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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-10-17 乾いた喉にミネラル新本格……? 『放浪探偵と七つの殺人』 歌野晶午 / 講談社文庫
2002-10-14 食いしん坊なマンガといえば… 『水に犬 -DOG IN THE POOL-』 村上もとか / 講談社モーニングKC
2002-10-13 Hayirli olsun! 『トルコで私も考えた(3)』 高橋由佳利 / 集英社(ヤングユーコミックス)
2002-10-07 模型の本をもう1冊 『田宮模型の仕事』 田宮俊作 / 文春文庫
2002-09-30 『眼で食べる日本人 食品サンプルはこうして生まれた』 野瀬泰申 / 旭屋出版
2002-09-23 順番の物語 『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』(全26巻) ゆうきまさみ / 小学館少年サンデーコミックス
2002-09-21 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その3
2002-09-21 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その2
2002-09-18 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その1
2002-09-16 およそ4コマとなりうるものは明晰に4コマにされる 『現代思想の遭難者たち』 いしいひさいち / 講談社


2002-10-17 乾いた喉にミネラル新本格……? 『放浪探偵と七つの殺人』 歌野晶午 / 講談社文庫


【とっとと自首して楽になりましょうよ】

 1960年代後半から70年代前半のメッセージフォーク,ハードロック,プログレッシブロックなどやや重めの音や歌詞にかぶれた世代にとって,1975〜76年当時のポップス状況はなんとも居心地の悪いものだった。ラジオのトップ10はオリビア・ニュートンジョンやジョン・デンバー,ベイ・シティ・ローラーズらの生ぬるい音に占領され,クイーン,イーグルスとてボーカルグループかイージーリスニングスにしか聞こえない。街にあふれるディスコサウンドも甘すぎてたまらない。
 この時代があったからこそ,パンク,テクノ,ニューウェイブがあれほど輝いて聞こえたのだろう。それは乾いた喉に,冷えた水のようにきらきらと染みとおった。多少カルキくさくても許せるというものである。

 1970年代後半から80年代前半にかけて,「本格ミステリ」ファンも似たような状況にあえいでいた。
 泡坂妻夫『11枚のとらんぷ』『乱れからくり』,竹本健治『匣の中の失楽』,島田荘司『占星術殺人事件』,あるいは都筑道夫の一部作品といった突発的な花火を除き,書店にあふれるのは赤川次郎,西村京太郎,山村美沙,夏樹静子らの大量生産型TVドラマ向きサスペンス,もしくはユーモアミステリ,トラベルミステリのたぐいが大半だったためだ。
 だからこそ1987年の綾辻行人の登場は衝撃的だった。綾辻作品そのものは「はてな,これでいいのか?」という面も実はあったのだが,「本格だ本格だ」の喜びの前に展開の無理押しなど瑣末な問題だったのである。

 綾辻についで講談社からは歌野晶午『長い家の殺人』『白い家の殺人』,法月綸太郎『密閉教室』『誰彼』『頼子のために』,我孫子武丸『8の殺人』『人形はこたつで推理する』,東京創元社からは折原一『五つの棺』『倒錯のロンド』,有栖川有栖『月光ゲーム』『孤島パズル』,北村薫『空飛ぶ馬』『覆面作家は二人いる』などが登場する。いずれも「最終章の手前までちゃんと読めば犯人が推理できるはず」という身構えで書かれた作品群である。
 ちなみに「新本格」というのは正しくは当時の講談社ノベルスの一連の新人の作品に与えられた惹句。講談社組に京大ミステリ研出身者が多いのも特徴の1つである(講談社ノベルスの若手が島田荘司の推薦を受けて登場するのに対し,東京創元社のほうは鮎川哲也を本尊とする)。

 ……と,「新本格」ムーブメントの状況をリアルタイムに追っていたのは,このあたりまで。
 当時は綾辻はもちろん「新本格」と銘打たれた若手のパズラー,加えて島田荘司,東野圭吾らの新刊はほとんど無条件に読んでいたものだが,その情熱は数年で失せた。
 「本格ミステリは推理ゲームが主で,人間が描かれているかどうかは必要条件でない」とする新本格の考え方はそれなりに評価できるが,パズルだけではどうしても飽きがくる。さらには作者たちの,大学ミステリ研のOBどうし,あるいは派閥的な「おつきあい」がハナについてうんざりする面もあった。その「くさみ」は文庫の解説の持ち上げ合いにとくに強い。

 そのため,ミステリ全体から足が遠のき,京極夏彦の登場には反応が遅れ,宮部みゆき,森博嗣等は「トレンドのお勉強」レベルでしか読んでいない(実際,楽しめない)。二階堂黎人,加納朋子,麻耶雄嵩等は読んでいないか読んでもすぐ放り出し,それ以降の新人にいたっては誰が誰だか把握できないような状況である。

 とはいいつつ,社会派,ユーモア,トラベルミステリに比べれば,やはり圧倒的に「本格」が好きだ。というわけで,鮎川哲也主催の一般公募作品集や,新本格系の作家の文庫を見ればついお付き合いしてしまうことも少なくない。

 さて,ようやく今回のお題までたどりついた。

 歌野晶午は,「新本格」というくくりで語られる作家の中では,比較的早い時期にデビューしている。文庫化も早い。……にもかかわらず,明確な特徴を打ち立てられずにいる作家の1人,かもしれない。
 実際,『長い家の殺人』『白い家の殺人』『動く家の殺人』など初期の作品以来,コンスタントに読んできたはずなのだが,「それなりに奇想天外な犯人や殺害方法を提供してくれる」程度の印象しかない。綾辻や我孫子,有栖川ほど「タカビー」な感じもしないが,さりとて彼等以上とほめられるほどでもない……。ただ,犯罪方法や犯人当ての「奇想天外」という面ではなかなかお奨めで,丁寧に読めば伏線から推理できそうな,しかしラストの探偵の推理を聞かされてはじめて「してやられた!」という,そういった読後感が強い。もっとも,およそ人間的ドラマとして深いわけでもなんでもないため,読後30分もするとそのトリックを忘れてしまうのがオチなのだが。

