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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2006-05-25 『心霊写真 不思議をめぐる事件史』 小池壮彦 / 宝島社文庫
2006-05-17 大人のマンガ,を考える 『誰も寝てはならぬ』(現在5巻まで) サラ イネス / 講談社ワイドKCモーニング
2006-05-12 大人のマンガ,を考える 『沈夫人の料理人』(全4巻) 深巳琳子 / 小学館ビッグコミックス
2006-05-04 〔非書評〕重箱の隅つつき その5 『となりの山田くん(5)』 いしいひさいち / 創元ライブラリ
2006-05-01 〔非書評〕重箱の隅つつき その4 『花の下にて春死なむ』 北森 鴻 / 講談社文庫
2006-04-26 〔非書評〕重箱の隅つつき その3 『ダ・ヴィンチ・コード』 ダン・ブラウン,越前敏弥 訳 / 角川文庫
2006-04-22 〔非書評〕重箱の隅つつき その2 『なみだ研究所へようこそ! サイコセラピスト探偵波田煌子』 鯨 統一郎 / 祥伝社文庫
2006-04-19 〔非書評〕重箱の隅つつき その1 『象と耳鳴り』 恩田 陸 / 祥伝社文庫
2006-04-14 新入社員推奨銘柄 『コンシェルジュ』(現在5巻まで) 原作:いしぜきひでゆき,漫画:藤栄道彦 / 新潮社BUNCH COMICS
2006-04-12 なんだかよくわからない 『飛蝗の農場』 ジェレミー・ドロンフィールド,越前敏弥 訳 / 創元推理文庫


2006-05-25 『心霊写真 不思議をめぐる事件史』 小池壮彦 / 宝島社文庫


【要は写真を「見る側」の問題である。】

◆読了前

 『心霊写真 不思議をめぐる事件史』なる本を読んでいます。
 タイトルだけ見ると,夏になるとどこの本屋にも平積みになる「あっ,こんなところに顔が」本の一種のように思われますが,これがお立ち会い,実は日本における心霊写真報道とそれに対する反証の世相史をとことん資料を立てて語り尽くそうとする,上に「バカ」を付けたいほど生真面目なドキュメントなのでした。

 なぜこの本を手に取ったかと言えば,「もしやこの国の心霊写真史は今,大きな曲がり角にきているのではないか」という思いにかられたためです。
 最近,久しぶりにいわゆる「カメラ屋」に赴き,家電量販店でデジタルカメラが売れているのは知っていたものの,カメラ専門店においても従来のフィルムカメラがほとんど販売されていないことを知って驚く,ということがありました。
 レンズ付きフィルム(いわゆる使い捨てカメラ)や趣味の高級一眼レフなど,一部には(たとえばアナログレコードプレイヤーのように)フィルムカメラも残っていくのでしょうが,家庭用フィルムカメラがデジカメにすっかり置き換わってしまうのはもはや時間の問題のようです。
 さて,そうなったとき,「顔が,手が,光が」の心霊写真はどうなっていくのでしょうか。

 もちろん,今後も,誰かが自殺した崖のデコボコが人の顔に見えるといったことはデジカメで撮影したJPEGファイルでも同じように起こることでしょう。

 しかし,デジタル画像の場合,ネガフィルムに比べればその修正は格段に簡単です。岩の影がちょっと人の顔っぽく見えたなら,それをお絵描きソフトで強調したり,特定の人物に似せたりといったことはすぐにも誰にでもできそうです。
 「専門家」(何の?)が見ると,データに手を加えたことがバレることもあるでしょうが,逆にその「専門家」が腕をふるえば,修正の判明しづらい画像を作成することもまた可能でしょう。
 しょせんデジタルデータですからね。ドット単位で微調整するなら何でもありです。

 つまり,デジカメの普及によって,心霊写真はその信憑性を失い,怪しい顔が手がと主張しても鼻で笑われて終わる,そんな時代が訪れつつあるのではないでしょうか。

◆読了後

 そんなこんなを考えつつ,読了。
 思ったより格段に,「硬派」なレポートでした。

 著者は徹底的に「幽霊が写真に写る,念がフィルムに写る」ことを否定しています。心霊写真の原因は,焼付けミス,もしくは意図的な二重焼き,偶然,目の錯覚などのいずれかにすぎないという判断のもとにすべての例にあたります。
 本の帯の「写ったのは 本物か? 否か?」などというキワモノキャッチは,これだけ過去の資料を網羅して論旨を展開する作者に対し,失礼というものでしょう。むしろ,これほど実証主義な著者がテーマとして心霊写真を選んだことのほうが不思議に思えるほどです。
 口裂け女や女性客の消えるブティック,ハンバーガーミミズ肉説などの都市伝説を扱うに,扇情的な怪談とする本と社会学として収集,検証する本があるなら,この本は明らかに後者に属すわけです。

 本書によれば,写真技術が導入されたころは,乾板をきちんと綺麗にしなかったために人物が二重写しになるということが多発していたようです。その一部がのちに幽霊の写真と騒ぎを招くようになり,その後も世相や技術の変遷に応じて心霊写真はさまざまな形で巷をにぎわすことになります。
 たとえば「心霊写真」という言葉が最初に使われたのはいつ,誰によるのか,とか,初期の心霊写真はむしろお守りのように大切にされたのに,「霊障」や「御祓い」が話題とされるようになったのはなぜか,など,著者の指摘は心霊写真を中心に縦横に展開します。
 それにしても,興味本位の雑誌などならまだしも,大手新聞が心霊写真を再三にわたって(トピック扱いとはいえ)けっこう大きく扱ってきたことには驚かされます。

