himajin top
烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-08-05 読者体験怪談の文体について考える 『恐怖体験!呪われた写真』 心霊現象研究会=編 / 廣済堂文庫
2002-07-29 朽ち果てて,風化して 『廃墟霊の記憶』 板橋雅弘 文,岩切 等 写真 / 角川ホラー文庫
2002-07-22 怖さひりひり 『新耳袋 現代百物語 第七夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー
2002-07-15 人間とアイアイ,謎なのはどちら? 『アイアイの謎』 島 泰三 / どうぶつ社
2002-07-08 本の中の強い女,弱い女 その十八 『ヘルマドンナ』 原口清志 / 講談社パーティーKC
2002-07-01 「精神分裂病」から「統合失調症」へ 『ロマンティックな狂気は存在するか』 春日武彦 / 新潮OH!文庫
2002-06-23 論理とファンタジーのステンド・グラス 『サム・ホーソーンの事件簿II』『マン島の黄金』『気の長い密室』
2002-06-16 追悼 『何が何だか』 ナンシー関 / 角川文庫
2002-06-09 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社
2002-06-03 子どもたちの夏のために 『ぼくがぼくであること』 山中 恒 / 角川文庫


2002-08-05 読者体験怪談の文体について考える 『恐怖体験!呪われた写真』 心霊現象研究会=編 / 廣済堂文庫


【「キャッ!」それに気がついた時,私は悲鳴を上げていました。】

 いわゆる「心霊写真」が「本物」かどうかという議論にはあまり興味がない。

 たとえば,かつて誰かが自殺した岩陰に人の顔が! ……確かに撮影してしまった者には剣呑だろうが,人の「顔」に対する認識力には若干偏りがあり,早い話黒い丸をぽぽぽんと3つ並べればそれが人の顔に見えてしまうのはご存知のとおり。岩や梢の複雑な陰影にはそうでなくとも人の顔に見えるケースが少なくないのだ。夏の雲がクジラの形に見えたからといって,それを日本人に捕食されたクジラの霊とは考えないのと同様である。
 
 思いがけないところに人の手が,画面を横切る光の帯が,など,そういった写真についても,そこに鏡やガラスはなかったか,とか,車のライトが横切らなかったか,とか,要するに心霊以外のあらゆる素因をすべて取り除いてからでないと検討したとはいえない。
 もちろん,心霊写真を提示する側は「そんなはずはない」と主張するのが通例だが,人の記憶ほどあてにはならないものはないのだ。

 そもそも,もし「心霊」なるものが本当にあって,それが死後にもなんらかの力を発揮できるのなら,なぜ人間についてだけ起こるのか。恨みや無念を抱いて死ぬのは人間に限ったことではないだろう。なぜ海は小魚たちの怨霊で満たされていないのか。なぜデパートの食品売り場は心霊写真のメッカとならないのか。

 ……つい力が入ってしまったが,本書『恐怖体験!呪われた写真』はそのような議論を持ち出すほどの本ですらない。大昔の少女雑誌や中学生向け雑誌の一角にいつも載っていたような,根拠も背景もいい加減な「読者体験談」のたぐいである。
 本書を手にしたのは,その日,少々重めの案件があって,まっとうな本を正面から読むつもりになれない,かといってスポーツ新聞や週刊コミック誌では時間をもてあましそう,そんな気分からだった。そんなときの本選びこそ,実は難しい。文字通りのよい本だと,気持ちが乗らなくて入り込めないし,もったいなさに却っていらいらしてしまう。さりとて過度に難しい本,まったくつまらない本では読む気になれず,時間つぶしにさえならない。

 そんな用途に心霊写真体験集は妥当なのかと言われればなんとも言えないが,まぁ適度な気分転換になったようなのであの日はあれで正解だったのだろう。もちろん期待を上回るような写真はない。

 ……が,一点,興味深く思ったことがあった。
 本書は取材先で得られたものや(どんな取材だ)読者から送られたという心霊写真とその体験談を2ダースほど並べたもので,したがって語り手はその心霊写真を撮影した当事者,ということになっている。当然,若い女性であったりある程度年配の男性であったり,その年齢や職業はまちまちだ。そして,写真の撮影された背景やその後の体験などが,本当の話なのか,それとも写真を素材に編集部側が勝手に書き起こした作り話かは不明だが,その文体が実に……ヘタなのである。
 いや,単にウマい,ヘタ,ということでなら,別に珍しくもないし,不思議でもない。こういったたぐいの読者体験文は,若手編集部員や売れないフリーライターが書かされるのが普通だし,また必ずしも美麗な文章を求められるわけでもないからである。
 ただ,それにしても,ヘタなのだ。男女の描き分けが。
 たとえば,

「リゾートマンションは三LDKで,ダイニングが十二畳ほどもある。その広さが良かったのだが,その時はそんな場所に二人だけでいることが心もとなく感じられた。さきほど見た人物が,まだどこかにいるような気がして仕方がなかった。」

「この写真を見れば,あの時の楽しい気分を思い出して,態度を少しは和らげてくれるかもしれない。そう思ったからです。
 正直いって,私は里香のことがとても好きでしたから,なんとかして,関係を修復したかったのです。」

 である調,ですます調以外,とくに年齢や性別を明らかにするための素材はなさそうだ。実は前者の語り手は若い女性,後者は中年の男性である。しかし,この引用部に限らず,およそそのようには読めない。それぞれで話題にされる写真は,男女が泊り込みの旅行に出かけてその先で撮影した,そういう背景にもかかわらず。
 そういうプライベートな,なおかつ男女の関係が透けて見えることを描いた場合,文章がウマかろうがヘタだろうが,通常はもう少し年齢や性別が見えてくるものである(もちろん,手馴れたプロならば,書き手の設定を文体から匂わすくらい可能だろうが)。プライベートな,それも色恋にかかわる内容で,これだけ何も見せないということのほうがむしろ難しいかもしれない。

 つまり,本書のライターは,男とも女とも,また年齢もよくわからない,そんな文体を1冊通して書き続けるという,逆の意味で特殊な能力を持っているということになる。
 どうも,選ばれている言葉やシチュエーションに対する反応(妙に古風に律儀なのである)などから,まぁまぁ年配,手広く仕事を請け負ってはきたが今ひとつ名のあがらないフリーライターもしくは出版プロダクション社員,あたりとみるが,どうだろうか。

