいものだろうか?

 金田一は事件が終われば去っていくが、法月は留まって父親の刑事と同居。とことん踏ん切りの悪い探偵なのである。

先頭 表紙

ピンク・フロイドのキーボード奏者、リチャード(リック)・ライト死去。65歳。エコーズ冒頭のシンセ音、虚空のスキャット。 / 烏丸 ( 2008-09-17 01:42 )

2008-09-06 日なたと日かげの物語 『オチビサン 1巻』 安野モヨコ / 朝日新聞出版


【ひとりだって楽しいもの】

 朝日新聞で毎週日曜日に掲載されている『オチビサン』、連載のはじめの頃を見逃していたこともあり、奇麗な単行本にまとめられて、とても、嬉しい。

 登場人物は毎日遊びに忙しい、きりりとした顔つきの「オチビサン」、その友だちで読書家の「ナゼニ」、その友だちの「パンくい」。彼らは昭和の色濃いどこかの町で日々季節をめくる。折々の花。水遊び。柏もち、かき氷、枯れ葉ふみ。日なたの匂い。

 単行本では右ページにグレースケールの英語版が掲載され、作品のリズムやシニカルなやり取りがスヌーピーの『ピーナッツ』によく似ていることがうかがえる。同時に、『オチビサン』の世界が『ピーナッツ』のように明るく乾いた陽光の下にあるわけではないことも、よくわかる。

 子どもと、犬と、老人しか登場しないオチビサンの町は「死者の国」ではないか、ふとそんなことを思う。
 一年を通して(風呂の中でさえ)脱ぐことのないオチビサンの帽子は、ある種の病気、治療の副作用を示すものだったのではないか。

 そうでないなら、何ページかに一度、子どもを亡くした母親のようにたまらなく切なくなる、読み手のこの思いをどう説明すればよいのか。去っていくだけの電車、「どこか遠くの町」にいるという父親、間に合わなかった電話、それらから立ち上る寂しさをどう納得すればよいのか。

 いずれにしても、夕暮れ時に子どもが一人火鉢の前でざぶとんに座って「・・・・寒いな・・・」とりりしく窓を見上げる、それでコマを閉じる作品になどそうそうめぐり合えるものではない。

 四季を描くことは絶え間ない死と出合うこと、などと思ってみたりもする。

先頭 表紙

2008-08-25 名探偵はペダントリーがお好き 『古墳殺人事件』 島田一男 / 扶桑社文庫


【要するに、天才的計画だよ。……この一事によっても、犯人のずば抜けた計画性が察せられるよ】

 古来「探偵」といえばペダンティック(衒学的)と相場が決まっている。
 念のため先に明らかにしておくと、「衒学」は決してほめ言葉ではない。「学問のあることをてらうこと。学問のあることをひけらかし、自慢すること」(広辞苑)の意であり、つまりはそういうことに過ぎない。

 扶桑社文庫の『古墳殺人事件』は、のちに部長刑事シリーズ、社会部記者シリーズなど軽快なヒットを連発する島田一男初期の本格推理の代表作2作(『古墳殺人事件』『錦絵殺人事件』)の合本である。
 発表年度が1948年、1949年と古いので、現在からみればトリックが機械的であるとか、遺書を暗号にするプロットが不自然であるとか、いろいろあるがここではとりあえずおく。

 問題は「衒学」だ。とにかく、事件に関係あろうがなかろうが、全編にわたって古今の学究文芸の知識のひけらかし、歳末商店街のちょうちん飾りのごとし。適当に(いや、冗談抜きに適当にページを)めくってみよう。

 やれ、死んだ考古学者が謎めいた詩を残せば

 「学者たちは、イクフナトンを人類最初の個人王だといっている。だがぼくは、かれを偉大なる宗教詩人だといいたい……。旧約の詩編の中には、イクフナトンの宗教詩を参考にしたものがたくさん見受けられる。先ほどの『ダビデの歌』もその一つだ。それはイクフナトンの『夜の詩』から出ている」

