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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-10-07 中国三千年のとっぴんしゃん 『仙人の壺』 南 伸坊 / 新潮文庫
2001-10-02 [雑感] さらば長嶋
2001-10-01 [雑感] 中島みゆき「船を出すのなら九月」
2001-09-29 独身者の機械 その七 ピュグマリオーンと象牙の乙女
2001-09-28 独身者の機械 その六 永遠の回転運動
2001-09-26 語られないことで語られる真実 『警察署長(4)』 原案 たかもちげん,脚本 高原泉,漫画 やぶうちゆうき / 講談社モーニングKC
2001-09-25 強い女といえば 『紅一点論 −アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』 斎藤美奈子 / ちくま文庫
2001-09-24 ちょっと気分転換 『塀内夏子短編集2 〜いつも心に筋肉を〜』 講談社マガジンKC
2001-09-23 独身者の機械 その五 アナベル・リー
2001-09-22 独身者の機械 その四 ジョナサン・スウィフトの結婚


2001-10-07 中国三千年のとっぴんしゃん 『仙人の壺』 南 伸坊 / 新潮文庫


【巻物は白紙であった】

 己とはどこから来て,どこへ行こうとする者なのか。
 ……とかいう問いに浸ってみるのもたまにならよいが,そうそう何度も,長々とやるべきことではない。くたびれるか,虚しくなるのがオチだ。
 そこで,たとえば近所の土手にザリガニを釣りにいく。青空の下,2つのハサミで糸の先のスルメをつかむ,つかまない,ソリッドでディジタルな世界。
 あるいは,『今昔物語』や『聊斎志異』のように,短い,原石のような文章に気の向くままあたるのもよい。

 『仙人の壺』は,中国古典の怪異譚(志怪とか伝奇とか称されるらしい)のいくつかをイラストレーターが本職(だったと思われる)の南伸坊が絵物語に仕立て,それに簡単な文章を添えたもの。
(1990年に潮出版社から発行され現在絶版になっている『チャイナ・ファンタジー』から9編,単行本未収録作7編が収められている。残る作品はマガジンハウス社から『李白の月』というタイトルでこの秋に発行されるらしい。)

 中国古典に着想を得て,といえば芥川龍之介『杜子春』,中島敦『山月記』,太宰治『竹青』など枚挙にいとまがないが,本書のイラストは,それらに比べると原作の捻じ曲げはさほどない。少なくともイラストに添えられたテキストは原作にかなり忠実なように思われる。ただし,イラストレーションとしてはたいへん凄い。シンプルで白っぽい画像なのだが,(今どき珍しいほどに)前衛的,実験的なテクニックが大胆に割り振られ,イラストレーターとしての南伸坊の面目躍如,といったところだろうか。
 イラストの部分は各編8ページに過ぎないので,書店で見かけたら1つ2つ目を通してみていただきたいと思う。

 それぞれのストーリーは,怪異といっても決して怖いようなものではなく,素っ頓狂であっけらかんと説明のつかないようなものばかりだ。
 たとえば,ある人が山に入って大蛇を撃ち殺したところ,それに足があるので持ち帰ったところ,役人が「その蛇はどこにあるのだ」と問う。その人が蛇を地面に投げ下ろすと,蛇は見えるようになったが,今度はその人の姿が見えなくなった,とか。
 鼠が衣冠をつけて現れて「お前は正午に死ぬ」と繰り返し語り,無視していると正午にその鼠がひっくり返って死んでしまった,とか。

 怪異を無視する話や,怪異を無視できない話が多いような気がするが,それが中国古典の特徴なのか南伸坊の趣味なのかはよくわからない。

 ただ,各編に添えられた作者による解説文はくきりとしたグラフィックに比べると冗漫で,いかにも蛇足といった感じがする。
 また,巻末の解説がミステリ作家の北村薫なのも,なんとなく鬱陶しい感じだ。最近,なんだかやたらあちこちでこの人の文庫解説を見るような気がする。あの手この手を駆使して作家を褒める,その手腕を買われてのことだろうが,あまり頻繁に目にするとその手腕があざとく見えてしまうのである。

先頭 表紙

稲田孝『聊斎志異を読む 妖怪と人の幻想劇』(講談社学術文庫)という本も並行して読んでいたのですが,これはどちらかというと「聊斎志異のこのお話の裏には作者の」といった研究に基づくもので,ちょっと体が求めているものとは違う感じでした。 / 烏丸 ( 2001-10-07 02:50 )

2001-10-02 [雑感] さらば長嶋

 
※ジャイアンツファンには楽しい文章ではないかもしれません。前もってお断りしておきます。

 長嶋監督,最後の試合が終わった。0-5で阪神の完勝。
 これで讀賣は4連敗。東京ドーム最終戦といい,星野監督の辞任発表後の中日の7連敗といい,東尾西武の連敗といい,監督が辞めるというのは,そんなに士気にかかわるものなのか。
 個々の選手にしてみれば,監督が代わろうが,個人の成績というものがあるだろうに。

 東京ドームでの最終戦,日本テレビは自局で放送できる讀賣主催試合が最後なので「最後,最後,最後」と連呼。その気配りを息子の一茂が「あと阪神戦が1試合ありますが」と無頓着に踏みにじったのが笑えた。
 9回表,引退の決まった槙原の登板に長嶋監督がマウンドに向かい,ゲスト(?)の徳光アナが泣き崩れる。ジャイアンツファンであることが職業のアイデンティティであるだけに,イジワルな見方だがここで泣かない手はない。

 もう1点,ほとんどの解説者が長嶋万歳を繰り返す中で,一茂だけが「すべてを犠牲にして今まで」と口にしたのが興味深かった。深夜のスポーツ番組では長嶋監督自身も「すべてを犠牲に」と発言。
 つまり,「長嶋ジャイアンツ」は長嶋本人,および長嶋家をすべて犠牲にした上に成り立っていたものだった,少なくとも,長嶋家の人間はずっとそういう意識を持ってきたということだ。犠牲。軽い言葉ではないと思うが。

 セレモニーでの長嶋の挨拶は,現役引退時の「巨人軍は永久に不滅です!」に比べると,とくに決めゼリフもなく,穏やかで地味なものだった。
 すでに引退を表明している槙原,村田真,斎藤もセレモニーに並ぶ。考えてみれば今年引退する讀賣の選手はこの3人だけではないはずで,この後引退を表明する選手,あるいは表明したくなくとも契約してもらえない選手は結果的に可哀想な気がする。同じ引退するなら,この日,この場に並べばよかったと後悔しないだろうか。
 しかし,記者会見に並ぶ槙原,村田真,斎藤の3人を見て,しみじみ,ジャイアンツという球団は戦闘する男の顔,プロの顔を作れないアイドルタレント集団なのだなと思う。いずれもしまりのない,にやついた頬,そして目。20年間一流として活躍,ファンの目にさらされてこんなものか。

