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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2004-10-21 『岡山女』 岩井志麻子 / 角川ホラー文庫
2004-10-19 果実のような潤い 『停電の夜に』 ジュンパ・ラヒリ,小山高義 訳 / 新潮文庫
2004-10-16 最近読んだ本 『ホムンクルス(3)』『御宿かわせみ二十九 初春弁才船』
2004-10-11 ある愛の 『うずまき』(全3巻) 伊藤潤二 / スピリッツ怪奇コミックス
2004-10-04 最近読んだ本 『エマージング(1)』『エロイカより愛をこめて(30)』
2004-09-25 砂漠に咲く花一輪,また一輪 『スマッシュをきめろ!』 志賀公江 / 双葉文庫
2004-09-24 いずれがペットか飼い主か 『しゃばけ』 畠中 恵 / 新潮文庫
2004-09-20 最近読んだ本 『フン!』『短篇ベストコレクション 現代の小説2004』
2004-09-15 最近読んだ本 『薬師寺涼子の怪奇事件簿〈1〉魔天楼』『まんがサイエンスIX からだ再発見』『そーなんだ!』
2004-09-06 がんばれと言うは誰,がんばるは誰 『がんばれ元気』 小山ゆう / 小学館文庫


2004-10-21 『岡山女』 岩井志麻子 / 角川ホラー文庫


【雨が降ると傷が痛むか,嫌な客がくる。】

 ジュンパ・ラヒリに続いて岩井志麻子を持ち出したのは,果たしてどのような意図が? ……と期待された方には申し訳ない,とくに深い意味はありません。2冊とも,しばらく本棚で眠っていたのを最近ようやく読むことができた,といった程度の縁なのですね。

 『岡山女』は『ぼっけえ、きょうてえ』で独特かつ新しいホラーの世界を開いた(というのが決して世辞追従ではない)岩井志麻子による,やはり明治期の岡山を舞台にしたホラー短篇集。

 妾として囲われていた男に無理心中をはかられ,日本刀で切り付けられたタミエ。彼女は左目と美しい容貌の代償として,失われた左目に明日起こる事柄やとうに死んだ者の姿を見るようになる。霊媒師として生計をたてるようになった彼女の元には,今日もいわくありげな依頼客が……。

(今気がついたのですが,左目に異形のものが見えるという設定,これは『ホムンクルス』と並べて評すべき作品でしたね。あとの祭り寿司…。)

 さて,この設定なら,いくらでも怖い話,気持ち悪い話をこしらえることができたはずだ。
 だが,本作は『ぼっけえ、きょうてえ』と比較してもホラーとしてはほの白い印象で,死者や超常現象を描きつつ,恐ろしさを伝えるばかりではない。読了後に胸を通り過ぎたのは思いがけず透明な清涼感だった。

 決してストーリーが爽やかというのではない。岡山の町の描写はじめじめしているか埃っぽいかのどちらかだし,血や狂気や凶々しい影といったホラーならではの描写もそこかしこに用意されている。早い話,いずれも決して綺麗な話ではない。しかし,主人公タミエの言動,いや存在そのものが,淡々と,上品,可憐に感じられてならないのである。タミエは事件の最後にときどき笑うのだが,それが清潔な銅の風鈴のよう,とでもいえば近いだろうか。

 だが,ぱらぱらと読み返しても,どのあたりがその印象の根拠なのか,今ひとつよくわからない。金銭や世評への欲がないといった簡単な話ではないだろう。半分霊界に足を踏み入れたため,現世での執着とは次元の違う世界に生きているためか。いや,それだけではタミエのふくよかな穏やかさの説明にならない。

 とにもかくにも……そう目覚ましい内容と思えない短篇集なのに妙に贅沢な印象,ホラーとしての衝撃は『ぼっけえ、きょうてえ』のほうが格段に上だが,本書のほうが好もしい。

