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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-09-21 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その2
2002-09-18 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その1
2002-09-16 およそ4コマとなりうるものは明晰に4コマにされる 『現代思想の遭難者たち』 いしいひさいち / 講談社
2002-09-09 何してる人ですかー? 『セクシーボイス アンド ロボ』(#1) 黒田硫黄 / 小学館 BIG COMICS IKKI
2002-09-02 愛しの首長竜たちよ 『世界最大の恐竜博2002』(主催:朝日新聞社,NHK,NHKプロモーション,共催:国立科学博物館)
2002-08-26 『語っておきたい古代史』 森 浩一 / 新潮文庫  ……とはあまり関係なく仁徳天皇陵の思い出について
2002-08-18 高校野球が好き
2002-08-12 「天気管」について
2002-08-11 『海底2万マイル』 ジュール・ベルヌ原作 / NHK総合
2002-08-05 読者体験怪談の文体について考える 『恐怖体験!呪われた写真』 心霊現象研究会=編 / 廣済堂文庫


2002-09-21 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その2

 
 大修館書店から『ウィトゲンシュタイン全集』が発行された当時というのは,今思えばちょっとした「現代思想」ブームだったように思います。シュルレアリスム,オカルト・錬金術,論理哲学についての出版が相次いだ時期でもありました。早い話,白水社,みすず書房,人文書院,青土社などなどが現在とは比較にならないほど元気だった,ということです。

 当時のアイテムの1つに,朝日出版社の「エピステーメー叢書」というムックがありました。「ユリイカ」や「現代思想」を分厚くし,縦にも長くしたような版型で,黄色から青,赤のグラデーションを用いたカラフルな背表紙が書店店頭でも目立ったものでした。

 このエピステーメーが,もう,なんとも,難解。というより,もう少しわかりやすく書けなくもないことを,意図的に思いっきり晦渋に書き著すのが目的! といわんばかりの記事が並び,困る以前にとほほと苦笑いするしかないような,そんな読後感でした。今,もう一度手に取ると,さてやっぱり難しくて手に負えないのか,それとも細部は難しいながらも全体はそれなりに見渡せるのか,さぁ,どうなんでしょう。
 我が家の本棚には今もこのエピステーメーが数冊残っているのですが,資料的に必要になるとも思えないのに捨てもしない,そのココロは,言うなれば1970年代に流行ったベルボトムのジーンズ,それも膝のところにストーンズのアイロンシール(べろんと舌を出した,アレ)をあしらったものを捨てられずに衣装箪笥にしまってある,とかいうのに近いかもしれません。

 思うに,講談社の『現代思想の冒険者たち』は,このエピステーメーのセンを狙ったものではないでしょうか。いや,エピステーメーに比べれば格段に「本文を読んでもらう」つもりではあるようですが,要は現代の若者が哲学にちょいと意識を引っ掛け,ブームでもファッションでもよいから知的好奇心の触手を伸ばすことを期待しているのではないかと……。
 今のところ,『ソフィーの世界』のような具合にはいたっていないようですが。

先頭 表紙

2002-09-18 『現代思想の遭難者たち』にまつわる雑感 その1

 
 一昨日の私評をものするため、多少は勉強しなくてはとWeb上のページを調べて歩いたのですが、その際に講談社のサイトで見かけた『現代思想の遭難者たち』の惹句は次のとおりでした。

 ハイデガー、フッサール、メルロ=ポンティといった現代思想の巨人たちを4コマ漫画で鋭く風刺した傑作集。この漫画を描くために、いしい氏は全31巻もある『現代思想の冒険者たち』(小社刊)を読み込んだという。

 ちょっと考えてみればわかることですが,これは時系列的に少しばかりおかしいようです。
 『現代思想の遭難者たち』が『現代思想の冒険者たち』の「月報」に掲載された作品を中心としているなら,その制作は少なくとも印刷製本納品工程においてほぼ同時でなくてはなりません。『冒険者たち』にはさみ込む月報の原稿を描くのに『冒険者たち』を読み込めた,はずはありませんよね。
 もちろん,いしいひさいちが個々の思想家,哲学者について勉強したことはおおよそ間違いないはずで,『冒険者たち』のゲラを早い時点で読み込んだということはあったかもしれませんが、言葉の正確な意味からすると,講談社の惹句は勇み足気味であると言わざるを得ないでしょう。

 ところで「月報」といえば,大修館書店発行の『ウィトゲンシュタイン全集』の月報を懐かしく思い出します。正確には1975年に発行された『論理哲学論考』収録の第一巻の「別冊付録」なのですが(「月報」はさらにそれにはさみ込まれた形でした)。
 この別冊付録はウィトゲンシュタインの生涯,年譜,文献表からなっており,とくに黒崎宏による(多少演出の過ぎる)評伝が,短いながらなんとも「たまらない」味わいでした。
 自殺した兄のこと,ホワイトヘッドとの共著を著した当時のラッセルとの出会いのこと,トラクルやリルケら文学者の寄附のことなどが,たとえば次のような文体でじゃきんじゃきんと語られているのです。

 (ウィトゲンシュタインの三人の姉について)ルートウィッヒはヘルミネを最も愛し,ヘレネを好まず,マルガレーテとは終生,愛しつつ戦った。

 ウィトゲンシュタインの著作そのものについては、当方がおよそ論理的な頭の持ち主ではないため、ほとんど「禅問答」あるいは「前衛詩」としてしか読めなかったのですが(それゆえに面白く読めた、ということもいえなくはないかもしれませんが)、ウィトゲンシュタインに対していまだになんとなく好もしい、いや正直に申し上げれば「かっこいい!」イメージがあるのは、多分にこの別冊付録、月報のなせるわざだったに違いありません。

