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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-08-01 お盆の帰省列車にこの1冊 『茄子 1』 黒田硫黄 / 講談社アフタヌーンKC
2001-07-31 [補遺] ヤング・ミュージック・ショーについて ほか
2001-07-30 知ってるつもり?! 『キャラバンサライ』 サンタナ
2001-07-29 知ってるつもり?! 『遥かなる影』 カーペンターズ
2001-07-28 知ってるつもり?! 『マッドマン』 エルトン・ジョン
2001-07-27 [ぜんっぜん 書評ぢゃない] 消えたマンガ家 その六 『信長君日記』 佐々木けいこ / 白泉社
2001-07-26 悪夢のように静止する時間 『エイリアン9』(全3巻) 富沢ひとし / 秋田書店ヤングチャンピオン・コミックス
2001-07-24 メタファー(暗喩)としての 『未来のアトム』(その三) 田近伸和 / アスキー
2001-07-24 科学は意識や心を扱えない 『未来のアトム』(その二) 田近伸和 / アスキー
2001-07-23 ヒューマノイドの現在と,そして未来 『未来のアトム』(その一) 田近伸和 / アスキー


2001-08-01 お盆の帰省列車にこの1冊 『茄子 1』 黒田硫黄 / 講談社アフタヌーンKC


【あんた茄子嫌いじゃない】

 2001年7月,小泉首相はその改革へのパフォーマンスで参議院選挙を圧勝し,ヒットラーとの類似を指摘する夕刊紙さえ現れた。

 その同じ7月。
 こちらはナチ,ではなくて茄子。『大日本天狗党絵詞』,『大王』の黒田硫黄の新刊,連作短編集である。

 最初の話は,読書好きの中年オヤジが野良仕事を終え,納屋を開けて若い男女を発見するシーンから始まる。無気力な高校生・まるかは18,少年は5歳年下。家出らしいが,年下の少年のほうが仕切り屋で,オヤジは2人に茄子を食わせ,風呂を使わせる。
 なるほど,この3人が登場人物で? と思っていると,2人はあっさりと物語から消え,代わりにワケありな雰囲気の中年女がオヤジのもとを訪れる。ふうむなかなかこのオヤジもワケありそうな,と思っていると,その次はぜんぜん関係なさそうな高校の屋上の空中菜園が舞台で,その次にいたってはスペインの自転車レースがメインテーマだ。ほかのも面白いが,この「アンダルシアの夏」という中篇がなんとも凄い。ほんの50ページで,シブい映画をじっくり見たような気分になれるのだ。
 と余韻にひたっていると,やや,次の短編では,また最初のオヤジが登場する。それから,最後の短編には,また別の若い男女。
 いずれも,古い,上質な映画を思わせる。ということは,何気ないようで,アングルや台詞にいろいろなものがこもっているということか。とにかく50歳と45歳の添わぬ男女を描けるマンガというのはただ事ではない。

 いずれの作品にも,小道具として茄子が登場する。あの,紫色の,焼いて熱いのを皮むいて醤油かけたり,じっくりヌカに漬けこんだり,それから中華味で炒めたり味噌汁に入れても旨い,あの茄子だ。スペインのアサディジョ漬けは5日目が一番旨いのだそうだ(巻末にはちゃんと漬け方が載っている)。ワインと食え! ビールで食う奴は死刑だ! そうだ。

 これら脈絡のあるようなないような短編群に登場する茄子は,いったい何の象徴なのか……などと問うのはヤボの極みだろう。しいていえば,作者の太いペンタッチは,焼き茄子の皮のあたりのイメージにちょっと似てる。巻末のオマケの4コマが,また笑える。「夏はビールに限るなあ なすでも焼くか」という作者を台所で茄子たちがつるし上げ,「何がなすでも焼くかだっ!!」「なすのマンガ描いてわれわれをメジャーにしろ」「タマネギよりもメジャーにしろ」「大ブレイクしろ」……。

 さて,これが第1巻,大ブレイクは果たせるだろうか。

先頭 表紙

一見ガロふうなんですが,実はスピードというかアクションこもった感じですねえ。とらえどころはないけど芯はくっきり,という印象です。 / 烏丸 ( 2001-08-02 21:28 )
やや!でましたね!この方、大好きです。画力ありますねえ。『大日本天狗党絵詞』処分しなけりゃ良かった・・・某アングラ古書店に行ってみます。烏丸様、あったらゲットしておきま〜す! / しっぽな ( 2001-08-02 12:36 )
や,短編集がまた出ますか。要チェックですね。それにしても『大日本天狗党絵詞』,ずっと探しているのですが,これが書店店頭では見つからない……。 / 烏丸 ( 2001-08-02 03:17 )
わわわ、これは買わなくては。黒田硫黄の短編集(「大王」以降の作品)、イーストプレスから9月下旬頃に出るそうですよ。これも買いですね。 / けろりん ( 2001-08-02 00:48 )

