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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2001-07-24 メタファー(暗喩)としての 『未来のアトム』(その三) 田近伸和 / アスキー
2001-07-24 科学は意識や心を扱えない 『未来のアトム』(その二) 田近伸和 / アスキー
2001-07-23 ヒューマノイドの現在と,そして未来 『未来のアトム』(その一) 田近伸和 / アスキー
2001-07-21 寡黙で骨太なもう1つの昭和史 『スカウト』 後藤正治 / 講談社文庫
2001-07-18 [書評以前] 『新耳袋 現代百物語 第六夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー
2001-07-17 かつて,美術館へ
2001-07-16 本の中の名画たち その十ニ 『名画 裸婦感応術』 横尾忠則 / 光文社知恵の森文庫
2001-07-13 ベイカー街は霧の彼方に 『シャーロック・ホームズの功績』 アドリアン・コナン・ドイル,ジョン・ディクスン・カー,大久保康雄 訳 / ハヤカワ・ミステリ
2001-07-12 [時事] インターネットと公職選挙法
2001-07-11 悠久の時を超え… 『「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』 サマンサ・ワインバーグ,戸根由紀恵 訳 / 文春文庫


2001-07-24 メタファー(暗喩)としての 『未来のアトム』(その三) 田近伸和 / アスキー


【神の領域に近づく】

 「カオス」だの「不完全性定理」だのの理論,思想,哲学,宗教(?)についてはキリがないのでここでは取り上げない。
 要するに著者の主張は,知能の発現には身体が不可欠であるということ,そして人間の知能や意識はそれが果たして人間の中のどこのどのような働きによって存在するか,現代科学ではほとんどといってよいほど解明されていない,また従来の科学的手法によってはおそらく解明できないだろう,ということだ。
 たとえば,科学は水を水素と酸素の化合物として明示的に規定するが,人間にとっての水は,暑い日差しの元で喉を潤す一杯の水であったり,心地よい風呂の水であったり,山をも崩す濁流であったりする。これは身体,五感を通して記憶された水であって,いかなる辞書もこれらを包含することはできない。そして,身体的な認識を得られない限り,いかなるAI(人工知能)も,このような認識を持つことはできない。
 だから,少なくともよほどのブレークスルーがなければ「超機械」としてのアトムは実現不可能だろう。……

 結論だけ見れば,何を当たり前なことを,という気もする。
 ヒューマノイドの開発が「人間とは何か」と密接に関係するのは間違いないが,イコールではない。まず,この著者は機械の開発における「模倣」という概念を(意図的かもしれないが)除外している。また,機械というものは目的に応じて開発されるものであり,人間の行為はその目的について十全に理解していなくても果たされる場合があることが失念されている。たとえば国家とは何か,政治とは何かの完全正答はなくとも国家・政治は営まれる。
 その意味で,本書は,ヒューマノイドについてのノンフィクションの体裁を借りながら,ベルグソンに感動したという著者の人間観,科学観を総覧的に述べたもの,ととらえるべきかもしれない。
 しかし,科学の現状と科学観(メタ科学)を同一水平面で論じるのは,それこそフレーム違いではないか。

 添付画像は我が家のペットのザリガニである。この夏,我が家に来たときには触角を半分失い,少々元気がなかったが,一度脱皮して以来なくした触角も多少は伸び,ずいぶんと快活になった。
 彼の目に,夜になると水を替え,餌を投げ入れる私はいかに見えているのか。彼のハサミや足の動きはいかなる仕組みで動いているのか。彼の意識,恐怖,痛み,記憶,生への執着はどのように把握されているのか。眺めているだけで興味は尽きない。

 知能が身体と密接にかかわるなら,人間とザリガニの意識は永遠に一致することはないだろう。左右で十本の指を持つ人間の知能と,0,1のデジタルの組み合わせで思考するコンピュータはどこまでいっても不完全な翻訳機能を介してしか会話できないだろう。それは当然のことだ。

 『未来のアトム』の著者は,現在の科学の限界を気にするあまり,いたずらに限界をあげつらっているようにも見える。それは,未来が予測不可能であるとする著者の指摘からしても明らかに矛盾する。不可能なはずのことを(予想と違う形であれ)次々に実現してきたのが人間の意識,心ではなかったのか。
 だからといって,全く人間と同じように認識し,同じように意識,心を持つヒューマノイドを期待するのも無茶というものだろう。ヒューマノイドには,ヒューマノイドとしてのアイデンティティ,そしてレゾンデートル(存在意義)が発現するに違いない。それを人間が理解できるとは限らない。