 それにつけても、『論考』の要所要所に鉛筆で線を引いてあるのなどを今見ると、いやもうその勇敢さに赤面のいたり。ほてほて。

先頭 表紙

2002-09-16 およそ4コマとなりうるものは明晰に4コマにされる 『現代思想の遭難者たち』 いしいひさいち / 講談社


【レヴィナスは嫁に食わすな。】

 いしいひさいちには,どことなく底知れぬ,不気味な側面がある。

 たとえばこの「くるくる回転図書館」でも何度か取り上げた双葉社「ドーナツブックス」のタイトルだが,これをもう一度思い返してみよう。

 いわく『存在と無知』『丸と罰』『健康と平和』『玉子と乞食』『老人と梅』『いかにも葡萄』『椎茸たべた人々』『垢と風呂』『ああ無精』『長距離走者の気の毒』
 いわんや『まだらの干物』『馬力の太鼓』『美女と野球』『フラダンスの犬』『かくも長き漫才』『学問のスズメ』『麦と変態』『不思議の国の空巣』『ドンブリ市民』『泥棒の石』
 とりもなおさず『毛沢東双六』『とかげのアン』『伊豆のうどん粉』『公団嵐が丘』『出前とその弟子』『女の一升瓶』『任侠の家』『パリは揉めているか』『風の玉三郎』『アンタ・カレーニシナ』『テニスに死す』『お高慢と偏見』
 あまつさえ『失禁園』『酒乱童子』『錯乱の園』『クローン猫』

 言うまでもなく,これらは古今東西の文学作品タイトルのパロディであり,これらのタイトルを考案したのは文学部露文出身,もしくは露文を志向した編集者ではないかと言う推測についてはすでに述べた(2冊めと7冊めにドストエフスキー,それも『虐げられた人々』とはシブい,というのがその最大の論拠なのだが)。
 しかし,いしいひさいちがどことなく得体がしれない原因は,関西の凡庸な家族のばたばたを描いた『ののちゃん』を連載しつつ,ちくまの文学全集3セットくらいは当然のように読みこなしていそうな,そのあたりの「知的化け物」的気配にある。そもそも,このパロディタイトル群は,いかにも彼の作品的であり,初期の仲野荘モノあたりを彷彿とさせるではないか。

 実際,いしいひさいちの一連の作品には,さまざまなミステリ作品やその登場人物をおちょくったもの,正面から書評に取り組んだもの,あるいは純文作家やミステリ作家の日常を(妙に詳細に)笑いのめしたもの,などが多数存在する。自身がマンガ家として創作の側,出版社の近隣にいるから,だけでは説明のつかない,この妙にリアルな,妙に場慣れした手応えは何だろう,何故なのだろう。

 そのいしいひさいちが,とうとう現代思想,つまりは哲学の領域にまで手を伸ばしたのが今回取り上げる『現代思想の遭難者たち』である。
 本作品は,講談社刊行『現代思想の冒険者たち』(全31巻,1996年5月〜1999年3月刊)の月報に掲載された4コマ作品に書き下ろしを多数加え,またそれぞれの思想家についての注釈執筆にあたっては同シリーズを大いに参照した,とのことである。
 取り上げられているのは,ハイデガー,フッサール,ウィトゲンシュタイン,ニーチェ,マルクス,フロイトからレヴィ=ストロース,バルト,フーコー,はてはバタイユ,ベンヤミン,メルロ=ポンティ,あげくにバフチン,ポパー,ルカーチってどんな食べ物だったっけ,などなどの総勢34人。

 本を手に取って,まず表紙のジェリコー「メデューズ号の筏」のパロディにいきなり圧倒されてしまう。絵柄はまさしくいしいひさいちなのに,このカットは異様なばかりに物を語るのである。
 本文をパラパラめくってみると,章立て,つまり登場する思想家たちの名称がすべてフルネームでないことに気がつく。いかなる意図からかは不明だが,生没年まで記載しながらファーストネームは無視されているのである。どこか,読み手を試すようでもある。実際のところ,フルネームをすらっと言えない思想家については,ギブアップとしか言いようがない。ルートウィッヒ・ウィトゲンシュタイン,ジグムント・フロイト,フランツ・カフカ,ロラン・バルト,ジョルジュ・バタイユ,ガストン・バシュラール……要するに,それなりに読んだことがあったり勉強したことがあったりする思想家ならなんとかしてみようとも思えるのだが,そうでない場合はお手上げ,当たり前といえば当たり前だが。

 さて,では,パロディとして,あるいは4コマギャグとして,あるいは(無理を承知の)現代思想入門マンガとして,本書はどうか。
 評価は難しい。当然ながらどうもこのような作品に落とし込むのにも向き不向きはあるようで,たとえばウィトゲンシュタインはなんとなく笑えたが,ニーチェやカフカはどうもイメージがそぐわなかった。かと思えば,その思想家についてはちんぷんかんぷんと言ってよいほど知識がないのに,それなりに笑えてしまうものもあった。
 要するに,読み手のこちらが十分に原本の「現代思想の冒険者たち」に追いついていないので,それを扱ったいしいひさいち作品を味わうにはいたらないのである。

