himajin top
烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-12-24 本の中の迷画たち 『殉教カテリナ車輪』 飛鳥部 勝則 / 創元推理文庫
2001-12-19 [非書評] 文庫とはいえ表紙は顔,顔は命
2001-12-17 粘土造りの少女マンガ 『あなたがほしい je te veux』 安達千夏 / 集英社文庫
2001-12-16 ぐりぐりと《精神世界》に抜いたり差したり 『コンセント』 田口ランディ / 幻冬舎文庫
2001-12-10 『今昔続百鬼 雲』 京極夏彦 / 講談社ノベルス
2001-12-05 『仮面の忍者 赤影』(全2巻) 横山光輝 / 秋田文庫
2001-11-27 [非書評] ハリー・ポッター
2001-11-25 キレてみせるばかりが芸でもあるまいに 『西原理恵子の人生一年生』 小学館
2001-11-19 お願い生ませて 『妊娠小説』 斎藤美奈子 / ちくま文庫
2001-11-18 『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』 朝日新聞社会部編 / 朝日文庫


2001-12-24 本の中の迷画たち 『殉教カテリナ車輪』 飛鳥部 勝則 / 創元推理文庫


【店長はああ見えて画家志望だったんですよ】 ← 作者の「画家」に対する思い入れがよくわかる

 表紙に名画を用いた文庫本をもう1つ取り上げてみよう。
 『殉教カテリナ車輪』は第九回鮎川哲也賞受賞作である。

 表紙に用いられているのはカラヴァッジオの「アレクサンドリアの聖カテリナ」,おまけに『殉教カテリナ車輪』なるなんとも意味深なタイトル。作者・飛鳥部勝則は自ら油絵を描き,それをミステリ作品に綴じ込んで,イコノグラフィカル(絵に描かれた図像の主題と意味を求める)に事件の真相を追うという趣向をこらすことで知られている。
 見事である。ヒャクテンマンテンである。ここまでは。

 しかし,表紙をめくって,カラー口絵の著者の作品を見たとたんに,食欲ならぬ読書欲が即座に減退する。ヘタなのだ。いや,油絵の技術的な側面は知らないから,ひょっとすると素人としては大変に巧いのかもしれないが,そういった技巧云々以前に,本作に綴じ入れられた「S嬢」「殉教」「車輪」「バラ」の4点は,「こんな深くて重いテーマを描き込んでいるのが,わかりますか! 見えますか!」という描き手の声が油っこくキャンバスに乗って,それはもうタマラナイのだ。自意識過剰な中高生のスペルマ臭い小説を読まされるような,そんな絵なのである。
 繰り返すが,油絵の技巧的にどうこういうことはわからない。この程度でも,地方では絵描きとして「名士」になれるのかもしれない。公民館を借りて個展を開けば,親戚だの友人だのが来てくれて,キャンバス代に絵の具代とご祝儀を上乗せした程度の金でお買い上げいただけるのかもしれない。だが,それはそれだけのものだろう。
 しかも,どう見てもさほど美人とは思えない知人か誰かに無理やり頼んで描かせてもらった「S嬢」について,登場人物に
 「美しい奥さんで」
 「何をいう。並だよ」
とやり取りさせる場面など,笑ってよいのか,困ってみせたほうがよいのか。
 「殉教」や「車輪」は,絵画作品としては大作で,昨日今日描き始めた日曜画家に描けるものではないことはわかる。だからといって,日曜画家の域を越えるものではない。それとも,こんなものでよいのか? どこかのタレントといっしょに,ナントカ展とか,通っちゃうわけなのか? 

 小説のほうは,鮎川哲也賞受賞作ならではの「日常の謎」系ではなく,それなりに骨太なパズラーを狙った密室物である。地方の無名画家(綴じ入れた絵はその画家の手によるもの,ということになっている)の作品の意味を追ううちに,過去のある二重密室殺人事件の謎が徐々に明らかになってくる,というもので,前半は悪くない。後半は……このトリック,この推理で原稿料受け取って,よいのか? 払うのか?

 作者には『バベル消滅』という作品があり,こちらは角川から文庫化されている。
 こちらにも1枚の絵が綴じ入れられていて,その中央には黄土色の顔をした,セーラー服を着ていなければ根暗なおっさんにしか見えない「少女」が描きこまれている。いや,別に前衛芸術というわけではない。人物については写実のつもりのようで,どうやら,作者ははかなくもエキセントリックな美少女を描いたつもりらしいのだ。
 その作品を評した
 「絵の中の少女は泣いていた。透明な涙が頬を伝っている。何故泣くのか。何が悲しいというのか」
この描写を読んで,もう一度作者自身の手による絵画作品をめくり返す。

 やっぱり,笑ってしまう。
 この落差を味わうためだけに手にしてみても悪くない。
 ただし,1冊で,十分。

先頭 表紙

めりーくりすます,フィー子さま。イヴくらい,もう少しオシャレで夢のある本を取り上げればよいものを,気のきかないカラス,毎度のごとくでございます。とほ。 / 烏丸 ( 2001-12-24 18:59 )
なるほど、その落差を味わうためですか(笑)。それにしても烏丸さんのタマラナイたとえが凄いですね。もうこの文章読んでるだけで胸がいっぱいでご馳走様でしたーという感じです。 / フィー子 ( 2001-12-24 16:22 )

2001-12-19 [非書評] 文庫とはいえ表紙は顔,顔は命


 そんなにこき下ろすのならいったいどうして安達千夏『あなたがほしい je te veux』を取り上げたのか,いや,そもそもそんなに悪しざまに言うならなぜ「すばる文学賞」作品を手に取ったりしたのか,ということだが,これにはそれなりに理由がある。
 書店店頭にて,カラスはあきれたのである。嘆いたのである。

 添付画像ファイルをご覧いただきたい。それから,少し下に画面をスクロールしていただきたい。
 いかがだろう。

 『裸婦の中の裸婦』(文春文庫)は,澁澤龍彦と巖谷國士の共著(二人とも旧字だらけで,入力するだけで一苦労だ),古代ギリシアの両性具有像(小池真理子の文庫『恋』の表紙にも使われている,あのヘルマフロディトスだ)からバルチュス,クラナッハ,ブロンツィーノ,百武兼行,デルヴォーなど古今の名画,そしてヘルムート・ニュートン撮影のシャーロット・ランプリングのヌード写真,四谷シモンの人形にいたるまで,12点の裸婦像からさまざまなエロスのあり方を若い女性との会話体で綴ったビジュアル文庫。
 若いころの晦渋さ,攻撃性を削り取り,枯れた,だがつややかさを失わない澁澤の語り口,そして澁澤が病に倒れたあとはその友人でシュルレアリスムの書籍で知られる巖谷國士がその連載(最後の3編)を引き継いでまとめたという,実に風雅かつ手応え豊かな1冊なのである。