 本書では,この国で最初に心霊写真が話題になった当時から,(妖怪博士 井上円了らによって)論理的,科学的にはそれが否定されてきたこと,それにもかかわらず,心霊写真が再三再四大きなブームとなったのは,心霊や念の存在を意図的に語りたい者がいたからであるとし,各時代のさまざまな写真,事件,主張を細かく取り上げていきます。
 さらには,おそまつな(たとえば誰が見てもカメラの下げ紐が写り込んでいるにすぎないなど)心霊写真を否定しても否定してもブームが去らないのは,結局のところそこに「何かを見たい」者がいるため,と作者は指摘します。
 自殺した岡田有希子の幽霊騒動の際には,幽霊が映ったとされるビデオテープが視聴者からマスコミに届けられ,その結果として「幽霊は映っていない」のではなく,「見える人には見える」という声が残ったのがその顕著な例と言えるでしょう(その当時の若者間のオカルトブームがのちのオウム真理教事件に影響を及ぼしたという指摘は,検証を必要とはするものの,重いものを感じます)。

 つまるところ,著者も最後に簡単に触れているように,デジカメの時代になっても,何も写ってないところに何かを見たい者がいる以上,心霊写真は存続し続け,夏になれば書店の棚で暗い顔や白い手がうごめき続けることになるのでしょう。

先頭 表紙

2006-05-17 大人のマンガ,を考える 『誰も寝てはならぬ』(現在5巻まで) サラ イネス / 講談社ワイドKCモーニング


【さあー 俺もイキオイでもろてんけど 何かにできるか? コレ  できません】

 サラ イネス作品の魅力を直截簡明に語るのは難しい。
 以前(やー,もう6年も前のことだ)『大阪豆ゴハン』を取り上げた際も瑣末事ばかり話題にして番茶を濁した覚えがある。まだ,若かったのだ。違うって。

 『誰も寝てはならぬ』に登場するのは,赤坂のデザインオフィス「寺」に出入りする,少し浮世離れしたデザイナー,イラストレーターとその周辺の人々。個々のキャラが前作『大阪豆ゴハン』の脇役たちと少しかぶっていて懐かしい。

 この作者の一連の作品によく貼られるレッテルが「脱力系」だが,それだけでは瓶からこぼれるものが少なくない。作品全体を覆うかなり濃密な「大人」テイストの源はどこにあるのだろうか。
 登場人物たちは太平楽に◇と口を開いた高等遊民(死語かな)に見えるが,実はいずれもけっこうビジネス手腕にたけ,とくにバブル経済華やかなりしころにはそれぞれ忙しくも美味しいめに遭っている。業種もデザイン,イラスト,報道,オシャレな飲食店経営など,いずれもカタカナ自由業ないしその近隣,ランクも自営社長レベルである。安く手に入れたブランド品をさらりと着こなし,車はマニアックな外車,住まいも通勤の便利さなどより趣味嗜好を優先している。要するにヘンな生活を営めるだけの経済的余裕があるのだ。
 そういったいわゆる「ハイソ」感が強く表に出ないのは,太いペンでラフに描かれた温帯性能天気な絵柄にもよるが,基本的に誰もが金勘定に頓着ない風を示していることも大きい。早い話,いずれもええとこのボンボン,ご令嬢様なのである。その育ちのよさ,鷹揚さは,上目遣いと見下ろし目線の交錯するモーニングの読者層を考えればイヤミすれすれ,かなりアクロバティックなバランスのうえに成り立っている作品ともみなせる(人気があるようにみえて過去の単行本がいずれも絶版であったり,文庫も『大阪豆ゴハン』の抜粋3冊分しか発刊されなかったりというのは,そのあたりと無関係ではないかもしれない)。

 わかりにくいのは,どこまでが作者の実体験で,どこまでが作り事か,ということ。
 前作『大阪豆ゴハン』連載中には,「梅田近辺で安村家を発見した」という投書が相次いだという。デビュー連載『水玉生活』から新作『誰も寝てはならぬ』まで,同じ設定のキャラクターがあたかも作者の年来の知己であるかのように登場することから,作者周辺の実在人物がモデルと推察されるコマが少なくない。だが,一方で作者の企画力はかなりしたたかで,すべてまったく見事なコシラエゴトらしきフシもある(『大阪豆ゴハン』の登場人物の数人が名称もしくは容貌においてラリードライバーを模したものだった,など)。
 このあたりの虚実の皮膜,どちらとも断定できない底知れなさが,単に「脱力系」ギャグなどという言葉では蔽い切れないほろ苦さにつながっているのは間違いない。