 ザリガニはザリガニであって,人間より偉くもなければ偉くなくもない。そんなものである。

先頭 表紙

2001-07-24 科学は意識や心を扱えない 『未来のアトム』(その二) 田近伸和 / アスキー

 
【AI研究の出発点にはデカルトの心身二元論があった】

 知能は極めて身体的なものである。たとえば人間の二足歩行の理論については,実はいまだ誰も理論化できてないにもかかわらず,ホンダのヒューマノイド開発チームが,ロボットが倒れないように人間が横で支え,その感触,直感に基づいて歩き方のプログラミングを変えていったという挿話は興味深い。
 また,早稲田大学理工学部等で進められている,モデル・ベースでない,ビヘイビア・ベースのロボットの開発についての話もなるほどと感心させられる。これは事前にすべてのプログラムを組み込むのでなく,基本的なプログラムだけ与え,行動と学習によってロボットに自ら知識を獲得させようとする試みである。
 さらに,ロボットが周囲を認識するための視野についての考察も面白い。たとえば認識における「フレーム」の問題がある。ロボットに,時限爆弾が仕掛けられた部屋に行き,予備バッテリーを取って来いと命令したとき,ロボットはバッテリーと時限爆弾が同じワゴンに乗っていてもそのまま持って出てしまう。さりとてあまり細かく命令を与えると,今度は少しでも状況が異なると計算の要素が膨らみすぎてやはり吹き飛ばされてしまう……(AI(人工知能)が,チェスでは人間のチャンピオンに勝てても囲碁ではいまだ勝負にならないのは,このフレームの問題が大きい)。

 このように,さまざまなロボット,ヒューマノイドの開発,研究元を訪ね歩き,それぞれの考え方や開発の現状をレポートする前半部はまことに面白い。手に汗握る面白さ,と言ってもよい。しかし,そのうちに著者は大きな疑問とぶつかり,記述の方向を変えていく。よく言えば深化,悪く言えば逸脱である。
 著者は,ヒューマノイドの開発,研究が人間の本質に深くかかわるという自覚から,「人間とは何か」にばかりひたすらこだわってしまうのである。

 確かに,人間がどのようにモノを見,それを認識し,さらにはどのような意識から行動を起こすのか,これは汲めども尽きぬ思索の対象であり,しかも現代までの科学,学問が実はほとんど手も足もでない領域でもある。

 たとえば,最近テレビで放映されている,サッカーの中田選手をフューチャリングしたCMの1つを思い起こしてみよう。彼は広い部屋の縦横に置かれたさまざまな椅子の中から,自分の好みの椅子を発見し,それにゆったりと腰掛ける。CMはこれに「自分らしさ……」といったナレーションがかぶさるのだが,この短いCMには実は科学的にはいまだ説明できないさまざまな要素が含まれている。

 たとえば,人間は,さまざまな大きさ,鉄・木・革といったあらゆる素材で組み合わさったモノを,どうやって(机でも犬でも自動車でもパンでもなく)「椅子」と認識できるのか。
 また,離れたところから,鉄や木や革といった素材感を見抜き,さらに実際に座ってその滑らかさ,硬さ,柔軟性などを認識できるのだろう(こういった質感や色彩,香り,味わいなどを脳科学では「クオリア」と称し,その物理的,化学的なメカニズムは今もって謎とされている)。

 著者は,こういった人間の「知能」,ひいては「意識」や「心」の問題にとらわれ,プラトン,デカルトから最近の「自己組織化」「総発」「非線形ダイナミクス」「カオス」「オートポイエーシス」「アフォーダンス」,さらにはゲーデルの「不完全性定理」,ペンローズによる「量子重力理論」といった最新の科学理論,さらにはベルグソン哲学まで持ち出して生命と非生命の間の深遠な溝を指摘することに奔走する。

(つづく)

先頭 表紙

2001-07-23 ヒューマノイドの現在と,そして未来 『未来のアトム』(その一) 田近伸和 / アスキー


【BGMは山下達郎「アトムの子」】

 ホンダの二足歩行ヒューマノイド「ASIMO」,SONYのペットロボット「AIBO」など,今,ロボットがちょっとしたブームだ。では,近い,あるいは遠い将来,「鉄腕アトム」は本当に実現するのだろうか?
 本書『未来のアトム』は,ノンフィクションライター田近伸和がそのテーマを追ってロボットにかかわる古今の著作,思想,そしてホンダや早稲田大学,大阪大学,東京大学,経済産業省,SONY,NECなど実際にロボットの研究,開発に携わった人々にインタビューを重ねて練り上げた力作である。A5判ハードカバー,600ページ余,900グラム。あの京極夏彦『絡新婦の理』が600グラムといえば,どれほどの重みかご理解いただけるだろうか。……もちろん書物の価値が実際の重量に左右されるなどということはないのだが,サブノートPC並みの重量を鞄に入れて持ち歩くだけの価値のある1冊であることは主張したい。