 この「くるくる」で1年ほど前「本の中の名画たち」という小シリーズを立ち上げたのは,実のところ,この『裸婦の中の裸婦』にたどり着きたいがためだった。
 それが果たせなかったのは,今,澁澤を語るには少しそぐわないものがあるためだ。澁澤の価値が減じたわけではないが,自分の側がシュルレアリスムだの黒魔術だのプリニウスだの思考の紋章学だの,そういったオブジェとは別の地平にいるようで,最近も『悪魔の中世』『城 夢想と現実のモニュメント』『幻想の画廊から』となぜか立て続けに文庫化が進むのを読み返すのが精一杯,といった感じなのである。

 澁澤についてはいずれまた取り上げるとして,『あなたがほしい je te veux』だ。
 著者・安達千夏を,カラスは気の毒に思う。文庫本というのは,新人作家にとって,やはり1つの夢であるのには違いない。彼女が今後何冊本を上梓できるかはしらないが,初めての文庫本の表紙がいくら本文中にポール・デルヴォーが登場するからといって,ほんの数年前に発行された他社の文庫とそっくり似た構図ってのはないだろう。装丁者と編集者は『裸婦の中の裸婦』を知らなかったのだろうが,だとすると怠慢だ。
 しかも,『裸婦の中の裸婦』が白地にデルヴォー,背表紙は赤に白抜きの文字,とすっきりした中にも1つのフォルムを見せるのに対し,同じようにデルヴォーを使いながらこの色遣いはあんまりじゃないかと思うのだが……。

先頭 表紙

フィー子さま,触った手応えやインクの匂いで選ぶ本,というのは,なんというのでしょう,最高の贅沢のような気がします。そういう本も十年もすれば埃をかぶってしまうわけですが,その中からまた思い入れが積み重なっていく本もあります。 / 烏丸 ( 2001-12-24 20:33 )
ほんとにそっくりですね。きっと編集者は知らなかったのではないですかね。表紙や触った感触で惹かれてしまう本ってあります。やっぱり大切ですよね、表紙って。 / フィー子 ( 2001-12-24 16:19 )
Hideyさま,どうもー。ここしばらく,「酷評」が続いて,作者の方々には心苦しく思っています。別に,ひどい本にばかり当たっているわけではないのですが,いい本,いい作家はすでに何度か取り上げていて,何か新しい切り口でもないと取り上げられませんので,どうしても,罵倒三昧になってしまうんですね。困った。 / 烏丸 ( 2001-12-24 13:11 )
Fruit of Sand☆さま,いらっしゃいませ。ちなみに,この本は「ジャケット買い」したわけではありません。澁澤や巖谷や種村など,著者買いのほうでございます。 / 烏丸 ( 2001-12-24 13:11 )
つっこみをする機会がありませんでしたが、毎回とても楽しみに読ませていただいています。今も忙しいですが、日本での仕事も結構忙しかったため、「はずれ」の多い現代の作家の本はついぞ読まず、同じ作家の本ばかり読むようになってしまいました。烏丸さんの書評は大変参考になります。今後も活用させていただいて、よい本を読む機会を作りたいと思います。 / Hidey ( 2001-12-22 22:52 )
なんと美しい装丁でしょう。このページ。わたくしもいわゆる「ジャケット買い」はよく致します。 / Fruit of Sand☆ ( 2001-12-22 10:29 )
ところで,レオノール・フィニ(Leonor Fini)ってどうしちゃったのだろう。いや,どうしちゃったって言い方はおかしいが,なぜこんなにメディアから消えてしまったのだろう。Webで検索しても,なかなかよい画像ファイルが得られないし。 / 烏丸 ( 2001-12-20 01:15 )
ところで,このポール・デルヴォーという画家だが,1897年生まれ,1994年没。つまり,キリコやマグリッドと同じ時代にシュルレアリストとして活躍しながら,100歳近くまで生きたわけで……彼の作品が著作権フリーになるのは,まだこの後40数年も未来なのである。いやはや。 / 烏丸 ( 2001-12-20 01:14 )

2001-12-17 粘土造りの少女マンガ 『あなたがほしい je te veux』 安達千夏 / 集英社文庫


【端的に言えば,彼女をこの腕に抱きたいということだった】

 『妊娠小説』『紅一点論』の斎藤美奈子の書評集『読者は踊る』(文春文庫)には「休刊した文芸誌『海燕』(ベネッセコーポレーション)は購読者と新人賞の応募者がほぼ同数だったらしい」という一節がある。
 要するにマンガ家やミュージシャンになる才能がないオチコボレに対して,文章,それも技や知識の蓄積がいる本格エンタテインメント,取材が不可欠なノンフィクション,多少は勉強が必要なシナリオなどでなくて,身辺雑記的なエッセイや純文学が救済機関として機能している,というのである。
 いやはや,なんというわかりやすさ。

 では,その「海燕」休刊後,オチコボレ諸氏にはどの新人賞がオススメかという問題だが,難易度を別にすれば,集英社の「すばる」などいかがだろうか。
 その手の新人賞の多くと同様,痩せぎすで生理の遅れがちな20代の女性をモチーフに,頭でっかちなセックス描写をちりばめ,エキセントリックな言動の1つ2つさせてみせる,このあたりが基本だとは思うのだが,「すばる」の場合,ときどきSF的な踏み外しをも容認することや,さすが天下の集英社がバックにつくだけあってたまに映画化されるあたりも魅力だ(本気にしないように。カラスは「すばる文学賞」と「小説すばる新人賞」が別のモノだということを知らなかったくらいその方面にはうといのだ……えっ? そもそも「すばる」と「小説すばる」って別の雑誌なの?)。

 さて,第22回すばる文学賞受賞作,安達千夏『あなたがほしい je te veux』は,まったく基本に忠実な新人賞向け作品である。
 背表紙の惹句から引用すると「年下の友人・留美に対する同性愛の欲望を意識しながらも,中年の建築家・小田との官能と友愛に充ちた関係に癒しと安らぎをおぼえるヒロイン・カナ」。高校野球地区大会準々決勝敗退チームのピッチャーのオーバースローを見るような心持ちとでもいおうか。

