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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-05-06 シリーズ 怖い本 その八 『放送禁止歌』 森 達也 著,デーブ・スペクター 監修 / 解放出版社
2002-04-29 民話としての「ワダツミの木」
2002-04-22 シリーズ 怖い本 その七 闇に葬る……
2002-04-19 シリーズ 怖い本 その七 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』 水野英子 / 双葉文庫名作シリーズ
2002-04-08 シリーズ 怖い本 その六 『ティッシュ。』 坂辺周一 / リイド社 SPコミックス
2002-03-30 シリーズ 怖い本 その五 『影を踏まれた女』 岡本綺堂 / 光文社文庫
2002-03-22 シリーズ 怖い本 その四 『屈折愛 あなたの隣りのストーカー』 春日武彦 / 文春文庫
2002-03-16 シリーズ 怖い本 その三 『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気,非情の13事件』 「新潮45」編集部編 / 新潮文庫
2002-03-12 シリーズ 怖い本 その二 『海洋危険生物 沖縄の浜辺から』 小林照幸 / 文春新書
2002-03-10 シリーズ 怖い本 その一 『キラーウイルス感染症 逆襲する病原体とどう共存するか』 山内一也 / 双葉社 ふたばらいふ新書


2002-05-06 シリーズ 怖い本 その八 『放送禁止歌』 森 達也 著,デーブ・スペクター 監修 / 解放出版社


【……皆,自分の頭で,言葉で,考えようとしていない】

 15年前,1987年5月3日。兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に目出し帽の男が押し入り,散弾銃を2発発射。記者2人が死傷。9月24日には朝日新聞名古屋本社寮でも散弾銃による被害があり,この2事件は警視庁によって「広域重要事件116号」と指定された。
 のちに朝日新聞を「反日」「日本民族を批判する者」として攻撃する「赤報隊」名の声明が届くが,その後捜査は進展せず,今年5月には時効を迎えた。

 この朝日新聞支局襲撃事件を言論封殺型のテロ事件とみなすのはしごくもっともなことであり,毎年5月になると繰り返される
 「自由な言論・報道を暴力で封じ込めようとした卑劣な犯罪」
 「民主社会揺るがすテロを許すな」
といった論調に疑義をはさむ者は少ないに違いない。

 だが,1つの事件に同じ方向からのコメントばかりが掲載されるのは,本当に「自由な言論」の顕れなのだろうか。
 「記者を無差別に殺傷したくなるほど嫌われた朝日新聞」
 「対立する主張者たちがテロに走らざるを得ないほど,実際にテロ行為がなされても何も変わらないほど権力化したマスメディアの圧力」
 もちろんこれは一種の冗談であり,これらがフェアであるなどと主張するつもりはない。まして銃を手にしてのテロ行為そのものを是とするつもりもさらさらない。
 それでも,15年間の間繰り返され続けた「銃口は言論の自由を圧殺しようとした」系の論調ばかりに,いい加減うんざりしているのも事実である。たまに,気まぐれでもよいから,この事件を話題にしつつ「そりゃぁ,朝日の記事は片寄っているとよく言われるが」とか,「言論の自由とか言っても,商売にならない記事が載らないのもまた事実だが」とかいった証言の1つくらいあってもよさそうなものではないか。

 今回取り上げる『放送禁止歌』は,そんな大手マスメディアがなかなか取り上げようとしないこの国のある一面を取り上げたノンフィクションである。

 かつて,「反体制」という言葉が多くの若者の座右の銘であったころ,「放送禁止歌」と称される一連の楽曲(大半はいわゆるフォークソング)があった。

  岡林信康『ヘライデ』『手紙』『チューリップのアップリケ』
  高田渡『三億円強奪事件の唄』『自衛隊に入ろう』
  三上寛『夢は夜ひらく』『小便だらけの湖』
  泉谷しげる『戦争小唄』『オー脳』『黒いカバン』
  山平和彦『放送禁止歌』『大島節』
  頭脳警察『世界革命戦争宣言』『赤軍兵士の歌』
  フォーク・クルセダーズ『イムジン河』

 その多くは,現在の過激な表現に慣れた耳にはそもそもなぜ放送禁止になったのかすら理解しがたい(現に,ながく幻の作品と言われていた『イムジン河』は先年NHKの紅白でキム・ヨンジャに歌われ,フォークル盤も再発されるなど「解禁」が進められている)。
 問題は,本書の前書きにデーブ・スペクターが述べているとおり「天皇制,在日韓国・朝鮮人,被差別部落。この三点セットが日本のタブーでありながら発言が出来ない,してはいけない,ことになっている」ことである。

 タブーとは禁忌,禁制,つまり触れてはいけないものや言葉のことである。タブーについては,したがって,なぜそれに触れてはいけないのか,触れたらどうなるのかについてすら語ることも聞くこともできない。
 多くの放送禁止歌は,どうしてそれが放送禁止なのか,そうでない楽曲との違いは何なのかを明らかにされることなく,ただタブーとして扱われてきた(奇妙なことに,レコード業界の規制とはまったく別の基準によるため,上記の放送禁止歌の多くは,当時,ごく当たり前のように入手可能だった。現在もCSデジタルラジオ放送の番組表を探せば,かなりの比率で,あっけなくエアチェックすることが可能である)。
 本書は,「放送禁止歌〜唄っているのは誰?規制するのは誰?」と名付けられた52分間のドキュメンタリー番組が制作され,1999年5月23日の深夜(というより明け方),岡林信康の『手紙』が初めてテレビでフルコーラスでオンエアされた「事件」を契機に,その制作で明らかになったこと,かつての放送禁止歌の作者たちのその後を追ったものである。

 最大の衝撃は,テレビ局による自主規制とばかり思われてきた「放送禁止」が,明確な制度としては存在しなかったことである。
 日本民間放送連盟(民法連)が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」はガイドラインにすぎず,1983年を最後に刷新されていない。しかも,その最新の一覧には『手紙』も『イムジン河』も『自衛隊に入ろう』も含まれていないのだ。
 まさしくタブーならではといってよいかと思う。猪瀬直樹『ミカドの肖像』にも,法的根拠も規制する制度もないのに,どうしても丸の内に(皇居を見下ろす)一定以上の高さのビルを建てることができない事例が記されているが,具体的な制度も制限する団体もない規制くらい突破しづらいものはない。変更すべき制度も,論破すべき相手も明確ではないのだから。

 本書の第4章では,赤い鳥『竹田の子守唄』が放送禁止歌とされたいきさつとその後が取り上げられている。そもそもあの『竹田の子守唄』が放送禁止とされていたこと自体が驚きだ。中学校の音楽の教科書に「九州竹田地方の子守唄」として掲載され,各局から何度も放送されていたではないか。
 実はこの「竹田」とは大分県の竹田ではなく,京都の被差別部落,竹田地区のことであり,この子守唄はその地の年寄りから採譜され,いくつかの変遷を経てそれと知らずに赤い鳥に取り上げられ,やがてその事実が明らかになるとともにあれほどの大ヒットが放送の現場から消えていったというのだ。

