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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-07-28 知ってるつもり?! 『マッドマン』 エルトン・ジョン
2001-07-27 [ぜんっぜん 書評ぢゃない] 消えたマンガ家 その六 『信長君日記』 佐々木けいこ / 白泉社
2001-07-26 悪夢のように静止する時間 『エイリアン9』(全3巻) 富沢ひとし / 秋田書店ヤングチャンピオン・コミックス
2001-07-24 メタファー(暗喩)としての 『未来のアトム』(その三) 田近伸和 / アスキー
2001-07-24 科学は意識や心を扱えない 『未来のアトム』(その二) 田近伸和 / アスキー
2001-07-23 ヒューマノイドの現在と,そして未来 『未来のアトム』(その一) 田近伸和 / アスキー
2001-07-21 寡黙で骨太なもう1つの昭和史 『スカウト』 後藤正治 / 講談社文庫
2001-07-18 [書評以前] 『新耳袋 現代百物語 第六夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー
2001-07-17 かつて,美術館へ
2001-07-16 本の中の名画たち その十ニ 『名画 裸婦感応術』 横尾忠則 / 光文社知恵の森文庫


2001-07-28 知ってるつもり?! 『マッドマン』 エルトン・ジョン


【世界の森繁久彌】

 もう何年も前だが,ロッキングオンか何かに「エルトン・ジョンのファンっていったいどんな人なんだか」という記事が載って,苦笑いして読んだ記憶がある。とても有名なのはわかるけど,心からのファンがいるとはとても思えない,そんな書き方だった。
 確かに,最近のエルトン・ジョンは,ベルサーチやダイアナ元皇太子妃の葬儀で泣き崩れて「あたしなんかがねえ,生き残ってねえ」と森繁久彌やってる姿くらいしか思い浮かばない。

 だが,テレビCMやドラマの主題歌として2,3年に一度はリバイバルヒットする「僕の歌は君の歌(Your Song)」(2ndアルバム『エルトン・ジョン(Elton John)』収録)の作られた1960年代後半から70年代前半にかけてのエルトン・ジョンは,叙情味あふれるピアノの吟遊詩人というイメージと天才的な作曲の才能で,それはもうカルトな人気を誇ったものだ。たとえば「僕の歌は君の歌」はバーニー・トーピンから詩を渡され,ピアノの前に座って15分でできた,と言われている。
 『ホンキー・シャトー(Honky Chateau)』から7作連続全米No.1を獲得し,バラエティあふれるエンターテイナーエルトン・ジョンの最高傑作は『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード(Goodbye Yellow Brick Road)』,というのがロック雑誌などでよく言われる定説だが,どうもばたばたした印象,おまけに2枚組と長すぎて(最近はCD 1枚にまとめられている)あまり好みではない。というか,エルトン自身が言うところの初期の"strings period"好きとしては,(セカンドアルバムは多少聞き飽きたこともあって)ここは一つ4thの『マッドマン(Madman Across The Water)』を押したい。
 夜の高速をドライブするような切なさに満ちた「可愛いダンサー(マキシンに捧ぐ)(Tiny Dancer)」,ポール・バックマスターのアレンジが異様な高揚を誘う「マッドマン(Madman Across The Water)」,インディアン一族の悲劇的な最後を描く「黄昏のインディアン(Indian Sunset)」,アルバムの最後を締める小曲「グッドバイ(Goodbye)」などフェーバリットソングが並ぶが,中でも金儲けにしか興味のない小市民の死を歌う「リーヴォンの生涯(Levon)」は凄い。なめし皮のムチを振るうようなエルトン・ジョンならではの屈折したメロディ展開。アクの利いたヴォーカル,ピアノのタッチも彼らしい。

 エルトン・ジョンはよく知らないが「僕の歌は君の歌」は好き,という方には,同様のメロディアスなチューンとして,2nd『エルトン・ジョン』の「ハイアントンの思い出(First Episode At Hienton)」,3rd『エルトン・ジョン3(Tumbleweed Connection)』の「遅れないでいらっしゃい(Come Down In Time)」,さらには出来が悪いからとずっとCD化されなかった映画「フレンズ」のサウンドトラックほか初期の佳曲がようやく2枚組CDにまとめられた『イエス・イッツ・ミー〜レア・トラックス』から「四季のテーマ(Seasons)」あたりをお奨めしたい。恋や愛を歌うには,泣いたり叫んだりする必要はないのだ。

 『マッドマン』といい,最後に並べた曲目といい,エルトン・ジョンのオーソドックスな評価としては癖がある選択とは思うが,エルトン・ジョンのヒット曲を他のミュージシャンが歌ったトリビュートアルバムで元ポリスのスティングが「遅れないでいらっしゃい」を選んでいたのには驚き,また嬉しく思った。考えてみれば,この,世にも難しい愛の歌(なのか?)を胸張って歌えるのは世界でもスティングくらいなのかもしれない。

