himajin top
烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-06-16 追悼 『何が何だか』 ナンシー関 / 角川文庫
2002-06-09 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社
2002-06-03 子どもたちの夏のために 『ぼくがぼくであること』 山中 恒 / 角川文庫
2002-05-27 待望の「ROCKS」収録 『山下和美【短編集】』 講談社
2002-05-21 古い写真 <eclipse>
2002-05-06 シリーズ 怖い本 その八 『放送禁止歌』 森 達也 著,デーブ・スペクター 監修 / 解放出版社
2002-04-29 民話としての「ワダツミの木」
2002-04-22 シリーズ 怖い本 その七 闇に葬る……
2002-04-19 シリーズ 怖い本 その七 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』 水野英子 / 双葉文庫名作シリーズ
2002-04-08 シリーズ 怖い本 その六 『ティッシュ。』 坂辺周一 / リイド社 SPコミックス


2002-06-16 追悼 『何が何だか』 ナンシー関 / 角川文庫


【トシちゃんはこの暗闇の中どこへ行くのだろうか。】

 ナンシー関が亡くなった。

 「言葉を失う」という慣用句があるが,文字通り,僕たちはメディアのある一面を語る言葉を失った。今後もユニークなイラストレーター,批評家,エッセイストはそれなりに現れるだろうが,ナンシー関に代わる存在は生まれないだろう。
 訃報に際して自殺ということがすぐ想起された。それはいかにもナンシー関らしいことのように思われたが,同時に最も彼女らしからぬことのようにも感じられた。
 最後の作品ではなかっただろうが,最近の週刊文春のコラムの消しゴム版画に「ごきげんよう」という言葉が彫られていたのも心に痛い。

 ナンシー関については,この「くるくる」でも何度か取り上げた。拾い返すと『何もそこまで』から『テレビ消灯時間1』にかけて,つまり1995年から1996年にかけて,彼女が例の文体と思索の方向性を完成させ,その後,2000年以降はやや生彩に欠けるように思われた。
 最近はいわゆる「大食い」番組を取り上げることが少なくなかったが,どうも焦点が絞れず,読み手としては若干フラストレーションを感じざるを得なかった。正直にいえばここしばらくのコラムには微妙な「疲れ」が感じられた。たとえば川島なお美や神田うの,相撲の花田家を素材にした時期と比較すれば,最近のコラムがシャープさに欠けていたことは明らかだろう。
 だからこそ,待っていたのだ。次のステップを期待していたのだ。毎週いくつかの週刊誌をめくっては楽しみにしていたのだ。

 これ以上書けることはない。彼女の過去の作品について,言葉に出来ることはすでに書いてしまった。今はただ,僕たちが喪ったものを惜しみたい。

先頭 表紙

SENRIさま,この「くるくる」を書き始めてからだけでも何人かの訃報にふれましたが,自分より年若いクリエイターの死はことさら胸が痛みます。書店で妙なフェアなどされたらいやな感じ。 / 烏丸 ( 2002-06-17 00:03 )
ニュースを知ったとき、呆然としてしまいました。この先の私の人生に、ひとつの大きな楽しみが無くなってしまいました。彼女の文には、「思考は表現できなければ思考でない」的叱咤と、「斜に構えてもOK」的激励をいただいておりました。残念でなりません。 / SENRI ( 2002-06-16 12:24 )
『何が何だか』は彼女のベストバウトとまではいえないものの,1996年当時,いわば油ののった時期のコラムが少なくありません。ここしばらくに文庫化された中ではオススメの1冊です。 / 烏丸 ( 2002-06-16 04:15 )

2002-06-09 紀文,ハンペンだ! 『B型平次捕物控』 いしいひさいち / 東京創元社


【行くぜハチャトゥリヤン!】

 おっとっと,あぶねぇあぶねぇ。
 この俺としたことが,天下のいしいひさいちの新刊を買い損ねるところだったぜ。なにしろこのタイトル,一九九一年に竹書房から発行された『B型平次捕物帳』の再販と思うじゃねぇか。よく見りゃ竹書房のは『捕物』で創元社のは『捕物』,中身もぜんぶ単行本未収録ときたもんだ。

 それにしても,さすがはいしいひさいち,
  「おやぶんてーへんだ!
   日本橋の信州屋に押し込み強盗が入って一家皆殺しですぜ」
  「なにッ
   行くぜハチ!」
  「ガッテンだ!」
  「おまえさんっ カチカチ」
たったこれだけをネタに,十年経っても引っ張る引っ張る屋根屋の褌,目黒の蕎麦屋。普通はこれだけワンパターンならあきられるのが相場ってもんだが,どういうわけかいまだ笑えることにゃ変わりがねぇ。いったいどうなってるのかねぇ。

 ところで,前作,本作と,このB型平次シリーズで案外と知られてないのが四コマの切れ目に使われる「寛永通寶」アイコンだ。
 添付の表紙なら「親分大変」と書かれたあれだが,数ページに一度出てくるこいつがたまらねぇ。いしいひさいちは本人を筆頭とする工房だってぇのが巷の噂だが,その並々ならぬセンスが,その四文字熟語選択にも現れてやがる。

  全身倦怠
    新井将敬
  尿管結石
    会社負担
  脱脂粉乳
    西本願寺
  号外号外
    洗浄便座
  徒歩25分
    妊婦体操
  大家政子
    北部同盟
  意味プー
    腔腸動物
   :  :

 どうでぇ! ……と言われても困るだろうが,そういうわけで,
  「微分積分,底辺だ!」
  「行くぜハチ!」
  「小数点だ!」

 ……もう一丁,
  「いくぜハイジ!」
  「アルペンだ!」

先頭 表紙

ナンシー関、急死。黙祷。 / 烏丸 ( 2002-06-12 20:14 )

2002-06-03 子どもたちの夏のために 『ぼくがぼくであること』 山中 恒 / 角川文庫


【ヒデカズッ! 夏代がすきか?】

 コマーシャリズムの中で多用される「本当の自分」という言葉はおよそ安直すぎて信用ならない。ワイドショーの「衝撃の真実」の「真実」度合いといい勝負である。
 なにしろ「本当の自分」とまったく同じシチュエーション,文脈の中で使われる言葉が「いつもと違う自分」だし,多少深読みすればその実マスコミに「踊らされている自分」だったりするし。