 もう一点,「大人度」のポイントが,登場人物の多くがバツイチ(以上)だったという設定だ。
 『誰も寝てはならぬ』の主人公,ハルキちゃんはバツイチ,ヤーマダくんもバツイチ,ゴロちゃんにいたってはバツ3である。オフィス「寺」にわけなく出入りする魅力的な女性陣も,せんじつめればなにやらアンニュイな過去がなきにしもあらず。ただ,それなりにそれなりの経験を背負った彼ら彼女らは,同時に作品中では常にサバサバして引きずらない。このサバサバ度合いが大人なのである。
 ただし,サラ イネスの描く登場人物が「大人っぽい」かといえば,そういうわけでは全然ない。むしろ年齢からすれば子ども子どもしているといってもよい。それが,あのペンタッチに乗るとそこらのマンガよりよほど「大人」感を示す不思議。……結局,よくわからない。

 こんなややっこしいことなど考えず,ただノンシャランな世界を楽しめばよい,という親切なご指摘も当然あるだろう。だが,心のどこかに,それはちょっともったいないことじゃないかと囁く声がする。それがサラ イネス作品の奥行きなのである。

先頭 表紙

ぴなさま,オシャレ度という点では,ストーリーマンガでない最初の単行本『水玉生活』が抜群でした……などなど,今夜はばらばら過去の単行本を読み返してますが,『誰も寝ては』の1巻はこゆいですね。これに比べると5巻などずいぶん薄味です。 / 烏丸 ( 2006-05-20 01:35 )
大阪豆ごはん!いやーん、懐かしい。三姉妹のファッション、だーいすきでした。 / ぴな ( 2006-05-18 16:49 )

2006-05-12 大人のマンガ,を考える 『沈夫人の料理人』(全4巻) 深巳琳子 / 小学館ビッグコミックス


【美味しい物が 私には ふさわしいんだよ。】

 大人のマンガなどというとすぐエロとか18禁とかに意識の指が伸びそうだが,そうだろうか。
 要は大人と子供をどう区別するか,だ。18歳,20歳の経度にある赤い点々の日付変更線などどうでもよろしい。子供のくせに大人っぽい,大人のくせに子供っぽい,この「大人っぽい」の「ぽい」のあたりから漂うアヤシゲな気配こそがよくも悪しくも「大人」の領分なのだ。むしろエロに過剰に反応するのこそ実のところ子供のしるしであって……いや,いや。エロならエロに,大人らしく書いたもの,子供が書いたものがあり,大人向けに書かれたもの,子供向けに書かれたものがあって。
 など,など,など,など。

 こういう議論はそれはそれで楽しそうだが,今日はパス。もうちょっと単純に「大人でも楽しめる」「大人ならではの楽しみが得られる」,そういうマンガをいくつか紹介したい……今回はその程度の試みである。
 ちなみに,1960年代以降,文芸誌,週刊誌等に掲載されたいわゆる「大人マンガ」はここでは対象としない。個人的に好みではないため。

 さて。なにはさておき,最近4巻で完結したばかりの『沈夫人の料理人』だ。

 『沈夫人の料理人』は料理マンガである。
 ……と,たとえば『美味しんぼ』『ミスター味っ子』『クッキング・パパ』,最近なら『喰いタン』『焼きたて!!ジャぱん』あたりと比較できるなら話はケンタッキーフライドチキンなのだが,ことはそれほど吉野家,マクドナルドでない。
 確かに,『沈夫人の料理人』の各話とも,旨そうな中華料理のレシピは描かれている。中華というよりラーメン屋のメニューを並べた『中華一番』などに比べても格段に本格的だ。だが,個々の料理はいうなればボードゲームのカードに過ぎない。
 この作品は明代の江南の都市を舞台に,「主人」である有閑夫人が「主人」であることをかさに,料理人を思うさまもてあそぶ(←ここ太字)物語である。料理人の李三は無骨で馬鹿正直で料理の腕は抜群,沈夫人を優しい高貴な女性と崇拝しているが,沈夫人はその李三に婉曲に(←ここも太字ね)無理難題を吹きかけ,困り果てた李三が饗する料理こそが最高に美味と知っている。

 沈夫人の手腕は,「いじめ」などという子供の領域にはなく,2巻にいたるや思いつく限りの心理テクニックを駆使して「暴虐」「非道」「人非」の域に達する。李三はただおろおろとはいつくばり,身もだえ,涙して許しをこい,肩をふるわせながら呆然と料理を具するばかり。そして,毎話,沈夫人の「あら美味しい!」の美麗な顔をもってあたかもことの顛末が天真爛漫な「いたずら」にすぎなかったかのように描かれてさわやかに(!)幕を閉じる。

 ……およそ舞台も状況もキャラクターも異なるが,この構造は数人の男たちが一人の淑女を調教する『O嬢の物語』に近しいような気がする。
 絵柄,ストーリーは古臭い「艶笑」という言葉をうかがわせながら1巻から2巻へと崖を転がり落ちんばかりにエスカレートしていく。だが3巻,4巻にいたって結局は一話読み切りの「シチュエーションコメディ」として予定調和の平穏のうちに第一部が終わる。ああ,よかった。
 もし。もしも,3巻以降,2巻の勢いそのままに暴走していったなら,果たしてこの国のマンガの歴史はどうなってしまっていたのか。平成元禄のぬるま湯に首までつかった読者はそれに耐えられただろうか。