先頭 表紙

2001-07-27 [ぜんっぜん 書評ぢゃない] 消えたマンガ家 その六 『信長君日記』 佐々木けいこ / 白泉社

 
 このところ重い本(内容が,ではなくて物理的に)や怖い本が続いたので……ふと,気分転換に佐々木けいこ『信長君日記』が読みたくなった。掲載誌は「LaLa」だったかな。

 ところが,ずっと昔に単行本を買ったような記憶はあるのだけれど,どうも本棚には見当たらない。雑誌からの切り抜きの箱にも,ない。……ないの(©チビ猫)。

 作者も最近見かけないような気がする。
 読めないとなると,気になって気になって,もう。

先頭 表紙

けろりんさま,ちゃっちゃっと調べれば調べられなくはないんでしょうが,どうもそういうのは『信長君日記』には似つかわしくないかなと。家康君に電話してもってきてもらおう,とか。 / 烏丸 ( 2001-07-28 11:33 )
つづき>女性誌はあんんまりチェックしてないので、もしかしたらどこかで描いているかも?私もまた読みたいな〜。ボニータで描いていたのは学園物のギャグでした。 / けろりん ( 2001-07-28 00:40 )
「信長君日記」も、その後東京三世社から出た続編「信長君風雲記」も実家にあるはず。作者はLaLaの後、秋田書店のボニータでしばらく連載したんですが単行本は1巻しか出なくて、その後恐怖マンガとか描いたりしたのはどこかで見たんですが、ここ数年は見かけてないです。女 / けろりん ( 2001-07-28 00:39 )
佐々木倫子と混同……『ハムテル君日記』とか『信長君のお医者さん』とか。 / 烏丸 ( 2001-07-27 12:30 )
しっぽなさま,一昨日あたりとーとつに思い出したもので,古本屋などはまだ探していません。てゆか,『信長君日記』求めて炎天下,古書店をめぐるというのは……想像しただけでなえてしまいますわ。 / 烏丸 ( 2001-07-27 12:28 )
失礼しました・・・“小6だったか”です・・・が、もうちょっと後だったか??漫画の記憶は鮮明に思い起こされるのですが。ギャグのストーリー漫画という点で一時佐々木倫子と混同していた時期もあり。「ああ、信長君のひと、絵がうまくなったんだなあ。苦労したんだ〜」とか、子供心に思っていたり。古書店にありませんか??私の行きつけ?の古書店にその頃のLalaとか花ゆめとかがてんこ盛りでした。保存スペースの事を思うと買う事ができず・・・今度いったならば「信長君日記」掲載誌がないかチェックしておきます。 / う〜ンうーん ( 2001-07-27 00:51 )
知っていま〜〜ス・・・少だったか中1だったかの時読みました・・・LaLaにあまりにも異質な雰囲気のその作品。その頃の少女の歴史観を変えた(??)信長を身近にしたんだか嫌いにしたんだか解らん一作。なんか、いま、女性誌にギャグ描いていませんか? / う〜ン ( 2001-07-27 00:43 )

2001-07-26 悪夢のように静止する時間 『エイリアン9』(全3巻) 富沢ひとし / 秋田書店ヤングチャンピオン・コミックス


【ねェ先生…………あたし人間なのかな】

 『未来のアトム』では,ベルグソンの言う「真の時間」や茂木健一郎の著書における「物理的時間」と「心理的時間」など,人間の「知能」や「意識」がとらえる時間についてもいくたびか取り上げられている。
 静止画像でストーリーを描くマンガは,実はテクニック的にも本質的にも大いにこの「時間」とかかわるメディアで,たとえば『エイリアン9』の異様な怖さはそのあたりと無縁ではないように思われる。

  ↑ ちょっと気取りすぎ。

 6年椿組の大谷ゆりは,クラスの係を決める投票の結果,絶対なりたくない「エイリアン対策係」に選ばれてしまった。ゆりと桃組の遠峰かすみ,藤組の川村くみは,共生型エイリアン「ボウグ」を頭に被り,次々と学校に飛来するエイリアンたちを倒さなければならない。
 エイリアンが地球に現れたのは1998年10月,だとか,キノコ型の宇宙船がときどき学校の校庭に落ちてくるとか,学校ではウサギを飼育するように一部のエイリアンを飼っているとか,断片的な情報はあるものの,「なぜ」「どうして」はなかなか明らかにされない。エイリアンはボッシュの絵画作品の夢魔たちのようにさまざまな形をし,人間を脅かす。

