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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-09-18 マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第3回
2000-09-17 マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第2回
2000-09-16 マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第1回
2000-09-16 [雑談] マンガの最終回 あれこれ その3
2000-09-14 『愛のさかあがり』 とり・みき / 筑摩書房(ちくま文庫)
2000-09-14 マンガの最終回シリーズ 『キャッツ・アイ』 北条 司 / 集英社
2000-09-14 [雑談] マンガの最終回 あれこれ その2
2000-09-13 マンガの最終回シリーズ 『巨人の星』 梶原一騎 原作,川崎のぼる 作画 / 講談社
2000-09-13 マンガの最終回シリーズ 『恐怖新聞』 つのだじろう / 秋田書店
2000-09-12 マンガの最終回シリーズ 『漂流教室』 楳図かずお / 小学館


2000-09-18 マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第3回

【されどわれらが日々】

 これは深読みだが,アニメのオープニングでどろろが手にふりあげているのがただの木の棒であることもそう考えると筋が通る。手塚は「妖刀似蛭の巻」の最後でどろろに「もう刀なんか二度と持たない」と言わせている。この「ファッション」は,60年安保闘争では素手,のちに催涙弾に対し角材(いわゆるゲバ棒)で対抗しようとした当時の新左翼デモ隊の姿勢にほぼシンクロしているのだ(*2)。
 だから,最終回で百鬼丸がどろろを村に置き去りにするのは,どろろがそういった共産主義革命の側にいることを,共闘を拒み,とことんニヒリズムの側に立つ百鬼丸が悟り,さらに旅をともにするのは無理とみなしたため,とこじつけることが可能だ。つまり『どろろ』は,主人公どろろが,単なる野盗的存在から,オープニングシーンのように農民を指揮する解放指導者に至る「前史」なのではないか。

 こうしてみると『どろろ』の結末が,白土三平の『サスケ』のアニメ版(アニメ放映は『どろろ』直前)のエンディングに実によく似ていることがわかる。妖怪と忍術,素材こそ異なるが,アニメの最終回でサスケの父は猿飛忍軍の一員として権力に挑むテロリストとして去り,サスケは村に残される。サスケが託されたのは,農民を組織することによって新しい体制を目指せ,ということではなかったのか。サスケの背中に背負わされたものは,野盗の埋蔵金の秘密とともにどろろに示された方向と全く同じものではなかったか。

 もちろん,武士の支配が続いたことは歴史が証明する通りだし,そもそも封建体制下における一揆はマルクス,エンゲルスの言う階級闘争とは別のものだ(だからこそコミック版の『サスケ』は一揆に敗れ,梅を死なせ小猿を見失ったサスケが茫洋と荒野をさまよい,背中に手裏剣を受けても反応できないという無惨極まりない終わり方をする)。それでも,常に革命運動は繰り返されるのだという当時の新左翼ないし左翼シンパの夢,言うなれば一種の「トロツキーと永久革命ブーム」が『どろろ』や『サスケ』に色濃く反映されていることは間違いない。

 ところが,現在から見ればこの通り新左翼にすり寄っているとしか見えない(*3)手塚作品が,バリバリの共産主義者だった宮崎駿から見るとこれはもう米帝ディズニーの手先,大衆に迎合した低俗なものと酷評されてしまう(岡田斗司夫『オタク学入門』による)。革マルが民青のビラ配りに突っ込むようなものか(今どき通じないって)。

 ともかく,アイデンティティ確立と革命への道は暗くて深い川の向こうにあったのである(*4)。

*2……ゲバ棒や投石だけでは勝てない,と腹をくくった極左がその後連合赤軍など組織して,よど号乗っ取り(1970年),浅間山荘事件,テルアビブ銃撃戦(1972年)と走っていったわけだが,彼らの生き残りももう50代後半から60代だとか。見る前に跳び続けるのも体力との闘いである。

*3……雑誌「COM」はなぜか日共系に支持された。では「ガロ」は右かといえばこれが反日共系。

*4……ここで「ナーンセンス!」の一声が欲しい。

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2000-09-17 マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第2回

【おまえらみぃんな ほげたらだ】

 養老孟司は『涼しい脳味噌』(文春文庫)の中で「手塚治虫の生命観」として,「ヒトはしばしば,バラバラの部品に分解してしまい,それを自分で回復しなければならない。それは『どろろ』に見るとおりである」ということを述べている。しかし,ならば,バラバラにしなければ修復できないほどの手塚とは一体何だったのか。

 手塚のそのあたりの心理を追求するには現時点ではどうにも勉強不足で,このように作品に見られる現象を2,3挙げるのが精一杯なのだが,同じく妖怪漫画を描いた楳図かずおの作風と比較してみると興味深い。すなわち,手塚,楳図の2人ともその苛烈な妖怪漫画によって妖怪そのものよりは揺れ動く醜い人間の精神を描こうとした点は変わらないように見える。しかし,その精神において,楳図は明らかに医者の側にいるのに対し,手塚は患者の側にいる。
 養老孟司は「読み出したら,止められない。(中略)理屈を言う暇はない。そんなつまらないことをするのは,作品に対する残虐行為である。」「実際,こうした作家の作品を論じるのは,ある場合には,趣味が悪いのである。」と言って手塚作品の分析を停止する。アトム世代の1人として気持ちはよくわかるが,その気持ちがマンガ,アニメの世界に不可侵の巨大な聖域を作ってしまったこともまた事実である。そろそろ手塚の死体を切り刻む,悪趣味で残虐な作業が必要な時期なのではないか。もっとも,執刀できるだけの能力者は,いまや手塚を相手にしていないというのが実情かもしれないが。