 近い世代の女性ということもあるためか,先に取り上げた『コンセント』と類似した面も多々目につく。
 主人公の女性からみて恋愛対象とはいえない相手とのセックスが再三描かれること。
 それも含めて全体に「悪い子でしょあたしって」な気配が漂うこと。
 職業的なリアルな話(本作の主人公はモデルハウスに勤める不動産の営業)が小説としての読み応えを支えること。
 主人公が職場では有能とまではいかないまでも少なくとも無能ではないように描かれていること。
 主人公が周囲からユキ,カナと,なぜかカタカナ2文字で呼ばれること。
 主人公の昔の学友(既婚)の女性が登場し,軽んじられつつもそれなりにストーリーを動かすこと。
 主人公の特異性は結局のところ育った家庭,その家族のあり方にかなりの部分が求められること。

 これらの共通項がこの2作にだけのものなのか,当節の女流作家の作品に共通するものなのかはわからない。もちろん,『コンセント』と異なる点も少なくない。
 たとえば『あなたがほしい』では,『コンセント』に多用された擬音語,擬態語が極端に少ない。きちんと調べたわけではないが(実際,「ふかふかのカーペット」とか「ニヤリと笑った」とか,あるにはあるのだが)175ページまで読み進んだところで,
   庄内浜で水揚げされた寒鱈が,くつくつと煮え立つ。
という表現の「らしくなさ」にびっくりしたくらい,非常に少ない。
 たとえばセックス行為も
   (乳首の)隣で唇がさまよう。中心で疼いているものにだけは触れず,意地悪くその周りに舌で円を描く。背筋にむず痒さが溜まっていく。
といった具合にあくまで「言葉」重視で表現が積み重ねられていく。もっとも,いくらセックス描写の比率が高かろうが,
   局所的で明快な快感が立ち上がる。表面に近い筋肉が,絞られるように緊張していく。充血し肥厚した感覚に,細い異物がめり込んでくる。
ではポルノグラフィーとしては落第だ。

 もう1つ,家族や周囲から翻弄され,一方で自らの内なるものに翻弄されつつも,最後には翻弄する側に回ろうと宣言する『コンセント』に比べ,本作の主人公は最後まで相手の構えや反応によりかかるばかりだ。主人公が愛慕する留美という女性の描かれ方も中途半端で,いっそ一切描写がないほうが想像力をかきたてられてよかったかもしれない,などとも思う。
 結局,出来の悪い少女マンガを読んだような気分しか残らなかったが,作者はともかく,「すばる」はこれを選ぶことで何をしようとしたのだろうか。

先頭 表紙

2001-12-16 ぐりぐりと《精神世界》に抜いたり差したり 『コンセント』 田口ランディ / 幻冬舎文庫


【もうすでに腐りかけています。人間の形をしていませんよ】

 ベストセラーを読むのは難しい。たいていつまらないからだ。旬の勢いと話題性を剥ぎ取ったら読むに値しないものが大半ではないか。夕刊紙でもめくったほうがよほど血行によい。さりとて,放っておくとたまに本当に自分にフィットする本との出会いを逃してしまうことにもなりかねない。このへんが悩ましい。絶版の足の早い最近では,本との出会いは文字通り一期一会なのである。

 『コンセント』は昨年のベストセラーの1つであり,文庫化されたらぜひ読んでみようと思っていた作品である。漏れ聞こえてくる作者の言動からは,およそ興趣も魅力も感じない,しかし,「二カ月ほど前から行方不明になっていた兄が真夏の暑い日に衰弱死し,アパートのPタイルの上で腐り果てて発見された」という展開はひょっとしたらクリティカルヒットという期待を抱かせないわけでもない……。

 と,一気に読んでみた印象だが,これがある種の読者を駆り立てる理由はなんとなくわかるが,あいにくそれに没頭できる年齢は過ぎてしまった,といったところか。たとえば大学生になったら高野悦子『二十歳の原点』はもうとても読み返せなかった,そんな具合。

 物語に通底する《精神世界》については,なんといえばよいのだろう,「しかたないなぁ」とでも言うか。《 》でくくったのは雑誌「ムー」の延長にしか見えなかったためであり,その方面にはとくに関心がない。よろしくない,というのではない。こういった世界観やオカルトはまやかしのように見えるが,愛だの正義だの市場だのだってまやかしといえばまやかしだ。オカルトに立脚したホラーやミステリが許せて,純文学や青春小説が許せない理屈はない。
 ただ,最近はこういう,一日中自分のことばかり考えている主人公に付き合うのが面倒なのだ。要するに,「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという,その事実が神秘なのだ」というのはウィトゲンシュタインの言葉だが,なんというか,「いかに」のところで「わあわあ,あたしって,あたしって」と騒いでいるような感じがしないでもない,そんな煩わしさとでもいうか。

 などと書くと,ひどく見下した印象を与えかねないとは思うが,本としては予想よりもずっと楽しめた。なによりミステリっぽい展開の読めなさがあるし,言葉を結晶化し,着床させるのが詩だとするなら,こういった,自分に棒を(あるいは自分自身が棒として)突っ込み,かき混ぜるような方法論も主題によってはナイスだよな,という面だってある。

 ただ,どうしても点数が辛めになってしまうのは,死臭,ビジネスライクな葬儀屋,死体が放置された部屋を清掃する専門の消毒清掃会社,そしてコンセントなどなどといった小道具の巧さに比べ,言葉遣いのレベルがあまりに凡庸に過ぎるためだ。
 一番気になるのが,擬音語,擬態語の多用である。無造作に拾ってみよう,最初のページだけでも
   喉の粘膜がひりひりして
   ウィーンというかすかなモーター音とともに,パソコンが
   カチャカチャとせわしなくハードディスクが
といった具合。
   駅に向かって歩き出すと下半身がすうすうする
   ざあざあいう水音がだんだん頭の中いっぱいに
   床がぐにゃりとやわらかくなって
   こめかみがズキズキと痛んだ
   熱い精液が膣からどくどくと溢れ出してくる
など,多用することの是非はともかく,一つ一つにあまりに芸がない。喉はひりひり,水はざあざあ,精液はどくどく。類型的というかステロタイプというか,小学生の作文じゃないんだから。
 男に肛門をいじられながらペニスにまたがる場面での
   かき回されるぐりぐりが好きなのだ
にいたっては笑うしかなかった。別の場面では
   ぐりぐりと腰を回しただけで男は慌ててペニスを引き抜いて射精していた
などというのもある。