 おそらく,同じプロ野球を扱っても,実際の試合やインタビューをベースにあくまでリアルな選手本人を笑いの対象としたはた山ハッチ(=やくみつる)に比べて,その選手をモチーフとしつつ,いつしかまったくその選手を離れたいしいひさいち独自のキャラクターと化してしまう「タブチくん」シリーズのようなことがここでも起こっているのだろう。ただ,いしいひさいちの評価が一筋縄ではいかないのは,選手当人を離れて突飛でしつこい表現となっているにもかかわらず,やがてその選手が引退してしまうと,いしいひさいちが描いた選手像があたかも本当のその選手であったかのような強烈な刷り込み,いや逆にいえば,すなわちいしいひさいちがその選手の実像を喝破して描いていたとしか思えないようなこと,がこの『現代思想の遭難者たち』においても起こっているのかもしれない……(あなたは,いしいひさいちの描いたヒロオカ監督以外の広岡達郎を思い浮かべることができるだろうか。ヤスダやマツオカ,タツノリ,ヒロサワについても同様)。
 評価は非常に難しいが,とりあえず本棚において数十年は待ってみたい,ひょっとすると30年後に本書を片手に「えーうーれーかーーぁ!」と叫ぶ自分の姿が……なにしろ言葉は深い風呂の表面に張った皮膜のようなものであるからして。

 それにしても困ってしまうのは,本書がどれほどのものであるのかを誰かに尋ねたくとも,適任者がいないということである。本書で取り上げられた思想家たちのことなどよくわからない,という書評家の言葉はそもそも座標に欠けるし,よくわかるという書評家の言葉はすでに十分に疑わしいからだ。いやしょーみのところ,ほんまに。

先頭 表紙

かたや,まじめな話,カフカを「無意識の領域に導かれる」とするのは少々疑問です。手紙など読むと,かなり意図的だったと思われます。カラスが言いたいのは,「哲学的」であることは「哲学」であるとは限らない,といった程度のことです。 / 烏丸 ( 2002-09-28 23:11 )
オドラデグたぁお父っつあんが心配する☆のことですな。ところで『アメリカ』というタイトルには長年違和感を感じてきたのですが,最近ようやく『失踪者』とする機運が高まってきてすっきり。逆にいえばカフカの長編のタイトルはそれぞれ直接的,説明的にすぎてつまらん,という気もしないではありません。 / 烏丸 ( 2002-09-28 23:10 )
短編など、話の筋が枝分かれして傍流に入ったままいきなり途切れるパターンが多いような。体系立った思想家というより、無意識の領域に導かれるタイプの作家だったのではという気がします。毒虫も謎ですが、オドラデグも訳わかりません。 / フカフカ ( 2002-09-27 22:22 )
だいたい,カフカって思想家なんですかねぇ・・・。 / 烏丸 ( 2002-09-21 13:31 )
昔から気になっていることの1つに,あの「毒虫」ってなんじゃらほい,ということがあります。イラストなどでは甲虫ふうに描かれることが少なくありませんが,甲虫って清潔でキュートなイメージがあるし。 / 烏丸 ( 2002-09-21 13:30 )
ある朝、目が覚めるとザムザは巨大な毒蝮三太夫になっていた。 / フカフカ ( 2002-09-18 22:27 )

2002-09-09 何してる人ですかー? 『セクシーボイス アンド ロボ』(#1) 黒田硫黄 / 小学館 BIG COMICS IKKI


【いやー、いろんな人がいるのは、本当驚くばかりだけど。】

 将来スパイか占い師になりたいと考えるニコ(林 二湖)は,七色の声色を利用してテレクラのサクラを演ずる14歳の中学生。いつものようにテレクラで誘い出した男たちを喫茶店の窓から観察しているところに声をかけてきた謎のおじいさんの依頼に応え,頼りにならない子分・ロボ(須藤威一郎)を運転手兼お供にしたがえて,今日もニコは事件を追う……。

 と,B級アクションマンガのようなタイトルや設定だけを抜き出せばまるで黒田硫黄の作品ではないように思われなくもないが,ページを開いてしまえばやはり筆ペンで描かれたいつもの黒田硫黄である。

 黒田硫黄の魅力を,その作品を見たことのない人に伝えるのは難しい……のは実は当たり前のことで,本来,音楽であれ美術作品であれ,何かを奏で,あるいは描いてそれを伝えるためにその形態が選ばれている以上,それ以外の手段でそれが伝えられるはずはない。他の手段を持って伝えられるなら,その作品の魅力などたかが知れているということなのだ。
 ……とかなんとか,ついつい屁理屈をこねてしまうのも,黒田硫黄の作品が他の作家の作品とは一線を画したものであり,その独自性をつい誰かに伝えたい衝動にかられてしまうからにほかならない。たとえば,手塚治虫や大友克洋,あるいは岡崎京子,まぁ誰でもいいのだが,それら他の作家を語るのと同じ文体,文脈では,黒田硫黄について語れそうもない。唯一思い浮かぶのは安部慎一の黒く太い線だが,黒田硫黄と安部慎一を比較したって何が始まるわけでもないだろう。とりあえず黒田硫黄がガロでデビューして青林堂の類型に納まらずにすんだことを今は喜びたい。

 さて,黒田硫黄についておおよそ一般に言われていることは,その奇想天外,奔放な展開,意外なアングル,コマ割り,洒脱なセリフのやり取りといったところだろうか。とはいえ,これらは新しい魅力的なマンガ家については必ず言えるはずの,というかマンガというジャンルそのものが持っている構造的な魅力であって,だとしたら黒田硫黄作品はマンガとして正しく面白い,ということに過ぎない。
 しかし,実のところ,コマ割りは意外とオーソドックスであり,また画力がずば抜けて高いかといえば必ずしもそうではない。精密さ,巧緻,バラエティといった要素には明らかに欠けるし,若い女たちは描き分けがきかずたいがい同じ顔に見える。

 ここではたとえば「情交」という言葉を持ち出してみよう。
 「情交」というと色恋沙汰,それも肉体関係を交えた場合に用いることが多いように思うが,黒田硫黄の描くコマには,そこに登場する男女の間に肉体関係がなくとも,いやそもそも恋愛感情にあたるものがなくとも,濃い「情交」が感じられる。ただ黙ってその空間に同席するだけで,あるいは突拍子もない会話を交わすだけで,濃密な情交の圧力がかもし出される,そんな感じである。しかも,ト書きにあたる「説明」がほとんどないから,読み手はただもう黒田硫黄の提供するセリフと登場人物たちの表情からあらゆることを読み取ろうとするしかない。そのボリュームが,厚い。