 本作『放浪探偵と七つの殺人』は,歌野晶午のオリジナル探偵・信濃譲二をフューチャーした短編集。全体に,被害者(死体)の発見のされ方がエグく(とはいえ綾辻『殺人鬼』,我孫子『殺戮にいたる病』ほどではない),ひげ面で一年中タンクトップにビーチサンダルという探偵は決してスマートとはいえないが,推理そのものはなかなかトリッキーで楽しめる。講談社ノベルス版では,解答編がすべて袋綴じになっていた,その一事からも本シリーズの「目的」がご想像いただけるのではないか。

 およそミステリとして強くお奨めする,といえるほどの水準のものではないかもしれないが,このような本が必要な時間というのは誰しもあるはずだ。何かで時間に追われているとき,あるいは何かにいらだっているとき,そんなときに実はとてもよい本なのかもしれない。

先頭 表紙

最近,法月綸太郎の読み逃していた長編『一の悲劇』『二の悲劇』を読みました。前者はすごくいい。後者はあまりよろしくない。この人の作品は,法月綸太郎なる探偵の登場するページの率が少なければ少ないほどよいように思われます。 / 烏丸 ( 2002-10-18 01:50 )

2002-10-14 食いしん坊なマンガといえば… 『水に犬 -DOG IN THE POOL-』 村上もとか / 講談社モーニングKC


【カオ・カー・ムーにカポ・プラーのスープ パッ・ペッ・ムー・パアにナム・プリック・オーン この店のヤツは特に辛くてうまいんだ】

 『トルコで私も考えた』のトルコ料理やお菓子がなんとも旨そう……とながめているうちに,ぜひとも紹介しておきたい本を1冊思い出した。
 『水に犬』はモーニングに断続的に掲載された。1993年48〜50号,94年39号〜40号,95年39号〜41号。つまり単行本1冊分,短編3作に足掛け3年というわけだ。

 「タイ内務省警察局中央犯罪捜査部(CSD)第7課のボスは,スラム出身ながらも名門大学を卒業したワッサン大佐だ。日夜,タイ全土にわたる凶悪犯罪と格闘するエリート刑事だが,プライベートでは日本人の妻を愛する食いしん坊のノンキなオジサン。」(カバーの惹句より)
 タイでは警官は薄給ゆえ民衆からのタカリ,ゆすりも少なくなく,幹部は私服を肥やして高級外車を乗り回す。そんな中,CSD第7課(通称 犯罪制圧特課)はワッサン大佐を中心に巨悪,不正を摘発していく。取り引き価格にして4億バーツのヘロイン,ミャンマー国境の森林乱伐,サウジアラビア王室宝石盗難事件……。

 作者の村上もとかは徹底した取材と綿密な描き込みで知られており(F1を扱った作品では「ブロロロロ…」等のエグゾーストノーツすらエンジン別,いやそのコンディション別に描き分けられていたという伝説がある),本作でもタイ取材をもとにしたバンコクの風物がじっくり,びっしり描き込まれている。
 ただ,旺盛な取材や描写力はともすると「描写」そのものを目的としかねない。代表作の1つ『六三四の剣』では剣道シーンにすさまじいばかりの労力がかけられているが,実は主人公がどうして剣道やライバルとの闘いにそこまで執着するのかはよくわからない。両親ともに剣道家,六三四も子供のころから剣道が大好き,大きくなっても剣道に熱心だった,だけの話といってしまえばそれまでなのである。

 それに比べ,『水に犬』はタイトルどおり「泥の川を泳ぎ渡ろうとしているヤセ犬」「途中で多少の泥水飲んだって」と清濁合わせ呑む鷹揚で豪快なキャラクターを得て,村上もとかとしては短いながら読み応えのある佳作となっている。作中ワッサン大佐は再三「マイペンライ」(英語でいえば「No problem」「Take it easy」,日本語だと「まっ,いいか」「大丈夫」)を連発するが,実のところ凶悪犯罪や不正を暴き,身内の腐敗までえぐるワッサン大佐の捜査は執拗かつ合理的で,犯罪の構造そのものと合わせてその読み応えは深い。
 また,随所に登場するタイ料理も『水に犬』の魅力の1つで,くつくつと熱く,辛く,甘く,読んでいるだけで汗が噴き出してきてしまいそうだ。

 単行本は1995年秋に発売されてわりあいすぐに品切れになってしまったが,早期の再販が望まれる。勤務時間中などにマンガ喫茶等にお出掛けの際は,ぜひご一読願いたい。……なに,仕事中はまずくないかって? マイペンライ!

先頭 表紙

この当時のモーニングは,なんだか今よりかなり面白かったような記憶が……。マンガ誌の記憶なんていつもそんなものでしょうけど(我が家には,モーニング連載作品の単行本が相当あるような気がします。柳沢教授,島耕作,沈艦,金融道,播磨灘,ドクターサイコ,OL進化論,レジー,などなどなどなど)。 / 烏丸 ( 2002-10-18 01:45 )
いやまったく。カラスもときどきヘビーな状況下で「マイペンライ!」と呟いたりしています(ただし,最初のうちは「マンペイライ!」と間違えて覚えていたことはナイショです)。 / 烏丸 ( 2002-10-18 01:43 )
モーニングの「魅惑のトップス」で柳沢教授らと入れ替わりでやってたやつですね。オイラも(村上もとか作品の中では)これが一番好きかもしれません。今でも時々「マイペンライ!」と呟いてしまうときがあります(笑) / TAKE ( 2002-10-17 23:38 )

2002-10-13 Hayirli olsun! 『トルコで私も考えた(3)』 高橋由佳利 / 集英社(ヤングユーコミックス)


【行動の自由と貞節はトルコではまた別の話である】

 以前取り上げた高橋由佳利『トルコで私も考えた』の新刊だ。以前っていつだよと調べてみるとなんと2年以上も前のことである。驚いた。

 そういえばワールドカップ堂々の第3位,トルコのパス回しはほんと目に鮮やかだったよね……などまっすぐに内容に入れないのは,本書について必要なことの大半は前回書いてしまったから。でもいいんですよ。もう1回取り上げたい。