2001-07-31 [補遺] ヤング・ミュージック・ショーについて ほか

 
○エルトン・ジョン
 『イエス・イッツ・ミー〜レア・トラックス』などが発売されたおかげで,エルトン・ジョンについては初期のCD化されてなかったマイナー曲も大半が手に入るようになっています。しかし,いまだブートレッグでさえ見かけないのが,かつて(1973年10月28日)NHKがヤング・ミュージック・ショー(*1)で放映した音源です。
 その内容ですが,まずは来日コンサートからJerry Lee Lewis「Whole Lotta Shakin' Goin' On」を一発(画質は悪いのですが,ピアノの前での飛び跳ねロックンロールで,まさに「一発」),そしてメインはロンドン・ロイヤル・フィル(ポール・バックマスター指揮)をバックに,「僕の歌は君の歌」「パイロットにつれていって」「60才のとき」「可愛いダンサー」「王は死ぬものだ」「黄昏のインディアン」「マッドマン」「布教本部を焼きおとせ」そして「グッドバイ」という,2nd,4thアルバムからのメロディアスなバラード中心に全体で約60分。
 実は,1993年に発売された『エルトン・ジョン/エルトン・スーパー・ライブ〜栄光のモニュメント〜』が,ストリングスをバックにオーストラリアで録音されたもので,明らかにヤング・ミュージック・ショー当時を意識した初期のメロディアスな曲中心の選曲なのですが,いかんせんこの時期のエルトン・ジョンは喉のポリープで高音が乱れ,曲によってはかなり聞き苦しい。
 やはり,若くはつらつとした時代のヤング・ミュージック・ショーのナイーブかつテレビ放映用とは思えないほどクリアな音源のCD化を期待したいのですが……。

*1「ヤング・ミュージック・ショー」……NHKが1971年〜1981年の約10年間にわたって,散発的に海外のミュージシャンのライブ映像を放映したもの。エマーソン・レイク&パーマー,ローリング・ストーンズ,ピンク・フロイド(ライブ・アット・ポンペイ!),スリー・ドッグ・ナイト,ロキシー・ミュージック,サンタナ,ポリスなど,プロモーションビデオがブームになる以前の貴重な洋楽ビデオクリップ,ライブ放映だった。

○カーペンターズ
 カーペンターズについて,デビュー当時から気になっていたのは,ともかくバックミュージシャンの写真がレコードジャケットに一切掲載されないこと。ライブコンサートのもようでも,カレンとリチャードだけを写すか,写っていても,ピンボケで顔も楽器の詳細もわからないようになっているのです。
 もちろん,ポップミュージシャンのバックバンドなんて今も昔も写真が載らないのが普通かもしれませんが(たとえば松田聖子のシングルのバックミュージシャンなんてぜんぜんわかりません),さわやか,和気あいあいなイメージで売っているわりには冷たいよなぁ,という気がしたものです。
 「愛にさよならを」のギターなど,いかにもカーペンターズふうの音がある以上,同じスタジオミュージシャンが参加していたに違いないのですが。

 なお,カーペンターズの怪しさについては,山岸凉子が1987年9月号11月号のASUKAに「グリーン・フーズ」という作品を掲載しています。兄妹のポップグループで,兄がキーボード,妹がヴォーカル担当,妹が拒食症で死ぬ,という以外は別にカーペンターズでなくともよい設定(兄が名子役だった栄光から才能ある妹を抑圧する,というストーリーになっている)ではありますが,山岸凉子もなにか気になるものがあったのかな,という気はします。

先頭 表紙

当時のNHK教育が何を思ったかフランス語講座のゲストにポルナレフを招き,インタビュー。「ポルナレフさんは,暇な時には何をしているんですか?」の問いに答えて曰く,「退屈してる」。 / 烏丸 ( 2001-08-02 21:26 )
ポルナレフは,代表作がCD化されない謎のミュージシャンの1人だったのですが,最近ようやく初期のアルバムも手に入るようになりました。とくにラップや中米音楽を取り込み,多重録音をこらした3枚目は時代を考えるとその先進性にちょっとびっくりします。 / 烏丸 ( 2001-08-02 21:24 )
ビデオなんてなかったあの時代、目を皿のようにして見ていました。全身耳と目。ミッシェル・ポルナレフとはラジオのAMで出逢い。後日姿を見てぶっ飛んだ〜です。 / しっぽな ( 2001-08-02 12:39 )
ビデオの(もちろんLDやVHDも)普及してない70年代には,「動く」ロックミュージシャンの映像は貴重でしたね。ヤング・ミュージック・ショーは英米のロック中心でしたが,フジテレビのミュージック・フェアはポルナレフやジョルジュ・ムスタキなど,ヨーロッパ系もけっこう登場したような。 / 烏丸 ( 2001-07-31 20:49 )
ちょうど帰宅した頃(4時半ごろかな)これ放送していました。小5の私に新しい世界を与えたのはラジオとこの番組でした。プロモのクリップなんかと比べて長くて重い画像。最近、BSで再放送していませんでしたか? / しっぽな ( 2001-07-31 15:26 )