 今さらどうしてこんな言わずもがなのことを持ち出すかといえば,最近,たまたま別の場所で二度にわたって「本当の自分」という言葉を耳にしたためである。いずれも,およそ信頼するには足りない人物の口から。

 P君はグループ内の別会社から出向でやってきて2か月,見事なまでに使い物にならない。口は達者だが,何をやらせても完結しない。出向元に問い合わせてみたところ,周囲に面倒な仕事を押し付けて仕事をしている振りを重ねてきたが,そのうち当初配属されていた部署から出され,次の部署でもものにならず,もう一度チャンスを与えるために出向させた,といったところらしい。
 彼の場合,上司の前ではそこそこ殊勝だが,いなくなると途端に態度が豹変し,それが周囲の者のモチベーションにまで影響を与えているため,やむなく注意したところ,「反省している」「自分は力不足」などと並んで出てきた言葉が「本当の自分」だった。
 要は出向元の前の前の部署で仕事をしていたときが「本当の自分」であった,ということらしい。そこでの勤務態度が問題視されて──早い話が職業人として使い物になっていないために──よそに出されたという認識がないのである(会社の経費削減などの方針のためにやむなく異動させられた,と考えているらしい)。

 一方のQ君は,P君よりもう少し年かさで,今は小さな会社の社長である。私的な集まりで久しぶりに会ったが,相変わらずそのテーブルの話題の主でなくては気がすまない。尋ねもしない知識や,人生訓を次から次に披露してくれる(ときどきは,目の前の相手の専門業種についてまで説教が繰り広げられる)。だが,Q君の「会社」とやらが四半期で黒字になったことがなく,資金について父親,生活において母親の面倒をずっと受けていることは仲間打ちで知らぬ者もない。
 そんな未婚の彼がその夜声高に主張したのが教育論で,「本当の自分」を実現するためには会社に使われる身分になったのでは駄目だ,独立して社会を相手に働かないと仕事について本当のことは何一つわからない,そういった話である。

 P君,Q君の雰囲気,キャラクターは,およそ似ても似つかない。が,一方,現状認識がとんでもなく甘い点など,妙に通じるところもある。彼らに共通しているのは,そこそこに高い学歴を誇り,世間一般でいえば良家に育ち,不自由なく育った,ということだろうか。
 ……だとすれば,子の親として,P君やQ君のような「大人」に育てないためには,いったいどうすればよいのか。
 正解があるとは思えない。しかし,指針だけはなんとなくある。
 山中恒の『ぼくがぼくであること』は,小学校高学年の子どもたちに,「読ませる」のではなく,ぜひとも「出会って」ほしい1冊だ。

 『ぼくがぼくであること』の主人公,小学六年生の平田秀一は名前に「一」が付いているが三男である。良一,優一,稔美,秀一,マユミの兄弟の中で,一番出来が悪く,学校でも家でもしかられているばかり。そんな秀一が,夏休みのある日,ひょんなことから軽トラの荷台に乗って家出をしてしまう。そしてひき逃げ事件を目撃し,同い年の少女・夏代と出会い,武田信玄の隠し財宝の秘密に巻き込まれ……。
 家出をめぐるさまざまな事件,さまざまな人々との出会いが,秀一をしかられるだけの子どもから,一本スジの通った少年に変えていく。そして同時に,教育ママの牛耳る平田家は少しずつ崩壊していく。

 本書から読み取れることは,実にシンプルなことだ。
 思春期を迎えた子どもはどこかで,自分の意思で物事を考え,生活することを知らなければならない。往々にしてそれは,親の期待に,あるいは親そのものに背く形で実現する。
 昭和40年代という時代を反映して,本書には,第二次世界大戦中の社会の罪,戦後の若者の無軌道,さらには学生運動などが重いテーマとして盛り込まれている。だが,荒っぽくても,痛みがあっても,自分で考え,自分で選ぶ以外に「ぼくがぼくであること」にいたる道はないのだ。

 本作は,昭和42年の「六年の学習」(学習研究社)に連載され,のちに大幅に加筆修正されて実業之日本社から発行された。
 我が家の納戸の段ボールには今も「六年の学習」版が切り抜きで保存してある。ちなみにそれは自分の学年のものでなく,従姉の「六年の学習」を一式譲り受けたときのものだが,切り抜いて取っておくほど子ども心にも何か大切なものが詰まった印象があったのだと思う。

 現在角川文庫版を読み返してみると,「六年の学習」版に比べ,後半,平田家が崩壊していくさまが強調されている。作者にしてみれば戦後〜高度成長期における社会の混乱や家庭の崩壊を描き込むためだったのだろうが,その分,秀一のひと夏の成長,そして夏代への淡い思いは味わいが弱まってしまったような気がしないでもない。
 僕にとっては,「六年の学習」版のシンプルだが鮮やかな秀一の「夏休み」が,ささやかな「ぼくがぼくであること」への転機だったように思う。
 願わくば,愛しい世界中の子どもたちが,彼らの夏代と出会い,彼らの「まるじんの正直(まさなお)」と闘い,父や母を踏み越えていかんことを。

先頭 表紙

丸山巴/らいむさま、いらっしゃいませ。山中恒の作品では、『ぼくがぼくであること』同様NHK少年ドラマシリーズで放送された『とべたら本こ』が大好きでした。主題歌は今も暴力的に唐突に耳に浮かびます。「とべたら本こ」というのは、ゴム飛びで、練習で飛べたら次は本番だよ、といった意味だったと思います。♪おためし、おためし、とべたら本こ〜 / 烏丸 ( 2002-07-06 04:11 )
私の大好きなバンドのヴォーカルがこの本が大好きで読みました。この本と「山の向こうは青い海だった」がベストなんだそうです。……で、私は「大人」になって出逢ったんだけど、子供の頃に読みたかったなあと思います。 / 丸山巴 ( 2002-07-06 02:12 )