 船を模した建築物に信号旗が翻っていれば

 「今小牧さんが書いたのは『われ戦いを宣せり』という遠距離信号なんだ。そしてあのマストには、死の国への出港信号旗が翻っている」

 凶器が発見されれば

 「満州の北部からシベリア、特にバイカル地方にわたる地域の旧石器時代文化の特色だが、四千年ないし五千年前のものだね。骨角器の材料は原象、毛犀、野牛、馬などが多く使われているが、この槌は大きさから見て、まずサイだろう」

 どしゃ降りの雨に足止めをくらえば、あらしを描写するには音楽が第一と

 「古くは英国バジナルの『雷鳴』『稲妻』、またハイドンの『混沌』、シュトラウスの『アルプス交響曲』。しかし、なんといってもベートーベンだな!」

 降霊教団の霊媒が現れれば

 「みごとな心霊エナージー論と申し上げたいが、いささか、オリバー・ロッジ博士や、ゼームス・トムソンの二番せんじといった感じですなア!」

 被害者が気が小さく迷信深いと知るや

 「ときに、小原、ロンブロゾーが、極悪人の半数以上は寺参りが好きだ……、と述べていることを知っているかね」

 など、など、などなどなど。

 ジャーナリストとはいえ、少年向け新聞の編集長にすぎない探偵はなぜここまでペダントリーに走るのか。
 たとえばこんな考え方はどうだろう。このタイプの探偵の口癖の1つに、犯人を「天才的」と評することが少なくない。つまりは、こんなにも「学」のある探偵がさらに高く評価する犯行は、古今東西に類を見ないものだ……そういう構造である。

 しかし、ペダントリーはしょせんてらい、ひけらかしにすぎない。ひけらかしはそうと気づかれてしまえばそれだけのことだ。たとえば、本書の探偵は、ある局面で次のような述懐にふける。

 「英国の詩人テニソンは、ある殺人事件を見て、何かの偶然によっては、自分と罪人とが位置を取り替えていたかもしれぬ……、といっている」

 わざわざ「イノック・アーデン」の桂冠詩人を持ち出さねばならないようなことだろうか?(←このあたり、ちょいとペダンティックに)

先頭 表紙

2008-08-16 さよならヤングサンデー


【なにが「絶対保存版」】
 
 小学館「週刊ヤングサンデー」(以下ヤンサン)が、7月31日発売の35号をもって休刊となった。

 浮き草のマンガ誌が休刊廃刊の憂き目に遭うのは別に珍しいことでもなんでもない。
 そもそもヤンサン自身、同じ小学館の「マンガくん」、「少年ビッグコミック」(あまり知られていないが、あだち充『みゆき』、新谷かおる『エリア88』、小山ゆう『愛がゆく』などマンガ読みを動揺させた作品をいくつも残した名少年誌だ)のリニューアル刊行だった。20年間とはいえ、よくぞメジャーになり遂げた、と言ってもよいのかもしれない。

 ただ、今回の休刊がひどく唐突に見えたのは、たとえばはた目にもジリ貧明らかだった双葉社「漫画アクション」の誌面刷新時などに比しても、ヤンサンは山田貴敏『Dr.コトー診療所』、黒丸『クロサギ』など映像でヒットした作品がいくつも現役で、こと話題作にこと欠かないように見えたためだった。
 しかし、いくら話題作を提供しているとはいえ、広告収入の期待できないマンガ誌で公称20万部(実質12、3万部か?)はいかにも厳しい。
 書店、流通のマージンを引いて6割が入る、広告は表まわりでせいぜい200万円と仮定して、出版社に落ちる金が
   (300円×6割×12万部)+200万円=2360万円
 根拠薄弱な数字ではあるが、1号あたりで動く金がこれより多少上だったとしても、それで原稿料、印刷・製本費、グラビア撮影の出張費から小学館社員の高給まで賄うのは到底無理だったろう。

 とはいえ、ごく一部の長寿誌を除いて、マンガ誌の多くは、赤字による休刊、リニューアルを繰り返して常に自らをリフレッシュし、その都度新たな作品群を送り出してきたものだ。それがマンガというものの雑駁なパワーの源でもあった。