 相変わらずコミックスとしては異常なほど読み通すのに時間がかかる。文字が多いということもあるけれど,内容が細部にわたり素通りできないため。本書で描かれるトルコの生活習慣が日本の現在のそれとあまりにも異なること,それが積み重なってトルコの人々のモノの考え方,ひいては我々日本人の生き様についてまで考えさせられること。

 もちろんそんな重ったるい読み方をせずとも
「ほーっ,トルコの結婚写真では,二人がバラの花や炎に囲まれて情熱的なポーズを決めるですか!」
とか,
「トルコでは子供たちをベタベタに甘やかす,でもその子供たちは日本の子供たちより年長者やお年寄りを大切にするのね」
とかいって驚いたりため息をついたりすれば十分,ではあるのだが……。

 少女漫画家高橋由佳利が,あくまで通りすがり,異邦人として,いわば趣味嗜好の延長でトルコにかかわった第1巻に比べ,トルコ人の夫を得,子供も大きくなった現在の作者の視点はもはや旅行記といった次元にはない。

 トルコの映画の話題,デートのしかた,お菓子やスープ,サラダのレシピ,空き巣の話,病院の話などなど,トルコの歩き方的というかトルコウォーカー的というか,そういう情報源として読む手もあるだろうがそれだけではもったいない。
 ここには肯定すべき人間の話がぎゅうぎゅう詰まっている。どうだろう,キーワードは「祝福」と「大家族」か?

先頭 表紙

2002-10-07 模型の本をもう1冊 『田宮模型の仕事』 田宮俊作 / 文春文庫


【もし願いが叶うのであれば,もう一度最初からやってみたい】

 今年8月の,マブチモーター社長宅の放火殺人事件の報には,少なからぬ中年男性たちが胸をざわつかせたのではないか。モーターライズプラモデルのエンジンにあたるマブチ15モーターや水中モーターは,単なるおもちゃの部品としてだけでなく,その当時の少年たちにとっては骨の髄まで染みた大切なアイテムだったからである。
(水中モーターを船底に取り付ける方法に,凹凸の標準化と吸盤の2つを用意した柔軟性は,今でもまことに素晴らしいと思う。)

 プラモデル,プラモデル,プラモデル……。

 なんと甘美な響きだろう。なんと胸躍る言葉だったろう。
 それは,昭和30年代から40年代前半の少年たちにとって,本当に限られた機会にしか手に入れられない高価かつ魅力的なおもちゃであり,(当時まだ世界を席巻していた)科学・技術の導く素晴らしい未来と力の象徴でもあった。
 無粋な表現を用いれば,昭和30年代の後半にラジコン戦車のプラモデルを持っていることは,それだけで5人の子分を引き連れて近所を歩けるほどのステータスだったはずだ。
 もちろん,現在の子供たちにも,ゲーム機,ポケモン,ミニ四駆,ベイブレードなど,さまざまなジャンルのおもちゃがあり,それが彼ら個々のステータスに結びついているのは確かである。しかし,軍艦,戦車,戦闘機,スポーツカー,SFメカ,怪獣,ロボット,TVマンガのキャラクター,はては城や日本刀にいたるまで,あらゆるジャンルを含有しつつ,「プラモデル」という括りでそのトータルの魅力を語り得る,その独特な手応えはほかに思い当たるものがない。

 本書『田宮模型の仕事』は,☆☆のロゴマークで知られるプラモデルの老舗「田宮模型」の現社長・田宮俊作氏が同社の歴史,プラモデルのあるべき姿を語った記録であり,ページを埋め尽くすその苦いスタート,熱いハート,深いポリシーがぐいぐいと胸を打つ。少年時代の憧憬の対象だったプラモデルが,これほどまでの心構え,これほどまでの苦心の果てに製作されていたのかと思うと,その時代に子供であったことの喜びに涙が止まらない。読者を選ぶかもしれないが,選ばれた読者にはまことに良書であるといえる1冊だろう。

 田宮模型はもともと木工の模型を製造,販売する会社だったものが,1950年代後半にアメリカからプラモデルが上陸し,木工をあきらめてまったく未知のプラモデル開発を手がけ,苦心の末に技術や販売網を世界を対象に築き上げてきた,というのが本書のあらましである。
 横暴な金型屋とのやり取り,人気イラストレーター小松崎茂(イマイのサンダーバードのあの箱絵の作者)との知遇,パンサー戦車のヒット,スロットカーブームの短期終焉など,少年時代の記憶を埋めてくれる記述が続く。ソ連大使館に戦車の資料を求めて公安に後を追われたり,アバディーン戦車博物館(アメリカ)で寝食を忘れて戦車の写真を撮りまくったり,ソ連製戦車の撮影のためにイスラエルにわたったり,著者やスタッフの「とことん」な心意気が感動的である。
 その「とことん」な姿勢に太い芯として通っているのは,F1カーの模型についてホンダ社内会議で機密漏洩が話題とされるほどの徹底した取材,そしてその取材結果のプラモデルへの反映である。
 一方興味深いのは,ミニ四駆などのヒット作では,その徹底したスケーリングとは逆のデフォルメが効果を上げていることであったりするのだが……。

 プラモデルの魅力にはいろいろな要素があるとは思うが,1つには,著者も指摘しているように,それが「工作」であることを推したい。
 子供たちが自分の手でゼロから戦車や軍艦を作るのはさすがに難しい。しかし,プラモデルなら,部品を切り取り,バリを削り,組み立て,接着剤で貼り,場合によってはラッカーを塗ったり,ジオラマを作成したり,と,自分の手で確かなものを作り上げていくことができる。
 タミヤのミニ四駆が,単にプラモデルを組み立てるだけでなく,より速くより安定して走ることを目標に,子供たちがさまざまな工具を用いて工夫を重ねたブームだったことは知られるとおりである。おもちゃを買い与えられるというパッシブな事件が,自分の手の中でアクティブなイベントに変わっていく,そこがプラモデルのたまらない魅力なのである。

 本書は,そんなプラモデルの開発に賭けた男たちの,本当に熱い記録だ。ここに描かれたことは1つの成功事例だが,それはプラスティックではなく,リアルな人間の心が組み上げた1/1のビジネスモデルなのである。