先頭 表紙

「うむ,これは没になった日記の霊が,ぺしの姿を借りて現れたものでしょう。放置しておくとたいへん危険です」「せ,先生,どうすればよろしいのでしょう」「御祓いが必要ですな」「御祓いですか」「うむ。このように。ぺし,ぺし」 / 烏丸 ( 2002-08-07 03:22 )
「あっ、ここにも魚の霊が!」「よく見るとヒヨコの顔にも見えますね?」・・・・これじゃあ寒くなるどころか、笑って体が熱くなりそう? / カエル ( 2002-08-05 11:05 )

2002-07-29 朽ち果てて,風化して 『廃墟霊の記憶』 板橋雅弘 文,岩切 等 写真 / 角川ホラー文庫


【深夜,ここでセックスをするなんて,ただの肝試しだ。】

 「廃墟という趣味」について初めて知ったのはスポーツライター山際淳司の記事によって,だったかと思う。アメリカでは,休日にゴーストタウンを訪ねる趣味があり,写真を撮ったり廃屋に残された生活用品類を手に取ったり,確かそのような内容だった。
 その後も長崎の軍艦島をはじめとする廃墟の写真集が地道に売れているらしい,とか,廃墟を舞台にした映画が廃屋で上映されてマニアが集まったとか,静かにブームは続いているようだ。

 『廃墟霊の記憶』は,雑誌「SPY」に連載されたフォトエッセイが1992年マガジンハウスから『失楽園物語』として単行本化,さらに今年になって文庫化されたものである。

 廃墟めぐりの趣味はないし,本物・見世物を問わずお化け屋敷を訪ねたいとも思わない。それでも,廃屋に前にするときの,あのなんとも言えない思いはわかるような気がする。
 埼玉県K市に住んでいたころ,家人の運転で郊外に車をめぐらせると,工事途中でバブルが崩壊してそのままとなった巨大なマンションの棟があり,夕暮れから夜にかけて,そこを通りかかるたびに少し怖さのまじった暗い気持ちになったものだ。人が住み始める前であの気配である。このマンションはその数年後,体裁を整えて売りに出されたが,あの数百の窓に人が住み,そののちに廃屋と化したなら,何か出ないほうがおかしい。

 『廃墟霊の記憶』は全体的には意外とキワモノではなく,文章的にも落ち着いて読めるものだった。過分なアオリもなく,むしろ淡々と閉館された映画館,金の採掘場後,30年以上運行されてないモノレールなどを訪ね,紹介する文章は好感が持てる。
 ただ,「幽霊ホテル」として有名な琵琶湖湖畔の木の岡レイクサイドホテル(表紙写真),スペシャル級の「お化け屋敷」相模外科病院跡などをまじえたため,「ひとが勝手につくり,勝手に捨ててしまった物件たちに,かつての賑わいの残り香を嗅ごうと思って」という当初のルポの目的が曖昧になってしまったようにも思われる。
 要するに「廃墟めぐり」に「お化け屋敷めぐり」が必要以上にまざってしまったわけである。読み手にしてみると,住宅展示場と化した大阪球場やブームの終焉した幸福駅などの章に焦点が合わせにくいのだ。

 念のために言っておけば,本書は角川ホラー文庫にありながら,ホラーの要素はほとんどない。幽霊が出ると有名な現場に赴いても,どのようないわくつきの幽霊がどのように出るか,という話はほとんど触れられていない。
 だから怖い,という面もなきにしもあらずだが……。

 ところで,「SPY」連載時に編集者として付き合ったのはどうやら西原理恵子との親交でも知られる(正確にはサイバラとの付き合い以外ではよく知らない)新保信長らしい。いや,そもそも,著者の板橋雅弘という名前に覚えがあるので誰だろうと思ったら……少年マガジンに長年連載されたあのほのぼのラブラブコミック「BOYS BE…」の原作者だった。なるほどねえ。

先頭 表紙

カラスは,正直,廃屋は怖くて苦手です。逆に,新宿や渋谷のように,「欲」が剥き出しな街や建物も苦手です。人の気配のあんまりない深夜のオフィスで仕事をするのが好きなのはそのあたりからかも。 / 烏丸 ( 2002-08-15 05:19 )
実は学生時代、「廃墟巡り」を良くしていました・・^^; 相模外科病院、伊豆の大滝ランド、近所大船のモノレール、伊豆、三浦半島、相模湖畔などにある廃ホテルなど・・。心霊現象には興味はありませんでしたが、ヒトの営みのビジュアルとして惹かれるものがありました。この本も見てみたいと思います。 / TAKE ( 2002-08-13 03:28 )

2002-07-22 怖さひりひり 『新耳袋 現代百物語 第七夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー


【ふみひこ は だめ】

 怖い話は聞くのも話すのも大好きで,かつて,とあるパソコン通信ネットの会議室でオンライン百物語が始まったときには,喜んで夜毎踊り明かしたものだ。インターネットが普及するよりずいぶん前の話である。
 ただ残念なことに,猫も杓子もインターネットの昨今と違い,当時は参加者が決して多いとはいえず,季節の移ろいに伴ってだんだん怪談のアップ数が減り,感想や雑談はにぎわったものの結局百話に満たないうちに会議室ごと沈んでしまった。
 不思議なのは,日々怪談の題材を求めていると,勘が冴えてくるというか,うっかり呼んでしまうというか,ほうっておいても怪しい気配がにじり寄ってきたことだ。もともとは霊感が強いとかいうほうではないのだが,当時はいくたびかおかしな気配を感じたり,つじつまの合わない思いをしたりしたものである。
 今でも残念に思うのだが,このオンライン百物語,百話めがアップされていたならはたして何が起こったのだろうか……。

 それはさておき,独特のひりひりした怖さで知られる『新耳袋』の新刊である。
 最近は文庫,コミック,映像化など,メディア展開もにぎにぎしい『新耳袋』だが,凡百の怪談集と異なるのは,このシリーズがいかにもな「心霊」モノ,あるいはセミプロの手による創作モノでない,市井の「不思議」体験をヒアリングして集めた点にある。いわば,現代の「遠野物語」なのだ。
 したがって,その中にはもちろん,友達の兄姉の友達とやらによる作り話,いかにもどこかで語られていた怪談のリメーク,あるいは話者の単なる思い込みや夢とおぼしきもの,などまで含まれているようにも思われるが,逆に,なんとも説明のつかない,得体の知れない話も少なくない。

