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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-07-01 「精神分裂病」から「統合失調症」へ 『ロマンティックな狂気は存在するか』 春日武彦 / 新潮OH!文庫
2002-06-23 論理とファンタジーのステンド・グラス 『サム・ホーソーンの事件簿II』『マン島の黄金』『気の長い密室』
2002-06-16 追悼 『何が何だか』 ナンシー関 / 角川文庫
2002-06-09 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社
2002-06-03 子どもたちの夏のために 『ぼくがぼくであること』 山中 恒 / 角川文庫
2002-05-27 待望の「ROCKS」収録 『山下和美【短編集】』 講談社
2002-05-21 古い写真 <eclipse>
2002-05-06 シリーズ 怖い本 その八 『放送禁止歌』 森 達也 著,デーブ・スペクター 監修 / 解放出版社
2002-04-29 民話としての「ワダツミの木」
2002-04-22 シリーズ 怖い本 その七 闇に葬る……


2002-07-01 「精神分裂病」から「統合失調症」へ 『ロマンティックな狂気は存在するか』 春日武彦 / 新潮OH!文庫


【病気ならば,治療法は存在するのである。それは思弁や倫理や哲学の領域なんかではない。】

 日本精神神経学会は29日,都内で臨時評議員会を開き「精神分裂病」の呼称を「統合失調症」に変更することを決めた。偏見や差別の解消を図るために以前から話題にされてきたが,8月の予定を前倒しにして決定されたものである。
 英断とみるべきか,差別言葉狩りの一種とみるべきかは,正直いってよくわからない。念のために書いておくが,日本精神神経学会に言葉狩りの意図があったと主張しているわけではない。世の中には言葉を置き換えさえすれば問題が解消するかのようにみなす風潮がある,ということである。

 無論,言葉の置き換えですべて事足りるとするのは明らかに間違いなのだが,問題が軽減されるならそれは悪いことではない。
 だが。よくも悪しくも,言葉が置き換えられるとき,元の言葉に長年込められてきたさまざまなイメージがどこかに霧散してしまうのは確かなことだ。「歌謡曲」という言葉を「J-Pop」という言葉で置き換えるとき,同じ若者向けの流行歌であっても,そこからは歴然と「戦後」「昭和」がすっぱり切り捨てられてしまう。そんな感じ。

 最近のWindowsのMS-IMEではすでに「きちがい」「きぐるい」「はくち」「せいはく」といった言葉が正しく変換できない。「ばか」「せいしんぶんれつびょう」,果ては「きょうき」が変換できなくなる日もそう遠いことではないだろう。
 キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」を「21世紀のスキッゾイド・マン」と名称変更してCDを発売し直す(本当)程度ならどうということもないし,ピンク・フロイドの「狂気」は「ダークサイド・オブ・ザ・ムーン」ととするのが自然だろう。しかし,ドストエフスキーや安吾の『白痴』はどうすればよいのか。ゴダールの『気狂いピエロ』にこれ以上適切な邦題はあるだろうか。
 現在,20代の若者の大半が「瘋癲病院」という言葉を理解しないように,「白痴」という言葉が理解されなくなったとき,ドストエフスキーはもはや無用,という時代がくるのだろうか(いや,もうすでに必要とされていないようにも見えるが)。

 さて,いつものように前置きが長くなってしまった。本日取り上げる『ロマンティックな狂気は存在するか』は,現役の精神科医・春日武彦が,イメージばかりが先走りし,ときとして「創造性,純粋さ,真摯さの究極として位置づけられ,いわば憧憬の対象とすらなることがある」狂気,すなわち「ロマンティックな狂気」という現象を取り上げ,それに対して冷静な態度をとれるよう,「とにもかくにも好奇心をひととおり満足させ,さらに知的関心をも満たしておく」ことを目標とした論評集である。

 たとえば本書では,「狂気によって産出される幻覚や妄想の内容が,人々が通常考えているよりは遥かに退屈で硬直したものだという事実があるいっぽう,文学青年だとか芸術家を任じている連中が狂気へ過大な可能性や評価を『片想い』しているという事実もある」という指摘がなされる。
 「新しいジャンル,思いもかけぬ可能性を指し示すような狂気なんかはまずない」というのである。狂気を示す人物の言動は,当初は非常な驚きをもって迎えられるが,精神科医としてある程度経験をふむと,患者の妄想や幻覚,幻聴等はある程度分類できて,前衛芸術家が狂気の世界から斬新な,思いもよらぬ作品を生む,というようなことはほとんど期待できない,つまりはそういうことである。

 これは,ある種の「文学青年だとか芸術家を任じている連中」にはまことに耳の痛い指摘に違いない。
 詩でも小説でも絵画でも,新奇なもの,思いがけないものをよどみなく生み出せる天才はまれで,たいがいは艱難辛苦の果てに,悪くはないがありきたりな作品をひねり出すのが精一杯だ。そんな中で,新しい作品を生み出すために心をねじりにねじらせて,創造と生活を天秤にかけたあげく家族や恋人からも見捨てられ,その果てに待つ狂気の世界で初めて誰をもうならせるまったく新しい作品世界を……という手はずがまったく空しい夢に過ぎないことを示すからである。

 ただ,指摘は指摘として,そのような文学や芸術のあり方は,同時に読み手,受け手が何を求めているかを示すようにも思われる。
 春日武彦が「退屈で硬直したもの」という幻覚や妄想にはどのようなものがあるのか,また逆に,実際の文学作品や映画などで,いかに「事実」としての狂気と異なるものが描かれているか,それを知りたい,覗き込みたいという好奇心は本書を読了してもまた別の欲求として残る。
 エボラ・ウイルスの登場と跳梁を描くリチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』が人を魅了するのは,それが「恐ろしい」「事実」であるからであり,逆にいえば,「恐ろしい」「事実」は多数の客を招くのだ。その意味で,いかに「統合失調症」等と用語が置き換えられ,あるいは著者が冷静な対応を推奨しようと,「狂気」という現象が(おそらく事実としての症状とは別のあり方で)さまざまな作品の中で生き残り,黒い影として,あるいは美麗な破滅の相として描かれ続けることは想像に難くない。

 ……それにしても,本書のカバージャケットは,巧い。
 狂気と正常の境目という陰惨かつロマンティックな読み手の思い込みを,モノトーンの端正な美女,剥き出しの首や肩,そして左右が微妙に乱れたキャミソールで示して秀逸だ。この上にはいかなる両の目が隠されているのか。本書を手にする者の多くはそこに恐怖とこの世のものにあらざる美を見いだすだろう。それこそが「ロマンティックな狂気」に過ぎないのだが。