 問題は,本作の世界における嫌悪も混乱も癒しも,その程度のステロタイプな次元のことかもしれないことなのだが。

先頭 表紙

逆に,パオラさまがこの本から読み取った「いままで誰も言語化しなかったこと」はいったい何だったのでしょう。カラスには「ときどき誰かによって言語化されてきたこと」のバリエーションとしてしか読み取れなかったんですよ……(もっとも,じゃあ,誰が言語化したの? とか聞かれると,困ってしまいますが。ユングでもないでしょうし。ブルトンの「通底器」のほうが近いのかなぁ)。 / 烏丸 ( 2002-01-10 02:37 )
パオラさま,いらっしゃいませ。本というものは,それぞれの者が主観的に読めばよいものですから,評価や好き嫌いは人によって異なって当然と思います。この本のように売れた,つまりたくさんの人が反応した本が,(商業的に成功した,しないとは別に)多くの人に何かを伝えたのは,間違いない事実ですし。単にカラスが今ほしいものとは違ってた,だからほしいときなら気にならない程度のことがアラに見えた,といったところでしょうか。 / 烏丸 ( 2002-01-10 02:35 )
はじめまして。私もつい最近読んだのですが、鳥丸さんが気にしてらっしゃる点は私はほとんど気になりませんでした。むしろ、いままで誰も言語化しなかったことを可能にしてくれて、そのことをとてもありがたく思いました。私はとても主観的な読み方しかできないので、こんな感想になってしまうのですか。ランディさんの「癒し」の答え(従来の手ぬるいものではなく)が見つかることを強く願います。 / パオラ(ヒラノ改め) ( 2002-01-08 03:05 )
ふのりさま,読み物としてはたいへんわくわくしながら読めたので,本私評は少し厳しすぎるように自分でも思います。少なくとも,ここしばらく,これだけ先の展開を読めず,展開にびっくりしつつ読めた本はそうそうありませんでしたし。文体的には「どこまでわざとなのだろう?」とも思います。 / 烏丸 ( 2001-12-19 00:47 )
こんにちは。ハハハ、相変わらず手厳しくていらっしゃる。私も読んでみましたが、霊や幻覚といった純粋に主観的な経験については、ここまではっきりと説明されない方が面白いような気がしました。もう少し読者に委ねられる部分があってもよいかなと。とはいえ、謎解きとしてはこれくらい明らかにされないとストレスを感じる読者も多いでしょうから、好みの問題かもしれませんが。 / ふのり ( 2001-12-18 00:00 )

2001-12-10 『今昔続百鬼 雲』 京極夏彦 / 講談社ノベルス


【思い出すだに馬鹿である】

 京極夏彦の最新刊は各編に「多々良先生行状記」とサブタイトルの付いた短編集で,時代設定は終戦直後,4つの短編はそれぞれが
  岸涯小僧
  泥田坊
  手の目
  古庫裏婆
という江戸時代の絵師・鳥山石燕の『画図百鬼夜行』や『今昔百鬼拾遺』に登場する比較的知られていない妖怪とかかわる事件を描いたものである。

 というと,京極夏彦の代表作である『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『鉄鼠の檻』などのいわゆる京極堂シリーズと似た設定で期待が高まるが,しかし本作の主人公は「小柄で肥えた」「鳥の巣の如く寝癖のついた髪に小振りの丸眼鏡」「寸詰まりの菊池寛のような」妖怪研究家・多々良勝五郎と,そのお供で語り手でもある印刷工・沼上連次の2人。
 彼らは金もないのに伝説蒐集の旅に出,寺だの神社だの旧跡だの古老の家だのを訪ねて廻り,身があるとも思えない研究に勤しむ。もともと計画性のないところに,多々良センセイの身勝手が十重二十重に重なって,行く先々で事件が……というのが各編の基調である。

 しかしこれが,実に面白くない。馬鹿コンビのギャグは笑えないし,事件は埃っぽいし,妖怪談義は深みに欠ける。
 なぜだろう。作者にユーモアのセンスがないわけではないし,この作者が妖怪を語ってつまらないはずもない。実際,京極堂シリーズにおける探偵・榎木津礼次郎の言動は各編とも爆笑モノだし,京極堂こと中禅寺秋彦の妖怪についての薀蓄,快刀乱麻の憑物落しは爽快極まりない。

 実は,本作がつまらない理由はかなり明確だ。
 まず,ユーモアのベクトルがマズい。今どき,愚か者を愚かに描いても笑いなど取れない。榎木津は美丈夫の貴族の御曹子であり,古今の名探偵以上の超絶的スーパー名探偵であった。
 次に,妖怪と事件の絡み方がマズい。ネタバレになるので詳細は触れないが,いずれの事件も,実はその章で詳解される妖怪とはあまり関係がない。これは,京極作品の『塗仏の宴』上下巻あたりですでに顕著になっていたのだが,雰囲気溢れる妖怪談義と関係者たちを巻き込んでいく事件とが,実はとくに関係ないのである。早い話が「説明的」なのだ。説明がなければ,その妖怪が登場する意味がないのである。
 そして,最後に,京極堂シリーズとの大きな違いとして,多々良センセイと沼上は,単にその事件の場に迷い込むだけなのだ。京極堂シリーズでは,事件そのものよりも,登場人物の誰かがいかに,なぜその事件に絡んでいくかにページが割かれるのとはずいぶんな違いだ。もちろん多々良センセイも,事件の現場に立ち合い,解決に力を及ぼしたり,誰かに解決してもらったりはするわけだが,そもそもその場を訪れることそのものがたいてい山道に迷ってのことなのだから,時間的にも空間的にもまったくたまたまに過ぎない。

 「偶然」がハバを利かすミステリくらいつまらないものはない(本作はユーモア妖怪小説(?)のつもりであって,ミステリではないのかもしれないが)。
 そして,この程度の作品でもWebを見るとそれなりに「面白かった」と評される京極夏彦。
 大丈夫だろうか。

先頭 表紙

……かもしれませんし,そうはならないかもしれません。というのは,どうも,ファンというものは,それが「よいもの」だからつく,ついてくる,とは限らないようだからです。 / 烏丸 ( 2001-12-16 21:28 )
これでもし「オンモラキ」がトホホだったら大量の京極ファンが離れるかもしれませんね。 / カエル ( 2001-12-16 17:26 )
あややさま,「ちょっとした偶然が2人の運命を音を立てて変えていく」ドラマならいいのですが,決着のほうに偶然をもってこられたらリモコンを投げつけます,はい。 / 烏丸 ( 2001-12-16 01:13 )
「偶然」がハバをきかすドラマも然り・・。 / あやや ( 2001-12-14 19:57 )

2001-12-05 『仮面の忍者 赤影』(全2巻) 横山光輝 / 秋田文庫


【フフフだいたんふてきなやつだな】

 先日のヒラノさまからの「作家とは不幸であり続けなければ成り立たない商売のように思えてきます」というつっこみに,「そうでない作家」というものを考えたとき,たとえばさっと思いつくのがたとえばこの横山光輝です。

