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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-10-17 どこにもありはしない だからこそ 『ヘヴン2』 遠藤淑子 / 白泉社 花とゆめCOMICS
2001-10-15 意匠を剥ぎ取って残るものは 『死の泉』 皆川博子 / ハヤカワ文庫
2001-10-12 時について 二題
2001-10-08 怪力乱神入り乱れて 『鬼趣談義 中国幽鬼の世界』 澤田瑞穂 / 中公文庫
2001-10-07 中国三千年のとっぴんしゃん 『仙人の壺』 南 伸坊 / 新潮文庫
2001-10-02 [雑感] さらば長嶋
2001-10-01 [雑感] 中島みゆき「船を出すのなら九月」
2001-09-29 独身者の機械 その七 ピュグマリオーンと象牙の乙女
2001-09-28 独身者の機械 その六 永遠の回転運動
2001-09-26 語られないことで語られる真実 『警察署長(4)』 原案 たかもちげん,脚本 高原泉,漫画 やぶうちゆうき / 講談社モーニングKC


2001-10-17 どこにもありはしない だからこそ 『ヘヴン2』 遠藤淑子 / 白泉社 花とゆめCOMICS


【人間は人間を殺さない】

 ナチの人体実験。去勢歌手。さまざまな情念が交錯する中,崩壊する古城。
 脂ぎった分厚い本の後には,さっぱりしたギャグをちりばめたさわやかな人情物語を……ところが,これがおよそ軽くない,遠藤淑子の新刊である。

 遠藤淑子は言うまでもなく『退引町お騒がせ界隈』『なつやすみ』など,今は体液もとい退役してカウンターテロの教官としてイギリスで悠々自適の(ほんとか?)ケロロ軍曹ご推奨,白泉社系の少女マンガ家だが,その作品の大半は絶版である。品切れではない。絶版なのだ。……ちょっと口調もケロロ軍曹を真似てみました。

 核戦争から20年経った世界,陸軍を退役したマット(マーサ)・デイリーは,病気の姉と祖母に仕送りをするため仕事を探している。姉のホリーは放射能による甲状腺異常で今も少女の姿をして入院がちだ。マットはふとしたきっかけから中古ロボットのルークを伴うことになる。ルークは戦前の精巧な技術のたまもので,マットは彼を弟といつわって刑務所の仕事に就く。だが,その刑務所ではロボトミー手術によって囚人の人格を思うままに作り変える企みが進められていた。ある日,連続殺人犯がほかの囚人たちを扇動して暴動を起こし……というのが,前巻『ヘヴン』の第一話。
 穏やかな若者の姿をしたルークは,要人暗殺を目的として開発された殺人ロボットだった。彼は機能停止の確立が90%を越えると,今までの罪を告白するようにセットされていた。そうすれば天国に行ける,と製作者に言われたのだ。

 『ヘヴン2』は,『ヘヴン』を何十年もさかのぼって,ルーク(LU-K5)が製作される,それよりさらにずっと以前の物語である。物語は,エクソン社というシンクタンクが奨学金を提供する大学に,デイビー・トレヴァーという穏やかな若者が現れることから始まる。なかなか並みの神経では予想できない展開であり,ここにヘタクソな粗筋を並べるのはやめておこう。

 そして……これは,ひどい物語だ。
 美味しそうなバースデーケーキにナイフを入れると生臭い臓物が詰まっているような,チョコクリームと思ってほおばると胆汁の苦味に泣きたくなるような。

 どこかの雑誌に,遠藤淑子の作品に本当の悪人は出てこないとかいうことが書かれていたそうだが,それは勘違いだろう。『ヘヴン』『ヘヴン2』には,ごく自然に悪人が何人も登場する。何人かはグレイだが,何人かは真っ黒だ。『死の泉』に出てくるマッドサイエンティストなどよりよほど黒々と,黒い。
 当たり前の話だが,ギャグが描けるということは,何かを切り捨てられるということだ。それが自分のプライドであるか,周囲との人間関係であるか,過去とのしがらみであるかは知らない。並みの人間が捨てられないものを切り捨て,踏みにじれるようでなければコンスタントにギャグを描くことはできない。そんなふうにギャグを描ける者にとってシリアスな話を描くことは往々にしてどうということはないのだ。

 不愉快で,いらだたしくて,黒い気分でいっぱいになって,各巻のラストに一条の光を読み取ることができるか,否か。
 お奨めはしないが,読んでみる価値はある。『ヘヴン』全2巻。

先頭 表紙

それはですね,人間の体や心の中にもS極,N極にあたるものがあって,S極はN極,N極はS極と引き合い,また反発し合うからではないでしょうか。 / 烏丸 ( 2001-10-25 02:13 )
一見おいしそうなケーキなのに中身は臓物。お奨めはしないが、読んでみる価値はある。 という言葉にひかれま砂。さわやかに快適に生きていきたいのに、それと同じくらい、いやそれ以上に汚れたものに魅了されるのは何故でしょう。 / みなみ ( 2001-10-24 01:55 )
そういえば,「狼」の3巻もまもなくだそうですね。これも,ギャグはあるけど明るい設定とはとても言えませんし。どうしちゃったのかなぁ。 / 烏丸 ( 2001-10-20 23:09 )
2巻がつらくて1巻に,というのは,とてもよくわかります。カラスなど,もっと古い作品まで戻ってしまい,それっきり復帰できませぬ。 / 烏丸 ( 2001-10-20 23:08 )
2巻を読んだらあまりにつらくて、また1巻に戻って読んでしまいました。絶版も多いけど、遠藤さんは現在もバリバリと作品を発表しているので単行本はまたどんどん出ると思います。 / けろりん ( 2001-10-18 04:11 )

2001-10-15 意匠を剥ぎ取って残るものは 『死の泉』 皆川博子 / ハヤカワ文庫


【切断面頸動脈の一端を結紮。他方より20%F溶液を注入】

 さて,南さまの「100冊読書」で話題になった皆川博子『死の泉』を読み終えることができた。少々遅くなったが,思うところを書いておこう。

「第二次大戦下のドイツ。私生児をみごもりナチの施設〈レーベンスボルン〉の参院に身をおくマルガレーテは,不老不死を研究し芸術を偏愛する医師クラウスの求婚を承諾した。が,激化する戦火のなか,次第に狂気をおびていくクラウスの言動に怯えながら,やがて,この世の地獄を見ることに……。双頭の去勢歌手,古城に眠る名画,人体実験など,さまざまな題材が織りなす美と悪と愛の黙示録。吉川栄治文学賞受賞の奇跡の大作!」

 ……これがカバーの惹句である。すでにどことなくおかしい。「双頭の去勢歌手」なんて登場人物の夢に出てくるだけだし,クラウスが「次第に狂気をおびていく」というのもそぐわない。
 逆にいえば,編集者がアオリをまとめるのもやっかいなほど,複雑で怪奇な意匠の本では,ある。