 たとえば,新刊の第七夜には,次のような話が掲載されている。
 中古の一戸建てを購入すると,壁が妙に厚い。大工を呼んで調べてもらうと,なぜか壁の中に食器棚が塗り込められ,平皿,深皿,グラスまでが揃っていた……。
 これは,怖い。前の住居者は,いかなる意図で食器棚を壁に塗り込んだのか。その背景にはいかなる事態があったのか……。
(ただ,この話には,ちょっと気のきいたオチが用意されており,話としてはよく出来ている分,一種出来すぎともなってしまっている。語りが巧すぎると,かえって作り話に見えやすい,ということである。)

 一方,旅館で寝ていると歯ぎしりの音が,とか,天井から女の手が,とかいった話は一つ一つはそう怖くない。閉めたはずの押し入れが気がつくと少し開いているという話がすでに山岸凉子の単行本のタイトルとなっているなど,よくある怪談の一パターンと化したものが少なくないためである。

 いずれにしても,部屋の体感温度を確実に5℃は下げてくれる本シリーズ,寝苦しい夜にはお奨め。
 今回はどれがとくにということではないが,全体に,ここ数冊の中では怖い印象がある。テナントの入りの悪いビルの屋上に揺れていたものとか,回っている皿がすべて空で,客が全員席に座ったままうつむいている回転寿司屋だとか……。

先頭 表紙

ほおずきさま,いらっしゃいません。ふみひこは,死んだあとにもお風呂で背後から髪に触ったり,畳の上にぬっと手首を突き出したり,棚からさかさまにぶら下がったりするから駄目なのです。……ウソです。ふみひこは本書のそれらとは別のお話に登場する登場人物で,語り手の女性の子供時代の日記になぜか「ふみひこ は だめ」と書かれていたというかなり情けない人物なのです。 / カラスの知るふみひこ氏は…… ( 2002-07-27 23:40 )
ふみひこはなぜだめなんでしょうか。気になります。 / ほおずき ( 2002-07-27 04:32 )
あややさま,そういえば,今回の第七夜は,読み終わったあとも側面の色の記憶がない……と思って見直してみると,なるほど,この色だったか……。『新耳袋』は最近,角川文庫から2冊発売されましたが,これは単行本で読みたいですね。怪異の招き度合いが違う感じ,とでもいうか。 / 烏丸 ( 2002-07-23 02:03 )
うー、シーズンですよね。それにしても、新耳袋の側面って、なんですぐ色落ちするのでせう。雨の日、バッグに浸透した雨が、色を落としてしまいました。赤いから2巻か・・。 / あやや ( 2002-07-22 20:20 )

2002-07-15 人間とアイアイ,謎なのはどちら? 『アイアイの謎』 島 泰三 / どうぶつ社


【バナナを食べる。卵を食べる。使う指がバナナでは薬指,卵では中指である。】

 朝日新聞・日曜版の書評欄とは,どうも相性が悪い。
 なんというか,「著者が長年にわたって丹念に調べ上げた市井の○○はその時代を反映して……」といった具合に,時代への意味付け,社会変革に役立つかどうか,そういった(その本の内容とは必ずしも一致しない)価値観があまりにも前面に濃厚すぎ,いやなかなか面白かった,ではすませてもらえないことが少なくないからだ。
 いきおい,紹介される本のラインナップも道徳臭,説教臭が強くなる。たとえば最近紹介された文庫をざっとリストアップすると,次のような具合だ。
  宮崎和加子『家で死ぬのはわがままですか』
  根深誠『シェルパ』
  高野裕美子『サイレント・ナイト』
  アエラ編集部編『女は私で生きる』
  筒井康隆『わたしのグランパ』
  吉行あぐり『あぐり 95年の奇跡』
  塩倉裕『引きこもる若者たち』
  村上龍『希望の国のエクソダス』
  鈴木浩三『資本主義は江戸で生まれた』
……一部を除き,文庫というよりは岩波の新書新刊一覧といった趣である。

 もちろん,そのような選択がなされるのはそうしたニーズがあるということで,もちろん心ときめいて注文を急ぎたくなる本が取り上げられることもないわけではない。

 本書『アイアイの謎』が作家の堀江敏幸によって紹介されたのは6月9日。
 マダガスカル固有の原猿類アイアイをうたう童謡がなぜ「アイアイ アイアイ おさるさんだよ」とことさらに「おさるさん」だと断りを入れなければならないのかと疑問を提示し,その回答として本書を推奨するその手際やよし,もとより奇態な生物についての本は嫌いではない。早速その日のうちに紀伊国屋BookWebに注文を入れた。

 アイアイについては,正直,何一つ知らない。
 霊長類としては例外的に耳が大きく,その耳には毛が生えていないこと。リスに似た歯をもち,19世紀半ばまではげっ歯類(ネズミやリスの仲間)とみなされていたこと。中指が曲がったワイヤーのように細く長く,薬指が最も太くて長いこと。アフリカとモザンビーク海峡を隔てたマダガスカル固有の哺乳類の一種であること。マダガスカルには大型の原猿類もいたが,ここ数百年の間に何種類もが絶滅したこと。残る種も,国土の8割にも及ぶ野焼きのために絶滅の危機に瀕していること。

 アイアイそのものはまことに不思議な生き物であり,その特徴的な耳や指がいかなる食性を意味するかを究明する道すじは一種の探偵小説のようで興味深い。
 しかし,本書を手にしたことが読書として爽快だったかといえば,残念ながらそうでもない。

 夜行性の動物だからやむを得ないのだろうが,ポケモンのピカチュウ,いやピチュウを思わせるアイアイの写真はいずれもフラッシュに目が光って無気味だし,その撮影がアイアイにとって必ずしも快適なものではなかったことも明らかだ(飼育されたアイアイの貴重な赤ん坊が死んだのは,明らかに研究を目的とした著者の介在のためだろう)。
 著者の文章は笑えないギャグをところどころに配置して,真摯なのかアバウトなのか掴みにくく,マダガスカルで長年困難な調査に務める以上アイアイへの愛情がないはずはないのだが,そうは読めない面もまま見られる。

