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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2000-08-18 『あかい花』 フセ−ヴォロド・ミハイロヴィチ・ガルシン,神西 清 訳 / 岩波書店(岩波文庫)
2000-08-17 『テレビ消灯時間』 ナンシー関 / 文藝春秋(文春文庫)
2000-08-16 『七夕の国』(全4巻) 岩明 均 / 小学館(ビッグコミックス)
2000-08-16 『最新東洋事情』ほか 深田祐介 / 文藝春秋社(文春文庫)
2000-08-15 『鬼』 山岸凉子 / 潮出版社(希望コミックス)
2000-08-14 有罪ノックの自伝ではない 『タコはいかにしてタコになったか−わからないことだらけの生物学』 奥井一満 / 光文社(光文社文庫)
2000-08-13 まやかしごまかしおためごかし 『マスコミ報道の犯罪』 浅野健一 / 講談社(講談社文庫)
2000-08-13 『ドーナツブックス ほか』 いしいひさいち / 双葉社
2000-08-12 [非書評?] 『腐乱! 1ダースの犬』
2000-08-12 大人の味 『象は忘れない』 アガサ・クリスティー,中村能三 訳 / 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)


2000-08-18 『あかい花』 フセ−ヴォロド・ミハイロヴィチ・ガルシン,神西 清 訳 / 岩波書店(岩波文庫)


【たまには露文に浸る】

 「守備範囲が広い」などとお誉めの言葉をいただくと,ついつい舞い上がってグラン・フェッテ・アン・トールナン一発決めようとするのがこの烏丸である。というわけで,今回はロシア文学,それもパラフィン紙のカバーも馨しい時代の岩波文庫だ。

 「個人の恋愛を詩にするなどということはもはや贅沢で……」というようなことを書いていたのは『荒地』のころの田村隆一だったか。気がついてみれば今やそれは詩に限らず,個人の恋愛だの絶望だの狂気だのを小説に描くのも贅沢なシュミとなり果てた。ベストセラーにも映画にもなりにくいし。
 そう思うと逆に,個人の恋愛だの絶望だの狂気だのを切々と言葉にできた時代,それも小賢しいフランス心理小説などより,不器用で土の香りもナイーブなロシアの短い作品たちが愛しいというものだ。プーシキン,ゴーゴリ,ツルゲーネフ,エセーニン(泣),マヤコフスキー,などなど(もちろん,彼らの作品が私小説的であった,なんてことを言っているわけではない)。

 というわけで,ときにはガルシンの『あかい花』なんぞ手にとってみる。100ページそこそこの薄っぺらい短編集なのだが,学生時代と違い,ストレートに1冊読み通すのがとてもつらい。長編小説を読むのに体力が要るように,こういったピュアなテキストを読むのにも,またパワーが必要なのだ。濁った海の魚が真水で生きていけないようなものか。
 表題作は,精神病院の病室の窓から見た真っ赤な花に心を乱され,それと懸命に戦う中でがちゃがちゃに壊れていく若者の話。その花が何の象徴か,とか,そんなことはもう考えない。ただ,心を半分開いて,痛々しさに身を任せる。

 ところで,ガルシンは自宅の階段から身を投げて死んだのだそうだ。死に方まで贅沢で痛々しいのである。

 もう一点,すっかり忘れていたこと。
 手元の『あかい花』は,岩波文庫の第ニ九刷(昭和四九年一月一〇日 発行)で,奥付には「定価★」とある。当時の岩波文庫はこの★の数で価格設定されており(この頃,★一つは七十円だったか?),『あかい花』や『外套・鼻』が★一つ,『ヴェニスの商人』が★二つ,『シラノ・ド・ベルジュラック』が★三つ……という具合で,間の価格はなかったのである。

先頭 表紙

2000-08-17 『テレビ消灯時間』 ナンシー関 / 文藝春秋(文春文庫)