 しかし,こういった話題をオープンな場でこれ以上扱えるほどには(西に育った)私はこの問題についての「言論の自由」を信用していない。同様に,こういった話題を常に遠まわしにしてすませてきた大手マスメディアに軽々しく「言論の自由」などと口にしてほしくもない。
 たとえば,アメリカ国内の黒人差別問題やタリバンによる女性就学問題は記事になっても,国内の部落解放運動,いわゆる同和問題が活字になることはそう多くはない。事件性がなかったため,と言われればそれまでだが,規制がないにもかかわらず一部の楽曲を放送禁止にしてきた構図とどれほど違うと言えるのだろうか。
 言葉や歌を隠蔽したからといって,何が変わるわけではない。事実は事実として,この国にははなはだしい差別があるのだ。

 いずれにしても,日本という国のあり方,その日本に暮らす我々について,痛いほど深く,考えさせられる1冊である。機会あらばご一読をお奨めしたい。

先頭 表紙

ややこれはHikaruさま,お久しぶり。ちなみにカラス持ち歩きのFMV-BIBLOには「黒いかばん(泉谷しげる)」「自衛隊に入ろう(高田渡)」「手紙(岡林信康)」「悲惨な戦い(なぎら健壱(なぎらけんいち))」「網走番外地(高倉健)」「ヨイトマケの歌(丸山明宏)」「S・O・S(ピンク・レディー)」などのmp3が常駐して,それはもう壮観ですわよ。 / 烏丸 ( 2002-05-28 01:11 )
竹田の子守歌 昨年だか一昨年だかの8月にNHKでオンエアさていました。番組はたしか”残したい日本の歌”というような趣旨だったような / Hikaru@懐メロどっぷり中 ( 2002-05-28 00:29 )
らいむさま,よど号乗っ取り,三島割腹,ジョージ秋山「アシュラ」,水野英子「ファイヤー!」,大島弓子「誕生!」,そして岡林信康の「見る前に跳べ」はカラスの中の1970年として,今も煮えたぎっています。困ってしまうほどに。 / 烏丸 ( 2002-05-14 03:09 )
しっぽなさま,この件では2,3,具体的な悲劇も見てまいりましたので正直あまり多くを語りたくはありません。本書も読んだのはずいぶん前なのですが,私評をアップすべきだったかどうか,いまだによくわかりません。 / 烏丸 ( 2002-05-14 03:09 )
「NON-FIX」(フジの深夜)で「放送禁止歌〜」をオンエアをリアルタイムで見て、先日この本を図書館で読みました。差別と区別について考えるとぐるぐるしちゃいますが……それにしても放送禁止歌って制度でなかったというのに驚きました。 / らいむ ( 2002-05-14 01:26 )
愚かしい人間というものの一面が露になる事象ですね・・・考えれば考えるほど疑問は深まるばかり。囚われず生きたいです。 / しっぽな ( 2002-05-09 17:35 )
「自分には差別意識はない,偏見はない」,と口にできる輩の無頓着さが嫌いです。本当にそうなら黙っていればよい。本当に「問われる」ときにどう応えられるか,少なくともカラスには自信がありません。そもそも,「差別」と「区別」の明確な違いもカラスには実はわかっておりません。この問題に意識を踏み入れると,混乱するばかりです。 / 烏丸 ( 2002-05-07 01:16 )
この本ト連動したコンサートが行われていたのをNHKかなにかで見ました。憂歌団の「おそうじおばちゃん」なども放送禁止曲だったですね・・・差別を口に出した方が犯罪者としてヤラレルこの頃。そうして規制する事によってますます差別の意識は深まるのでは?とも思えるし・・勉強会に参加してみると真剣に学んでいるのは専ら被差別の方々でそうでないと(自らは)思っている人間は居数えるほども居ませんでした。 / しっぽな@社会教育部役員 ( 2002-05-06 19:22 )

2002-04-29 民話としての「ワダツミの木」

 
 ここ数日、元(はじめ)ちとせの「ワダツミの木」ばかり、繰り返し、繰り返し聞いている。
 テレビで一度耳にしてこれはよい曲だとは思っていたのだが、後日コンビニで流れているのを聞いているうち、不覚にも弁当を手にしながら涙があふれそうになってしまったのだ。

 奄美の民謡「島唄」がルーツという元ちとせの歌唱についてはここではおき(元ちとせの島唄と三味線についてはこちらでサンプルが聞ける)、上田現の歌詞を考えてみたい。もとより身勝手な分解であり、なんら内容を保証するものではない。自分にとっての「ワダツミの木」を大切に思われる方はブラウザの「戻る」ボタンをどうぞ。

 歌は「赤く錆びた月の夜に」という、少々不吉な言葉から始まる。すでに、死が、それもきいきいと血の味がきしむような時間の向こうのざらざらした死が暗示されている。
 その夜、男女は小さな船で海にこぎ出る。
 もとより生還を期する旅立ちではない、二人を乗せた船は「どこまでもまっすぐに」進み、「同じ所をぐるぐる」廻る。第三パラグラフでは「月の夜」は「星もない暗闇」と化す。その間に流れているのはただ時間だけだろうか。
 言葉少ない二人がどのように死んだのかはわからない。第四パラグラフの「私の足が海の底を捉えて砂にふれたころ」は、つまり女が波の底に沈んだことを示している。
 ここから歌はギリシア神話的なメタモルフォーシスを描きあげる。女のむくろは枝を伸ばし、花を咲かせ、「ワダツミの木」と化す。木は波にさらわれてはなればなれになってしまった男の魂が迷わぬように、探さぬように水の上に枝を伸ばして遍在化し、やがて幾千万の夜の果てに木のまわりは島となし、億千万の波は寄せ、波は返す。