 『鉄人28号』『ジャイアントロボ』『魔法使いサリー』『バビル2世』『マーズ』『あばれ天童』『三国志』『水滸伝』……
 その活躍は多岐にわたり,常に雑誌やテレビアニメの原作としてコンスタントに作品を発表してきた彼は,不思議なほど表舞台に出てきません。実際は本のカバーに写真や略歴が掲載され,別に素顔を隠しているわけではなさそうなのですが,手塚治虫,石ノ森章太郎,赤塚不二夫,藤子不二雄らに比べると作家本人のエピソードというものがほとんど聞こえてこないのです。また,その作風もよく言えば「安定」,悪く言えば「進歩がない」。しかし,進歩せずに数十年にわたって人気を維持できるのなら,それは進歩の必要がない,ということでもあります。

 実は,もう20年以上昔のことですが,横山光輝のアシスタントを長年担当されていた方と毎夜のように親しく酒を酌み交わした時期があり,非常に珍しいはずの,連載表紙用のカラー原画,横山光輝のサイン付き,を何点か格安で譲り受けたことがあります。
 その方が,実際にアシスタントとして背景を描いた作品の1つが『仮面の忍者 赤影』,テレビの実写ドラマでもかつて大きな人気を誇った作品です。

 最近文庫で復刊された『赤影』については,8月公開の映画『RED SHADOW 赤影』の様子を見てから,とか思っているうちに,映画の話題はきれいさっぱりどこかに消えてしまい,うっかりそのままになっていました。映画のほうは監督・中野裕之,出演が安藤政信,奥菜恵,麻生久美子。シドニー五輪新体操の個人総合銅メダリスト,ロシアのアリーナ・カバエワが舞の海秀平扮する忍者と闘うなど,前評判はそれなりににぎやかだったのですが……。
 原作の「豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃,秀吉の軍師・竹中半兵衛配下の飛騨忍軍」という設定を正体不明の「影一族」にしてしまう,赤影がトレードマークの仮面をしていない,など,『RED SHADOW 赤影』はおよそ『赤影』とは思えません。ということで,とりあえずおきましょう。

 さて,マンガのほうの『赤影』ですが,文庫で2巻と,意外なほどの短さです。そして,今読んでみると,これがなんというか,あまり面白くない。目立ってはいけないはずの忍者が赤い仮面をつけていたり,敵が巨大なガマをコントロールしたり,相棒の青影がいびきの大きな子供だったり,と,どうも設定の破天荒さばかりが目につきます(もちろん,巨大ガマといえば読本・草双紙の自来也からの転用でしょうから,忍者モノとしては正当派の妖術ともいえなくはないのですが)。

 どうも,同じ秋田文庫からすでに11巻発売されている(少年サンデー誌上では『赤影』の前に連載されていた)『伊賀の影丸』と比較してしまうことが原因のような気もしないではありません。

 『伊賀の影丸』も,忍術対決の破天荒さでは『赤影』となんら変わらないのですが,背景の設定が少々異なります。
 『赤影』が先ほども書いたように戦国時代の木下藤吉郎や竹中半兵衛の配下で,いわば時代的にも攻撃的というかイケイケだったのに対し,『影丸』は徳川家康が大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし,徳川時代を築いてから39年めの承応三年(1654年)春に物語が始まります。つまり,表向きは天下泰平の世が実現し,徳川の支配が確定していく中で,幕府転覆をたくらむ一派と,それをはばもうとする五代目服部半蔵配下の伊賀忍群の諜報戦&暗闘……これが『伊賀の影丸』各話の基本設定なのです。
 つまり,影丸とその仲間たちは,安定政権の維持を受け持つ警邏として,専守防衛,忍びに忍び,耐えに耐え,人知れず,恨みを買いつつ,というマゾヒスティックなマイナーコードが主旋律となります。影丸の必殺技が木の葉を利用してのしびれ薬散布というあたりも,なんともいえない渋味です。そして,伊賀軍団と戦う敵の忍者たちの側にも,徳川に恨みを抱く切実な経緯や倒幕の理念があり,もちろん物語は毎回影丸たちの勝利で幕を閉ざすのですが,その勝利の味は苦く,常に割り切れないものが残ります(由比正雪など,そこらのマンガの主人公よりよほど正義の主人公の資格有りでした)。

 このような人気連載『伊賀の影丸』のあとを受けた(おそらく編集部の意向でしょうが)『仮面の忍者 赤影』は,シンプルな構造の忍者プロレスタッグ戦と化し,その分テレビドラマ向けの素材として,赤い仮面,風にあおられる大凧,巨大怪獣などを配した人気番組となったのでしょう。
 しかしそれは同時に,白土三平,横山光輝と続いた忍者マンガの一種「忍ぶ美学」を霧散させることにつながり,私たちはついには1つの人気ジャンルを失ってしまったのでした。

先頭 表紙

(それにしても……『怪獣マリンコング』や『怪獣王子』,アニメでは『遊星仮面』の最終回が気になる……いやただの独り言ですが) / 烏丸 ( 2001-12-06 01:55 )
実写版の『仮面の忍者 赤影』と同じ1967年には『キャプテンウルトラ』『怪獣王子』『ジャイアントロボ』が放映されていました。ウルトラシリーズとはちょっと異質な,なんともいえぬ特撮のチープさがたまりません。 / 烏丸 ( 2001-12-06 01:49 )
とはいうものの、「忍びの者」的リアリティは本当の忍術者ではない、というのが初見良昭さんあたりの意見のようですな。 / あめんほてっぷ ( 2001-12-06 01:11 )
テレビ版・青影くんの「がってんがってん、しょ〜うち」のマネを良くやってました(笑) / たけ坊 ( 2001-12-05 19:15 )
横山光輝は、私の世代にとって、実に偉大な思い出を残してくれています。 / 綾丸 ( 2001-12-05 12:54 )
忍者と聞いて思い浮かぶのは「忍びの者」!です。リアリティを追求した作品の方がスキかな。安藤君の「赤影」はビデオで見ることにします。。 / ぽん ( 2001-12-05 10:38 )
実写版、小さい頃よく見た覚えがあります。赤影のマスク越しにもわかるいい男振りを楽しみにチャンネルを合わせて(ああ、この表現!)いました。幻妖斎?だったでしょうか?敵役の「天津敏」の顔が怖かった。。昔の悪役はインパクトありましたねえ。 / akemi ( 2001-12-05 07:41 )

2001-11-27 [非書評] ハリー・ポッター

 
 ご多分に漏れず,烏丸家でもハリー・ポッター人気の嵐が吹き荒れている。やれハグリッドが,ホグワーツが,ハーマイオニーが,《例のあの人》が,ダンブルドアが,と,未読のカラスには人名やら地名やらもわからぬ言葉が食卓を跳ね回るのだ。