 これだけならよくある近未来SFのように思われるし,主人公が小学6年の少女たちというのもいかにもロリコンオタク向けに思われる。
 しかしこの作品は,先にも述べたように妙に怖い。読んでいるうちに世界の中心がゆらぐような,そんな感じがするのだ。
 それはたとえば,凶悪なエイリアンが生活の中に侵食してきた世界という設定,また,明るく活発なかすみが内面的にあるエイリアンに共生されてしまう,学級委員長タイプのくみが別の凶悪なエイリアンに腹部を食い破られて死に,ボウグとの共生によって再生されている,など,ほのぼのした絵柄に似合わず情け容赦ない展開のせいもあるだろう。

 しかし,本作品の怖さは,そういった文章で書き表せるところにはない。コマに流れる時間が,どうも普通のマンガ作品と様子が違うのだ。
 多くのマンガ作品では,読み手をストーリーに同調させるため,効果線や擬音などさまざまなテクニックが用いられる。たとえばキャラクターの表情は,通常,作者によって,そのコマのシーンで最も読み手に対して効果的な表情が選ばれるのが普通だ。
 ところが本作では,1つのコマの中にまるで「前のコマと次のコマの間の時間全部」がこもっているように見える。効果線や擬音のあまりない1つ1つのコマやキャラクターの表情はあたかも静止しているように見えるのである(普通,これはヘタクソという)。たとえば2巻,くみが岩型のエイリアンの嘴に右腕を噛み切られるシーンで,くみは悲鳴を上げず,呆然とした表情で正面を向く。そのコマの事象が起こった際の,1つのコマ内で流れる時間の平均的な表情が常に描かれる,とでも言おうか。ゆりを襲うエイリアンに共生された少年たちの貼りついたような笑顔も同様。

 マンガという,書き手によってコントロールされているはずなのに,恣意的には見えない表情。何かと言えば,これは怖い夢とそっくりなのだ。「悪夢のような」ではなく,「悪夢そのもの」と言えば,この作品の怖さがお分かりいただけるのではないか。

 読み手を選ぶし,終わり方に疑問がなくはないが,富沢ひとし『エイリアン9』,お奨めである(月刊アフタヌーンに現在連載中の『ミルククローゼット』では,作者が自作の特異性に気がついてしまったようなところがあって,それがよいことなのかどうか……)。

先頭 表紙

TAKEさま,そうなんですよ,決して美麗な絵ではないのでふんふんと読み流しても,あとで妙にひっかかるんですよね。ねばねばした感じが意識からとれないというか。 / 烏丸 ( 2001-07-29 01:42 )
このマンガ、妙に気になってはいたのですが、確かに「悪夢そのもの」な感じがしますね〜。“触覚”の表現も怖かった記憶があります。 / TAKE ( 2001-07-28 22:43 )

2001-07-24 メタファー(暗喩)としての 『未来のアトム』(その三) 田近伸和 / アスキー


【神の領域に近づく】

 「カオス」だの「不完全性定理」だのの理論,思想,哲学,宗教(?)についてはキリがないのでここでは取り上げない。
 要するに著者の主張は,知能の発現には身体が不可欠であるということ,そして人間の知能や意識はそれが果たして人間の中のどこのどのような働きによって存在するか,現代科学ではほとんどといってよいほど解明されていない,また従来の科学的手法によってはおそらく解明できないだろう,ということだ。
 たとえば,科学は水を水素と酸素の化合物として明示的に規定するが,人間にとっての水は,暑い日差しの元で喉を潤す一杯の水であったり,心地よい風呂の水であったり,山をも崩す濁流であったりする。これは身体,五感を通して記憶された水であって,いかなる辞書もこれらを包含することはできない。そして,身体的な認識を得られない限り,いかなるAI(人工知能)も,このような認識を持つことはできない。
 だから,少なくともよほどのブレークスルーがなければ「超機械」としてのアトムは実現不可能だろう。……

 結論だけ見れば,何を当たり前なことを,という気もする。
 ヒューマノイドの開発が「人間とは何か」と密接に関係するのは間違いないが,イコールではない。まず,この著者は機械の開発における「模倣」という概念を(意図的かもしれないが)除外している。また,機械というものは目的に応じて開発されるものであり,人間の行為はその目的について十全に理解していなくても果たされる場合があることが失念されている。たとえば国家とは何か,政治とは何かの完全正答はなくとも国家・政治は営まれる。
 その意味で,本書は,ヒューマノイドについてのノンフィクションの体裁を借りながら,ベルグソンに感動したという著者の人間観,科学観を総覧的に述べたもの,ととらえるべきかもしれない。
 しかし,科学の現状と科学観(メタ科学)を同一水平面で論じるのは,それこそフレーム違いではないか。