 つまり結局のところ、この歌は、ついばむような口づけから始まる穏やかで深い世界とのフラクタルな夜々のセックスを歌い上げているのだ。

先頭 表紙

カラスは当時は「パンク」よりはやや「テクノ」に傾倒していました。初期のゲーリー・ニューマンを今でも許せてしまうあたり,我ながら甘い甘い……。でも,毎日ジョイ・ディビジョンを聞いてすごすわけにもいきませんし。 / 烏丸 ( 2002-05-07 01:22 )
恥ずかしながら若き日のわたくしでございますゥ〜我が家でパンクの洗礼を受けているのはわたくしだけですので当時のお写真やビデオは銀行の隠し金庫に深く眠ったまんまです・・・ / しっぽ@今は「マダム」なの ( 2002-05-06 19:09 )
む,「むっちりふともも出してあのメイク」していたのはスージー? それともバンド時代のしっぽなさまなのでありましょうか? / 烏丸 ( 2002-05-06 01:20 )
クイーンは神棚、ジャパンは足蹴、スージーは・・・!!!バンド時代に激しくコピーした面々には熱く反応してしまいます・・・爆裂反応。むっちりふともも出してあのメイクしてた時代が脳裏に!んでもって恥没(@@ / しっぽ@可愛がって頂いてありがとうござい ( 2002-05-03 23:07 )
しっぽな様,ニナ・ハーゲンで反応ですか。クィーンとかジャパンではなくって。するとスージー&バンシーズとかにも化学反応するのでありましょうか。いや,カラスはそのあたり,皆さん好きなのですが。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:29 )
ふのりさま,過分なおほめの言葉をありがとうございます。「水死者」というタイトルは,T.S.エリオットの『荒地』からの拝借モノです。タイトルだけで,中身はまるで違いますが。あのころ,エリオットだとかグラックだとかリルケだとかミショーだとか……今は読めないなぁ。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:23 )
ムッシュ! この曲にはボーカル的にもサウンド的にもさまざまな箇所,さまざまな意味で「ン」があって,そこが心を引くような気がします。 / 烏丸 ( 2002-05-03 01:23 )
ワダツミの木、といえば大東亜戦争を連想してしまいます・・・歌詞がよく聞き取れないのでご紹介の歌詞サイトへ行って来ますね。ニナの「アフリカン・レゲエ」!!!!なんと!!!;;泣き泣き泣き〜〜〜〜〜〜(私情たっぷり。。。ごめんなさいーー) / しっぽな@未ログイン ( 2002-05-01 23:51 )
その白さは、物を見る機能を果たすものとしての人の眼球の色と通底しているのでしょうか、人が真の意味で何事かを見ることができる存在であるのなら。あるいは、人の目は無知の闇に囲まれたしょせんは義眼と等しいのでしょうか。いや、主観の曇りなく忠実に光を反射するガラスの表面をもつ義眼こそ、人の目として望ましいのでしょうか……などといったことを、延々と思い巡らせてしまうのであります。 / ふのり ( 2002-05-01 08:40 )
「水死者」ものすごく好きです。生命の発生と消滅の場としての謎に満ちた海、その深い底辺に柔らかい直線を描きながらおりていく意味、といったものが、黒と白の対比で――けれどもいわゆる明瞭な対立概念としての白黒でなく、互いに溶け合うような曖昧な境界線で区切られたものとして――色のイメージに引き写されている。闇としての「見えない」世界を通過していく牡丹雪の白さ、その「想像上の」鮮やかさ(実際に光のない場所で雪の白さを感じることはできないでしょう)。 / ふのり ( 2002-05-01 08:39 )
お〜〜ニナ・ハーゲンと来ましたか流石UK物には御強い・・・でも彼女ドイツでしたっけ??ベースが命の曲でしょう〜裏打ちのドラムも!極上のレゲェ・ダブミュージックですね! / ムッシュ ( 2002-04-30 10:42 )
これはムッシュ! 「ワダツミの木」は、元ちとせの歌唱ばかりに話題が集まりますが、カラス想うにあれはベースコード命の曲ではないかと。曲のオモムキはまるで違いますが、ニナ・ハーゲンの「アフリカン・レゲエ」を想い出したりするのであります。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:58 )
J-Popの歌詞検索なら無料歌詞検索サイト・歌ネットがお奨めです。最近会員制(無料)になったようですが、「ワダツミの木」は今週の検索ランキングTOP3で、入会しないでもトップのリンククリックで表示されるようです。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:58 )
上田の現ちゃんもレピッシュ脱退しちゃったし!これで一躍メジャーどころでしょう〜!あの曲はリリックも良いしトラックも良いし!売れて当然でしょう〜日本の歌謡曲も捨てた物じゃないですね!一番喜んでるのはスガシカオだったりしますね?? / ムッシュ ( 2002-04-29 08:18 )
まだテレビでちょこっととか有線でかかっているのしか聞いていないのでとても興味がありました。歌詞の方を読んでみたいですね♪ 夜伽というか妻訪いがこそりと隠されているような歌は少なからず日本古来からあったものなので、なじみがあると思うのです。 / やまのたかね ( 2002-04-29 05:49 )

2002-04-22 シリーズ 怖い本 その七 闇に葬る……

 
【もう人間を食べないとちかえっ】

 1960年代の少女マンガ作品が,品切れあるいは絶版で入手不能であること。ことこれに関しては別に不思議はない。
 西谷祥子『ジェシカの世界』『学生たちの道』,矢代まさこの各作品,本村三四子『太陽のカトリーヌ』など,読み返してみたいが再販,文庫化の気配もない作品も少なくない。水野英子にしても,今となってはそう売り上げが上がるとは思えず,営利組織たる出版社が復刊を検討しなかったとしても不思議はないだろう(今回の文庫化が彼女の人気のバロメータを把握しているだろうマーガレット,りぼんの集英社からではなく,双葉社,講談社からの発行だったのは,その意味で象徴的だ)。

 しかし,「美しいお姫様に高価な宝石,ハンサムな怪盗,気球にSL,クラシックカー」という道具立て,「生い立ちにちょっぴりわけのありそうな可愛い女の子と子ネコを主人公に世界中の有名な風景の中を回らせる」という現在からみればファンタジーとすらいえない設定の『ハニー・ハニーのすてきな冒険』がながらく絶版だったのは,どうもそういった理由によるものではなかったようだ。
 今回の文庫の第1巻の,作者自身の手によるあとがきによれば,「登場する黒人のキャラクターが差別にあたるかもしれないという理由」から今まであまり出版されなかった,というのである。

 岩波書店『ちびくろさんぼ』が廃刊となり,カルピスの商標マークが消え,タカラのダッコちゃんが姿を消し,竹本泉『あんみつ姫』,手塚治虫作品のいくつかが書店から撤退したのは,堺市の「黒人差別をなくす会」という市民団体の抗議によるものだった。このことを,はたしてどれほどの人がご存知だろうか。
 市民団体というと,なにやら大勢の市民が公会堂かなにかで集会を開き,というイメージを抱いてしまうが,実はこれは親子3人の,今ふうの言葉でいえば「クレーマー」家族に過ぎない。この家族が「差別」の名のもとに攻撃した作品やデザインが,次々と闇に葬られた,事実はそういうことなのである。
 たとえば『ちびくろさんぼ』がアメリカで広く問題となった背景には,「サンボ」という名前やサンボの両親の「ジャンボ,マンボ」がアメリカで黒人の蔑称,黒人を揶揄する言葉として用いられてきたことがあった。そのような背景を検討せずに1冊の絵本を絶版にし,あるいは差別用語を使用禁止にすることでトラブルを回避するのは,単に臭いものに蓋をして,抗議を避けるコトナカレ主義以外のなにものでもない。「色が黒くて唇の厚い」マークをすべて抹消することで植民地政策〜奴隷制度に端をなす黒人差別をなくすことに結び付くと考えるほうがどうかしている。
 極論すれば,そういった姿勢と,被差別者を島の療養所に閉じ込めて被差別者との「関係」そのものを抹消することの間に,どれほど違いがあるというのか。