 『岡山女』という没義道なタイトルのつけ方といい,岩井志麻子はレッテルを貼りにくい作家だ。レッテルだらけで地肌が見えないとでもいうか。
 作品によって当たりハズレはあるが,およそオリジナリティを志向する作品は本来そのようであるべきだし,今後ともそのようにあってほしい,そんな作家の一人である。

先頭 表紙

2004-10-19 果実のような潤い 『停電の夜に』 ジュンパ・ラヒリ,小山高義 訳 / 新潮文庫


【ひと月もすると,すっかり回復したビビは,ハルダーが置きみやげにした金で物置を白壁に塗り,窓やドアに南京錠をつけた。】

 ピュリツァー賞文学部門,O・ヘンリー賞,PEN/ヘミングウェイ賞,ニューヨーカー新人賞など著名な文学賞を総なめ……なんていうと,何やら大上段にふりかざした,大仰な作品をイメージしてしまうが,決してそのような作品ではない。

 作者は1967年ロンドン生まれ,幼少時に渡米。両親ともカルカッタ出身のベンガル人で,このデビュー短編集も「アメリカで働くインド系移民」「インドを訪れたアメリカ人」といった異文化の出会いを……いや,これもまた肩肘張った本のように思われそうだが,そういったものではない。インド,アメリカという国の違い,風俗習慣の違いは確かに各短編の外枠とはなっている。なってはいるのだが,その枠組みの中に精緻に描かれているものは静かに哀しい,しかしどこか誇り高い,果汁をたっぷり含んだ果実のような人々の日々の営みである。

 たとえば表題作「停電の夜に」。
 初めての子供の流産をきっかけに,少しずつ心が離れつつある若い夫婦が,毎夜1時間の停電を機会に隠し事を打ち明け合うようになる。ロウソクの灯りの下,交互に「相手を,または自分自身を,傷つけたり裏切ったりしたようなちょっとしたことを白状」するのである。ささやかな互いの秘め事めくりが1晩,2晩と続き,そして最後の夜。……
 その結末には思わず声を上げてしまった。それから,パラパラと最初からページを読み返し,今度は小さくため息がもれた。予想は,覆される。だが,予想できなくはなかったはずの2人の心の流れ。そこにいたるまでは1行も無駄がない。どの1行にも意味がある。
 文庫にして30ページあまり,掌編と呼んでもよいような短い作品に,久しぶりに「小説」という言葉の手応えが感じられた。

 ほかの作品も,食事や家具といった生活のエレメントを細かく描き入れつつ,いずれもささやかだが確かな人の心のありようが示される。
 どうしようもないほどに哀しい結末に,声高に嘆くのではなくしんっと水底に結晶が沈むような気持ちにさせられる。思いがけないハッピーエンドに,胸の奥に小さな青い火がともる。
 9つの短編を読み終わったとき,この星を,高みから,そして時間を越えて静かに見つめる視線を感じる。切ないばかりの欠落感と,ゆっくりと溢れる満足感。この星のすべての人々,すべての心,すべての夜,すべての朝。

 ところで──。
 作者のジュンパ・ラヒリは,新潮文庫のカバー写真を見た限り,とんでもない美人である。
 通常,誰かが誰かを「美人」と呼ぶ際には,好みによって評価が違ったり,嫌味がこもったりするものだが,これが絶対的な領域に近い美人なのだ。たおやかなアングル,さやかに見つめる目,白い歯。そのくせ華美に走らず,穏やかで貞淑な妻のようでもある。カメラマンの腕がいいのだろうか,久しぶりに「ブロマイド」という言葉を思い出したりした。定期入れに写真を入れて持ち歩く,とか。

先頭 表紙

2004-10-16 最近読んだ本 『ホムンクルス(3)』『御宿かわせみ二十九 初春弁才船』


『ホムンクルス(3)』 山本英夫 / 小学館ビッグコミックス

 こちらはそのスピリッツで現在掲載中,異様なイメージと緊迫感を誌面いっぱいに展開させる『ホムンクルス』の第3巻である。

 今回は,本作における「ホムンクルス」という言葉の意味がいよいよ明らかになる。
 それは従来の「人造人間」という意味ではなく,脳科学でいうところの「脳の中の小人」のことで……と説明されるとともに作品世界にざあっと光が当たる,かといえばさにあらず,必ずしもそうとは限らない。
 むしろ,自在なイメージが理屈の枷を受けた印象。早い話,興醒めなのよ。