 添付画像は我が家のペットのザリガニである。この夏,我が家に来たときには触角を半分失い,少々元気がなかったが,一度脱皮して以来なくした触角も多少は伸び,ずいぶんと快活になった。
 彼の目に,夜になると水を替え,餌を投げ入れる私はいかに見えているのか。彼のハサミや足の動きはいかなる仕組みで動いているのか。彼の意識,恐怖,痛み,記憶,生への執着はどのように把握されているのか。眺めているだけで興味は尽きない。

 知能が身体と密接にかかわるなら,人間とザリガニの意識は永遠に一致することはないだろう。左右で十本の指を持つ人間の知能と,0,1のデジタルの組み合わせで思考するコンピュータはどこまでいっても不完全な翻訳機能を介してしか会話できないだろう。それは当然のことだ。

 『未来のアトム』の著者は,現在の科学の限界を気にするあまり,いたずらに限界をあげつらっているようにも見える。それは,未来が予測不可能であるとする著者の指摘からしても明らかに矛盾する。不可能なはずのことを(予想と違う形であれ)次々に実現してきたのが人間の意識,心ではなかったのか。
 だからといって,全く人間と同じように認識し,同じように意識,心を持つヒューマノイドを期待するのも無茶というものだろう。ヒューマノイドには,ヒューマノイドとしてのアイデンティティ,そしてレゾンデートル(存在意義)が発現するに違いない。それを人間が理解できるとは限らない。

 ザリガニはザリガニであって,人間より偉くもなければ偉くなくもない。そんなものである。

先頭 表紙

2001-07-24 科学は意識や心を扱えない 『未来のアトム』(その二) 田近伸和 / アスキー

 
【AI研究の出発点にはデカルトの心身二元論があった】

 知能は極めて身体的なものである。たとえば人間の二足歩行の理論については,実はいまだ誰も理論化できてないにもかかわらず,ホンダのヒューマノイド開発チームが,ロボットが倒れないように人間が横で支え,その感触,直感に基づいて歩き方のプログラミングを変えていったという挿話は興味深い。
 また,早稲田大学理工学部等で進められている,モデル・ベースでない,ビヘイビア・ベースのロボットの開発についての話もなるほどと感心させられる。これは事前にすべてのプログラムを組み込むのでなく,基本的なプログラムだけ与え,行動と学習によってロボットに自ら知識を獲得させようとする試みである。
 さらに,ロボットが周囲を認識するための視野についての考察も面白い。たとえば認識における「フレーム」の問題がある。ロボットに,時限爆弾が仕掛けられた部屋に行き,予備バッテリーを取って来いと命令したとき,ロボットはバッテリーと時限爆弾が同じワゴンに乗っていてもそのまま持って出てしまう。さりとてあまり細かく命令を与えると,今度は少しでも状況が異なると計算の要素が膨らみすぎてやはり吹き飛ばされてしまう……(AI(人工知能)が,チェスでは人間のチャンピオンに勝てても囲碁ではいまだ勝負にならないのは,このフレームの問題が大きい)。

 このように,さまざまなロボット,ヒューマノイドの開発,研究元を訪ね歩き,それぞれの考え方や開発の現状をレポートする前半部はまことに面白い。手に汗握る面白さ,と言ってもよい。しかし,そのうちに著者は大きな疑問とぶつかり,記述の方向を変えていく。よく言えば深化,悪く言えば逸脱である。
 著者は,ヒューマノイドの開発,研究が人間の本質に深くかかわるという自覚から,「人間とは何か」にばかりひたすらこだわってしまうのである。

 確かに,人間がどのようにモノを見,それを認識し,さらにはどのような意識から行動を起こすのか,これは汲めども尽きぬ思索の対象であり,しかも現代までの科学,学問が実はほとんど手も足もでない領域でもある。

 たとえば,最近テレビで放映されている,サッカーの中田選手をフューチャリングしたCMの1つを思い起こしてみよう。彼は広い部屋の縦横に置かれたさまざまな椅子の中から,自分の好みの椅子を発見し,それにゆったりと腰掛ける。CMはこれに「自分らしさ……」といったナレーションがかぶさるのだが,この短いCMには実は科学的にはいまだ説明できないさまざまな要素が含まれている。

 たとえば,人間は,さまざまな大きさ,鉄・木・革といったあらゆる素材で組み合わさったモノを,どうやって(机でも犬でも自動車でもパンでもなく)「椅子」と認識できるのか。
 また,離れたところから,鉄や木や革といった素材感を見抜き,さらに実際に座ってその滑らかさ,硬さ,柔軟性などを認識できるのだろう(こういった質感や色彩,香り,味わいなどを脳科学では「クオリア」と称し,その物理的,化学的なメカニズムは今もって謎とされている)。