 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』に登場するコンゴの村の女ボスは,首からシャレコウベを下げ,骨の髪飾りをして,人間をシチューにして食べようとする。まず現在のテレビで放送が許されることはないだろう設定である(この数ページ,タッチといい,コマ割りといい,実に手塚作品ふうなのが不思議だ)。『ちびくろさんぼ』がNGなら,この作品は間違いなくアウトだろう。

 問題なのは,岩波書店をはじめとするいくつかの出版社,メーカーが,この「黒人差別をなくす会」から抗議を受けたあと,充分な討議をする時間もかけずにある意味安直に商品を廃してしまったことである。さらには,日ごろは差別問題に重きを置いているがごとき態度をとっている新聞などの大手マスメディアが,ことさらその経緯を明らかにせず,目をそらし続けた,その姿勢,その怠慢こそが怖い。

 この世界にはさまざまな差別があり,それは現在も続いている。
 その問題に光を当てようとしないでただ目の前の差別用語だけ消し去って差別という事実そのものから目をそむけ,一方でたとえばハンセン氏病患者に政府が謝罪したといった場合にだけ手柄のように一面を飾る大手マスメディア……。

 ほかに,いつの間にか隠されていることはないのか。
 今後,新たな抗議団体が現れたとき,彼らはしおしおとそれに従って記事をねじまげていくのか。

先頭 表紙

『サイボーグ009』のほうは、不思議なことに、とくに問題となっていないようですね。昨今のアメリカの子供向け番組がそうであるように、複数の人種、民族を均等に割り振っているからOKなのでしょうか(008に限らず、アメリカ原住民や中国人について、偏見に満ちた作品だと思われるのですけどね。これで009が出っ歯でメガネをかけ、カメラをぶらさげていたら完璧だったのですが)。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:57 )
やまのたかねさま、いらっしゃいませ。聞いた話では、『ジャングル黒べえ』も、まさしくこの「黒人差別をなくす会」によって闇に葬られたようですよ。小学館版、中央公論社版、ともに回収、絶版で現在にいたっています。 / 烏丸 ( 2002-04-29 17:57 )
「ジャングル黒べぇ」はどうなったんでしょう? とても子供の頃好きだったんです…。「サイボーグ009」の008は? 「ちびくろサンボ」だってトラがバターになってホットケーキを食べる、という場面ばかりしか思い出せずにサンボが黒人であることに何ら差別も違和感も感じなかったのですが。 / やまのたかね ( 2002-04-29 05:46 )
やややさま,いらっしゃいませ。実はまったくご指摘の通りで,『オバケのQ太郎』は,一部の作品がこの「黒人差別をなくす会」から抗議を受けて回収になり,その後,ほかの巻も再版がかけられないまま絶版となっています。 / 烏丸 ( 2002-04-23 02:30 )
そうなんですか!じゃあオバQもこの団体のせいで廃刊になったの...(涙)今読みたくても全然なくて寂しいんです〜 / ややや@はじめまして!! ( 2002-04-22 12:18 )

2002-04-19 シリーズ 怖い本 その七 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』 水野英子 / 双葉文庫名作シリーズ


【ごきげん! クレオパトラに なったような きぶんよ】

 まず双葉文庫名作シリーズから『ハニー・ハニーのすてきな冒険』,次いで講談社漫画文庫から『白いトロイカ』,『エリザベート』,『星のたてごと』,『銀の花びら』と,水野英子の作品が続けて復刊されている。
 一部はさすがに画風の古さが目につくが,少女マンガ黎明期に活躍した作家の骨太な作品が復活し,手に入れやすくなったこと,新しい読者の目に触れることは,1960年代からのファンとしても実に喜ばしい。

 数多くの国で,言葉を基調とした文化は,非常に大雑把な言い方をすれば,まず特権階級の間に韻文が発達し,やがて近代に至って散文が巷間に拡散する,という経緯を示す。
 ところが,1コマの風刺絵,ポンチ絵から「コマ割り」という武器を得たマンガは,手塚治虫というルネサンス型の天才の手によって時間芸術,つまりストーリーマンガへと変身し,数々の長編,大作を生み出してきた。このマンガにおいては散文 → 韻文(正しくはもちろん韻文ではないが)的な発展がむしろ後に起こり,大島弓子が完成した「コマを海の波や緑のこずえが破ることによって時間を切ったり貼ったり,遡ったりする」技術によってその叙情は1つの頂点に至る……。

 などと大仰な戯言を持ち出しておいてその逆のことを書いてしまうののだが,水野英子の魅力は,そのような叙情性にはない。

 彼女の作品におけるダイナミズムは,実は,日本の昨今のあらゆる文化,つまり小説や映画やテレビドラマが描いてみせることのできない,「叙事」性に基づくのである。
 実際,演出や効果音ばかり大袈裟で,戦国の世を舞台にしながら実のところ「お家の台所事情」的展開ばかりを繰り返すNHK大河ドラマと『白いトロイカ』『ファイヤー!』『エリザベート』などを比べれば,後者のスケールの大きさは驚くばかりだ。
 昨今の作家の線を見慣れた目には,たとえばその「お姫様」的ファッションセンス,ご都合主義的展開,類型的な人物造形などなど,さまざまな弱点はあるだろうが,それを含めてなお大河ドラマを上回るだけの魅力を感じてしまうのは私だけだろうか。

 『ハニー・ハニーのすてきな冒険』は,ハリウッド大作映画の影響の強い,水野英子ならではの設定で,追って追われて世界中の国を巡り,主人公の少女は実は小国の姫,彼女を追うハンサムな怪盗は実は……と,こうあらすじを書いただけで,これが現在ではおよそ描きにくい,力ワザであることはご理解いただけるのではないだろうか。白馬の王子様的夢物語とはいいつつ,そのおおらか,コミカルだが流麗な線描,匂うような女性,男性的魅力……。

 だが,実は。
 今回この「怖い本」シリーズで本作を取り上げた理由はまったく別なところにある。(つづく)

先頭 表紙

最近の技法からみればいろいろありますが,全体としてみればびっくりするような線の太さだと思います。アシスタントシステムとかがまだ出来上がってなかったはずの時代に,『白いトロイカ』が週刊誌で連載されていたとは,ちょっと信じられません。同時代のわたなべまさこといい,「オードリー・ヘップバーンの時代」ということを思ったりもします。 / 烏丸 ( 2002-04-21 03:55 )
私が小学生時代に読んだ某少女マンガに設定の一部が酷似しているんですが、「白いトロイカ」がその原型だったんだと目からウロコでした。 / けろりん ( 2002-04-20 20:06 )
最近になって次々文庫化されているので、「白いトロイカ」を初読みしました。確かに30年以上前に描かれたとは思えないテンポと展開で、一気に読んでしまいました。 / けろりん ( 2002-04-20 20:03 )

2002-04-08 シリーズ 怖い本 その六 『ティッシュ。』 坂辺周一 / リイド社 SPコミックス


【お兄ちゃんの お嫁さんに なりたいんだろう?】

 ちあさをずっと女手ひとつで育ててくれた母親が,大学教授と再婚することになった。だが,新しい家庭には……。
 本書は,一言でいえば,ストーカーに追われる少女の話である。