先頭 表紙

だうもー,けろりんさま,お久しぶりー(もちろん,ホームページはときどき拝見しております)。そうですか,りんごがSakuraの木に……(ナニカ,チガウ……)。紀伊国屋BookWebで「北村夏」で検索してみたら,『猫的生活12か月』というコミックが,よりによって倒産したスコラ社から。うーん。 / 烏丸 ( 2002-10-13 01:02 )
お久しぶりです。この本私も持ってます。プラモデルは詳しくないですが、いい本ですよね〜。ところで、最近川崎苑子さんが8年前から北村夏名義でSakuraという雑誌で描いていることを知りました。 / けろりん ( 2002-10-12 14:29 )
↓のつっこみ4点,昨夜は本文の末章としてアップしてあったのですが,どうも本文の流れにそぐわないので,多少手を加えてつっこみの形で添付いたしました。 / 烏丸 ( 2002-10-08 01:22 )
オリジナルであること,意外な組み合わせやアイデアを打ち立てること,SFメカ色が強いこと。自動車は水陸両用でなくてはならぬ,ドリルやアンテナは回転せねばならぬ,ミサイルや円盤など「発射系」ギミックがなくてはならぬ。伝説の○○小学校理科工作クラブ部長・烏丸の果てしなき挑戦の始まりでした(なんのこっちゃ)。 / 烏丸 ( 2002-10-08 01:10 )
「エコー7」との出会いからしばらくして,烏丸のプラモデル嗜好は淡々としたリモコン制御の白いスポーツカー集めへと移り,情熱の先は糸ノコミシンや半田ごてを駆使して自分好みのメカを工作することに変わっていきました。 / 烏丸 ( 2002-10-08 01:10 )
烏丸のお気に入りはイマイのサンダーバードやマルサンのゴジラシリーズでしたが(そのくせ一方で「姫路城」をこしらえたり),数々の製品の中で緑商会の「エコー7」は忘れがたいプラモデルの1つです。どういう経緯でこれを選んだのかはもう記憶にありませんが,チープなゼンマイ仕掛けでありながら走行の途中でミサイルを発射する,その工夫には今もって脱帽。 / 烏丸 ( 2002-10-08 01:09 )
ところで烏丸は,タミヤのプラモデルには正直あまり縁がありませんでした。子供時代からその高い評価はよくわかっていたのですが,当時のタミヤの1/35シリーズ等は若干高価だったこと,そして徹底したリアリズムのタミヤシリーズは,夢見がちだった烏丸の嗜好と少し噛み合わなかったためです。 / 烏丸 ( 2002-10-08 01:09 )

2002-09-30 『眼で食べる日本人 食品サンプルはこうして生まれた』 野瀬泰申 / 旭屋出版


【作り物だからつまらないのではなく,よくできた作り物だから面白いのだ。】

 たとえば技術革新というと,やれ「スーパーコンピュータの並列処理が」とか,「巨大な建造物が」とか,「世界を結ぶ衛星ネットワークが」とか,そういった大仰な話になりがちだ。しかし,個人的には「缶ジュースのプルトップって,誰が考えたか簡単で安全ですごいなあ」とか,「フライパンのテフロン加工って主婦のストレスをものすごく軽減してるはず」とか,そういった生活に密着して結果もわかりやすいキチっとした技術,アイデアのほうが興味深い。魔法瓶にポンプを組み合わせたアイデア,パキパキ折れるカッターなども素晴らしいと思う。
 逆に,「シャープペンシルは0.9ミリから0.5ミリへの進化はあっという間だったのに,それより細い方向に進まないのはなぜだろう」とか,「これだけピッキングが問題となっているのに,安価で安全な鍵というのは開発されないものだな」といった不思議もある。

 本の世界もそう。
 人生の道標となるディープな小説もよい,南北問題を視野に世界経済を扱ったドキュメンタリーも必要だろう。でも,ごくまれながら,身近なテーマに焦点を当て,タイニーではあるがかっちりしたレポートとして仕立て上げてくれた本は,それはそれとして得がたい読書の喜びを与えてくれる。

 本書『眼で食べる日本人』は,そういった意味で実に見事な1冊といえるだろう。

 第一に,テーマ選択が素晴らしい。
 本書は,私たち日本人が生活の中で再三目にしながらとくに深く考えることもなく過ごしてきた「食品サンプル」,つまりレストランやデパートの食品コーナー,ファストフードのウィンドウに並べられたスパゲッティや弁当,菓子等のサンプルに着目し,その歴史に着目する。食品サンプルには業界団体がない。そのため全国のメーカー数,市場規模,従業員数など一切がまとめられておらず,技術史,文献のたぐいもない。そのような状況の中,著者はこつこつと人から人を渡り歩くような取材を続け,食品サンプルの発生の時期,草創期を担った何人かの名前を少しずつ明らかにしていく。

 第二に,選ばれたテーマが語る事実が素晴らしい。
 前項のように著者が明らかにした草創期に,ではなぜ食品サンプルは必要とされたのか。それは大正,昭和前期における日本の社会経済的背景を語ることにつながり,日本人と食について考察していくことにつながる。それはまた,この国の百貨店文化,食堂文化を語ることに等しい。著者が記すように「一面識もないこの3人がほぼ同じころ,期せずして食品サンプルを作り始めたのは……(中略)……時代が食品サンプルを必要としたのである」。

 第三に,それによって得られる視点が素晴らしい。
 たとえば,著者はラーメンのサンプルで,ビニールの管を刻んだものがネギに,黒いビニール布がノリに見えることを例に,「模型」と「サンプル」の違いについて触れ,後者は「概観するものであり,詳細な観察を前提としていないから,記号の集合体で十分なのである」とする。喫茶店のサンプルケースにコーヒーや紅茶のサンプルがあるのは,サンプルの持つ記号性に意味があるためだと説く。
 本書では,食についてのこういった視点がさまざまな切り口から提起される。同じ名称のメニューが地方によっていかに変遷するか(地方による「カツ丼」「たぬき」「きつね」「コショウ」「すじ」の違い,など),逆に似た食べ物に日本人はいかに深い名称をつけるか(「時雨煮」「天草四郎すし」「木の葉丼」「ウィンブル丼」など)。
 これらは,単に食品サンプルの様子や,メニューの地域差だけでなく,日常私たちが見聞きしていることがいかなる意味や背景を持つかということを示唆している。デパートのレストランで食品サンプルに目をやり,入店し,椅子に腰掛け,食事をし,レジで料金を支払う,これだけのことに実はさまざまな歴史や意味が重ねられていることを知る快感,逆に日ごろ気にもとめてなかったことに思いをやると,そこからさまざまな情報が立ち上がってくる,その手応え。