 著者は,こういった人間の「知能」,ひいては「意識」や「心」の問題にとらわれ,プラトン,デカルトから最近の「自己組織化」「総発」「非線形ダイナミクス」「カオス」「オートポイエーシス」「アフォーダンス」,さらにはゲーデルの「不完全性定理」,ペンローズによる「量子重力理論」といった最新の科学理論,さらにはベルグソン哲学まで持ち出して生命と非生命の間の深遠な溝を指摘することに奔走する。

(つづく)

先頭 表紙

2001-07-23 ヒューマノイドの現在と,そして未来 『未来のアトム』(その一) 田近伸和 / アスキー


【BGMは山下達郎「アトムの子」】

 ホンダの二足歩行ヒューマノイド「ASIMO」,SONYのペットロボット「AIBO」など,今,ロボットがちょっとしたブームだ。では,近い,あるいは遠い将来,「鉄腕アトム」は本当に実現するのだろうか?
 本書『未来のアトム』は,ノンフィクションライター田近伸和がそのテーマを追ってロボットにかかわる古今の著作,思想,そしてホンダや早稲田大学,大阪大学,東京大学,経済産業省,SONY,NECなど実際にロボットの研究,開発に携わった人々にインタビューを重ねて練り上げた力作である。A5判ハードカバー,600ページ余,900グラム。あの京極夏彦『絡新婦の理』が600グラムといえば,どれほどの重みかご理解いただけるだろうか。……もちろん書物の価値が実際の重量に左右されるなどということはないのだが,サブノートPC並みの重量を鞄に入れて持ち歩くだけの価値のある1冊であることは主張したい。

 ヒューマノイド(人間型ロボット)の研究,開発においては,日本は群を抜いて進んでいる。
 というより,ほとんど唯一の開発国かもしれない。その背景には,モノ造りに強い,機械に強いという伝統もあるだろうが,手塚治虫原作の「鉄腕アトム」の影響があるに違いないというのが著者の主張である。国産初のアニメであり,またテレビの普及期の青少年に大きなインパクトを与えたアニメ「鉄腕アトム」は,確かにその世代の人生観に少なからぬ影響を残しているに違いない。
 また,思想的にも万物に神が宿る,と考える日本的な考え方は,神を唯一絶対とし,「人間を造る」行為を不遜とするキリスト教社会よりはヒューマノイドの開発を受け入れやすいのかもしれない。

 「鉄腕アトム」は,10万馬力(のちに100万馬力)の力,ジェットあるいはロケットによる飛翔,前向きな精神で「正義の味方」「明るい未来の象徴」の印象が強いが,実は「ロボットは心を持てない」という精神的な足かせと闘う,極めて内省的なドラマだった。原作かビデオをご覧になっていただけるとおわかりいただけると思うが,決して爽快な物語ではない。いや,ある意味ビョーキな設定と言えるかもしれない。なにしろ,先ほど「精神的な足かせ」という言葉を使ったが,ロボットにはそもそも「精神」というものがあるのか否か。「意識」「心」というものがあるのか否か。それなのに,それがないことに悩むなら,それは全く矛盾というか,実に人間的な悩みである,という実に奇妙かつ複雑な構造に基づくドラマなのである。

 さて,ところが「精神」とか「意識」「心」といっても,それはどこに,どのような形であるものなのか。近代科学は,それが「脳」の中に,なんらかの機械的,あるいは化学的に存在するもの,と(さしたる根拠もなく)みなしてきた。しかし,本当にそうだろうか? それならコンピュータが十分な速さとボリュームを持ったとき,AI(人工知能)は人間に迫れるはずだが,それは不可能ではないか,とするのが著者の主張である。
 まず,第一に,人間の知能は「脳」の中にあるだけでなく,極めて身体的なものではないか,ということ。つまり,二足で歩き,両手で物を持ち,視覚でものをとらえることと密接にかかわりあって発達してきたものではないか。だとするなら,コンピュータの中でAIをいくらこねくりまわしても,人間的な知能にはいたらないのではないか。
 だからこそ,人間とは何か,人間の知能とは何かを考えるとき,ヒューマノイドの研究は必須なのではないか。

(つづく)

先頭 表紙

2001-07-21 寡黙で骨太なもう1つの昭和史 『スカウト』 後藤正治 / 講談社文庫


【背筋をきちんと伸ばして生きてきた】

 今年ほどプロ野球の人気凋落が話題にされた年があったろうか。財力にあかして有名選手をかき集める一部球団の体質が問題とされることが多いが,それはプロ野球の人気が好調であった頃から実は変わっていない。同じ方法論ではもう通用しなくなった,とみるべきだろう。
 それも道理で,なにしろ昔の子供はほかに楽しみがなかった。革のグローブ,木のバットなど持っているだけで空き地でのレギュラーが保証され,ピッチャーで4番でホームランを打つことはほかの何にも代えがたい夢だった。