 個人的には,テレビ東京のスポーツ番組で,キャスターの定岡が長嶋にインタビュー,「監督,最後に握手してください」と握手した後,万感迫って泣き出してしまい,しばらくどうにも声が出なくなった場面のほうがよほど好感がもてた。
 定岡は,ピッチャーとしてそう好きな選手ではなかったし,キャスターとしてもそういい印象はないが,いろいろ抱えていたものが一気に噴き出たのだろう,キャスターとしては問題かもしれないが,よほど長嶋の引退を(損得抜きに)素直に泣いている感じがして,よかった。
 これは勝手な推測だが,定岡が在籍した第一期長嶋監督時代には,現役時の威光と監督としての溌剌とした言動があって,選手たちへのインパクトも強かったのではないか。第二期は,選手自身には神々しく見えるわけでもないのにただ不可侵,反論できない存在として,煙たいばかりだったのではなかったろうか。
 所詮,昭和のヒーローなのである。とっとと引退して,別所のように外から笑ったり怒ったりしていてくれればよほど好感をもって見られたのに,とも思う。

 これで,讀賣は長嶋監督から原監督に。
 中日は星野監督から山田監督に。
 西武は東尾監督から現役キャッチャーの伊東か。
 オリックスは仰木監督から元西武・ダイエーの石毛か。

 顔ぶれは変わるが,フレッシュとは言えまい。昨今の10代,20代の若者にこれらの名前が伝わるとは思えない(悪い冗談だが,新庄が来年いきなり讀賣の監督をやったほうが,よほど客を呼べるかもしれない)。
 視聴率は長嶋ドーム最終戦(平均26.5%,瞬間最高39.5%)を女子マラソン高橋尚子のまったく面白味のないレース(平均36.4%,瞬間最高53.5%)が圧倒。

 プロ野球はこのまま,能,狂言のような,一部高齢ファンにしか通じない伝統芸能になってしまうのか。それでも生き残るならまだマシで,記録を目指すローズにボールばっかり投げているようでは……。

先頭 表紙

定岡は手足が長すぎてピッチャーとしてはあまり好きなタイプではなく(その分,投球後の蹴り足の上げはきれいでしたが),スポーツキャスターとしてもとくにいい印象はなかったのですが,今回は「サダよ,男の涙だねえ」てな気分になりました。ちょっと甘いでしょうか。 / 烏丸 ( 2001-10-14 03:45 )
ゴーストライターの手も加わっているでしょうが、定岡正二が元原稿を書いたには違いないと思われる現役時代の自伝には、プロはほとんど考えず大学進学を考えていたのを長島氏(監督1年目)の言葉に動かされG入団を決めた、とあります。良くも悪くも自分の人生を変えた人でありましょう>定岡にとっては / あめんほてっぷ ( 2001-10-11 20:53 )
ヤクルト,ようやく優勝。おめでとう。若松監督の「ファンのみなさん……おめでとうございます」という挨拶がなんとも可笑しい。スポルトで酔って爆睡してしまった藤井選手がまた。 / 烏丸 ( 2001-10-07 02:43 )
ローズ残念,55本どまり。でもよく打ってくれました。また来年。……しかし,振り返ってみると,松坂,よく55号を打たせたな。 / 烏丸 ( 2001-10-05 21:10 )
しかし,ヤクルトもあと1勝となって,勝てません。古田の膝は心配だし,残る5試合の相手がシビアにAクラス争いしてる横浜と広島とは。今夜は……ヤクルトは試合がなくて,おお,近鉄がオリックスと。仰木監督は前回ローズと勝負していたから,これは期待だ。 / 烏丸 ( 2001-10-05 14:39 )
(今後は,どう表記しよう。西武,近鉄,ダイエー,中日,阪神……に対して東京でも巨人軍でもヘンだし。全部カタカナの部分にするか。でもそれだと長くなるし)ジャイアンツの選手では,小林,浅野が好きでした。浅野って最後の数年に150kmの直球投げるようになった,妙な選手でした。 / 烏丸 ( 2001-10-03 16:06 )
Hideyさま,カラスはアンチ巨人ですが,昨夜某所で「アンチ巨人な人は悪意をこめてジャイアンツのことを『讀賣』と表記する」という指摘を見て途方に暮れてしまいました。大昔のドラフト会議のパリーグ広報部長(のちのパンチョ伊藤さん)の「よみうり くわた」などから,「讀賣」が公式の略称と思い込んできたからです(旧字なのは記者の名刺から)。ちなみに公式名は「東京読売巨人軍」なんですね。 / 烏丸 ( 2001-10-03 15:58 )
僕もアンチ巨人。どこのチームも別に好きでも嫌いでもないのですが、巨人だけはちょっと。。。かつて江川が投げてたときだけは面白がって見てたのですが。「闇の昭和史伝」、笑わせてもらいました。 / Hidey ( 2001-10-03 13:54 )
パー太さま,メジャーリーグの戦術あれこれを扱ったジョージ・F・ウィル著『野球術』(文春文庫,上下巻)を最近ぱらぱら読んでいるのですが(情報が少し古いが非常に面白い!),かの国でも空き地がなくなった,空き地で野球をする子供がいなくなった,体力のある子がほかのスポーツに流れる,リトルリーグ時代から変化球でかわすピッチングを覚えてストレートを投げらる肩が作られない,とどこかで聞いたような。日本よりファンのおじさん度は低いようですが,今後が心配です。 / 烏丸 ( 2001-10-02 14:06 )
日曜午後のスポーツクラブ・ラウンジでのTV人気ランキングは、@長嶋監督特番、Aゴルフ、Bベルリンマラソンでした。このクラブ、おっさんでいっぱいなんです。 / ガルシアパー太 ( 2001-10-02 13:22 )
長嶋とプロ野球界をめぐる昭和の大陰謀については,こちらもご参照ください。 / 烏丸 ( 2001-10-02 12:50 )

2001-10-01 [雑感] 中島みゆき「船を出すのなら九月」

 
 中島みゆきの7枚めのアルバム『生きていてもいいですか』は1980年4月5日発売,

   うらみ・ます
   泣きたい夜に
   キツネ狩りの歌
   蕎麦屋
   船を出すのなら九月
   (インストゥルメンタル)
   エレーン
   異国

とい内容で,黒ベタにアルバム名だけのジャケットや,冒頭の「うらみ・ます」の印象のあまりの暗さゆえか,その前後のアルバムの中でも最も重苦しい印象が強い。彼女の(一見明るい)曲に見え隠れする,切なさや悲惨さを外から笑い飛ばそうとするようなメロディ,フレーズにも乏しい。

 その中で,「船を出すのなら九月」はタイトルからして見事な,稀代の佳曲ではあるのだが,残念なことに主旋律が往年の名曲と瓜二つだ。盗作かどうかは別として,どう聞いてもまったく同じなのである。