 収録作の中で,個人的には「タワーの男」が一番強く印象に残った。
 ベッドの上で股を開きマニュキュア,ペディキュアを塗りながらテレクラのサクラを演じる少年のようなニコ,その電話の相手で,次世代高速携帯電話の開発を担当するエンジニア・相模武夫。鈍色に内から光るような相模武夫の色男っぷり,有能ぶりと,それに見合う見事なばかりの壊れっぷり。次世代高機能オタクのあるべき姿を見るような思いである。

 以上,『茄子』の新刊(講談社 アフタヌ−ンKC)を紹介したかったが,どうもうまく説明がつかないので少し前に発売された本書を取り上げた次第。『茄子』の連載は終わったそうだが,漬けるも焼くも,要注意である。黒田硫黄。

先頭 表紙

やややさま,いましろたかし,ですか。いましろたかし,いましろたかし……はて。……をを,『デメキング』の,あの。それはまたシブい(あちらに比べれば,絵的に黒田硫黄は「ふつう」に見えるかもしれませんね)。 / 烏丸 ( 2002-09-10 02:05 )
『茄子』読みました。友人の強いすすめで初黒田硫黄。絵的にべつだん魅力的とか新鮮、ではなかったのですがなかなかおもしろかったです。こちらも読んでみようかな。いましろたかしにも最近またハマってます。 / ややや ( 2002-09-09 22:59 )

2002-09-02 愛しの首長竜たちよ 『世界最大の恐竜博2002』(主催:朝日新聞社,NHK,NHKプロモーション,共催:国立科学博物館)


【きみ,なかなか大きいなぁ。】

 8月頭から家人と子供たちが田舎に帰っていたため,この夏は単身赴任同然。帳尻合わせというわけではありませんが,夏休み最後の日にようやく家族そろって,幕張メッセの『世界最大の恐竜博2002』に行ってまいりました。

 目玉は全長35メートルにおよぶセイスモサウルス(大地をゆるがすトカゲという意味だそうです)の全身復元骨格。これまでもあちらこちらの博物館で竜脚類の復元骨格は見てきましたが,これほど大きいのは記憶にありません。尻尾だけでもこーこーかーーらーーーーーこーーーーーーーーーーこーーーーーーーーーーまーーーーーーーーーーーーでーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっっっ,ぜいぜい,というくらい,長い。あんなの,どうやって支えていたんでしょうね。

 今回の展示は,セイスモサイルス,マメンチサウルス,ディプロドクス,カマラサウルス,アパトサウルス,ダトウサウルス,クンミンゴサウルス,クラメリサウルスなどなどの竜脚類(いわゆる首長竜)と,アロサウルス,ティラノサウルス,ガソサウルス,サウロファガナクス,トルボサウルス,シンラプトル,モノロフォサウルスなどの顎の大きな肉食恐竜が中心で,オーソドックスといえばオーソドックスな恐竜の品揃え。
 その分,それ以外のシブめの面々はあまり置いてありません。
 いちおう剣竜類からステゴサウルス,鎧竜類からガストニアが展示されていましたが,大好きな鎧竜はもう少し見てみたいところでしたし,オシャレな角竜,つまりトリケラトプスやカスモサウルス,ステラコサウルスたちはカタログの系統樹にすら影も形もありません。これはちょっと寂しい。
 逆にいえば,ここ十数年ブームの続いていた子育て恐竜マイアサウラ,頭のコブで頭突き合戦をしていたららしいパキケファロサウルス,同じく頭に特徴のあるカモノハシ竜パラサウロロフスの3種には少々食傷気味だっただけに,それらが目玉になってなくてほっとした面は否定できません。

 個人的には,ひょっとしたらこれが世界最大かもしれないアルゼンチノサウルスのドでかい背骨の一部を見られたこと(骨1個で200〜300kgあるそうです),中国で発見されたマメンチサウルスの首が本の図解どおり本当に長いことをこの目で確認できたことなどに満足。アフリカで発見された原始的な竜脚類ジョバリアの二足で立った復元骨格がかっこよくて,写真も撮れて,これまた大満足。ああ,幕張メッセくらい広い豪邸を建てて,ジョバリアをペットに飼いたい! エサ代が大変だろうけれど。

 それにしても,夏休み最後ということもあってか,素晴らしい人出でした。
 入場券をすでに持っていて,それで入場に1時間待ちです。かといって人数制限してるとかそういうわけではありませんから,中は人,人,人の寄せ鍋状態。ちょっと珍しそうな展示物を見るには人ごみを数メートル押し分けねばならず,あきらめたものも少なくありません。子供の写真を撮ろうにも,少し離れるとあっという間にぎゅうぎゅう人がはさまって,しかたなくアップばかり。

 一点気になったのは,最近,美術館や博覧会など,大きな展示会では音声ガイドが珍しくなくなったこと。
 あれはあれで説明を受けるにはよいのでしょうが,どうも音声に気をとられて,目の前の作品や展示物に気持ちが集中しないような気がしないでもありません。クイズの紙ペラまでセットになっていて,今回は子供たちに音声ガイドを持たせたのをほんの少し後悔しました。そういうのはテレビや本で十分な気がします。