 全体は,ギュンター・フォン・フュルステンベルクの著した『Die spiralige Burgruine』を野上晶という日本人が翻訳した,という構成になっている。つまり,1冊の本の中に表紙や奥付,目次が二重に収まっていて,ハヤカワ文庫ではおなじみの「日本語版翻訳権独占 早川書房」のCopyrightページまで用意されているという凝りようだ。




 紹介は,ここまで。

 以下は,ネタばらしこそ極力控えるが,今後本書を読んでみようと思われる方にはお奨めしかねる感想のたぐいである。あらゆる論評のお約束とはいえ,余計な,しかもマイナスの先入観を与えかねない内容であることを前もってお断りしておく。

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 さて,その『死の泉』だが,これでもかとばかりに面白そうな素材をかき集めたわりには,個人的には今ひとつだった。

 最たる理由は,作者との感性の違いである。そもそも本書は,第二次大戦下のナチによる人体実験というこれ以上ない重い素材を選びながら,あまりにも情緒的に過ぎるように思われる。ストーリーそのもの,つまり登場人物の設定,行動についてはあれこれ計算がなされているにもかかわらず,その背景にあるのは単なる情動に過ぎない。だから,きわめて悪魔的に描かれているはずの登場人物も,およそドストエフスキー的な存在感を持ち得ない。

(本書では去勢することによって声変わりを抑え,ソプラノの声域まで達する男性歌手「カストラート」が大きな意味を持っている。しかし,皆川博子の音楽に対する感性は,以前紹介した『猟奇文学館2 人獣怪婚』収録「獣舎のスキャット」でピンク・フロイドの(あの牧歌的でナイーブな)「Fat Old Sun」を「ぶよぶよで皺だらけの赤黒い太陽」と訳してブタとの獣姦のBGMとしてしまうなど,どうも信頼できないのである。)

 しかし,情緒的な作品に対して「感性が合わない」では子どものケンカのようなもので,何も書いたことにならない。
 本書が近年にない労作(これは本当)であることは評価したうえで,なぜその情緒がこちらの胸に届かないのか,その理由をいくつか検討してみよう。

 本書は,前半をマルガレーテ,後半をマルガレーテの元恋人ギュンターが記し,ギュンターが出版し,野上晶がそれを翻訳した,という体裁になっている。しかも野上晶による「あとがき」によって,実はこれを執筆,出版したのは他の登場人物であり,さらにおぞましいことに……と全体を覆すオチ付きである。
 皆川博子はどうもこういう「誰それの正体は実は誰それで,それを(作品中で)記した作家は実は登場人物の誰それで」という入れ子構造が好きなようで,最近扶桑社から文庫化された『花の旅・夜の旅』収録の「花の旅・夜の旅」「聖女の島」なる2作品でも似たような目くらましが用意されている。
 そういう構成上の意匠は決して嫌いではないが,『死の泉』では必ずしも成功しているようには思えない。

 その第一の理由は,後半をギュンターが書いたと言われても,まるでそう見えないことだ。ギュンターは貴族の末裔で,戦争中に友人を密告するなど,純文学向けの背景もそこそこ持ち合わせてはいるが,どちらかといえば体育会系の純朴兄ちゃんで,小説をしたためるタイプには思えない。また,後半は三人称,つまり神の視点から書かれているが,ギュンターが知り得たはずのない他の登場人物の言動,思索(たとえばクラウスがゲルトに言った言葉など)が詳細に書かれているのがどうにも説明できない。
 そして,ギュンターが書いたとは思えないものを「実は書いたのはギュンターではなかった!」と言われても,驚くはずはない。

 もう1つ,文庫で600ページ以上,ナチ支配下の1943年から1970年にいたる長大で複雑な物語が,実のところ非常に狭隘な,なんというか,1つの舞台の板の上で展開する程度にしか見えないことも気にかかる。
 本来なら物語が大きく動いているはずの後半に登場する主な人物が,実はことごとく前半に登場した人物の名や前歴を隠したものであるため,非常に複雑なはずの物語が実はとても単純な,ちょっと思い込みの強い数人の身勝手なお話に折りたためてしまうのである。

 実際,登場人物たちの言動は少々明快というか一辺倒に過ぎ,ペンキで描かれた映画のポスターのような薄っぺらい存在感しか感じられない。たとえばマルガレーテは,息子ミヒャエルを守ることばかりに汲々とする。戦時下,身寄りのない彼女がお腹に私生児を抱えてそう考えるのは不思議はない。だが,ミヒャエルが生まれる前も生まれた後も,成長したのちも,彼女のそのフォームがまるで変わらないのは不思議なほどだ。彼女は何人かの男を愛するが,その愛の色合いと濃さは二種類しかない。つまり,息子への愛と,若い男への愛だけだ。相手は誰でもよいのである。ギュンターの単細胞ぶりは先に指摘したとおりだし,フランツの怒りの向かう先も実は誰でもよい。ちんぴらゲルトは最後までちんぴらだ。

 実は本書のキモというか実の主人公たる人物の魔王ぶりも感心できない。芸術を偏愛する彼は芸術のために他者を犠牲にすることをいとわないが,それは偏愛の度合いが強いからではなく,サディスティックですらなく,単に他者の傷みに無頓着なだけなのである。要するに彼は周囲の人間をネズミやカエルと大差なく見ているだけで,そこに読み手の人生を狂わせかねない重力があるようには思われない。
 彼の芸術への偏執がいい加減なことは,たとえば貴重なクラシックのレコードを大量に所有しながら,何をかけるかを妻任せにすること,フェルメールの真作を所有しながら城の地下にしまい込んでおいて平気なことなどに現れている。
 要するに彼は,マニアよりランクの低い,迷惑なコレクターに過ぎないのである。

 結局,この作品は,じっくりと短編に練り上げるべきものだったのではないか。崩城を描く場面を読み返しながら,ポーの「アッシャー家の崩壊」ほどにも衝撃は受けなかったことに思い至った次第である。
 逆に,似た素材を扱ったエンターテイメントとしてみれば,島田荘司『暗闇坂の人喰いの木』のほうが格段に面白く読めた。


 なお,「あとがき」の謎かけについては,直接明記するのはいくらなんでもネタバレが過ぎるので,ここではなく私評ひまじん掲示板にスレッドを開いた。南さま,もしよろしかったらそちらにどうぞ。