 少しでもグレーな用語を片っ端から変換候補からはずしてしまったWindowsの日本語変換システム(MS-IME)も,なぜか「奴隷」は平気で変換してしまう。現在では奴隷制度は存在しないため,差別用語たり得ないので,という説があるが,この『沈夫人の料理人』は,「隷属」すること「隷属」させることにこそエロティシズムがあるという一つの例証となっている。
 裸体だとか男女のからみだとか,およそ凡夫がエロティックな行為を想起させるコマは何一つないにもかかわらず,この作品はそこらのアダルト雑誌などよりよほど淫蕩だ。大人のたしなみとして,ぜひ本棚の最上段にこっそり忍ばせたい逸品である。夢に見るぞ。

先頭 表紙

最近,山田風太郎『妖異金瓶梅』を読みました。『金瓶梅』に想を得た,というより西門慶や潘金蓮を主人公とする猟奇殺人ミステリで,これがもう,凄い。とくに後半の怒涛の展開には山田風太郎の底知れぬスケールにただ暗然とするばかり。……この『金瓶梅』と『沈夫人』,時代が近いのですね。風俗等のテイストにも(ほんの一部)似たところが。 / 烏丸 ( 2006-05-13 02:18 )
『沈夫人の料理人』の弱点は……いかに美味な料理とて三食続ければ倦むように,単行本2冊も続けて読むと飽きてしまうんだよね。たまーに取り出してどれか1冊,程度がよろしいようです。 / 烏丸 ( 2006-05-13 02:10 )

2006-05-04 〔非書評〕重箱の隅つつき その5 『となりの山田くん(5)』 いしいひさいち / 創元ライブラリ


 いしいひさいちの作品はもちろん「推理小説」ではないが,作者の稀有なミステリ批評眼,ならびにホームズものをはじめとする痛烈なミステリパロディに敬意を表して,あら探しをさせていただくこととしよう。

 作者自身認めているとおり,いしいひさいちの4コママンガには,オチの意味の不明なものが世界の紛争の数ほどある(とくに政治経済モノに多いようだ)。「不条理」を狙ったわけでもなく,2コマめか3コマめでロバのたずなを放してしまって,そのままどこかわからないところにたどり着いてしまったような感じだ。その手の作品の場合,ちゃんとオチているのかどうかさえわからないので,隅つつきのしようがない。

 別の角度,たとえば双葉社の『ドーナツブックス(いしいひさいち選集)』第27巻の作品番号3455と第28巻の3514が,展開もオチもほぼそっくり同じなのに各コマのカットやセリフがよく見ると微妙に違う(本当),とか,同じく第27巻の3407の4コマが,編集工程上のミスによるものか,本来1,2,3,4のコマ順になるべきものが3,4,1,2の順になっている(これも本当)とか……。
 いや,今回取り上げる重箱の隅は,そういったものでもない。

   あの〜〜 コート買うても ええですか?

 これは『となりの山田くん』の創元ライブラリ版第5巻,朝日新聞では1993年12月10日朝刊掲載分の1コマめで,山田家の主婦まつ子がたかしに話しかけるセリフ。
 この言葉遣いは山田家としては異様である。普段のまつ子のぶつ切りな大阪弁に比べても妙に丁寧ですわりが悪く……早い話が,気持ち悪い。

 このコマ以来,まつ子がたかしに話しかけるシーンに注目しているのだが,少なくともこのような言葉遣いはあまり記憶がない。そもそも,この夫婦にはまともな会話がない。ほとんどが,メシやフロや服装,雨傘についてのやり取りであって,会話という言葉を持ち出すほどのものではないのだ。まつ子は主婦としてはかいがいしいし,無神経なだけで夫婦仲が悪いわけでもないのだが……。
 などなど,山田家について余計なことを考えさせられてしまうという意味でも,先に引用したセリフはまことにキショク悪いシロモノなのである。

 ちなみに,山田家の二人の子供,のぼるとのの子は,祖母,山野しげに直接話しかけるときに「おばあさん」と呼ぶ。
 「おばあさん」には「お祖母さん」「お婆さん」の2つの意味があり,正しい正しくない,は別にして,このようにフランクな家庭で小中学生の孫が祖母に話しかけるなら「おばあちゃん」のほうが自然な気がする。「おばあさん」には,「お婆さん」,つまりヨソの老婆に声をかけるニュアンスが強く,つまり同居している祖母に対して用いるにはヨソヨソしさがこもっているように思われてならないのだが,この感覚は少数派なのだろうか。

先頭 表紙

バケラッターのクールクル、さらばオバQの初代声優、曽我町子さん逝去。 / 烏丸 ( 2006-05-08 00:31 )

2006-05-01 〔非書評〕重箱の隅つつき その4 『花の下にて春死なむ』 北森 鴻 / 講談社文庫


 北森鴻のミステリは,平均して面白い。
 新本格派の若手のように不可能犯罪のトリックに拘泥し,ハナから「小説」を書く努力を放棄したものを読まされる心配はない。その種のパズラーに比べれば,格段に苦味のトッピングが効いている。
 その一方,テレビのサスペンスドラマなどに比べれば,格段にミステリとしての骨格が尊重されている。だから,論理ゲームとしても感情移入抜きに楽しめる。