 さて,一方,『どろろ』において注目されるのは,手塚作品にしては珍しい社会性である。
 アニメ版『どろろ』のオープニングをご記憶の方はおられるだろうか。百鬼丸や妖怪たちがフラッシュし,続いて搾取されて俯く農民たちの暗い顔が写り,やがて彼らは百姓一揆の標準装備である鍬,鎌,むしろを手に手に画面左から右に流れる。同じコンテが二度繰り返され,二度目の後,最後に前進する農民の背に,棒を手に,アジテーターとしてのどろろが1カット映ってそこで映像が静止する。
 これは,『どろろ』の背景に,当時の共産主義革命への夢が塗り込められている明確な証しではないか。

 『どろろ』の少年サンデーへの掲載は1968〜1969年。これは口車大王氏の『気まぐれコンセプト』書評にもあったように,学生運動が盛り上がり,デモに参加しない学生がノンポリとののしられた最後の時代である(*1)。少年マガジンを手に安田講堂を占拠していた東大全共闘が陥落して事実上学生運動が崩壊し,シラケ世代が始まったとされるのが1969年。
 国民栄誉賞をもらえなかったのは共産党を支持していたため,と一部でささやかれる手塚が,当時の左寄りの運動に心情的にせよ賛同していなかったはずはない。そう考えると,どろろの父が飢えて死にかけても支配階級から饅頭を恵まれることを拒否して無謀な闘いをいどみ,殺されるシーンもわかりやすい。単に支配を嫌うのではなく,彼ら(野盗)の理想を,「サムライの支配を覆し,農民を解放する」ことにあったと読み替えれば,手塚があのあたりで描きたいことがすとんと形に納まるのである。
 さらに続く。

*1……オウム真理教の早川紀代秀は,逮捕当時,テレビで何度か「学生運動にも関与し,ノンポリで恐れられていた」と報道されていた(本当)。当時恐れられ(嫌われ?)ていたのは「ノンポリ」ではなく「ノンセクトラディカル」である(早川がいずれであったかは,材料に乏しく不明)。

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2000-09-16 マンガの最終回シリーズ 『どろろ』 手塚治虫 / 秋田書店(サンデーコミックス) 第1回


【ほげほげ たらたら】

 ご存じない方のために,まず『どろろ』の設定をざっとご紹介しよう。
 舞台は室町〜戦国時代の北陸地方。主人公の一人「百鬼丸」の父は侍大将醍醐景光。彼は天下を取るために妖怪48匹に自分の子供を差し出す。目も耳も手も足もないイモムシのようなバケモノとして産まれた百鬼丸は捨てられ,医者に拾われて義手,義眼を与えられ,長じて48匹の妖怪を倒す旅に出る。妖怪を1匹倒すたびに目や足が戻ってくるのだ。
 一方の主人公「どろろ」は野盗の子,飢えと裏切りの重なる凄惨な過去を持つ。百鬼丸の腕にしこまれた刀を盗もうと,ともに旅をすることになる。

 アニメ版『どろろ』が放映された当時は,すでにテレビもカラー放映の時代に移っていたのだが,わざわざモノクロで制作されたのはあまりに過激な殺戮シーンが続くためだったと言われるほど,血と死人だらけの映像が続く。また,義眼,義足であることを「こんなバケモノ,キモチわるいだろう」など,現在の地上波では絶対に放送できないセリフの山だ(さすがに,飢えた民が死人の肉を食べるシーンは,1960年代のテレビ放映でもカットされていた)。

 アニメについてさらに言えば,冨田勲の重厚なBGM,「ほげほげ たらたら ほげたらぽん」と藤田淑子(一休さん,キテレツ,泪姉の声優)が歌う独特の主題歌,モノクロがうまくマッチした様式美溢れる映像(アニメとしてはほめられない静止画シーンが多いが,ニヒルで居合い殺法の百鬼丸の描写にはあれでよかったようにも思われる),重厚なストーリーなど,手塚作品の中でも注目すべきものの1つと思われる。
 しかし,スポンサーの意向で『どろろと百鬼丸』とタイトルを変えた後半は妖怪とのチャンバラ主眼のお子様ランチと化し,すっかりテンションを下げてしまったのは返す返すも惜しい。

 さて,先に書いた通り『どろろ』の設定は異様に暗く,重い。その重さ以上に気になるのは,手塚は全くのところ,何が面白くて(面白くなくて)こうもハンディキャップな話ばかり書きたがるのか,ということである。
 百鬼丸はもう全身これ欠損だらけだし,野盗の首領だったどろろの父も最後は足なえとして死んでいく。思えばロボットたるアトムは「心のない人間」だったし,レオはアルビノ,ブラックジャックは満身創痍,サファイアは女の心を失った娘である。バンパイアその他の作品でも,多くの場合,主人公の肉体的特性は,利点であるよりは逃れがたいコンプレックスの要因として描かれる(逆に,そういう設定ではない『W3』や『ビッグX』『マグマ大使』などは,掲載・放送時の人気を思えば,手塚作品としては意外なほど忘れ去られているようにも見える)。