 頭蓋骨に穴をあける(歯が浮くようで気色悪い……)トレパネーションの手術を受けた名越の左目に期せずして見えるようになった,怪物のような人々。「ロボットの中におさまって泣いている少年」に見えるヤクザの組長や,太っているくせに厚さが2cmくらいしかないペラペラなサラリーマン。なめらかな金属でできた球体の小さな穴から相手をうかがうホームレスや,体が6つに分かれて腰の部分をウィンウィンと回転させるオシャレな女。
 彼らの姿が鮮やかであればあるほど,なぜそう見えるか理屈で説明されてしまうとなんとなくつまらなくなってしまうのだ。

 第3巻で注目したいのは,それら化け物の姿態や謎解きより,むしろ,名越と伊藤の対話シーンのほうだ。
 ホテルのレストランや喫茶店で向かい合う,彼らのかもし出すダルな雰囲気とそれに相反する密度の高い緊張感。喋る,相手を覗き込む,笑ってみせる,目をそらす,首を傾げる,そういったごくありきたりな表情ひとつひとつが異様に濃いのだ。名越,伊藤の顔のほんのちょっとした描き込みが,意識的,あるいは無意識の欺きや秘匿,不信といったものを見事に表象している。
 個々のコマはただその対話を忠実に描写するばかりで,彼らが実際のところどう感じ,どう考えたかはほとんど説明されない。したがって,彼らの互いの信頼感や疑念,関心/無関心が,1コマ1コマで常に揺れるのだ。

 『ホムルンクス』は,この対話シーンだけをもってしても,マンガ史に残したいと思う。その独自性,緊張感は,それほどのものだ。

『御宿かわせみ二十九 初春弁才船』 平岩弓枝 / 文春文庫

 文芸誌や単行本でなく文庫での付き合いだが,『御宿かわせみ』はたいがい発売日に購入,その日のうちに読んでしまう。ありていにいえばファンである。
 ただ,今回はどうもうまく作品世界,大川端に旅籠「かわせみ」のある江戸末期に入り込めなかった。
 原因はこちら側にある。

 ここしばらく海外ミステリの分厚いのを何冊か続けて読んでおり,その錆臭い空気,その饒舌な文体が脳裡にへばりついて,マンガの3冊4冊読んだ程度では振り落とせなかったため,新酒を江戸に運ぶ樽廻船をめぐる人情話や,嫁姑のいさかいに端を発する丑の刻まいり,といった話にゆったりとは入っていけなかったのだ。

 ただ,読んでいる間は気がつかなかったが,今回はわりあい殺伐とした,救いのない事件が少なくない。もう少し穏やかな本を続けて読んだあとだったならまた別の,いや,かなり違う印象をもったに違いない。

 それにしても。

> 東吾や源三郎が,この小判商人という闇の組織を相手に正面から戦を挑むことになるのは,まだ少々先の話である。

 昭和48年(1973年)2月号の「小説サンデー毎日」の第1話から30年以上かけての225作め,単行本にして29冊めで,こんな大ネタ振るか。
 平岩弓枝,昭和7年(1932年)3月15日生まれ,今年で71歳。元気。意気軒昂。

先頭 表紙

2004-10-11 ある愛の 『うずまき』(全3巻) 伊藤潤二 / スピリッツ怪奇コミックス


【…私も,もう力は残ってないわ… あなたとここに残る…】

 いつのことだったろう,毎週欠かさず購入していたビッグコミックスピリッツを読まなくなったのは。
 絵柄もストーリーも白っぽく思えて,ヘンな言い方だがある日ふと「もしや読まなくてもツラくないかも」という気になって,ひとたび離れてみると見事にツラくないものだからついついそのままになってしまった。