 だが、今回のヤンサンの休刊は、従来のマンガ誌の休刊とはどこか違う、マンガ産業そのものの凋落を表す事件のように思われてならない。
 若者の趣味の多様化、ことにポータブルゲーム機と携帯電話の普及がマンガを購買する層を削り続けているのは間違いない。問題は、テレビドラマやゲーム産業が、そのアイデアやストーリー、キャラクターを、彼らがまさに駆逐しているマンガに負っていることだ。ヘビが自らの尾を齧って齧って、だんだん丸まってしまう、そんなコンテンツの空洞化を思い浮かべてしまうのはおかしなことだろうか。

 にもかかわらず、マンガ誌をかかえる出版社がマンガを大切にしないこと、不思議というか呆れるばかりだ。

 ヤンサン休刊号を見てみよう。
 ヤンサンはもともとアイドルの水着グラビアに力を入れる雑誌だったが、休刊号の表紙はご覧のとおりグラビアアイドルのアップで、連載マンガは下のほうにただラインナップが列記されるだけ。過去現在の作品についての特集記事の類もなし。
 作家の大半は休刊についてごく最近知らされたらしく、話をうまく閉じることができない。
 巻末の告知では、『クロサギ』『イキガミ』『鉄腕バーディー』『土竜の唄』『とめはねっ!』『逃亡弁護士 成田 誠』『LOST MAN』『おやすみプンプン』『RAINBOW』という、いかにもヤンサンな連載陣がビッグコミックスピリッツに移行することが知らされる。これだけの作品が移って、スピリッツはそのカラー、オリジナリティを維持できるのだろうか。
 小学館はヤンサン掲載作品を軽んじただけでなく、一方のスピリッツをも軽んじているのだ。

 これから木曜日はどうしたらいいのだろう。
 別れに慣れてるわけじゃない……これは誰のセリフだったろうか。

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「ビッグコミック スピリッツ」の新創刊号は、DVDや分厚い冊子を付録にして9月6日に発売されたが、ただごちゃごちゃ煩わしい印象ばかり。スピリッツが整理されるのはいつごろか、といったことしか思い浮かばなかった。あちこちの駅の売店に平積みが目立ったが、部数的にも相当無駄刷りだったのではないか。 / 烏丸 ( 2008-09-13 01:10 )

2007-04-16 届かないねーその充電,僕まで届かないね 「コミックチャージ」 角川書店

 
 3月20日,角川書店から隔週刊の青年コミック誌として「コミックチャージ」が発刊された。
 火曜日というコミック誌の隙間に対し,講談社「イブニング」が第2,第3週を埋め,この「コミックチャージ」が第1,第2週を埋めて,これで火曜日の通勤は万全,と思いたかったのだが,残念ながら創刊2号めにしてすでに急速に購買意欲が失せつつある。

 ……

 ……

 うーん,あれこれ,書いては消し,書いては消ししてみたが,要はコミック誌としての「志」を感じ取ることができないのである。

 ここ数年,青年コミック誌としてビビッドな魅力を感じ続けていられるのはそれはもう講談社の「モーニング」だが,この雑誌はなぜにこれほどと思うほどに「こだわる」姿勢を示してくれる。往々にして馬鹿げたテーマ,下手な絵の作品もあるのだが,「金」なり「剣」なり「政治」なり「ワイン」なり「素潜り」なり,一点狙いを定めたら「この作者と編集はほかのことが目に入らないのだろうか」と気になるほどそのテーマを掘って塗って描写しまくるのである。
 「ヤングサンデー」や「コミックバンチ」にも読んで楽しい作品はなくはない。が,雑誌まるごとで強烈なインパクトを感じる点において,「モーニング」は他誌を三馬身,いやそれ以上リードしていると言っていいだろう。
(かたや老舗の「ビッグコミック」系は,一度人気を得られた作品の反復,拡大再生産を好む気味があって,読み続けるという習慣からふっと離れるともはや戻る必然性がない。)