 とくに,煙草の吸殻を間違って口に入れたような気分になってしまうのは,本書に何度も登場するアメリカ人霊長類学者エレノア・スターリングに対する悪意ともなんともつかない表記である。彼女の論文が取り上げられるのは,ほぼ毎回,そのデータとしての曖昧さ,アイアイの生態についての指摘のあやふやさを攻撃するためである。著者にしてみれば,自説と相反する説を持ち出すアイアイの「権威」たるスターリングの存在は鬱陶しいものかもしれないが,それなら自説の正しさを適切な資料を示して強調すればよいだけだ。「後からきた者に知名度で追い越されたひがみ」とでも言いたくなるようなこの書きっぷりはいかがなものか。

 結局,そこらの図鑑よりは詳しくアイアイについて知ることができたが,だからどうかと言えば,消化しづらいものが胃に残る。

 マダガスカルでは住民はアイアイを恐れ,アイアイに触れた者は1年以内に死ぬと言われていたそうだ。もちろん,間違いである。アイアイに触れた人間が死ぬのではない。人間が触れたアイアイが死ぬのだ。

先頭 表紙

2002-07-08 本の中の強い女,弱い女 その十八 『ヘルマドンナ』 原口清志 / 講談社パーティーKC


【「女の敵」だということ自体が許せませんのに よくもまあ わさわさと これだけの数がどこから湧いてくるのか】

 不遇な作家というのは,いる。
 プロとしてデビューすることに成功し,そこそこ実力もあるのに,掲載雑誌に恵まれなかったり,時代に乗りそこなったり,ブームを作りそこなったりでメジャーになるチャンスを逃してしまうタイプ。
 もちろん,雑誌や編集者を選ぶのも才能のうちという見方もあるし,物書きである以上,時代の欲求を読むのは仕事の範疇ではあるのだが──。

 原口清志は,もっとメジャーになっている可能性もなくはなかった漫画家の1人で,とくに,少年チャンピオンに連載された『しゃがら』が,単行本5巻まできたところで病気休載になってしまったことが惜しまれる。
 『しゃがら』は人間と魔族の間に生まれた主人公が失われた五体を求めて魔族と闘うという筋立てで,言ってしまえば手塚治虫の『どろろ』と高橋留美子の『犬夜叉』を足しておたっきーな猫耳少女趣味を振りかけたようなバイオレンスホラー大作(予定)であった。いかんせん,この作者には週間の連載は体力的,精神的に厳しかったようで,連載開始後わりあい早い時期から画は荒れ,ストーリーは混濁している。それまでの比較的小奇麗にまとまった作風から,多少無理押しでもバイタリティあふれる作風に切り替えようとして果たせなかった,そんな印象である。

 今回ご紹介する『ヘルマドンナ』は,1991年から92年にかけて,講談社のモーニングパーティ増刊,アフタヌーン誌上に散発的に掲載された作品で,ストーリーやセリフの細部にまで気を遣った,作者の魅力の強く現れた連作短編集となっている。

 主人公・古杣夕湖(ふるそまゆうこ)は魔物(デアボリカ)ハンター,警察の手におえない怪異な事件が起こると呼び出され,事件を解決する。彼女は,2m近い長躯,長髪の美女で,普段は「じい」と2人,豪奢な洋館で暮らしているが,ひとたび事が起こると赤いフェラーリで現場にかけつける。
 マンガにはよくある設定だし,敵役も泥人形ゴーレム,寄生植物曼陀羅華(マンドラゴラ),吸血鬼(ヴアンピール),化け蜘蛛アルケニー,始原児ホムンクルス,火蜥蜴サラマンダー等々,オカルトコミックやRPGではおなじみの面々ではある。
 しかし,『ヘルマドンナ』の特徴というか魅力はそういったバイオレンスホラーとしての対決以外のところにある。早い話,夕湖のファッションや色気が独特なのである。たとえば「ガーゴイルの像」編では夕湖は花嫁の姿をしてフェラーリから降り立ち,「では ひとつ わたしが◇ 悪魔の気でもひいてみましょうか」と魔物たちを呼び寄せる(◇はハートマーク)。わらわら押し寄せ,花嫁衣裳を引き破るガーゴイルたちを夕湖は剣で切り散らし,下着姿でガーゴイルたちの正体を暴くのだが,この,下着姿で闘うということが,青年誌としての読者サービス,つまり読み手におもねる面より,夕湖のノーブルな魅力を描くことのほうにポイントがあるようなのである。
 つまりは,作者が強く高貴でキュートな女闘士のイメージを先に持ち,それを描き上げるために『ヘルマドンナ』を用意した,そう言っても過言ではないだろう。

 とくに,有名エステティッククラブで若い女性が行方不明になる事件を追う「ラビュリントス」は,先ほどの「ガーゴイルの像」と並んで夕湖の可憐さとマタドールのような凛々しさが描きつくされ,お奨めの一編となっている。また,事件解決後に紅茶を飲むシーンの「くみ・・」,爪を長く戦闘モードに変える際の「ビ キャ!」など,各編の随所に効果的なオノマトペが用いられているのも興味深い。
 ただ,元来が集中の持続しないタイプらしく,1巻めでは7つの事件(7つの敵との闘い)が描かれていたものが,2巻めで3事件,3巻めでは実質たった2事件と,ストーリーがだんだんダレてしまったのが残念極まりない。もちろん3巻めではこれまでにない強敵を前に,魔物(デアボリカ)ハンターたる夕湖の背景,正体などがいろいろ暴かれるという展開ではあるのだが,それにしても1巻めに比べて3巻は進展が遅く,重い。
 もっと読みたい,これ以上は無理か,という,なかなか微妙なセンがこの3冊という長さだったのかもしれない。

 原口清志は,『ヘルマドンナ』のあと『しゃがら』を連載,それが休載となったあと,同じ少年シャンピオン誌上で『魔物な彼女たち』,ヤングチャンピオン誌上で『シスターヴァイス』をぱらぱらと散発的に発表している。相変わらず少女に魔物が溶け込んでずちゃずちゃのぬたぬた,という作風ではありながら,絵は乱れ,コメディだかホラーだかよくわからない,悪い意味でのB級作品となり果ててしまった。
 どうか,じっくりと時間をかけて,『ヘルマドンナ』1巻,2巻のクオリティを再現してほしい。ニッチとはいえ,この種のファッショナブルホラー,まだ市場はある,と思うのだが。