 少年マンガの主人公に設定としてのハンディキャップは常道だが,手塚作品に通底する主人公の肉体・精神的な欠損はそのようなストーリーテリングの都合とはとても思えない。
 百鬼丸は妖怪を倒すたびに少しずつ身体的には完全に近づいていく。もちろんこれを教養小説,主人公の成長譚とみなせなくはないのだが,いかんせん最終回はまるで百鬼丸の肉体の完成に興味などないかのように,百鬼丸はどろろと別れ,その方面でのカタルシスは用意されていない。
 逆に,ハッピーエンドで終わるアニメ版『リボンの騎士』では,サファイアは少女の心を取り戻してフランツ王子と結婚するが,最終回のサファイアはそれまでの精彩を失い,まるで人形のよう。つまり,手塚にとって,完璧な女と化したサファイアは,もはや魅力の対象ではなかったということではないのか。
 本稿,第2回に続く。

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2000-09-16 [雑談] マンガの最終回 あれこれ その3


【少女マンガにさよなら】

 今回はまったく個人的な想い出話。

 「ジャンルそのものには貴賎はなく,そのジャンルの中に一流とそうでないものがある」とは『私、プロレスの味方です』において村松友視が言い抜いた真実である。それでも私の中で,少女マンガはあらゆる文化の中で非常に高いポジションにあり,長い間,それはある意味生活の一部だった。
 マーガレットと少女フレンドの創刊はリアルタイムに見ている。水野英子には燃え,わたなべまさこには揺れ,楳図かずおには怯えた。『エースをねらえ!』連載中はほとんどずっとマーガレットを読み続け,その後少女コミックの興隆とともにそちらに移った。萩尾望都はデビュー作『ルルとミミ』以降,『スターレッド』より前の作品は『ケーキケーキケーキ』と『かたっぽうのふるぐつ』を除いてすべて雑誌切り抜きで持っている。大島弓子もほぼ同様。『紅あざみ』という掲載誌も作者も思い出せない怪奇サスペンスや,西谷祥子の救いのないロマンス『学生たちの道』,これらどう決着したのかは,今でも気になってしかたがない。

 しかし。当たり前のことだが,いくら少女マンガが好きと言っても,二十歳を越えると漫研にでも所属しない限りそのレベル(?)を維持するのは難しい。周囲は同年輩の女の子も少女マンガからは離れ,一人で追うにも各社から女性コミック誌がわらわらと増える時代でもあった。

 当時の私の愛読誌は「ぶーけ」だった。当時,「ぶーけ」は735ページとかいう少女マンガ誌最大のページ数をほこり,三岸せいこ,笈川かおる,清原なつの,吉野朔美,耕野裕子,上座理保,内田善美,逢坂みえこ,水樹和佳(ちなみに順不同ではない)といった濃い目の作家のオリジナル作品に加え,くらもちふさこや槙村さとる,山下和美ら,マーガレット系の連載作品の総集編が載るという実にお買い得な作りだったのだ。
 あるとき,そこに総集編掲載されたのが,紡木たく『ホットロード』である。

 こりゃダメだ,と思った。
 ぜんっぜん,感情移入できないのである。少年少女のやるせない暴走は切なく哀しく,そのくせ描線は意図的に抑えられ,なにより透明感あふれる人物の目がいい。と,頭は理屈でほめているのに,すりガラスに隔たれたかのように気持ちはそちらにのめり込めない。
 少女マンガが好きといっても,ターゲットたる女の子の気持ちが読めるなど傲慢なことを考えていたわけではない。ガラスのこちら側から観察するのが精一杯だとはわかっていた。しかし,それでも……。

 団塊の世代は『がきデカ』までは笑えても,『マカロニほうれん荘』にはついてこられないと言う。私にも,生活の柱の1本から少女マンガをはずす時がきていたのだろう。
 ふと気がつけば,それは私一人の問題でなく,それまでの少女マンガは対象をOLや主婦においたレディースコミックと,『キャンディキャンディ』のヒットに触発された低年齢層向け作品とに分かれ,マスにカウントされない男の読者の居場所はさらになくなりつつあるのだった。