例:海辺を飛び回るカモメを指差して「ヘドウィグだ!」,などなど(違う。ヘドウィグはフクロウなんだろ?)。

 カラスも負けずに読めばいいのだが,いかんせん順番が回ってこない。つまり,家人はすでに3巻を読み終え,長男も3巻に取り掛かっているのだが,次男が1巻で立ち往生しているのだ。まだ内容が難しいとみえて,毎日数ページしか進まないのを,最近は家人が就眠前に読み聞かせているらしい。第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』がカラスまで回ってくるのははたしていつのことか。

 それでも,街中にあふれるポスターには,なんとなく心がときめいてしまう。

 たとえば,公式サイトに記された,「主人公ハリーを演じるのは、11歳のダニエル・ラドクリフ。いたずらっぽく輝く目。その奥に時折のぞく、かすかな暗さ。」という形容,そして彼の写真。予告編に見られるデリケートな目線。

 この少年の雰囲気は,僕たちの世代が憧れ,そして永遠に喪った,あのジョン・レノンの若いころの苦い微笑みにどこか似ているように思えてならない。

 もう一人のビートル,ジョージ・ハリスンは,脳腫瘍で余命一週間との報道。
 All things must pass...

先頭 表紙

とりあえず,今日のBGMはジョージ・ハリスンのベストをオートリピート。too much / 烏丸 ( 2001-12-01 03:19 )
なるほど,すると国際的なハリー・ポッターファンが,コスモポッタリアン。とかいううちに,いよいよ本日封切りですね。 / 烏丸 ( 2001-12-01 01:15 )
ハリーポッターファンのことを「ポッタリアン」っていうそうです。これじゃまるで「ボッタクリ」みたいでなんかいや・・・ / Fruit of Sand☆お初です ( 2001-11-29 12:42 )

2001-11-25 キレてみせるばかりが芸でもあるまいに 『西原理恵子の人生一年生』 小学館


【白夜は帰っていいから 竹は帰っていいから】

 一人の作家が面白くなって,やがてつまらなくなる,その過程における違いとはいったい何だろう,なんてことをつらつら考える。

 たとえば,もう二十年以上昔のことだが,ある夏に倉橋由美子の小説のそれまで全部,そしてその次の夏には筒井康隆のそれまで全部を読んで,それこそもう首まで彼らの作品に浸った記憶があるのだが,のちにその2人の新作にまるで興味が湧かなくなってしまったのは明らかに読み手たるこちらの問題だ。
 当時の読み方が正しかったか正しくなかったかは別として,彼らの「壊し方」に没頭できたのは二十歳そこそこの学生だったからであり,自分なりの「壊し方」を手に入れてしまえばもはや他人の作品にシンクロする必要はないのである(これは「壊し方」を「築き方」と言い換えても,結果は似たようなものだ)。

 この数年でいえば,京極夏彦がつまらない。西原理恵子がつまらない。

 前者については京極堂や榎木津,関口らの活躍する新作がなく,いわば余技のような作品が続いているせい,とみなすことができなくもない。しかし,後者は深刻だ。
 サイバラ当人は変わらず破滅的で破壊的。結婚こそしたが,やっていることにそう変わりはないように見える。
 では,こちらがサイバラを必要としなくなったのだろうか。そうとも思えない。『ぼくんち』の冷たく尖った叙情は今思い起こしても体が震えるようだし,『恨ミシュラン』は疲れたときの何よりの読み薬であることに変わりない。

 考えてみれば,彼女がサイバラ級という階級のリングで長年トップを走っていることは事実であり,同じように見えても,そのうちに高校中退の売れない,ヘタな,弱者から,といった視点が喪われてきた,ということはあるかもしれない。なんだかんだ言って夫や友人たちとうまくやっているように見え,先生と呼ばれることになじんでしまった,ということもある。初期の怪作『まあじゃんほうろうき』のラストで,はねをむしられても「みんなとあそんでもらえてとてもうれしかったからです」と述懐するマイノリティ性は最近のサイバラからはうかがえない。
 だが,それを認めてしまうのはどうか。サイバラを読む楽しみは,サイバラを見下す楽しみであったということになりはしないか。

 とかなんとか,理屈をこねくろうが,こねくらまいが,『西原理恵子の人生一年生』はつまらない1冊だった。
 オリジナル作品に加えて「人生すごろく」「黒心危機一髪ゲーム」「西原大明神御告宣告おみくじ」をはじめとする7大ふろく,『ナニワ金融道』の青木雄二との対談,サイバラ担当編集者による覆面匿名座談会など,雑誌の体裁はとっているものの,どこを切っても得した気分にはいたらない。鴨やゲッツを起用したグラビア,プチセブン協力サイバラファッションなどはずしもいいところだし,全体にざらざらした手触りが残るばかりで,つくづく壊し壊れ続けてみせることの難しさを感じる。

 ちなみに,唯一ウケたのが,各界の売れっ子に「こうすればサイバラ大ブレイク!!」と題して取材した中の,池田理代子(売れっ子か?)の言葉。

 「ペンタッチをもう少しおキレイにされると良いかとも思います」
 「非常に内容は素晴らしいので,そういう雑さのために食わず嫌いの方がいるのは残念ですからね」
 「もしかしたら,西原さんも(自分のように)コツコツした努力をされるといいかもしれませんね」