先頭 表紙

みなさま,ありがとうございます。また1コ,年をとってしまいましたが,日常は相変わらずの烏丸です(踊るように仕事をするのが目標)。ただ,このところ,書き込みの数が少なく,その分1つ1つが内容ではなく読み物として重ったるくなっていることを反省しています。自分で読み返しても「重い〜」ではよろしくない。ライトなことはライトに,タイトなことはタイトに,精進精進。 / 烏丸 ( 2002-07-10 03:12 )
遅ればせながらお誕生日おめでとうございます♪ / らいむ ( 2002-07-09 00:12 )
お誕生日おめでとうございます。読み逃げ代をそろそろお支払いしたいものです。 / あやや ( 2002-07-08 22:37 )
烏丸さま お誕生日おめでとうございます。賑やかな夏なのでしょうか。よい夏をお過ごし下さい。 / アナイス ( 2002-07-08 21:16 )
烏丸様、お誕生日おめでとうございます!!なかなか知らないご本の方が多い所為か、読み逃げ状態が続居ておりますが…ごめんなさい。これからの一年間はどんな風に流れて行くのでしょうね!?素敵な出来事が沢山待っていますようにっ!!おめでとうございます。 / peach ( 2002-07-08 14:11 )
お誕生日おめでとうございます!蟹座なんですね・・・・ / ムッシュ ( 2002-07-08 12:59 )

2002-07-01 「精神分裂病」から「統合失調症」へ 『ロマンティックな狂気は存在するか』 春日武彦 / 新潮OH!文庫


【病気ならば,治療法は存在するのである。それは思弁や倫理や哲学の領域なんかではない。】

 日本精神神経学会は29日,都内で臨時評議員会を開き「精神分裂病」の呼称を「統合失調症」に変更することを決めた。偏見や差別の解消を図るために以前から話題にされてきたが,8月の予定を前倒しにして決定されたものである。
 英断とみるべきか,差別言葉狩りの一種とみるべきかは,正直いってよくわからない。念のために書いておくが,日本精神神経学会に言葉狩りの意図があったと主張しているわけではない。世の中には言葉を置き換えさえすれば問題が解消するかのようにみなす風潮がある,ということである。

 無論,言葉の置き換えですべて事足りるとするのは明らかに間違いなのだが,問題が軽減されるならそれは悪いことではない。
 だが。よくも悪しくも,言葉が置き換えられるとき,元の言葉に長年込められてきたさまざまなイメージがどこかに霧散してしまうのは確かなことだ。「歌謡曲」という言葉を「J-Pop」という言葉で置き換えるとき,同じ若者向けの流行歌であっても,そこからは歴然と「戦後」「昭和」がすっぱり切り捨てられてしまう。そんな感じ。

 最近のWindowsのMS-IMEではすでに「きちがい」「きぐるい」「はくち」「せいはく」といった言葉が正しく変換できない。「ばか」「せいしんぶんれつびょう」,果ては「きょうき」が変換できなくなる日もそう遠いことではないだろう。
 キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」を「21世紀のスキッゾイド・マン」と名称変更してCDを発売し直す(本当)程度ならどうということもないし,ピンク・フロイドの「狂気」は「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」ととするのが自然だろう。しかし,ドストエフスキーや安吾の『白痴』はどうすればよいのか。ゴダールの『気狂いピエロ』にこれ以上適切な邦題はあるだろうか。
 現在,20代の若者の大半が「瘋癲病院」という言葉を理解しないように,「白痴」という言葉が理解されなくなったとき,ドストエフスキーはもはや無用,という時代がくるのだろうか(いや,もうすでに必要とされていないようにも見えるが)。

 さて,いつものように前置きが長くなってしまった。本日取り上げる『ロマンティックな狂気は存在するか』は,現役の精神科医・春日武彦が,イメージばかりが先走りし,ときとして「創造性,純粋さ,真摯さの究極として位置づけられ,いわば憧憬の対象とすらなることがある」狂気,すなわち「ロマンティックな狂気」という現象を取り上げ,それに対して冷静な態度をとれるよう,「とにもかくにも好奇心をひととおり満足させ,さらに知的関心をも満たしておく」ことを目標とした論評集である。

 たとえば本書では,「狂気によって産出される幻覚や妄想の内容が,人々が通常考えているよりは遥かに退屈で硬直したものだという事実があるいっぽう,文学青年だとか芸術家を任じている連中が狂気へ過大な可能性や評価を『片想い』しているという事実もある」という指摘がなされる。
 「新しいジャンル,思いもかけぬ可能性を指し示すような狂気なんかはまずない」というのである。狂気を示す人物の言動は,当初は非常な驚きをもって迎えられるが,精神科医としてある程度経験をふむと,患者の妄想や幻覚,幻聴等はある程度分類できて,前衛芸術家が狂気の世界から斬新な,思いもよらぬ作品を生む,というようなことはほとんど期待できない,つまりはそういうことである。

 これは,ある種の「文学青年だとか芸術家を任じている連中」にはまことに耳の痛い指摘に違いない。
 詩でも小説でも絵画でも,新奇なもの,思いがけないものをよどみなく生み出せる天才はまれで,たいがいは艱難辛苦の果てに,悪くはないがありきたりな作品をひねり出すのが精一杯だ。そんな中で,新しい作品を生み出すために心をねじりにねじらせて,創造と生活を天秤にかけたあげく家族や恋人からも見捨てられ,その果てに待つ狂気の世界で初めて誰をもうならせるまったく新しい作品世界を……という手はずがまったく空しい夢に過ぎないことを示すからである。

 ただ,指摘は指摘として,そのような文学や芸術のあり方は,同時に読み手,受け手が何を求めているかを示すようにも思われる。
 春日武彦が「退屈で硬直したもの」という幻覚や妄想にはどのようなものがあるのか,また逆に,実際の文学作品や映画などで,いかに「事実」としての狂気と異なるものが描かれているか,それを知りたい,覗き込みたいという好奇心は本書を読了してもまた別の欲求として残る。
 エボラ・ウイルスの登場と跳梁を描くリチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』が人を魅了するのは,それが「恐ろしい」「事実」であるからであり,逆にいえば,「恐ろしい」「事実」は多数の客を招くのだ。その意味で,いかに「統合失調症」等と用語が置き換えられ,あるいは著者が冷静な対応を推奨しようと,「狂気」という現象が(おそらく事実としての症状とは別のあり方で)さまざまな作品の中で生き残り,黒い影として,あるいは美麗な破滅の相として描かれ続けることは想像に難くない。