 その曲とは「小さな木の実」,1971年にNHKみんなのうたで取り上げられたもので,海野洋司作詞・ビゼー作曲(「美しいパースの娘」から)。
 歌ったのは「詩人が死んだとき」「こわれそうな微笑」の大庭照子,映像は草原の実写に赤や茶色の紅葉をあしらったカットの組み合わせだったように記憶している。ビゼーの原曲をはなれ,秋の木の実,つまり父親の死と少年の成長をうたった,心に染みる美しい曲である(のちに,ほかの歌い手によって何度かリメイクされているし,みんなのうた名曲集といったたぐいの楽譜やアルバムにもよく収録されている。「なつかしい童謡・唱歌」「midibox」にはMIDIデータが提供されているので,気になる方,興味のある方はどうぞ)。

 もちろん,ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)の作曲したメロディについてはすでに著作権は切れており,最近DA PUMPが同じくビゼーの「アルルの女」を利用したのと同様,今さら責められる筋合いはない。だが,80年当時すでに大ヒットメーカーだった(桜田淳子らが歌ったヒット曲を自分で歌い直した『おかえりなさい』が『生きていてもいいですか』の前年)中島みゆきが,わざわざ盗作,パクリと指摘されるような危ない橋を渡るわけもない。
 おそらく,たまたまNHKみんなのうたを小耳にしたものが意識の奥底に潜り,それが「船を出すのなら九月」という歌詞のフィルターを通して噴き出てきた,といったところではないか。

 ここではこれが盗作であるかどうかを問いたいわけではない。
 「小さな木の実」も,「船を出すのなら九月」も,ナイーブなナイフが胸を刺す佳曲であることにはかわりはないのである(要するに,ビゼーがすごい,ということかもしれない。このビゼーが生前はほとんど評価されず,無理解な妻のために作品が散逸しかかったとは信じがたい)。



 そして,ここで本当に書きたかったことといえば……。

 だが,もう九月は過ぎてしまった。
 今はただ茫洋と船の上から過ぎ去った夏を振り返るばかり。
 ただ舳先を打つ波の音にあてどない旅を思うばかり。

先頭 表紙

「怜子」はその前の「元気ですか?」の語りから……どん!と心に入る,中島みゆき全アルバムの中でも“つなぎ”の妙では傑出した作品ですよね。で,その「怜子」,表向きは幸福をつかんだ怜子と風に追われる「あたし」の対照を歌いつつ,実のところは「一人で道も歩けない」女の子を選んでしまう男のずるさが責められているような気がします。のちの「テキーラを飲みほして 」にも通ずるような。 / う,うしろめたいわけじゃない〜 ( 2001-10-14 03:44 )
なるほど。そう考えると、みゆきさんの曲は一つ一つに何かが隠されているような気になってきました。怜子はどうかなあ? / フィー子 ( 2001-10-13 15:44 )
なるほど,パキスタンとバングラデシュの間に巨大なインドが。……チガウ。 / 烏丸 ( 2001-10-03 16:07 )
ども ご無沙汰しております(^^)境界線ですか? 確か名古屋まで行ったところで、巨大なきしめん地帯になってしまいまして...(^^; / Hikaru ( 2001-10-03 14:02 )
で,結局「うどん そば」「そば うどん」の境界はどのへんだったのでしょうね。「あほ ばか」の境界と一致するとかしないとか。 / 烏丸 ( 2001-10-02 21:08 )
Hikaruさま,お久しぶり。ちなみに,讃岐うどんの本場・香川では,うどん専門店が当然圧倒的に多いわけですが,大衆食堂,パイプ足のテーブルを置いたような店(テーブルの上にコインの占い機があるような)では,メニューにあるのはうどんと蕎麦,ではなくてうどんとラーメンですね。香川で蕎麦を食べるのは簡単ではないかもしれません。 / 烏丸 ( 2001-10-02 21:07 )
昔 「そば うどん」の看板が どこで「うどん そば」に変るのかを東海道に沿って追っかけ調査する番組を見ましたです。(ここいらでは うどん そば・・・かな?)(‥ ) / Hikaru ( 2001-10-02 20:39 )
讃岐うどんファンとしては,やはり蕎麦屋でうどんを食べるのは邪道かと思うわけです。 / 烏丸 ( 2001-10-02 14:46 )
泣きながらきつねうどんを食べてる、蕎麦屋が胸に痛いです。 / まやひこ ( 2001-10-01 23:18 )
あややさま,この曲をはじめて聞いたころ,カラスは酒におぼれる無為徒食な学生でした。記憶の中の九月はいつも雨で,七月はいつも朝です。 / 烏丸 ( 2001-10-01 20:43 )
ふ〜ねを〜出すのならくーがつ〜 ああ、高校時代の涙がよみがえる・・。私も小さな木の実に似てるなと思ったことがありますわー。(メジャーに転調したあともなんとなく)やっぱり何年経っても、急に聴きたくなります。ただ生きて戻れたら。 / あやや ( 2001-10-01 20:10 )
『美しきパースの娘』の「パース」は,「パース」が正解なのか「ペルト」が正解なのか。手元にあるアナログレコードは「ペルト」と表記しており,しかも「小さな木の実」のもととなった「セレナード」が収録されていない……。ちなみに『美しきパースの娘』が発表されたのは1867年,日本ではヒトハムナシキ慶喜ドノ,で大政奉還ですね。 / 烏丸 ( 2001-10-01 13:07 )
知人とのメールのやり取りにこの「船を出すのなら九月」が出てきたので,書き記しておこうと思った次第(中島みゆき論に手を出すつもりはありません)。なお,昨年10月25日の「くるくる」に「せいぜい『美しきパースの娘』について知ったかぶりする」と書いたのは,このことを差しています。 / 烏丸 ( 2001-10-01 13:07 )

2001-09-29 独身者の機械 その七 ピュグマリオーンと象牙の乙女

 
【けれどもピュグマリオーンはどうしても、どうしても、どうしても、】

 泉木修の「百物語」には,ギリシア神話に題材をとった「ピュグマリオーン」(第六十五夜)という,もともとのギリシア神話をご存知ないとおそらく意味のよくわからないであろう短章がある。

 詳しくは後でそちらを直接読んでいただくとして,そのピュグマリオーン神話を簡単に紹介しておこう。このような話だ。
「愛しい女性がついには自分のものにならないことを悟り,女性を忌み嫌うようになった彫刻家のピュグマリオーンは,象牙の乙女の像を作り,それを飾り立て,ついにはアプロディーテーにその象牙の乙女を妻にしたいと祈る。願いは聞き届けられ,象牙の乙女は人間となり,ピュグマリオーンと結ばれる」

 だが,この話は,どこか辻褄が合わないような気がしてならない。
 そもそも,冒頭であっさりと話題から消えてしまうピュグマリオーンが愛した女性とはいったい誰だったのだろうか。神話はその氏素性には一切触れていない。しかし,アプロディーテーに祈るなら,まずはその女性と結ばれるように願うのが先ではないか。つまりそれは,愛が成就することが困難なのではなく,女神の介在によっても愛が成就することそのものがはばかられるような相手だったのではないか。そして,だからこそピュグマリオーンは女性を忌み嫌い,独身を誓うことになったのではないか。ならば,彼がこしらえた象牙の乙女もまた,結ばれてはならない相手に瓜二つだったのではないか……。