 1998年から1999年にかけてスピリッツに連載された『うずまき』は,だから,掲載されているのは知っていたのだが,通して読んではいなかった。

 小奇麗でわけ知り顔なスピリッツにずちゃずちゃぬたぬたの伊藤潤二……それはどうにも若干無理のある取り合わせで,あの森山塔が山本直樹になってしまったように,伊藤潤二が伊藤潤二ではなくなってしまうかも,などと考えたことを覚えている。

 『うずまき』は,主人公の五島桐絵の住む町で「うずまき」にからまる怪しい事件が次から次へと起こり,やがて町は……というストーリー。まるでスティーブン・キングだが,ことスケールの大きさや破壊の徹底度合に限っては,常に人間の身の丈(コモンセンス)をルールの核と課すキングの比ではない。

 兎に角,ホラーの素材として「うずまき」を選んだ着眼点が素晴らしい。
 「うずまき」という一種抽象的な現象が,内から外から黒渦町の人々を襲うのだが,あるときはぬらぬら陰湿腐乱,あるときは爽快なまでにスピーディかつダイナミックな個々のアイデアがまたいい。
 本作中で最もホラーらしい「びっくり箱」は桐絵を追ってくる死体を「うずまき」に結び付けたオチが秀逸だし,2巻の最終話で桐絵を見初めてどこまでも追ってくる「うずまき」……ネタバレになるので詳細は書けないが,この「うずまき」を持ち出してきた発想がすごい。そのほか,大中小小,グロテスクな「うずまき」が全編にナルト巻きである。

 ただ……アイデアに走ったあまり,各編のバランスは必ずしもよくないし,ホラー作品としての恐怖を首までねっとり味わいたい向きにはお奨めしかねる面もある。じわじわ怖くなって夜トイレに一人で行けなくなる,そういう作品ではないのだ。
 而して,伊藤作品にしては珍しく,ヒロイン桐絵は最後まで正気を失いもせず,被虐のなかにも美麗さを失わない。否,髪を切られてからの彼女は近来まれなほどに清純可憐,そんな彼女を描きたくてと見えるカットも少なくない。もっとも,その桐絵にして,「禍々しい」「狂ってる」と繰り返すばかりの斎藤秀一少年を選んだ時点ですでに──つまり最初から──壊れていたのかもしれないが(だからこそ耐えられた,という見方もできる)。
 そして,フランシス・レイ(古いぞ)が似合いそうな,妙に感動的なエンディング。


 ところで。異質なもの同士の無意識かつ偶然の出会いを礼賛し,『黒いユーモア選集』を編んだシュルレアリスムの首魁(ドン),アンドレ・ブルトン。もしも彼が存命で,終夜営業のマンガ喫茶あたりで『うずまき』を手にする機会を得たなら,はたしてどう評したか……想像するだに体がネジくねる。
 たとえば,

 「うずまきとは痙攣的なものだろう,さもなくば存在しないだろう。」

 わはははは。うずまき,うずまき。

先頭 表紙

あややさま,カラスのヤンジャン歴は友人の編集者が少年ジャンプに異動したことで途絶え,ジャンプ歴は『幽遊白書』,『スラムダンク』,『ドラゴンボール』の連載終了(順番忘れた)とともに終わったのでありました(全盛期に比べればもうかなり飽きていたんですけどね)。 / 烏丸 ( 2004-10-17 02:10 )
私のスピ歴(結婚生活とともに10年間のスピ人生を、烏丸さまと同じ理由で終了)のなかで異色を放っている本作、よく代弁してくださいました!というレビューでございました。(レビューに同感、でおわり、なんて、そんな感想ありなんだろうか・・) / あやや ( 2004-10-14 23:32 )
な,なんですと。Amazoneにも紀伊国屋BookWebにもないのに,ファンサイトには話題が。うう。明日は会社休んで神田をさまようことになるんでしょか。 / 烏丸 ( 2004-10-14 02:13 )
全然関係ないですけど、烏丸さま、青池保子さんの「ブラックジャック」はもうお読みになりまして? / けろりん ( 2004-10-14 01:16 )