【目は笑っていない】

 普段は無自覚に読み書きされていてつい失念してしまうが,実のところ「文体」というものは,読み手の喜怒哀楽や論理的思考を喚起(あるいは劣化)させるために存在するものである。そのために「文体」はたとえば揺れることによって読み手の感情や思考を揺さぶる。音韻や語調,倒置,反復といったテクニックの多くは,この「揺さぶり」の効果のために用いられる。
 たとえば「仕事を引き受ける午後の珈琲には,2つの味しかない。甘すぎるか,それほどでもないかだ」という文章は,読み手の内になんらかの感情,思考を喚起する。実は何も書いてないに等しいのだが。

 さて,消しゴム版画家にしてコラムニストという稀有な肩書きを持つのがナンシー関だ。僕は彼女を,当節最もチャーミングな物書きの1人として認識している。その理由は,テレビ番組批評家としての彼女が,極めて緻密で冷静な思索家であるからだ。
 たとえば,次のような文体。

  産声が「ねぇねぇ社長さん」だったという伝説もある。うそ。

  食いつなげる現実もすごいが,すごい男である。ほめちゃいな
  いが。

 彼女のコラムに再三登場するこのような「一人ボケ → 一人つっこみ」「断定 → 半疑問形」で読み手を揺さぶる文体は何を意味するのだろうか。落としてから持ち上げる。持ち上げてから,落とす。揺れるのはテレビ番組やタレントではない。読み手であり,ナンシー関当人なのだ。
 実は,彼女の作業とは赤いものを正しく「赤い」,丸いものを正確に「丸い」と表現することであり,それは本来正当な表現活動である。しかし,その対象たるテレビ番組は,最近ではゲストコメンテーターを並べ,画面下のテロップを連打して自らを「青い」「四角い」と評するワザさえ手にしている。相手はヌエのようにしたたかだ。その結果,ナンシー関は,たとえば

  タレントの価値と仕事量は反比例するという公式がある。ある,
  って私が作ったんだがな。  タレントの価値10なら仕事1で
  も「10」だが,価値が1なら仕事量10でなければ「10」になら
  ない(例・安室奈美恵×笑って手を振る=10,猿岩石×ユーラ
  シア大陸横断=10)。

といったような論理のサジまでふるってテレビ番組やタレントをさばく作業に追われる。それを単に「辛口」エッセイ,「毒舌」コラムと形容して済ませるのは愚かしいことだ。テレビ番組やタレントがその結果酷評されるなら,それは酷評される側に問題があるのだから。

 ちなみに我が家では,よほどの大事件でもなければテレビの電源は入らない。ワイドショーやバラエティ番組のレベルを云々する前に,テレビに反映される社会やそれを見ている自分を対象化する努力,誠実さを放棄してしまったと言ってよい。そんな僕にとって,

  私は中山秀征が嫌いである。何故嫌いなのか,嫌う私に問題が
  あるのか,中山秀征とは何なのか,とおそらく中山秀征のこと
  をこれほど真剣に考えた人間はいないだろうというくらい考え
  ている。

と書けるナンシー関は最高にチャーミングで知性の女神のような女性像であると言わざるを得ない。ほんとか。

先頭 表紙

そのぶん,読みが浅いんですよ。> ねむりさん / 烏丸 ( 2000-08-17 19:11 )
チャーリーも中山が嫌いだったはず。それにしても烏丸さん、本当に守備範囲が広くていつも驚いております。 / ねむり ( 2000-08-17 18:59 )
今度ぜひ読んでみたいと思います。(まんまと揺さぶられた) / 砂浜で独り ( 2000-08-17 18:26 )
「ねぇねぇ社長さん」という産声をあげたと言われる人はいったい誰なんですかい? / こすもぽたりん ( 2000-08-17 18:19 )

2000-08-16 『七夕の国』(全4巻) 岩明 均 / 小学館(ビッグコミックス)