 「百物語」の「ピュグマリオーン」は,トマス・ブルフィンチ版『ギリシア・ローマ神話』の同章の結末の数行だけを書き換え,ピュグマリオーン神話の意味をがらりと変えたものである。ピュグマリオーンの愛してしまった女性が,もし彼の……ならば。そしてピュグマリオーンの愛が女性に似て女性にあらざる象牙の乙女に向かうとき,彼はスウィフトやキャロル,ポーと同じ意味での独身者だったのではないか。

 なお,「百物語」中でギリシア神話を扱った短章には第二十八夜「スピンクス」第三十八夜「ペーネロペー!」があり,前者には近親相姦の禁忌(タブー),後者には到達し得ないものを求める旅がそれぞれ描かれている。同一主題のヴァリエーションというべきだろう。
 だろう,などとまるで人ごとのようだが,本人がそのつもりで書いたのだから間違いない。
 泉木修は体調がよいときの烏丸なのである。

 さて,ピュグマリオーン神話の忘れてならないもう1つのポイントは,その愛の対象が象牙の乙女,すなわち「人形」だったという点だ。
 ここで私たちは,たとえば屈曲反転する少女人形を作り続けたシュルレアリスト,ハンス・ベルメールを,あるいは遺作として少女の裸体を古びた木製の開かずの扉の向こうに封じ込めた芸術家を思い起こすべきだろう。その芸術家の名は……。

先頭 表紙

peachさま,別にナイショにするつもりも深い理由もなかったのですが,まぁ,短いながらもオリジナルをものする以上,言い訳は無用,ということからあちらはどうしても寡黙なキャラになっておりました……。 / 烏丸 ( 2001-10-01 20:32 )
ひえぇ〜い。ナンだかそんなに早くから2つの日記を全く別人のように書いて来ていらっしゃったのですね。。。知らなかったわ!?奥が深すぎるぅ〜。 / peach ( 2001-10-01 18:52 )
いや,カエルさま,当人は知ってたわけですから(当たり前),そんな重大発表とかいう自覚は別に……。書いてることもよく見ればシュミが同じですし(これまた当たり前)。ちなみに泉木のひまじんでの会員番号が77番,烏丸が78番。つまり,烏丸のほうが陰の存在なのであります。 / 烏丸 ( 2001-10-01 13:11 )
えっ!泉木修さまイコール烏丸さま?・・・重大発表をさらりと! しかし全然気が付きませんでした・・・。 / カエル ( 2001-09-29 13:18 )

2001-09-28 独身者の機械 その六 永遠の回転運動

 
【42.195のフロイト】 ← 意味なし

 同じ「少女愛」でも『ロリータ』のハンバート・ハンバートの場合と,ルイス・キャロル,ジョナサン・スウィフト,エドガー・アラン・ポーらの場合とでは何かが決定的に異なって見える,ということを前回指摘した。

 なぜ,ハンバート・ハンバートはロリータと肉体関係を結ぶことができ,残る3人ではセックス,あるいはそもそも乳房,初潮といった第二次性徴そのものまで忌避したように見えるのか。

 まず,後者,たとえばスウィフトやポーには,そもそも肉体的に性的不能だったのではないか,とする説がある。性的快楽を享受できないがゆえに性の脅威を感じさせない少女,幼女に情愛を傾け,現実の肉体関係の代償として言葉遊びや論理遊びにいそしむ。
 これはそれなりに説得力のある説だ。ことにスウィフトの場合など,その高いプライド,聖職界での政治的成功の代替として風刺小説を書いたことと透かせ合わせても,十分納得できるものである。

 もう1つの,さらにうがった説として,彼らの少女愛の背景に近親相姦に対する禁忌(タブー)の気配を見るというものがある。近親相姦の衝動が「罪」の意識から去勢コンプレックスに結びつき,ナルシシスム,あるいはオナニスムとなって現れる……とかいう,例のフロイトのアレである。

 たとえば,先にあげたジョナサン・スウィフトには2歳違いの姉ジェインがいたが,彼がステラ,ヴァネッサとの三角関係のさなかに突然奇妙かつ実現不可能な条件をつけて結婚を申し込み,苦心惨憺の末に相手が了解したら,姉が結婚すると同時にスウィフトのほうから断ってしまった相手の名前がその姉と同じジェインだったこと。ステラとの(擬似)結婚の折りに「スウィフトとステラは実の兄妹だ」という噂を流したのが当のスウィフトではないかと思われるふしがあること。
 エドガー・アラン・ポーが叔母のクレム夫人を「母親」としての思慕を抱き,姪のヴァージニアへの手紙の中で彼女を「妹」と呼んだこと。ポーの代表作の1つにおいて,「アッシャー家」は濃密な近親相姦の禁忌のもとに崩壊していくこと。
 キャロルのアクロバティックな詩や童話は,そもそも妹たちのために作った家庭誌"Mischmasch"(ごたまぜ,の意)が発端だったこと。人間嫌いで通したキャロルが,晩年まで妹たちとは親しかったこと。

 もちろん,家族のためにお話を作っただけで近親相姦を疑われたのではかなわない。独身男が妹の家で死んだからといって,何の不思議があるわけもない。
 またジェインはありふれた名前だし,姉の結婚に寂しさを覚えた弟が身近な女に走るのもありそうなことだ。

 だが,それでも,(当人がそう書き残すわけはないから証拠がないとはいえ)この設定は魅力的だ。母親や姉妹への絶望的にかなわぬ愛慕を自分の中で折り返すうちにその愛の矢印は性的に未成熟な少女に向かい,精神の中の内燃機関は言葉遊び,論理遊びを執拗に繰り返す。達成できないことの代償であるこの遊びは,コミュニケーションという実用性を失い,とことんノンセンスの領域にはまり込んでいく。

 つまり,ロリータの肉体を抱けてしまったハンバート・ハンバートと異なり,スウィフトやキャロルやポーにとっては,愛の対象とは愛が成就できないことそのものであり,愛の成就とは肉体的接触のともなわぬ,ただ精神の機械的な回転運動なのである。
 もしそうならば,the winged seraphs of HeavenがAnnabel Leeと私をうらやむのも当然だったろう。その愛は,地上の肉の上にもったりと成就した愛ではなく,形而上の,いわば虚数空間にまっすぐに張り渡された太さを持たぬガラスの直線なのだから。

 実は,このひまじんネットでは,ちょうど1年前に,このような精神のあり方について描いた作品(?)が提示されていた。それは……。

先頭 表紙

2001-09-26 語られないことで語られる真実 『警察署長(4)』 原案 たかもちげん,脚本 高原泉,漫画 やぶうちゆうき / 講談社モーニングKC


【何も言うな】

 『代打屋トーゴー』『祝福王』の作者たかもちげんが癌で亡くなったのは昨年7月5日のことだった。
 当時モーニングに連載されていた『警察署長』が絶筆となったわけだが,週刊誌の刊行スケジュールを考えるに,亡くなる直前まで作品を描いていたのではないかと想像され,切なさと羨ましさに胸が痛む。
 もし病で倒れるとして,己は死の床でまで何かに熱中,没頭できるだろうか。