先頭 表紙

みなみさま,ほかにもあれこれ「へっ? そーなの?」が多くて……結局……なんなんでしょうね,これ。 / 烏丸 ( 2001-10-17 03:08 )
あ、最初のツッコミに2箇所ほど誤字がありました。「多いに」→「大いに」、「単行本も、単行本も」→「単行本も、文庫本も」です。何回もツッコミ入れてすみません。 / みなみ ( 2001-10-16 16:35 )
↓そして、「ギュンターが書いたものではなかった!」も、烏丸さん同様、やはり「へっ? そーなの?」でした。(^^; / みなみ ( 2001-10-16 16:33 )
そうなんですよ、ギュンターが書いたと言われても「へっ? そーなの?」って感じでした。あと、前半では主人公だったマルガレーテが、後半ではまったくまともな意識を取り戻さないのが多いにひっかかります。ところで、私は単行本で読んだのですが、文庫本のあとがきに作者による謎解きのヒントって載ってました? たしかそのあとがきか、もしくは芝居のパンフレットにヒントが載っていたと思うのですが……(実は単行本も、単行本も、パンフレットも、すべて友人が購入したものを見せてもらったので、私は持っていないのです。) / みなみ ( 2001-10-16 16:26 )

2001-10-12 時について 二題

 
  昔は
  風が私を吹き上げた
  私は葦のように弱かったけれど
  葦笛のように風を歌うことができた

  夕暮れにはブヨの柱が立ち
  蝙蝠が帰り道の空に柔らかな弧をかいた

  昔
  あなたは今ほど美しくはなかった
  子どもっぽく
  いつも笑っていた
  愛することはできなかったけれど
  誰よりも好きだった

               (光る風)



    その庭に出て
    ほかにすることもなく
    午後は本を読んで過ごした

    疲れた目を閉ざしながら
    いい本だと心から思った
    いい本だとは思ったけれど
    二度と読むことはあるまいとも思った

    実際その本は二度と開かれなかった
    私は黒土の下に静かにうずめられ
    白い本が墓標のようにそっと重ねられた

                 (閉ざされた庭)

先頭 表紙

TAKEさま,小椋佳の古い歌に,子どもたちの明日は未来で,自分たちの明日はただの別の日,というような歌詞があったのですが,その当時はよくわかりませんでした。今は,それなりに,いやとてもよくわかるような気がします。 / 烏丸 ( 2001-10-14 03:46 )
アナイスさま,昨夜つっこみに書いて,いったん消してしまったのですが,実はこれをアップしたあとで知人の死を知りました。まだ若い(子どもが小学生)女性で,なんともやり切れません。 / 烏丸 ( 2001-10-14 03:46 )
Hideyさま,ありがとうございます。ここで書かれたようなことはずっと昔からのカラスのテーマではあったのですが,最近,その意味の色が変わってきたような気もします。 / 烏丸 ( 2001-10-14 03:46 )
最近ひとつコーナーを曲がったせいか、(混沌としてなかなかまとまりがつかないながらも)“時間”について考えることが増えてきています。美しいけれどちょっと哀しい言葉がちょっと響きます。 / TAKE ( 2001-10-14 01:42 )
藤紫、若紫、本紫、古代紫、京紫、匂い紫、滅紫...。喪、は悲しすぎますよ。 / アナイス ( 2001-10-14 01:15 )
とてもいい詩ですね。淡い哀しみが胸をよぎりました。烏丸さんらしい、と言ってよろしいのでしょうか、そんな気がしました。 / Hidey ( 2001-10-13 23:57 )
フィー子さま,はい,これはオリジナルです。「少々思うところあって」というやつでしょうか……。あちらの独身者…シリーズは,次の素材が,マジメに書けばあまりにも大変(現代芸術について論ずる,というのと似たようなものだし),手を抜けばWeb上のどこかにリンク張ってオシマイ,という,あまりの幅にどうしようかと揺れております。 / 烏丸 ( 2001-10-13 17:13 )
ところでまたまたゆっくりその六、その七を読ませていただきましたが(会社だとじっくり読めないので(-_-;))、すでにつっこみができない・・・(T_T)。とにかくその八をじっくりお待ち申し上げております! / フィー子 ( 2001-10-13 15:40 )
え、これはなんですか?烏丸さんがお書きになったの?二つ、何かがシンクロしてて、とてもすーっとわかるような何かを感じます。 / フィー子 ( 2001-10-13 15:29 )

2001-10-08 怪力乱神入り乱れて 『鬼趣談義 中国幽鬼の世界』 澤田瑞穂 / 中公文庫


【書庫いっぱいの霊魂幽鬼妖怪】

 厚いオークの扉に手をかけ,埃っぽいが明るい書庫に踏み入ると,思いがけず広々として奥が知れず,整然と棚が続いている。棚に積まれた書類を取り上げてみると中国の古今の怪異譚を短く簡潔にまとめたもので,それがさまざまな分野に几帳面に分類され,民俗学的な比較検討と若干のユーモアを加えてさっぱりした文章で綴られている……。


 孔子が「怪力乱神を語らず」と指摘したのは,そう言わざるを得ないほど当時の世に怪異があふれていたため,とする説がある。また,怪異を話題にすることは,君子が君子然とすましていられないほど楽しく,中毒になりかねないものだということも示している。当節ふうに言えば,マンガやゲームもほどほどに,といったところか。

 中国古代の怪異譚といえば,まず思い起こされるのが蒲松齡の『聊斎志異』だが,『聊斎志異』は人間洞察や表現技法に溢れ,ある意味「出来すぎ」の面もある。要するに近代的な意味での「小説」に近すぎるのである。

 もっとあるがまま,美文に練られる前の,いわばシードとしての怪異譚はないか。そんなニーズに応えてくれるのが本書『鬼趣談義』一巻である。
 文庫かとあなどってはいけない。定価1,143円(税別),数行からせいぜい数十行の怪異譚でぎっちりと幽冥界のことがつぶさに記された494ページ。なにしろカバーの惹句に曰く,「筆記・随筆・地誌類など汗牛充棟の文献世界を渉猟し、中国の幽鬼妖怪の種々相を暢達な筆致で説き明かす。“怪力乱神”を語り、中国古来の霊魂観、幽鬼妖怪観を探究する、碩学による博引旁証の大著。巻末に事項・書名索引を付す」。恥ずかしながら,読めない熟語が一杯だ。

 やはり読み方のわからない言葉の連発する,しかしなんとも魅力的な目次を開いてみよう。
   鬼趣談義
   墓中育児譚
   亡霊嫉妬の事
   髪梳き幽霊
   鬼卜 ──亡霊の助言によって吉凶を占う事──
   再説・借屍還魂
   鬼求代
   鬼索債
   泡と蝦蟇
   関羽に扮して亡霊の訴えを聞く話
   柩の宿
   鬼買棺異聞
   産婆・狐・幽霊
   墓畔の楽人
   鬼市考
   偽幽霊出現
   僵屍変
   棺蓋鬼話
   旱魃とミイラ
   野ざらし物語
   石の妖怪
   土偶妖異記
   芭蕉の葉と美女