 ヒューマノイド(人間型ロボット)の研究,開発においては,日本は群を抜いて進んでいる。
 というより,ほとんど唯一の開発国かもしれない。その背景には,モノ造りに強い,機械に強いという伝統もあるだろうが,手塚治虫原作の「鉄腕アトム」の影響があるに違いないというのが著者の主張である。国産初のアニメであり,またテレビの普及期の青少年に大きなインパクトを与えたアニメ「鉄腕アトム」は,確かにその世代の人生観に少なからぬ影響を残しているに違いない。
 また,思想的にも万物に神が宿る,と考える日本的な考え方は,神を唯一絶対とし,「人間を造る」行為を不遜とするキリスト教社会よりはヒューマノイドの開発を受け入れやすいのかもしれない。

 「鉄腕アトム」は,10万馬力(のちに100万馬力)の力,ジェットあるいはロケットによる飛翔,前向きな精神で「正義の味方」「明るい未来の象徴」の印象が強いが,実は「ロボットは心を持てない」という精神的な足かせと闘う,極めて内省的なドラマだった。原作かビデオをご覧になっていただけるとおわかりいただけると思うが,決して爽快な物語ではない。いや,ある意味ビョーキな設定と言えるかもしれない。なにしろ,先ほど「精神的な足かせ」という言葉を使ったが,ロボットにはそもそも「精神」というものがあるのか否か。「意識」「心」というものがあるのか否か。それなのに,それがないことに悩むなら,それは全く矛盾というか,実に人間的な悩みである,という実に奇妙かつ複雑な構造に基づくドラマなのである。

 さて,ところが「精神」とか「意識」「心」といっても,それはどこに,どのような形であるものなのか。近代科学は,それが「脳」の中に,なんらかの機械的,あるいは化学的に存在するもの,と(さしたる根拠もなく)みなしてきた。しかし,本当にそうだろうか? それならコンピュータが十分な速さとボリュームを持ったとき,AI(人工知能)は人間に迫れるはずだが,それは不可能ではないか,とするのが著者の主張である。
 まず,第一に,人間の知能は「脳」の中にあるだけでなく,極めて身体的なものではないか,ということ。つまり,二足で歩き,両手で物を持ち,視覚でものをとらえることと密接にかかわりあって発達してきたものではないか。だとするなら,コンピュータの中でAIをいくらこねくりまわしても,人間的な知能にはいたらないのではないか。
 だからこそ,人間とは何か,人間の知能とは何かを考えるとき,ヒューマノイドの研究は必須なのではないか。

(つづく)

先頭 表紙

2001-07-21 寡黙で骨太なもう1つの昭和史 『スカウト』 後藤正治 / 講談社文庫


【背筋をきちんと伸ばして生きてきた】

 今年ほどプロ野球の人気凋落が話題にされた年があったろうか。財力にあかして有名選手をかき集める一部球団の体質が問題とされることが多いが,それはプロ野球の人気が好調であった頃から実は変わっていない。同じ方法論ではもう通用しなくなった,とみるべきだろう。
 それも道理で,なにしろ昔の子供はほかに楽しみがなかった。革のグローブ,木のバットなど持っているだけで空き地でのレギュラーが保証され,ピッチャーで4番でホームランを打つことはほかの何にも代えがたい夢だった。

 本書『スカウト』は広島カープ(のち大洋ホエールズ,オリックスブルーウェーブ,日本ハムファイターズ)で辣腕スカウトとしてならし,数々の名選手を発掘した木庭教(きにわさとし)に数年間密着取材し,スカウトという仕事を通してプロ野球を,より正確には「昭和」という時代の1つの側面を克明に描き上げた「作品」である。

 木庭がカープのスカウトであったという設定は,それだけで重い意味を持つ。
 彼は被爆者であり,九死に一生を得たものの,今も甲子園大会初日の国旗掲揚と君が代の斉唱の折りにはそれが過ぎ去るのを球場スタンド下の通路で待ち,それから席に向かう。また往年のカープは人ぞ知る貧乏球団であり,高い契約金が用意できないため,無名の,しかし将来性のある選手を発掘する必要があった(だからこそ赤ヘル軍団の初めての優勝は,カープファンならずとも胸にこみあげるものがあった)。カープ時代に木庭が手がけた選手には衣笠祥雄,三村敏之,金城基泰,池谷公二郎,木下富雄,高橋慶彦,山崎隆造,大野豊,達川光男,長嶋清幸,川口和久,紀藤真琴,正田耕三らがいる。野球に詳しい方なら「なるほど」と通じるものがあるのではないか。
(ちなみに本書でも詳しく紹介されているアンダースローの金城は,烏丸がプロ野球史上でも最も好きなフォームの持ち主の1人だ。肩から後ろに思い切り伸ばした腕の振りには,線でなく面の球威を感じたものだ)