【窓をひらく 手がとどく】

 アフタヌーンに掲載された『寄生獣』で,人間に寄生し,人間を食べるパラサイトをテーマに人間と世界のありようをガリガリ描いた岩明均のビッグコミック スピリッツ掲載作品(よく講談社が小学館で描くことを容認したものだ)。

 お気楽大学生・南丸洋二(ナン丸)は,紙やガラスに小さな穴を空けられる超能力をウリに新技能開拓研究会というサークルを主催している。しかし,その能力が社会で役に立つとも思えず,就職や研究会存続に限界を感じるようになったある日,彼は歴史・民俗学の丸神正美教授から呼び出しを受ける。ところが教授は東北・丸神の里に歴史調査に向かったまま行方不明になっていた。どうやらナン丸は丸神教授同様,その里の血縁者らしい。彼は丸神ゼミの講師や研究生らとともに丸神の里に向かうが,その里で彼らを待ち受けていたのは,古くから続く奇妙な七夕の祭り,そしてその能力についての驚くべき事実だった……。

 という具合にあらすじを書いてみると,いかにこの『七夕の国』が説明しにくいかよくわかる。
 同じ設定で,たとえば石森章太郎(*1),永井豪,あるいは星野之宣,萩尾望都,山岸凉子など,まあ誰でもよいのだが,超能力や超常現象をテーマにしそうな作家に書かせたらどうなるかを考えてみる。どんどん考えてみる。こわい考えになってしまった……いや,その,こほん。ほかの作家が書く場合は,それなりに雰囲気というか,作家によってはキャラクターの表情まで予想できるのだが,こと,岩明均の描く人物は,どうにも予測や説明が難しい。
 つまり,『七夕の国』の登場人物たちにおいては,岩明均ならではの楽観的な人生観,言葉を変えれば「鈍感さ」が一々の行動原理にあり,そしてそのことがこの悲惨なストーリーを救いようのない悲劇に引き落とさないでいるようなのだ。

 さて,そうこうするうちに穴をえぐる(手がとどく)力や窓の外を見る(窓をひらく)能力の謎は少しずつ明らかになり(*2),最後にはアーサー・C.クラークの『地球幼年期の終わり』に勝るとも劣らない大きなテーマがパァァンと音を立てて読み手をえぐる。ちなみに,『寄生獣』でも『七夕の国』でも,「ゴミ」問題が妙に大きく扱われているのが興味深い。
 3巻後半から4巻にかけて,それまでののんびりした雰囲気から,一気に剣呑かつダイナミックな描写が続くが,1巻ではそれなりに活躍した新技能開拓研究会の女子学生・亜紀が出てこなくなるなど人物配置にややバランスを欠くこと,また結末にいたる展開がやや性急で説明的なことなどが残念といえば残念。そのため,全体としてのテンションはさすがに『寄生獣』には及ばないが(まあ,僕は,あれを今世紀のベスト5に押したい,くらいに思っていることだし),それでも本作が,映像的なセンスオブワンダー,成長ドラマとしての一貫した追求性をもって,高いクオリティを維持していることは間違いない。

 などなど,くだくだしく書いてはきたが,僕としては,岩明均はデビュー短編集『骨の音』以来,
  「なんとまぁ,壊れた人間を描くのがうまい作家なのだろう!」
と脱いだ帽子をかじってやまない。物理的にも,精神的にも,本当に見事に壊して見せてくれるのである。どうか,このまま(当人が壊れずに)新作を発表し続けていただきたいものだ。

*1……『ミュータント サブ』について語るときは,やはり「石森」でなくっちゃ。

*2……窓の外のボールに,別のボールをぶつけたら,どうなるのだろう? SF的推測では「ホワイトホール 白い明日が待ってるぜ」なんだが。

先頭 表紙

2000-08-16 『最新東洋事情』ほか 深田祐介 / 文藝春秋社(文春文庫)


【インド人にはびっくり】

 深田祐介。永年にわたる日本航空海外勤務の経験から,主にアジアを舞台としたノンフィクション,小説に痛烈な作品が少なくない。「私はどじでのろまな亀!」でおなじみのTVドラマ『スチュワーデス物語』の原作者でもある(ということがプラスイメージに結びつくのかどうか,正直,わからないが)。