 「借屍還魂」(しゃくしかんこん)とはいったん絶命した男あるいは女が蘇生するが,意識・記憶が別の人物のものというもの。当人の家への帰属は肉体で決めるのか,人格で決めるのか。財産や配偶者をめぐり訴訟が起こることもあったという。
 冥土の人口を維持するためには,亡者が別の人間に転生するより前に,後任の亡者,つまり事故死や自殺死の人を物色しなければならない。場合によっては積極的に事故や自殺を幇助することもあるという。この亡者の代替を求めることを「鬼求代」あるいは「鬼求替」「鬼討替」「鬼索替」「替身」などという。
 また,他人に金を貸したまま死んだ者があると,その執念が祟り,借りた者の家中から狂人が出て「金を返せ」とわめき,相当額の紙銭(葬式などで使う紙で作った偽の金)を焼かねば治まらない。これを「鬼索債」(きさくさい)または「鬼討債」という。
 冥界における物資の交易には,現世と同様に市が立つ。これを「鬼市」(きし)という。多くは荒廃した郊外の共同墓地など,幽鬼に縁の深い場所に現れる。諸星大二郎『諸怪志異』第3巻「鬼市」のタイトルがこれである。
 硬直したまま皮肉ともに腐爛しない屍体,または久しい歳月を経ても朽ちず枯骨にならない屍体,これを「僵屍」(きょうし)という。いわば天然のミイラである。
 などなど。

 澤田瑞穂氏は1912(明治45)年生まれ,国学院大学高等師範部卒業。天理大学,早稲田大学教授を歴任。文学博士。専攻は中国文学。国学院大学時代には折口信夫に師事したという。
 巻末の書名索引だけで7ページ。いかなる情熱か,しかしその文体はあくまで淡々。濃い茶を片手に頭から読んでもよし,饅頭くわえてつまみ読んでもよし。陶然として秋の夜の更けるを知らず。

先頭 表紙

日本の怪異譚でも,死者は結婚したり子どもを産んだりしますよ。西洋には,死んだ後までせっせと株の売買にいそしむ幽霊の話まであるようです。 / 烏丸 ( 2001-10-14 03:45 )
中国の怪異物では、死者も結婚したり子供を産んだりと、生きていますから面白いです。 / まやひこ ( 2001-10-09 18:05 )

2001-10-07 中国三千年のとっぴんしゃん 『仙人の壺』 南 伸坊 / 新潮文庫


【巻物は白紙であった】

 己とはどこから来て,どこへ行こうとする者なのか。
 ……とかいう問いに浸ってみるのもたまにならよいが,そうそう何度も,長々とやるべきことではない。くたびれるか,虚しくなるのがオチだ。
 そこで,たとえば近所の土手にザリガニを釣りにいく。青空の下,2つのハサミで糸の先のスルメをつかむ,つかまない,ソリッドでディジタルな世界。
 あるいは,『今昔物語』や『聊斎志異』のように,短い,原石のような文章に気の向くままあたるのもよい。

 『仙人の壺』は,中国古典の怪異譚(志怪とか伝奇とか称されるらしい)のいくつかをイラストレーターが本職(だったと思われる)の南伸坊が絵物語に仕立て,それに簡単な文章を添えたもの。
(1990年に潮出版社から発行され現在絶版になっている『チャイナ・ファンタジー』から9編,単行本未収録作7編が収められている。残る作品はマガジンハウス社から『李白の月』というタイトルでこの秋に発行されるらしい。)

 中国古典に着想を得て,といえば芥川龍之介『杜子春』,中島敦『山月記』,太宰治『竹青』など枚挙にいとまがないが,本書のイラストは,それらに比べると原作の捻じ曲げはさほどない。少なくともイラストに添えられたテキストは原作にかなり忠実なように思われる。ただし,イラストレーションとしてはたいへん凄い。シンプルで白っぽい画像なのだが,(今どき珍しいほどに)前衛的,実験的なテクニックが大胆に割り振られ,イラストレーターとしての南伸坊の面目躍如,といったところだろうか。
 イラストの部分は各編8ページに過ぎないので,書店で見かけたら1つ2つ目を通してみていただきたいと思う。

 それぞれのストーリーは,怪異といっても決して怖いようなものではなく,素っ頓狂であっけらかんと説明のつかないようなものばかりだ。
 たとえば,ある人が山に入って大蛇を撃ち殺したところ,それに足があるので持ち帰ったところ,役人が「その蛇はどこにあるのだ」と問う。その人が蛇を地面に投げ下ろすと,蛇は見えるようになったが,今度はその人の姿が見えなくなった,とか。
 鼠が衣冠をつけて現れて「お前は正午に死ぬ」と繰り返し語り,無視していると正午にその鼠がひっくり返って死んでしまった,とか。

 怪異を無視する話や,怪異を無視できない話が多いような気がするが,それが中国古典の特徴なのか南伸坊の趣味なのかはよくわからない。

 ただ,各編に添えられた作者による解説文はくきりとしたグラフィックに比べると冗漫で,いかにも蛇足といった感じがする。
 また,巻末の解説がミステリ作家の北村薫なのも,なんとなく鬱陶しい感じだ。最近,なんだかやたらあちこちでこの人の文庫解説を見るような気がする。あの手この手を駆使して作家を褒める,その手腕を買われてのことだろうが,あまり頻繁に目にするとその手腕があざとく見えてしまうのである。

先頭 表紙

稲田孝『聊斎志異を読む 妖怪と人の幻想劇』(講談社学術文庫)という本も並行して読んでいたのですが,これはどちらかというと「聊斎志異のこのお話の裏には作者の」といった研究に基づくもので,ちょっと体が求めているものとは違う感じでした。 / 烏丸 ( 2001-10-07 02:50 )

2001-10-02 [雑感] さらば長嶋

 
※ジャイアンツファンには楽しい文章ではないかもしれません。前もってお断りしておきます。

 長嶋監督,最後の試合が終わった。0-5で阪神の完勝。
 これで讀賣は4連敗。東京ドーム最終戦といい,星野監督の辞任発表後の中日の7連敗といい,東尾西武の連敗といい,監督が辞めるというのは,そんなに士気にかかわるものなのか。
 個々の選手にしてみれば,監督が代わろうが,個人の成績というものがあるだろうに。

 東京ドームでの最終戦,日本テレビは自局で放送できる讀賣主催試合が最後なので「最後,最後,最後」と連呼。その気配りを息子の一茂が「あと阪神戦が1試合ありますが」と無頓着に踏みにじったのが笑えた。
 9回表,引退の決まった槙原の登板に長嶋監督がマウンドに向かい,ゲスト(?)の徳光アナが泣き崩れる。ジャイアンツファンであることが職業のアイデンティティであるだけに,イジワルな見方だがここで泣かない手はない。