2002-05-27 待望の「ROCKS」収録 『山下和美【短編集】』 講談社


【バーコード立ってるよ やっべ──よ】

 第二次世界大戦後,世界の文学や音楽,絵画は,自分たち専用の「主義」「イズム」を持つことができないでいる。
 「浪漫主義」「写実主義」「自然主義」「印象主義」「超現実主義」,これらはいずれも一つか二つ,あるいはそれよりずっと以前の世代のアイテムだ。「実存主義」は事実上サルトルの個人所有物だったし,「構造主義」は盛り上がる前に沈んでしまった。残るは「事なかれ主義」と「ご都合主義」「教条主義」くらいのものだろうか。

 文芸に「主義」「イズム」が必須だなんて主張するつもりはさらさらない。徒党を組むのは苦手だし,不出来な作品について余計な言いわけを読まされるのは不愉快だ。だが,同じ作品が書かれ,描かれ,演奏されるとき,その背後になにやら大きな重い思潮のうねりがあるということそのものはそう悪くない。賛同するのはもちろん,同じ否定するのでも,その大きなうねりと闘っていると思うほうがファイトが沸く。

 正直,1960〜70年代の「ロック」には期待していたのだ。リズム&ブルースやロックンロールの上にビートルズがカラフルな色を付け,フロイドやクリムゾンが意味の味わいを載せ,ツェッペリンが切り裂き,パンクが余計なモノを捨てたあたりまでは,ひょっとしたら,と思っていたのだ。
 だが実際は「ショウビズ」「ロック産業」の色合いが世界中を覆い尽くし,従来文化の語彙をもって繰り返し語られる批評はファンダムの域を越えず,結局は多少とんがった流行歌に終わってしまいそうだ。

 結局ロックは「様式」に過ぎないのかもしれない。バロックやロココやモダニズムが思潮に至らないのと同じようなレベルで。
 だから,ロックを語るには,より確かな「様式」という視点が必要なのかもしれない。

 『山下和美【短編集】』収録の読み切り中編「ROCKS」(モーニング '99年18号掲載)は,その意味で,実にロックの様式を明確に示してくれる。

 本編の主人公は頭頂がバーコードで腹が出た冴えない中年サラリーマンである。彼は会社をクビになり,職探しもままにならないまま一日電車に乗って過ごし,息子からもうとんじられる。だがある日,30年前のバンド仲間アキラがいまだ現役であることを知り……。

 最後のシーン,バーコードおやじがステージに現れ,ビジネススーツでベースを弾きつつシャウトするシーンは鳥肌が立つほど壮絶で,切ないまでの魅力にあふれている。その数ページは,かつて描かれたあらゆるコミック作品,文学作品の中でも,ロックの様式の本質にもっとも迫ったものの1つのように思われる。ギターやベース,ドラムの擬音が一切描かれていないのも見事だ(40ページにわたって一切セリフや擬音を排除した『Slam dunk』(井上雄彦)のクライマックスを思い起こさせる)。

 だが,このシーンの見事さは,逆にロックに欠けているものもまた教えてくれる。
 たとえば成熟,たとえば結晶,たとえば思索,たとえば沈黙。
 いや,そのような欠落と,欠落ゆえの饒舌こそがロックの様式の本質だ,と言い換えるべきか。いずれにしても,「ロック」について考える人には読んでいただきたい。名編である。お気に入りのB級西部劇と同じ程度には。


《その他の収録作品》
 「ガラクタ星人宙を駈ける」(Kiss '97年No.12)
 「プライベート・ガーデン」(YOUNG YOU '00年1月号)
 「ブルー・スパイス」(YOUNG YOU '00年7月号)
 「昨日の君は別の君 明日の私は別の私」(YOUNG YOU '00年11月号,'01年1月号,'01年3月号,'01年6月号)

先頭 表紙

最近は『柳沢教授』の「様式」化もいくところまでいってしまい,物足りないカラスです。さりとて『不思議な少年』はといえば,少々あざとさが。 / 烏丸 ( 2002-05-28 00:59 )

2002-05-21 古い写真 <eclipse>


一枚の,古い,小さな写真がある。五十年ほども昔のものだ。

撮影者の趣味だったそうで,その写真は手作業で現像され,やがて煙草に焦げ,しわがより,赤いインク黒いインクで汚れてしまった。撮影者の文机の引き出しに長い間放り込まれていたせいだ。

小さな庭の地面に,木漏れ日があふれている。その光が,いずれも三日月形をしている。日蝕なのだ。

ところで太陽光は,地球からの距離が充分に大きいため,ほぼ平行光であるとされている。だからこそ,高く飛ぶ鳥の影も道に鮮やかなのだ。

だとすると,日蝕の折りの木漏れ日が三日月の形になるなんて,本当だろうか。
折りがあれば聞いてみようと思っているうちに十年が過ぎ,二十年が過ぎ,三十年が過ぎてしまった。聞いてみたくても,撮影者はもういない。どこに行ったのか,わからない。

先頭 表紙

11日の早朝,部分日蝕が見られるそうですね。問題は,起きられるか(もしくはそれまでに仕事を片付けられるか……)。 / 烏丸 ( 2002-06-09 02:19 )
昔,ピンホールとレンズを工夫して,太陽の黒点を調べる,ということをやったことがあります。それが正しい黒点の位置かどうかはよくわかりませんでしたけど……。思い込みが強いときは物事をピンホールで投影してみるとよいのかと思ったり思わなかったり。 / 烏丸 ( 2002-05-26 01:23 )
こんな写真も。茂った葉の隙間が小さい穴となって光をしぼるため、欠けた形が地上に投影されるのだそうです(ピンホールカメラの原理)。普段の太陽は円形なので目立たないとのこと。太陽を直に見ること能わずとも、わずかな隙をくぐりぬけて地表にとどく陽光によって、蝕の変移がわかる。興味深い現象ですね。 / 通行人 ( 2002-05-25 00:36 )
「移って」→「写って」 / 烏丸 ( 2002-05-23 02:14 )
極彩色を塗りたくったら,ピンクフロイドのアルバムジャケットにでもなりそうな……と思ってよく見ると,地面のゴミらしきものが移っていたりするんですね。今はもうない,カラスが生まれた家の庭です。 / 烏丸 ( 2002-05-23 02:14 )
不思議な写真・・。私もその真偽をしりたくなってきましたが、今は「日食のときの木漏れ日は三日月の形」というのを信じてみたい気分。 / あやや ( 2002-05-21 07:47 )
なんの写真かと思ったら、日蝕の日の木漏れ日とは。なにか、細胞の写真みたいに見えました。        これと同じで、日蝕の日に紙に針で穴を空けて地面に翳すと……という話を聞いたことがあったような気がします……。 / みなみ ( 2002-05-21 02:11 )