 本書『スカウト』は広島カープ(のち大洋ホエールズ,オリックスブルーウェーブ,日本ハムファイターズ)で辣腕スカウトとしてならし,数々の名選手を発掘した木庭教(きにわさとし)に数年間密着取材し,スカウトという仕事を通してプロ野球を,より正確には「昭和」という時代の1つの側面を克明に描き上げた「作品」である。

 木庭がカープのスカウトであったという設定は,それだけで重い意味を持つ。
 彼は被爆者であり,九死に一生を得たものの,今も甲子園大会初日の国旗掲揚と君が代の斉唱の折りにはそれが過ぎ去るのを球場スタンド下の通路で待ち,それから席に向かう。また往年のカープは人ぞ知る貧乏球団であり,高い契約金が用意できないため,無名の,しかし将来性のある選手を発掘する必要があった(だからこそ赤ヘル軍団の初めての優勝は,カープファンならずとも胸にこみあげるものがあった)。カープ時代に木庭が手がけた選手には衣笠祥雄,三村敏之,金城基泰,池谷公二郎,木下富雄,高橋慶彦,山崎隆造,大野豊,達川光男,長嶋清幸,川口和久,紀藤真琴,正田耕三らがいる。野球に詳しい方なら「なるほど」と通じるものがあるのではないか。
(ちなみに本書でも詳しく紹介されているアンダースローの金城は,烏丸がプロ野球史上でも最も好きなフォームの持ち主の1人だ。肩から後ろに思い切り伸ばした腕の振りには,線でなく面の球威を感じたものだ)

 本書を読み進むうちに,アマチュア野球選手に対する著者の評価の目がだんだん木庭に似てくるのが面白い。さらにページを繰るうちに,読み手の目まで影響を受けるのだ。すなわち,ある程度の身長があり,痩せていてもバネがあり,ピッチャーならキレ,バッターならスイングに見るべき点があるかどうか。もちろんプロの目は厳しい。その厳しい目をもってしても見逃しや,期待通りにいかない選手がいる。
 (どこまでが本音かはわからないが),昨今はなかなかよい選手がいないという。しゃかりきに野球漬けでなくとも,という環境のせいだろうか。

 本書終盤において,夏のアマチュア大会や地方の高校を尋ね歩く木庭は顔が土気色となり,老いや病を感じさせる。それはまるでプロ野球,いや野球に代表される1つの時代の終焉を感じさせるようだ。
 ところがプロ野球界は逆指名や契約金の高騰など,ごく一部の球団にのみ都合よく,ファンや子供たちから見ればごり押しの姑息な色合いをますます強めていく。
 今さらその是非は問うまい。ただ記憶のスポーツと呼ばれるプロ野球や甲子園の高校野球の魅力が色あせていくことを心から惜しみたい。この国は,何か大切なものを喪いつつあるのではないか。

 最後にもう1節だけ,この木綿でしっかり編まれたような気持ちのよい本から引用しよう。
 「どのような仕事であれ,仕事は,それをやり遂げた当人に無形の報酬を付与するものだ。淡雪のごとく,たちまち消え去っていくものであれ,至上のときといっていい時間がある」

先頭 表紙

2001-07-18 [書評以前] 『新耳袋 現代百物語 第六夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー


【うわっ,人にはでけん】

 こすもぽたりん氏によってあんな具合,あるいはこんな具合に紹介された『新耳袋』新刊である。それに併せ,第一夜から平積みにしている書店が少なくないようだ。ご覧になってない方はぜひ手にとっていただきたい。
 本書は怪異蒐集家の木原浩勝・中山市朗両氏がこつこつ集めた怪異譚集だが,他の怪談集との違いは,死体や墓地,血まみれの顔が,といったいかにもの怪談や因縁話を極力排し,市井の素朴な体験をそのまま掲載したことにある。そのため,たとえば一連の稲川淳二本がそうであるように,悲鳴を上げるような効果こそないが,逆になんとも説明のつかない不安感,突拍子のなさが残る。
 ただ,何冊か出版されるうちに,蒐集側にそのつもりがなくとも,話を持ち込む側が似た話を持ち出す傾向が強くなるのは否定できないだろう。そのため,第五夜,第六夜ともなると,「前に似た話が出てこなかったかな」という話も少なくない。
 ただ今回は京都にある「因縁」系のマンションについて小特集が組まれており(カバーの内側の本の表紙もそのマンションの写真だ)……いや,詳しくは直接お読みいただくのがよいだろう。ただしその結果,あなたの背後に