 『警察署長』の主人公は,警視庁本池上署署長・椎名啓介(警視正,38歳)。彼は異例の出身地勤務,さらに異例の在任10年目,さらにキャリアとは思えない昼行灯……。
 もちろんマンガであるから,昼行灯に見えて実は,という話ではあるのだが,この読み切り連載には連載開始当時から,たかもちらしからぬというか,微妙な苛立ちを覚えた記憶がある。

 たかもち作品では,本業公務員の代打屋であれ,新興宗教の教祖であれ,つまり謎にあふれた設定でも,1つ1つのコマでは隠し事のない,一人称の展開が常だった。しかし『警察署長』は読者に対してペルソナ(仮面)を被り通す。椎名の人間洞察にあふれた推理,地元に密着した知識から事件が解決するのはこういったマンガのお作法通りなのだが,そのくせ妙にベールの厚い,すっきりしない印象が強かったように記憶している。
 それが,警察関係に詳しい原案者の存在によるものか,自らの闘病を隠そうとした結果だったのかはわからないが,作者の訃報に接したとき,ああこのままベールは開かれないのかと脱力したことは確かだ。

 その,『警察署長』がモーニング誌で復活している。作画はやぶうちゆうきという若手(といっても年齢はわからないのだが),画風からみてたかもちのアシスタントの1人ではないか。
 メジャー誌での作者を代えての連載継続には,あまりよい印象がない(といってもすぐには『柔道一直線』に『空手バカ一代』程度しか思い浮かばないが)。だが,今回に限って,そう悪いことではないように思われる。まず,新しく登場したノンキャリアの前田吾郎,キャリアの相馬俊彦が警察システムの仕組みを描く上で巧い役割を果たしていること。もう1つ,椎名啓介が警察システムの中でタブーとなるいきさつの描き方が,巧い。原案者が当分隠すつもりなのか,実は(亡くなったたかもちの胸にあって)正解がないのか,椎名の同期の高杉という警察官が死に,その真相を椎名だけが知っているらしい,ということだけが明らかになるというなかなか力のこもったタネ明かし(正確にはタネ明かさず)が,初めて椎名の生の声を描いて見事だ。その生の声が,もう1人の同僚(のちに警察官僚として出世する)堂上を巻き込むまいとする「何も言うな」という台詞であることで,この『警察署長』第4巻は,たかもちの遺作であることを越えて新しい局面に到達したと見てよいだろう。つまりここにいたって,なにやら主人公の声が聞こえないくぐもった作品は,「語らない」ことでより大きな何かを語るという構造を獲得したのである。

 たかもち同様決して旨い絵ではないし,物語の展開も極上とはいえないが,一部の脇役のごつごつした存在感といい,要チェック作品だと思う。
 いずれこの作品を最初からきちんと読んで,「相手を読み切る」ことについて考えてみたい。この作品は相手を読んで読んで読み切る,将棋や囲碁のようなミステリを狙ったものだが,その作品そのものに隠された意図を読み取るのは,残された読み手の今後の務めであるように思われる。

先頭 表紙

そうなんです,しっぽなさま。上の本文の『代打屋トーゴー』のリンク先の日記が,そのときの追悼文になってます。 / 烏丸 ( 2001-09-28 02:35 )
えっ!?たかもちげんが亡くなっていたとは知りませんでした・・・・引きこもっている間に世間では色々変化がある、といってもあまりに悲しい。「代打屋トーゴー」は面白かったです。それからの作品は読んでいなかったのですが・・・ご冥福を祈ります。 / しっぽな ( 2001-09-28 00:46 )
TAKEさま,しかし『警察署長』の3巻まではとっくに品切れになってしまっているようです。探すほどのものかどうか。ちょっと悩みどころ。 / 烏丸 ( 2001-09-27 20:54 )
あややさま,警察署の地下4階というと,やはりなんというかあの,宿泊施設なのでありましょうか。 / 烏丸 ( 2001-09-27 20:52 )
最近では「ホテル」「味いちもんめ」なども作者・原作者が亡くなられてからも作品が続いています。僕も「代打屋トーゴー」以来、たかもち氏のファンでもあったので「警察署長」の再開も注目してます。おっしゃられる通り、もう少し経ったら最初からキチンと読み直してみたいですね。 / TAKE ( 2001-09-27 02:28 )
ホンモノの警察署長のイメージか・・。結婚式のスピーチの大半が署の社屋の紹介でありました・・。地上10階地下4階、とかいらん知識がつきました。 / あやや ( 2001-09-27 00:04 )
なんか,この私評だけ読んだら,どんなすごいマンガかと思っちゃいますね。実のところ,そんなに重い作品ではないんですけど。 / 烏丸 ( 2001-09-26 11:59 )

2001-09-25 強い女といえば 『紅一点論 −アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』 斎藤美奈子 / ちくま文庫


【森雪は高校野球部の女子マネジャーである】

 気分転換のつもりが,毎度のごとく1冊では片付かないのが悪い癖だ。
 だがひとたび「強い女」を話題にして,最近文庫化されたばかりのこの本を取り上げずにいられるだろうか。いや,いられない(反語)。

 斎藤美奈子『紅一点論』はアニメや特撮,伝記本の中に登場するさまざまなヒロインを取り上げ,男性社会の閉鎖性を斬り,返す刀で新しい女性の生き方を模索する……ような本では,少なくともない。
 どちらかといえば,アニメ・特撮おたくが過去の名作にメガネを寄せ,「あのシーン,オレはこう見たね」とうそぶく薀蓄本のほうがよほど近い。

 たとえば本書では,『ウルトラマン』や『マジンガーZ』の男の子の国のチームは親方日の丸の軍隊であると指摘し,そこで働く紅一点,つまり二十歳前後のセクシーな若い女は,父親の威光をカサに着た「七光娘」であり,公の仕事は通信係=電話番であり,陰の仕事は雑用とお色気サービスであると喝破する(『ドラえもん』のしずかちゃんさえ,シャワーシーンがお約束だ。しかも,しずかちゃんにはなぜか女の子の友だちがいない)。
 もしくは本書は,魔法少女の変身が体のいいコスプレであり,セーラー服,スチュワーデス,看護婦,パッツパツの水着状レオタードといった服装と大人の女の肉体への変身は,少女の夢の実現以上に,おやじ好みのイメクラ遊びに近いと言い当てる。