2002-05-06 シリーズ 怖い本 その八 『放送禁止歌』 森 達也 著,デーブ・スペクター 監修 / 解放出版社


【……皆,自分の頭で,言葉で,考えようとしていない】

 15年前,1987年5月3日。兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に目出し帽の男が押し入り,散弾銃を2発発射。記者2人が死傷。9月24日には朝日新聞名古屋本社寮でも散弾銃による被害があり,この2事件は警視庁によって「広域重要事件116号」と指定された。
 のちに朝日新聞を「反日」「日本民族を批判する者」として攻撃する「赤報隊」名の声明が届くが,その後捜査は進展せず,今年5月には時効を迎えた。

 この朝日新聞支局襲撃事件を言論封殺型のテロ事件とみなすのはしごくもっともなことであり,毎年5月になると繰り返される
 「自由な言論・報道を暴力で封じ込めようとした卑劣な犯罪」
 「民主社会揺るがすテロを許すな」
といった論調に疑義をはさむ者は少ないに違いない。

 だが,1つの事件に同じ方向からのコメントばかりが掲載されるのは,本当に「自由な言論」の顕れなのだろうか。
 「記者を無差別に殺傷したくなるほど嫌われた朝日新聞」
 「対立する主張者たちがテロに走らざるを得ないほど,実際にテロ行為がなされても何も変わらないほど権力化したマスメディアの圧力」
 もちろんこれは一種の冗談であり,これらがフェアであるなどと主張するつもりはない。まして銃を手にしてのテロ行為そのものを是とするつもりもさらさらない。
 それでも,15年間の間繰り返され続けた「銃口は言論の自由を圧殺しようとした」系の論調ばかりに,いい加減うんざりしているのも事実である。たまに,気まぐれでもよいから,この事件を話題にしつつ「そりゃぁ,朝日の記事は片寄っているとよく言われるが」とか,「言論の自由とか言っても,商売にならない記事が載らないのもまた事実だが」とかいった証言の1つくらいあってもよさそうなものではないか。

 今回取り上げる『放送禁止歌』は,そんな大手マスメディアがなかなか取り上げようとしないこの国のある一面を取り上げたノンフィクションである。

 かつて,「反体制」という言葉が多くの若者の座右の銘であったころ,「放送禁止歌」と称される一連の楽曲(大半はいわゆるフォークソング)があった。

  岡林信康『ヘライデ』『手紙』『チューリップのアップリケ』
  高田渡『三億円強奪事件の唄』『自衛隊に入ろう』
  三上寛『夢は夜ひらく』『小便だらけの湖』
  泉谷しげる『戦争小唄』『オー脳』『黒いカバン』
  山平和彦『放送禁止歌』『大島節』
  頭脳警察『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の歌』
  フォーク・クルセダーズ『イムジン河』

 その多くは,現在の過激な表現に慣れた耳にはそもそもなぜ放送禁止になったのかすら理解しがたい(現に,ながく幻の作品と言われていた『イムジン河』は先年NHKの紅白でキム・ヨンジャに歌われ,フォークル盤も再発されるなど「解禁」が進められている)。
 問題は,本書の前書きにデーブ・スペクターが述べているとおり「天皇制,在日韓国・朝鮮人,被差別部落。この三点セットが日本のタブーでありながら発言が出来ない,してはいけない,ことになっている」ことである。

 タブーとは禁忌,禁制,つまり触れてはいけないものや言葉のことである。タブーについては,したがって,なぜそれに触れてはいけないのか,触れたらどうなるのかについてすら語ることも聞くこともできない。
 多くの放送禁止歌は,どうしてそれが放送禁止なのか,そうでない楽曲との違いは何なのかを明らかにされることなく,ただタブーとして扱われてきた(奇妙なことに,レコード業界の規制とはまったく別の基準によるため,上記の放送禁止歌の多くは,当時,ごく当たり前のように入手可能だった。現在もCSデジタルラジオ放送の番組表を探せば,かなりの比率で,あっけなくエアチェックすることが可能である)。
 本書は,「放送禁止歌〜唄っているのは誰?規制するのは誰?」と名付けられた52分間のドキュメンタリー番組が制作され,1999年5月23日の深夜(というより明け方),岡林信康の『手紙』が初めてテレビでフルコーラスでオンエアされた「事件」を契機に,その制作で明らかになったこと,かつての放送禁止歌の作者たちのその後を追ったものである。

 最大の衝撃は,テレビ局による自主規制とばかり思われてきた「放送禁止」が,明確な制度としては存在しなかったことである。
 日本民間放送連盟(民法連)が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」はガイドラインにすぎず,1983年を最後に刷新されていない。しかも,その最新の一覧には『手紙』も『イムジン河』も『自衛隊に入ろう』も含まれていないのだ。
 まさしくタブーならではといってよいかと思う。猪瀬直樹『ミカドの肖像』にも,法的根拠も規制する制度もないのに,どうしても丸の内に(皇居を見下ろす)一定以上の高さのビルを建てることができない事例が記されているが,具体的な制度も制限する団体もない規制くらい突破しづらいものはない。変更すべき制度も,論破すべき相手も明確ではないのだから。

 本書の第4章では,赤い鳥『竹田の子守唄』が放送禁止歌とされたいきさつとその後が取り上げられている。そもそもあの『竹田の子守唄』が放送禁止とされていたこと自体が驚きだ。中学校の音楽の教科書に「九州竹田地方の子守唄」として掲載され,各局から何度も放送されていたではないか。
 実はこの「竹田」とは大分県の竹田ではなく,京都の被差別部落,竹田地区のことであり,この子守唄はその地の年寄りから採譜され,いくつかの変遷を経てそれと知らずに赤い鳥に取り上げられ,やがてその事実が明らかになるとともにあれほどの大ヒットが放送の現場から消えていったというのだ。