 さすがだ,池田理代子。その化粧でケンカ売るか。

先頭 表紙

そして,↓のほうでは「大手がそろって彼女を捨てないと」なんて書きながら,でも,最初から手にしてなかった欠乏感と,いったん手にしてからの喪失感ではまたまるで違うものだろうな,と思ったりもします。あと,悪いのは彼女に仕事を依頼する編集者の依頼の仕方,内容なのかもしれません。最近は,『鳥頭紀行』のように,サイバラ本人が主人公というパターンが大半で,そのほうが売れるのかもしれませんが,もう少し「創作」系を交えるべきではないかと考えるのですが。 / 烏丸 ( 2001-12-04 01:03 )
ヒラノさま,いらっしゃいませ。作家,芸術家の全部にこの「不足」論をあてはめる必要はないと思います。ぜんぜんそういう印象のない,でも優れた作家,芸術家だってあれこれいると思いますし。ただ,西原理恵子の場合,コンプレックスや欠乏感が非常に大きな「動機」や「素材」になっていたのではないでしょうか。だとすると,長年やってきた名声,結婚などが作家活動の足かせになる可能性は否定できません。 / 烏丸 ( 2001-12-04 00:59 )
はじめまして。そう考えると、作家とは不幸であり続けなければ成り立たない商売のように思えてきます。私は村上春樹で同じことを思いました。人間不足感がなければ芸術に昇華することができなしのでしょうか?人はそれがなければ芸術などやらないものなのでしょうか? / ヒラノ ( 2001-12-03 11:37 )
綾丸さま,「充電」という問題なのでしょうか? 違うような気が……。とりあえず,小学館,朝日新聞,講談社,角川書店などの大手がそろって彼女を捨てないと,どうしようもないな,という気はします。少なくとも,こんな本を出せる間は,ダメですね。 / 烏丸 ( 2001-11-27 02:07 )
池田理代子は,よいと思ったことがないのでなんともいえませんが,たとえば初期からの萩尾望都ファンとしては,(異論が多いでしょうが)『トーマの心臓』以降の線のすさみは堪えがたいものがありました。手塚治虫はそう好きではありませんが,生涯を通して線にためらいがないのは,本当に凄いことだと思います。 / 烏丸 ( 2001-11-27 02:03 )
サイバラ、たしかに恨ミシュランのころのパワーがなくなって、笑えないですね。個人的には好きなので、ちょっと充電して欲しいです。 / 綾丸 ( 2001-11-26 19:38 )
西原は最近,改めて攻めてみたいな,と思っておりました。が、それほど西原を読んだことがないにもかかわらず、烏丸さんのおっしゃることがわかるような気がします。ハァ。池田理代子よ、近年より昔の方がタッチが綺麗なのはなぜ? あの枯れたような線,味があるというより見苦しい。 / みなみ ( 2001-11-26 01:53 )

2001-11-19 お願い生ませて 『妊娠小説』 斎藤美奈子 / ちくま文庫


【文学はこんなふうに読むものだ】

 いくら死体好き,じゃなくて死体を扱った本が好きといっても,520人もの死を扱った本を2冊続けては寝覚めが悪い。このところアメリカ同時多発テロだのナチの人体実験だの,暗いテーマが続いていることもあるし,ここは一つ,「妊娠」というオメデタいテーマをメインに扱った本を取り上げてみよう。
 本書『妊娠小説』は,少し前に紹介した『紅一点論』の著者斎藤美奈子の出生,もとい出世作である。

 ……が。オメデタい本を,という烏丸の試みは,冒頭の1ページめからいきなり流産してしまう。
 本書でいう「妊娠」とは「望まれない妊娠」のことであり,「妊娠小説」とは小説の中でヒロインが「赤ちゃんができたらしいの」とこれ見よがしに宣告(受胎告知)するシーンと,そのためヒーローが青くなってあわてふためくシーンをもって涙と感動の物語空間を出現せしめるような小説のことなのである。
 そして,斎藤美奈子は,日本の近現代文学には「病気小説」や「貧乏小説」と並んで「妊娠小説」という伝統的なジャンルがあること,結核の治療や赤貧の駆除が進んで「病気小説」や「貧乏小説」が姿を消したのに対し,「妊娠小説」は今なお文学業界の現役として第一線で活躍中だと指摘する。そして,その「妊娠小説」の歴史的歩み,構造,類型学へと本文は展開するのだが,そこには排卵誘発的に複数の意味が読み取れる。

 第一に,まっとうな説得力があるということ。
 古くは森鴎外『舞姫』や島崎藤村『新生』,のちには石原慎太郎『太陽の季節』や三島由紀夫『美徳のよろめき』,川端康成『山の音』,そして最近の村上龍,林真理子,佐藤正午,辻仁成にいたるまで,取り上げられた小説群約50作にはなるほどはたと手を打ちたくなるような共通項が見受けられ,それぞれの分析もまた興味深い。実際,いまや死語と化しつつある「私小説」や「教養小説」などという言葉より,よほど「妊娠小説」のほうが小説のジャンル分けとして意味があるように思われてくるのである。

 だが,信じる者は騙される。洗剤や鍋や下着を買わされる前に少し冷静に考えてみよう。
 斎藤美奈子の目的は,決して,近現代文学の正当なジャンル分けの主張とそれにのっとった批評などではないはずである。いやむしろ,真の目的はミケンにシワ寄せた純文学とその批評の系譜をおちょくり,笑いのめすことにあると思われる。
 たとえば,その作品内で女性による妊娠の宣言,すなわち「受胎告知」がなされる部分を行数やページ数から割り出し,野球の9回の守備/攻撃に見立てて作品を論じた「ゲームの展開」の痛快さたるや! なにしろ「終盤一発ぶちかまし型」「中盤盛り上げ型」「序盤先制逃げきり型」,さらにはかつての猛虎打線を彷彿とさせる一篇の中に複数の妊娠を盛り込んだ「全編お祭り型」!!
 こういった分類に限らず,斎藤美奈子のペンは,「妊娠」という素材から透けて見える小説家の意図,作為,これまで語られなかった作品の真意にいたるまで,白日のもとにさらけだす。村上春樹『風の歌を聞け』がこう解釈できるとは。橋本治『桃尻娘』シリーズはやっぱりエラかった……などなど。

 結局,望まぬ妊娠をしてしまった女のように,古今の名作と呼ばれる作品群は斎藤美奈子の手腕によって「もてあそばれ」ているのである。こんな絶妙なエンターテイメントがあるだろうか。いや,そうそうない。

 ただ,残念なことに,本書で思い切り笑うためには,それなりに文学の素養が必要だ。パロディを楽しむためには,原本に親しんでいる必要があるのである。セックスというものは,7月7日の夜,空が曇ってなければ白装束を身につけ,祝詞をとなえてから行なうものと信じている烏丸には,あまり興味のない小説が多くて,その分ノリ切れなかったことを記しておきたい。
 もっとも,ずいぶん以前,行ったこともない宇都宮に隠し子がいるとの噂が流されたときにはちょっとあせったけどな。

先頭 表紙

カラスは逆に,本書で取り上げられている古今の「名作」を読んでないことに対する「ひけめ」を,「なーんだ,読んでなくても別によかったんだ」とリセットできました。この本そのものは面白かったけれど,「妊娠小説」は,カラスにはおよそ重要なジャンルではなさそうです(実際,読んだはずの本もたくさん扱われているのに,さっぱり内容が思い出せない。「山の音」とか「頬づえ」とか「風の歌」とか)。 / 烏丸 ( 2001-11-27 01:55 )
これ、大学の授業の課題本になってました。(私はその授業,取らなかったけど) いちいち爆笑した覚えがあります。この本を読み,『太陽の季節』や『舞姫』は読まねば,と思いつつ結局(やっぱり?)今に至るまで読んでいません。(汗) / みなみ ( 2001-11-26 01:57 )