 この人の『新東洋事情』『新・新東洋事情』『最新東洋事情』『激震東洋事情』というシリーズは,アジア各国でいかなる産業が推進されているか,そこに進出した日本企業がいかに非道い目にあっているかが紹介されており,実におもしろい。

 風俗習慣のまるで異なる中東ならわからないでもない。ところが,近くて遠く,似て非なる近隣の国々に工場をこしらえた企業の苦労は,涙なしには読めない。
 親日の旗を振られ,安い人件費につられていざ工場を建てれば,工員の就業意識は低く,工程はアバウト,ようやくラインが稼動すると特許も商標もなく類似製品の工場が現れ,製品・工具は盗まれ,突如給料を倍にしろとストライキ,抑えようとすればいきなり法律が改正され,役場には「裁判では十年かかる」とあしらわれ,撤退しようにも勝手な解雇は違法だ失業問題のもとだと許されず,ぼろぼろになっても日本から金を運んで工場を維持せざるを得ない……。
 大手新聞があまり載せたがらない,こんな話がてんこ盛りだ。

 ところで,シリーズ3冊目『最新東洋事情』には,コンピュータ寄りで少し興味深い話が紹介されている。「裸足で人工衛星を打ち上げる国」インドでは,南部のバンガロールという高原の都市を中心に,いまや一大ソフトウェア開発地域を展開しようとしているのだそうだ。
 もちろん,ソフトウェア開発は,通信網さえあれば,交通などのインフラはとくに必要ない。しかし,なぜインドなのか。
 実は,(教育の普及率には触れていないが,教育を受けられる階級に限れば)インドは,世界的にも数学教育に力を注ぐ国の1つで,たとえば日本で九×九を暗記するところを,二十×二十までそらんじる。また,扇形の面積を求めよ,といった問題でも,単に公式をあてはめて数値が合ったらマル,ではなく,具体的,論理的に面積を求める過程まで書けて初めて満点がもらえるのだそうだ(悪しき平等主義から,円周率πを「3.14」ですらなく「3」で教えようとする日本に比べ,なんという意識の違い!)。
 これはつまり,電卓的演算能力とフローチャート的感性を幼いころから身につけざるを得ないということであり,実際,日本への留学生に見られる数学的能力は相当なものらしい。

 また,インドの次の章では,アジア諸国の寄生虫,感染症についてページが割かれている。
 たとえば,川魚を生で食うと感染する「顎口虫」。これが血液に入ると,体のあちこちにこぶやミミズ腫れができ,それが移動する。こぶを切開してもすでに虫が移動した後,だとか,背中に線状の皮膚疹が多数でき,それが縦横に移動する(!)だとか,こぶがだんだん顔を上がっていって,脳に入ると深刻な障害が起こる,だとか……。うう。エグい。

 最新巻『激震東洋事情』では,経済成長が期待されてきたアジアが,突如として「世界恐慌の発信地」と喧伝されるようになった内幕を探り,軍事大国・中国がアジアに及ぼすさまざまな悪影響を分析する。

 アジア本というとお気楽バックパッキングモノが少なくないが(それはそれでアームチェアトラベルとして実に楽しいものだが),たまにはこの手の本で自分の勤めるカイシャのアジア進出についてあれこれ考えてみるのも一興。

先頭 表紙

おっと、妙齢ですかい? そいつぁ聞き捨てならねぇ! / ぽた公 ( 2000-08-18 00:08 )
と思ったが,藤田センセイの本が手元にない。そういえば妙齢の女性に貸してしまったのだった。 / 烏丸 ( 2000-08-17 13:35 )
そう聞くと,ぜひとも『笑う寄生虫』も扱いたくなるのは世の当然。 / 烏丸 ( 2000-08-17 13:28 )
出ましたね、寄生虫。弱いんだな、この手の話には。 / こすもぽたりん ( 2000-08-17 00:24 )
口車がかつて勤めていた会社、そうですポーランドに行かされた会社は、中華人民共和国を相手の商売で赤字を出していない、極めて珍しい会社です。 / 口車大王 ( 2000-08-16 18:06 )