 他誌はさておき,「コミックチャージ」である。
 キャッチフレーズは“働く男を充電する”。キャッチフレーズなどどうでもいいのだが,それにしても「充電」。働くということは電池レベルのことなのか,と読めてしまうのがつらい。創刊2号分を見た限りでは,古いあちこちの雑誌で連載をもっていたベテランを集めてみた,というほか,なんら雑誌としての方向性を感じ取ることができない。また,登場人物(主人公)も全体に中途半端で,いろいろな職業についてはいるが,マンガらしく暴走しているのは本そういつ描く『神の手を持つ男』に登場する実在の脳外科医などほんの一部のみ。むしろ,嫁さんや周囲の知人に圧倒されて「たはは」なキャラばかりと言ってよい。清原なつのが筒井康隆『家族八景』に挑戦しているのだが,これも期待はずれ。その倫理観においていつの時代のマンガ,という感じだ(清原が15年以上昔に『花図鑑』等で提示したアンモラルは現在にいたっても鮮烈なのだから,本作の凡庸さはイタい)。

 ちなみに,創刊1号,2号で唯一面白かったのはしりあがり寿『ジョーモンCEO』,投資会社のCEOの夢が世界を征服して縄文時代を再現する,というものなのだが,そんな設定以前にその投資会社の業務光景の破天荒さ,何千億の金を左右しながら手取り22万円の給料でしじみをすする(貝塚を好もしくおもうためだ)CEOの魅力。これだけは単行本になったら問答無用で購入したい。

 そのほかの作品については,何を話題にしていいのかよくわからないくらいだ。
 絵が下手,という作家もいるが,タチが悪いのは絵が下手というわけではない作家だ。業界ではベテランなのにヒット作がない,その理由がそのままこの雑誌の誌面を埋めている,そんな絵柄さえ思い浮かぶ。

 ちなみに細かいことをいえば,遺体の清掃業を描くきたがわ翔『デス・スウィーパー』,今後の展開はいざしらず,連載2回まではまったくのところ田口ランディ『コンセント』冒頭部のパクリだろう。パクリで話題になった作家からパクってどうする。

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ビデオで「麦の穂をゆらす風」を読み、アイルランドつながり?で、「アイルランドの薔薇」を読みました。よくわからない国ですが、何かお薦めはないでしょうか? ここの更新楽しみです。 / koeda ( 2007-08-25 10:49 )
お元気ですか。 / E ( 2007-08-17 01:30 )

2007-04-02 濁流のような情報そして時間 『気まぐれコンセプト クロニクル』 ホイチョイ・プロダクションズ / 小学館


【大人のやることではない。】

 このところ,夢が,重い。
 普段は夢など目が覚めたらすぐ忘れてしまうのに,なんだか妙に一場面一場面が濃密であとをひくのだ。
 理由は,たぶんこれだろう。『気まぐれコンセプト クロニクル』。
 そこらの辞書より分厚い974ページ,重量は優に1キログラムを超えて愛用のノートPCより重い。見開きに四コマが4作並んでトータルざっと2000作,この数はいしいひさいちのドーナツブックス15,6冊分に匹敵する。

 その内容が「バブル前夜から始まって,バブル絶頂,バブル崩壊,不況の90年代,ネットと携帯の普及,そして景気回復の2006年へとつづく,疾風怒濤の23年間の,日本人の日常生活を覗くタイムマシン」(「はじめに」より)とあれば,これを毎晩寝る前に少しずつ読んで(仰向けでたくさん読むのは腕がもたない),夢が重くならないわけがない。
 道理で夢の中で妙に意味ありげに登場しては説教臭い台詞をものする連中が,あの(今はない)会社のあの人だったり,あの部署の(今はどこに行ったかわからない)あいつだったり,浮いて沈んで沈んで消えて,そんなことはどうでもいいのだけれど。なんだあんたはまだそこにいたのか。

 『気まぐれコンセプト』はカブト自動車,白クマ広告社といった広告クライアント,広告代理店の社員たちの生態(変態?)を描く四コママンガだが,実は現在もまだ続いているとは知らなかった。正確にいえば,スピリッツを読まなくなって10年近く経つが,自分がスピリッツを読んでいた頃,すでに連載が終わっていたように勘違いしていたのだ。
 多分,バブルがはじけた後は連載が収束していったように勝手に思い込んでしまっていたのだろう。四コママンガとしては,同じスピリッツ誌上に『コージ苑』『伝染るんです』『クマのプー太郎』等インパクトの強い作品が多かったため,「ギョーカイ」通ぶりが鼻につく印象ばかりでギャグとしてもそう評価はしていなかったように思う。
 つまりは,『気まぐれコンセプト』は連載開始当初より決して好きな作品ではなかったし,四コママンガとしてもとくに注目に値するものではないように感じ,あげくに自分の中で勝手に使命を果たしたものとして連載を終わらせてしまっていたのである。