 もう一点。会場の随所に主催のNHKがらみで作成されたと思われるCGによる恐竜のビデオ映像が流れているのですが,今回のものに限らず,どうしてCG動画による恐竜はあのようにせわしなく首や腰を振るのでしょうか。大きな爬虫類には,ワニやリクガメのように悠然泰然としていてほしい。B級アイドルタレントじゃないんだから,あのように四六時中ヘラヘラと首を振らず,山口百恵のように(?)首を据え,目線を落ち着けてほしいと思うのは私だけでしょうか。……要するに,アメリカ産ゴジラより,国産ゴジラの動きのほうがよいな,と,いう話のような気もしますが。

 ともかく心躍る1日ではありました。
 子供たちの夢に,セイスモサイルスは歩いているでしょうか。

先頭 表紙

カラスが行ったときは,「ほんの」60分待ちでした。案外すたすたと前に進めたこと、そこで配られているパンフや恐竜新聞を子どもたちと見ているうちに、中に入れた、という印象です……厳しいのは、そのあとでした。 / 烏丸 ( 2002-09-11 03:35 )
入場するのに75分待ちと言われて帰ってきました。。。 / Blue ( 2002-09-10 10:31 )
そうですよね,koedaさま,幕張メッセとなると,どこから行くにしても「ちょっと遠い」と思ってしまいますよね。帰ってきてから,ふと,毎日通う会社までの通勤時間とほとんど変わらなかったことに気がついて少しばかり哀愁が肩のあたりに。まぁ,電車の通勤って長いほどにじっくり本が読めるからいいのですけど。 / 烏丸 ( 2002-09-10 02:07 )
ちょっと興味をそそられましたが、幕張でやっているんですね。ちょっと遠いかな。 / koeda ( 2002-09-09 14:24 )
今週のモーニングの「DINO^2」(所十三)はトルヴォサウルス,ケラトサウルス,アロサウルスらの捕食竜たちがディプロドクスやアパトサウルスを襲うという,まことにこの恐竜博を見て描いたような(実際そうらしい)作品が掲載されています。トルヴォくんの「マ……マジすか?」「ご……ゴチになりやす!!」といった言葉遣いがちとたまりませんが。 / 烏丸 ( 2002-09-07 06:08 )

2002-08-26 『語っておきたい古代史』 森 浩一 / 新潮文庫  ……とはあまり関係なく仁徳天皇陵の思い出について


【前方部の幅305m 後円部の直径245m 濠を含む東西の長さ656m 濠を含む南北の長さ793m 周囲2718m 面積464124平方m】

 「倭人・クマソ・天皇をめぐって」と副題された本書は,考古学者・森浩一氏の1990年代の5つの講演記録に加筆,再編集したものである。製鉄をはじめとする古代日本のテクノロジー,クマソと倭人伝の狗奴国との関連,さらには宮内庁の制約が考古学的研究の妨げになっていることへの憤懣など,その内容は多岐にわたる。8歳のときに土器に興味を持ち,それ以来ずっと考古学にかかわってきたという森氏の話術と論理に堪能できる。考古学に興味をお持ちの方にも,そうでない方にもお奨めしたい……。

 が,今回は内容にはとくに踏み込まず,表紙の仁徳天皇陵について少しばかり思い出話。


 勤めていた会社を社員みんなでつぶして,少しばかり暇になった。
 17年前のことだ。

 会社の向かいの文具屋に封筒と便箋を買いにいき,書棚の「手紙の書き方」の辞表の書き方のページを人数分コピーして配ったことも今は懐かしい。辞表を書くための便箋代は経費で落ちるかどうか議論をした記憶があるが,あの領収書は結局どうしたのだったか。
 その会社では,退社時に退職者が本社の社長室まで挨拶に向かうのが通例だったが,なにしろ分社のワンフロア全員が退職するため,社長自らやってきて応接室で順繰りに面談することとなった。ある時期週刊誌などでも取り上げられた名物社長は大柄でもじゃもじゃ頭,要するに小ぶりな高見山ふう。それが大きな目をぎょろぎょろさせて「あとで後悔するぞ」と聞きようによっては恐喝的なありがたい訓示をたれてくださったが幸いその会社を退社したことについては一度も後悔することなくすんでいる。十年ばかりしてつぶれたのは本社のほうだった。ハレルヤ。

 当時すでに,一年以上何もせずに生活できるだけの蓄えはあった。というより,どうやら自分の人生は一箇所で穏やかにこつこつと働くといった具合になりそうもなかったため,いつどこで誰ともめて失業してもよいよう,年収の一年以上分の貯金を溜め込むのが習いである。実際は,もめることはもめるが,それ以上にしつっこい性格から,当時予想したよりは職を転々とすることはなかったのだが。

 それはともかく,当時年齢としてはそれなりの退職金も得て,文字どおり「あてもなく」山手線に乗ったのは春まだ浅く,小雪ちらつく中だった。南に向かうことにしたのはその天候ゆえである。目的地というものは明確にはなかったが,多少なりともこの国の歴史とかかわる仕事をしてきたにもかかわらず,生来の旅行嫌い,出不精ゆえ,名所,旧跡をたずねるということをしなかった,その穴埋めをしようと思い立った。たとえば登呂遺跡,あるいは京都金閣,もしくは広島原爆祈念館。

 新幹線ではなく在来線で西へと向かい,疲れたらそこで降りて一泊,気が向けばもう一泊。あれこれの果てにたどり着いた大阪では旧知の友人と久々の邂逅,彼もまたたまたま失業中で,昼は大阪近辺の名所めぐり,夜はガイド本どおりの名店での飲み食いと金の続く限りの放蕩三昧にひたることにあいなった。そのある日(グリコ事件のキツネ目の男が大阪城をにぎわした翌日),「行くべし」と向かったのがようやく本題の仁徳天皇陵である。