 ナイチンゲールはセカンドネーム,ヘレン・ケラーはフルネーム,そして何故かキュリー夫人には「夫人」という肩書きがつく。その理由についても筆者は十分納得のいく答えを用意しているのだが,「こうあるべき」「今後はかくあるべき」ということまで示すわけではない。
 本書はあくまで「アニメや特撮や伝記はこうで,こうで,こうだ」と伏せられたカードを順にめくって見せるだけ,その巧みな手さばきと綿密な調査に感心させ,笑わせるばかりである。

 本書はつまり,ジェンダー(性差)にとことんこだわった本ではあるが,フェミニズムの今後について,なんらかの明確な解答を提示しようとするものではない。
 だから面白い。だから可能性がある(かもしれない)。
 必要なのは,誰も正面から反論を口にできないようなお綺麗な(だが現実にはとうてい実現不可能な)模範解答や,逆に読み手が思わず引いてしまうような強固で狭い思い込みではない。目の前で事実をひらひらと揺さぶり,クラブのジャックと思っていたところにダイヤのクィーンがあって,確かに見えていたことが実は薄ぼんやりとした思い込みでしかないことを思い知ることである。それだけでよいわけではないが,それなしには何も始まらない。

 ……と,前向きに締められればよいのだが,女権論についての筆者の思いはひょっとすると正面から論じられないほどに絶望的なのかもしれない。
 解説の姫野カオルコは本書を「性差にこだわった本ではない」とし,エンタテインメント性を強調するが,それでは片付かない苦いものが残る。たとえば次の一節など,アニメの製作者が男だから,となじるわけでないだけ,余計に筆者の絶望の深さを感じるのだが,いかがだろうか。

  『エヴァンゲリオン』が図らずも残したのは,「チームの男女比が逆転すると組織は内側から崩壊する」という事例であった。『もののけ姫』が残す印象は,以下のようなものだ。女のけんかは限度を知らない。女はふところが狭いので,敵の論理を認められない。女同士の間では話し合いが成立しない。(「第四章*紅の勇者の三十年」より)

先頭 表紙

みなみさま,正直なところジェンダーの話題に踏み込む(心の)用意はありません。キャロルが,ポーが,と話題にしても,それははっきり言って身勝手な男の側の話に限定しています。ただ,この本の裏にあるのは,怒り,焦燥の域ではない,さりとて諦観でもないように感じました。 / 烏丸 ( 2001-09-27 20:32 )
斎藤美奈子の女権論についての絶望、私も似たようなことを感じます。まだ少ししか読んでいませんが、これからたくさん読んでみたい文筆家の一人です。(何より、爆笑できる!) / みなみ ( 2001-09-26 23:16 )
文庫版が出ましたか。女の変身がドレスアップという一節には笑えました。 / まやひこ ( 2001-09-25 07:51 )

2001-09-24 ちょっと気分転換 『塀内夏子短編集2 〜いつも心に筋肉を〜』 講談社マガジンKC


【今の・・・・だめだったんでしょうかっ】

 少年マガジンという雑誌は,同じ水曜日発売の少年サンデーに比べて硬派というかヤンキーな登場人物が多いように見えて,その実,女流作家による細やかな素材や恋愛感情の扱いがページの厚みを支えている,という構図がある。
 きちんと調べたわけではないが,この10年ほどの長期連載を見ても『おがみ松吾郎』の伊藤実,『シュート!』大島司,『Tenka fubu信長』ながてゆか,そして『Jドリーム』の塀内夏子らが女性である。こうしてみると,女流作家による連載の比率はけっこう高い。

 塀内夏子は,デビュー当時は塀内真人というペンネームで描いていた。真人というのは弟さんの名前だそうで,『おれたちの頂』(けろりん氏による詳評あり),『フィフティーン・ラブ』,『涙のバレーボール』などを「真人」名義で発表したのち,高校サッカーを描いた長編『オフサイド』の11巻以降は本名の塀内夏子で上梓している。作者名が変わったと読者が動揺したふしもないので,少年マガジンの読者にとってはたいした問題ではなかったのだろう(欄外の落書きなどからなんとなく作者が女性であることがうかがえたし)。

 だが,女流だから女性的,というわけではない。むしろ,これ以上ないくらい正当派の少年マンガだといえる。
 塀内作品では,さまざまなスポーツをテーマに,やんちゃな主人公が,そのスポーツに打ち込むうちに真摯な姿勢を身につけ,仲間や周囲とのいさかいを突破して最後には本当の勝利を得る……ベタといえばベタ,ワンパターンといえばワンパターンなのだが,ツボにはまると泣ける。いやもう,実に泣ける。

 この9月,その塀内夏子の短編集が2巻,同時に発売されるという情報を得た。彼女の短編集といえば,デビュー当時の『ダイヤモンド芸夢』『サーカス・ドリーム』などが絶版になっている。そのあたりの再販だろうか。
 では,なかった。

 『塀内夏子短編集1 〜天国への階段〜』は,表題作こそ始まったばかりで打ち切りになった(ほかの連載とのスケジュールの兼ね合いからか?)ボクシングマンガだが,実質は女子マラソンを描いた「42.195のダフネ」がメイン,それに女子プロレスの北斗晶,神取忍やマラソンの有森裕子へのインタビューが巻末に掲載されている。「42.195のダフネ」は,美貌と素質を鼻にかけた,少々性格に問題のありそうな女の子が,ブランクののちに日本最高記録を塗り替える話。もちろん,塀内作品であるから,彼女は実はピュアな心の持ち主だし,石部金吉のコーチも心の奥底では彼女のことを憎からず,なんて説明するほうがヤボであろう。

 『塀内夏子短編集2 〜いつも心に筋肉を〜』では,女子プロレスを描いた表題作が秀逸。空手が得意で乱暴な少女紫(ゆかり)は,高校を退学して女子プロレスの世界に入門する。無口で無愛想なゆかりは,チャンピオンの陽子と闘うことになって……。こちらはゆかりの同級生の心臓の悪い青年との交際が彼女の闘争心を止揚する。これに平泳ぎの選手の引退を描いた「水の子」,さらに棒高跳びを題材にした掌編「谷川高校へっぽこ陸上部」が添えられている。

 いずれもこの10年以内に,主に青年誌で発表されたもの。代表作の長編連載のように個性的な登場人物が次々に登場して青春群像を形作るというわけではないが,逆にいえば主人公の苦闘と異性へのほのかな思いがくっきりと描かれて好感が持てる。これで1冊390円(税別),お買い得だ。