 本書を読み進むうちに,アマチュア野球選手に対する著者の評価の目がだんだん木庭に似てくるのが面白い。さらにページを繰るうちに,読み手の目まで影響を受けるのだ。すなわち,ある程度の身長があり,痩せていてもバネがあり,ピッチャーならキレ,バッターならスイングに見るべき点があるかどうか。もちろんプロの目は厳しい。その厳しい目をもってしても見逃しや,期待通りにいかない選手がいる。
 (どこまでが本音かはわからないが),昨今はなかなかよい選手がいないという。しゃかりきに野球漬けでなくとも,という環境のせいだろうか。

 本書終盤において,夏のアマチュア大会や地方の高校を尋ね歩く木庭は顔が土気色となり,老いや病を感じさせる。それはまるでプロ野球,いや野球に代表される1つの時代の終焉を感じさせるようだ。
 ところがプロ野球界は逆指名や契約金の高騰など,ごく一部の球団にのみ都合よく,ファンや子供たちから見ればごり押しの姑息な色合いをますます強めていく。
 今さらその是非は問うまい。ただ記憶のスポーツと呼ばれるプロ野球や甲子園の高校野球の魅力が色あせていくことを心から惜しみたい。この国は,何か大切なものを喪いつつあるのではないか。

 最後にもう1節だけ,この木綿でしっかり編まれたような気持ちのよい本から引用しよう。
 「どのような仕事であれ,仕事は,それをやり遂げた当人に無形の報酬を付与するものだ。淡雪のごとく,たちまち消え去っていくものであれ,至上のときといっていい時間がある」

先頭 表紙

2001-07-18 [書評以前] 『新耳袋 現代百物語 第六夜』 木原浩勝・中山市朗 / メディア・ファクトリー


【うわっ,人にはでけん】

 こすもぽたりん氏によってあんな具合,あるいはこんな具合に紹介された『新耳袋』新刊である。それに併せ,第一夜から平積みにしている書店が少なくないようだ。ご覧になってない方はぜひ手にとっていただきたい。
 本書は怪異蒐集家の木原浩勝・中山市朗両氏がこつこつ集めた怪異譚集だが,他の怪談集との違いは,死体や墓地,血まみれの顔が,といったいかにもの怪談や因縁話を極力排し,市井の素朴な体験をそのまま掲載したことにある。そのため,たとえば一連の稲川淳二本がそうであるように,悲鳴を上げるような効果こそないが,逆になんとも説明のつかない不安感,突拍子のなさが残る。
 ただ,何冊か出版されるうちに,蒐集側にそのつもりがなくとも,話を持ち込む側が似た話を持ち出す傾向が強くなるのは否定できないだろう。そのため,第五夜,第六夜ともなると,「前に似た話が出てこなかったかな」という話も少なくない。
 ただ今回は京都にある「因縁」系のマンションについて小特集が組まれており(カバーの内側の本の表紙もそのマンションの写真だ)……いや,詳しくは直接お読みいただくのがよいだろう。ただしその結果,あなたの背後に



 失礼,回線が落ちてしまった。これ以上そのマンションについて書くのは剣呑なので,ここでは烏丸が親しい者から聞いた話を紹介してみよう。

 ずいぶん以前のことだが,烏丸の縁戚で,たて続けに不幸が続いたことがある。それぞれはとくにおかしな死に方ではないのだが,少々続き過ぎる。そのうち,伯母の葬儀から帰った別の伯母が,亡くなった伯母から分けてもらった十姉妹が鳥篭の中でそろって死んでいるのを発見して,これは何かおかしいということになり,祈祷師というか,そういう人に見てもらったのだという。するとその祈祷師はその縁戚の者の育ちや生業を見抜き,「山のほうにある,一族のお墓が荒れている。五輪の塔が崩れ,お地蔵さんも倒れている」と言ったというのである。一族のといってもいわゆる「本家筋」の墓であって,新しくて明治のもの,かかわる者は誰一人その墓がそこにあることさえ知らなかった墓地なのだが,車でそこを訪ねてみると,墓守の家があるような立派な墓地でありながら,荒れ果てて五輪の塔が崩れ,地蔵が倒れていたのだそうだ。

 さて,慎重な方なら,ここまでいくつか気になる点があったのではないか。十姉妹が死んだのは姉の死に慌てた伯母が水や餌を忘れたせいだろうし,祈祷師は裏で依頼主の氏素性を調べたのではないか,などなど……。
 そもそもこれは伝聞の話だし,今となっては確認のしようもない。ともかくその御祓いを境に縁戚の葬式はしばらくはおさまったのだからよしとすべきだろう。

 烏丸自身の経験はそれから10年以上経ってのこと。仕事で知り合った若者が,家族や親戚に不幸が続き,かなり厳しい状況に陥った。それも,穏やかな病死とかいった様子ではなく,幼い子供まで含めてかなり異様な感じである。慰めるすべもなく,烏丸は大昔の祈祷師の言葉から,先祖の墓が荒れてないか,という意味の言葉を彼に告げた。若干の演出のために五輪の塔,地蔵のことまで含めて。すると彼は,週に何度も郷里と東京を往復したため,睡眠不足で黒ずんだ目を見開いて,こう言うのだった。
「この夏に田舎の……五輪の塔だの地蔵だの……どうしてそんなことまで知ってるんです」