2001-07-30 知ってるつもり?! 『キャラバンサライ』 サンタナ


【「着くまでもつか?」「ああ血がとまったから」】

 もとやま礼子というマンガ家がいる。いた,と書くべきだろうか。久しく作品を見かけないし,単行本もこの20年,出していない。
 手塚治虫が『火の鳥』を掲載した「COM」の月例新人賞でデビュー,70年代後半,つまり萩尾望都,大島弓子,樹村みのり,名香智子,伊東愛子,岸裕子,倉田江美らが描いていた頃の別冊少女コミックで異彩を放ち,その後ふっつりと消えてしまった。

 光をたたえた大きな目,長い髪がたなびく,要するに一見オーソドックスな少女マンガふうの絵柄なのだが,ストーリーに目をやるとこれが骨太というか,若者の感情を大胆に描く作品が少なくない。恋愛が成就するか否かにはほとんど力点をおかず,日々の出会いから湧き出る感情のダイナミズムを太い線で描く,そんな趣。高校生の青年の,姉に対する恋慕を描く作品などにその傾向が顕著だ。タブーを描くというより,成就のあてのない,出口のない思いが素材として好まれたのではないか。また神社仏閣,紅白饅頭等といった,少々古風かつ和風の小道具も,もとやま作品の特徴の1つだろう。
 決してメジャーな作家ではなかったし,活動期間も長くないので代表作と言えるほどのものはないが,単行本化された作品の1つに『やったぜ!墓場グループ』という連作がある。高校の近くの墓場にたむろする不良たちと,それにかかわってしまった少女・差久楽(さくら)の青春群像,といった趣のコメディ。もちろん四半世紀も前の少女コミックに登場する「不良」など,せいぜい学校の外でタバコを吸って酒飲んで殴り合いのケンカをする程度で,進学校に通っているぶん今どきなら模範的高校生といってよいほどなのだが。

 と,前ふりが少々長くなったが,この墓場グループの最初の作品「墓場グループの誕生日」で,生徒会長の吉川にあこがれる差久楽が彼の部屋で聞かされ,ステレオもプレイヤーもないのに思わず買い求めるレコード,それがサンタナの『キャラバンサライ』である。
 サンタナといえばカルロス・サンタナの泣きのギター,ラテンの情熱的なリズム,と,まあ,説明する必要もない,現役のメジャーバンドだが,この4thアルバム『キャラバンサライ』は,ウッドストックで名をあげ,「ブラック・マジック・ウーマン」等で功をなしたサンタナが,どんどん精神的な世界に傾倒していき,バンドとして方向性を見失う直前の,綱渡りというか神業のようなアルバムである。
 「キャラバンサライ」すなわち砂漠の「隊商」をテーマにしたこのコンセプトアルバムで描かれた精神性というのは,キリスト教の教条主義とは少々色合いの異なる,砂漠の夜明けに立ち会ったら人は誰しも敬虔な気持ちになるとかいったそういうものだろうか。ラテン,官能的,エキゾチズムに加えて敬虔な精神性,という,言葉の上では並存できそうもないものが一つの夜の焚き木の中で燃え盛り,そのくせ全体には涼しい風が吹き抜けるようにクール,そんなアルバムだ。

 もとやま礼子は,ほかの短編では,やはり不良少年たちのたまり場でポール・サイモンの「アイ・アム・ア・ロック」を小道具に使っている。これがまた,巧い。
 揺らぐもの,揺らがないものがロックやマンガの切実なテーマとなる時代……そういうことだろうか。

先頭 表紙

2001-07-29 知ってるつもり?! 『遥かなる影』 カーペンターズ


【They long to be...】

 カーペンターズといえば「さわやか」「美しいコーラス」「バカラックの秘蔵っ子」それにせいぜい「多重録音」といったところで,硬派な議論はあまり見かけない。というより,カーペンターズがヒットチャートを彩った当時,カーペンターズのシングルを買い求める男は,プログレファン,ヘビメタファン,いや四畳半フォークな連中にさえ軟弱者扱いされたのではないか。
 だが,ときどきふと,「さわやか」だけで語り終えてよいのか? という気にならないでもない。実は何か裏にどろどろしたものはないのか,という疑念である。そしてそのどろどろのカケラでも発見できないかとCDを皿受けに乗せてみる。何もない。いや,逆にこの,どろどろしたものの徹底した欠落は,それはそれで何か怖いものなのではないのか。