先頭 表紙

と、さっそくハイパーリンクの実行例を一つばかりしてみせたりするところの朝ぼらけかな。 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:21 )
同じ著者の『屈折愛 あなたの隣りのストーカー』、『私たちはなぜ狂わずにいるのか』もそれなりに面白く読めました。とくに後者で、治療で電気ショックを使う病院のことがよく悪く言われるが、それはそれなりに理由があるからだ(そういう病院は、重度の患者が送られてくるのだ)、という理屈はなかなか目うろこでした。 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:20 )
最近、世間的にも「天才」として有名なたぐいの人物たちと仕事をすることがあるのですが、一人は実は非常に常識的、一人は絵に描いたように奇妙な言動をやらかしてくれます。……が、結局のところ、二人とも「狂気」というのとはまったく無関係な感じで、おそらく何かに集中すると、ほかのことに無頓着になるのが、はためには奇矯に見えるのだろうと思われます。 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:15 )
先日は掲示板でハイパーリンクのやり方をご教示頂きまして有り難うございました♪ / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:20 )
実際に良い意味で「常識を覆す」モノの見方とか感性を持っている人が、日常的なトコロで非常識過ぎるってあまり考えたくないし(笑)「アーティスト」って言ったらそれまでだけど許容範囲があります(笑)……読みたーい!と思っていた本なので近々購入します。 / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:19 )
実際「ちょっと人と変わっている」とか「おかしい」って言われる事が「カッコイイ」みたいな部分ってモノを作ったりする稼業(プロでもアマでもですが)に手を染めた人間は思うみたいですが、それは「常識が無い」人としか思えないんです / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:17 )

2002-06-23 論理とファンタジーのステンド・グラス 『サム・ホーソーンの事件簿II』『マン島の黄金』『気の長い密室』


【ああいう連中は……愛か,死か,その両方の場合にしかこの世に戻っちゃこないんだからな】

 めっぽう忙しい。
 会議,ミーティング,会議の合間に,何百と届くメールを片付ける。終電で帰れそうだと安心しているとその間際に限って何か事件が発覚する。自分の業務領分でないように思われても,招かれるとつい足を向ける。口をはさむ。そのうちトラブルが起こるととりあえずあの人に相談すればという風評がたつ。苦笑いしつつ,それを楽しんでいる自分がいる。
 出世とはあまり縁がないが,現場で頼りにされることに勝る喜びがあるだろうか。

 ただ,こうした「ひまじん」としていささか忸怩たる生活では,長編をじっくり読むのは難しい。いきおい,短編集をポケットにしのばせ,寸暇を惜しんでぱらぱらめくるのが精一杯となる。
 今夜は最近読んだミステリ短編集をいくつか取り上げてみよう。

『サム・ホーソーンの事件簿II』 エドワード・D・ホック / 創元推理文庫
 『サム・ホーソーンの事件簿I』『皮服の男』で濃度の高いカクテルのようなミステリ短編を楽しませてくれたホックの作品集。日本独自編集。と言っても,あと書きに木村仁良曰く「ただ十三編目から二十四編目までを並べただけ」。
 アメリカ,ニューイングランドの田舎町ノースモントを舞台に,田舎医者が不可能犯罪に挑む。八角形の密室で死体が見つかったり,衆人環視の中,一万ドルの債権の入った封筒が消えたりと今回もなかなか難題が並んでいるが,とくに,病院に駆け込んで死んだ男の心臓からは銃弾が摘出されたのに,体のどこにも銃創がなかったという「ジプシー・キャンプの謎」は出色。
 ただ,前作に比べるとやや機械的なトリックが目につき,謎もやや類型的に感じられた。ストーリーにおいてサム・ホーソーン医師当人に銃口が向けられたり,車が炎上したりするのはその反動だろうか。

『気の長い密室』 司城志朗 / ハルキ文庫
 不可能犯罪といえば密室,その「密室」という言葉がタイトルに用いられた短編集ということからホックのような本格短編を期待したが,実はファンタジー寄りのショートショート集という趣。目や耳や手足だけを貸し出すアルバイト,海の味がする人気のシチュー(この落ちは冒頭から読めた),食べても食べても外観が痩せていく女,モデルハウスで怪しい男に閉じ込められた女。若い学生アルバイトを主人公とする作品が続くなと思ったら,「フロム・エー」<東海版>に連載されたものとあり,納得。
 かつて,1970年ごろにはいろんな新聞や雑誌にこういったファンタジーともSFともミステリともつかぬショートショートがよく掲載されていたものだ。星新一,福島正実,小松左京,筒井康隆,都筑道夫といったSF,ミステリ界の大物はもちろん,今では作者名も思い出せないさまざまな作家たちが,そのアイデアを競い合っていた。あの熱気はどこにいってしまったのだろう。
 「時間」は当時のショートショートの大きなテーマの1つで,『気の長い密室』でも時間をテーマにしたものは読み応えがあるように思われた。あるときは甘く,あるときは苦く。

『マン島の黄金』 アガサ・クリスティー / ハヤカワ文庫
 新聞や雑誌に掲載されたきり埋もれていたクリスティーの作品群を発掘した作品集。たとえば表題作はマン島の観光協会が客寄せにクリスティーに依頼した一種の宝捜し企画で,正直,そう面白い作品とは言い難い。企画そのものもハズレというか盛り上がりに欠けたようだ。
 全体に若書きの(少々甘みのまさった)恋愛小説,のちに書き改められたポアロものなど,それなりといえばそれなり,二線級といえば二線級の作品が並ぶ。その中では坂田靖子がマンガにしそうな恋愛ファンタジー「孤独な神さま」が好ましく思われた。……などどうしてもクリスティーフリークや研究家以外にはお奨めできないような言い方になってしまうが,実は個人的には巻末の「クィン氏のティー・セット」一作でも十分楽しめた。
 ハーリ・クィンはエルキュール・ポアロ,ミス・マープル,おしどり探偵(トミーとタペンス),パーカー・パインなどと並ぶクリスティーのシリーズキャラクターの一人だが,彼は「探偵」ではないし,登場する作品も通常の「ミステリ」とは言いがたい。七色の虹を着飾ったような彼はまるでずっと以前からそこにいたかのように現れ,ただ何かの話題に静かに水を向けるに過ぎない。実際に過去の事件を解き明かしたり,これから起こるトラブルを防いだりするのは猫背の紳士,サタースウェイト老人だ。だがそれはいわゆる「推理」とは別のもので,あるべきものがあるように見えてくるに過ぎない。いや,事件や登場人物そのものがまるで幻のようなはかなさで,それはサタースウェイトから確かな人生の手応えを奪う行為のようにさえ思われる。『マン島の黄金』に収録された「クィン氏のティー・セット」でも,クィン氏が本当に登場したのか否か,彼が何をしたのかしなかったのかはよくわからない。彼のとぎれとぎれの言葉は,ときに詩的,哲学的でさえある。
 教会のステンド・グラスはきわめて宗教的な何かを示しているが宗教そのものではない。ハーリ・クィンはミステリにおいてそのようにある。