 だがしかし,ホイチョイ・プロダクションズ,恐るべし。
 こうして23年分の作品をセレクトして一望にすると,広告業界の馬鹿ばかしさや時代の流行の愚かしさをその場その場で追ったこの作品が,何より雄弁な現代の記録となっているのは明らかだ。六本木のもうとっくにつぶれたプレイスポットや,あっという間にブームの去った商品を取り上げたギャグで笑えるかどうかは別として,それらを均等な重みづけで描き続けた仕事は,アニメ版『サザエさん』とまったく逆に,あらゆる風俗,ブームを取り入れてただ垂れ流すように見えて,その結果23年の間で変わらないものは企業人の見苦しいばかりの生命力だということを見事に描いてその点では文句のつけようがない。

 『気まぐれコンセプト』を語るというのは,作品について語るのか,ホイチョイというクリエイター集団について語るのか,それとも時代について語るのか,区別がつけにくい。
 ひとつ言えることは,『気まぐれコンセプト クロニクル』は言うなれば80年代から2006年までの『現代用語の基礎知識』である。知識などそれだけでは毒でも薬でもない。薬や毒がそうであるように,それが意味を持つためには傷や病や憎悪が必要なのだ。

 もっとこまごましたことを書きたいようにも思ったのだが,きりがないのでやめにしよう。もしこまごましたことをきちんと書こうと思ったら,付箋やメモを片手に何度か読み返す必要があるに違いない……これを?

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2007-03-19 近況,『眠れる美女』,加えて『アヒルと鴨のコインロッカー』,今さら『Death note』


 久しぶりに川端康成を何冊か続けて読んだり,アガサ・クリスティの未読だったノンシリーズものに手を伸ばしたり,と,私評には向かない読書が続いている。康成の『眠れる美女』(新潮文庫)や『片腕』(ちくま文庫)は何度読んでもすごい。すごすぎて悪酔いしたような気分。
 「青空文庫」に森鴎外の怪談「鼠坂」が公開された。こちらは通勤途上でケータイで読むということを試してみたが,肝心の作品が期待したほどには面白くない。以前少しふれた「蛇」といい,どうも鴎外の怪談は生理的に合わないようだ。

 伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(創元推理文庫)はまったく期待外れ。デビュー作の『オーデュボンの祈り』(新潮文庫)だけが抜群によくて,世評に高い『重力ピエロ』(新潮文庫)含めてあとはなにか拡大再生産の印象。
 ところで伊坂幸太郎が志向しているのってもっとも良かった時代のカート・ヴォネガットJrのセンだと思うのだけれど,それでいいんだよね? そういう指摘を目にしないので少し不安。

 コミックでは今さらながら『Death note』(ジャンプ・コミックス)をぱらぱらめくる。厳しい条件づけの中でのサスペンスに原作者の頭のよさは感じるが,キャラクターやストーリーにまるで魅力を感じない。結局,最終巻を除いて後半は面倒くさくて読み通すことさえできなかった。ノートに名前を書けば相手が死ぬ,という時点でもうお手上げ。「あの国に爆弾落としちゃいなさい」と口にできる為政者とか,パッドのAボタン連射で画面内の敵を皆殺しにできるうけけけゲームとか,その程度のリアリティにシリアスな絵柄やセリフがかぶさるものだから始末が悪い。
 唯一興味深いのは,原作者の大場つぐみが誰なのかは不明らしいが,同じ小畑健作画の作品として,主人公の主たる行為(殺人,囲碁)がほかの人物に見えない霊的な存在(死神,佐為)に代行してもらっているという構造が『ヒカルの碁』そっくりだということ。『Death note』の原作者が『ヒカルの碁』からモチーフを得たのか,たまたまそうなったのか知らないが,いずれにしても気持ちが悪い。囲碁や殺人くらい,自分の手と頭使ってやれよ。

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