2004-10-04 最近読んだ本 『エマージング(1)』『エロイカより愛をこめて(30)』


『エマージング(1)』 外薗昌也 / 講談社モーニングKC

 このところ『ブラックジャックによろしく』(佐藤秀峰),『Ns'(ナース)あおい』(こしのりょう),『スピナス』(清水みよこ,楠木あると),『ES』(総領冬実),『サイコドクター 楷恭介』(亜樹直,オオモト・シュウ)と,すっかり医療,治療機関づいているモーニング。白衣だらけである。
 そこに,さらに加えてこの『エマージング』。

 本作はモーニング32号で連載開始,9月22日発行の単行本第1巻には42号までの掲載分が収録されている。
 破天荒なことだ。

 9月22日木曜日にはモーニングの43号が発売され,『エマージング』の連載第11回が掲載されている。つまり,単行本の発行が連載に追いついているのだ。出版のデジタル化,オンライン化が進んでいる中でも,かなりの荒業といっていいだろう。

 『エマージング』では,ストーリーもまた,時間との闘いである。
 新宿の交差点で,あるサラリーマンが目,鼻,口,耳から大量の血を吐き,のたうち回って死ぬ。病院に運ばれた死体は,まるで死後3日は経過しているかのごとく眼球が溶けくずれ,全身がプリンのようにとろけて下部にたるみ,壊死による腐敗臭を撒き散らかす。エボラに似たこの出血熱のウイルスは,過去に存在したどのウイルスにも該当しない。それはつまり,これが日本初のエマージング(新興)ウイルスであることを示していた……。

 なにしろ,連載4ページめに登場する女子高生,本作のヒロインと思われるこの可憐な少女が単行本の後半にはもうふくれあがって足をばたつかせながら口から血を吹き上げる。最初のサラリーマンの死の場面に居合わせた人々の大半が発病するという,エボラ以上に強力なウイルスと向き合わざるを得ない医療,行政,研究機関……ストーリーの先はまったく読めない。

 だが,このエマージングウイルスの猛烈な感染速度の一方で,本書は奇妙にのんびりした雰囲気も漂わせる。

 リチャード・プレストンの『ホット・ゾーン』等でBL4(バイオセーフティレベル4)機関の厳重な上にも厳重な管理にすくみ上がった者としては,症状の進んだ患者に対しマスク1枚で治療にあたる医師,その医師たちが病院内を闊歩したり,普通の交通機関でマンションを行き来したりする,その呑気さがかえって異様だ。出血熱の患者の血に触れたかもしれない手を,水道で洗うってのはありなのか。
 日本にはエボラ級のウイルスに対処できる設備,ノウハウがないからといえばそれまでなのだが……。

 本書のエマージングウイルスは,連載現時点では,治療法はもちろん,感染経路も,潜伏期間も,何ひとつわかっていない。しかし,患者はすでに100人を超え,マスコミもその存在に気がついた。
 タダではすまない。注目である。

『エロイカより愛をこめて(30)』 青池保子 / 秋田書店プリンセスコミックス

 「まだ,続いていたの?」という妙齢の女性も少なくないかもしれない。

 かつては熱狂したり,爆笑したり,とファンを自認しながら,そのうち,いくたびかの作風の変遷,あるいは生活の変化とともに,少しずつ離れていった読み手の方々。かくいう筆者も,新刊を見かけるたびに購入してこそいるが,熱心な読者とは言いがたい。

 だが,今回の第30巻は,かつて本シリーズが大好きだったという方にはぜひとも手にとってほしい。
 あの『Z −ツェット−』の最終話,「Z・VI(ツェット ゼクス) −ファイナル・ストーリー−」が掲載されているのだから。

 エーベルバッハ少佐の部下,Z(ツェット)を主人公とするこのシリーズは,1979年の夏に白泉社の「LaLa」で開始され,1983年の第5作までが何度か単行本化されている。そして1999年,突然第6作が白泉社「メロディ」に掲載されたという,短編ながら息の長い作品である。