先頭 表紙

2002-06-16 追悼 『何が何だか』 ナンシー関 / 角川文庫


【トシちゃんはこの暗闇の中どこへ行くのだろうか。】

 ナンシー関が亡くなった。

 「言葉を失う」という慣用句があるが,文字通り,僕たちはメディアのある一面を語る言葉を失った。今後もユニークなイラストレーター,批評家,エッセイストはそれなりに現れるだろうが,ナンシー関に代わる存在は生まれないだろう。
 訃報に際して自殺ということがすぐ想起された。それはいかにもナンシー関らしいことのように思われたが,同時に最も彼女らしからぬことのようにも感じられた。
 最後の作品ではなかっただろうが,最近の週刊文春のコラムの消しゴム版画に「ごきげんよう」という言葉が彫られていたのも心に痛い。

 ナンシー関については,この「くるくる」でも何度か取り上げた。拾い返すと『何もそこまで』から『テレビ消灯時間1』にかけて,つまり1995年から1996年にかけて,彼女が例の文体と思索の方向性を完成させ,その後,2000年以降はやや生彩に欠けるように思われた。
 最近はいわゆる「大食い」番組を取り上げることが少なくなかったが,どうも焦点が絞れず,読み手としては若干フラストレーションを感じざるを得なかった。正直にいえばここしばらくのコラムには微妙な「疲れ」が感じられた。たとえば川島なお美や神田うの,相撲の花田家を素材にした時期と比較すれば,最近のコラムがシャープさに欠けていたことは明らかだろう。
 だからこそ,待っていたのだ。次のステップを期待していたのだ。毎週いくつかの週刊誌をめくっては楽しみにしていたのだ。

 これ以上書けることはない。彼女の過去の作品について,言葉に出来ることはすでに書いてしまった。今はただ,僕たちが喪ったものを惜しみたい。

先頭 表紙

SENRIさま,この「くるくる」を書き始めてからだけでも何人かの訃報にふれましたが,自分より年若いクリエイターの死はことさら胸が痛みます。書店で妙なフェアなどされたらいやな感じ。 / 烏丸 ( 2002-06-17 00:03 )
ニュースを知ったとき、呆然としてしまいました。この先の私の人生に、ひとつの大きな楽しみが無くなってしまいました。彼女の文には、「思考は表現できなければ思考でない」的叱咤と、「斜に構えてもOK」的激励をいただいておりました。残念でなりません。 / SENRI ( 2002-06-16 12:24 )
『何が何だか』は彼女のベストバウトとまではいえないものの,1996年当時,いわば油ののった時期のコラムが少なくありません。ここしばらくに文庫化された中ではオススメの1冊です。 / 烏丸 ( 2002-06-16 04:15 )

2002-06-09 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社


【行くぜハチャトゥリヤン!】

 おっとっと,あぶねぇあぶねぇ。
 この俺としたことが,天下のいしいひさいちの新刊を買い損ねるところだったぜ。なにしろこのタイトル,一九九一年に竹書房から発行された『B型平次捕物帳』の再販と思うじゃねぇか。よく見りゃ竹書房のは『捕物』で創元社のは『捕物』,中身もぜんぶ単行本未収録ときたもんだ。

 それにしても,さすがはいしいひさいち,
  「おやぶんてーへんだ!
   日本橋の信州屋に押し込み強盗が入って一家皆殺しですぜ」
  「なにッ
   行くぜハチ!」
  「ガッテンだ!」
  「おまえさんっ カチカチ」
たったこれだけをネタに,十年経っても引っ張る引っ張る屋根屋の褌,目黒の蕎麦屋。普通はこれだけワンパターンならあきられるのが相場ってもんだが,どういうわけかいまだ笑えることにゃ変わりがねぇ。いったいどうなってるのかねぇ。

 ところで,前作,本作と,このB型平次シリーズで案外と知られてないのが四コマの切れ目に使われる「寛永通寶」アイコンだ。
 添付の表紙なら「親分大変」と書かれたあれだが,数ページに一度出てくるこいつがたまらねぇ。いしいひさいちは本人を筆頭とする工房だってぇのが巷の噂だが,その並々ならぬセンスが,その四文字熟語選択にも現れてやがる。

  全身倦怠
    新井将敬
  尿管結石
    会社負担
  脱脂粉乳
    西本願寺
  号外号外
    洗浄便座
  徒歩25分
    妊婦体操
  大家政子
    北部同盟
  意味プー
    腔腸動物
   :  :

 どうでぇ! ……と言われても困るだろうが,そういうわけで,
  「微分積分,底辺だ!」
  「行くぜハチ!」
  「小数点だ!」

 ……もう一丁,
  「いくぜハイジ!」
  「アルペンだ!」

先頭 表紙

ナンシー関、急死。黙祷。 / 烏丸 ( 2002-06-12 20:14 )

2002-06-03 子どもたちの夏のために 『ぼくがぼくであること』 山中 恒 / 角川文庫


【ヒデカズッ! 夏代がすきか?】

 コマーシャリズムの中で多用される「本当の自分」という言葉はおよそ安直すぎて信用ならない。ワイドショーの「衝撃の真実」の「真実」度合いといい勝負である。
 なにしろ「本当の自分」とまったく同じシチュエーション,文脈の中で使われる言葉が「いつもと違う自分」だし,多少深読みすればその実マスコミに「踊らされている自分」だったりするし。

 今さらどうしてこんな言わずもがなのことを持ち出すかといえば,最近,たまたま別の場所で二度にわたって「本当の自分」という言葉を耳にしたためである。いずれも,およそ信頼するには足りない人物の口から。

 P君はグループ内の別会社から出向でやってきて2か月,見事なまでに使い物にならない。口は達者だが,何をやらせても完結しない。出向元に問い合わせてみたところ,周囲に面倒な仕事を押し付けて仕事をしている振りを重ねてきたが,そのうち当初配属されていた部署から出され,次の部署でもものにならず,もう一度チャンスを与えるために出向させた,といったところらしい。
 彼の場合,上司の前ではそこそこ殊勝だが,いなくなると途端に態度が豹変し,それが周囲の者のモチベーションにまで影響を与えているため,やむなく注意したところ,「反省している」「自分は力不足」などと並んで出てきた言葉が「本当の自分」だった。
 要は出向元の前の前の部署で仕事をしていたときが「本当の自分」であった,ということらしい。そこでの勤務態度が問題視されて──早い話が職業人として使い物になっていないために──よそに出されたという認識がないのである(会社の経費削減などの方針のためにやむなく異動させられた,と考えているらしい)。