 カーペンターズのデビューシングルは1969年の暮れに発売された「涙の乗車券」。言うまでもなくレノン&マッカートニーの作品のカバー(歌詞の"she"が"he"に置き換えられている)。翌年,2枚目のシングル「遥かなる影(Close to you)」が全米1位になり,あとはスター街道まっしぐら,といった感じだった(ちょうどジャクソンファイブと同時期で,シングル発売のたびにビルボードホット100を争っていたような記憶がある)。
 1970年といえば,日本では三島割腹,よど号ハイジャック,マンガを見ても「アシュラ」に「ファイヤー!」に「光る風」。アメリカでもベトナム戦争,ヒッピー,ドラッグなど,何か世界中が問題意識で煮詰まっていたようなころ。ロックシーンでもビートルズが解散,ハードロック,プログレッシブロックが頭角を現していた。
 そんな中,カーペンターズは登場し,出来すぎた御伽噺のような清潔でさわやかな愛の歌を連発する。

 何も,おかしくはない。いや,どこか,へんだ。
 もちろん,当時,ほかにポップミュージシャンがいなかったわけではない。たとえばやはりさわやかなイメージやオーケストレーションで日本でも人気のあったオズモンズやポール・モーリアも高い人気を誇ったころだ。
 しかし,ヒットチャートをにぎわすポップミュージシャンは,通常,ポップミュージックという箱の中での存在に過ぎない。カーペンターズは,それに比べると妙に浸透しているようにも見えた。明らかにビートルズのような精神性,革新性はないはずなのに,ビートルズのような受け入れられ方とでもいうか。うまく言えないが。
 うがった見方をすれば,ぎとぎとした時代へのカウンターとでも言うか。CDのライナーノーツによれば,日本でカーペンターズ人気が沸騰するのは石油ショックとほぼ同時期だったようだし,さらに後にイギリスで人気が出たときには,不況と失業でパンク全盛のころだったようである。カウンターというよりは,ヤシガラ活性炭的とでも言おうか。社会の問題意識が煮詰まった時代に,それを吸収するうつろな箱としての機能。

 だが,それを吸収したヤシガラはどうなるのか。
 そう思うと,あれほどのクリーンな印象でありながら,「カーペンターズ,兄弟で結婚?」と音楽雑誌に報道されたり,カレンが拒食症による心不全で亡くなる(32歳),というかなり悲劇的な終末を迎えることになったりしたこともわからないではない。ジュリー・アンドリュースではなく,ジャニス・ジョプリンの側にいた,とでも言うか。
 今,「遥かなる影」を聞きながら考える。カレン・カーペンターは,うまくすれば幸福な老後にたどり着けたのだろうか。それとも……。

先頭 表紙

ヒットした「スーパースター」や「イエスタディ・ワンス・モア」の歌詞は,いかにも昔ラジオで聴いていたカーペンターズをあとから懐かしむ,みたいな内容になっていて,その入れ子構造がちょっと不思議です。 / 烏丸 ( 2001-07-30 14:14 )
好きでしたよ〜「カーペンターズ」曲しか知りませんが〜ほのぼのと〜ラジオなんかで聴いていましたよ〜♪ / 仙川 ( 2001-07-30 03:42 )

2001-07-28 知ってるつもり?! 『マッドマン』 エルトン・ジョン


【世界の森繁久彌】

 もう何年も前だが,ロッキングオンか何かに「エルトン・ジョンのファンっていったいどんな人なんだか」という記事が載って,苦笑いして読んだ記憶がある。とても有名なのはわかるけど,心からのファンがいるとはとても思えない,そんな書き方だった。
 確かに,最近のエルトン・ジョンは,ベルサーチやダイアナ元皇太子妃の葬儀で泣き崩れて「あたしなんかがねえ,生き残ってねえ」と森繁久彌やってる姿くらいしか思い浮かばない。

 だが,テレビCMやドラマの主題歌として2,3年に一度はリバイバルヒットする「僕の歌は君の歌(Your Song)」(2ndアルバム『エルトン・ジョン(Elton John)』収録)の作られた1960年代後半から70年代前半にかけてのエルトン・ジョンは,叙情味あふれるピアノの吟遊詩人というイメージと天才的な作曲の才能で,それはもうカルトな人気を誇ったものだ。たとえば「僕の歌は君の歌」はバーニー・トーピンから詩を渡され,ピアノの前に座って15分でできた,と言われている。
 『ホンキー・シャトー(Honky Chateau)』から7作連続全米No.1を獲得し,バラエティあふれるエンターテイナーエルトン・ジョンの最高傑作は『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード(Goodbye Yellow Brick Road)』,というのがロック雑誌などでよく言われる定説だが,どうもばたばたした印象,おまけに2枚組と長すぎて(最近はCD 1枚にまとめられている)あまり好みではない。というか,エルトン自身が言うところの初期の"strings period"好きとしては,(セカンドアルバムは多少聞き飽きたこともあって)ここは一つ4thの『マッドマン(Madman Across The Water)』を押したい。
 夜の高速をドライブするような切なさに満ちた「可愛いダンサー(マキシンに捧ぐ)(Tiny Dancer)」,ポール・バックマスターのアレンジが異様な高揚を誘う「マッドマン(Madman Across The Water)」,インディアン一族の悲劇的な最後を描く「黄昏のインディアン(Indian Sunset)」,アルバムの最後を締める小曲「グッドバイ(Goodbye)」などフェーバリットソングが並ぶが,中でも金儲けにしか興味のない小市民の死を歌う「リーヴォンの生涯(Levon)」は凄い。なめし皮のムチを振るうようなエルトン・ジョンならではの屈折したメロディ展開。アクの利いたヴォーカル,ピアノのタッチも彼らしい。