先頭 表紙

たたるんなら可愛い子孫にじゃなくて,墓石倒した奴にたたってよご先祖様! とか思ってしまう烏丸はいけない子孫でしょうか……。 / 烏丸 ( 2001-07-21 03:43 )
たしか室井滋が似た体験を書いていましたね。墓が倒れていると言われて見に行くとその通りだったとか。不思議だけど本当っぽい。 / okka ( 2001-07-20 16:38 )
え……そのために赤えんぴつでやぐらを組んだの,ぽたさまじゃないんですか? ほら,その足元の。 / 烏丸 ( 2001-07-18 11:56 )
赤い人、怖いですねえ。赤い人がうちを覗き込んでいるのを見つけたらどうしよ〜かな〜。 / こすもぽたりん ( 2001-07-18 09:17 )

2001-07-17 かつて,美術館へ

 
 二か月に一度か二度,たいていは水曜日の午後,ぼくは誘われるままにその女性とどこか都内の美術館に出かけた。晴れた日もあれば,雨の日もあった。彼女は気にいった絵があると,バレリーナのように背筋を伸ばしてその前に立ち,風にあらがうように,あるいは癒されるのを拒むようにその絵を見つめるのだった。
「あなたは,わたしが絵を見るときに邪魔にならない,珍しい人なの」
「ほかのことでは,こんなにうとましいのに。うとましくて,ねたましいのに」

 ……美術館ではあらゆる音がやむ。時間の意味が変わり,きしんだ胸が安らぎ,あるいは逆に真っ白い心に深く傷が走る。
 だから,火曜日の電話は嫌い。美術館は大嫌い。






(注)
昨夜の書評のために書き始めたのだけれど,内容にまるでそぐわなくなって切り離したものです。

先頭 表紙

最近は上野のルネッサンス展を見てきましたが,ボッティチェリの「受胎告知」がやはりよかったですー。 / 烏丸 ( 2001-07-18 01:44 )
アナイスさま,本当にそういうことってありますね。デートではありませんが,倉敷の大原美術館ではじめてモローを見たときのことは,30年以上経っても,こう,柱をまわって,そこに,とビデオ映像的にくっきり覚えています。 / 烏丸 ( 2001-07-18 01:42 )
美術館のデートは特別だよ。絵も、部屋も、どんな絨毯が敷いてあったかも思い出せるし。 / アナイス ( 2001-07-17 23:11 )
最後の2文とは,(注)のほうの最後のことですよね? 用も足りたことだし(笑),ご指摘のとおり削除してみました。さて。 / 素直な烏丸 ( 2001-07-17 11:46 )
最後の2文がなければ、別のつっこみをするところでした。ためしに削除なさっては? / たらママ ( 2001-07-17 09:00 )

2001-07-16 本の中の名画たち その十ニ 『名画 裸婦感応術』 横尾忠則 / 光文社知恵の森文庫


【あんまり上手い絵にはどことなく抵抗がある】

 横尾忠則の本では以前『名画感応術 神の贈り物を歓ぶ』を取り上げた。
 絵画は「感覚」「感性」で見るものだという考え方の是非はともかく「自分が考える意味,自分が感じる感性はおっけーで,他者が意味や感覚について述べたらイマイチ,それだけのことなのかも」と身も蓋もない酷評をしてしまったわけだが,それは構造的な問題だからしょうがない。「こちらも感覚,感性で読ませていただいて,美味しいところ興味深いところだけ味わおう」といったところか。

 『名画 裸婦感応術』では,教科書級の巨匠からダダ・シュルレアリスト,ポップアート,さらには現時点ではまだメジャーといえないあたりまで計36人の画家の作品が紹介されている。裸婦に限定したためかめったに見られない作品も少なくなく,目を通すだけでも楽しい。