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↓こりゃまいった、かないませぬ。 / ぽたりん ( 2000-09-19 11:03 )
単行本だけじゃなくて,未収録作品も切り抜きでいくつか持ってるの。おほほ。 / 烏丸 ( 2000-09-19 01:29 )
くっそー、何度見ても萌えだなあ。夜中にまた見に来てるわたくし。 / ぽた公 ( 2000-09-19 01:25 )
ををを!!! これこれ。ああ、どこ行っちゃったんだろ〜。思い起こせば笈川かおるは「初萌え」作家かも。懐かしいよお。古本屋で探そうっと。 / ぽたりん ( 2000-09-18 17:19 )
ということで,本文とは直接関係ありませんが,添付画像は『かりてきたネコのブルース』を。ちなみに「笈川かおる傑作集1」とありますが,りぼんコミックスから「傑作集2」はとうとう出ませんでした。 / 烏丸 ( 2000-09-18 13:39 )
ををを、「かりてきたネコのブルース」!!!! 長年の引っかかりがついに。一時期は笈川かおるではなく佐伯かよのと勘違いして探し回ったのでした。しかし、笈川かおる12冊はすごいですね。 / ぽた ( 2000-09-18 00:25 )
笈川かおるは,さっき積み上げてみたら,単行本12冊ほどありました。一般人(?)としてはよく追っかけているほうと思うんですが,それでもこの人,単行本未収録作品率が高いんですよねえ。ああ,気になる。 / 烏丸 ( 2000-09-17 01:46 )
けろりんさま,乱入大歓迎でございます。えらそーな文体で書いてますが,その実,いっぱい忘れ物,間違いやらかしてますし。倉持知子は,「青になれ!」ですね。 / 烏丸 ( 2000-09-17 01:44 )
……と,失礼。及川ではなく,笈川でした。それから,ぽたさまひっかかりの作品は最初の単行本に収録の「かりてきたネコのブルース」ですね。3姉妹と言われてさっき素通りしてました。長女・ローズマリー,長男・ミント,次男・ペパー,次女・マージョラムの4人姉弟,それに遠縁のバジルの5人の子供たちとおばあさまの話です。 / 烏丸 ( 2000-09-17 01:41 )
創刊当初のぶ〜けといえば、倉持知子(くらもちふさこの実妹)も忘れてはいけません。笈川かおるは「へ・へ・への方程式」が大好きでした。こんにちは。突然乱入すみません。 / けろりん ( 2000-09-17 01:35 )
ミント、ペッパー、マージョラムですか……。なんでしょう。及川かおるでは,記憶にないんですが……。長編でした? / 烏丸 ( 2000-09-17 00:30 )
ところで、タマミちゃんが怖くて日記の下の方に行けません.... 史上最怖でしょうか。なんて振ると「こっちにも怖いのが」と出てそうだなやぁ。 / ぽたりん ( 2000-09-16 08:29 )
及川かおる懐かしい! 及川かおるで、ミント、ペッパー、マージョラムという3人娘が活躍する作品の題名が思い出せないのです、ここ何年も。もしかしたら佐伯かよのかも知れないんですが。最早調べようもないと。現代マンガ図書館に行けばなんとかなるんでしょうか。 / ぽたりん ( 2000-09-16 07:58 )

2000-09-14 『愛のさかあがり』 とり・みき / 筑摩書房(ちくま文庫)


【いずんし らあぶり】

 報道によれば,ひまじんネットのシステム管理者2号氏が,「恋を探して来ます」と夏休みをとって出かけたまま行方知れずなのだそうである(「ひまじん掲示板」を参照のこと)。
 そこで,今回は「マンガの最終回シリーズ」を1回お休みいただき,「〜を探す」本を取り上げ,2号氏の行方について考察する1つの契機としたい。「〜を探す」といえばシェル・シルヴァスタイン『ぼくを探しに』か,とも考えたのだが,ここはひとつ,2号氏もご愛読と噂のとり・みきを取り上げることにしよう。

 『愛のさかあがり』は,コミックエッセイというジャンル分けがあるなら,その古典の1つ。ギャグ漫画家とり・みきが,愛を求める旅を仕事場から海外にいたるまで,あれこれ繰り広げる。

 もともとは1985年から翌年にかけて,今は亡き「平凡パンチ」に連載されたもの。角川から発売された単行本は「天の巻」「地の巻」「無用の巻」の3部構成であったのに対し,文庫版は「上巻」「下巻」の2冊となっている。2冊になっても別によいのだが,文庫版では単行本化の際に加えられた細かい注釈や諸氏からのメッセージまでとり去られており,単行本を知る者には少し残念。

 さて,その愛を求める旅だが,これがあるときはウェット,あるときはクール。
 愛はときには○○○○の形をしてドアノブからぶら下がっていたり,金縛りの最中に巨大な金色の○○○の形をしてお腹の上に乗っていたり,あるいは築地の朝の謎のあたまライスだったりと,けっこうトリッキーに姿を変える。
 とりわけ読者から題材を求めた「イタイ話」シリーズと路上観察の一環としての「オジギビト」シリーズはポイントが高く,「あれ見た?」と全国の漫画ファンをとりこにし,この後数年にわたって漫画談義のトリを飾って青い鳥を鳥捕り帰る鳥捕りの声。

 え? それで2号氏はどうなった? さあ。どうなったんでしょうね。

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で,健康のために,と頭にヘンな機械をつけていたり,修行だと言って座った姿勢のままぴょんぴょんはねたり,ということがなければよいのですが。 / 烏丸 ( 2000-09-18 14:33 )
とりあえず帰ってきました。PCを遠ざけて健康な生活をしていたということです。 / 安心の1号 ( 2000-09-18 13:20 )
へんな宗教に入信でもしていなければよいのですが。なんたって2号はあの上○さんと同じ研究室の出身ですし。 / 心配な1号 ( 2000-09-14 22:08 )

2000-09-14 マンガの最終回シリーズ 『キャッツ・アイ』 北条 司 / 集英社


【ルイルイといえば太川陽介 ……お呼びでない? こりゃまた失礼いたしました】

 放映当時から不思議だったのだが,なぜ,同じテレビアニメでも『ダーティ・ペア』はおたく色が濃厚で,『キャッツ・アイ』はそうでもなかったのだろう? 掲載の場が少年ジャンプだったから,だろうか。
 ある種のバッタは,一定面積に一定数以上増え,互いの接触頻度が高まると,急に体が細く,翅が黒っぽく変化し(群集相),性質的に荒くなって,ちょっとしたきっかけで大移動を始める。そして数千キロにも及ぶ移動の途中で落伍すべきバッタは落伍し,やがて適当な数のバッタだけが残って,元の大人しい単独相のバッタに戻る。それと同じように,ある種のアニメやコミックは,一定以上メジャーになると,急速におたく色を失ってしまうようだ。