 ……それにしても,本書のカバージャケットは,巧い。
 狂気と正常の境目という陰惨かつロマンティックな読み手の思い込みを,モノトーンの端正な美女,剥き出しの首や肩,そして左右が微妙に乱れたキャミソールで示して秀逸だ。この上にはいかなる両の目が隠されているのか。本書を手にする者の多くはそこに恐怖とこの世のものにあらざる美を見いだすだろう。それこそが「ロマンティックな狂気」に過ぎないのだが。

先頭 表紙

と、さっそくハイパーリンクの実行例を一つばかりしてみせたりするところの朝ぼらけかな。 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:21 )
同じ著者の『屈折愛 あなたの隣りのストーカー』、『私たちはなぜ狂わずにいるのか』もそれなりに面白く読めました。とくに後者で、治療で電気ショックを使う病院のことがよく悪く言われるが、それはそれなりに理由があるからだ(そういう病院は、重度の患者が送られてくるのだ)、という理屈はなかなか目うろこでした。 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:20 )
最近、世間的にも「天才」として有名なたぐいの人物たちと仕事をすることがあるのですが、一人は実は非常に常識的、一人は絵に描いたように奇妙な言動をやらかしてくれます。……が、結局のところ、二人とも「狂気」というのとはまったく無関係な感じで、おそらく何かに集中すると、ほかのことに無頓着になるのが、はためには奇矯に見えるのだろうと思われます。 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:15 )
先日は掲示板でハイパーリンクのやり方をご教示頂きまして有り難うございました♪ / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:20 )
実際に良い意味で「常識を覆す」モノの見方とか感性を持っている人が、日常的なトコロで非常識過ぎるってあまり考えたくないし(笑)「アーティスト」って言ったらそれまでだけど許容範囲があります(笑)……読みたーい!と思っていた本なので近々購入します。 / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:19 )
実際「ちょっと人と変わっている」とか「おかしい」って言われる事が「カッコイイ」みたいな部分ってモノを作ったりする稼業(プロでもアマでもですが)に手を染めた人間は思うみたいですが、それは「常識が無い」人としか思えないんです / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:17 )

2002-06-23 論理とファンタジーのステンド・グラス 『サム・ホーソーンの事件簿II』『マン島の黄金』『気の長い密室』


【ああいう連中は……愛か,死か,その両方の場合にしかこの世に戻っちゃこないんだからな】

 めっぽう忙しい。
 会議,ミーティング,会議の合間に,何百と届くメールを片付ける。終電で帰れそうだと安心しているとその間際に限って何か事件が発覚する。自分の業務領分でないように思われても,招かれるとつい足を向ける。口をはさむ。そのうちトラブルが起こるととりあえずあの人に相談すればという風評がたつ。苦笑いしつつ,それを楽しんでいる自分がいる。
 出世とはあまり縁がないが,現場で頼りにされることに勝る喜びがあるだろうか。

 ただ,こうした「ひまじん」としていささか忸怩たる生活では,長編をじっくり読むのは難しい。いきおい,短編集をポケットにしのばせ,寸暇を惜しんでぱらぱらめくるのが精一杯となる。
 今夜は最近読んだミステリ短編集をいくつか取り上げてみよう。

『サム・ホーソーンの事件簿II』 エドワード・D・ホック / 創元推理文庫
 『サム・ホーソーンの事件簿I』『皮服の男』で濃度の高いカクテルのようなミステリ短編を楽しませてくれたホックの作品集。日本独自編集。と言っても,あと書きに木村仁良曰く「ただ十三編目から二十四編目までを並べただけ」。
 アメリカ,ニューイングランドの田舎町ノースモントを舞台に,田舎医者が不可能犯罪に挑む。八角形の密室で死体が見つかったり,衆人環視の中,一万ドルの債権の入った封筒が消えたりと今回もなかなか難題が並んでいるが,とくに,病院に駆け込んで死んだ男の心臓からは銃弾が摘出されたのに,体のどこにも銃創がなかったという「ジプシー・キャンプの謎」は出色。
 ただ,前作に比べるとやや機械的なトリックが目につき,謎もやや類型的に感じられた。ストーリーにおいてサム・ホーソーン医師当人に銃口が向けられたり,車が炎上したりするのはその反動だろうか。

『気の長い密室』 司城志朗 / ハルキ文庫
 不可能犯罪といえば密室,その「密室」という言葉がタイトルに用いられた短編集ということからホックのような本格短編を期待したが,実はファンタジー寄りのショートショート集という趣。目や耳や手足だけを貸し出すアルバイト,海の味がする人気のシチュー(この落ちは冒頭から読めた),食べても食べても外観が痩せていく女,モデルハウスで怪しい男に閉じ込められた女。若い学生アルバイトを主人公とする作品が続くなと思ったら,「フロム・エー」<東海版>に連載されたものとあり,納得。
 かつて,1970年ごろにはいろんな新聞や雑誌にこういったファンタジーともSFともミステリともつかぬショートショートがよく掲載されていたものだ。星新一,福島正実,小松左京,筒井康隆,都筑道夫といったSF,ミステリ界の大物はもちろん,今では作者名も思い出せないさまざまな作家たちが,そのアイデアを競い合っていた。あの熱気はどこにいってしまったのだろう。
 「時間」は当時のショートショートの大きなテーマの1つで,『気の長い密室』でも時間をテーマにしたものは読み応えがあるように思われた。あるときは甘く,あるときは苦く。