 あれほど有名な前方後円墳でありながら,驚き困ったことに,それを一望にできる高みというのはそのあたり一帯にいっさいないのだった。近所の公園の博物館は平屋,戦没者を祈念する塔は人が出入りできるような具合ではない。もちろん陵には入り口こそあるが立ち入り禁止。しかし,時間だけは両手を広げても余るくらい持ち合わせた二人はいやもおうもなく歩き始める。陵の周囲を一周するために。

 堺の市中なのだから不思議もないが,陵の周囲には高校やホテル(どう見てもモーテルというよりラブホテルである),ごくありきたりの民家が建ち並ぶ。そこそこ遊歩道ふうにこぎれいな部分もあるのだが,金網に右手を添えて歩くと最後には町工場とみまがう民家の庭を無断で入り込んで,洗濯物をかき分けて,あれで見咎められ通報でもされていたら我ら二人はどうなったのだろう,職業は? いや無職です。二人とも? 二人とも。
 ……相当に,怪しい。

 最近の仁徳天皇陵についての紹介文を読むと遊歩道が完備されているように書かれている。僕たちが歩いた後に整備されたのか,それとも僕たちがイレギュラーな道を歩いてしまったのだろうか。
 この周辺には百舌鳥古墳群といって,かつては数百の古墳が随所に見られたらしい。宅地造成のために取り壊され,現在では50程度しか残っていないとか。仁徳天皇陵のすぐ隣の公園の資料館には現在と以前の大きな航空写真があり,膨大な数の古墳が失われたことがわかる。墓を掘り返された祟りはないのだろうか,などとも思う。

 仁徳天皇陵,その周辺一周はおよそ徒歩45分,金網の向こう,堀のよどんだ水には倒木が浮かび,その上で大きな亀が何匹も甲羅を干していた。明治だか昭和だかのいつかに台風で一部が崩れ,その部分だけ学術調査を許されたという丘陵は穏やかに緑豊か,その数年の軽い神経症的な状態からようやく開放され,次の仕事を求めてネクタイを絞めるにはまだ数ヶ月を要する,そんなうらうらとした春の一日。

先頭 表紙

ふうむ,なんだか逆高所恐怖症にかかりそうな話であります。 / 烏丸 ( 2002-09-02 02:38 )
大船モノレールの残骸の下を通る時はいつもヒヤヒヤします。素人目にもアレでモノレールは走らないだろうなぁ。。。と。 / Blue ( 2002-08-27 15:34 )
先月紹介の『廃墟霊の記憶』で取り上げられていた大船のモノレール事業,ダイエーがとうとう断念したようですね。1966年5月に日本ドリーム観光が運行したものの,橋脚の安全性に問題があって翌67年9月から運休していたとのこと。橋脚などの施設を撤去するだけで約100億円かかるそうで,廃墟もなかなか物入りです。 / 古墳は廃墟なのかしらん ( 2002-08-26 02:43 )

2002-08-18 高校野球が好き

 
 世代的なものもあるのだろうけれど,どうしてもサッカーよりは野球が気になる。わけても高校野球が大好きだ。

 甲子園での鍛え抜かれたチーム同士の緊迫した試合も好きだし,地方大会ベスト4あたりののんびりした試合運びも好きだ。
 坂東・村椿の投げ合いには間に合わなかったが,三沢と松山商業の延長18回にわたる0対0の決勝戦も見たし,箕島vs.星稜の息詰まる延長の接戦も記憶に残っている。作新・江川の化け物ぶりは圧倒的だったし,池田の山びこ打線には胸が躍った。

 2つ,夢がある。
 1つは,甲子園の大会の全試合を見ること。
 実は,十数年前,春の大会については全試合をテレビ桟敷で見ることができた。そう大きな話題を残した大会ではなかったが,ビールを片手に1日どっぷり高校野球にひたった満足感はいまも胸を満たしている。
 残るは夏の大会だが,当分は忙しい日々が続きそうなので,これが達成されるのは十年,二十年が経って,リタイアしてからだろうか。

 もう1つの夢は,ベスト4に四国のチームを占めること。
 東京,埼玉に住んでもう25年以上になるのだが,どうにも高校野球的「地元」意識は変わらず,あいかわらず四国人である。また,四国のチームならどれでもよくて,隣の県でもいっこうにかまわないところが不思議だ。
 ベスト4に四国のチームが2つ残るというのは何度かあったように記憶しているが,それ以上となるとなかなか難しい。それが,この夏の大会では香川・尽誠学園,愛媛・川之江,高知・明徳義塾,徳島・鳴門工(たった今,試合が終わった)と史上初めて4校がベスト8に進み,おまけに順々決勝では直接対決がない。
 カラスの出身校は中・高6か年教育の予備校みたいな学校で,野球部はあっても地区予選にすら参加していなかった。だから四国のチームでさえあれば楽しく応援できる。まして今回,川之江は家人や妹の母校だし,尽誠はそれなりに懐かしい思い出のある学校だ。
 強い子も,そうでもない子も,みんな,頑張れ。

 アイドルタレントと甲子園球児が自分より若いことに気がついたときが,酒を飲んだりタバコを吸ったり以上に大人への意識改革だった(飲んだり吸ったりはそれよりずっと以前からやっていたからということもあるが)。
 高校野球も,もう変わってもよい。とりあえず茶パツ,長髪の解禁,それから女子選手への門戸開放などいかがだろうか。