 なんてな。とーとつに最終回のあらすじだけ書くのもなんだから,ちょっとへ理屈こねてしまった。どうでもいいの。気にしないで。

 さて,『キャッツ・アイ』最終回である。
 世間を騒がす絵画泥棒キャッツ・アイこと来生泪・瞳・愛の三姉妹の目的は,父ミケール・ハインツの絵を取り戻し,父の居所を探すことだった。ジャンプコミックス最終18巻では,彼女たちに敵対するクラナッフの正体が暴かれ,彼を中心とする絵画シンジケートの崩壊が描かれる。すべてが片付いた後,瞳はついに幼なじみで婚約者の刑事・内海俊夫の前にキャッツ・アイとしての正体を示し,三姉妹はアメリカに去る。
 さて,最終回。ロスに到着して早々,瞳はビールス性脳膜炎で記憶を喪ってしまう。刑事の職を投げ打ってかけつける俊夫。瞳は俊夫のこともキャッツ・アイのことも思い出せないが……。

 ひどい言い方だが,まあ,「上出来」である。この手のマンガにしては,連載開始当初の伏線はほぼクリアしているし,俊夫と瞳が海でたわむれるラストシーンもそこそこ感動的。まとめにくいものを巧くまとめた,という感じ。
 しいていえば,この作者の絵柄,筋運びにおけるこのあたりの「器用さ」が,おたく文化的には今ひとつ受け入れられなかったようにも思う。

 ところでマンガの世界では,「俊夫」「俊平」「トシ」といった名前は,どうも主人公の気の強い女に引っぱり回される,真面目だが朴訥,女心にうとい男という役どころが多いようだ。例外はないだろうか。あったらご連絡いただきたい。

先頭 表紙

なるほど! 考えてみれば,「りぼん」という雑誌自体,男の子を引っ張りまわす気の強い女の子というのがそもそも少数派かもしれませんね。 / 烏丸 ( 2000-09-14 17:45 )
思い出した! 「ときめきトゥナイト」の真壁俊くんは女に振りまわされてないよ! 運命に振り回されてたけど・・・。 / 真壁くんスキスキOL1 ( 2000-09-14 16:09 )
『かぼちゃワイン』は,確か春助でございますね。エル〜〜〜〜。……な,なつかしや。 / 烏丸 ( 2000-09-14 15:41 )
「キャッツ・アイ」大好きでした〜! 批評はできないけど。28歳になればルイ姉みたいになれるんだと信じていた・・・。たしか「かぼちゃワイン」の主人公の男の子もそういう名前では? シュンはシュンでも春だったかな?? / 美人OL旭1号 ( 2000-09-14 15:11 )

2000-09-14 [雑談] マンガの最終回 あれこれ その2


【死んでしまう,旅に出る】

 ちゃんと分類して書いているわけではないが,ある程度長い期間にわたって連載されたマンガの最終回のあり方は,たぶん,いくつかのパターンにまとめられるのだと思う。

 たとえば,最終回に向けて多少大きめの事件は用意されるが,基本的には人間関係など何も変わらず,翌日以降も似たような事件が続くだろう,とする終わり方。いわゆる「ラブコメ」はたいていこの終わり方だ。高橋留美子『うる星やつら』,椎名高志『GS美神極楽大作戦!』など典型的。
 一方,同じラブコメでも,目出度くハッピーエンド,というタイプがある。高橋留美子『めぞん一刻』はこちらに属す。今週最終回を迎えたゆうきまさみ『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』もそう。このタイプは,数年経って主人公たちが幸福に暮らしているさまをエピローグとして用意するケースも多い。

 ラブコメに限らず,冒険活劇もの,スポーツものも,このどちらかに分類できるものが多いのではないか。たとえば皆川亮二『スプリガン』は前者だし,あだち充『タッチ』は後者に属す……『タッチ』をスポーツものと言ってよいのかどうかは疑問だし,そういえば『じゃじゃ馬』も競馬の話なのに駿平とひびきがいちゃいちゃしてうざいという説を最近どこかで見かけたような気もする。それはそれ,これはこれ。

 ごくまれに,結末のわからない作品がある。キャラに感情移入してしまうと,これはキツい。
 あや秀夫の傑作野球マンガ『ヒットエンドラン』はまさしくこれ。この作品は,高校野球夏の大会の1回戦,相手は甲子園出場候補,こちらは公式戦未勝利,2対1の1点リードで9回の裏2アウト満塁,2ストライクで主人公がぎゅぅっとボールを投げて……で終わってしまう。たまらん。
 また,片山まさゆき『ぎゅわんぶらあ自己中心派』も,オーラスが微妙によくわからない。律見江ミエは「何度かのお見合いをけりつつ……3年後意中の人とゴールイン」とあるのだが,その相手が持杉ドラ夫かどうか明記されてないのである。なんだか千点棒1本行方不明,な印象。

 主人公が死んじゃったら,もう終わるしかない。先にも書いたながやす巧『愛と誠』,吉田秋生『Banana fish』。井上コオ『侍ジャイアンツ』。永井豪『デビルマン』もまあこちらだろう。情けない死に方をするのは辻なおき『タイガーマスク』だが,これはそのうちきちんと紹介したい。白土三平もときどき主人公を死なせてしまうが,この大河ドラマな作家の場合はその人物の死までで一区切りとして発表する,という印象か。