 通勤路からは離れているためそうたびたびは立ち寄れないが,なかなかシブめの棚の揃えと,平積みの扱いにさりげなく工夫をこらすことでお気に入りの郊外型書店がある。推奨コミックには「見本」とシールを貼って立ち読みを許可する,話題作には簡便な書評を記した手書きポップを立てるなど,一歩間違えるとわずらわしいが,趣味が悪くなければ役立つ,そういったサービス。
 この『ティッシュ。』に用意されていたシンプルなポップは,こうだ。「かなり,気持ち悪いです」。

 確かに17歳の少女にとって,母親の再婚先に30歳近いストーカーがいたら,これはたまらない。おまけに敵はずんぐりした巨体で,無口で,ターミネーターのようにタフで,獣医の卵だから麻酔薬さえ持っている。それが顔を洗う自分の背後に黙って立っているのだ。生理用具を捨てたゴミ袋をあさるのだ。そんなのに追われたら,主人公でなくとも悲鳴をあげるだろう。

 残念なのは,余計なものを詰め込みすぎたことだろうか。
 主人公と母親の葛藤,ストーカーの父親のジレンマなどを描き,厚みのある人生ドラマに仕立て上げようとしたのだろうが,いずれも中途半端なまま,かえってサイコホラーとしての純度を薄めているように思える。
 また,雑誌連載時のお色気サービスということもあるのだろうが,主人公がわりあいあっけなく裸にされてしまうのも,ホラーとしてみればマイナスだ。ストーカー氏の「いやがらせ」が主人公だけでなくその母親や周囲の者にまで向かうのはかえって焦点がぼけてしまうような気がする。

 ストーカーを扱うホラーの恐怖は,まず,ごく普通の,むしろ好感のもてる人物が,だんだんおかしな言動を見せる,その違和感,微妙な色合いの狂いにある。次いでポイントとなるのは,相手がストーカーであることが明らかになってからも,周囲の者にその恐怖が伝わらないことだ。ストレートな恐怖とはまた別の,婉曲で,胸の奥にじわじわ食い込んでくるような嫌悪感。
 たとえば,(本書とは少し離れるが)寝室に押し入って無理やりレイプしようとする直接的な暴力ではなく,朝目覚めると枕元の小物の位置が整えられていたり,パジャマが新しいものに変わってしまっているような恐怖。
 しかし,本作はわりあいあっけなく,直接的な性描写や暴力,悲鳴,絶叫シーンに走ってしまう。このあたり,B級のサガといえばいえるか。

 もう一点,途中で掲載誌が廃刊になって他誌に移るなど,作者にとって思うようにならない面もあったのだろうが,タイトルの「ティッシュ」は,実はストーリーにはとくにかかわらない。要所要所で出てくるのはティッシュではなく,○○○である。その使い方はなかなか見応えがあるのだが,ただ,○○○では色気もヘチマもないものなぁ。

先頭 表紙

「職場」という言葉に実に似合わないコミックですが,どなたが持ち込まれたのでしょうね。最終回は大陸に渡って中国3千年の歴史を誇る拳法を身につけたちあさが黒装束で復讐の……もちろんこれはウソです。が,第二巻の終わり方も正直「ウソでしょう」な感じではありました。6巻分のエピソードは用意していた,という作者にしてみれば,無理やり終わらせたということなのでしょう。 / 烏丸 ( 2002-04-11 02:16 )
はじめまして!この本は、なぜか職場にあって一巻だけ読んだのですが、あの主人公がどう転落していくのかが気になってました〜(^^; 最後はハッピーエンドなのですか? / さえちゃん ( 2002-04-08 11:24 )

2002-03-30 シリーズ 怖い本 その五 『影を踏まれた女』 岡本綺堂 / 光文社文庫


【あたし,もうみんなと遊ばないのよ】

 岡本綺堂。劇作家,小説家。
 彼がシャーロック・ホームズのような探偵物語を江戸を舞台に描こうと書き起こした『半七捕物帳』シリーズは,のちのさまざまな「捕物帳」の祖となった。最初の作品「お文の魂」が発表されたのは大正6年1月のことである。
 もっとも『半七捕物帳』がいわゆる「推理小説」として正嫡子かといえばそれは少々疑問で,確かにある種の犯罪が起こり,その真相を探偵にあたる主人公が追うという構図こそ守られているものの,半七の人となりはおよそホームズの「けれんみ」「傲慢さ」等とは無縁で,彼は間違っても物語の筆記者たる明治時代の新聞記者に向かって「今日は深川のほうからおいでなすったね」だの「基礎ですよ」などと言って唇をゆがめたりはしない。ただ淡々と,犯人を追い込めたのは捕り手の丹念な聞き込みであったこと,犯人を特定できた自分は幸運であったことを述懐するばかりである。

 『影を踏まれた女』はその岡本綺堂の,光文社文庫では『白髪鬼』と並ぶ怪談集の1冊。
 大半を占めるのは「青蛙堂鬼談」と題された連作で,これはある雪の夜,青蛙堂主人を名乗る人物の家に集った性別,年齢,出自もさまざまな人物たちが順に奇談怪談を語るという,一種の百物語の類である。
 得体の知れない魔性の女を描く「一本足の女」などわりあいストレートに恐怖をあおるゴシックホラーから,露店で手に入れた木彫りの猿の面をめぐる怪異を描く「猿の眼」のように白昼俄かに影がさすような薄きび悪さ漂う作品まで,内容題材はバラエティに富む。後者は(味付けはまるで違うものの)ジョン・コリアらの「奇妙な味」に通じるものを感じないでもない。
 ただ,たとえば日露戦争の従軍記者が一種のお化け屋敷で一夜を過ごす「窯変」など,「現代の作品なら,もう二転三転,どんでん返しをしてみせるだろうに」と,いささか古びた印象を与えるものもなくはない。逆に,古い井戸の怪異に源平時代の事件を結びつけた「清水の井」のように,幽霊譚としてはとりたてて怖いものではないように読めるのに,手首の返し一つでひやりとさせられる,かなり近代的な恐怖を描きあげた作品もある。

 「青蛙堂鬼談」に続く掌編集「異妖編」に含まれる「寺町の竹薮」では,親しい子供たちに「あたし,もうみんなと遊ばないのよ」と去っていった数珠屋の娘お兼はすでに殺されていたはずで,それが幽霊だったのかどうかはよくわからない。表題作の「影を踏まれた女」にしても,往来で子供たちに影を踏まれて以来,自分の影を映し出すものすべてを恐れるようになった糸屋の娘おせきがやがて侍に斬り殺されるのは,はたして彼女が影を踏まれたからなのかどうか。

 血や内臓が飛び散るわけでもなく,怖いかと言われればさほど怖くないような,怖くないかと問われればどこか冷たい手が首筋をなでるような,岡本綺堂怪談集。光文社文庫以外でもちくま文庫,学研M文庫などで手に入る。また,以前も紹介した無料公開の電子図書館「青空文庫」には,すでに著作権の切れた岡本綺堂作品が多数提供されている。
 これからの季節のぼんやり靄たちこめる夜のナイトキャップ代わり,毎晩1編ずつといった具合に,いかがだろうか。