『マン島の黄金』 アガサ・クリスティー / ハヤカワ文庫
 新聞や雑誌に掲載されたきり埋もれていたクリスティーの作品群を発掘した作品集。たとえば表題作はマン島の観光協会が客寄せにクリスティーに依頼した一種の宝捜し企画で,正直,そう面白い作品とは言い難い。企画そのものもハズレというか盛り上がりに欠けたようだ。
 全体に若書きの(少々甘みのまさった)恋愛小説,のちに書き改められたポアロものなど,それなりといえばそれなり,二線級といえば二線級の作品が並ぶ。その中では坂田靖子がマンガにしそうな恋愛ファンタジー「孤独な神さま」が好ましく思われた。……などどうしてもクリスティーフリークや研究家以外にはお奨めできないような言い方になってしまうが,実は個人的には巻末の「クィン氏のティー・セット」一作でも十分楽しめた。
 ハーリ・クィンはエルキュール・ポアロ,ミス・マープル,おしどり探偵(トミーとタペンス),パーカー・パインなどと並ぶクリスティーのシリーズキャラクターの一人だが,彼は「探偵」ではないし,登場する作品も通常の「ミステリ」とは言いがたい。七色の虹を着飾ったような彼はまるでずっと以前からそこにいたかのように現れ,ただ何かの話題に静かに水を向けるに過ぎない。実際に過去の事件を解き明かしたり,これから起こるトラブルを防いだりするのは猫背の紳士,サタースウェイト老人だ。だがそれはいわゆる「推理」とは別のもので,あるべきものがあるように見えてくるに過ぎない。いや,事件や登場人物そのものがまるで幻のようなはかなさで,それはサタースウェイトから確かな人生の手応えを奪う行為のようにさえ思われる。『マン島の黄金』に収録された「クィン氏のティー・セット」でも,クィン氏が本当に登場したのか否か,彼が何をしたのかしなかったのかはよくわからない。彼のとぎれとぎれの言葉は,ときに詩的,哲学的でさえある。
 教会のステンド・グラスはきわめて宗教的な何かを示しているが宗教そのものではない。ハーリ・クィンはミステリにおいてそのようにある。

先頭 表紙

2002-06-16 追悼 『何が何だか』 ナンシー関 / 角川文庫


【トシちゃんはこの暗闇の中どこへ行くのだろうか。】

 ナンシー関が亡くなった。

 「言葉を失う」という慣用句があるが,文字通り,僕たちはメディアのある一面を語る言葉を失った。今後もユニークなイラストレーター,批評家,エッセイストはそれなりに現れるだろうが,ナンシー関に代わる存在は生まれないだろう。
 訃報に際して自殺ということがすぐ想起された。それはいかにもナンシー関らしいことのように思われたが,同時に最も彼女らしからぬことのようにも感じられた。
 最後の作品ではなかっただろうが,最近の週刊文春のコラムの消しゴム版画に「ごきげんよう」という言葉が彫られていたのも心に痛い。

 ナンシー関については,この「くるくる」でも何度か取り上げた。拾い返すと『何もそこまで』から『テレビ消灯時間1』にかけて,つまり1995年から1996年にかけて,彼女が例の文体と思索の方向性を完成させ,その後,2000年以降はやや生彩に欠けるように思われた。
 最近はいわゆる「大食い」番組を取り上げることが少なくなかったが,どうも焦点が絞れず,読み手としては若干フラストレーションを感じざるを得なかった。正直にいえばここしばらくのコラムには微妙な「疲れ」が感じられた。たとえば川島なお美や神田うの,相撲の花田家を素材にした時期と比較すれば,最近のコラムがシャープさに欠けていたことは明らかだろう。
 だからこそ,待っていたのだ。次のステップを期待していたのだ。毎週いくつかの週刊誌をめくっては楽しみにしていたのだ。

 これ以上書けることはない。彼女の過去の作品について,言葉に出来ることはすでに書いてしまった。今はただ,僕たちが喪ったものを惜しみたい。

先頭 表紙

SENRIさま,この「くるくる」を書き始めてからだけでも何人かの訃報にふれましたが,自分より年若いクリエイターの死はことさら胸が痛みます。書店で妙なフェアなどされたらいやな感じ。 / 烏丸 ( 2002-06-17 00:03 )
ニュースを知ったとき、呆然としてしまいました。この先の私の人生に、ひとつの大きな楽しみが無くなってしまいました。彼女の文には、「思考は表現できなければ思考でない」的叱咤と、「斜に構えてもOK」的激励をいただいておりました。残念でなりません。 / SENRI ( 2002-06-16 12:24 )
『何が何だか』は彼女のベストバウトとまではいえないものの,1996年当時,いわば油ののった時期のコラムが少なくありません。ここしばらくに文庫化された中ではオススメの1冊です。 / 烏丸 ( 2002-06-16 04:15 )

2002-06-09 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社


【行くぜハチャトゥリヤン!】

 おっとっと,あぶねぇあぶねぇ。
 この俺としたことが,天下のいしいひさいちの新刊を買い損ねるところだったぜ。なにしろこのタイトル,一九九一年に竹書房から発行された『B型平次捕物帳』の再販と思うじゃねぇか。よく見りゃ竹書房のは『捕物』で創元社のは『捕物』,中身もぜんぶ単行本未収録ときたもんだ。

 それにしても,さすがはいしいひさいち,
  「おやぶんてーへんだ!
   日本橋の信州屋に押し込み強盗が入って一家皆殺しですぜ」
  「なにッ
   行くぜハチ!」
  「ガッテンだ!」
  「おまえさんっ カチカチ」
たったこれだけをネタに,十年経っても引っ張る引っ張る屋根屋の褌,目黒の蕎麦屋。普通はこれだけワンパターンならあきられるのが相場ってもんだが,どういうわけかいまだ笑えることにゃ変わりがねぇ。いったいどうなってるのかねぇ。

 ところで,前作,本作と,このB型平次シリーズで案外と知られてないのが四コマの切れ目に使われる「寛永通寶」アイコンだ。
 添付の表紙なら「親分大変」と書かれたあれだが,数ページに一度出てくるこいつがたまらねぇ。いしいひさいちは本人を筆頭とする工房だってぇのが巷の噂だが,その並々ならぬセンスが,その四文字熟語選択にも現れてやがる。

  全身倦怠
    新井将敬
  尿管結石
    会社負担
  脱脂粉乳
    西本願寺
  号外号外
    洗浄便座
  徒歩25分
    妊婦体操
  大家政子
    北部同盟
  意味プー
    腔腸動物
   :  :

 どうでぇ! ……と言われても困るだろうが,そういうわけで,
  「微分積分,底辺だ!」
  「行くぜハチ!」
  「小数点だ!」

 ……もう一丁,
  「いくぜハイジ!」
  「アルペンだ!」

先頭 表紙

ナンシー関、急死。黙祷。 / 烏丸 ( 2002-06-12 20:14 )