 いわゆるギャグマンガは,たいてい「明日も明後日もみんなで……」という終わり方,というよりたいていは最終回にあたる話そのものがないのだが,ギャグでありながら内奥に重いものを抱えていると登場人物がいなくなって終わることが多いような気がする。
 山上たつひこ『がきデカ』はこまわり君が僧形で旅に出て終わるし,松本零士『男おいどん』も大山登太がパンツの山やトリさん,サルマタケをほったらかして黙っていなくなる。鴨川つばめ『マカロニほうれん荘』の最終回,トシちゃんきんどーさんが海に消えた後の空虚な部屋は,なんというか,描線がうるおいを失って一種壮絶だ。

 ギャグマンガではないが,主人公が旅に出て終わるといえば佐藤史生『夢みる惑星』なんかもそう。佐藤史生は花郁悠紀子とほぼ同時期に萩尾望都寄りのSFを書いた魅力的なマンガ家の1人だが,この人についてケロロ軍曹さんが書いてくれるのかどうか,ずっと前から僕はどきどきしながら待っているのだ。

先頭 表紙

なんと、フロム・エーでバンババンが読めたとな! こいつぁびっくり。 / ぽたりん ( 2000-09-15 09:36 )
↓↓の甥が番場蛮の……というのは,てっきり「ナンバー」かとなぜか思ってましたが,「フロム・エー」だそうです。謹んで訂正いたします。 / 烏丸 ( 2000-09-15 00:59 )
確か相棒のキャッチャーは八幡太郎平でしたよね。大回転魔球とかハイジャンプ魔球というのを覚えています。小学生時代、真似をしていました。あんなに回って真っ直ぐ投げられるわけないって^^; / ぽたりん ( 2000-09-14 22:10 )
魔球を投げるときの効果音まで「バンババーン」という,なかなかナイスなマンガでしたが,最後は現実のジャイアンツが優勝を逃がし,その時点で打ち切りが決まって,魔球を投げに投げてピッチャーズマウンドで仁王立ちしたまま死んでしまったのでありました(のちに,甥がバンババンの後を継ぐ,という2ページマンガが文春のナンバーに載ったのであります)。 / 烏丸 ( 2000-09-14 13:37 )
ええぇーっ、バンババン(片仮名で書くと間抜けな名前だ)って最後死んじゃうんだ〜。勉強になるなあ。 / ぽたりん ( 2000-09-14 13:10 )

2000-09-13 マンガの最終回シリーズ 『巨人の星』 梶原一騎 原作,川崎のぼる 作画 / 講談社

【重いコンダラ】

 『巨人の星』について「ここがおかしい」「あそこが謎」ということを言い出したら,それだけを肴に三晩は飲める。
 たとえば,

 a). バッターの動作を見切ってそのバットにボールを当てることができるほどのコントロールとスピードがあるなら,それだけでいくらでも勝てたろうに

と考えるのが初級。中級者としては,

 b). その星より活躍したエース級の堀内や高橋一は,いったいどれほどもの凄いピッチャーだったんだ?

という点にも注目したい。これは,

 a'). ホームベースの手前でUの字に変化するボール(魔送球)が投げられるなら,それが消えようが消えまいが十分活躍できたろうに

 b'). そんなすごい変化球が「消えない」だけですぐ打ち込める花形や左門が,なぜプロ野球界では並みの好打者に過ぎないのか?

という疑問とパラレルである。

 ま,そんな具合だから,最終回もまことにヘン。
 対中日戦で大リーグボール3号を投げ続け,ついにはピシッという音とともに飛雄馬の左手首は壊れてしまう。この3号がプロの強打者になぜ打てないかは省略するが,ともかく星一徹中日コーチは伴宙太に長時間の逆立ちとバット3本の素振りを命じ,へとへとになった伴はそのにぶいスイングで大リーグボール3号をはじきかえす。球はフェンス直撃,パーフェクト敗れたり!? しかし,疲れはてた伴はファーストまで走ることもできない。果たしてアウトかセーフか(この判定はコミッショナーに提訴され,現在も決着を見ない)。一徹は伴がそうなることを見越せなかった自分の負けを認め,これにて父子の死闘は終了。
 最後のシーンは,川崎の教会で挙行された左門と女番長(うぷぷっ)京子さんの結婚式。限られた近親者だけが呼ばれ,飛雄馬は窓の外からこっそり二人を祝福して去っていく。完。

 ここで「なぜ,手首を壊すまで大リーグボール3号にこだわったのか,かえってチームに迷惑だろに」とか「新郎新婦が知り合うきっかけになった飛雄馬が結婚式に出ない理由がない」などの指摘を並べても虚しい。飛雄馬は本来破滅願望型の奇人変人で,彼の交感神経が病んでいることは豆の木学園生物教諭広岡真理子も指摘する通り。今さら騒いでもしかたないのである。それより私としては,この結婚式に別の疑義をはさみたい。

 左門は無口ではあるが,本来気遣いの人だったはず。いくらジミ婚とはいえ,自分が世話になっている大洋ホエールスから誰も呼ばないというのはあんまりではないか。否,それをさておきこの出席者。幼い妹,弟たちに加えて,花形,伴,一徹,明子。左門が明子と知り合うシーンなんて記憶にないが,それも目をつむろう。最後の一人,漫画家の牧場春彦。なんで牧場がここにいるのか。