 裏返せば,さじ加減の難しい長編では,ときに人間ドラマの臭味が強すぎることがある。登場人物の感情反応が強すぎるのだ。香辛料も鼻につくと鬱陶しい,そんな感じ。

 したがって,北森作品では,バランスを調整しやすい連作短編集が安心して楽しめることになる。論理ゲーム的にも1冊で何度も楽しめてお得だ。実際,世評の高い作品には,『メイン・ディッシュ』『孔雀狂想曲』など連作短編集が少なくない。
(個人的には,『凶笑面』『触身仏』など,偏屈な美貌の民俗学者,蓮丈那智のシリーズが好もしい。那智が寡黙であることが先に述べたバランスにつきうまく機能するためだ。那智が全編通して一言も口をきかず,ただ口の端をゆがめて無愛想に証拠と犯人を指差して終わる,そんな作品があってもよい。)

 さて,添付画像の『花の下にて春死なむ』も連作短編集。第52回日本推理作家協会賞の短編および連作短編集部門の受賞作で,作者の代表作の1つとされている。ビアバー「香菜里屋」のマスター工藤が,ちょっとしたやり取りや態度から,登場人物の過去を解き明かしていくというもの。いわゆるアームチェアディテクティブものだが,「香菜里屋」というバーの名称からすでに濃厚に過ぎて……。

 もとい。全体の感想はさておき,お約束の重箱の隅つつきとしよう。今回は次の一節だ。

「片岡さんの故郷は,山口県ですか」
 声の端に確信がのぞいていた。反対に七緒は,あやうくグラスを取り落としそうになった。
「どうして! それを……」

 (中略)
「サニーレタスとムール貝を,酢みそで和えたものをお出ししたんです。片岡さんずいぶんと懐かしそうに小鉢を眺めて,こう仰言いました。『チシャもみ,か』と。『チシャ』はサニーレタスに良く似た野菜だそうです。山口では道端に生えたチシャを摘み取り,酢みそで和えて食べるそうです。古い家庭料理のひとつだと聞きましたが」

 これは……いくらなんでも無理スジ。
 「チシャもみ」あるいは「ちしゃもみ」をググってみよう。ヒットしたページのタイトルをざっと眺めてみると,「チシャもみ」が主に香川,広島,山口の郷土料理として知られていることがわかる。当然,その近隣でも「チシャもみ」を食す家庭は少なくないに違いない。
 ところが,本作では,冒頭に近いところでこの「チシャもみ」を懐かしんだというほぼその一点だけで登場人物の出身地を山口県と特定,しかもそれが物語のその後の展開をかなり決定づけてしまっているのである。
 山口県出身ゆえの思い入れもあったのだろうが,北森鴻の場合,『屋上物語』の凝りすぎたヘンなさぬきうどんといい,こういった(たとえば料理に関する)小ネタにおいてやや無理強いの傾向があるのは否めない。

 平面上で点を特定するためには,少なくとも2つの座標軸を必要とする。アームチェアディテクティブにおいても,小ネタにまつわる推理を確定させるためにはいわゆる「裏をとる」ことでその凄みが格段に増すように思われるのだが,どうだろう。

先頭 表紙

『花の下』に続く「香菜里屋」シリーズの2冊め,『桜宵』が文庫化されたばかりですが,そちらの,たとえば「犬のお告げ」という短編に同じことを感じます。同作には2つの推理が描かれているのですが,どちらも,別の結論でもかまわないように読めてしまうのです。とくに前振りの自転車の鍵の話が……。 / 烏丸 ( 2006-05-03 01:03 )

2006-04-26 〔非書評〕重箱の隅つつき その3 『ダ・ヴィンチ・コード』 ダン・ブラウン,越前敏弥 訳 / 角川文庫


 さすがに文庫化までしていただいて,いつまでも読まずにすましているのは失礼というものだろう。というわけで遅ればせながら拝読させていただいたが,なるほど噂にたがわず突っ込みどころ満載。持ち寄っての読書会など楽しそうだ。

 キリスト教をめぐる謎解きの主旋律はさておき,コンピュータをまったく利用しようとしない暗号解読のプロや,理屈はこねるが結局何をしたいのかわからない黒幕など,登場人物たちの(ストーリーを複雑にするためとしか思えない)奇妙な振る舞いは枚挙にいとまがない。
 もうひとつ,レオナルドの作品の出番が思ったよりずっと少ないのも予想外だった。その方面ではこちらの本などのほうがはるかに詳密だし執念深い。

 ところで,本作の大ヒットについて世界中の誰より悔しがっているのは,もしかしたら『悪魔の涙』『ボーン・コレクター』のジェフリー・ディーヴァーではないか。
 「じ,自分ならもっと緻密に調べてみせるのに」
 「自分のほうがもっとはらはらさせられるのに」
 夜毎髪をかきむしって煩悶する声が聞こえてきそうだ。実際,本作に登場する「善玉」「悪玉」たちのステロタイプぶりときたら……。
 いや,残念ながらそのあたりは詳しくは触れられないため(これからトム・ハンクスを見ようという方にお気の毒),今回も重箱の隅をつついておしまいにしよう。お題は次の一節。

「あれよ」ソフィーが言って,獅子っ鼻を持つ赤いふたり乗りの車を指さした。
 冗談を言ってるのか? ラングドンはこんな小さな車をいままで見たことがなかった。
「スマートカーよ」ソフィーは言った。「リッターあたり百キロ走るわ」