 一方のQ君は,P君よりもう少し年かさで,今は小さな会社の社長である。私的な集まりで久しぶりに会ったが,相変わらずそのテーブルの話題の主でなくては気がすまない。尋ねもしない知識や,人生訓を次から次に披露してくれる(ときどきは,目の前の相手の専門業種についてまで説教が繰り広げられる)。だが,Q君の「会社」とやらが四半期で黒字になったことがなく,資金について父親,生活において母親の面倒をずっと受けていることは仲間打ちで知らぬ者もない。
 そんな未婚の彼がその夜声高に主張したのが教育論で,「本当の自分」を実現するためには会社に使われる身分になったのでは駄目だ,独立して社会を相手に働かないと仕事について本当のことは何一つわからない,そういった話である。

 P君,Q君の雰囲気,キャラクターは,およそ似ても似つかない。が,一方,現状認識がとんでもなく甘い点など,妙に通じるところもある。彼らに共通しているのは,そこそこに高い学歴を誇り,世間一般でいえば良家に育ち,不自由なく育った,ということだろうか。
 ……だとすれば,子の親として,P君やQ君のような「大人」に育てないためには,いったいどうすればよいのか。
 正解があるとは思えない。しかし,指針だけはなんとなくある。
 山中恒の『ぼくがぼくであること』は,小学校高学年の子どもたちに,「読ませる」のではなく,ぜひとも「出会って」ほしい1冊だ。

 『ぼくがぼくであること』の主人公,小学六年生の平田秀一は名前に「一」が付いているが三男である。良一,優一,稔美,秀一,マユミの兄弟の中で,一番出来が悪く,学校でも家でもしかられているばかり。そんな秀一が,夏休みのある日,ひょんなことから軽トラの荷台に乗って家出をしてしまう。そしてひき逃げ事件を目撃し,同い年の少女・夏代と出会い,武田信玄の隠し財宝の秘密に巻き込まれ……。
 家出をめぐるさまざまな事件,さまざまな人々との出会いが,秀一をしかられるだけの子どもから,一本スジの通った少年に変えていく。そして同時に,教育ママの牛耳る平田家は少しずつ崩壊していく。

 本書から読み取れることは,実にシンプルなことだ。
 思春期を迎えた子どもはどこかで,自分の意思で物事を考え,生活することを知らなければならない。往々にしてそれは,親の期待に,あるいは親そのものに背く形で実現する。
 昭和40年代という時代を反映して,本書には,第二次世界大戦中の社会の罪,戦後の若者の無軌道,さらには学生運動などが重いテーマとして盛り込まれている。だが,荒っぽくても,痛みがあっても,自分で考え,自分で選ぶ以外に「ぼくがぼくであること」にいたる道はないのだ。

 本作は,昭和42年の「六年の学習」(学習研究社)に連載され,のちに大幅に加筆修正されて実業之日本社から発行された。
 我が家の納戸の段ボールには今も「六年の学習」版が切り抜きで保存してある。ちなみにそれは自分の学年のものでなく,従姉の「六年の学習」を一式譲り受けたときのものだが,切り抜いて取っておくほど子ども心にも何か大切なものが詰まった印象があったのだと思う。

 現在角川文庫版を読み返してみると,「六年の学習」版に比べ,後半,平田家が崩壊していくさまが強調されている。作者にしてみれば戦後〜高度成長期における社会の混乱や家庭の崩壊を描き込むためだったのだろうが,その分,秀一のひと夏の成長,そして夏代への淡い思いは味わいが弱まってしまったような気がしないでもない。
 僕にとっては,「六年の学習」版のシンプルだが鮮やかな秀一の「夏休み」が,ささやかな「ぼくがぼくであること」への転機だったように思う。
 願わくば,愛しい世界中の子どもたちが,彼らの夏代と出会い,彼らの「まるじんの正直(まさなお)」と闘い,父や母を踏み越えていかんことを。

先頭 表紙

丸山巴/らいむさま、いらっしゃいませ。山中恒の作品では、『ぼくがぼくであること』同様NHK少年ドラマシリーズで放送された『とべたら本こ』が大好きでした。主題歌は今も暴力的に唐突に耳に浮かびます。「とべたら本こ」というのは、ゴム飛びで、練習で飛べたら次は本番だよ、といった意味だったと思います。♪おためし、おためし、とべたら本こ〜 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:11 )
私の大好きなバンドのヴォーカルがこの本が大好きで読みました。この本と「山の向こうは青い海だった」がベストなんだそうです。……で、私は「大人」になって出逢ったんだけど、子供の頃に読みたかったなあと思います。 / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:12 )

2002-05-27 待望の「ROCKS」収録 『山下和美【短編集】』 講談社


【バーコード立ってるよ やっべ──よ】

 第二次世界大戦後,世界の文学や音楽,絵画は,自分たち専用の「主義」「イズム」を持つことができないでいる。
 「浪漫主義」「写実主義」「自然主義」「印象主義」「超現実主義」,これらはいずれも一つか二つ,あるいはそれよりずっと以前の世代のアイテムだ。「実存主義」は事実上サルトルの個人所有物だったし,「構造主義」は盛り上がる前に沈んでしまった。残るは「事なかれ主義」と「ご都合主義」「教条主義」くらいのものだろうか。

 文芸に「主義」「イズム」が必須だなんて主張するつもりはさらさらない。徒党を組むのは苦手だし,不出来な作品について余計な言いわけを読まされるのは不愉快だ。だが,同じ作品が書かれ,描かれ,演奏されるとき,その背後になにやら大きな重い思潮のうねりがあるということそのものはそう悪くない。賛同するのはもちろん,同じ否定するのでも,その大きなうねりと闘っていると思うほうがファイトが沸く。

 正直,1960〜70年代の「ロック」には期待していたのだ。リズム&ブルースやロックンロールの上にビートルズがカラフルな色を付け,フロイドやクリムゾンが意味の味わいを載せ,ツェッペリンが切り裂き,パンクが余計なモノを捨てたあたりまでは,ひょっとしたら,と思っていたのだ。
 だが実際は「ショウビズ」「ロック産業」の色合いが世界中を覆い尽くし,従来文化の語彙をもって繰り返し語られる批評はファンダムの域を越えず,結局は多少とんがった流行歌に終わってしまいそうだ。

 結局ロックは「様式」に過ぎないのかもしれない。バロックやロココやモダニズムが思潮に至らないのと同じようなレベルで。
 だから,ロックを語るには,より確かな「様式」という視点が必要なのかもしれない。

 『山下和美【短編集】』収録の読み切り中編「ROCKS」(モーニング '99年18号掲載)は,その意味で,実にロックの様式を明確に示してくれる。

 本編の主人公は頭頂がバーコードで腹が出た冴えない中年サラリーマンである。彼は会社をクビになり,職探しもままにならないまま一日電車に乗って過ごし,息子からもうとんじられる。だがある日,30年前のバンド仲間アキラがいまだ現役であることを知り……。