 エルトン・ジョンはよく知らないが「僕の歌は君の歌」は好き,という方には,同様のメロディアスなチューンとして,2nd『エルトン・ジョン』の「ハイアントンの思い出(First Episode At Hienton)」,3rd『エルトン・ジョン3(Tumbleweed Connection)』の「遅れないでいらっしゃい(Come Down In Time)」,さらには出来が悪いからとずっとCD化されなかった映画「フレンズ」のサウンドトラックほか初期の佳曲がようやく2枚組CDにまとめられた『イエス・イッツ・ミー〜レア・トラックス』から「四季のテーマ(Seasons)」あたりをお奨めしたい。恋や愛を歌うには,泣いたり叫んだりする必要はないのだ。

 『マッドマン』といい,最後に並べた曲目といい,エルトン・ジョンのオーソドックスな評価としては癖がある選択とは思うが,エルトン・ジョンのヒット曲を他のミュージシャンが歌ったトリビュートアルバムで元ポリスのスティングが「遅れないでいらっしゃい」を選んでいたのには驚き,また嬉しく思った。考えてみれば,この,世にも難しい愛の歌(なのか?)を胸張って歌えるのは世界でもスティングくらいなのかもしれない。

先頭 表紙

2001-07-27 [ぜんっぜん 書評ぢゃない] 消えたマンガ家 その六 『信長君日記』 佐々木けいこ / 白泉社

 
 このところ重い本(内容が,ではなくて物理的に)や怖い本が続いたので……ふと,気分転換に佐々木けいこ『信長君日記』が読みたくなった。掲載誌は「LaLa」だったかな。

 ところが,ずっと昔に単行本を買ったような記憶はあるのだけれど,どうも本棚には見当たらない。雑誌からの切り抜きの箱にも,ない。……ないの(©チビ猫)。

 作者も最近見かけないような気がする。
 読めないとなると,気になって気になって,もう。

先頭 表紙

けろりんさま,ちゃっちゃっと調べれば調べられなくはないんでしょうが,どうもそういうのは『信長君日記』には似つかわしくないかなと。家康君に電話してもってきてもらおう,とか。 / 烏丸 ( 2001-07-28 11:33 )
つづき>女性誌はあんんまりチェックしてないので、もしかしたらどこかで描いているかも?私もまた読みたいな〜。ボニータで描いていたのは学園物のギャグでした。 / けろりん ( 2001-07-28 00:40 )
「信長君日記」も、その後東京三世社から出た続編「信長君風雲記」も実家にあるはず。作者はLaLaの後、秋田書店のボニータでしばらく連載したんですが単行本は1巻しか出なくて、その後恐怖マンガとか描いたりしたのはどこかで見たんですが、ここ数年は見かけてないです。女 / けろりん ( 2001-07-28 00:39 )
佐々木倫子と混同……『ハムテル君日記』とか『信長君のお医者さん』とか。 / 烏丸 ( 2001-07-27 12:30 )
しっぽなさま,一昨日あたりとーとつに思い出したもので,古本屋などはまだ探していません。てゆか,『信長君日記』求めて炎天下,古書店をめぐるというのは……想像しただけでなえてしまいますわ。 / 烏丸 ( 2001-07-27 12:28 )
失礼しました・・・“小6だったか”です・・・が、もうちょっと後だったか??漫画の記憶は鮮明に思い起こされるのですが。ギャグのストーリー漫画という点で一時佐々木倫子と混同していた時期もあり。「ああ、信長君のひと、絵がうまくなったんだなあ。苦労したんだ〜」とか、子供心に思っていたり。古書店にありませんか??私の行きつけ?の古書店にその頃のLalaとか花ゆめとかがてんこ盛りでした。保存スペースの事を思うと買う事ができず・・・今度いったならば「信長君日記」掲載誌がないかチェックしておきます。 / う〜ンうーん ( 2001-07-27 00:51 )
知っていま〜〜ス・・・少だったか中1だったかの時読みました・・・LaLaにあまりにも異質な雰囲気のその作品。その頃の少女の歴史観を変えた(??)信長を身近にしたんだか嫌いにしたんだか解らん一作。なんか、いま、女性誌にギャグ描いていませんか? / う〜ン ( 2001-07-27 00:43 )