 欧米やアジア各国での食品サンプルの扱われ方についても触れ,ちょっとした日本人論となりつつ,かといって無理な高言にはいたらずあくまで食品サンプルについて語り尽くそうとする本書。巻頭の食品サンプルの例,巻末の食品サンプル制作工程等掲載写真も驚愕を呼ぶ。食欲の秋,秋の夜長にお奨めである。

先頭 表紙

2002-09-23 順番の物語 『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』(全26巻) ゆうきまさみ / 小学館少年サンデーコミックス


【どれもいいね!(竹岡竜二)】

 乱暴な括り方をしてしまえば,少年マンガのメインテーマは,主人公もしくは読み手の「かくありたい自分」である。

 苦心惨憺ののち,主人公が「かくありたい自分」の枠にピタリとはまり,それを衆目に実証してみせたとき,読み手はそのカタルシスに溜飲を下げ,こぶしを握ることだろう。逆に,運命に翻弄された主人公がいかに願っても「かくありたい自分」に近づくことがかなわないとき,読み手は自分のことのように身悶えて涙するかもしれない。あるいは登場人物が「かくありたい自分」どころか(往々にして無意識のうちに)それを数段飛び超えた存在であることが示されたとき,その作品は「永遠の名作」と呼ばれたりもする。たとえば『ドラゴンボール』,『キャプテン』,『スラムダンク』,エトセトラ。

 もちろんこんなことはごく一部の少年マンガのごく一面に過ぎず,何ほどのことでもない。多分この程度のツジツマなら,「努力・友情・勝利」なり,ほかの言葉でも適当に組み上げられるだろう。
 が,まぁ今回は「かくありたい自分」から話を起こすことを許していただこう。

 「かくありたい自分」を表に出し,それにまっしぐらに邁進する。これなら実のところ話は早い。
 「強いってどんなんだろう……強いって……いったいどんな気持ちですか?」とチャンピオンを目指す『はじめの一歩』,「おれは世界一の海賊王になる」とゴムゴムのパーンチ!『ワンピース』など,そういうシンプルな構造の例にはことかかない。
 一方,「かくありたい自分」が見つからず,「かくありたい自分」を探す過程そのものをテーマとする作品も決して少なくはない。たとえば手塚治虫作品の大半が,実はこれに属す。

 少年サンデーに長期連載され,北海道・渡会(わたらい)牧場を舞台に,競馬界に馬を送り出す側の日常を詳細に描き上げた『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』は,都会の平凡な高校生として「かくありたい自分」を見いだせずにいた若者のモラトリアムなあり方が明示された作品の1つである。主人公・久世駿平の「自分」を求める路程は実に「学業」「就職」「親からの自立」「得恋〜結婚」「学業への復帰」「仕事の成就」……とまったく見事なまでに自分探しの旅ワンセット揃い踏みオプションツアー付きパックツアーである。

 ポイントは,駿平が決してスーパーマンでも二枚目でもないことだ。
 恋仲のひびきにさえ「能天気ナ声ト──間ノ抜ケタ表情──」と酷評され,多くのコマで膝を曲げただらしない姿勢で描かれるまことに頼りないお調子者の若者。彼は高校の休みにツーリングに出たまま渡会牧場でアルバイトすることになるが,その姿勢は正面から牧場の仕事に立ち向かうほどでもなければ,現実から逃げ出したというほどでもない。
 かといってこの頼りなさが読み手に身近な印象を与え,本作の人気に結びついた……ようにもとても思えない。なぜなら,彼の資質がいかに凡庸であっったとしても,渡会牧場はおそらく大半の読者にとって「異郷」であり「異界」であったはずだからである。

 部外者にはせいぜい馬に飼葉を与える絵柄くらいしか思い浮かばない牧場業務だが,本作ではそれが微に入り細に渡り(それも特別なこととしてでなく)描かれる。朝6時半に目覚めても「普段よりずっと長寝」という次第で,全ページデリケートな馬の面倒を中心とした牧場の日常の業務,生活がコマを埋め尽くしている。渡会家の少し変わった間取りや,家族の風呂の順番,洗濯の時間帯など,少年マンガとは思えない密度で詳細に描かれていることも,おそらく理由のないことではないのだ。

 『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』の登場人物のうち,少なくとも駿平やひびきは,ダービーなどのGIレースに直接騎乗するわけではない。渡会牧場の仕事は,よりよい馬を送り出すことにある。彼らには産駒が大きなレースで勝利する喜びがあるが,当然のことながらその時点ではその馬は馬主のものであり,その面倒すら厩舎の管理下にあって,もはや彼らの管轄下ではないのである。
 他者に何かを受け渡したところで完結する,これは,特殊な例を除けば,実は仕事や生活というものの本質だ。つまり,都会住まいの能天気な高校生であった駿平が足を踏み入れた「異郷」「異界」は,まさしくリアルな仕事や生活の場であったわけである。その「場」で,駿平は少しずつ「仕事」をする「自分」を見出していくが,その成長はまことに遅々としたものであり,その動機もひびきへの恋愛感情であったり,双子の馬(ヒメ,ヒコ)を産ませてしまったことへの責任感であったり,錯綜するがゆえに四六時中揺れて定まらず,ときには牧場の仕事を投げ出して都会に戻ったりしてしまう。