 甲子園の準決勝戦前夜に左門兄弟の不幸な生い立ちを聞かせ,飛雄馬が左親指の爪を割るきっかけを作ったのがこの牧場。誰かが伴大造に闇討ちを仕掛け,犯人をかばった飛雄馬が退学するはめに陥ったのもこの牧場のせい。プロ入りし,破竹の9連勝のさなか,スコアブックから飛雄馬の致命的な弱点(球の軽さ)を左門らに知らしめてしまったのがやっぱりこの牧場。そして最後,星が医者に手首の症状を告げられ,ムキになってしまう現場に居合わせたのもこの牧場。要するに巨人の星の疫病神,それが牧場なのである。
 なんでそんなゲンの悪い,それもたかが飛雄馬の同級生を結婚式に呼ばねばならんのだ,左門クン。京子ちゃんも,そんなやつより昔の竜巻グループのお友だちを呼びなさい,お友だちを。

先頭 表紙

渡辺徹さんが、NHKの「おしゃべりクラシック」で「こんだらコーナー」とゆーのをやっているのですが、やっと語源がわかりました。 / 口車大王 ( 2000-09-15 22:04 )
うーん、やっぱりお笑いギャグ漫画だ。 / 口車大王 ( 2000-09-15 22:03 )
そういえば,『男どアホウ甲子園』のじっちゃん,藤村球之進がシレンの名人でした。たはは。 / 烏丸 ( 2000-09-15 01:14 )
星飛雄馬を影から支えたグランド整備の名手、道夫さんを称えた歌なのでしょうか。シレンの道夫。とほほ。 / ぽたりん ( 2000-09-14 22:12 )
あの,鉄でできてグラウンドをならすローラーが「コンダラ」なら,木でできて地面をならすやつが「シレン」なのか。 / 烏丸 ( 2000-09-14 19:11 )
息子を背負って泣く一徹の涙に被さるように「タータタタッタター♪重いコンダラ〜」と主題歌がかかったように記憶しています。ええ、泣きましたとも。 / ぽたりん ( 2000-09-14 16:41 )
そうでしたっけ……見たはずなんだけど,コミックとまじってしまって(コミックでは,グラウンドの真ん中で父子で見詰め合うだけです。じゅーぶん,きもい……)。 / 烏丸 ( 2000-09-14 13:40 )
アニメの最終回では、手がピキピキってなっちゃった飛雄馬を一徹が背負って、華厳の滝のような涙を流しながら退場したんでしたよね。違ったかな。 / ぽたりん ( 2000-09-14 13:06 )

2000-09-13 マンガの最終回シリーズ 『恐怖新聞』 つのだじろう / 秋田書店

【あなたは見る,見てしまう……】

 こすもぽたりん氏からのリクエスト(?)にお応えして,続いて『恐怖新聞』を取り上げよう。ただし,つのだじろうの作品はあいにく手元にないので,アンチョコからのカンニング,お許しを。

 主人公の中学生・鬼形礼には,毎夜,次の日に起こる「不幸」が書かれた「恐怖新聞」が届く。そしてそれを読むとそのたびに命が100日ずつ縮んでいくのだ。鬼形は次々と起こる霊的な事件をかわしていくが,彼の寿命はいまや尽きようとしていた。
 鬼形は霊能者・小泉香具耶に除霊を求めるが,激しい霊戦の末,鬼形は紫光山の洞窟で岩に押しつぶされてしまう。しかし,彼の「魂の緒」はまだ切られておらず,悪霊たちは鬼形に,クラスメートを全員殺せば助けようと取引を求めてくる。しかし,彼は5人しか死なすことができず(笑),我が身を犠牲にクラスメートたちをバス事故から守り,その結果,主護神によって助けられ,強い光とともに幽界に送られる。

 幽界に送られたということは,地獄におとされずにすんだ,すなわち死んだということであり,最終回において鬼形は岩につぶされ折れた枝のつきささった腐乱死体というヘヴィな姿で発見される。鬼形の葬儀で,クラスメートたちは自分たちを救った鬼形のために祈る。石堂中学では,それ以来パッタリと奇怪な事件は起こらなくなった……。

 しかし,最終回が本当に怖いのはこれからだ。鬼形が死んだ日から,石堂町のとなりの坂元町中学では夜中に届く新聞が噂になる。ニ年C組の高見光子のところにそれが届き始めたのだ。そして,それを配達しているのは……この世への強い未練にかられた鬼形の霊だった。
 夜の道,ガードレールのところを,制服を着た中学生くらいの少年が走っていたら,それはあなたのところに「恐怖新聞」を届けようとする鬼形の姿かもしれない……。

 なお,作者・つのだじろうは,事故などが相次ぎ,霊魂は怖い世界,うかつに首を突っ込んではいけないと少年マガジン『うしろの百太郎』,少年チャンピオン『恐怖新聞』の人気連載2本を打ち切ったが,その後,オカルト以外の連載を始めようとするとどうしても何者かにさまたげられるのだそうだ。

先頭 表紙

CDのジャケットには顔写真はなかったと思いますが、きっと似ていることでしょう。 / ぽたりん ( 2000-09-13 13:12 )
ややっ,さすがぽたりんさま,お詳しい。やっぱりあの系統の顔なんでしょうか。 / 烏丸 ( 2000-09-13 12:41 )
リュート奏者のつのだたかしもつのだ兄弟ですね。 / ぽたりん ( 2000-09-13 12:00 )
あと,直接は関係ない薀蓄を。有線のロングヒット「メリージェーン」のつのだひろは,つのだじろうの弟。有名ですね。 / 烏丸 ( 2000-09-13 11:46 )
つのだじろうに言わせると,『百太郎』は霊についてちゃんと書こうとしたもの,『恐怖新聞』はエンターテイメントなんだそうです。その分,怖いような。 / 烏丸 ( 2000-09-13 11:44 )
リクエストにお応えいただきありがとうございます。友人の家で布団に読んだときの恐怖が蘇ってきました。記憶では、最終回が収められている巻にさらに怖い読みきりがあったと思います。兄と妹が山で迷ってしまい、いつの間にか手首が木から生えている村に迷い込んで… / ぽたりん(怯) ( 2000-09-13 10:37 )