 最後のシーン,バーコードおやじがステージに現れ,ビジネススーツでベースを弾きつつシャウトするシーンは鳥肌が立つほど壮絶で,切ないまでの魅力にあふれている。その数ページは,かつて描かれたあらゆるコミック作品,文学作品の中でも,ロックの様式の本質にもっとも迫ったものの1つのように思われる。ギターやベース,ドラムの擬音が一切描かれていないのも見事だ(40ページにわたって一切セリフや擬音を排除した『Slam dunk』(井上雄彦)のクライマックスを思い起こさせる)。

 だが,このシーンの見事さは,逆にロックに欠けているものもまた教えてくれる。
 たとえば成熟,たとえば結晶,たとえば思索,たとえば沈黙。
 いや,そのような欠落と,欠落ゆえの饒舌こそがロックの様式の本質だ,と言い換えるべきか。いずれにしても,「ロック」について考える人には読んでいただきたい。名編である。お気に入りのB級西部劇と同じ程度には。


《その他の収録作品》
 「ガラクタ星人宙を駈ける」(Kiss '97年No.12)
 「プライベート・ガーデン」(YOUNG YOU '00年1月号)
 「ブルー・スパイス」(YOUNG YOU '00年7月号)
 「昨日の君は別の君 明日の私は別の私」(YOUNG YOU '00年11月号,'01年1月号,'01年3月号,'01年6月号)

先頭 表紙

最近は『柳沢教授』の「様式」化もいくところまでいってしまい,物足りないカラスです。さりとて『不思議な少年』はといえば,少々あざとさが。 / 烏丸 ( 2002-05-28 00:59 )

2002-05-21 古い写真 <eclipse>


一枚の,古い,小さな写真がある。五十年ほども昔のものだ。

撮影者の趣味だったそうで,その写真は手作業で現像され,やがて煙草に焦げ,しわがより,赤いインク黒いインクで汚れてしまった。撮影者の文机の引き出しに長い間放り込まれていたせいだ。

小さな庭の地面に,木漏れ日があふれている。その光が,いずれも三日月形をしている。日蝕なのだ。

ところで太陽光は,地球からの距離が充分に大きいため,ほぼ平行光であるとされている。だからこそ,高く飛ぶ鳥の影も道に鮮やかなのだ。

だとすると,日蝕の折りの木漏れ日が三日月の形になるなんて,本当だろうか。
折りがあれば聞いてみようと思っているうちに十年が過ぎ,二十年が過ぎ,三十年が過ぎてしまった。聞いてみたくても,撮影者はもういない。どこに行ったのか,わからない。

先頭 表紙

11日の早朝,部分日蝕が見られるそうですね。問題は,起きられるか(もしくはそれまでに仕事を片付けられるか……)。 / 烏丸 ( 2002-06-09 02:19 )
昔,ピンホールとレンズを工夫して,太陽の黒点を調べる,ということをやったことがあります。それが正しい黒点の位置かどうかはよくわかりませんでしたけど……。思い込みが強いときは物事をピンホールで投影してみるとよいのかと思ったり思わなかったり。 / 烏丸 ( 2002-05-26 01:23 )
こんな写真も。茂った葉の隙間が小さい穴となって光をしぼるため、欠けた形が地上に投影されるのだそうです(ピンホールカメラの原理)。普段の太陽は円形なので目立たないとのこと。太陽を直に見ること能わずとも、わずかな隙をくぐりぬけて地表にとどく陽光によって、蝕の変移がわかる。興味深い現象ですね。 / 通行人 ( 2002-05-25 00:36 )
「移って」→「写って」 / 烏丸 ( 2002-05-23 02:14 )
極彩色を塗りたくったら,ピンクフロイドのアルバムジャケットにでもなりそうな……と思ってよく見ると,地面のゴミらしきものが移っていたりするんですね。今はもうない,カラスが生まれた家の庭です。 / 烏丸 ( 2002-05-23 02:14 )
不思議な写真・・。私もその真偽をしりたくなってきましたが、今は「日食のときの木漏れ日は三日月の形」というのを信じてみたい気分。 / あやや ( 2002-05-21 07:47 )
なんの写真かと思ったら、日蝕の日の木漏れ日とは。なにか、細胞の写真みたいに見えました。        これと同じで、日蝕の日に紙に針で穴を空けて地面に翳すと……という話を聞いたことがあったような気がします……。 / みなみ ( 2002-05-21 02:11 )

2002-05-06 シリーズ 怖い本 その八 『放送禁止歌』 森 達也 著,デーブ・スペクター 監修 / 解放出版社


【……皆,自分の頭で,言葉で,考えようとしていない】

 15年前,1987年5月3日。兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に目出し帽の男が押し入り,散弾銃を2発発射。記者2人が死傷。9月24日には朝日新聞名古屋本社寮でも散弾銃による被害があり,この2事件は警視庁によって「広域重要事件116号」と指定された。
 のちに朝日新聞を「反日」「日本民族を批判する者」として攻撃する「赤報隊」名の声明が届くが,その後捜査は進展せず,今年5月には時効を迎えた。

 この朝日新聞支局襲撃事件を言論封殺型のテロ事件とみなすのはしごくもっともなことであり,毎年5月になると繰り返される
 「自由な言論・報道を暴力で封じ込めようとした卑劣な犯罪」
 「民主社会揺るがすテロを許すな」
といった論調に疑義をはさむ者は少ないに違いない。

 だが,1つの事件に同じ方向からのコメントばかりが掲載されるのは,本当に「自由な言論」の顕れなのだろうか。
 「記者を無差別に殺傷したくなるほど嫌われた朝日新聞」
 「対立する主張者たちがテロに走らざるを得ないほど,実際にテロ行為がなされても何も変わらないほど権力化したマスメディアの圧力」
 もちろんこれは一種の冗談であり,これらがフェアであるなどと主張するつもりはない。まして銃を手にしてのテロ行為そのものを是とするつもりもさらさらない。
 それでも,15年間の間繰り返され続けた「銃口は言論の自由を圧殺しようとした」系の論調ばかりに,いい加減うんざりしているのも事実である。たまに,気まぐれでもよいから,この事件を話題にしつつ「そりゃぁ,朝日の記事は片寄っているとよく言われるが」とか,「言論の自由とか言っても,商売にならない記事が載らないのもまた事実だが」とかいった証言の1つくらいあってもよさそうなものではないか。