先頭 表紙

自転車さま,はじめまして。旺文社文庫の終盤は,内田百間など,この時代のシブめの作家の作品もたくさん収録していましたね。学研といい福武といい,教育系出版社の文庫はどうもクセがあるというか,経営的には厳しそうです。 / 烏丸 ( 2002-03-31 02:10 )
「影を踏まれた女」は旺文社文庫版を持ってまーす。好きな本でーす。はじめまして、よろしく / 自転車 ( 2002-03-30 08:34 )

2002-03-22 シリーズ 怖い本 その四 『屈折愛 あなたの隣りのストーカー』 春日武彦 / 文春文庫


【狂気の沙汰と,狂気であることとは同じではない】

 たとえば本書に紹介されているフェイ・ケラーマンの短編小説「ストーカー」に登場する夫のセリフはこうだ。
「どうしてぼくがわざわざきみに頼まなきゃならないんだ──それぐらい,きみが察して当然じゃないか」

 私たちはこの短いセリフの中に実にいろいろなものを読み取ることができる。
 私たちが知っているあの彼,あの彼女たちの,あのなんともいえぬ粘着質な執拗さ,「甘え」という言葉では表しきれぬ全人的なもたれかかり,自己と他者/責任と無責任/嘘と本当とがくるくる軽々しく裏返ってしまう言葉の群れ。
 理屈では明らかに破綻しており,それを指摘されながらも胸を張ってあるときは愛を,あるときは真実を主張する彼あるいは彼女たちの,ベニヤ板にペンキで描かれたポスターのように薄っぺらい,だが過剰な言葉,そして行為。

 インターネットの広まりは,私たちにさらに数多くの奇妙な人々,異常な人々の存在を教えてくれた。
 ボーダーライン上の人々は増えているのだろうか。そうではないだろう。インターネット上では従来なら家庭内,学校内,職場内でしか明らかにならなかったさまざまな個人の性状や言動が撒き散らされる。もう1点,テレビやマスコミの蔓延によって,都会型の恋愛や意思表示の仕方がいわばコピーマスターとして広く伝播されたこともポイントだ。かつての農村型の社会でならそこでのあるべき姿にはまっていたであろう主体性のない輩が,都会の生活パターンやテレビや雑誌から氾濫した情報に染まったとき,ストーカー的な行動に走ることは少なくないのではないか。

 つまり,ストーカーという言葉がある種の被害者たちに明確な加害者の輪郭を与えたように,都市とマスメディアはある種の資質をもつ者たちにストーカーとなるフォームを与えたのだ。もともとは単に主体性をもたず,なにかというと他者のせいにする程度の弱き者だった彼らは,その薄い函の中にリキッドな自らをみたし,ぽたぽたとこぼれながらあなたをうかがい,それから追い始める。執拗に。

 だが,異常であることが問題なのではない。
 ある種の特殊な技量は,異常さの現れであることも少なくない。たとえば寝食を忘れて何かに没頭できるというのは,何かを成し遂げるために必要なことでもある。「なぜそこまで」と周囲の者が呆れるほどの執拗さ,途方もない自己中心的な目的意識は,ある種の成功者に共通の特性でもある。しかし。
 ストーカーが問題なのは,それが異常だからではないのだ。ストーカー的な言動によって問題を起こす人物が、普段は(本書の表現を引用するなら)「流行に敏感であったり,デートの演出に長けていたり,どこか謎めいたソフィスティケートさを備えていたりといった具合に,むしろ魅力的にすら感じられる」ことを,私たちは何度も目にしてきた。もちろん,その多くの場合,周辺からは彼らの異常な依存性,過激な二元性が目についていることも少なくない。しかし,その一方で彼らの異常性に一切気がつかず,むしろその味方となってしまう者がいる。
 「○○さんはそんな人ではありません」,だが現にそんな行為はなされている。追われる者にはそれが難題なのだ。

 ストーカーは確かに存在し,うっかりその尻尾を踏みつけたとき,彼らは驚くべき俊敏さをもって「熱愛」の鎌首を向けてあなたをおびやかす。そういった彼あるいは彼女は(口ぶりでは否定するが)自分が周囲にどのように見られているかひどく気にしているため,ある意味で周囲のあらゆる者の歩く前に何度もその尻尾をアンテナ代わりに置いているからだ。愛する私,愛される私,愛しているはずの私,愛されているに決まっている私……。
 彼らがまったく病気のレベルなのかボーダーライン上にあるのか,追われる者には関係ない。一度彼らに追われ始めたとき,普通の神経の持ち主はなかなかその檻から逃げ出せない。なぜなら,ひとたび「それ」が始まったとき,世界はすでにまるごと彼らの偏狭な意識の中にしかないからだ。

先頭 表紙

なお,ストーカーについては,岩下久美子『人はなぜストーカーになるのか』,福島章『ストーカーの心理学』,荒木創造『ストーカーの心理』についての私評もそれぞれご参照ください。 / 烏丸 ( 2002-03-22 02:27 )
(本来の目的はそういうことではないのでしょうが)「自分はそんなことを書かなかった」と言い張るネットストーカーに対して有効なサイトが一部で話題になっています。世界中のさまざまなサイトを回り,日付別に保存しているというもの。諸般の事情からすでに削除された日本国内のサイトもあれこれ残されており,心強い反面,ひやりともさせられます。ひまじんネットの書き込みもあれこれ保存されており,今後は日記やつっこみを削除すればなかったことに,というわけにはいかなくなるかもしれません。 / あえてURLは書きません ( 2002-03-22 02:24 )

2002-03-16 シリーズ 怖い本 その三 『殺人者はそこにいる 逃げ切れない狂気,非情の13事件』 「新潮45」編集部編 / 新潮文庫


【腹を一回,左胸を二回,頭を一回ナイフで刺し,最後に喉を切り,念のためにビニール紐で首を二回絞めて】

 エボラが怖い,毒クラゲが怖いといっても,気をつければそれなりに避けることができる。もちろん,いかに気をつけたところで,地震でビルが倒れる,トラックが飛び込む,飛行機が落ちる,肺癌にかかる,餅が喉につまる,などなど,いたるところに死の扉は待ちかまえている。
 だが,これらの怖さは,即物的とでもいうか,殴られれば壊れる,壊れれば痛む,そういう次元の話にすぎない。

 エイズや狂牛病の怖さは,少し違う。免疫性が損なわれたり,脳がスポンジ状になったりという,症状による恐ろしさもあるが,それだけではない。
 たとえばエイズの場合,人と人が結びつくことからウイルスが侵入する。また,免疫性が損なわれるというのは,いわばアイデンティティが損なわれるということだ。その意味で,エイズは自己と他者の「関係」の病だということがいえる。
 狂牛病という病気にも似たところがあって,牛に肉骨粉を食べさせた結果広まったこの病が,食人の習慣のあった部族のクールー病と同じ異常プリオンによるなど,どうも生物が同族を食べたときに何かが壊れていくそんな摂理によるもののように思われてならない。ここでも壊れているのは「関係」なのだ。