2000-08-15 『鬼』 山岸凉子 / 潮出版社(希望コミックス)


【生まれてこないほうがよかったギャァ ((C)ジョージ秋山)】

 山岸凉子の霊界モノ,心理モノは怖い(*1)。とはいえ,その怖さの核はクール,理知的で,人の心の闇をセラミック包丁でさくりと切り開いたような印象のものが多く,楳図かずおの『赤んぼ少女』タマミ(*2)や稲川淳二の怪談語りの生理的な恐ろしさとはまた違う……と,それまでは思っていたのだけれど。

 潮出版社から出ている『鬼』という中篇。これが,怖い。本当に,それはもう,怖い。
 大の男が夜中に一人で「今,階下の部屋で音がしたような……」とか「窓ガラスにマンガ読んでいるオレが映っているが,背後に何かいそうで……」みたいな,まことにヒヤヒヤした気分になってしまうのである。

 舞台は岩手の寺。歴史がらみの怪談噺というと合戦モノが多く,必然的に京都,鎌倉あたりが舞台となることが多いが,東北の怪奇譚といえばアレである。飢饉,口減らし,カンニバリズム(人肉食)。グァギ。生まれてこないほうがよかったギャァ(*3)。
 『鬼』では,天保期に滅びた村と,現在の大学生のミステリーサークル「不思議圏」の研究旅行とが交互に描かれる。天保の大飢饉の折り,その村の大人たちは口減らしのため,幼い子供らを山あいの穴に捨ててしまう。子供たちは「おっ母」「マンマー」と泣き叫びながら一人また一人と死んでいくが,何人かは先に死んだ者の肉を食って少しばかりのときを生き延びる。そして,最後に残った一人の魂が,孤独と飢えと地獄へ落ちる恐怖から「鬼」と化し,それが現在の学生たちに……。

 山岸凉子としてはかなりラフというかアバウトなストーリーで,学生たち個々のドラマも十分には描き込めていない(なにしろ,学生7人のうち5人までが「実は自分は」「自分も実は」とそれなりにドラマを背負っているので,単行本1冊弱に収めるのはとうてい無理だったろう)。しかし,ともかく,要所要所がひりひりと怖い。
 無造作に生木で蓋をした穴から這い出る痩せこけた男子の念は,自らを捨てた父母を求め,求め,結果的にその地の子供を殺し続ける鬼と化す。

 力のある少女マンガ家はついうっかり踏んでしまうのか,あちらの世界に行ってしまう例が少なくないが,山岸凉子はなんとしてでもこちら岸に踏みとどまってコワイ話を書き続けてほしいものである。

*1……前者としては『化野の…』『ある夜に』『汐の声』『青海波』『黄泉比良坂』など。後者としては『天人唐草』『ストロベリー・ナイト・ナイト』『メデュウサ』『悪夢』『夜叉御前』『常世長鳴鳥』『キメィラ』『死者の家』『蛭子』など。いずれも短編,順不同。

*2……のちに『のろいの館』と改題されるが,少女フレンド連載時は『赤んぼ少女』だったはず。リアルタイムに読んでびびりまくった読者としては初出タイトルをとりたい。

*3……飢餓と人肉食を描いたマンガの一頂点,『アシュラ』(ジョージ秋山)の舞台は都の近隣(北陸寄り?)だったが。

先頭 表紙

2000-08-14 有罪ノックの自伝ではない 『タコはいかにしてタコになったか−わからないことだらけの生物学』 奥井一満 / 光文社(光文社文庫)