 それにしても……強い女は美しい。

先頭 表紙

月刊マガジンといえば『VIVA!CALCIO』ですが,これはセリエAが舞台ですから違いますよね。ボリビア。うーん,なんでしょう……? / 烏丸 ( 2001-09-26 01:54 )
フットボール漫画、大好きなのがひとつだけあったなあ。確か、ボリビアとかに主人公が行っちゃうやつ。月刊の少年マガジンだったと思う。烏丸さん、知りません? / ガス欠コイン ( 2001-09-26 00:40 )
高校サッカーを描いた長編『オフサイド』でも,登場人物たちの生活がサッカー一辺倒でないこと(テニスや剣道と掛け持ちの選手も出てくる),ライバル校でも試合中以外はいたってなごやかなお付き合い,勝ちより負け方のほうに重点をおいて描くこと……そのあたりにこまやかさを感じます。甲子園,プロ(それも讀賣)という一極集中型の野球ではないから,という面もあるかもしれませんが。 / 烏丸 ( 2001-09-25 15:06 )
塀内夏子さんはフランスW杯前、日本代表の成績予想で、堂々と「三戦全敗」を予想していたのが印象的でした^^; 「42.195のダフネ」は僕も好きな話でした。読み損なった話もあるようので、買ってみようかなあ…なんて思 / TAKE ( 2001-09-25 13:52 )
そうですね、確かにスポーツ漫画の作者って女性作家が増えていますね。新進のスポーツライターにも女性の方が増えている気もするのですが、共通してスポーツに対するとても自然で柔らかい眼差しがあるような気がします。かたや男性ライターのイメージって貧困になってきているのかなあ…なんて思ったりもしています^^; / TAKE ( 2001-09-25 13:51 )

2001-09-23 独身者の機械 その五 アナベル・リー


【海のほとりの王国で】

 彼がボルチモアの叔母,クレム夫人の元に身を寄せたのは,彼が22歳,従妹のヴァージニアが8歳のときだった。
 彼はその数年後,周囲の反対を押し切ってヴァージニアと結婚する。彼女が14歳のときだ。

 彼,エドガー・アラン・ポーは,陰影の深い詩作によってフランスのボードレールやランボー,ヴァレリーらに影響を与え,いうなれば象徴主義の祖となり,一方でイギリスのドイルに影響を与えて探偵小説,推理小説の祖となった。ディレッタントで鋭敏な偏屈探偵(デュパン)とその友人で凡庸だが実直な語り手の組み合わせ,密室トリック,暗号など,現代のミステリの多くの手法が彼の手によってすでに提示されている。また,ホラーやSFは太古の神話から脈々と築き上げられた文化であろうから,彼一人を祖とするのは無理があるだろうが,それでも「黒猫」や「アッシャー家の崩壊」が近代ホラーに与えた影響,「アーサー・ゴードン・ピムの物語」や「アルンハイムの地所」がのちのSFに与えた影響は決して小さなものとは思えない。
 彼の生涯は短く,残された作品は大半が短編でその数も決して多くはないが,天才の名はエドガー・アラン・ポーのような者にこそふさわしいといえるだろう。

 さて,今回の主題に戻る。
 ポーのヴァージニアに対する愛情は,残された手紙を読んでこちらが赤面しそうなほどのもので,彼らはともに愛しあい,むつまじい結婚生活を送る。だが,極貧の中でヴァージニアは胸を病み,彼女の死後,ポーは浴びるように酒を飲んで2年後に死んでしまう。
 だが,問題は,少女に対する恋愛感情,あるいは妻に対する情愛ではない。
 ボードレールはポーの評伝において,「ポオの小説には恋愛は出てこない。少なくとも,『リジーア』とか『エレオノーラ』とかは厳密にいって恋愛物語ではない,作品を旋転させる中心思想は,全く別種のものである」と述べている(小林秀雄訳)。ポーの作品には,一見恋愛感情に見えるものが何度も描かれている。だが,そこでは几帳面なまでに肉体的接触が避けられている。愛する者の肉体は天使によって奪われ,蛆に食われるものとして描かれる。そして,幼な妻ヴァージニアは,まるでそんなポーの心持ちをわかっていたかのように,死の直前に彼にこう告げたという。
「私が死んだら,あなたを守る天使になってあげる。あなたが悪いことをしそうになったら,その時は両手で頭を抱えるの。私が守ってあげるから」
 アーサー・G・ラーニドの描くヴァージニアの肖像はほっそりと清楚で,およそグラマラスなエロティシズムとは無縁な存在に見える。

 ポーの死後に発表された詩,「アナベル・リー」は,このヴァージニアへの思いを綴ったものと思われる。最初の二節をここに掲載しておこう。
(Poeの'ANNABEL LEE'と'TO HELEN'はいうなれば烏丸の永年の愛唱詩であり,学生時代には意味もなくそらんじたものだ)
 さほど難しい言葉も出てこないので,どうか小さくとも声に出してお読みいただきたい。


      ANNABEL LEE

              Edgar Allan Poe

   It was many and many a year ago,
     In a kingdom by the sea,
   That a maiden there lived whom you may know
     By the name of Annabel Lee;
   And the maiden she lived with no other thought
     Than to love and be loved by me.

   I was a child and she was a child,
     In this kingdom by the sea,
   But we loved with a love that was more than love ──
     I and my Annabel Lee ──
   With a love that the winged seraphs of Heaven
     Coveted her and me.


 ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』は,この詩の引用から始まるといってよい。つまり,主人公ハンバート・ハンバートは,幼なじみのアナベルを亡くし,その面影にこがれるある日,ロリータと出会うのである。
 しかし,ハンバート・ハンバートをポーの直系の子孫と見なすことには抵抗を感じる。
 第一に,ポーやスウィフトやキャロルが現実に性的不能者であったか否かは別として,ハンバート・ハンバートはロリータの母親,そしてロリータ当人と肉体的関係を持つことができた,ということ。そして肉体関係そのものにはなんら嫌悪を感じていないように読めること。そしてもう1つ,ハンバート・ハンバートには決定的に欠ける(いや,満たされた?)要素があるように思われる。