 本作の後半,かみ合わなかったひびきとの関係が相思相愛に,さらには思いがけない妊娠から結婚にいたる過程,また勝てるとは誰しもが思わなかった双子のヒメ,ヒコの活躍など,やはりマンガだけに都合のよい夢のような展開が続く。しかし,それは必ずしもマンガでなければ絶対にあり得ないほどのことではない。
 読み手の少年たちの多くが迎えるであろうパッとしない人生とはいえ,第一希望の大学に落ちても第二,第三希望に合格できたとき,日ごろもてなくとも見合い相手からOKの返事がもらえたとき,共稼ぎできなくなって厳しいとぼやきながらも第一子誕生を喜ぶとき,周囲より遅くとも課長に出世できたとき,などなど,そのときどきに人は心に祝杯をあげる。それはスーパーサイア人でなくとも,まさにその青年が得た自己実現の瞬間なのである。
 本作は数々の落胆と,そのような日常の中の喜びとその手応えを得た若者の物語である。だからこそ25巻のひびきの何気ない「あんた、ヒコの面倒で疲れ果てて眠っちゃって、ずっと夢見てるのかもよ。」というセリフは冗談とわかっていても駿平を(読み手を)ひやりと打つ。

 そして,駿平の若さ,幼さがそれほど目立たない程度にのどかな渡会牧場の「仕事」が,一皮向けば非常に厳しい大人の世界につながるものであることを明言するかのように,作者の「競馬」界側の描き方は徹底してリアルでクールである。中央競馬にかかわるシーンだけを抜き出して読んだとき,そこにはがっちりとした重荷をしょわされ,それでもなおかつ淡々と働き続ける大人の日常がある。
 少なくとも,本作26巻において,駿平のリアリティはその世界の厳しさには到底いたらない。一子をなしてなお駿平は子供であり,「かくありたい自分」への道のりがまだ続くことを示して物語はいったん閉ざされる。

 ところで『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』がこのように仕事や生活を詳細に描き上げた結果,当然の帰結として,世間の一般家庭で避けられない問題は作中でも重いいさかいとして浮上する。たとえば,駿平を一流の大学に進学させて一流の会社に,と考える母親と駿平の仕事観には最後まで歩み寄りがなく,またこの母親とひびきとのいわゆる嫁・姑問題はかなり早い時点から明示され,やはり最後まで一切の解決を見ない。
 総じて駿平の母親は,一人息子に対してごく当たり前の期待をかけているにすぎないにもかかわらず,常に主人公たちの夢の前に立ちふさがる存在として描かれて気の毒なばかりだ(最終回,15年後の主人公たちを描くエピローグにも,渡会牧場の主な面々に対し,駿平の両親は父母とも登場しない)。

 最後にもう一点,本作は「順番」の物語でもある。
 作者ゆうきまさみの癖かもしれないが,なにかというと「順番」にこだわるのだ。たとえば,
 22巻ではひびきの妊娠発覚に,駿平がひびきの母親に結婚を口ばしり,ひびきが「順番が違うっ!!」
 同じく22巻,駿平の母親にひびきの妊娠と駿平の獣医大進学の意思を説明するのに,ひびきが「普通に説明したらいいんでないの。……だからさ、始めから順番に。」
 23巻では渡会家の次女たづなに駿平が大学進学の意思を説明するのに「だ…だからそれは順番が違うんだよ!」
 25巻では渡会家の長女あぶみの夫候補たる猪口繁行が,披露宴より先に子供を宿した駿平・ひびきに「ちょっと順番を間違えたからな、君たち。」
 26巻では交通事故を起こして怪我をした醍醐悟(のちのあぶみの夫)に対して猪口父が「醍醐の社長も息子に先に死なれたらかなわんぞ。順番を間違えたらだめさ。」

 考えてみれば,競馬こそは何よりも順番にこだわるものではあるのだが。

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鮎川哲也死去。83歳。 / 烏丸 ( 2002-09-27 04:13 )
この夏,駿平とひびきのラブラブファイアー!にどっぷりはまって読み返しただけなのに,なんかコムズカシげな私評になったっしょ。 / 烏丸 ( 2002-09-24 00:06 )

2002-09-21 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その3

 
 ところで,一つ,不思議なことがあります。

 いしいひさいちの『現代思想の遭難者たち』,いや,原本の『現代思想の冒険者たち』の顔ぶれに,サルトルが入っていないのです。サルトルの場合,哲学者より文学者の色合いが強いせいもあるかもしれませんが,カフカ,バタイユ,バシュラールらを取り上げているのだからそれだけではないでしょう。また,実存主義なんて当節ではぱっとしない,というなら,構造主義だってぱっとしているとは思えません。

 結局,講談社はサルトルを語れる著者の人脈にさほど強くない,ということなのかもしれません。
 いや……講談社に限らず,サルトルについて語る書籍がどうも少ないように思えてならないのは私だけでしょうか。紀伊国屋BookWebで「サルトル」をキーワードに和書検索をかけて,ひっかかるのは113冊。品切れ,絶版も含めてのこの数字は,サルトルのネームバリューからするとおよそ多いとはとても思えません。
 もちろん,有名であるから実際に読まれている,理解されている,などというつもりもありません。『資本論』を読破した者がどれほどいるかを想定してもそれは明らか。それにしても,サルトルは読まれていない。

 思うにこれは,サルトルの主な作品を長年にわたって翻訳,発行してきた人文書院に,少なからぬ責任のあることではないでしょうか。おそらく『嘔吐』あたりには,何度も文庫化の話が舞い込んだはず。いや,まさしく『嘔吐』さえ文庫化なっていたならば,興味本位であれ本好きな読者がサルトルに直接触れる機会が格段に増え,その中で何人かが熱心な読者,あるいは著者の側に回ったかもしれず……。

 『アンドレ・ブルトン集成』を未完のままにしたことといい,気持ちと苦労はわからないでもありませんが,なんだかなぁ,人文書院。いや,人文書院の本は好きなだけに。

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2002-09-21 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その2

 
 大修館書店から『ウィトゲンシュタイン全集』が発行された当時というのは,今思えばちょっとした「現代思想」ブームだったように思います。シュルレアリスム,オカルト・錬金術,論理哲学についての出版が相次いだ時期でもありました。早い話,白水社,みすず書房,人文書院,青土社などなどが現在とは比較にならないほど元気だった,ということです。

 当時のアイテムの1つに,朝日出版社の「エピステーメー叢書」というムックがありました。「ユリイカ」や「現代思想」を分厚くし,縦にも長くしたような版型で,黄色から青,赤のグラデーションを用いたカラフルな背表紙が書店店頭でも目立ったものでした。