 光文社文庫『生物界ふしぎ不思議 タコはいかにしてタコになったか−わからないことだらけの生物学』(奥井一満著)読了。なかなかおもしろい。

 おもしろいというのは,新しい知識が次から次へと提供される,という感じではなく,生物の進化について,「こんなことがわかっていない」「あれもなぜだか見当がつかない」をあれこれきちんと再確認させてくれるため。
 たとえば。貝や蝶の派手な模様は,なぜそうなったのか? 敵から身を隠すため,という説明は一見正しそうでも,自分の姿は見えないはずなのに,どうやってその外見を選べたかの説明ができない(木の葉や花に似た虫についても,現在のデザインが敵から身を隠しやすいということは事実でも,進化の過程でなぜそのデザインを選べたかは説明できない)。
 あるいは。養蚕のカイコは完全に家畜化しており,自然状態では全く生きていけない。中国で発見されてほんの数千年で品種改良されたというのなら,その野性種は? クワコという近い種の蛾はいるが,かなり性質が異なり,いろいろ説明のつかない点があるらしい。
 さらに。地上動物として発達した前肢を捨てて翼に変え,歯を捨て,膀胱を捨て,鳥が飛ぶ姿を選べたのはなぜか?
 などなどなど。

 結局,個々の生物の個々の器官や生態は調べられても,進化の過程は説明がつかない,証拠もない,というのがおおかたの実情らしい。そして,進化に関する話題を扱う本は,いうならば,そのへんをぐらぐら揺すったり揺すられたりしてるわけだ。
 本書ではそのあたりを徹底して「わからない」で押し通しているので,「とんでも」にはなってない代わり,あっと驚く明快さもない,といったところか。
 こういうのを読むと,しょせん「進化論」は「学」ではなくSF(サイエンス・フィクションというより,スペキュレイティブ・フクションてやつ)の領域かな,という気がしないでもない。でもって一歩間違えると,これが「宗教」。あな,おとろしや。

先頭 表紙

オーテマチエンヌさん、ナイスなボケっぷり! 吉本ごぉかぁく! / こすもぽたりん ( 2000-08-15 00:27 )
タイトルから案の定横山ノックを想像してアクセスしてきたら、先制パンチ。恐れ入りました。 / オーテマチエンヌ ( 2000-08-14 22:00 )

2000-08-13 まやかしごまかしおためごかし 『マスコミ報道の犯罪』 浅野健一 / 講談社(講談社文庫)


 インターネットが身近になった昨今,Yahoo!JAPANのニュース欄などでは,時事通信,ロイターなど通信社からの「なま」のニュース配信に直接触れられるようになった。悪くないことだと思う。それと見比べるうちに,朝日,讀賣などの大手新聞がいかに配信データをそのまま垂れ流しているか,あるいは逆に,いかにそのデータに根拠のない勝手な解釈を付け加えているか,ということが見えてくるからだ。
 「〜が明らかになった」とだけあって,誰がいつどこでそう述べたか明記していない記事は,大手マスコミの報道であっても眉唾で対したほうがよい。

 本書『マスコミ報道の犯罪』の著者は元・共同通信の記者で,現場での体験から,日本のマスコミ報道がいかに客観報道からかけはなれたものか,またそのためにいかに多くの一般市民が事実から隔離され,あるいはより具体的に被害を被っているかを説く。5W1Hを押さえた文体は明快で,一種のカタルシスさえ与えてくれる。
 たとえばオウム事件の際,警察からのリークだけをベースに,どれほど憶測に基づく報道が繰り返されたか。松本サリン事件の河野さんに対する扱いを思い起こせば,大手マスコミ報道の矛盾点は明らかだ。

 そして本書の最後には,ブラックというか痛烈なしっぺ返しが待ち受ける。
 著者は「あとがき」として,松戸OL殺人事件の小野悦男容疑者をマスコミが最初から犯人扱いしたこと,それが結果としては冤罪だったことを,自著の論拠として掲示している。ところがその小野容疑者が,釈放後,今度は同居女性殺害,女児誘拐・殺人未遂等で再度世間を騒がせた,という揺るがせない事実。
 冤罪判決の是非についてはさておき,ここではむしろ,このアイロニーを,「報道に対しては常にニュートラルに対する必要があること」「いったん明らかになったと思われることでも,常に検証を重ねる必要があること」の好例とみなしたい。