 明日,甲子園で最も見ごたえがあると言われる準々決勝。
 会社,休んじゃうかな。そうもいくまいなぁ。

先頭 表紙

ところで,ベスト4まで進んで,家人の母校が朝日新聞の記事で太字見出しになったのは敗戦の翌日だけでした。毎試合毎試合,負けたチームのほうが大きく取り上げられた,ということですね。全員で赤頭巾,全員で狼さんの学芸会じゃあるまいに,美談趣味,悪平等が過ぎないかなぁ。教育上,よくないぞぉ。 / 烏丸 ( 2002-08-22 02:29 )
四国勢でベスト4制覇の夢はとりあえずお預け。2つも残ったのでよしとしましょう。球児の皆さん,お疲れさま。これでおおっぴらに茶パツ,喫煙,不順異性交遊だぁ(←言葉が古いよ)。 / 烏丸 ( 2002-08-22 02:26 )
そうですねえ。高野連さえ何とかなればいいイベントなんですけどね。明徳義塾優勝、おめでとうございます。 / Hidey ( 2002-08-22 01:59 )
「お兄さんたち」がすでに10以上も下の年齢になっていることに甚だ驚愕を覚え・・。一番燃えた夏は中学3年、地元福岡第一高校が決勝で敗れた夏。長かった・・・。 / あやや ( 2002-08-19 14:26 )

2002-08-12 「天気管」について

 
 昨日取り上げた『海底2万マイル』の後編が,先ほど終わった。

 TVドラマとしてはよく頑張ったほうだと思うが,当初の,(夏休みで家人の実家に帰っている)子供たちにビデオ録画しておいてあとで見せてやろうという目的には少々味が苦すぎ,「なしてそーなる」と少々困惑気味である。後半はなんというか,救いのない,残虐なシーンも少なくなかった。
 まぁ,つまるかつまらないか,ついてこられるかこられないか,決めるのは彼らなのだが。

 ところで,インターネットの検索サイトで『海底2万マイル』やベルヌについてアットランダムに調べていると,妙なものに行き当たった。
 「天気管」なる機器(?)である。

> 天気管(てんきかん)と申しますのはStorm Glass あるいは
> Weather Glass と呼ばれる、17世紀頃からヨーロッパを中心に
> 用いられた天気の予測を行うための計器のことです。

> ガラス管に封じ込められた液体中の結晶の様子(形状や状態)を
> 観察することで、その後の天候の変化を予知することが出来ると
> 言われる不思議な気象観測機器です。

ということで,こちらの雑貨屋 パームでは実際に数千円程度で販売もされている。

 素敵なのは,そのページに,

> ご注意 天気管の動作原理は解明されておりません。
>     天気予報に実際役立つかどうかは保証いたしかねます。

とあること。思わず注文したくなってしまったさ。

 「雑貨屋 パーム」のページのリンク先には,天気管の魅力に引かれてイギリスに注文して手に入れた方のサイト「天気管の謎」もある。天気管の歴史なども紹介されていて,うん,とてもよい感じ。

先頭 表紙

この雑貨屋さん,職場からそう遠くもないので,寄ってみたいと思っているのですが,このところ,朝帰りが続いていて,身動きなりません。くうぅ。1個1個に日付のはいったアニバーサリーマグカップなんかも,1個800円ならいくつか買い込んでみたい……。 / 烏丸 ( 2002-08-15 05:16 )
面白い情報ありがとうございます。もの凄く気になるので、この店に直接行ってみたくなってしまいました。藤子不二夫のマンガに出てきそうな品揃えのお店だったら楽しいのですが(笑) / TAKE ( 2002-08-13 03:34 )

2002-08-11 『海底2万マイル』 ジュール・ベルヌ原作 / NHK総合

 
【誰でもない】

 そして結局のところ,ネモ艦長とはいかなる人物で,彼が陸を捨てて海に生きていくことを誓ったのはいかなる経緯によるのか。彼の家族はいかにして失われたのか。ノーチラス号を建造するための技術力,財力はいかにして得られたのか。そしてそれを操艦する乗員たちは?

※とはいえ,ネモ艦長は実はどこの国の何者で,渦巻きに巻き込まれたあと……という作品もベルヌは書いているらしい。あまり読みたくはない。

 思い起こせば『海底2万マイル』からは,大切なものの多くを教えてもらった。
 ベルヌやウェルズの作品を好んだことが己の形成に影響したのか,己の志向が彼らの作品を読み返させたのか。どっちだろう。よくわからない。それでも,己が今の己であることの背景に,少年時代に夕飯の呼び声も忘れて読みふけった彼らの作品の影響がないとは思えない。たとえばとりあえず権威に反発する心,科学に対する興味と不信,孤絶した世界への憧憬。

 そのうち,己にとっての『海底2万マイル』や『十五少年漂流記』,あるいは『タイムマシン』を書いてみたい。
 そう思って振り返れば,海底軍艦轟天号もヤマトもナディアも沈黙の艦隊も,それぞれの制作者たちによるノーチラス号へのオマージュなのかもしれない。

 この週末の土曜,日曜,NHK総合では2夜連続で海外ドラマとして『海底2万マイル』を放送している。主人公を父親の権威に圧迫されてあえぐ青年学者に,またとぼけた味の召使コンセイユの代わりに解放運動家の黒人青年を配している。アメリカのTVドラマらしいといえばそれまでだが,ベルヌの原作の根底にアイデンティティというテーマがあることを受けてのことのように思われなくもない。
 ドラマそのものも海底シーンがややチープとはいえ,TVドラマとしては非常によい出来である。日曜夜は11:25より後半放送の予定だそうだ。お時間に余裕のある方はどうぞ。

先頭 表紙

ただ今,後編放送中です。子供たちに録画して見せてやろうと思っていたのですが,小学2,3年生には少々荷の重そうなシーンが続いています。 / 烏丸 ( 2002-08-11 23:34 )
自分がBS2で見た作品と同じなのかな?海底シーンはプールっぽさが目に見えたけど、後半の方が視覚的に良かったかな・・。ノーチラス号のデザインが良かったですねー / そー@始めましてかな? ( 2002-08-11 12:32 )