 もう1点,ほとんどの解説者が長嶋万歳を繰り返す中で,一茂だけが「すべてを犠牲にして今まで」と口にしたのが興味深かった。深夜のスポーツ番組では長嶋監督自身も「すべてを犠牲に」と発言。
 つまり,「長嶋ジャイアンツ」は長嶋本人,および長嶋家をすべて犠牲にした上に成り立っていたものだった,少なくとも,長嶋家の人間はずっとそういう意識を持ってきたということだ。犠牲。軽い言葉ではないと思うが。

 セレモニーでの長嶋の挨拶は,現役引退時の「巨人軍は永久に不滅です!」に比べると,とくに決めゼリフもなく,穏やかで地味なものだった。
 すでに引退を表明している槙原,村田真,斎藤もセレモニーに並ぶ。考えてみれば今年引退する讀賣の選手はこの3人だけではないはずで,この後引退を表明する選手,あるいは表明したくなくとも契約してもらえない選手は結果的に可哀想な気がする。同じ引退するなら,この日,この場に並べばよかったと後悔しないだろうか。
 しかし,記者会見に並ぶ槙原,村田真,斎藤の3人を見て,しみじみ,ジャイアンツという球団は戦闘する男の顔,プロの顔を作れないアイドルタレント集団なのだなと思う。いずれもしまりのない,にやついた頬,そして目。20年間一流として活躍,ファンの目にさらされてこんなものか。

 個人的には,テレビ東京のスポーツ番組で,キャスターの定岡が長嶋にインタビュー,「監督,最後に握手してください」と握手した後,万感迫って泣き出してしまい,しばらくどうにも声が出なくなった場面のほうがよほど好感がもてた。
 定岡は,ピッチャーとしてそう好きな選手ではなかったし,キャスターとしてもそういい印象はないが,いろいろ抱えていたものが一気に噴き出たのだろう,キャスターとしては問題かもしれないが,よほど長嶋の引退を(損得抜きに)素直に泣いている感じがして,よかった。
 これは勝手な推測だが,定岡が在籍した第一期長嶋監督時代には,現役時の威光と監督としての溌剌とした言動があって,選手たちへのインパクトも強かったのではないか。第二期は,選手自身には神々しく見えるわけでもないのにただ不可侵,反論できない存在として,煙たいばかりだったのではなかったろうか。
 所詮,昭和のヒーローなのである。とっとと引退して,別所のように外から笑ったり怒ったりしていてくれればよほど好感をもって見られたのに,とも思う。

 これで,讀賣は長嶋監督から原監督に。
 中日は星野監督から山田監督に。
 西武は東尾監督から現役キャッチャーの伊東か。
 オリックスは仰木監督から元西武・ダイエーの石毛か。

 顔ぶれは変わるが,フレッシュとは言えまい。昨今の10代,20代の若者にこれらの名前が伝わるとは思えない(悪い冗談だが,新庄が来年いきなり讀賣の監督をやったほうが,よほど客を呼べるかもしれない)。
 視聴率は長嶋ドーム最終戦(平均26.5%,瞬間最高39.5%)を女子マラソン高橋尚子のまったく面白味のないレース(平均36.4%,瞬間最高53.5%)が圧倒。

 プロ野球はこのまま,能,狂言のような,一部高齢ファンにしか通じない伝統芸能になってしまうのか。それでも生き残るならまだマシで,記録を目指すローズにボールばっかり投げているようでは……。

先頭 表紙

定岡は手足が長すぎてピッチャーとしてはあまり好きなタイプではなく(その分,投球後の蹴り足の上げはきれいでしたが),スポーツキャスターとしてもとくにいい印象はなかったのですが,今回は「サダよ,男の涙だねえ」てな気分になりました。ちょっと甘いでしょうか。 / 烏丸 ( 2001-10-14 03:45 )
ゴーストライターの手も加わっているでしょうが、定岡正二が元原稿を書いたには違いないと思われる現役時代の自伝には、プロはほとんど考えず大学進学を考えていたのを長島氏(監督1年目)の言葉に動かされG入団を決めた、とあります。良くも悪くも自分の人生を変えた人でありましょう>定岡にとっては / あめんほてっぷ ( 2001-10-11 20:53 )
ヤクルト,ようやく優勝。おめでとう。若松監督の「ファンのみなさん……おめでとうございます」という挨拶がなんとも可笑しい。スポルトで酔って爆睡してしまった藤井選手がまた。 / 烏丸 ( 2001-10-07 02:43 )
ローズ残念,55本どまり。でもよく打ってくれました。また来年。……しかし,振り返ってみると,松坂,よく55号を打たせたな。 / 烏丸 ( 2001-10-05 21:10 )
しかし,ヤクルトもあと1勝となって,勝てません。古田の膝は心配だし,残る5試合の相手がシビアにAクラス争いしてる横浜と広島とは。今夜は……ヤクルトは試合がなくて,おお,近鉄がオリックスと。仰木監督は前回ローズと勝負していたから,これは期待だ。 / 烏丸 ( 2001-10-05 14:39 )
(今後は,どう表記しよう。西武,近鉄,ダイエー,中日,阪神……に対して東京でも巨人軍でもヘンだし。全部カタカナの部分にするか。でもそれだと長くなるし)ジャイアンツの選手では,小林,浅野が好きでした。浅野って最後の数年に150kmの直球投げるようになった,妙な選手でした。 / 烏丸 ( 2001-10-03 16:06 )
Hideyさま,カラスはアンチ巨人ですが,昨夜某所で「アンチ巨人な人は悪意をこめてジャイアンツのことを『讀賣』と表記する」という指摘を見て途方に暮れてしまいました。大昔のドラフト会議のパリーグ広報部長(のちのパンチョ伊藤さん)の「よみうり くわた」などから,「讀賣」が公式の略称と思い込んできたからです(旧字なのは記者の名刺から)。ちなみに公式名は「東京読売巨人軍」なんですね。 / 烏丸 ( 2001-10-03 15:58 )
僕もアンチ巨人。どこのチームも別に好きでも嫌いでもないのですが、巨人だけはちょっと。。。かつて江川が投げてたときだけは面白がって見てたのですが。「闇の昭和史伝」、笑わせてもらいました。 / Hidey ( 2001-10-03 13:54 )
パー太さま,メジャーリーグの戦術あれこれを扱ったジョージ・F・ウィル著『野球術』(文春文庫,上下巻)を最近ぱらぱら読んでいるのですが(情報が少し古いが非常に面白い!),かの国でも空き地がなくなった,空き地で野球をする子供がいなくなった,体力のある子がほかのスポーツに流れる,リトルリーグ時代から変化球でかわすピッチングを覚えてストレートを投げらる肩が作られない,とどこかで聞いたような。日本よりファンのおじさん度は低いようですが,今後が心配です。 / 烏丸 ( 2001-10-02 14:06 )
日曜午後のスポーツクラブ・ラウンジでのTV人気ランキングは、@長嶋監督特番、Aゴルフ、Bベルリンマラソンでした。このクラブ、おっさんでいっぱいなんです。 / ガルシアパー太 ( 2001-10-02 13:22 )
長嶋とプロ野球界をめぐる昭和の大陰謀については,こちらもご参照ください。 / 烏丸 ( 2001-10-02 12:50 )