 スマートカー,はないよね。原作のダン・ブラウンはもちろんわかったうえで書いているようだが,これはsmart fortwoという小型車のこと。翻訳の越前氏はご存知なかったのだろうか。メルセデスのエンジンやシャーシ技術にスウォッチのデザイン,フランスの工場で組み立てられてダイムラー・クライスラーが販売しているという,フランス,イギリス間の一往復だけで終わる『ダ・ヴィンチ・コード』に比べても桁違いにコスモポリタンな車である。

 が,今回つつきたかった重箱の隅は,そこではない。リッターあたり百キロ,のほう。
 いくら2人乗り小型車と言っても,リッター百キロは無茶だろう(スペック表参照)。原付じゃないんだから……。

先頭 表紙

smartについていくつかウソ書いてしまっていました。本文は修正済みですが,fortwoはオランダでなくフランスでの製造(forfourがオランダ)です。また↓のつっこみの「4人乗り」は「5人乗り」の誤り(大人5人には狭いけど)。 / 烏丸 ( 2006-04-28 12:04 )
作品が大ヒットしたという点では悔しがっているかもしれませんが,トマス・ハリスが書いたらまるきり違う作品になってしまいそうですね。「最後の晩餐」に隠された暗号をもとにモサドがテロリストと諜報戦する話とか,「洗礼者ヨハネ」と自分とを重ねあわせた連続猟奇殺人鬼をヒロインの暗号解読官がプロファイルするとか。 / 烏丸 ( 2006-04-28 11:59 )
「ハンニバル」のトマス・ハリスもくやしがってるかも? / ぴな ( 2006-04-26 10:19 )
fortwoにしなかった理由の1つは,駆動半径が小さすぎて,助手席どころか運転席まで車酔いすると聞いたため……。ほんとかな。 / 烏丸 ( 2006-04-26 01:50 )
ちなみに烏丸家の愛車は,同じsmartシリーズだが4人乗りのsmart forfour。オートマのくせに坂道で後ろに下がるファニーで可愛い奴だ。生産中止も近く,まだ市内で同じ車種を見かけたことがないのも自慢の1つ。 / 烏丸 ( 2006-04-26 01:48 )

2006-04-22 〔非書評〕重箱の隅つつき その2 『なみだ研究所へようこそ! サイコセラピスト探偵波田煌子』 鯨 統一郎 / 祥伝社文庫


 続いて,奇想の妙手,鯨 統一郎のミステリ短編集。なんの資格もないサイコセラピスト波田煌子が,クライエントの悩みを次々に言い当てて治療するという趣向。
 トラやリスなどの動物を幻覚に見てしまう男。何か人形があると腹話術で喋らないではいられない男。時計恐怖症の少年。生徒が失敗するとつい拍手してしまうベテラン教師。
 心理学の知識だけは豊富な主人公 松本清と波田煌子の空回りするやり取りも楽しい。


 さて,今回の重箱の隅は本文中の

 「はい。緑と黒の青虫がついてたんでしょう? それ,アゲハチョウ,たぶんキアゲハの幼虫ですよね。からたちとか柑橘系につく」
 波田煌子は虫愛ずる姫でもあったのか。


なる一節。ある女性の奇妙な性癖について,波田煌子の推理の根拠の1つとなるものなのだが,残念ながらキアゲハというのは間違い。

 キアゲハの幼虫は確かに緑と黒のだんだら模様だが,イモムシに詳しい小学生ムシキング博士諸君ならご承知のとおり,キアゲハの幼虫が食べるのはパセリ・ ニンジン・ミツバなどセリ科の植物なのだ。カラタチ・ミカン・サンショウなど,柑橘系の植物につくのはいわゆるアゲハ(ナミアゲハ)の幼虫。全体が緑色で,背にあたる部分に大きな目に見える紋があり,頭のすぐ上から強烈な匂いのするオレンジ色の肉角を突き出すのがアゲハの幼虫である。

 ちなみに,優雅な飛翔が昼の蝙蝠を思わすクロアゲハ,カラスアゲハはやはり柑橘系,羽根の青い模様が幻想的なアオスジアゲハの幼虫はクスノキ,ヤブニッケイ,シロダモなどの葉を食す。

先頭 表紙

『なみだ研究所』でもう一つ納得がいかないのは,作中の会計士,小野寺久美子が,若いグラマラスな女性として語り手の松本清の思慕(欲望?)の対象となっているにもかかわらず,およそ輝いてるようには読めないこと。作者は熊田曜子のつもりなのに(笑),読み手からは恋愛なんぞ卒業したおばさん婦長さん,そんな感じ。 / 烏丸 ( 2006-05-01 01:48 )
いえいえ,けろりんさま,祥伝社文庫なんてまだマシなほう。『象と耳鳴り』は平積みの書店もありますし。ありそうでない,ある程度大きな書店でも品揃えが悪いといえば,ハルキ文庫ですね。最近探し物をしてたんですが,とうとうあきらめて密林から取り寄せてしまいました。 / 烏丸 ( 2006-04-24 01:29 )
ちょうど短編ミステリでリハビリを始めようと思っていたので、「象と耳鳴り」を購入。次はこれも読もうと思います。それにしても、祥伝社文庫ってどの本屋でも見つけにくいです。(^ ^;) / けろりん ( 2006-04-23 14:30 )