 ヴィレム・デ・クーニングについての,上手く描けないから人物の手首の描写を極力避けているように思われるという記述は面白い。実作者でなければ出てこない読みではないか。しかし傑作(には見えないのだが)「女」シリーズを捨てた結果,ほとんどチンパンジーの描く絵画と区別できない領域に至るって,大丈夫かクーニング。
 クロビス・トルイユは本書の見ものの1人。血と薔薇と骨牌の大正猟奇というか,懐かしいタッチ。ただ,この手の絵が知れわたるにはきっかけが必要。ベストセラーの表紙に使われるとか。
 ローランサンはあまり好きでなかったが,本書のように過剰な自己主張の中に収まると心地よさが許せる気がするのは身勝手か。
 どうも横尾はシュルレアリスム周辺について評価が辛い。「この程度で大家扱いされている,もっとほかに魅力的なアウトサイダーが」といった感じか。そう指摘する横尾当人がデュシャンに対して「感覚」「感性」でなくコンセプトでしか見ていないのは不快。
 一方,横尾が大事にするウェッセルマンやウォーホル,リンドナーらのポップアートはどうも好きになれない。同じロックでもブリティッシュのファンはアメリカの音を好きになれない,そんな具合。
 エリック・フィッシュルも好きになれない画家の一人で……ああ,これもアメリカの人。病的なエロティシズムとエロティシズムがア・プリオリに持つ危うさは別なのではないか。脱ぐものが違う。
 フランチェスコ・クレメンテの「はさみと蝶」について,横尾は「三つの女性器(一つは隠されているが)と三つのはさみ,三つの蝶が乱舞している」「三人の女性の長い長い目尻,それともつけ睫毛なのか」「魂の象徴でもある蝶」などと書いているが,この三つの蝶には陰毛もクリトリスもくっきりと書き込まれ,象徴というも悲しいほどリアルな(おそらく画面中のはさみで切り取られた)女性器ではないか。女性の長い目尻は逆転して,蝶の触角のメタファーだろう。画家のつもりは何か知らないが,横尾はちゃんと絵を見ているのか?

 などなどの細かい点以上に気になったのは,本書中で何度も登場する「ぼくがグラフィックデザイナーから画家に転向した」「当時の美術界はぼくの作品は絵画ではなくイラストであるという判定を下した」等々の表記。他の世界なら「フリーライターから小説家に転向した」「ミュージシャンからアーティストに転向した」?
 肩書きで作品の評価が変わるとは,つまらぬことだ。ダ・ヴィンチやミケランジェロは教会のポスター描き。ゴヤやマネは写真館の親爺,ジェリコーは報道写真家。ロートレックにいたっては飲み屋の看板描きだったのに。否,だったからこそ!

先頭 表紙

ヴィーナスさま,いらっしゃいませ。烏丸が昔住んでいたあたりは芸術学科や美術学校がわりあい近く,同じアパートには画学生やヴィーナスさまのご同業の方もおられました。ドアの鍵をせずに出かけ,互いに勝手に出入りして本を読んだり,今思うと夢のよう。 / 烏丸 ( 2001-07-16 12:20 )
美術モデルをやってます。チェックいれておきます。参考になります。 / ヴィーナス ( 2001-07-16 02:58 )
画家に対する好みの違いもあってけちょんけちょんな書き方してますが,本としては『名画感応術』よりずっとお奨めです。古典的な名画に限定せず(つまり絵画に詳しくない人に啓蒙しよう,などという余計な意識なしに)縦横に裸婦像を選び,好き放題に書いている感じで,そうなるとさすが実作者,興味深い表現があちこちに出てきます。 / 烏丸 ( 2001-07-16 02:39 )

2001-07-13 ベイカー街は霧の彼方に 『シャーロック・ホームズの功績』 アドリアン・コナン・ドイル,ジョン・ディクスン・カー,大久保康雄 訳 / ハヤカワ・ミステリ


【私はドヴァートン夫人を目の前にして,彼の顔が不気味なほど冷酷になるのを見た】

 先週はシャーロック・ホームズのパスティーシュを2冊取り上げたが,やはりホームズ贋作の老舗というか本舗というか,カステラ一番電話は二番,三時のおやつはこの『シャーロック・ホームズの功績』だろう。
 著者名にご注目いただきたい。アドリアンはホームズの生みの親アーサー・コナン・ドイルの実子。一方,ジョン・ディクスン・カー(=カーター・ディクスン)といえば『三つの棺』『火刑法廷』『皇帝のかぎ煙草入れ』などで知られるエラリー・クイーン,アガサ・クリスティーと並ぶミステリ界の重鎮である。

 本書には12編の短編が収録されているが,そのうち前半の6編は2人の競作,後半の6編はアドリアンの手による。大半はドイルの作品中にちらりと触れられつつ,さまざまな理由からワトスンが公開しなかったいわゆる「幻の事件」を書き起こしたものだ。
 競作の6編はさすが密室・不可能犯罪の大家カーが監修しただけあって,どちらかといえばひねりの利いた展開が楽しめる。一方,アドリアン単独作のほうは,犯罪の方法や推理の根拠はやや単純かもしれないが,逆にホームズの性格のアクの強さ,女性に対する不信,ワトスンの朴訥さとそれゆえの強さ,ロンドンの夜の霧の深さなど情緒面でなかなか陰影深い。とくに事件解決に向けてのホームズの演出が鮮やかな「アバス・ルビーの事件」,捜査・推理は快刀乱麻を断つごとくでありながら随所に色濃い寂寥感の漂う「赤い寡婦の事件」などは原典以上に暗く苦い味が印象深い。要するに本書後半の短編群において,ホームズはなにかと疲れ果て,不機嫌なのである。