2001-10-01 [雑感] 中島みゆき「船を出すのなら九月」

 
 中島みゆきの7枚めのアルバム『生きていてもいいですか』は1980年4月5日発売,

   うらみ・ます
   泣きたい夜に
   キツネ狩りの歌
   蕎麦屋
   船を出すのなら九月
   (インストゥルメンタル)
   エレーン
   異国

とい内容で,黒ベタにアルバム名だけのジャケットや,冒頭の「うらみ・ます」の印象のあまりの暗さゆえか,その前後のアルバムの中でも最も重苦しい印象が強い。彼女の(一見明るい)曲に見え隠れする,切なさや悲惨さを外から笑い飛ばそうとするようなメロディ,フレーズにも乏しい。

 その中で,「船を出すのなら九月」はタイトルからして見事な,稀代の佳曲ではあるのだが,残念なことに主旋律が往年の名曲と瓜二つだ。盗作かどうかは別として,どう聞いてもまったく同じなのである。

 その曲とは「小さな木の実」,1971年にNHKみんなのうたで取り上げられたもので,海野洋司作詞・ビゼー作曲(「美しいパースの娘」から)。
 歌ったのは「詩人が死んだとき」「こわれそうな微笑」の大庭照子,映像は草原の実写に赤や茶色の紅葉をあしらったカットの組み合わせだったように記憶している。ビゼーの原曲をはなれ,秋の木の実,つまり父親の死と少年の成長をうたった,心に染みる美しい曲である(のちに,ほかの歌い手によって何度かリメイクされているし,みんなのうた名曲集といったたぐいの楽譜やアルバムにもよく収録されている。「なつかしい童謡・唱歌」「midibox」にはMIDIデータが提供されているので,気になる方,興味のある方はどうぞ)。

 もちろん,ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)の作曲したメロディについてはすでに著作権は切れており,最近DA PUMPが同じくビゼーの「アルルの女」を利用したのと同様,今さら責められる筋合いはない。だが,80年当時すでに大ヒットメーカーだった(桜田淳子らが歌ったヒット曲を自分で歌い直した『おかえりなさい』が『生きていてもいいですか』の前年)中島みゆきが,わざわざ盗作,パクリと指摘されるような危ない橋を渡るわけもない。
 おそらく,たまたまNHKみんなのうたを小耳にしたものが意識の奥底に潜り,それが「船を出すのなら九月」という歌詞のフィルターを通して噴き出てきた,といったところではないか。

 ここではこれが盗作であるかどうかを問いたいわけではない。
 「小さな木の実」も,「船を出すのなら九月」も,ナイーブなナイフが胸を刺す佳曲であることにはかわりはないのである(要するに,ビゼーがすごい,ということかもしれない。このビゼーが生前はほとんど評価されず,無理解な妻のために作品が散逸しかかったとは信じがたい)。



 そして,ここで本当に書きたかったことといえば……。

 だが,もう九月は過ぎてしまった。
 今はただ茫洋と船の上から過ぎ去った夏を振り返るばかり。
 ただ舳先を打つ波の音にあてどない旅を思うばかり。

先頭 表紙

「怜子」はその前の「元気ですか?」の語りから……どん!と心に入る,中島みゆき全アルバムの中でも“つなぎ”の妙では傑出した作品ですよね。で,その「怜子」,表向きは幸福をつかんだ怜子と風に追われる「あたし」の対照を歌いつつ,実のところは「一人で道も歩けない」女の子を選んでしまう男のずるさが責められているような気がします。のちの「テキーラを飲みほして 」にも通ずるような。 / う,うしろめたいわけじゃない〜 ( 2001-10-14 03:44 )
なるほど。そう考えると、みゆきさんの曲は一つ一つに何かが隠されているような気になってきました。怜子はどうかなあ? / フィー子 ( 2001-10-13 15:44 )
なるほど,パキスタンとバングラデシュの間に巨大なインドが。……チガウ。 / 烏丸 ( 2001-10-03 16:07 )
ども ご無沙汰しております(^^)境界線ですか? 確か名古屋まで行ったところで、巨大なきしめん地帯になってしまいまして...(^^; / Hikaru ( 2001-10-03 14:02 )
で,結局「うどん そば」「そば うどん」の境界はどのへんだったのでしょうね。「あほ ばか」の境界と一致するとかしないとか。 / 烏丸 ( 2001-10-02 21:08 )
Hikaruさま,お久しぶり。ちなみに,讃岐うどんの本場・香川では,うどん専門店が当然圧倒的に多いわけですが,大衆食堂,パイプ足のテーブルを置いたような店(テーブルの上にコインの占い機があるような)では,メニューにあるのはうどんと蕎麦,ではなくてうどんとラーメンですね。香川で蕎麦を食べるのは簡単ではないかもしれません。 / 烏丸 ( 2001-10-02 21:07 )
昔 「そば うどん」の看板が どこで「うどん そば」に変るのかを東海道に沿って追っかけ調査する番組を見ましたです。(ここいらでは うどん そば・・・かな?)(‥ ) / Hikaru ( 2001-10-02 20:39 )
讃岐うどんファンとしては,やはり蕎麦屋でうどんを食べるのは邪道かと思うわけです。 / 烏丸 ( 2001-10-02 14:46 )
泣きながらきつねうどんを食べてる、蕎麦屋が胸に痛いです。 / まやひこ ( 2001-10-01 23:18 )
あややさま,この曲をはじめて聞いたころ,カラスは酒におぼれる無為徒食な学生でした。記憶の中の九月はいつも雨で,七月はいつも朝です。 / 烏丸 ( 2001-10-01 20:43 )
ふ〜ねを〜出すのならくーがつ〜 ああ、高校時代の涙がよみがえる・・。私も小さな木の実に似てるなと思ったことがありますわー。(メジャーに転調したあともなんとなく)やっぱり何年経っても、急に聴きたくなります。ただ生きて戻れたら。 / あやや ( 2001-10-01 20:10 )
『美しきパースの娘』の「パース」は,「パース」が正解なのか「ペルト」が正解なのか。手元にあるアナログレコードは「ペルト」と表記しており,しかも「小さな木の実」のもととなった「セレナード」が収録されていない……。ちなみに『美しきパースの娘』が発表されたのは1867年,日本ではヒトハムナシキ慶喜ドノ,で大政奉還ですね。 / 烏丸 ( 2001-10-01 13:07 )
知人とのメールのやり取りにこの「船を出すのなら九月」が出てきたので,書き記しておこうと思った次第(中島みゆき論に手を出すつもりはありません)。なお,昨年10月25日の「くるくる」に「せいぜい『美しきパースの娘』について知ったかぶりする」と書いたのは,このことを差しています。 / 烏丸 ( 2001-10-01 13:07 )