 今回取り上げる『放送禁止歌』は,そんな大手マスメディアがなかなか取り上げようとしないこの国のある一面を取り上げたノンフィクションである。

 かつて,「反体制」という言葉が多くの若者の座右の銘であったころ,「放送禁止歌」と称される一連の楽曲(大半はいわゆるフォークソング)があった。

  岡林信康『ヘライデ』『手紙』『チューリップのアップリケ』
  高田渡『三億円強奪事件の唄』『自衛隊に入ろう』
  三上寛『夢は夜ひらく』『小便だらけの湖』
  泉谷しげる『戦争小唄』『オー脳』『黒いカバン』
  山平和彦『放送禁止歌』『大島節』
  頭脳警察『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の歌』
  フォーク・クルセダーズ『イムジン河』

 その多くは,現在の過激な表現に慣れた耳にはそもそもなぜ放送禁止になったのかすら理解しがたい(現に,ながく幻の作品と言われていた『イムジン河』は先年NHKの紅白でキム・ヨンジャに歌われ,フォークル盤も再発されるなど「解禁」が進められている)。
 問題は,本書の前書きにデーブ・スペクターが述べているとおり「天皇制,在日韓国・朝鮮人,被差別部落。この三点セットが日本のタブーでありながら発言が出来ない,してはいけない,ことになっている」ことである。

 タブーとは禁忌,禁制,つまり触れてはいけないものや言葉のことである。タブーについては,したがって,なぜそれに触れてはいけないのか,触れたらどうなるのかについてすら語ることも聞くこともできない。
 多くの放送禁止歌は,どうしてそれが放送禁止なのか,そうでない楽曲との違いは何なのかを明らかにされることなく,ただタブーとして扱われてきた(奇妙なことに,レコード業界の規制とはまったく別の基準によるため,上記の放送禁止歌の多くは,当時,ごく当たり前のように入手可能だった。現在もCSデジタルラジオ放送の番組表を探せば,かなりの比率で,あっけなくエアチェックすることが可能である)。
 本書は,「放送禁止歌〜唄っているのは誰?規制するのは誰?」と名付けられた52分間のドキュメンタリー番組が制作され,1999年5月23日の深夜(というより明け方),岡林信康の『手紙』が初めてテレビでフルコーラスでオンエアされた「事件」を契機に,その制作で明らかになったこと,かつての放送禁止歌の作者たちのその後を追ったものである。

 最大の衝撃は,テレビ局による自主規制とばかり思われてきた「放送禁止」が,明確な制度としては存在しなかったことである。
 日本民間放送連盟(民法連)が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」はガイドラインにすぎず,1983年を最後に刷新されていない。しかも,その最新の一覧には『手紙』も『イムジン河』も『自衛隊に入ろう』も含まれていないのだ。
 まさしくタブーならではといってよいかと思う。猪瀬直樹『ミカドの肖像』にも,法的根拠も規制する制度もないのに,どうしても丸の内に(皇居を見下ろす)一定以上の高さのビルを建てることができない事例が記されているが,具体的な制度も制限する団体もない規制くらい突破しづらいものはない。変更すべき制度も,論破すべき相手も明確ではないのだから。

 本書の第4章では,赤い鳥『竹田の子守唄』が放送禁止歌とされたいきさつとその後が取り上げられている。そもそもあの『竹田の子守唄』が放送禁止とされていたこと自体が驚きだ。中学校の音楽の教科書に「九州竹田地方の子守唄」として掲載され,各局から何度も放送されていたではないか。
 実はこの「竹田」とは大分県の竹田ではなく,京都の被差別部落,竹田地区のことであり,この子守唄はその地の年寄りから採譜され,いくつかの変遷を経てそれと知らずに赤い鳥に取り上げられ,やがてその事実が明らかになるとともにあれほどの大ヒットが放送の現場から消えていったというのだ。

 しかし,こういった話題をオープンな場でこれ以上扱えるほどには(西に育った)私はこの問題についての「言論の自由」を信用していない。同様に,こういった話題を常に遠まわしにしてすませてきた大手マスメディアに軽々しく「言論の自由」などと口にしてほしくもない。
 たとえば,アメリカ国内の黒人差別問題やタリバンによる女性就学問題は記事になっても,国内の部落解放運動,いわゆる同和問題が活字になることはそう多くはない。事件性がなかったため,と言われればそれまでだが,規制がないにもかかわらず一部の楽曲を放送禁止にしてきた構図とどれほど違うと言えるのだろうか。
 言葉や歌を隠蔽したからといって,何が変わるわけではない。事実は事実として,この国にははなはだしい差別があるのだ。

 いずれにしても,日本という国のあり方,その日本に暮らす我々について,痛いほど深く,考えさせられる1冊である。機会あらばご一読をお奨めしたい。

先頭 表紙

ややこれはHikaruさま,お久しぶり。ちなみにカラス持ち歩きのFMV-BIBLOには「黒いかばん(泉谷しげる)」「自衛隊に入ろう(高田渡)」「手紙(岡林信康)」「悲惨な戦い(なぎら健壱(なぎらけんいち))」「網走番外地(高倉健)」「ヨイトマケの歌(丸山明宏)」「S・O・S(ピンク・レディー)」などのmp3が常駐して,それはもう壮観ですわよ。 / 烏丸 ( 2002-05-28 01:11 )
竹田の子守歌 昨年だか一昨年だかの8月にNHKでオンエアさていました。番組はたしか”残したい日本の歌”というような趣旨だったような / Hikaru@懐メロどっぷり中 ( 2002-05-28 00:29 )
らいむさま,よど号乗っ取り,三島割腹,ジョージ秋山「アシュラ」,水野英子「ファイヤー!」,大島弓子「誕生!」,そして岡林信康の「見る前に跳べ」はカラスの中の1970年として,今も煮えたぎっています。困ってしまうほどに。 / 烏丸 ( 2002-05-14 03:09 )
しっぽなさま,この件では2,3,具体的な悲劇も見てまいりましたので正直あまり多くを語りたくはありません。本書も読んだのはずいぶん前なのですが,私評をアップすべきだったかどうか,いまだによくわかりません。 / 烏丸 ( 2002-05-14 03:09 )
「NON-FIX」(フジの深夜)で「放送禁止歌〜」をオンエアをリアルタイムで見て、先日この本を図書館で読みました。差別と区別について考えるとぐるぐるしちゃいますが……それにしても放送禁止歌って制度でなかったというのに驚きました。 / らいむ ( 2002-05-14 01:26 )
愚かしい人間というものの一面が露になる事象ですね・・・考えれば考えるほど疑問は深まるばかり。囚われず生きたいです。 / しっぽな ( 2002-05-09 17:35 )
「自分には差別意識はない,偏見はない」,と口にできる輩の無頓着さが嫌いです。本当にそうなら黙っていればよい。本当に「問われる」ときにどう応えられるか,少なくともカラスには自信がありません。そもそも,「差別」と「区別」の明確な違いもカラスには実はわかっておりません。この問題に意識を踏み入れると,混乱するばかりです。 / 烏丸 ( 2002-05-07 01:16 )
この本ト連動したコンサートが行われていたのをNHKかなにかで見ました。憂歌団の「おそうじおばちゃん」なども放送禁止曲だったですね・・・差別を口に出した方が犯罪者としてヤラレルこの頃。そうして規制する事によってますます差別の意識は深まるのでは?とも思えるし・・勉強会に参加してみると真剣に学んでいるのは専ら被差別の方々でそうでないと(自らは)思っている人間は居数えるほども居ませんでした。 / しっぽな@社会教育部役員 ( 2002-05-06 19:22 )