 贋作ゆえ,原典以上にホームズやワトスンの性格付けが強調されているせいもあるには違いないが,それだけでは説明がつかないような気もする。
 思うに,ドイルにとってホームズはほぼ同世代の人物だった。したがって,ホームズをモリアーティ教授とともにライヘンバッハの滝壺に落として死なせたり(無論,読者からの強い要望で復活させることになるのだが),引退してサセックスで養蜂家にしたりは,作家としての判断で自在にできることだった。
 しかし,1950年代に本書を上梓したアドリアンらにとって,(同じ架空の人物ではあっても)ホームズはすでに過去の,確定した存在であり,どのような終焉かはともかくどこかでなんらかの理由で亡くなっているはずの人物である。作家の方針や気分で引退させたり復活させたりできるようなものではない。架空の歴史とはいえ,ある一筋の歴史の中で克明に生き,死んでいったはずの探偵なのである。本書にはそんなアドリアンのいかんともしがたい思いが強く現れている……そんな気がしてならない。

 最後の「赤い寡婦の事件」は,事件解決ののちホームズがヴァイオリンで「蛍の光」を奏でる姿を窓に映し,さらにはそれから何十年かしてサセックスの丘陵で白髪の老人としてワトスンと穏やかな日々を送る姿が描かれている。
 それらはドイルによって創造されながら,ドイルには描くことのできなかったではないか。
 名探偵もスーパーマンも,時の流れにはあらがうことができないのだ。

先頭 表紙

2001-07-12 [時事] インターネットと公職選挙法

 
 第19回参議院通常選挙が本日公示され,29日(日)の投票に向けて17日間の選挙戦がいよいよ始まりました。
 各政党や候補者について,ひまじんネットでも連日熱い議論が……といきたいところですが,実はネット上のオープンなスペースで特定の候補者について有利な書き込みをするのは公職選挙法では違反とされているのだそうです。インターネット上の掲示板や日記サイト,メーリングリストなどでの政治活動が「文書図画」の「頒布」にあたるとみなされてしまうためなんですね。

 これは,候補者本人や選挙事務所など,直接選挙にかかわる者だけでなく,「○○候補の考え方はいいと思う」といった個人の発言でも問題とされる可能性があります。
 しかも,やっかいなのは,過去のパソコン通信やインターネット関連事件において,発言やデータに問題があった場合,フォーラムのシスオペやインターネットサービスプロバイダに責任がある,という判断が下されたケースも少なくないということです。つまり,ひまじんネット上で公職選挙法に抵触する書き込みがなされた場合,システム管理者の皆々さまにまで迷惑が及ぶ可能性があるということです。たいへんげま。どうするげま。

 もちろん,現行の公職選挙法はインターネットの普及以前に定められたものですから,WWW,iモードなどが普及した時点でその内容を改正すべしという声もあるかとは思いますが,逆にいえば従来から選挙運動として配布できるビラ,はがき,ポスターなどの枚数に厳密にこだわってきた選挙制度をかんがみるに,今後とも,インターネット上での不特定多数に対する発言がそう甘く許されるとは思えません。
 ということで,これから17日間,選挙に関する書き込みにはお互い注意したいものです。

 ちなみに規制されているのは「特定の候補者を有利に」する行為であって,実は「特定の候補者についての落選運動」はおっけーなんだそうです。そういえば確かにそういうサイトが話題になったこともあったような。
 なんだそっか,じゃあ○泉の悪口書いてもいいのか(←特定政党にくみしているわけではありません,念のため)。

先頭 表紙

2001-07-11 悠久の時を超え… 『「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』 サマンサ・ワインバーグ,戸根由紀恵 訳 / 文春文庫


【寝てもさめてもこの魚のことしか】

 海の底で静かに生きながらえてきたシーラカンスと,その研究に人生を賭した人々の時間がゆっくりと交差するドキュメント。

 私たちは「生きた化石」シーラカンスについて,いったいどれほど知っているだろう。四肢とみまがうような太いヒレ,大きなウロコ。アフリカのどこで,いつ発見されたのか。これまでどのくらい捕獲されたのか,残存する個体総数,その生態は,陸上の生物との進化の関連は?