2002-06-03 子どもたちの夏のために 『ぼくがぼくであること』 山中 恒 / 角川文庫


【ヒデカズッ! 夏代がすきか?】

 コマーシャリズムの中で多用される「本当の自分」という言葉はおよそ安直すぎて信用ならない。ワイドショーの「衝撃の真実」の「真実」度合いといい勝負である。
 なにしろ「本当の自分」とまったく同じシチュエーション,文脈の中で使われる言葉が「いつもと違う自分」だし,多少深読みすればその実マスコミに「踊らされている自分」だったりするし。

 今さらどうしてこんな言わずもがなのことを持ち出すかといえば,最近,たまたま別の場所で二度にわたって「本当の自分」という言葉を耳にしたためである。いずれも,およそ信頼するには足りない人物の口から。

 P君はグループ内の別会社から出向でやってきて2か月,見事なまでに使い物にならない。口は達者だが,何をやらせても完結しない。出向元に問い合わせてみたところ,周囲に面倒な仕事を押し付けて仕事をしている振りを重ねてきたが,そのうち当初配属されていた部署から出され,次の部署でもものにならず,もう一度チャンスを与えるために出向させた,といったところらしい。
 彼の場合,上司の前ではそこそこ殊勝だが,いなくなると途端に態度が豹変し,それが周囲の者のモチベーションにまで影響を与えているため,やむなく注意したところ,「反省している」「自分は力不足」などと並んで出てきた言葉が「本当の自分」だった。
 要は出向元の前の前の部署で仕事をしていたときが「本当の自分」であった,ということらしい。そこでの勤務態度が問題視されて──早い話が職業人として使い物になっていないために──よそに出されたという認識がないのである(会社の経費削減などの方針のためにやむなく異動させられた,と考えているらしい)。

 一方のQ君は,P君よりもう少し年かさで,今は小さな会社の社長である。私的な集まりで久しぶりに会ったが,相変わらずそのテーブルの話題の主でなくては気がすまない。尋ねもしない知識や,人生訓を次から次に披露してくれる(ときどきは,目の前の相手の専門業種についてまで説教が繰り広げられる)。だが,Q君の「会社」とやらが四半期で黒字になったことがなく,資金について父親,生活において母親の面倒をずっと受けていることは仲間打ちで知らぬ者もない。
 そんな未婚の彼がその夜声高に主張したのが教育論で,「本当の自分」を実現するためには会社に使われる身分になったのでは駄目だ,独立して社会を相手に働かないと仕事について本当のことは何一つわからない,そういった話である。

 P君,Q君の雰囲気,キャラクターは,およそ似ても似つかない。が,一方,現状認識がとんでもなく甘い点など,妙に通じるところもある。彼らに共通しているのは,そこそこに高い学歴を誇り,世間一般でいえば良家に育ち,不自由なく育った,ということだろうか。
 ……だとすれば,子の親として,P君やQ君のような「大人」に育てないためには,いったいどうすればよいのか。
 正解があるとは思えない。しかし,指針だけはなんとなくある。
 山中恒の『ぼくがぼくであること』は,小学校高学年の子どもたちに,「読ませる」のではなく,ぜひとも「出会って」ほしい1冊だ。

 『ぼくがぼくであること』の主人公,小学六年生の平田秀一は名前に「一」が付いているが三男である。良一,優一,稔美,秀一,マユミの兄弟の中で,一番出来が悪く,学校でも家でもしかられているばかり。そんな秀一が,夏休みのある日,ひょんなことから軽トラの荷台に乗って家出をしてしまう。そしてひき逃げ事件を目撃し,同い年の少女・夏代と出会い,武田信玄の隠し財宝の秘密に巻き込まれ……。
 家出をめぐるさまざまな事件,さまざまな人々との出会いが,秀一をしかられるだけの子どもから,一本スジの通った少年に変えていく。そして同時に,教育ママの牛耳る平田家は少しずつ崩壊していく。

 本書から読み取れることは,実にシンプルなことだ。
 思春期を迎えた子どもはどこかで,自分の意思で物事を考え,生活することを知らなければならない。往々にしてそれは,親の期待に,あるいは親そのものに背く形で実現する。
 昭和40年代という時代を反映して,本書には,第二次世界大戦中の社会の罪,戦後の若者の無軌道,さらには学生運動などが重いテーマとして盛り込まれている。だが,荒っぽくても,痛みがあっても,自分で考え,自分で選ぶ以外に「ぼくがぼくであること」にいたる道はないのだ。

 本作は,昭和42年の「六年の学習」(学習研究社)に連載され,のちに大幅に加筆修正されて実業之日本社から発行された。
 我が家の納戸の段ボールには今も「六年の学習」版が切り抜きで保存してある。ちなみにそれは自分の学年のものでなく,従姉の「六年の学習」を一式譲り受けたときのものだが,切り抜いて取っておくほど子ども心にも何か大切なものが詰まった印象があったのだと思う。

 現在角川文庫版を読み返してみると,「六年の学習」版に比べ,後半,平田家が崩壊していくさまが強調されている。作者にしてみれば戦後〜高度成長期における社会の混乱や家庭の崩壊を描き込むためだったのだろうが,その分,秀一のひと夏の成長,そして夏代への淡い思いは味わいが弱まってしまったような気がしないでもない。
 僕にとっては,「六年の学習」版のシンプルだが鮮やかな秀一の「夏休み」が,ささやかな「ぼくがぼくであること」への転機だったように思う。
 願わくば,愛しい世界中の子どもたちが,彼らの夏代と出会い,彼らの「まるじんの正直(まさなお)」と闘い,父や母を踏み越えていかんことを。

先頭 表紙

丸山巴/らいむさま、いらっしゃいませ。山中恒の作品では、『ぼくがぼくであること』同様NHK少年ドラマシリーズで放送された『とべたら本こ』が大好きでした。主題歌は今も暴力的に唐突に耳に浮かびます。「とべたら本こ」というのは、ゴム飛びで、練習で飛べたら次は本番だよ、といった意味だったと思います。♪おためし、おためし、とべたら本こ〜 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:11 )
私の大好きなバンドのヴォーカルがこの本が大好きで読みました。この本と「山の向こうは青い海だった」がベストなんだそうです。……で、私は「大人」になって出逢ったんだけど、子供の頃に読みたかったなあと思います。 / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:12 )

[次の10件を表示] (総目次)