2002-04-29 民話としての「ワダツミの木」

 
 ここ数日、元(はじめ)ちとせの「ワダツミの木」ばかり、繰り返し、繰り返し聞いている。
 テレビで一度耳にしてこれはよい曲だとは思っていたのだが、後日コンビニで流れているのを聞いているうち、不覚にも弁当を手にしながら涙があふれそうになってしまったのだ。

 奄美の民謡「島唄」がルーツという元ちとせの歌唱についてはここではおき(元ちとせの島唄と三味線についてはこちらでサンプルが聞ける)、上田現の歌詞を考えてみたい。もとより身勝手な分解であり、なんら内容を保証するものではない。自分にとっての「ワダツミの木」を大切に思われる方はブラウザの「戻る」ボタンをどうぞ。

 歌は「赤く錆びた月の夜に」という、少々不吉な言葉から始まる。すでに、死が、それもきいきいと血の味がきしむような時間の向こうのざらざらした死が暗示されている。
 その夜、男女は小さな船で海にこぎ出る。
 もとより生還を期する旅立ちではない、二人を乗せた船は「どこまでもまっすぐに」進み、「同じ所をぐるぐる」廻る。第三パラグラフでは「月の夜」は「星もない暗闇」と化す。その間に流れているのはただ時間だけだろうか。
 言葉少ない二人がどのように死んだのかはわからない。第四パラグラフの「私の足が海の底を捉えて砂にふれたころ」は、つまり女が波の底に沈んだことを示している。
 ここから歌はギリシア神話的なメタモルフォーシスを描きあげる。女のむくろは枝を伸ばし、花を咲かせ、「ワダツミの木」と化す。木は波にさらわれてはなればなれになってしまった男の魂が迷わぬように、探さぬように水の上に枝を伸ばして遍在化し、やがて幾千万の夜の果てに木のまわりは島となし、億千万の波は寄せ、波は返す。

 つまり結局のところ、この歌は、ついばむような口づけから始まる穏やかで深い世界とのフラクタルな夜々のセックスを歌い上げているのだ。

先頭 表紙

カラスは当時は「パンク」よりはやや「テクノ」に傾倒していました。初期のゲーリー・ニューマンを今でも許せてしまうあたり,我ながら甘い甘い……。でも,毎日ジョイ・ディビジョンを聞いてすごすわけにもいきませんし。 / 烏丸 ( 2002-05-07 01:22 )
恥ずかしながら若き日のわたくしでございますゥ〜我が家でパンクの洗礼を受けているのはわたくしだけですので当時のお写真やビデオは銀行の隠し金庫に深く眠ったまんまです・・・ / しっぽ@今は「マダム」なの ( 2002-05-06 19:09 )
む,「むっちりふともも出してあのメイク」していたのはスージー? それともバンド時代のしっぽなさまなのでありましょうか? / 烏丸 ( 2002-05-06 01:20 )
クイーンは神棚、ジャパンは足蹴、スージーは・・・!!!バンド時代に激しくコピーした面々には熱く反応してしまいます・・・爆裂反応。むっちりふともも出してあのメイクしてた時代が脳裏に!んでもって恥没(@@ / しっぽ@可愛がって頂いてありがとうござい ( 2002-05-03 23:07 )
しっぽな様,ニナ・ハーゲンで反応ですか。クィーンとかジャパンではなくって。するとスージー&バンシーズとかにも化学反応するのでありましょうか。いや,カラスはそのあたり,皆さん好きなのですが。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:29 )
ふのりさま,過分なおほめの言葉をありがとうございます。「水死者」というタイトルは,T.S.エリオットの『荒地』からの拝借モノです。タイトルだけで,中身はまるで違いますが。あのころ,エリオットだとかグラックだとかリルケだとかミショーだとか……今は読めないなぁ。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:23 )
ムッシュ! この曲にはボーカル的にもサウンド的にもさまざまな箇所,さまざまな意味で「ン」があって,そこが心を引くような気がします。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:23 )
ワダツミの木、といえば大東亜戦争を連想してしまいます・・・歌詞がよく聞き取れないのでご紹介の歌詞サイトへ行って来ますね。ニナの「アフリカン・レゲエ」!!!!なんと!!!;;泣き泣き泣き〜〜〜〜〜〜(私情たっぷり。。。ごめんなさいーー) / しっぽな@未ログイン ( 2002-05-01 23:51 )
その白さは、物を見る機能を果たすものとしての人の眼球の色と通底しているのでしょうか、人が真の意味で何事かを見ることができる存在であるのなら。あるいは、人の目は無知の闇に囲まれたしょせんは義眼と等しいのでしょうか。いや、主観の曇りなく忠実に光を反射するガラスの表面をもつ義眼こそ、人の目として望ましいのでしょうか……などといったことを、延々と思い巡らせてしまうのであります。 / ふのり ( 2002-05-01 08:40 )
「水死者」ものすごく好きです。生命の発生と消滅の場としての謎に満ちた海、その深い底辺に柔らかい直線を描きながらおりていく意味、といったものが、黒と白の対比で――けれどもいわゆる明瞭な対立概念としての白黒でなく、互いに溶け合うような曖昧な境界線で区切られたものとして――色のイメージに引き写されている。闇としての「見えない」世界を通過していく牡丹雪の白さ、その「想像上の」鮮やかさ(実際に光のない場所で雪の白さを感じることはできないでしょう)。 / ふのり ( 2002-05-01 08:39 )
お〜〜ニナ・ハーゲンと来ましたか流石UK物には御強い・・・でも彼女ドイツでしたっけ??ベースが命の曲でしょう〜裏打ちのドラムも!極上のレゲェ・ダブミュージックですね! / ムッシュ ( 2002-04-30 10:42 )
これはムッシュ! 「ワダツミの木」は、元ちとせの歌唱ばかりに話題が集まりますが、カラス想うにあれはベースコード命の曲ではないかと。曲のオモムキはまるで違いますが、ニナ・ハーゲンの「アフリカン・レゲエ」を想い出したりするのであります。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:58 )
J-Popの歌詞検索なら無料歌詞検索サイト・歌ネットがお奨めです。最近会員制(無料)になったようですが、「ワダツミの木」は今週の検索ランキングTOP3で、入会しないでもトップのリンククリックで表示されるようです。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:58 )
上田の現ちゃんもレピッシュ脱退しちゃったし!これで一躍メジャーどころでしょう〜!あの曲はリリックも良いしトラックも良いし!売れて当然でしょう〜日本の歌謡曲も捨てた物じゃないですね!一番喜んでるのはスガシカオだったりしますね?? / ムッシュ ( 2002-04-29 08:18 )
まだテレビでちょこっととか有線でかかっているのしか聞いていないのでとても興味がありました。歌詞の方を読んでみたいですね♪ 夜伽というか妻訪いがこそりと隠されているような歌は少なからず日本古来からあったものなので、なじみがあると思うのです。 / やまのたかね ( 2002-04-29 05:49 )