 1938年,南アフリカ共和国,イースト・ロンドンの博物館の若い学芸員マージョリー・コートネイ-ラティマーはクリスマスを直前に忙しく働いていた。恐竜の化石を組み立てていた彼女を,一昨日設置されたばかりの電話が呼ぶ。標本のためにいつも魚を持ち帰ってくれるグーセン船長のトロール船が港に入ったのだ。かけつけた彼女は,魚の山の中から見慣れない青いヒレを見つける。それはどんな魚とも似てはいなかった……。
 彼女は魚類学に詳しいJ・L・B・スミス博士に指示を仰ぐが連絡がとれず,遺体保安所も冷凍倉庫も1.5メートルもの魚を置かせてくれない。彼女はやむなく魚を剥製にし,内臓を捨ててしまう。

 一方,マージョリーからの手紙をようやく手にしたスミス博士は大きな衝撃を受ける。彼女の指摘するとおりそのスケッチは七千万年前に絶滅し,化石でしか見られない硬鱗類に思われた。スミス博士は電報を打った,「サカナノホネトエラハ カナラズホゾンサレタシ」

 それが世界を興奮の坩堝に陥れたシーラカンス(ラティメリア・カルムナエ・JLBスミス)の発見だった。その後,スミス博士とマーガレット夫人は第二のシーラカンスを求めて研究と努力を重ね,14年後,インド洋マダガスカル島の北に位置するコモロ諸島(フランス領)でそれは発見される。

 シーラカンスはかかわる人々の人生を大きく変えた。
 政府を動かし,苦心の末にシーラカンスを持ち帰ったスミス博士は世界的な栄誉を手に入れるとともに,進化論を認めないキリスト教根本主義者から攻撃され,シーラカンスを持ち帰ったことでフランスから非難を受ける。
 コモロ諸島でシーラカンス発見の労を担った交易用帆船の船長エリック・ハント(学名に名前を残すことを辞退)はフランスとの板ばさみに悩みながら非業の死をとげる。
 1967年,少々偏屈ながら学問一筋に生きたスミス博士,知力と健康の衰えを苦に自殺。
 1977年,東ドイツから来たハンス・フリッケは潜水艇を工夫し,苦心の末に生きたシーラカンスの姿を写真におさめる。マーガレット・スミス夫人は,夫の死後研究を受け継いで信望を集めるが,亡くなる直前フリッケにシーラカンスの泳ぐ姿をビデオで見せてもらい,「これで自分の人生はきちんと輪を閉じたようなものだ,もういつ死んでもいい」と言い残す。
 1997年,アメリカ人マーク・アードマンがインドネシアで初めてシーラカンスを発見。など,など。

 いくつか国どうしのいさかいや貧しさによる混乱,研究成果の捏造事件などもあるが(残念ながら日本人は金にあかしてシーラカンスを乱獲しようとする者としてしか登場しない。フリッケをいらだたせた鳥羽水族館一行の撤退は「天皇からの直々の,そして緊急の命によるものと思われた」だってさ),本書に登場するのはシーラカンスを心から愛し,そのために自分の人生を捧げ尽くして後悔しないような,そんな人々ばかり。
 海の生物が地上に出る「失われた輪」にあたるものでないかとも考えれるシーラカンス。さまざまな説があり,さまざまな人々がそれにかかわる。

 シーラカンス,永遠に生きよと願う。

先頭 表紙

ちょっと面白いのは,スミス博士の記録によると,博士がかけつけた時,ラティマー女史は留守だったということになっている。ところが,ラティマー女史に言わせると,スミス博士がくるというので朝からずっと待っていた,買い物なんかにでかけるはずがない,と。博士は博覧強記で記憶力抜群のはず(各国語ペラペラ)だけど……どっちの記憶がほんとなのやら。 / 烏丸 ( 2001-07-12 16:57 )
あ,そういうことですね。了解です。 > akemiさま  多分,この文庫も,発見当時の経緯についてはスミス博士の文献などによっているでしょうから,その教科書とほぼ同じ内容ではないかと。 / 烏丸 ( 2001-07-12 16:57 )
あ、書き方変でした。昔、教科書でも、シーラカンスの話を読んだってことで、文庫は昨日見かけたんです。ったく…>自分。。 / akemi ( 2001-07-12 08:21 )
あれこれお奨めの要素はありますが,たとえば二葉掲載されているラティマー女史の写真を見るためだけでも読む価値があります。いい写真なのですよ,それが。 / 烏丸 ( 2001-07-11 17:18 )
これもツボに入ってるので、早速読んで見たいです。 / TAKE@宿題溜まり気味です ( 2001-07-11 16:25 )
akemiさま,おはようございます(あ,もう昼だ),本文庫の発行は7月10日,新刊にこだわらない烏丸にしては速攻Bクイックでございます。海,古代,生物,とそろうと体が反応してしまうのよ〜。ちなみに本書は90年代後半の動向なども詳しく取り込んでいますから,お読みになったものとは違うのではないでしょうか。 / 烏丸 ( 2001-07-11 12:23 )
おはようさんです。わわ〜〜!昨日、本屋さんで見た見た!この文庫!むか〜し教科書で読んだような…気がします。勘違いかな? / akemi ( 2001-07-11 06:27 )
写真は池袋・サンシャイン国際水族館に展示のシーラカンスの標本です。 / 烏丸 ( 2001-07-11 03:02 )

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