2006-04-19 〔非書評〕重箱の隅つつき その1 『象と耳鳴り』 恩田 陸 / 祥伝社文庫


 よろず何ごとにつけても批評,紹介は決して容易でないが,なかでもミステリの批評は難しい。なにしろトリックや犯人の人物像をストレートに論ずるわけにいかないため,妙に遠まわし,あるいはありきたりなことなど並べたて,結局ジャンルを特定の上ただほめる,ただけなす,のいずれかになってしまう。
 そこで,最近,あるいは過去に読んだミステリについて,ノドに刺さった小骨というか,気になったところだけ取り上げてみることにした。重箱の隅つつき,ありていにいえばあら捜しである。


 「この短編集をまとめるにあたり,どの短編をタイトルにするか迷ったすえ,装幀のためにこのタイトルに決めた。私がある日古本屋で一目ぼれした東京創元社の三十年前のペーパーバック,バリンジャーの『歯と爪』。是非これと同じ意匠で作りたいと思ったからである。」

 上記は本格ミステリ短編集として評価の高い,恩田陸『象と耳鳴り』のあとがきの一節だ。
 バリンジャー『歯と爪』の装幀の関係者(装幀当人は物故)には了解を取っているのだから読み手がどうこう言うべきではないのかもしれないが,本の作り手のセリフとしては少し神経を疑う。
 「意匠」には「デザイン」のほかに「工夫」「趣向」といった意味がある。本の意匠を「同じ」にしたいということは,オリジナルであることを放棄することだ。ただ先人の工夫,趣向を模する,そういうことでもある。

 恩田陸という作家は,作品名についても似た例がある。
 2・26事件を題材としたSF長編『ねじの回転−February moment』,このタイトルの「ねじの回転」は言うまでもなくヘンリー・ジェイムズの著名なゴシックホラー,「February moment」はハービー・ハンコックのCDからもってきたものだそうだ。作中に必然性があるわけでもなさそうで,ひねりもなくそのままと思うとなにかひるむものがある。

 この作者の意識の中で,意匠とかオリジナリティとかはどういう具合になっているのだろうか。
 ファンタジーやホラーのストーリーテリングの力量で知られ,『六番目の小夜子』『麦の海に沈む果実』など誰もがうらやむようなタイトルを産んだ作家だけに,ことこの意匠やタイトルについての一種の意識の弛緩はなんというか妙に空恐ろしい。

先頭 表紙

2006-04-14 新入社員推奨銘柄 『コンシェルジュ』(現在5巻まで) 原作:いしぜきひでゆき,漫画:藤栄道彦 / 新潮社BUNCH COMICS


【でも 人はすぐ その あたり前のことを 忘れてしまうんです】

 就職氷河期を乗り越え,なんとかクインシーホテル トーキョーに採用された川口涼子。ところが彼女が配属された部署は,聞いたこともない「コンシェルジュ」。こんしぇるじゅ?

     ... concierge 〈仏〉 ホテルの総合世話係,よろず相談承り係 ...

 廊下の隅のコンシェルジュデスクで彼女が出会ったのは,髪ぼさぼさの一見さえない,だが実はニューヨークの一流ホテルで「グレイト・ハイ」と手腕をうたわれた伝説のコンシェルジュ,最上拝だった。

 ──と,ここまでで明らかなように,海外のホテルで手腕を評価されたスタッフが日本の新進ホテルで人知れず活躍するという設定は,石ノ森章太郎の『HOTEL』そっくり。しかし,洗練,安定感は別として,晩年の石ノ森特有の気取りや無意味な大ゴマの目立つ『HOTEL』に比べ,本『コンシェルジュ』のほうがずっと瑞々しく,読んでいて楽しい。

 顧客サービスのプロが経験や人脈をもとに宿泊客の無理難題を解決していく展開はどこからどこまで『HOTEL』そっくりなのだが,ホテル・プラトンのマネージャ東堂克生がゴージャスな個室からいつの間にか裏で手を回して大きなトラブルを解決してしまうのに比べ,クインシーホテルの最上はどうやらロッカーしかあてがわれておらず(それどころか合理化を進めるホテルオーナー兼社長の松岡俊一郎にさらに経費節減を要請される),お客様の要望にこつこつ足と記憶で応えようとするマメな苦労人である。
 また,東堂の過去について意味ありげな伏線ばかりでなかなか詳細を語ってくれない石ノ森に対し,『コンシェルジュ』では最上がなぜ将来を嘱望されていたニューヨークを離れたのか,2巻できっちり説明してくれる。それは,アイデアものの読み切りマンガとしてほのぼの楽しく読み進んだお気楽読者にはかなり衝撃的な内容で,うかつに電車の中などで読んでいると目頭が熱くなってうろたえるはめに陥るかもしれない(私はそうでした)。