 なぜ『Z −ツェット−』は16年ぶりに描かれたのか,また(Zが死ぬわけでもないのに)なぜ最終回なのか。その理由は作者青池保子の1ページ分のコメントに簡潔に記されている。お奨めしたいのは,作品そのものより,そのコメントのほうかもしれない。短いながら「戦後」「昭和」を引きずった者にはじわっとくるものがあるテキストなのである。

 馬鹿馬鹿しくも華麗に展開するエロイカと少佐,ミーシャやジェイムズ君たちの活躍の背景に,いつの間にか25年以上の月日が経ったことに愕然とする。作者のプロ意識と,プロでありながら(もしくはプロだからこそ)登場人物を愛する気持ちがうかがえて……そう,途方に暮れるのだ。

先頭 表紙

2004-09-25 砂漠に咲く花一輪,また一輪 『スマッシュをきめろ!』 志賀公江 / 双葉文庫


【わたしはあの人を ゆるすつもりはないわ いま失格されてはこまるのよ……】

 テニスマンガは数あれど,読み手として一番「動揺」した作品はこれだったかもしれない。はらはらして,目の前が赤く揺れるような読み応えだった。
 同じ週刊マーガレット掲載だが,かの『エースをねらえ!』(1973〜)よりさらに昔(1969〜)の作品である。
 最近,ブックオフで双葉文庫版をみかけて購入。通しで読むのは何十年ぶりか。

 感動的だが抹香臭い『エース』に比べ,『スマッシュ』は荒々しいまでにむき出しの憎悪,敵意が魅力だ。

 本作は,天才テニスプレイヤー東城博之の2人の娘,槙さおりと東城真琴が,戦いつつ互いを高めあっていく物語なのだが,とくに連載開始当初の真琴の苛烈さは素晴らしい。木立を相手の訓練,Vカット,ローリングスマッシュといったエキセントリックな魔球も冴え,テニスマンガの歴史で,これほど攻撃的な作品はちょっと記憶にない。
 亡くなった父親をめぐる確執からバリバリとんがるボーイッシュな真琴はともかく,お嬢さん然とした姉のさおりがときおりみせる攻撃性がまた美しい。真琴が正面から点で刺すなら,さおりは面で覆うように攻める。当時の作者の内面にあふれていた何かが折りにふれ登場人物を通してほとばしる,そんな感じだ。

 絵柄やストーリー面で『エース』に比べて評価が低いのはしかたないとは思うが,一点,『エース』には欠落した大切なことを『スマッシュ』は教えてくれる。

 『エース』は得がたい師,先輩,恋人,さらにはライバルのプレイヤーたちとの出会いや別れの中で主人公の岡ひろみが成長していくという物語だった。それはよくも悪しくも誰かに「依存」することであり,岡ひろみの物語は「依存」のバランスのダイヤグラムだったといえる。
 一方,『スマッシュ』は,人間関係に起因する情念を次々に否定していく。恨み,欺き,嫉妬,罠……本作にはさまざまな憎悪や策謀がうずまくのだが,それらにこだわっている間は誰も勝つことができない。テニスプレイヤーとして輝くためには,それらすべての連鎖を超えなければならないのだ(それが難しいからこそ,さおりも真琴も意外と試合では勝っていない)。

 さまざまな諍いの果て,連載当初には呪縛のように姉妹を縛りつけていた父の存在も遺書にも等しい手紙を破り捨てるという明確な行為で振り捨てられてしまう。いつしかただ対戦する相手と互いをみなし,距離を保ちつつ信頼し合う。連載終わりごろのさおりと真琴の関係は驚くほどに澄んで美しい。連載当時はこの美しさにまるで気がつかなかった。『エース』の登場人物たちが脇役含めて総体で花盛りの森をなすなら,『スマッシュ』の姉妹は一人一人で咲く砂漠の花を選んだのだ。