 失礼,回線が落ちてしまった。これ以上そのマンションについて書くのは剣呑なので,ここでは烏丸が親しい者から聞いた話を紹介してみよう。

 ずいぶん以前のことだが,烏丸の縁戚で,たて続けに不幸が続いたことがある。それぞれはとくにおかしな死に方ではないのだが,少々続き過ぎる。そのうち,伯母の葬儀から帰った別の伯母が,亡くなった伯母から分けてもらった十姉妹が鳥篭の中でそろって死んでいるのを発見して,これは何かおかしいということになり,祈祷師というか,そういう人に見てもらったのだという。するとその祈祷師はその縁戚の者の育ちや生業を見抜き,「山のほうにある,一族のお墓が荒れている。五輪の塔が崩れ,お地蔵さんも倒れている」と言ったというのである。一族のといってもいわゆる「本家筋」の墓であって,新しくて明治のもの,かかわる者は誰一人その墓がそこにあることさえ知らなかった墓地なのだが,車でそこを訪ねてみると,墓守の家があるような立派な墓地でありながら,荒れ果てて五輪の塔が崩れ,地蔵が倒れていたのだそうだ。

 さて,慎重な方なら,ここまでいくつか気になる点があったのではないか。十姉妹が死んだのは姉の死に慌てた伯母が水や餌を忘れたせいだろうし,祈祷師は裏で依頼主の氏素性を調べたのではないか,などなど……。
 そもそもこれは伝聞の話だし,今となっては確認のしようもない。ともかくその御祓いを境に縁戚の葬式はしばらくはおさまったのだからよしとすべきだろう。

 烏丸自身の経験はそれから10年以上経ってのこと。仕事で知り合った若者が,家族や親戚に不幸が続き,かなり厳しい状況に陥った。それも,穏やかな病死とかいった様子ではなく,幼い子供まで含めてかなり異様な感じである。慰めるすべもなく,烏丸は大昔の祈祷師の言葉から,先祖の墓が荒れてないか,という意味の言葉を彼に告げた。若干の演出のために五輪の塔,地蔵のことまで含めて。すると彼は,週に何度も郷里と東京を往復したため,睡眠不足で黒ずんだ目を見開いて,こう言うのだった。
「この夏に田舎の……五輪の塔だの地蔵だの……どうしてそんなことまで知ってるんです」

先頭 表紙

たたるんなら可愛い子孫にじゃなくて,墓石倒した奴にたたってよご先祖様! とか思ってしまう烏丸はいけない子孫でしょうか……。 / 烏丸 ( 2001-07-21 03:43 )
たしか室井滋が似た体験を書いていましたね。墓が倒れていると言われて見に行くとその通りだったとか。不思議だけど本当っぽい。 / okka ( 2001-07-20 16:38 )
え……そのために赤えんぴつでやぐらを組んだの,ぽたさまじゃないんですか? ほら,その足元の。 / 烏丸 ( 2001-07-18 11:56 )
赤い人、怖いですねえ。赤い人がうちを覗き込んでいるのを見つけたらどうしよ〜かな〜。 / こすもぽたりん ( 2001-07-18 09:17 )

2001-07-17 かつて,美術館へ

 
 二か月に一度か二度,たいていは水曜日の午後,ぼくは誘われるままにその女性とどこか都内の美術館に出かけた。晴れた日もあれば,雨の日もあった。彼女は気にいった絵があると,バレリーナのように背筋を伸ばしてその前に立ち,風にあらがうように,あるいは癒されるのを拒むようにその絵を見つめるのだった。
「あなたは,わたしが絵を見るときに邪魔にならない,珍しい人なの」
「ほかのことでは,こんなにうとましいのに。うとましくて,ねたましいのに」

 ……美術館ではあらゆる音がやむ。時間の意味が変わり,きしんだ胸が安らぎ,あるいは逆に真っ白い心に深く傷が走る。
 だから,火曜日の電話は嫌い。美術館は大嫌い。






(注)
昨夜の書評のために書き始めたのだけれど,内容にまるでそぐわなくなって切り離したものです。

先頭 表紙

最近は上野のルネッサンス展を見てきましたが,ボッティチェリの「受胎告知」がやはりよかったですー。 / 烏丸 ( 2001-07-18 01:44 )
アナイスさま,本当にそういうことってありますね。デートではありませんが,倉敷の大原美術館ではじめてモローを見たときのことは,30年以上経っても,こう,柱をまわって,そこに,とビデオ映像的にくっきり覚えています。 / 烏丸 ( 2001-07-18 01:42 )
美術館のデートは特別だよ。絵も、部屋も、どんな絨毯が敷いてあったかも思い出せるし。 / アナイス ( 2001-07-17 23:11 )
最後の2文とは,(注)のほうの最後のことですよね? 用も足りたことだし(笑),ご指摘のとおり削除してみました。さて。 / 素直な烏丸 ( 2001-07-17 11:46 )
最後の2文がなければ、別のつっこみをするところでした。ためしに削除なさっては? / たらママ ( 2001-07-17 09:00 )