 本書はもう1つの「関係」の病,「殺人」を取り上げたものだ。
 取り上げられた事件は13。有名なものからそうでもないもの,じっくりと1人を殺したものから無造作にたくさん殺したもの,子供殺しから親殺しまで,さまざまなパターンが含まれている。

 取り上げられた事件の中,熊本「お礼参り」連続殺人事件,広島「タクシー運転手」連続四人殺人事件,世田谷「青学大生」殺人事件などが,行為の陰惨さのわりに記憶に残りにくいのは,殺人者の言動があまりに身勝手で,その分,人間の行為に見えないためかもしれない。しつけられていない野生動物が噛みついた,その程度の感じ。つくば「エリート医師」母子殺人事件も,幼児性において印象は変わらない。

 それに比べると,いまだに犯人が特定されない井の頭公園「バラバラ」殺人事件や,名古屋「臨月妊婦」殺人事件は格段に薄気味が悪い。
 後者では殺された臨月の主婦の腹部が切り開かれて胎児が取り出され(赤ん坊は生きていた),代わりに受話器とミッキーマウスのキーホルダーが押し込められていた。前者ではビニール袋に入れられた遺体の一つひとつが入念に洗われ,きれいに血が搾り抜かれていた。すべてのパーツはまるで定規で測ったかのように(切り取りやすい関節などに関係なく)ほぼ二十数センチに切り揃えられている。そのくせ,切断のしかたは乱暴に手ノコをあてたものや鋭利な刃物で肉を切って骨を露出してから慎重に切ったもの,切れ目を入れてからポキンと折ったものなど,数種類の特徴があって複数の人間の手によるものと想像され……。

 いや,それにもまして恐ろしいのは,葛飾「社長一家」無理心中事件で,妻子を殺したあと逃亡し,首を吊って縊死した男の,自殺実況テープの内容だろう。

 犯人はクラシック音楽を専門に扱うソフト制作会社の社長。資金繰りに破綻したあげく,49歳の妻と23歳の娘を自宅で絞殺,それから約10日間,死に場所を求めて国内を転々とする。そして長野県塩尻市内のホテルで首を吊って死ぬのだが,その絶命までの約40分間のテープはいろいろな意味で恐ろしい。

 第一は,その弱さ,ねっとりとした身勝手さを示す妙に丁寧な内容だ。
 彼は金融機関からの借金,2800万円の返済日が間近にせまるや,家族に返済が困難なこと,返済の期日が近いことを何一つ知らせず,そのくせ「信じられないくらいの心の負担となって,何も出来なくなって,本当に心身ともにボロボロになってしまうんじゃないかと思うんですね」と妻子の殺害を決めてしまう。そして殺害後,「わたし自身も,その後を追おうと思ったんですけれども」「死ぬのはいつでもできると……あんたたちの行きたいといったところを,時間の許す範囲で回ってみようと思ったわけです」「富士山に関しては,一番いい姿を全部見せてあげられたんじゃないかな,と思います」
 そして,奈良市内のホテルで一度自殺を決行するが,途中で紐が切れて失敗。大小便にまみれ,痛みに這いずりまわり,それから二日後に今度は自殺に成功する。
「今日は強いロープを二重にして,ぶら下がっても大丈夫な梁に付けてありますから。もっと早いうち,死にますから。ハァーッ……排尿の中,動き回るってことはないと思います」

 そして,テープは後半にいたって,聞く者を異様な世界に誘う。本文から引用しよう。
 「雅夫の背後で,激しいノイズが聞こえる。ゴーッという,地鳴りのような音。聞きようによっては,嵐の中,断崖絶壁に立って録音しているような音である。(中略)ふと思い当たってしまった──あの世から吹く風,黄泉の国から吹き付ける風があったら,きっとこんな音がするだろう」

 そして,お喋りな自殺者の断末魔の悲鳴のあと,ゴーッという轟音が延々と十分ほど続いてテープが終わる。
 ほつれた「関係」の紐がその黒い風の中に揺れて,ちぎれる。

先頭 表紙

2002-03-12 シリーズ 怖い本 その二 『海洋危険生物 沖縄の浜辺から』 小林照幸 / 文春新書


【刺されて助かったという話はまったく聞かない】

 「毒」。なんと蠱惑的な言葉であることか。
 たとえば毒薬,猛毒,毒蛇。あるいは毒蜘蛛,毒牙,毒殺。さらには劇毒,毒婦,毒茸,毒芹,毒団子。
 爬虫類館を訪れてガラスの向こうの緑に輝く蛇が強い毒を持つと知るや,心のどこか黒い片隅が沸き立つような気がするのは私だけだろうか。蠍やタランテラのフォルムに単に不気味さだけでない,濃密な意志を感じるのは?
 「毒」のなまめかしいまでの恐ろしさは,穏やかな日常の中に,その黒い錐が突然刺し込まれることだ。穏やかな青い海,珊瑚礁。そこに足を踏み入れると,そこには小さな,しかし強烈な毒をもつ生物が静かに棲息している……。

 本書は一見穏やかで平和に見える沖縄の海に潜むさまざまな危険生物を取り上げ,その恐ろしさと対処法を紹介する。

 たとえば,ハブクラゲに刺されると,「刺傷後六時間ほどでミミズ腫れは炎症性の浮腫を伴った水疱となる。重篤な患者では,受傷直後にショック症状を起こし,呼吸停止から心臓停止となり,死亡に至る」。
 1997年8月には小学1年生の6歳の女児が水深約40センチ,波打ち際から約10メートルの浅瀬で,翌98年には3歳の女児が水深約50センチ,波打ち際から約15メートルのやはり浅瀬で,ハブクラゲに刺されて死亡している。
 ハブクラゲに刺された場合,特効薬にあたる血清は現在のところ,ない。触手が絡みついた患部は絶対に砂や水でこすらず,食酢を何回かにわけてかけるのがよいのだそうだ。

 あるいは,錐状の殻が15センチにも達する美しいイモガイの一種,アンボイナガイは,歯舌歯と呼ばれる毒矢をもち,ここから猛毒を刺し入れる。アンボイナガイに刺された箇所には小さな穴ができるが,このとき痛みはないし,腫れたりもしない。しかし,「刺されてから十五分から三十分後に,ようやく刺された周囲が紫色になり,痺れてくる。このとき同時に口の痺れ,目眩,物が二重に見える複視などが起こり,徐々に全身の運動神経が麻痺して重篤となる。そのまま放置しておくと,最後は呼吸麻痺となって死に至る」。
 沖縄ではアンボイナガイのことを「ハマナカー」と呼ぶが,それは,刺されると浜の真ん中で死んでしまうということに由来するそうだ。
 このアンボイナガイの毒を中和する血清も,今のところ存在しない。