2001-11-18 『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』 朝日新聞社会部編 / 朝日文庫


【しっかり生きろ 哲也 立派になれ】

 カラスにしては書き込みに間が生じてしまった。
 その間も,別に本やマンガを読んでいなかったわけではない。

 机の周辺から無造作に拾い上げてみれば,たとえば『仙人の壺』と双璧をなすチャイナファンタジー『李白の月』(南 伸坊),中国といえば唐代の,碁を打つ如く剣を振るい,剣を振るうが如く碁を打つ侠女を描く『碁娘伝』(諸星大二郎),侠女といえば7大ふろく付き100%サイバラ雑誌『西原理恵子の人生一年生』,妖怪研究家・多々良勝五郎を主人公として戦後の怪事件を描く『今昔続百鬼 雲』(京極夏彦),百鬼といえばネムキ連載『百鬼夜行抄』の作者による奇妙な味の短編集『孤島の姫君』,姫君といえば信長の安土城趾,ラコストのサド侯爵の城を中心にカステロフィリア(城砦愛好)な傾向を語った『城』(澁澤龍彦)などなど。少年サンデー50(11/28)号収録の「鳳BOMBER」(田中モトユキ)は,プロ野球ホームラン王を父にもつ少年を描いてここしばらくの週刊誌の読み切りでは馬鹿馬鹿しくも面白かったし,そのほかにも遠藤淑子を読み返したり,少々思うところがあって古い詩集を取り出したりもした。

 それぞれの本について,書きたいこともなくはなかったのだが,その前に,つまり1つ前の書き込みの直後に読んだ本をどう片付けるか,結局なんとなく踏ん切りがつかないまま今日にいたっている。

 その『日航ジャンボ機墜落』は,先の『墜落遺体』同様,1985年8月12日の日本航空123便ジャンボ機の墜落について,朝日新聞の各担当者たちが,どのように捉え,どのように報道したのかを時間軸にそって追ったものである。
 『墜落遺体』の主な現場となった藤岡市民体育館のすべての窓が暗幕で閉ざされ,ただでさえ暑い時期に遺体の腐敗を進めたのがマスコミのカメラだったことを思い起こしたい。つまり,本書は『墜落遺体』とは鏡の向こうとこちらに相対するドキュメントなのだ。

 結論から書こう。
 朝日に限ったことではないのだろうが,大手マスコミの記者たちの神経は,やはりどこかおかしい。

 たとえば,こんな一節がある。
 「それが『事件記者』の使命だ。支局員に先を越されるなんて許されない。オレは社会部記者だ。他社にも後れたくない。夕刊早版に『遺体発見』の第一報を入れなければならぬ」
 なにが「ならぬ」のだろう。

 あるいは
 「(生存者発見を伝える)そのテレビ映像を見て背後に冷たいものが走るのを感じた。ウチの記者はいないのか。撮れていなければ,これは文字通りテレビに惨敗を喫したことになる」
 生存者発見で冷たいものが走るのか。裏返せば「遺体発見」で勝利を誇るのか。

 また,山道に迷って「行方不明」扱いされ,あわやヘリで捜索されかかった記者の一団を評して「最も哀れだったのは」と書く神経。

 いや,だからいけない,と責める権利は読み手たるこちらにはない。報道を仕事とする者たちが報道の正確さ,速さを競うのもまた道理である。

 しかし,これだけの事故にかかわったならば,それ以前と同じものの見方,生き方では片付かないものがあるのが普通ではないか。単なる興奮や伝達意欲ではすまない,何か。
 本書に登場する記者,カメラマンたちからは,それがうかがえない。
 比較するのも気の毒かとは思うが,『墜落遺体』において遺体の身元確認に携わった人々は,誰もが生き方が変わったと口にするという。また,『墜落遺体』1巻には,墜落のもようや,その原因などについて,ほとんど何も書かれていない。愚直なまでに,目の前の遺体と,その棺を覗き込む遺族を描くばかり。

 そして,結局のところ『日航ジャンボ機墜落』で胸をうつのは,朝日の記者がどうした,こう書いた,こう考えた,といった部分ではなく,ひたすら事実を羅列した文章ばかりなのだ。

 たとえば,機体が迷走する30数分の間にメモ帳に書き残された,この上なくシンプルで,だが深く心に杭を打つ遺書の数々。
 あるいは,生き残った川上慶子さんの父親と妹(咲子ちゃん)は墜落直後しばらくは生きていて,妹に「帰ったら,チーちゃん(兄の千春君)とおばあちゃんと咲子と,四人で仲良く暮らそうね」と元気づけた直後に妹がゲロゲロと血を吐いた,などという話(四人ということは,その時点でこの姉妹は両親の死を把握していたということだろうか?)。
 あるいは,48人の小,中学生を含む,無味乾燥のように見えて実は岩のように重い乗客名簿。「孫娘を伴って日帰り出張した帰り」「一家四人で東京ディズニーランド観光からの帰途」「単身赴任で休暇の帰途」「十一月に結婚するため『独身最後の旅行を』と同僚と二人で科学万博を見に行っての帰り」……。
 そして,巻末のヴォイスレコーダー全記録。

   "ウーウー プルアップ"(人工合成音)
   [衝撃音]

先頭 表紙

関西大地震,地下鉄サリン,テロなどなど,どこでどう死ぬかわからないこのご時世,まえもってきちんと遺書を書いておきたい気持ちもありますが,そんなものを書いてしまうと事件に巻き込まれたとき「予感がしたんでしょうか」とか言われそう。ううむ。 / 烏丸 ( 2001-11-20 01:33 )
綾丸さま,いらっしゃいませ。そうですね,個々の人物は単に目先の業務を処理しているだけで,悪意はないのでしょうが……。ちなみに,一般に,集団となると,テレビ屋さんは新聞屋さんの上をいきますね。なにが上をいくかはともかく。もっとも最近はお役人さんも銀行屋さんも政治屋さんもこぞって無茶苦茶といえば無茶苦茶ですから,まぁマスコミだけを云々する必要もないんですが。 / 烏丸 ( 2001-11-20 01:32 )
ちなみに、あの事故以来、飛行機に乗ったとき、いざ墜落という瞬間、家族にどういうメッセージを残すだろうかと、そんなことを考えることがあります。 / 綾丸 ( 2001-11-19 19:09 )
新聞記者の感覚には、どこか付いていけないものがあります。奥尻や神戸の地震の際にも、私はずいぶんイヤな話を聞きました。でもこれは官僚と同じで、職業感覚から生まれるものであり、一人一人は普通の人間だと思いたいです。 / 綾丸 ( 2001-11-19 19:07 )

[次の10件を表示] (総目次)