2001-09-29 独身者の機械 その七 ピュグマリオーンと象牙の乙女

 
【けれどもピュグマリオーンはどうしても、どうしても、どうしても、】

 泉木修の「百物語」には,ギリシア神話に題材をとった「ピュグマリオーン」(第六十五夜)という,もともとのギリシア神話をご存知ないとおそらく意味のよくわからないであろう短章がある。

 詳しくは後でそちらを直接読んでいただくとして,そのピュグマリオーン神話を簡単に紹介しておこう。このような話だ。
「愛しい女性がついには自分のものにならないことを悟り,女性を忌み嫌うようになった彫刻家のピュグマリオーンは,象牙の乙女の像を作り,それを飾り立て,ついにはアプロディーテーにその象牙の乙女を妻にしたいと祈る。願いは聞き届けられ,象牙の乙女は人間となり,ピュグマリオーンと結ばれる」

 だが,この話は,どこか辻褄が合わないような気がしてならない。
 そもそも,冒頭であっさりと話題から消えてしまうピュグマリオーンが愛した女性とはいったい誰だったのだろうか。神話はその氏素性には一切触れていない。しかし,アプロディーテーに祈るなら,まずはその女性と結ばれるように願うのが先ではないか。つまりそれは,愛が成就することが困難なのではなく,女神の介在によっても愛が成就することそのものがはばかられるような相手だったのではないか。そして,だからこそピュグマリオーンは女性を忌み嫌い,独身を誓うことになったのではないか。ならば,彼がこしらえた象牙の乙女もまた,結ばれてはならない相手に瓜二つだったのではないか……。

 「百物語」の「ピュグマリオーン」は,トマス・ブルフィンチ版『ギリシア・ローマ神話』の同章の結末の数行だけを書き換え,ピュグマリオーン神話の意味をがらりと変えたものである。ピュグマリオーンの愛してしまった女性が,もし彼の……ならば。そしてピュグマリオーンの愛が女性に似て女性にあらざる象牙の乙女に向かうとき,彼はスウィフトやキャロル,ポーと同じ意味での独身者だったのではないか。

 なお,「百物語」中でギリシア神話を扱った短章には第二十八夜「スピンクス」第三十八夜「ペーネロペー!」があり,前者には近親相姦の禁忌(タブー),後者には到達し得ないものを求める旅がそれぞれ描かれている。同一主題のヴァリエーションというべきだろう。
 だろう,などとまるで人ごとのようだが,本人がそのつもりで書いたのだから間違いない。
 泉木修は体調がよいときの烏丸なのである。

 さて,ピュグマリオーン神話の忘れてならないもう1つのポイントは,その愛の対象が象牙の乙女,すなわち「人形」だったという点だ。
 ここで私たちは,たとえば屈曲反転する少女人形を作り続けたシュルレアリスト,ハンス・ベルメールを,あるいは遺作として少女の裸体を古びた木製の開かずの扉の向こうに封じ込めた芸術家を思い起こすべきだろう。その芸術家の名は……。

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peachさま,別にナイショにするつもりも深い理由もなかったのですが,まぁ,短いながらもオリジナルをものする以上,言い訳は無用,ということからあちらはどうしても寡黙なキャラになっておりました……。 / 烏丸 ( 2001-10-01 20:32 )
ひえぇ〜い。ナンだかそんなに早くから2つの日記を全く別人のように書いて来ていらっしゃったのですね。。。知らなかったわ!?奥が深すぎるぅ〜。 / peach ( 2001-10-01 18:52 )
いや,カエルさま,当人は知ってたわけですから(当たり前),そんな重大発表とかいう自覚は別に……。書いてることもよく見ればシュミが同じですし(これまた当たり前)。ちなみに泉木のひまじんでの会員番号が77番,烏丸が78番。つまり,烏丸のほうが陰の存在なのであります。 / 烏丸 ( 2001-10-01 13:11 )
えっ!泉木修さまイコール烏丸さま?・・・重大発表をさらりと! しかし全然気が付きませんでした・・・。 / カエル ( 2001-09-29 13:18 )

2001-09-28 独身者の機械 その六 永遠の回転運動

 
【42.195のフロイト】 ← 意味なし

 同じ「少女愛」でも『ロリータ』のハンバート・ハンバートの場合と,ルイス・キャロル,ジョナサン・スウィフト,エドガー・アラン・ポーらの場合とでは何かが決定的に異なって見える,ということを前回指摘した。

 なぜ,ハンバート・ハンバートはロリータと肉体関係を結ぶことができ,残る3人ではセックス,あるいはそもそも乳房,初潮といった第二次性徴そのものまで忌避したように見えるのか。

 まず,後者,たとえばスウィフトやポーには,そもそも肉体的に性的不能だったのではないか,とする説がある。性的快楽を享受できないがゆえに性の脅威を感じさせない少女,幼女に情愛を傾け,現実の肉体関係の代償として言葉遊びや論理遊びにいそしむ。
 これはそれなりに説得力のある説だ。ことにスウィフトの場合など,その高いプライド,聖職界での政治的成功の代替として風刺小説を書いたことと透かせ合わせても,十分納得できるものである。

 もう1つの,さらにうがった説として,彼らの少女愛の背景に近親相姦に対する禁忌(タブー)の気配を見るというものがある。近親相姦の衝動が「罪」の意識から去勢コンプレックスに結びつき,ナルシシスム,あるいはオナニスムとなって現れる……とかいう,例のフロイトのアレである。

 たとえば,先にあげたジョナサン・スウィフトには2歳違いの姉ジェインがいたが,彼がステラ,ヴァネッサとの三角関係のさなかに突然奇妙かつ実現不可能な条件をつけて結婚を申し込み,苦心惨憺の末に相手が了解したら,姉が結婚すると同時にスウィフトのほうから断ってしまった相手の名前がその姉と同じジェインだったこと。ステラとの(擬似)結婚の折りに「スウィフトとステラは実の兄妹だ」という噂を流したのが当のスウィフトではないかと思われるふしがあること。
 エドガー・アラン・ポーが叔母のクレム夫人を「母親」としての思慕を抱き,姪のヴァージニアへの手紙の中で彼女を「妹」と呼んだこと。ポーの代表作の1つにおいて,「アッシャー家」は濃密な近親相姦の禁忌のもとに崩壊していくこと。
 キャロルのアクロバティックな詩や童話は,そもそも妹たちのために作った家庭誌"Mischmasch"(ごたまぜ,の意)が発端だったこと。人間嫌いで通したキャロルが,晩年まで妹たちとは親しかったこと。