2001-07-26 悪夢のように静止する時間 『エイリアン9』(全3巻) 富沢ひとし / 秋田書店ヤングチャンピオン・コミックス


【ねェ先生…………あたし人間なのかな】

 『未来のアトム』では,ベルグソンの言う「真の時間」や茂木健一郎の著書における「物理的時間」と「心理的時間」など,人間の「知能」や「意識」がとらえる時間についてもいくたびか取り上げられている。
 静止画像でストーリーを描くマンガは,実はテクニック的にも本質的にも大いにこの「時間」とかかわるメディアで,たとえば『エイリアン9』の異様な怖さはそのあたりと無縁ではないように思われる。

  ↑ ちょっと気取りすぎ。

 6年椿組の大谷ゆりは,クラスの係を決める投票の結果,絶対なりたくない「エイリアン対策係」に選ばれてしまった。ゆりと桃組の遠峰かすみ,藤組の川村くみは,共生型エイリアン「ボウグ」を頭に被り,次々と学校に飛来するエイリアンたちを倒さなければならない。
 エイリアンが地球に現れたのは1998年10月,だとか,キノコ型の宇宙船がときどき学校の校庭に落ちてくるとか,学校ではウサギを飼育するように一部のエイリアンを飼っているとか,断片的な情報はあるものの,「なぜ」「どうして」はなかなか明らかにされない。エイリアンはボッシュの絵画作品の夢魔たちのようにさまざまな形をし,人間を脅かす。

 これだけならよくある近未来SFのように思われるし,主人公が小学6年の少女たちというのもいかにもロリコンオタク向けに思われる。
 しかしこの作品は,先にも述べたように妙に怖い。読んでいるうちに世界の中心がゆらぐような,そんな感じがするのだ。
 それはたとえば,凶悪なエイリアンが生活の中に侵食してきた世界という設定,また,明るく活発なかすみが内面的にあるエイリアンに共生されてしまう,学級委員長タイプのくみが別の凶悪なエイリアンに腹部を食い破られて死に,ボウグとの共生によって再生されている,など,ほのぼのした絵柄に似合わず情け容赦ない展開のせいもあるだろう。

 しかし,本作品の怖さは,そういった文章で書き表せるところにはない。コマに流れる時間が,どうも普通のマンガ作品と様子が違うのだ。
 多くのマンガ作品では,読み手をストーリーに同調させるため,効果線や擬音などさまざまなテクニックが用いられる。たとえばキャラクターの表情は,通常,作者によって,そのコマのシーンで最も読み手に対して効果的な表情が選ばれるのが普通だ。
 ところが本作では,1つのコマの中にまるで「前のコマと次のコマの間の時間全部」がこもっているように見える。効果線や擬音のあまりない1つ1つのコマやキャラクターの表情はあたかも静止しているように見えるのである(普通,これはヘタクソという)。たとえば2巻,くみが岩型のエイリアンの嘴に右腕を噛み切られるシーンで,くみは悲鳴を上げず,呆然とした表情で正面を向く。そのコマの事象が起こった際の,1つのコマ内で流れる時間の平均的な表情が常に描かれる,とでも言おうか。ゆりを襲うエイリアンに共生された少年たちの貼りついたような笑顔も同様。

 マンガという,書き手によってコントロールされているはずなのに,恣意的には見えない表情。何かと言えば,これは怖い夢とそっくりなのだ。「悪夢のような」ではなく,「悪夢そのもの」と言えば,この作品の怖さがお分かりいただけるのではないか。

 読み手を選ぶし,終わり方に疑問がなくはないが,富沢ひとし『エイリアン9』,お奨めである(月刊アフタヌーンに現在連載中の『ミルククローゼット』では,作者が自作の特異性に気がついてしまったようなところがあって,それがよいことなのかどうか……)。

先頭 表紙

TAKEさま,そうなんですよ,決して美麗な絵ではないのでふんふんと読み流しても,あとで妙にひっかかるんですよね。ねばねばした感じが意識からとれないというか。 / 烏丸 ( 2001-07-29 01:42 )
このマンガ、妙に気になってはいたのですが、確かに「悪夢そのもの」な感じがしますね〜。“触覚”の表現も怖かった記憶があります。 / TAKE ( 2001-07-28 22:43 )

2001-07-24 メタファー(暗喩)としての 『未来のアトム』(その三) 田近伸和 / アスキー


【神の領域に近づく】

 「カオス」だの「不完全性定理」だのの理論,思想,哲学,宗教(?)についてはキリがないのでここでは取り上げない。
 要するに著者の主張は,知能の発現には身体が不可欠であるということ,そして人間の知能や意識はそれが果たして人間の中のどこのどのような働きによって存在するか,現代科学ではほとんどといってよいほど解明されていない,また従来の科学的手法によってはおそらく解明できないだろう,ということだ。
 たとえば,科学は水を水素と酸素の化合物として明示的に規定するが,人間にとっての水は,暑い日差しの元で喉を潤す一杯の水であったり,心地よい風呂の水であったり,山をも崩す濁流であったりする。これは身体,五感を通して記憶された水であって,いかなる辞書もこれらを包含することはできない。そして,身体的な認識を得られない限り,いかなるAI(人工知能)も,このような認識を持つことはできない。
 だから,少なくともよほどのブレークスルーがなければ「超機械」としてのアトムは実現不可能だろう。……