 とにもかくにも,大手マスコミの報道なら無条件に信用してしまう傾向のある方に,ぜひともお奨めしたい一冊。

先頭 表紙

2000-08-13 『ドーナツブックス ほか』 いしいひさいち / 双葉社


【野菊の鼻】

 さて,そのいしいひさいちである。
 もし手元にいしいひさいちの単行本が1冊でもあるなら,手に取ってぱらぱらページをめくってみていただきたい。出てくるキャラクターの「鼻」の描き分けがすごいのである。何百というパターンがあって,それぞれリーズナブルな形をしているのがおわかりいただけるだろうか。泰然とした部長は座った高くて大きな鼻,神経質な課長はとがった細い鼻,ぼんやり部下は丸い小さな鼻,などなど。いしいひさいちが作中でおちょくりつつも決して憎からず思っているキャラと,本気で毛嫌いしているキャラの違いが,鼻の形に現われているような気さえする(たとえば,『ドーナツブックス』に何度か出てくるゴーツクバーサンは,同一人物ではないくせに横顔にタバコをくっ付けたような鼻だけは共通)。登場人物の「目」のほとんどがいわゆる点目かにこちゃん目だけに,鼻への力の入れようが目立つ。

 トルストイは『戦争と平和』で数千人の登場人物を描き分けたと言われるが,いしいひさいちは鼻で数千人を描き分けているのであった。いやほんと。

先頭 表紙

2000-08-12 [非書評?] 『腐乱! 1ダースの犬』

【ビルマのたわごと】

 『ティファニーで朝食を』(トルーマン・カポーティ)は魅力的なタイトルだ。タイトルだけである程度成功が約束されたようなものだ。
 『ライ麦畑でつかまえて』(ジェローム・デーヴィド・サリンジャー)もまた素晴らしい。原題は『CATCHER IN THE RYE』,つまり“ライ麦畑の捕まえ手”で,訳者の柔軟さも見事。
 これに対し,講談社X文庫には『ティファニーでつかまえて』(秋野ひとみ)という本がある。……タイトル文化をなめとんのか。こういう例はけっこうあって,人ごとながらムッとしてしまう。

 映画『愛人(ラマン)』の原作で知られるマルグリット・デュラスの『破壊しに,と彼女は言う』も,しびれるようなタイトル。ところが,中上健次には『破壊せよ,とアイラーは言った』という本がある。恥という言葉を知らんのか。
 小説ではないが,ポール・サイモンに『ぼくとフリオと校庭で』という佳曲がある。どういうわけかこのタイトル,作家や漫画家に「もてる」。たとえば『ぼくとフリオと校庭で』(諸星大二郎),そのまんま。『ぼくとハルヒと校庭で』(原田じゅん),何をかいわんや。『ボクとカエルと校庭で』(みうらじゅん),あーはいはいはい。
 『ゴドーを待ちながら』は,サミュエル・ベケットの不条理劇。「何が起こるのだ,いや,何も起こらないだろう。それどころかきっとゴドーは最後まで現れず,何事も説明されないに違いない。うう……」的展開の予想される,まことに前衛劇はこうでなくっちゃなタイトルである。しかして,これのパクりも腐るほど現れ,最近もひきの真二のコミックに『Todoを待ちながら』なんてのが出ている。