 もちろん,家族のためにお話を作っただけで近親相姦を疑われたのではかなわない。独身男が妹の家で死んだからといって,何の不思議があるわけもない。
 またジェインはありふれた名前だし,姉の結婚に寂しさを覚えた弟が身近な女に走るのもありそうなことだ。

 だが,それでも,(当人がそう書き残すわけはないから証拠がないとはいえ)この設定は魅力的だ。母親や姉妹への絶望的にかなわぬ愛慕を自分の中で折り返すうちにその愛の矢印は性的に未成熟な少女に向かい,精神の中の内燃機関は言葉遊び,論理遊びを執拗に繰り返す。達成できないことの代償であるこの遊びは,コミュニケーションという実用性を失い,とことんノンセンスの領域にはまり込んでいく。

 つまり,ロリータの肉体を抱けてしまったハンバート・ハンバートと異なり,スウィフトやキャロルやポーにとっては,愛の対象とは愛が成就できないことそのものであり,愛の成就とは肉体的接触のともなわぬ,ただ精神の機械的な回転運動なのである。
 もしそうならば,the winged seraphs of HeavenがAnnabel Leeと私をうらやむのも当然だったろう。その愛は,地上の肉の上にもったりと成就した愛ではなく,形而上の,いわば虚数空間にまっすぐに張り渡された太さを持たぬガラスの直線なのだから。

 実は,このひまじんネットでは,ちょうど1年前に,このような精神のあり方について描いた作品(?)が提示されていた。それは……。

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2001-09-26 語られないことで語られる真実 『警察署長(4)』 原案 たかもちげん,脚本 高原泉,漫画 やぶうちゆうき / 講談社モーニングKC


【何も言うな】

 『代打屋トーゴー』『祝福王』の作者たかもちげんが癌で亡くなったのは昨年7月5日のことだった。
 当時モーニングに連載されていた『警察署長』が絶筆となったわけだが,週刊誌の刊行スケジュールを考えるに,亡くなる直前まで作品を描いていたのではないかと想像され,切なさと羨ましさに胸が痛む。
 もし病で倒れるとして,己は死の床でまで何かに熱中,没頭できるだろうか。

 『警察署長』の主人公は,警視庁本池上署署長・椎名啓介(警視正,38歳)。彼は異例の出身地勤務,さらに異例の在任10年目,さらにキャリアとは思えない昼行灯……。
 もちろんマンガであるから,昼行灯に見えて実は,という話ではあるのだが,この読み切り連載には連載開始当時から,たかもちらしからぬというか,微妙な苛立ちを覚えた記憶がある。

 たかもち作品では,本業公務員の代打屋であれ,新興宗教の教祖であれ,つまり謎にあふれた設定でも,1つ1つのコマでは隠し事のない,一人称の展開が常だった。しかし『警察署長』は読者に対してペルソナ(仮面)を被り通す。椎名の人間洞察にあふれた推理,地元に密着した知識から事件が解決するのはこういったマンガのお作法通りなのだが,そのくせ妙にベールの厚い,すっきりしない印象が強かったように記憶している。
 それが,警察関係に詳しい原案者の存在によるものか,自らの闘病を隠そうとした結果だったのかはわからないが,作者の訃報に接したとき,ああこのままベールは開かれないのかと脱力したことは確かだ。

 その,『警察署長』がモーニング誌で復活している。作画はやぶうちゆうきという若手(といっても年齢はわからないのだが),画風からみてたかもちのアシスタントの1人ではないか。
 メジャー誌での作者を代えての連載継続には,あまりよい印象がない(といってもすぐには『柔道一直線』に『空手バカ一代』程度しか思い浮かばないが)。だが,今回に限って,そう悪いことではないように思われる。まず,新しく登場したノンキャリアの前田吾郎,キャリアの相馬俊彦が警察システムの仕組みを描く上で巧い役割を果たしていること。もう1つ,椎名啓介が警察システムの中でタブーとなるいきさつの描き方が,巧い。原案者が当分隠すつもりなのか,実は(亡くなったたかもちの胸にあって)正解がないのか,椎名の同期の高杉という警察官が死に,その真相を椎名だけが知っているらしい,ということだけが明らかになるというなかなか力のこもったタネ明かし(正確にはタネ明かさず)が,初めて椎名の生の声を描いて見事だ。その生の声が,もう1人の同僚(のちに警察官僚として出世する)堂上を巻き込むまいとする「何も言うな」という台詞であることで,この『警察署長』第4巻は,たかもちの遺作であることを越えて新しい局面に到達したと見てよいだろう。つまりここにいたって,なにやら主人公の声が聞こえないくぐもった作品は,「語らない」ことでより大きな何かを語るという構造を獲得したのである。

 たかもち同様決して旨い絵ではないし,物語の展開も極上とはいえないが,一部の脇役のごつごつした存在感といい,要チェック作品だと思う。
 いずれこの作品を最初からきちんと読んで,「相手を読み切る」ことについて考えてみたい。この作品は相手を読んで読んで読み切る,将棋や囲碁のようなミステリを狙ったものだが,その作品そのものに隠された意図を読み取るのは,残された読み手の今後の務めであるように思われる。

先頭 表紙

そうなんです,しっぽなさま。上の本文の『代打屋トーゴー』のリンク先の日記が,そのときの追悼文になってます。 / 烏丸 ( 2001-09-28 02:35 )
えっ!?たかもちげんが亡くなっていたとは知りませんでした・・・・引きこもっている間に世間では色々変化がある、といってもあまりに悲しい。「代打屋トーゴー」は面白かったです。それからの作品は読んでいなかったのですが・・・ご冥福を祈ります。 / しっぽな ( 2001-09-28 00:46 )
TAKEさま,しかし『警察署長』の3巻まではとっくに品切れになってしまっているようです。探すほどのものかどうか。ちょっと悩みどころ。 / 烏丸 ( 2001-09-27 20:54 )
あややさま,警察署の地下4階というと,やはりなんというかあの,宿泊施設なのでありましょうか。 / 烏丸 ( 2001-09-27 20:52 )
最近では「ホテル」「味いちもんめ」なども作者・原作者が亡くなられてからも作品が続いています。僕も「代打屋トーゴー」以来、たかもち氏のファンでもあったので「警察署長」の再開も注目してます。おっしゃられる通り、もう少し経ったら最初からキチンと読み直してみたいですね。 / TAKE ( 2001-09-27 02:28 )
ホンモノの警察署長のイメージか・・。結婚式のスピーチの大半が署の社屋の紹介でありました・・。地上10階地下4階、とかいらん知識がつきました。 / あやや ( 2001-09-27 00:04 )
なんか,この私評だけ読んだら,どんなすごいマンガかと思っちゃいますね。実のところ,そんなに重い作品ではないんですけど。 / 烏丸 ( 2001-09-26 11:59 )

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