 このエピステーメーが,もう,なんとも,難解。というより,もう少しわかりやすく書けなくもないことを,意図的に思いっきり晦渋に書き著すのが目的! といわんばかりの記事が並び,困る以前にとほほと苦笑いするしかないような,そんな読後感でした。今,もう一度手に取ると,さてやっぱり難しくて手に負えないのか,それとも細部は難しいながらも全体はそれなりに見渡せるのか,さぁ,どうなんでしょう。
 我が家の本棚には今もこのエピステーメーが数冊残っているのですが,資料的に必要になるとも思えないのに捨てもしない,そのココロは,言うなれば1970年代に流行ったベルボトムのジーンズ,それも膝のところにストーンズのアイロンシール(べろんと舌を出した,アレ)をあしらったものを捨てられずに衣装箪笥にしまってある,とかいうのに近いかもしれません。

 思うに,講談社の『現代思想の冒険者たち』は,このエピステーメーのセンを狙ったものではないでしょうか。いや,エピステーメーに比べれば格段に「本文を読んでもらう」つもりではあるようですが,要は現代の若者が哲学にちょいと意識を引っ掛け,ブームでもファッションでもよいから知的好奇心の触手を伸ばすことを期待しているのではないかと……。
 今のところ,『ソフィーの世界』のような具合にはいたっていないようですが。

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2002-09-18 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その1

 
 一昨日の私評をものするため、多少は勉強しなくてはとWeb上のページを調べて歩いたのですが、その際に講談社のサイトで見かけた『現代思想の遭難者たち』の惹句は次のとおりでした。

 ハイデガー、フッサール、メルロ=ポンティといった現代思想の巨人たちを4コマ漫画で鋭く風刺した傑作集。この漫画を描くために、いしい氏は全31巻もある『現代思想の冒険者たち』(小社刊)を読み込んだという。

 ちょっと考えてみればわかることですが,これは時系列的に少しばかりおかしいようです。
 『現代思想の遭難者たち』が『現代思想の冒険者たち』の「月報」に掲載された作品を中心としているなら,その制作は少なくとも印刷製本納品工程においてほぼ同時でなくてはなりません。『冒険者たち』にはさみ込む月報の原稿を描くのに『冒険者たち』を読み込めた,はずはありませんよね。
 もちろん,いしいひさいちが個々の思想家,哲学者について勉強したことはおおよそ間違いないはずで,『冒険者たち』のゲラを早い時点で読み込んだということはあったかもしれませんが、言葉の正確な意味からすると,講談社の惹句は勇み足気味であると言わざるを得ないでしょう。

 ところで「月報」といえば,大修館書店発行の『ウィトゲンシュタイン全集』の月報を懐かしく思い出します。正確には1975年に発行された『論理哲学論考』収録の第一巻の「別冊付録」なのですが(「月報」はさらにそれにはさみ込まれた形でした)。
 この別冊付録はウィトゲンシュタインの生涯,年譜,文献表からなっており,とくに黒崎宏による(多少演出の過ぎる)評伝が,短いながらなんとも「たまらない」味わいでした。
 自殺した兄のこと,ホワイトヘッドとの共著を著した当時のラッセルとの出会いのこと,トラクルやリルケら文学者の寄附のことなどが,たとえば次のような文体でじゃきんじゃきんと語られているのです。

 (ウィトゲンシュタインの三人の姉について)ルートウィッヒはヘルミネを最も愛し,ヘレネを好まず,マルガレーテとは終生,愛しつつ戦った。

 ウィトゲンシュタインの著作そのものについては、当方がおよそ論理的な頭の持ち主ではないため、ほとんど「禅問答」あるいは「前衛詩」としてしか読めなかったのですが(それゆえに面白く読めた、ということもいえなくはないかもしれませんが)、ウィトゲンシュタインに対していまだになんとなく好もしい、いや正直に申し上げれば「かっこいい!」イメージがあるのは、多分にこの別冊付録、月報のなせるわざだったに違いありません。

 それにつけても、『論考』の要所要所に鉛筆で線を引いてあるのなどを今見ると、いやもうその勇敢さに赤面のいたり。ほてほて。

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2002-09-16 およそ4コマとなりうるものは明晰に4コマにされる 『現代思想の遭難者たち』 いしいひさいち / 講談社


【レヴィナスは嫁に食わすな。】

 いしいひさいちには,どことなく底知れぬ,不気味な側面がある。

 たとえばこの「くるくる回転図書館」でも何度か取り上げた双葉社「ドーナツブックス」のタイトルだが,これをもう一度思い返してみよう。

 いわく『存在と無知』『丸と罰』『健康と平和』『玉子と乞食』『老人と梅』『いかにも葡萄』『椎茸たべた人々』『垢と風呂』『ああ無精』『長距離走者の気の毒』
 いわんや『まだらの干物』『馬力の太鼓』『美女と野球』『フラダンスの犬』『かくも長き漫才』『学問のスズメ』『麦と変態』『不思議の国の空巣』『ドンブリ市民』『泥棒の石』
 とりもなおさず『毛沢東双六』『とかげのアン』『伊豆のうどん粉』『公団嵐が丘』『出前とその弟子』『女の一升瓶』『任侠の家』『パリは揉めているか』『風の玉三郎』『アンタ・カレーニシナ』『テニスに死す』『お高慢と偏見』
 あまつさえ『失禁園』『酒乱童子』『錯乱の園』『クローン猫』

 言うまでもなく,これらは古今東西の文学作品タイトルのパロディであり,これらのタイトルを考案したのは文学部露文出身,もしくは露文を志向した編集者ではないかと言う推測についてはすでに述べた(2冊めと7冊めにドストエフスキー,それも『虐げられた人々』とはシブい,というのがその最大の論拠なのだが)。
 しかし,いしいひさいちがどことなく得体がしれない原因は,関西の凡庸な家族のばたばたを描いた『ののちゃん』を連載しつつ,ちくまの文学全集3セットくらいは当然のように読みこなしていそうな,そのあたりの「知的化け物」的気配にある。そもそも,このパロディタイトル群は,いかにも彼の作品的であり,初期の仲野荘モノあたりを彷彿とさせるではないか。