 最上と涼子をとりまく周囲の人々もなかなか魅力的だ。とくに,ホテルに出入りする若手女優,藤原貴梨花がいい。コンシェルジュデスクに四六時中入りびたり,ともにトラブル解決に立ち向かう貴梨花は公私混同はなはだしく,実際のホテル従業員マニュアル的にはNGだろうが,そのとっぴんしゃんでパキパキした言動はマンガ全般を振り返ってもちょっと思い当たる「類似品」がない。
 また,3巻から参加する底なしに有能だが杓子定規な鬼塚小姫,怪力ポーター・司馬一道など,脇役も一種徹底的,それぞれの持ち味を活かした見事な展開が多い。

 絵柄が一風変わっており(女性の脚の描き方など独特),また3巻あたりから絵柄が微妙に変化してしまった(涼子の目がまん丸になった)のは気になるが,描線はすっきりしているので読みづらいということはないだろう。
 お説教くさいことを書くなら,新しく社会人になられた方にはとくにお奨めだ。経費と顧客サービスについてのオーナーの松岡と最上の議論など,利益追求をレゾンデートルとするあらゆる企業の永遠の命題だ。
(安易に最上の神がかり的な手腕のみ賛美せず,随所に相反する考え方を提示しているのがいい。オーナーの松岡は連載開始当初は単にイヤミなキャラだったが,意外や経営意識が高く,合理主義に基づく細かい施策もそれなりに筋が通っている。最上以上にバードビューからホテル経営を考える面もあり,この種のキャラクターとして稀有と言ってよい。)

 少し心配なのはコミックバンチという雑誌がわりあい掲載作品に対して淡白で,ふと気がつくと連載が終了していることも少なくないことだ。
 ダレる前に締めてしまうのも一つの判断だが,この作品はあいまいに終わらせてしまうのは惜しい。
 とりあえず単行本5冊,春の宵にほどよい長さ。今夜も枕元にどさりと積んで再読。

先頭 表紙

2006-04-12 なんだかよくわからない 『飛蝗の農場』 ジェレミー・ドロンフィールド,越前敏弥 訳 / 創元推理文庫


【いまは何をしていても,猥雑で,生々しくて,力強くて,満ち足りた気分なの。】

 日ごろしたり顔で本を褒めたり貶したりしていますが,力及ばずさっぱりわからない本も山のようにあります。そんなときは黙って知らんぷりしていることが多いのですが,たまには取り上げてみることにしましょう。

 ジェレミー・ドロンフィールド『飛蝗(バッタ)の農場』は,「このミステリーがすごい!」2003年版海外編ベスト10の第1位,はたまた「IN★POCKET」文庫翻訳ミステリーベスト10 総合部門/作家部門/評論家・翻訳家部門のそれぞれ第1位,おまけに「週刊文春」2002年傑作ミステリーベスト10 海外部門第3位……等々めでたかしこくも高い評価を得た海外ミステリです。
 経験則からすると,「このミス」第1位作品ともなれば,好みはともかくなるほどこれはすごいと感心させられるのが常。こんな手があったかここまでやるかと,読了して損した気分になることはめったにありません。

 ……ところが。『飛蝗の農場』は,硬く分厚いゴムを噛むようで,最初から最後までどうにもなんともよくわかりませんでした。

 あらすじは,出版社側の惹句にお任せすると,以下のようなものです。

 「ヨークシャーの荒れ野で農場をいとなむキャロルの前に謎めいた男が現れた。
  一夜の宿を請われ断るの段を経て,不幸な経緯から,ショットガンで男に傷を
  負わせたキャロル。
  看護の心得のある彼女は応急処置をほどこしたが,意識を取り戻した男は,
  以前のことを何も覚えていないと言う。
  幻惑的な冒頭から忘れがたい結末まで,悪夢と戦慄が読者を震撼させる。
  驚嘆のデビュー長編。」

 そもそもの「幻惑的な冒頭」という持ち上げからして納得いきません。ねっとり暑っ苦しい印象はあれど,およそ「幻惑的」とは読めませんでした。
 ストーリー半ばでキャロルの農場とはまったく縁もゆかりもない情景がちぐはぐに挿入されますが,それらがこの「謎めいた男」の過去と関係するのは当然として,その情景と現在が結ばれるタネあかしにいたる終盤,ちっともすっきりしません。
 また,ネット上でも是非が話題にされたエンディングも,無理やり接ぎ木した印象が残るばかりです。
 そもそも,ストーリーが複雑なのは,単に作者が情報を隠匿したり,描写の順番をばらけさせたりしたためなのですから,解説に「異常心理というテーマの奥深さ」とあるほどの奥行きは感じられません。シンプルにすっきり描いて,それでも読み手が呆然とする,とかいうのが正しいあり方なんじゃないでしょうか。

 結局,最大のミステリはこの作品を一等賞に推した「このミス」や「IN★POCKET」の選評だったかも。
 それともこの年はよっぽど受賞にふさわしい作品が少なかったのでしょうか。

 ちなみにヨークシャーの荒れ野といえば『嵐が丘』の舞台だと思いますが,『飛蝗の農場』の空気はどちらかといえばアメリカ南西部の粗野で広漠とした荒野のもの。「悪夢と戦慄」より「孤独と欲望」,エミリー・ブロンテよりテネシー・ウィリアムズの印象です。
 そもそも『飛蝗の農場』というタイトルからして,よくわかりません。バッタは出てくるには出てくるのですが,その意味は最後までわかりません。この設定で……キャロルのほうが謎めいてどうする!

先頭 表紙


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