 念のため。
 これらのタイトルパクり作品の一部は,ちゃんと本文内で,元のタイトルの小説や歌曲を引用し,それを「分かったうえでパクっているんですよ」と説明している。たとえば笈川かおるのコミック短編『ぼくとフリオと校庭で』はポール・サイモンの歌詞を引用し,それに日本の高校生の心情をシンクロさせたストーリーだった。いとうせいこうの『ゴドーは待たれながら』も,「このくらい分かって読むように」という作者のメッセージの込められた味のあるタイトルだ。
 つまり,パクることすなわち全面的にいかーん! などと言うつもりはないのだ。「本歌取り」「パロディ」「洒落」というのは立派な技術,文化だと思う。許せないのは,「ちょっとオシャレなタイトルなのでイッタダキー。どうせ普通の読者にはわからないだろうしー」的,安直愚昧なパクりなのである。パクるならいっそ,いしいひさいちのドーナツブックスの各巻のタイトルくらいごりごりパクり通してほしいのである。
 いわく『存在と無知』『丸と罰』『健康と平和』『玉子と乞食』『老人と梅』『いかにも葡萄』『椎茸たべた人々』『垢と風呂』『ああ無精』『長距離走者の気の毒』
 いわんや『まだらの干物』『馬力の太鼓』『美女と野球』『フラダンスの犬』『かくも長き漫才』『学問のスズメ』『麦と変態』『不思議の国の空巣』『ドンブリ市民』『泥棒の石』
 あまつさえ『毛沢東双六』『とかげのアン』『伊豆のうどん粉』『公団嵐が丘』『出前とその弟子』『女の一升瓶』『任侠の家』『パリは揉めているか』『風の玉三郎』『アンタ・カレーニシナ』『テニスに死す』『お高慢と偏見』
 いやはや,出典と作者名を正確に把握するだけでもけっこう大変だ。ちなみに,これらは担当編集者が付けているのだろうが,その編集者,文学部の露文出ではないかと思われる。なんとなくだけどね。

先頭 表紙

2000-08-12 大人の味 『象は忘れない』 アガサ・クリスティー,中村能三 訳 / 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)


 宮部みゆきの『龍は眠る』における,登場人物の子供っぽさについてはすでに述べた。
 実際,少なからぬ(上質なものを含む)ミステリ作品で,主人公,ないし脇役の幼児性がストーリー展開のための便利な道具とされているのは明らかだ。
 この烏丸,ポーの短編におけるオーギュスト・デュパンのクールさが好きなのだが,このような描き方はなかなか長編やシリーズものでは難しいらしい。子供っぽいキャラがいないと,ストーリーが踊らない,とでも言うか。

 クリスティーのポアロものにおける愛すべき脇役,ヘイスティングスもその例にもれない。彼は決して悪人ではないが,こと複雑な犯罪に対しては無邪気で頓珍漢な推理を繰り返し,ばたばたと場をにぎわせてばかりいる。ところが,クリスティーの作品は,晩年に向けて,このヘイスティングスのような脇役を必要としなくなる。過去に起こった事件を関係者の言葉を重ねることで少しずつ明らかにしていく,そのような独特な描き方に作風が変わったためである。「回想の殺人」と称されるそれらの事件では,多くの場合,犯意は憎悪や悪意ですらない。

 『象は忘れない』は,1972年発表,著者82歳(!)のときの作品で,探偵エルキュール・ポアロが登場する最後の作品となっている(『カーテン ポアロ最後の事件』は第二次大戦中にすでに書かれていた。晩年の作品と読み比べれば,ポアロもヘイスティングスもどたばたした印象で,明らかに若書きであることがうかがえる)。『象は忘れない』に至って,「灰色の脳細胞」という決めゼリフを連発するあのキザで自己顕示欲の強いポアロは,いつの間にか静かで人の話を聞き出すのが巧い老人と化している。事件そのものも時の流れにさらされ,血や悲鳴は風化し,その分,悲しい物語がやがて明らかにされる。全体に流れる情緒は,東洋的諦念にかなり近い。

 しかし,この『象は忘れない』をクリスティーの代表作として無造作に推せないのはまたしかたがないところだ。『アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』『そして誰もいなくなった』など,初期のトリッキーなフーダニット,ハウダニットものを読み重ねて初めて,後期の静謐な境地がまた引き立つのだから。

先頭 表紙


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