2000-09-12 マンガの最終回シリーズ 『漂流教室』 楳図かずお / 小学館


【ぼくたちは,未来にまかれた種なんだっ!!】

 楳図かずおは怖い。楳図かずおの作品が怖いのではなくて,楳図かずおが怖いのである。
 不肖この烏丸,少女フレンドが週刊だったころから怖い怖いと悲鳴を上げながら,逃げるように単行本を買って買って買いまくって,その一角は烏丸家の「のろいの館」と呼ばれている。もちろんその壁には肉面が飾ってあるし,床には何かが這いずった後があって大きなウロコが散らばっている。紅グモは壁に巣を張り,海で拾ったペットは「ギョー」と鳴いて水を撒き散らす。ロマンスの薬で手に入れたミイラの女房は目を覚ますたびに前世を思い出して「イアラー」と叫ぶ。……ああ,なごむ。

 それはともかく,『漂流教室』は「少年サンデー」1972年23(5月28日)号〜1974年27(6月30日)号にかけて連載された。主人公・高松翔(6年生)の通う大和小学校は,大地震をきっかけに,未来の地球にタイムスリップしてしまう。砂漠化した未来世界では人類はすでに滅び,得体の知れない怪虫やクモ様の未来人間がうごめいている。わずかな大人たちは狂い,死に,残った子供たちは飢えや病気(ペスト,盲腸),相互不信などあらゆる困難と闘いながら生きていかねばならない。彼らは,はたして母の待つ「現在」に戻れるのだろうか?

 ……で,問題の最終回だが,結論だけ書いてしまうと,帰れない。最終回は,翔の両親がガラス窓の外に翔たちが走る幻影を見て,頑張って翔,と祈るシーンで終わってしまう。

 考えてみれば──考えなくても,それは当たり前。足の悪い西あゆみ(5年生)の超能力によって,「現在」の母親と通信できたことのほうが異常なのである。子供が育つということは,未来の砂漠の中で生きていく(あるいは死んでいく)ことであり,親にできるのは,せいぜい「現在」に伝えたいメッセージをそっと置いたり,ガラス越しの幻影に祈ることだけなのだ。

先頭 表紙

あ,やはりそれはうちのではございませんね。うちのムスメは,ベッドの下から青白い腕がうにょうにょと伸びて,というタイプでございます。 / 烏丸 ( 2000-09-14 14:57 )
そっか〜。それでは、夜寝ていると誰かがじーっと私を見下ろしながら、そーっとハウスダストを撒いているということかな。最近の幽霊は凝った悪さをするわい。ケホケホ。 / ぽたりん ( 2000-09-14 13:08 )
かれこれ1か月? ……それは,うちではございませんねえ。別口でございましょう。えろいむえっさいむ えろいむえっさいむ。合掌。 / 烏丸 ( 2000-09-14 11:24 )
せ、咳が止まらないと思ったらそういうことだったのかあぁぁぁ... もうかれこれ一ヶ月もケホンケホンやってるんですわ。呪いだったとは! / ぽたりん ( 2000-09-13 21:27 )
というわけで,添付画像は『のろいの館』のタマミちゃんご活躍の図。タマミちゃんは少女マンガ史上最怖の赤んぼう。富江とどっちが怖いか……。 / 烏丸 ( 2000-09-13 19:32 )
やーねー,本気にしちゃ。そこの棚には泥をこねてつくったぽたりん人形が置いてあって,神田マスカメでお店の人に頼んで手に入れた髪の毛が塗りこんである,なんてはずないでしょー。ちくちく。 / 烏丸 ( 2000-09-13 16:01 )
しかし、家の一角に「のろいの館」があるというのもすごいですね。しかもそこで「なごむ」とは。もしかして、納戸には黒魔術道具一式があり、庭にはニワトリ小屋があるとか? 生け贄用の。 / ぽたりん ( 2000-09-13 14:52 )
あと,純粋にお作法(?)的には酒井潔という人の本がいいんざます。 / 烏丸 ( 2000-09-13 11:42 )
澁澤龍彦の『黒魔術の手帖』は必携ですね。 / ぽたりん ( 2000-09-13 10:44 )
……って,ふと気がつくと恐怖漫画の話ばっかり。やーねー。 / 烏丸 ( 2000-09-13 01:53 )
黒井美沙(漢字,自信なし)ですね。もちろん読んでましたが,これの最終回は知りません。1話読み切りタイプだから,いつものように終わったのか,それとも強力な悪魔か何かと対決でもしたんでしょうか……? ただ古賀さんって,ミサとか悪魔とか言いながら,黒魔術の作法あんまりよく知らないみたいなとこあって,ある意味ヌルかったんですよね。 / 烏丸 ( 2000-09-13 01:47 )
ううう、コワイよー。よちみは全巻は読んでないけどコワかったよー。「エコエコアザラク」は読んだことあります? ああコワイよー。 / ビクビクよちみ ( 2000-09-12 23:41 )
ううう、帰れないのか、そうだったのか。怖かったなあ『漂流教室』。精神的外傷を負った気がするでやんす。 / ぽたりん ( 2000-09-12 20:04 )

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