 結論だけ見れば,何を当たり前なことを,という気もする。
 ヒューマノイドの開発が「人間とは何か」と密接に関係するのは間違いないが,イコールではない。まず,この著者は機械の開発における「模倣」という概念を(意図的かもしれないが)除外している。また,機械というものは目的に応じて開発されるものであり,人間の行為はその目的について十全に理解していなくても果たされる場合があることが失念されている。たとえば国家とは何か,政治とは何かの完全正答はなくとも国家・政治は営まれる。
 その意味で,本書は,ヒューマノイドについてのノンフィクションの体裁を借りながら,ベルグソンに感動したという著者の人間観,科学観を総覧的に述べたもの,ととらえるべきかもしれない。
 しかし,科学の現状と科学観(メタ科学)を同一水平面で論じるのは,それこそフレーム違いではないか。

 添付画像は我が家のペットのザリガニである。この夏,我が家に来たときには触角を半分失い,少々元気がなかったが,一度脱皮して以来なくした触角も多少は伸び,ずいぶんと快活になった。
 彼の目に,夜になると水を替え,餌を投げ入れる私はいかに見えているのか。彼のハサミや足の動きはいかなる仕組みで動いているのか。彼の意識,恐怖,痛み,記憶,生への執着はどのように把握されているのか。眺めているだけで興味は尽きない。

 知能が身体と密接にかかわるなら,人間とザリガニの意識は永遠に一致することはないだろう。左右で十本の指を持つ人間の知能と,0,1のデジタルの組み合わせで思考するコンピュータはどこまでいっても不完全な翻訳機能を介してしか会話できないだろう。それは当然のことだ。

 『未来のアトム』の著者は,現在の科学の限界を気にするあまり,いたずらに限界をあげつらっているようにも見える。それは,未来が予測不可能であるとする著者の指摘からしても明らかに矛盾する。不可能なはずのことを(予想と違う形であれ)次々に実現してきたのが人間の意識,心ではなかったのか。
 だからといって,全く人間と同じように認識し,同じように意識,心を持つヒューマノイドを期待するのも無茶というものだろう。ヒューマノイドには,ヒューマノイドとしてのアイデンティティ,そしてレゾンデートル(存在意義)が発現するに違いない。それを人間が理解できるとは限らない。

 ザリガニはザリガニであって,人間より偉くもなければ偉くなくもない。そんなものである。

先頭 表紙

2001-07-24 科学は意識や心を扱えない 『未来のアトム』(その二) 田近伸和 / アスキー

 
【AI研究の出発点にはデカルトの心身二元論があった】

 知能は極めて身体的なものである。たとえば人間の二足歩行の理論については,実はいまだ誰も理論化できてないにもかかわらず,ホンダのヒューマノイド開発チームが,ロボットが倒れないように人間が横で支え,その感触,直感に基づいて歩き方のプログラミングを変えていったという挿話は興味深い。
 また,早稲田大学理工学部等で進められている,モデル・ベースでない,ビヘイビア・ベースのロボットの開発についての話もなるほどと感心させられる。これは事前にすべてのプログラムを組み込むのでなく,基本的なプログラムだけ与え,行動と学習によってロボットに自ら知識を獲得させようとする試みである。
 さらに,ロボットが周囲を認識するための視野についての考察も面白い。たとえば認識における「フレーム」の問題がある。ロボットに,時限爆弾が仕掛けられた部屋に行き,予備バッテリーを取って来いと命令したとき,ロボットはバッテリーと時限爆弾が同じワゴンに乗っていてもそのまま持って出てしまう。さりとてあまり細かく命令を与えると,今度は少しでも状況が異なると計算の要素が膨らみすぎてやはり吹き飛ばされてしまう……(AI(人工知能)が,チェスでは人間のチャンピオンに勝てても囲碁ではいまだ勝負にならないのは,このフレームの問題が大きい)。

 このように,さまざまなロボット,ヒューマノイドの開発,研究元を訪ね歩き,それぞれの考え方や開発の現状をレポートする前半部はまことに面白い。手に汗握る面白さ,と言ってもよい。しかし,そのうちに著者は大きな疑問とぶつかり,記述の方向を変えていく。よく言えば深化,悪く言えば逸脱である。
 著者は,ヒューマノイドの開発,研究が人間の本質に深くかかわるという自覚から,「人間とは何か」にばかりひたすらこだわってしまうのである。

 確かに,人間がどのようにモノを見,それを認識し,さらにはどのような意識から行動を起こすのか,これは汲めども尽きぬ思索の対象であり,しかも現代までの科学,学問が実はほとんど手も足もでない領域でもある。