 しかし,こういった話題をオープンな場でこれ以上扱えるほどには(西に育った)私はこの問題についての「言論の自由」を信用していない。同様に,こういった話題を常に遠まわしにしてすませてきた大手マスメディアに軽々しく「言論の自由」などと口にしてほしくもない。
 たとえば,アメリカ国内の黒人差別問題やタリバンによる女性就学問題は記事になっても,国内の部落解放運動,いわゆる同和問題が活字になることはそう多くはない。事件性がなかったため,と言われればそれまでだが,規制がないにもかかわらず一部の楽曲を放送禁止にしてきた構図とどれほど違うと言えるのだろうか。
 言葉や歌を隠蔽したからといって,何が変わるわけではない。事実は事実として,この国にははなはだしい差別があるのだ。

 いずれにしても,日本という国のあり方,その日本に暮らす我々について,痛いほど深く,考えさせられる1冊である。機会あらばご一読をお奨めしたい。

先頭 表紙

ややこれはHikaruさま,お久しぶり。ちなみにカラス持ち歩きのFMV-BIBLOには「黒いかばん(泉谷しげる)」「自衛隊に入ろう(高田渡)」「手紙(岡林信康)」「悲惨な戦い(なぎら健壱(なぎらけんいち))」「網走番外地(高倉健)」「ヨイトマケの歌(丸山明宏)」「S・O・S(ピンク・レディー)」などのmp3が常駐して,それはもう壮観ですわよ。 / 烏丸 ( 2002-05-28 01:11 )
竹田の子守歌 昨年だか一昨年だかの8月にNHKでオンエアさていました。番組はたしか”残したい日本の歌”というような趣旨だったような / Hikaru@懐メロどっぷり中 ( 2002-05-28 00:29 )
らいむさま,よど号乗っ取り,三島割腹,ジョージ秋山「アシュラ」,水野英子「ファイヤー!」,大島弓子「誕生!」,そして岡林信康の「見る前に跳べ」はカラスの中の1970年として,今も煮えたぎっています。困ってしまうほどに。 / 烏丸 ( 2002-05-14 03:09 )
しっぽなさま,この件では2,3,具体的な悲劇も見てまいりましたので正直あまり多くを語りたくはありません。本書も読んだのはずいぶん前なのですが,私評をアップすべきだったかどうか,いまだによくわかりません。 / 烏丸 ( 2002-05-14 03:09 )
「NON-FIX」(フジの深夜)で「放送禁止歌〜」をオンエアをリアルタイムで見て、先日この本を図書館で読みました。差別と区別について考えるとぐるぐるしちゃいますが……それにしても放送禁止歌って制度でなかったというのに驚きました。 / らいむ ( 2002-05-14 01:26 )
愚かしい人間というものの一面が露になる事象ですね・・・考えれば考えるほど疑問は深まるばかり。囚われず生きたいです。 / しっぽな ( 2002-05-09 17:35 )
「自分には差別意識はない,偏見はない」,と口にできる輩の無頓着さが嫌いです。本当にそうなら黙っていればよい。本当に「問われる」ときにどう応えられるか,少なくともカラスには自信がありません。そもそも,「差別」と「区別」の明確な違いもカラスには実はわかっておりません。この問題に意識を踏み入れると,混乱するばかりです。 / 烏丸 ( 2002-05-07 01:16 )
この本ト連動したコンサートが行われていたのをNHKかなにかで見ました。憂歌団の「おそうじおばちゃん」なども放送禁止曲だったですね・・・差別を口に出した方が犯罪者としてヤラレルこの頃。そうして規制する事によってますます差別の意識は深まるのでは?とも思えるし・・勉強会に参加してみると真剣に学んでいるのは専ら被差別の方々でそうでないと(自らは)思っている人間は居数えるほども居ませんでした。 / しっぽな@社会教育部役員 ( 2002-05-06 19:22 )

2002-04-29 民話としての「ワダツミの木」

 
 ここ数日、元(はじめ)ちとせの「ワダツミの木」ばかり、繰り返し、繰り返し聞いている。
 テレビで一度耳にしてこれはよい曲だとは思っていたのだが、後日コンビニで流れているのを聞いているうち、不覚にも弁当を手にしながら涙があふれそうになってしまったのだ。

 奄美の民謡「島唄」がルーツという元ちとせの歌唱についてはここではおき(元ちとせの島唄と三味線についてはこちらでサンプルが聞ける)、上田現の歌詞を考えてみたい。もとより身勝手な分解であり、なんら内容を保証するものではない。自分にとっての「ワダツミの木」を大切に思われる方はブラウザの「戻る」ボタンをどうぞ。

 歌は「赤く錆びた月の夜に」という、少々不吉な言葉から始まる。すでに、死が、それもきいきいと血の味がきしむような時間の向こうのざらざらした死が暗示されている。
 その夜、男女は小さな船で海にこぎ出る。
 もとより生還を期する旅立ちではない、二人を乗せた船は「どこまでもまっすぐに」進み、「同じ所をぐるぐる」廻る。第三パラグラフでは「月の夜」は「星もない暗闇」と化す。その間に流れているのはただ時間だけだろうか。
 言葉少ない二人がどのように死んだのかはわからない。第四パラグラフの「私の足が海の底を捉えて砂にふれたころ」は、つまり女が波の底に沈んだことを示している。
 ここから歌はギリシア神話的なメタモルフォーシスを描きあげる。女のむくろは枝を伸ばし、花を咲かせ、「ワダツミの木」と化す。木は波にさらわれてはなればなれになってしまった男の魂が迷わぬように、探さぬように水の上に枝を伸ばして遍在化し、やがて幾千万の夜の果てに木のまわりは島となし、億千万の波は寄せ、波は返す。