2002-08-05 読者体験怪談の文体について考える 『恐怖体験!呪われた写真』 心霊現象研究会=編 / 廣済堂文庫


【「キャッ!」それに気がついた時,私は悲鳴を上げていました。】

 いわゆる「心霊写真」が「本物」かどうかという議論にはあまり興味がない。

 たとえば,かつて誰かが自殺した岩陰に人の顔が! ……確かに撮影してしまった者には剣呑だろうが,人の「顔」に対する認識力には若干偏りがあり,早い話黒い丸をぽぽぽんと3つ並べればそれが人の顔に見えてしまうのはご存知のとおり。岩や梢の複雑な陰影にはそうでなくとも人の顔に見えるケースが少なくないのだ。夏の雲がクジラの形に見えたからといって,それを日本人に捕食されたクジラの霊とは考えないのと同様である。
 
 思いがけないところに人の手が,画面を横切る光の帯が,など,そういった写真についても,そこに鏡やガラスはなかったか,とか,車のライトが横切らなかったか,とか,要するに心霊以外のあらゆる素因をすべて取り除いてからでないと検討したとはいえない。
 もちろん,心霊写真を提示する側は「そんなはずはない」と主張するのが通例だが,人の記憶ほどあてにはならないものはないのだ。

 そもそも,もし「心霊」なるものが本当にあって,それが死後にもなんらかの力を発揮できるのなら,なぜ人間についてだけ起こるのか。恨みや無念を抱いて死ぬのは人間に限ったことではないだろう。なぜ海は小魚たちの怨霊で満たされていないのか。なぜデパートの食品売り場は心霊写真のメッカとならないのか。

 ……つい力が入ってしまったが,本書『恐怖体験!呪われた写真』はそのような議論を持ち出すほどの本ですらない。大昔の少女雑誌や中学生向け雑誌の一角にいつも載っていたような,根拠も背景もいい加減な「読者体験談」のたぐいである。
 本書を手にしたのは,その日,少々重めの案件があって,まっとうな本を正面から読むつもりになれない,かといってスポーツ新聞や週刊コミック誌では時間をもてあましそう,そんな気分からだった。そんなときの本選びこそ,実は難しい。文字通りのよい本だと,気持ちが乗らなくて入り込めないし,もったいなさに却っていらいらしてしまう。さりとて過度に難しい本,まったくつまらない本では読む気になれず,時間つぶしにさえならない。

 そんな用途に心霊写真体験集は妥当なのかと言われればなんとも言えないが,まぁ適度な気分転換になったようなのであの日はあれで正解だったのだろう。もちろん期待を上回るような写真はない。

 ……が,一点,興味深く思ったことがあった。
 本書は取材先で得られたものや(どんな取材だ)読者から送られたという心霊写真とその体験談を2ダースほど並べたもので,したがって語り手はその心霊写真を撮影した当事者,ということになっている。当然,若い女性であったりある程度年配の男性であったり,その年齢や職業はまちまちだ。そして,写真の撮影された背景やその後の体験などが,本当の話なのか,それとも写真を素材に編集部側が勝手に書き起こした作り話かは不明だが,その文体が実に……ヘタなのである。
 いや,単にウマい,ヘタ,ということでなら,別に珍しくもないし,不思議でもない。こういったたぐいの読者体験文は,若手編集部員や売れないフリーライターが書かされるのが普通だし,また必ずしも美麗な文章を求められるわけでもないからである。
 ただ,それにしても,ヘタなのだ。男女の描き分けが。
 たとえば,

「リゾートマンションは三LDKで,ダイニングが十二畳ほどもある。その広さが良かったのだが,その時はそんな場所に二人だけでいることが心もとなく感じられた。さきほど見た人物が,まだどこかにいるような気がして仕方がなかった。」

「この写真を見れば,あの時の楽しい気分を思い出して,態度を少しは和らげてくれるかもしれない。そう思ったからです。
 正直いって,私は里香のことがとても好きでしたから,なんとかして,関係を修復したかったのです。」

 である調,ですます調以外,とくに年齢や性別を明らかにするための素材はなさそうだ。実は前者の語り手は若い女性,後者は中年の男性である。しかし,この引用部に限らず,およそそのようには読めない。それぞれで話題にされる写真は,男女が泊り込みの旅行に出かけてその先で撮影した,そういう背景にもかかわらず。
 そういうプライベートな,なおかつ男女の関係が透けて見えることを描いた場合,文章がウマかろうがヘタだろうが,通常はもう少し年齢や性別が見えてくるものである(もちろん,手馴れたプロならば,書き手の設定を文体から匂わすくらい可能だろうが)。プライベートな,それも色恋にかかわる内容で,これだけ何も見せないということのほうがむしろ難しいかもしれない。

 つまり,本書のライターは,男とも女とも,また年齢もよくわからない,そんな文体を1冊通して書き続けるという,逆の意味で特殊な能力を持っているということになる。
 どうも,選ばれている言葉やシチュエーションに対する反応(妙に古風に律儀なのである)などから,まぁまぁ年配,手広く仕事を請け負ってはきたが今ひとつ名のあがらないフリーライターもしくは出版プロダクション社員,あたりとみるが,どうだろうか。

先頭 表紙

「うむ,これは没になった日記の霊が,ぺしの姿を借りて現れたものでしょう。放置しておくとたいへん危険です」「せ,先生,どうすればよろしいのでしょう」「御祓いが必要ですな」「御祓いですか」「うむ。このように。ぺし,ぺし」 / 烏丸 ( 2002-08-07 03:22 )
「あっ、ここにも魚の霊が!」「よく見るとヒヨコの顔にも見えますね?」・・・・これじゃあ寒くなるどころか、笑って体が熱くなりそう? / カエル ( 2002-08-05 11:05 )

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