2001-07-16 本の中の名画たち その十ニ 『名画 裸婦感応術』 横尾忠則 / 光文社知恵の森文庫


【あんまり上手い絵にはどことなく抵抗がある】

 横尾忠則の本では以前『名画感応術 神の贈り物を歓ぶ』を取り上げた。
 絵画は「感覚」「感性」で見るものだという考え方の是非はともかく「自分が考える意味,自分が感じる感性はおっけーで,他者が意味や感覚について述べたらイマイチ,それだけのことなのかも」と身も蓋もない酷評をしてしまったわけだが,それは構造的な問題だからしょうがない。「こちらも感覚,感性で読ませていただいて,美味しいところ興味深いところだけ味わおう」といったところか。

 『名画 裸婦感応術』では,教科書級の巨匠からダダ・シュルレアリスト,ポップアート,さらには現時点ではまだメジャーといえないあたりまで計36人の画家の作品が紹介されている。裸婦に限定したためかめったに見られない作品も少なくなく,目を通すだけでも楽しい。

 ヴィレム・デ・クーニングについての,上手く描けないから人物の手首の描写を極力避けているように思われるという記述は面白い。実作者でなければ出てこない読みではないか。しかし傑作(には見えないのだが)「女」シリーズを捨てた結果,ほとんどチンパンジーの描く絵画と区別できない領域に至るって,大丈夫かクーニング。
 クロビス・トルイユは本書の見ものの1人。血と薔薇と骨牌の大正猟奇というか,懐かしいタッチ。ただ,この手の絵が知れわたるにはきっかけが必要。ベストセラーの表紙に使われるとか。
 ローランサンはあまり好きでなかったが,本書のように過剰な自己主張の中に収まると心地よさが許せる気がするのは身勝手か。
 どうも横尾はシュルレアリスム周辺について評価が辛い。「この程度で大家扱いされている,もっとほかに魅力的なアウトサイダーが」といった感じか。そう指摘する横尾当人がデュシャンに対して「感覚」「感性」でなくコンセプトでしか見ていないのは不快。
 一方,横尾が大事にするウェッセルマンやウォーホル,リンドナーらのポップアートはどうも好きになれない。同じロックでもブリティッシュのファンはアメリカの音を好きになれない,そんな具合。
 エリック・フィッシュルも好きになれない画家の一人で……ああ,これもアメリカの人。病的なエロティシズムとエロティシズムがア・プリオリに持つ危うさは別なのではないか。脱ぐものが違う。
 フランチェスコ・クレメンテの「はさみと蝶」について,横尾は「三つの女性器(一つは隠されているが)と三つのはさみ,三つの蝶が乱舞している」「三人の女性の長い長い目尻,それともつけ睫毛なのか」「魂の象徴でもある蝶」などと書いているが,この三つの蝶には陰毛もクリトリスもくっきりと書き込まれ,象徴というも悲しいほどリアルな(おそらく画面中のはさみで切り取られた)女性器ではないか。女性の長い目尻は逆転して,蝶の触角のメタファーだろう。画家のつもりは何か知らないが,横尾はちゃんと絵を見ているのか?

 などなどの細かい点以上に気になったのは,本書中で何度も登場する「ぼくがグラフィックデザイナーから画家に転向した」「当時の美術界はぼくの作品は絵画ではなくイラストであるという判定を下した」等々の表記。他の世界なら「フリーライターから小説家に転向した」「ミュージシャンからアーティストに転向した」?
 肩書きで作品の評価が変わるとは,つまらぬことだ。ダ・ヴィンチやミケランジェロは教会のポスター描き。ゴヤやマネは写真館の親爺,ジェリコーは報道写真家。ロートレックにいたっては飲み屋の看板描きだったのに。否,だったからこそ!

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ヴィーナスさま,いらっしゃいませ。烏丸が昔住んでいたあたりは芸術学科や美術学校がわりあい近く,同じアパートには画学生やヴィーナスさまのご同業の方もおられました。ドアの鍵をせずに出かけ,互いに勝手に出入りして本を読んだり,今思うと夢のよう。 / 烏丸 ( 2001-07-16 12:20 )
美術モデルをやってます。チェックいれておきます。参考になります。 / ヴィーナス ( 2001-07-16 02:58 )
画家に対する好みの違いもあってけちょんけちょんな書き方してますが,本としては『名画感応術』よりずっとお奨めです。古典的な名画に限定せず(つまり絵画に詳しくない人に啓蒙しよう,などという余計な意識なしに)縦横に裸婦像を選び,好き放題に書いている感じで,そうなるとさすが実作者,興味深い表現があちこちに出てきます。 / 烏丸 ( 2001-07-16 02:39 )

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