 つまり結局のところ、この歌は、ついばむような口づけから始まる穏やかで深い世界とのフラクタルな夜々のセックスを歌い上げているのだ。

先頭 表紙

カラスは当時は「パンク」よりはやや「テクノ」に傾倒していました。初期のゲーリー・ニューマンを今でも許せてしまうあたり,我ながら甘い甘い……。でも,毎日ジョイ・ディビジョンを聞いてすごすわけにもいきませんし。 / 烏丸 ( 2002-05-07 01:22 )
恥ずかしながら若き日のわたくしでございますゥ〜我が家でパンクの洗礼を受けているのはわたくしだけですので当時のお写真やビデオは銀行の隠し金庫に深く眠ったまんまです・・・ / しっぽ@今は「マダム」なの ( 2002-05-06 19:09 )
む,「むっちりふともも出してあのメイク」していたのはスージー? それともバンド時代のしっぽなさまなのでありましょうか? / 烏丸 ( 2002-05-06 01:20 )
クイーンは神棚、ジャパンは足蹴、スージーは・・・!!!バンド時代に激しくコピーした面々には熱く反応してしまいます・・・爆裂反応。むっちりふともも出してあのメイクしてた時代が脳裏に!んでもって恥没(@@ / しっぽ@可愛がって頂いてありがとうござい ( 2002-05-03 23:07 )
しっぽな様,ニナ・ハーゲンで反応ですか。クィーンとかジャパンではなくって。するとスージー&バンシーズとかにも化学反応するのでありましょうか。いや,カラスはそのあたり,皆さん好きなのですが。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:29 )
ふのりさま,過分なおほめの言葉をありがとうございます。「水死者」というタイトルは,T.S.エリオットの『荒地』からの拝借モノです。タイトルだけで,中身はまるで違いますが。あのころ,エリオットだとかグラックだとかリルケだとかミショーだとか……今は読めないなぁ。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:23 )
ムッシュ! この曲にはボーカル的にもサウンド的にもさまざまな箇所,さまざまな意味で「ン」があって,そこが心を引くような気がします。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:23 )
ワダツミの木、といえば大東亜戦争を連想してしまいます・・・歌詞がよく聞き取れないのでご紹介の歌詞サイトへ行って来ますね。ニナの「アフリカン・レゲエ」!!!!なんと!!!;;泣き泣き泣き〜〜〜〜〜〜(私情たっぷり。。。ごめんなさいーー) / しっぽな@未ログイン ( 2002-05-01 23:51 )
その白さは、物を見る機能を果たすものとしての人の眼球の色と通底しているのでしょうか、人が真の意味で何事かを見ることができる存在であるのなら。あるいは、人の目は無知の闇に囲まれたしょせんは義眼と等しいのでしょうか。いや、主観の曇りなく忠実に光を反射するガラスの表面をもつ義眼こそ、人の目として望ましいのでしょうか……などといったことを、延々と思い巡らせてしまうのであります。 / ふのり ( 2002-05-01 08:40 )
「水死者」ものすごく好きです。生命の発生と消滅の場としての謎に満ちた海、その深い底辺に柔らかい直線を描きながらおりていく意味、といったものが、黒と白の対比で――けれどもいわゆる明瞭な対立概念としての白黒でなく、互いに溶け合うような曖昧な境界線で区切られたものとして――色のイメージに引き写されている。闇としての「見えない」世界を通過していく牡丹雪の白さ、その「想像上の」鮮やかさ(実際に光のない場所で雪の白さを感じることはできないでしょう)。 / ふのり ( 2002-05-01 08:39 )
お〜〜ニナ・ハーゲンと来ましたか流石UK物には御強い・・・でも彼女ドイツでしたっけ??ベースが命の曲でしょう〜裏打ちのドラムも!極上のレゲェ・ダブミュージックですね! / ムッシュ ( 2002-04-30 10:42 )
これはムッシュ! 「ワダツミの木」は、元ちとせの歌唱ばかりに話題が集まりますが、カラス想うにあれはベースコード命の曲ではないかと。曲のオモムキはまるで違いますが、ニナ・ハーゲンの「アフリカン・レゲエ」を想い出したりするのであります。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:58 )
J-Popの歌詞検索なら無料歌詞検索サイト・歌ネットがお奨めです。最近会員制(無料)になったようですが、「ワダツミの木」は今週の検索ランキングTOP3で、入会しないでもトップのリンククリックで表示されるようです。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:58 )
上田の現ちゃんもレピッシュ脱退しちゃったし!これで一躍メジャーどころでしょう〜!あの曲はリリックも良いしトラックも良いし!売れて当然でしょう〜日本の歌謡曲も捨てた物じゃないですね!一番喜んでるのはスガシカオだったりしますね?? / ムッシュ ( 2002-04-29 08:18 )
まだテレビでちょこっととか有線でかかっているのしか聞いていないのでとても興味がありました。歌詞の方を読んでみたいですね♪ 夜伽というか妻訪いがこそりと隠されているような歌は少なからず日本古来からあったものなので、なじみがあると思うのです。 / やまのたかね ( 2002-04-29 05:49 )

2002-04-22 シリーズ 怖い本 その七 闇に葬る……

 
【もう人間を食べないとちかえっ】

 1960年代の少女マンガ作品が,品切れあるいは絶版で入手不能であること。ことこれに関しては別に不思議はない。
 西谷祥子『ジェシカの世界』『学生たちの道』,矢代まさこの各作品,本村三四子『太陽のカトリーヌ』など,読み返してみたいが再販,文庫化の気配もない作品も少なくない。水野英子にしても,今となってはそう売り上げが上がるとは思えず,営利組織たる出版社が復刊を検討しなかったとしても不思議はないだろう(今回の文庫化が彼女の人気のバロメータを把握しているだろうマーガレット,りぼんの集英社からではなく,双葉社,講談社からの発行だったのは,その意味で象徴的だ)。

 しかし,「美しいお姫様に高価な宝石,ハンサムな怪盗,気球にSL,クラシックカー」という道具立て,「生い立ちにちょっぴりわけのありそうな可愛い女の子と子ネコを主人公に世界中の有名な風景の中を回らせる」という現在からみればファンタジーとすらいえない設定の『ハニー・ハニーのすてきな冒険』がながらく絶版だったのは,どうもそういった理由によるものではなかったようだ。
 今回の文庫の第1巻の,作者自身の手によるあとがきによれば,「登場する黒人のキャラクターが差別にあたるかもしれないという理由」から今まであまり出版されなかった,というのである。