2002-04-22 シリーズ 怖い本 その七 闇に葬る……

 
【もう人間を食べないとちかえっ】

 1960年代の少女マンガ作品が,品切れあるいは絶版で入手不能であること。ことこれに関しては別に不思議はない。
 西谷祥子『ジェシカの世界』『学生たちの道』,矢代まさこの各作品,本村三四子『太陽のカトリーヌ』など,読み返してみたいが再販,文庫化の気配もない作品も少なくない。水野英子にしても,今となってはそう売り上げが上がるとは思えず,営利組織たる出版社が復刊を検討しなかったとしても不思議はないだろう(今回の文庫化が彼女の人気のバロメータを把握しているだろうマーガレット,りぼんの集英社からではなく,双葉社,講談社からの発行だったのは,その意味で象徴的だ)。

 しかし,「美しいお姫様に高価な宝石,ハンサムな怪盗,気球にSL,クラシックカー」という道具立て,「生い立ちにちょっぴりわけのありそうな可愛い女の子と子ネコを主人公に世界中の有名な風景の中を回らせる」という現在からみればファンタジーとすらいえない設定の『ハニー・ハニーのすてきな冒険』がながらく絶版だったのは,どうもそういった理由によるものではなかったようだ。
 今回の文庫の第1巻の,作者自身の手によるあとがきによれば,「登場する黒人のキャラクターが差別にあたるかもしれないという理由」から今まであまり出版されなかった,というのである。

 岩波書店『ちびくろさんぼ』が廃刊となり,カルピスの商標マークが消え,タカラのダッコちゃんが姿を消し,竹本泉『あんみつ姫』,手塚治虫作品のいくつかが書店から撤退したのは,堺市の「黒人差別をなくす会」という市民団体の抗議によるものだった。このことを,はたしてどれほどの人がご存知だろうか。
 市民団体というと,なにやら大勢の市民が公会堂かなにかで集会を開き,というイメージを抱いてしまうが,実はこれは親子3人の,今ふうの言葉でいえば「クレーマー」家族に過ぎない。この家族が「差別」の名のもとに攻撃した作品やデザインが,次々と闇に葬られた,事実はそういうことなのである。
 たとえば『ちびくろさんぼ』がアメリカで広く問題となった背景には,「サンボ」という名前やサンボの両親の「ジャンボ,マンボ」がアメリカで黒人の蔑称,黒人を揶揄する言葉として用いられてきたことがあった。そのような背景を検討せずに1冊の絵本を絶版にし,あるいは差別用語を使用禁止にすることでトラブルを回避するのは,単に臭いものに蓋をして,抗議を避けるコトナカレ主義以外のなにものでもない。「色が黒くて唇の厚い」マークをすべて抹消することで植民地政策〜奴隷制度に端をなす黒人差別をなくすことに結び付くと考えるほうがどうかしている。
 極論すれば,そういった姿勢と,被差別者を島の療養所に閉じ込めて被差別者との「関係」そのものを抹消することの間に,どれほど違いがあるというのか。

 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』に登場するコンゴの村の女ボスは,首からシャレコウベを下げ,骨の髪飾りをして,人間をシチューにして食べようとする。まず現在のテレビで放送が許されることはないだろう設定である(この数ページ,タッチといい,コマ割りといい,実に手塚作品ふうなのが不思議だ)。『ちびくろさんぼ』がNGなら,この作品は間違いなくアウトだろう。

 問題なのは,岩波書店をはじめとするいくつかの出版社,メーカーが,この「黒人差別をなくす会」から抗議を受けたあと,充分な討議をする時間もかけずにある意味安直に商品を廃してしまったことである。さらには,日ごろは差別問題に重きを置いているがごとき態度をとっている新聞などの大手マスメディアが,ことさらその経緯を明らかにせず,目をそらし続けた,その姿勢,その怠慢こそが怖い。

 この世界にはさまざまな差別があり,それは現在も続いている。
 その問題に光を当てようとしないでただ目の前の差別用語だけ消し去って差別という事実そのものから目をそむけ,一方でたとえばハンセン氏病患者に政府が謝罪したといった場合にだけ手柄のように一面を飾る大手マスメディア……。

 ほかに,いつの間にか隠されていることはないのか。
 今後,新たな抗議団体が現れたとき,彼らはしおしおとそれに従って記事をねじまげていくのか。

先頭 表紙

『サイボーグ009』のほうは、不思議なことに、とくに問題となっていないようですね。昨今のアメリカの子供向け番組がそうであるように、複数の人種、民族を均等に割り振っているからOKなのでしょうか(008に限らず、アメリカ原住民や中国人について、偏見に満ちた作品だと思われるのですけどね。これで009が出っ歯でメガネをかけ、カメラをぶらさげていたら完璧だったのですが)。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:57 )
やまのたかねさま、いらっしゃいませ。聞いた話では、『ジャングル黒べえ』も、まさしくこの「黒人差別をなくす会」によって闇に葬られたようですよ。小学館版、中央公論社版、ともに回収、絶版で現在にいたっています。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:57 )
「ジャングル黒べぇ」はどうなったんでしょう? とても子供の頃好きだったんです…。「サイボーグ009」の008は? 「ちびくろサンボ」だってトラがバターになってホットケーキを食べる、という場面ばかりしか思い出せずにサンボが黒人であることに何ら差別も違和感も感じなかったのですが。 / やまのたかね ( 2002-04-29 05:46 )
やややさま,いらっしゃいませ。実はまったくご指摘の通りで,『オバケのQ太郎』は,一部の作品がこの「黒人差別をなくす会」から抗議を受けて回収になり,その後,ほかの巻も再版がかけられないまま絶版となっています。 / 烏丸 ( 2002-04-23 02:30 )
そうなんですか!じゃあオバQもこの団体のせいで廃刊になったの...(涙)今読みたくても全然なくて寂しいんです〜 / ややや@はじめまして!! ( 2002-04-22 12:18 )

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