 実際,いしいひさいちの一連の作品には,さまざまなミステリ作品やその登場人物をおちょくったもの,正面から書評に取り組んだもの,あるいは純文作家やミステリ作家の日常を(妙に詳細に)笑いのめしたもの,などが多数存在する。自身がマンガ家として創作の側,出版社の近隣にいるから,だけでは説明のつかない,この妙にリアルな,妙に場慣れした手応えは何だろう,何故なのだろう。

 そのいしいひさいちが,とうとう現代思想,つまりは哲学の領域にまで手を伸ばしたのが今回取り上げる『現代思想の遭難者たち』である。
 本作品は,講談社刊行『現代思想の冒険者たち』(全31巻,1996年5月〜1999年3月刊)の月報に掲載された4コマ作品に書き下ろしを多数加え,またそれぞれの思想家についての注釈執筆にあたっては同シリーズを大いに参照した,とのことである。
 取り上げられているのは,ハイデガー,フッサール,ウィトゲンシュタイン,ニーチェ,マルクス,フロイトからレヴィ=ストロース,バルト,フーコー,はてはバタイユ,ベンヤミン,メルロ=ポンティ,あげくにバフチン,ポパー,ルカーチってどんな食べ物だったっけ,などなどの総勢34人。

 本を手に取って,まず表紙のジェリコー「メデューズ号の筏」のパロディにいきなり圧倒されてしまう。絵柄はまさしくいしいひさいちなのに,このカットは異様なばかりに物を語るのである。
 本文をパラパラめくってみると,章立て,つまり登場する思想家たちの名称がすべてフルネームでないことに気がつく。いかなる意図からかは不明だが,生没年まで記載しながらファーストネームは無視されているのである。どこか,読み手を試すようでもある。実際のところ,フルネームをすらっと言えない思想家については,ギブアップとしか言いようがない。ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン,ジグムント・フロイト,フランツ・カフカ,ロラン・バルト,ジョルジュ・バタイユ,ガストン・バシュラール……要するに,それなりに読んだことがあったり勉強したことがあったりする思想家ならなんとかしてみようとも思えるのだが,そうでない場合はお手上げ,当たり前といえば当たり前だが。

 さて,では,パロディとして,あるいは4コマギャグとして,あるいは(無理を承知の)現代思想入門マンガとして,本書はどうか。
 評価は難しい。当然ながらどうもこのような作品に落とし込むのにも向き不向きはあるようで,たとえばウィトゲンシュタインはなんとなく笑えたが,ニーチェやカフカはどうもイメージがそぐわなかった。かと思えば,その思想家についてはちんぷんかんぷんと言ってよいほど知識がないのに,それなりに笑えてしまうものもあった。
 要するに,読み手のこちらが十分に原本の「現代思想の冒険者たち」に追いついていないので,それを扱ったいしいひさいち作品を味わうにはいたらないのである。

 おそらく,同じプロ野球を扱っても,実際の試合やインタビューをベースにあくまでリアルな選手本人を笑いの対象としたはた山ハッチ(=やくみつる)に比べて,その選手をモチーフとしつつ,いつしかまったくその選手を離れたいしいひさいち独自のキャラクターと化してしまう「タブチくん」シリーズのようなことがここでも起こっているのだろう。ただ,いしいひさいちの評価が一筋縄ではいかないのは,選手当人を離れて突飛でしつこい表現となっているにもかかわらず,やがてその選手が引退してしまうと,いしいひさいちが描いた選手像があたかも本当のその選手であったかのような強烈な刷り込み,いや逆にいえば,すなわちいしいひさいちがその選手の実像を喝破して描いていたとしか思えないようなこと,がこの『現代思想の遭難者たち』においても起こっているのかもしれない……(あなたは,いしいひさいちの描いたヒロオカ監督以外の広岡達郎を思い浮かべることができるだろうか。ヤスダやマツオカ,タツノリ,ヒロサワについても同様)。
 評価は非常に難しいが,とりあえず本棚において数十年は待ってみたい,ひょっとすると30年後に本書を片手に「えーうーれーかーーぁ!」と叫ぶ自分の姿が……なにしろ言葉は深い風呂の表面に張った皮膜のようなものであるからして。

 それにしても困ってしまうのは,本書がどれほどのものであるのかを誰かに尋ねたくとも,適任者がいないということである。本書で取り上げられた思想家たちのことなどよくわからない,という書評家の言葉はそもそも座標に欠けるし,よくわかるという書評家の言葉はすでに十分に疑わしいからだ。いやしょーみのところ,ほんまに。

先頭 表紙

かたや,まじめな話,カフカを「無意識の領域に導かれる」とするのは少々疑問です。手紙など読むと,かなり意図的だったと思われます。カラスが言いたいのは,「哲学的」であることは「哲学」であるとは限らない,といった程度のことです。 / 烏丸 ( 2002-09-28 23:11 )
オドラデグたぁお父っつあんが心配する☆のことですな。ところで『アメリカ』というタイトルには長年違和感を感じてきたのですが,最近ようやく『失踪者』とする機運が高まってきてすっきり。逆にいえばカフカの長編のタイトルはそれぞれ直接的,説明的にすぎてつまらん,という気もしないではありません。 / 烏丸 ( 2002-09-28 23:10 )
短編など、話の筋が枝分かれして傍流に入ったままいきなり途切れるパターンが多いような。体系立った思想家というより、無意識の領域に導かれるタイプの作家だったのではという気がします。毒虫も謎ですが、オドラデグも訳わかりません。 / フカフカ ( 2002-09-27 22:22 )
だいたい,カフカって思想家なんですかねぇ・・・。 / 烏丸 ( 2002-09-21 13:31 )
昔から気になっていることの1つに,あの「毒虫」ってなんじゃらほい,ということがあります。イラストなどでは甲虫ふうに描かれることが少なくありませんが,甲虫って清潔でキュートなイメージがあるし。 / 烏丸 ( 2002-09-21 13:30 )
ある朝、目が覚めるとザムザは巨大な毒蝮三太夫になっていた。 / フカフカ ( 2002-09-18 22:27 )

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