 岩波書店『ちびくろさんぼ』が廃刊となり,カルピスの商標マークが消え,タカラのダッコちゃんが姿を消し,竹本泉『あんみつ姫』,手塚治虫作品のいくつかが書店から撤退したのは,堺市の「黒人差別をなくす会」という市民団体の抗議によるものだった。このことを,はたしてどれほどの人がご存知だろうか。
 市民団体というと,なにやら大勢の市民が公会堂かなにかで集会を開き,というイメージを抱いてしまうが,実はこれは親子3人の,今ふうの言葉でいえば「クレーマー」家族に過ぎない。この家族が「差別」の名のもとに攻撃した作品やデザインが,次々と闇に葬られた,事実はそういうことなのである。
 たとえば『ちびくろさんぼ』がアメリカで広く問題となった背景には,「サンボ」という名前やサンボの両親の「ジャンボ,マンボ」がアメリカで黒人の蔑称,黒人を揶揄する言葉として用いられてきたことがあった。そのような背景を検討せずに1冊の絵本を絶版にし,あるいは差別用語を使用禁止にすることでトラブルを回避するのは,単に臭いものに蓋をして,抗議を避けるコトナカレ主義以外のなにものでもない。「色が黒くて唇の厚い」マークをすべて抹消することで植民地政策〜奴隷制度に端をなす黒人差別をなくすことに結び付くと考えるほうがどうかしている。
 極論すれば,そういった姿勢と,被差別者を島の療養所に閉じ込めて被差別者との「関係」そのものを抹消することの間に,どれほど違いがあるというのか。

 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』に登場するコンゴの村の女ボスは,首からシャレコウベを下げ,骨の髪飾りをして,人間をシチューにして食べようとする。まず現在のテレビで放送が許されることはないだろう設定である(この数ページ,タッチといい,コマ割りといい,実に手塚作品ふうなのが不思議だ)。『ちびくろさんぼ』がNGなら,この作品は間違いなくアウトだろう。

 問題なのは,岩波書店をはじめとするいくつかの出版社,メーカーが,この「黒人差別をなくす会」から抗議を受けたあと,充分な討議をする時間もかけずにある意味安直に商品を廃してしまったことである。さらには,日ごろは差別問題に重きを置いているがごとき態度をとっている新聞などの大手マスメディアが,ことさらその経緯を明らかにせず,目をそらし続けた,その姿勢,その怠慢こそが怖い。

 この世界にはさまざまな差別があり,それは現在も続いている。
 その問題に光を当てようとしないでただ目の前の差別用語だけ消し去って差別という事実そのものから目をそむけ,一方でたとえばハンセン氏病患者に政府が謝罪したといった場合にだけ手柄のように一面を飾る大手マスメディア……。

 ほかに,いつの間にか隠されていることはないのか。
 今後,新たな抗議団体が現れたとき,彼らはしおしおとそれに従って記事をねじまげていくのか。

先頭 表紙

『サイボーグ009』のほうは、不思議なことに、とくに問題となっていないようですね。昨今のアメリカの子供向け番組がそうであるように、複数の人種、民族を均等に割り振っているからOKなのでしょうか(008に限らず、アメリカ原住民や中国人について、偏見に満ちた作品だと思われるのですけどね。これで009が出っ歯でメガネをかけ、カメラをぶらさげていたら完璧だったのですが)。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:57 )
やまのたかねさま、いらっしゃいませ。聞いた話では、『ジャングル黒べえ』も、まさしくこの「黒人差別をなくす会」によって闇に葬られたようですよ。小学館版、中央公論社版、ともに回収、絶版で現在にいたっています。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:57 )
「ジャングル黒べぇ」はどうなったんでしょう? とても子供の頃好きだったんです…。「サイボーグ009」の008は? 「ちびくろサンボ」だってトラがバターになってホットケーキを食べる、という場面ばかりしか思い出せずにサンボが黒人であることに何ら差別も違和感も感じなかったのですが。 / やまのたかね ( 2002-04-29 05:46 )
やややさま,いらっしゃいませ。実はまったくご指摘の通りで,『オバケのQ太郎』は,一部の作品がこの「黒人差別をなくす会」から抗議を受けて回収になり,その後,ほかの巻も再版がかけられないまま絶版となっています。 / 烏丸 ( 2002-04-23 02:30 )
そうなんですか!じゃあオバQもこの団体のせいで廃刊になったの...(涙)今読みたくても全然なくて寂しいんです〜 / ややや@はじめまして!! ( 2002-04-22 12:18 )

2002-04-19 シリーズ 怖い本 その七 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』 水野英子 / 双葉文庫名作シリーズ


【ごきげん! クレオパトラに なったような きぶんよ】

 まず双葉文庫名作シリーズから『ハニー・ハニーのすてきな冒険』,次いで講談社漫画文庫から『白いトロイカ』,『エリザベート』,『星のたてごと』,『銀の花びら』と,水野英子の作品が続けて復刊されている。
 一部はさすがに画風の古さが目につくが,少女マンガ黎明期に活躍した作家の骨太な作品が復活し,手に入れやすくなったこと,新しい読者の目に触れることは,1960年代からのファンとしても実に喜ばしい。

 数多くの国で,言葉を基調とした文化は,非常に大雑把な言い方をすれば,まず特権階級の間に韻文が発達し,やがて近代に至って散文が巷間に拡散する,という経緯を示す。
 ところが,1コマの風刺絵,ポンチ絵から「コマ割り」という武器を得たマンガは,手塚治虫というルネサンス型の天才の手によって時間芸術,つまりストーリーマンガへと変身し,数々の長編,大作を生み出してきた。このマンガにおいては散文 → 韻文(正しくはもちろん韻文ではないが)的な発展がむしろ後に起こり,大島弓子が完成した「コマを海の波や緑のこずえが破ることによって時間を切ったり貼ったり,遡ったりする」技術によってその叙情は1つの頂点に至る……。