 たとえば,最近テレビで放映されている,サッカーの中田選手をフューチャリングしたCMの1つを思い起こしてみよう。彼は広い部屋の縦横に置かれたさまざまな椅子の中から,自分の好みの椅子を発見し,それにゆったりと腰掛ける。CMはこれに「自分らしさ……」といったナレーションがかぶさるのだが,この短いCMには実は科学的にはいまだ説明できないさまざまな要素が含まれている。

 たとえば,人間は,さまざまな大きさ,鉄・木・革といったあらゆる素材で組み合わさったモノを,どうやって(机でも犬でも自動車でもパンでもなく)「椅子」と認識できるのか。
 また,離れたところから,鉄や木や革といった素材感を見抜き,さらに実際に座ってその滑らかさ,硬さ,柔軟性などを認識できるのだろう(こういった質感や色彩,香り,味わいなどを脳科学では「クオリア」と称し,その物理的,化学的なメカニズムは今もって謎とされている)。

 著者は,こういった人間の「知能」,ひいては「意識」や「心」の問題にとらわれ,プラトン,デカルトから最近の「自己組織化」「総発」「非線形ダイナミクス」「カオス」「オートポイエーシス」「アフォーダンス」,さらにはゲーデルの「不完全性定理」,ペンローズによる「量子重力理論」といった最新の科学理論,さらにはベルグソン哲学まで持ち出して生命と非生命の間の深遠な溝を指摘することに奔走する。

(つづく)

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2001-07-23 ヒューマノイドの現在と,そして未来 『未来のアトム』(その一) 田近伸和 / アスキー


【BGMは山下達郎「アトムの子」】

 ホンダの二足歩行ヒューマノイド「ASIMO」,SONYのペットロボット「AIBO」など,今,ロボットがちょっとしたブームだ。では,近い,あるいは遠い将来,「鉄腕アトム」は本当に実現するのだろうか?
 本書『未来のアトム』は,ノンフィクションライター田近伸和がそのテーマを追ってロボットにかかわる古今の著作,思想,そしてホンダや早稲田大学,大阪大学,東京大学,経済産業省,SONY,NECなど実際にロボットの研究,開発に携わった人々にインタビューを重ねて練り上げた力作である。A5判ハードカバー,600ページ余,900グラム。あの京極夏彦『絡新婦の理』が600グラムといえば,どれほどの重みかご理解いただけるだろうか。……もちろん書物の価値が実際の重量に左右されるなどということはないのだが,サブノートPC並みの重量を鞄に入れて持ち歩くだけの価値のある1冊であることは主張したい。

 ヒューマノイド(人間型ロボット)の研究,開発においては,日本は群を抜いて進んでいる。
 というより,ほとんど唯一の開発国かもしれない。その背景には,モノ造りに強い,機械に強いという伝統もあるだろうが,手塚治虫原作の「鉄腕アトム」の影響があるに違いないというのが著者の主張である。国産初のアニメであり,またテレビの普及期の青少年に大きなインパクトを与えたアニメ「鉄腕アトム」は,確かにその世代の人生観に少なからぬ影響を残しているに違いない。
 また,思想的にも万物に神が宿る,と考える日本的な考え方は,神を唯一絶対とし,「人間を造る」行為を不遜とするキリスト教社会よりはヒューマノイドの開発を受け入れやすいのかもしれない。

 「鉄腕アトム」は,10万馬力(のちに100万馬力)の力,ジェットあるいはロケットによる飛翔,前向きな精神で「正義の味方」「明るい未来の象徴」の印象が強いが,実は「ロボットは心を持てない」という精神的な足かせと闘う,極めて内省的なドラマだった。原作かビデオをご覧になっていただけるとおわかりいただけると思うが,決して爽快な物語ではない。いや,ある意味ビョーキな設定と言えるかもしれない。なにしろ,先ほど「精神的な足かせ」という言葉を使ったが,ロボットにはそもそも「精神」というものがあるのか否か。「意識」「心」というものがあるのか否か。それなのに,それがないことに悩むなら,それは全く矛盾というか,実に人間的な悩みである,という実に奇妙かつ複雑な構造に基づくドラマなのである。

 さて,ところが「精神」とか「意識」「心」といっても,それはどこに,どのような形であるものなのか。近代科学は,それが「脳」の中に,なんらかの機械的,あるいは化学的に存在するもの,と(さしたる根拠もなく)みなしてきた。しかし,本当にそうだろうか? それならコンピュータが十分な速さとボリュームを持ったとき,AI(人工知能)は人間に迫れるはずだが,それは不可能ではないか,とするのが著者の主張である。
 まず,第一に,人間の知能は「脳」の中にあるだけでなく,極めて身体的なものではないか,ということ。つまり,二足で歩き,両手で物を持ち,視覚でものをとらえることと密接にかかわりあって発達してきたものではないか。だとするなら,コンピュータの中でAIをいくらこねくりまわしても,人間的な知能にはいたらないのではないか。
 だからこそ,人間とは何か,人間の知能とは何かを考えるとき,ヒューマノイドの研究は必須なのではないか。

(つづく)

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