 このほか,背鰭の毒棘に,一匹でゆうに四人を殺せる毒をしのばせたオニダルマオコゼ(砂や岩の色に似ていて,これを踏み付ける事故が後を立たない)。光をめがけて突進し,長く鋭いくちばしで人に突き刺さり,死に至る大怪我を負わせるダツ(オキザヨリ)。茶褐色の海藻そっくりな体表にある何千という刺胞球から毒を発射し,刺されると激しい痛みを感じ,潰瘍の回復までに数か月,場合によっては1年以上かかることもあるウンバチイソギンチャク。黄色い体に青い斑紋が美しいが,咬みついたときに相手にフグと同じテトロドトキシン系の毒を注入し,筋肉の麻痺,嘔吐,呼吸困難,運動麻痺を招くヒョウモンダコ。性質がおだやかで,毒牙が小さいためハブやマムシに比べて被害数は少ないが,実はコブラより強い神経毒をもつウミヘビ……。

 しかも,これらの海洋危険生物の多くには,ハブに咬まれたら血清,といった決定的な治療法がない。沖縄ではこれらの生物による被害を減らすために,ビーチにクラゲネットを用意したり,啓蒙用のポスターを多数配布するなど行政上の対策が進められている。それでもこれらの生物による被害はあとを絶たないし,また,原因不明の水難事故死のうちいくつかがこれらの生物によるものである可能性も少なくないようだ。

 本書の巻末には,取り上げられた海洋危険生物の被害に遭った際の応急処置一覧と,2001年12月現在の沖縄の保険所及び医療機関連絡先が掲載されている。
 この夏,南の島でのリゾートを計画している方は,痛いめ,悲しいめに遭わないためにも前もって本書に目を通しておくことをお奨めしたい。
 必要以上に恐怖にすくむこともないだろうが,結局のところ,「自分は大丈夫」という安易な思い込みこそが一番の猛毒なのだから。

先頭 表紙

本書で取り上げられたハブクラゲは,そのbox jelliesと同類か,非常に近い種のようです。box jellies用の薬品がハブクラゲに効くかどうか,作者が自分の手で試してみるという一節もあります。また,危険生物をあれこれ食す,という項もあります。どうやら,一番獰猛なのはやはり人間のようです。その中でもとくに獰猛なのは……おっととと。 / 烏丸 ( 2002-04-11 02:23 )
どうもです。こちらではこれに刺されたら「サヨウナラ〜」と言われています(ガイド本では「数十秒以内に酢をかけろ」となっていますが、実際には海中でビリビリに痺れたまま浜辺までたどり着けずに逝ってしまうとか)。先日は正体不明のサンゴで手首を切って一瞬意識不明になりました。海にはコワイ奴がたくさんいてます。 / M ( 2002-04-05 22:49 )
今朝の朝日新聞書評欄に本書が。担当はあの斎藤美奈子さん。普段,そう新刊読破にこだわっていないカラスには,少し嬉しい「先どり」でありました。 / 烏丸 ( 2002-03-18 00:37 )

2002-03-10 シリーズ 怖い本 その一 『キラーウイルス感染症 逆襲する病原体とどう共存するか』 山内一也 / 双葉社 ふたばらいふ新書


【ローラが亡くなった八日後,シャーロットが発病した。発病後一一日目にシャーロットは死亡した】

 前回も取り上げた『お父さんは時代小説(チャンバラ)が大好き』は吉野朔実によるなかなか鋭い書評コミックなのだが,リチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』を紹介した一節には,
  エボラとエイズ,どっちが怖い?
という実にやっかいな命題が提示されている。
 かたや致死率90%,宿主も感染経路も治療法も見つかっておらず,20日で内臓どろどろのエボラ。かたや,かかってるのかかかってないのかいつ死ぬのかわからないエイズ……。

 『キラーウイルス感染症』には,そのエボラ出血熱をはじめ,マールブルグ病,ラッサ熱,牛海綿状脳症(狂牛病),ウエストナイル熱など,最近になって新しく出現(エマージング),または再出現(リ・エマージング)したさまざまな感染症が紹介されている。
 それら感染症の病原体の多くはウイルスで,また,そのウイルスのほとんどは「本来の宿主である動物と平和共存しているが,人に感染したとたん激しい内臓出血,全身痙攣,脳の破壊,肺の損傷などの惨状をもたらし患者を殺す」。しかもその大半には薬が効かない。というより,現状では,その本来の宿主が明らかでないために感染経路が不明で,かつまた,アフリカなど一部の貧しい地域で散発的に発生する病気のためにワクチンを製造,販売するのは,製薬会社にとってメリットのある話ではないのだ。

 ただ,「キラーウイルス」なるタイトル,「悪魔の感染症」なる惹句ほどには本書は煽情的ではない。むしろその逆で,長年ウイルス感染症による発病メカニズム,動物バイオテクノロジーに取り組んできた著者をはじめとする研究者たちの地道な活動の記録といえるだろう。もっとも,致死率が80%,90%などというすさまじい感染症に対する戦いは「地道」という色合いとは少々異なり,たとえば本書には,マールブルグウイルスをモルモットに接種しようとした研究者が注射器の扱いのミスから感染して死亡,その研究者を解剖した研究者もまた死亡,という話が紹介されていたりする。
 また,これらの病気が出現または再出現してきた背景には,密林の無闇な開拓や,航空の発達による野生動物の輸送など,人間の手によるウイルスのグローバリゼーションがあるという著者の指摘が重い。

 それにしても,エボラ出血熱や狂牛病の話は,なぜこれほどに恐ろしいのだろう。実際のところは,癌や交通事故で死ぬ確立のほうがずっと高いし,苦痛や死ぬまでの時間の短さだけで片付けられる話でもない。
 思うに,この恐ろしさは,これらの病気がまだ局所的で,非常に限られた者だけが発病すること,いうなれば通り魔的に見えることに起因するような気がしないでもない。あなたがこの週末に歩いたデパートのペットショップの輸入動物から飛散したフィロウイルス,あるいはその帰りに立ち寄ったレストランで口にした普段と同じスープから体内に入ったBSEプリオンが原因で全身から血を噴いて死ぬなんて,脳がスポンジ状になって死ぬなんて,そんなことは起こらないはずだけど,そんなことが自分にだけ起こったらなんて不条理な……そんな感じだろうか。

 もっとも,本当に不条理なのはエボラウイルスやBSEプリオンではない。
 肉骨粉を用いた飼料から狂牛病が発生する可能性に目をつむり続けた役人根性や,アフガンやイラクへの空爆という利益のからんだ戦争には星条旗を振り続けるのに,炭疽菌の白い粉事件にはいつの間にか言及しなくなった正義の国など,人の世のならいのほうがよほど不気味ではないか。
 そして,そんな不条理な人の心が歯止めを失った今,天然痘など伝播力をもつウイルスを用いたバイオテロリズムが発生する可能性は高い。そのとき,世界は「他者への不信」という血を噴き出しながら内臓からどろどろに腐っていくのだ。

先頭 表紙


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