 などと大仰な戯言を持ち出しておいてその逆のことを書いてしまうののだが,水野英子の魅力は,そのような叙情性にはない。

 彼女の作品におけるダイナミズムは,実は,日本の昨今のあらゆる文化,つまり小説や映画やテレビドラマが描いてみせることのできない,「叙事」性に基づくのである。
 実際,演出や効果音ばかり大袈裟で,戦国の世を舞台にしながら実のところ「お家の台所事情」的展開ばかりを繰り返すNHK大河ドラマと『白いトロイカ』『ファイヤー!』『エリザベート』などを比べれば,後者のスケールの大きさは驚くばかりだ。
 昨今の作家の線を見慣れた目には,たとえばその「お姫様」的ファッションセンス,ご都合主義的展開,類型的な人物造形などなど,さまざまな弱点はあるだろうが,それを含めてなお大河ドラマを上回るだけの魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。

 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』は,ハリウッド大作映画の影響の強い,水野英子ならではの設定で,追って追われて世界中の国を巡り,主人公の少女は実は小国の姫,彼女を追うハンサムな怪盗は実は……と,こうあらすじを書いただけで,これが現在ではおよそ描きにくい,力ワザであることはご理解いただけるのではないだろうか。白馬の王子様的夢物語とはいいつつ,そのおおらか,コミカルだが流麗な線描,匂うような女性,男性的魅力……。

 だが,実は。
 今回この「怖い本」シリーズで本作を取り上げた理由はまったく別なところにある。(つづく)

先頭 表紙

最近の技法からみればいろいろありますが,全体としてみればびっくりするような線の太さだと思います。アシスタントシステムとかがまだ出来上がってなかったはずの時代に,『白いトロイカ』が週刊誌で連載されていたとは,ちょっと信じられません。同時代のわたなべまさこといい,「オードリー・ヘップバーンの時代」ということを思ったりもします。 / 烏丸 ( 2002-04-21 03:55 )
私が小学生時代に読んだ某少女マンガに設定の一部が酷似しているんですが、「白いトロイカ」がその原型だったんだと目からウロコでした。 / けろりん ( 2002-04-20 20:06 )
最近になって次々文庫化されているので、「白いトロイカ」を初読みしました。確かに30年以上前に描かれたとは思えないテンポと展開で、一気に読んでしまいました。 / けろりん ( 2002-04-20 20:03 )

2002-04-08 シリーズ 怖い本 その六 『ティッシュ。』 坂辺周一 / リイド社 SPコミックス


【お兄ちゃんの お嫁さんに なりたいんだろう?】

 ちあさをずっと女手ひとつで育ててくれた母親が,大学教授と再婚することになった。だが,新しい家庭には……。
 本書は,一言でいえば,ストーカーに追われる少女の話である。

 通勤路からは離れているためそうたびたびは立ち寄れないが,なかなかシブめの棚の揃えと,平積みの扱いにさりげなく工夫をこらすことでお気に入りの郊外型書店がある。推奨コミックには「見本」とシールを貼って立ち読みを許可する,話題作には簡便な書評を記した手書きポップを立てるなど,一歩間違えるとわずらわしいが,趣味が悪くなければ役立つ,そういったサービス。
 この『ティッシュ。』に用意されていたシンプルなポップは,こうだ。「かなり,気持ち悪いです」。

 確かに17歳の少女にとって,母親の再婚先に30歳近いストーカーがいたら,これはたまらない。おまけに敵はずんぐりした巨体で,無口で,ターミネーターのようにタフで,獣医の卵だから麻酔薬さえ持っている。それが顔を洗う自分の背後に黙って立っているのだ。生理用具を捨てたゴミ袋をあさるのだ。そんなのに追われたら,主人公でなくとも悲鳴をあげるだろう。

 残念なのは,余計なものを詰め込みすぎたことだろうか。
 主人公と母親の葛藤,ストーカーの父親のジレンマなどを描き,厚みのある人生ドラマに仕立て上げようとしたのだろうが,いずれも中途半端なまま,かえってサイコホラーとしての純度を薄めているように思える。
 また,雑誌連載時のお色気サービスということもあるのだろうが,主人公がわりあいあっけなく裸にされてしまうのも,ホラーとしてみればマイナスだ。ストーカー氏の「いやがらせ」が主人公だけでなくその母親や周囲の者にまで向かうのはかえって焦点がぼけてしまうような気がする。

 ストーカーを扱うホラーの恐怖は,まず,ごく普通の,むしろ好感のもてる人物が,だんだんおかしな言動を見せる,その違和感,微妙な色合いの狂いにある。次いでポイントとなるのは,相手がストーカーであることが明らかになってからも,周囲の者にその恐怖が伝わらないことだ。ストレートな恐怖とはまた別の,婉曲で,胸の奥にじわじわ食い込んでくるような嫌悪感。
 たとえば,(本書とは少し離れるが)寝室に押し入って無理やりレイプしようとする直接的な暴力ではなく,朝目覚めると枕元の小物の位置が整えられていたり,パジャマが新しいものに変わってしまっているような恐怖。
 しかし,本作はわりあいあっけなく,直接的な性描写や暴力,悲鳴,絶叫シーンに走ってしまう。このあたり,B級のサガといえばいえるか。

 もう一点,途中で掲載誌が廃刊になって他誌に移るなど,作者にとって思うようにならない面もあったのだろうが,タイトルの「ティッシュ」は,実はストーリーにはとくにかかわらない。要所要所で出てくるのはティッシュではなく,○○○である。その使い方はなかなか見応えがあるのだが,ただ,○○○では色気もヘチマもないものなぁ。

先頭 表紙

「職場」という言葉に実に似合わないコミックですが,どなたが持ち込まれたのでしょうね。最終回は大陸に渡って中国3千年の歴史を誇る拳法を身につけたちあさが黒装束で復讐の……もちろんこれはウソです。が,第二巻の終わり方も正直「ウソでしょう」な感じではありました。6巻分のエピソードは用意していた,という作者にしてみれば,無理やり終わらせたということなのでしょう。 / 烏丸 ( 2002-04-11 02:16 )
はじめまして!この本は、なぜか職場にあって一巻だけ読んだのですが、あの主人公がどう転落していくのかが気になってました〜(^^; 最後はハッピーエンドなのですか? / さえちゃん ( 2002-04-08 11:24 )

[次の10件を表示] (総目次)