 それは……。

先頭 表紙

Chilling and killing my Annabel Lee というのがリアルな感じです。有名な話ですが,胸を病んだヴァージニアが,粗末なベッドの上で震えていて,暖をとるものといえば薄い毛布と猫しかなかった,というのがあります。 / 烏丸 ( 2001-09-26 11:58 )
つづき読みました。悲しい詩ですね。 / アナイス ( 2001-09-26 00:59 )
アナイスさま,詩の全編は「Poe Annabel Kingdom」などで検索すると,わりあい簡単に見つかります(まぁ,アメリカで書かれた最も有名な詩の1つですし)。たとえばここにはThe RavenやTo Helenもアップされているようです。邦訳も「ポー アナベル 王国」で見つかりますね。たとえば,ここ。 / 烏丸 ( 2001-09-25 12:28 )
ガス欠コインさま,愛を超えた愛をもって愛しあってしまったら,手を触れてはいけないし,もちろんセックスなんてもってのほか,Annabelのように天使に連れ去られるほかない,というのが今回の一連のテーマであります。 / 烏丸 ( 2001-09-25 12:28 )
フィー子さま,ポーにはThe Raven,つまり「大鴉」という少し長めのウツウツとした詩がありまして,烏丸のカラスの由来は,実はその「鴉」にあります。 / 烏丸 ( 2001-09-25 12:28 )
みなみさま,もう1つ2つ気分転換(たまっている本やマンガのお片づけ)をしたら,続きをアップいたします。次のお題は,ここ,ひまじんネットにも関係しています。 / 烏丸 ( 2001-09-25 12:27 )
海のそばの王国で、て素敵ですね。この詩のつづきも気になりますが。 バラにもありますが、真っ白な花をつける西洋アジサイが、「アナベル」です。とても好きな花。 / アナイス ( 2001-09-25 07:53 )
「愛を超えて愛した」、想像を超える言葉です。根拠を見い出すのは難しいし、必要もないと感じます。性的な関係を嫌悪した愛も存在すると思うのです。もちろん、幼児との性交を嫌悪と感じない人も。言い切れないことも、整理できないこともありますが、この辺で。ゆっくりと、続編、お待ちしています。ありがとう。 / ガス欠コイン ( 2001-09-25 01:38 )
一気に読みました。フィー子さんが言うように、言葉の間に余韻が感じられます。人を愛する年齢とは、いつからなのか、誰も決めた訳ではありません。日本でも、アメリカでも、中学教師と生徒の肉体関係がニュースとして報じられましたが、共通しているのは、二人とも愛し合っていること。日本のケースの場合、結婚しましたね。それから、死んでも守りたい人は存在すると思います。もし、死んでしまったら、それは自虐的行為に映るかも知れませんが。 / ガス欠コイン ( 2001-09-25 01:34 )
小さく声に出して読んでみました。日本のものもそうですが、なぜか昔の言葉はゆっくりしているというか言葉と言葉の間に空間があるというか。気持ちのいい余韻を感じます。 / フィー子 ( 2001-09-24 17:32 )
このシリーズ、面白いです(^^* ゆっくり、続けてください。 / みなみ ( 2001-09-24 01:04 )
ところで,このシリーズだけ連発するのはさすがに重いので,気分転換に少しほかの本の紹介をはさむことにします。いや,もちろんちゃんと続きを書きますので……。 / 烏丸 ( 2001-09-24 00:55 )
添付画像は創元推理文庫『ポオ 詩と詩論』(東京創元社)。創元推理文庫には,同じ装丁で『ポオ小説全集』(全4巻)も発行されています。 / 烏丸 ( 2001-09-23 04:12 )

2001-09-22 独身者の機械 その四 ジョナサン・スウィフトの結婚


【「スウィフトとヘスタは実の兄妹だ」という噂を流したのはスウィフト当人だ,という噂】

 『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルは,少女たちとのリアルなセックスの代わりに,言葉遊びや論理のアクロバットに没頭したのではないか,ということを述べた。もちろん証拠があるわけではない。邪推と言われればそれまでである。
 だが,文学史のところどころには,これとどこか似た匂いのする,奇妙な記録が散見する。

 今夜取り上げるのは,『ガリバー旅行記』の作者ジョナサン・スウィフト。そう,あの,小人の国(リリパット国),巨人の国(ブロブディンナグ国)を訪ねた船乗りの物語の作者だ。ラピュタ,ヤフーという言葉の発明者もこのスウィフトである。

 前もってお断りしておくが,烏丸は『ガリバー旅行記』を(ジュブナイルを除いて)きちんと読んだことがない。完訳本はぱらぱらめくったところで,放り投げてしまった。さらに,これからご紹介する逸話も,あちらこちらで「〜と言われる」「〜という説もある」と書かれたものから適当に抜粋したもので,根拠があるのかと聞かれればきっぱり「知らない」とお答えするしかない,そんな程度の話である。

 ジョナサン・スウィフトは,1667年にイギリス,ダブリンで生まれた。父親は彼が生まれる前に死に,母親にも見捨てられて乳母の故郷で孤児同然に育つ。のちのロンドンで学んで聖職者となり,一方で風刺的な作品を発表し始める。司教になることかなわず,ダブリンに引きこもって『ガリバー旅行記』(1726年)などを執筆,1745年,精神を病んで死去。

 彼は29歳のとき,生涯愛し続けるヘスタ・ジョンソン(愛称ステラ)と知り合う。このとき,ステラは15歳(別の資料によると,スウィフト20歳,ステラ8歳のとき,とある)。
 スウィフトは,ステラと相思相愛の仲にありながら,決して手を触れず,彼女と会うときは必ずステラの乳母を同座させたという。のちにステラの精神を安定させるために,名目だけの結婚式を挙げたとされるが,それにもかかわらずステラは死ぬまで自分のことを「老処女」と呼んだ。

 かと思えば,ステラと出会ったのとほぼ同じころ,スウィフトはジェイン・ウェアリングという女性に求婚している。そして,4年後にやっとジェインが同意したとき,彼は「君に僕との結婚生活が耐えられるものか」と絶縁状を送りつけている。

 のちには,エスタ・ヴァナムリー(愛称ヴァネッサ)という女性と知り合っている。ヴァネッサはスウィフトに一途な愛を訴えるが,ステラとの三角関係に心身ともに消耗し,胸を病み,スウィフトがステラと結婚式を挙げると力尽きて死んでしまう。
 スウィフトは手紙の中でステラを少年のようにYoung Sirと呼び,ヴァネッサを両性具有者(ヘルマフロデイトス)のごとく描いている。

 ……くどいようだが,どこまで本当のことだかはわからない。
 ただ,ここに見受けられるのは,異様なばかりに女性を意識し,そのくせ,肉体的接触を極端に嫌悪する精神だ。「フロイト風にいえば,異性との肉体関係によるエロティシズムの成就に対する根深い抑圧,つまり強烈なナルシシスムの傾向があったことが,そこに暗示される」(高橋康也)。

 スウィフトの書いたものとキャロルの書いたものとの間に見受けられる共通点についても,少しだけおさえておこう。
・ガリバーは訪ねる国によって巨人扱いされたり小人扱いされたりし,アリスは飲む薬によって巨大になったり小さくなったりする
・スウィフトがステラに宛てた手紙,キャロルが少女たちに宛てた手紙の中には,アルファベットを重ねたりはぶいたりした一種の幼児語が用いられている

 そして,スウィフトもキャロルも異常なばかりの潔癖症,整理好きだった。これは,肉体的,性的なものへの嫌悪と結びついていたのかもしれない。

 そして,少女との結婚といえば……。

先頭 表紙

添付画像は集英社の『ガリバー旅行記』(矢崎節夫訳)。ラピュタやフウイヌム国(馬の国。野蛮な生物,ヤフーが出てくる)が完全に省略された,いかにもの子供向け翻案本です。正直,これを現代の子供に読ませることに,何の意味があるかわかりません(といいつつ,子供に買って読ませてしまったバカ親)。 / 烏丸 ( 2001-09-23 03:41 )
すいません。ちょっとバタバタしているもので、今。でも凄く興味があるので1からゆっくり見させてくださいませ。 / ガス欠コイン ( 2001-09-23 02:20 )
むむむぅっ,そう言っていただけると……さ,さっそくこれから続きに挑戦するのでありますっ。 / 烏丸 ( 2001-09-23 01:20 )
いやーん、続きが読みたい〜!(@_@) / フィー子 ( 2001-09-22 11:31 )

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