 『スマッシュをきめろ!』の双葉文庫版はすでに品切れだが,実は100円ショップダイソーで手に入る(全5巻)。発表された時代が時代だけに,絵は荒削り,テニスのフォームは笑っちゃうほどとんでもない。それでも,スポーツマンガ黎明期の鮮やかな挑戦として,本作は忘れがたい。

 ……それにしても。思えば,『スマッシュ』も『エース』も,ウィンブルドンのセンターコートはおろか,ジュニアの部に「参戦」するのがせいいっぱいだった。マンガの世界での日本人によるウィンブルドン優勝は,塀内真人(夏子)の『フィフティーン・ラブ』が最初だと思うが(それ以前にいたらごめん),さて,現実のプレイヤーがセンターコートでガッツポーズを決めるのはいつのことだろう。……どうでもいいですね。

先頭 表紙

新撰組については……山並って,にこやかな顔してとんでもないと思う。ああいう奴がああいう切腹しちゃうと,組織は遊びのないハンドルになってしまうのでは。 / 烏丸 ( 2004-10-14 02:16 )
銀英伝ってメジャーなのですねφ(.. )。ああいう文章って実は烏様の好みとみましたがどうでしょう? (「てきのこうはい」ってアニメで見たとき、どんな字面か思い浮かびませんでしたわん)(‥ ) / Hikaru ( 2004-10-11 23:31 )
おお。新撰組とは渋い。 私は最近になってようやく登場人物を覚えましたが、近藤勇がどうしても忍者ハットリ君に見えて困ります。(‥;) / Hikaru ( 2004-10-11 23:28 )
うちの子カラスたちも,ホグワースの魔法とか,新撰組の役者名とその命運とか,ドカベンの登場人物の所属チームとか,そういったことには異常なばかりの集中力を示します。最近は,こちらが質問に答えられないと,「なあんだ」という顔をされてしまう……。 / 烏丸 ( 2004-10-06 14:22 )
いやー,手の内を明かすと,コアなファンがたくさんいるメジャーものって扱いにくいです。マイナーなもの(無名なもの,忘れられたもの)をピックアップして持ち上げる,もしくはメジャーなものをなんらかの視点から批判する,この2つはわりと想定できます。でも,銀英伝は,ひねれるほど読み込めてないし,ありきたりにほめてもしょうがないし。 / 烏丸 ( 2004-10-05 20:33 )
プラネテスばようやく4巻まで揃えました。アニメの方は一応終わってる見たいですが、こっちはまだ続くんですよね?レティクル座人、よいですね〜。あれ、日本からは見えませんけど。にしても、1巻と4巻でサイボーグ009の初期と後期に負けないほどの絵柄の変化があって、なんともたまりまへん。 / Hikaru ( 2004-10-05 13:35 )
おおっ?! 烏様の手におえない領域とは、なんだか意外なお言葉でする。銀英伝はうちの中学生(そう、あの顔でもう中学生...)がハマりこんでて、登場人物とか会戦の時期とかよく知ってます。その記憶力をほかに生かして欲しひ... / Hikaru ( 2004-10-05 13:31 )
『プラネテス』は考えないでもないですが……。『銀英伝』はちょっと手におえない領域……。 / 烏丸 ( 2004-10-04 03:12 )
全然関係ないけど、今ハマっているのが、「プラネテス」と「銀河英雄伝説」なのですが、どちらかレビューしてみたりなんぞする気はありませんでしょうか?(‥)/ / Hikaru ( 2004-09-30 12:01 )
サガンに続いて森村桂が死去。今年は中堅の作家がよく亡くなるような気がするが,気のせいかしらん。 / 烏丸 ( 2004-09-27 20:16 )
『スマッシュをきめろ!』の連載時期をWebで調べていたら,その第1回の掲載された週刊マーガレット1969年33号には鈴原研一郎「ああ 広島に花さけど」(前編)が掲載とありました。原爆二世の少女を描いたこの作品には泣いた記憶があります。35年前の夏の日,僕は間違いなくこの号を読んでいたのでした。 / 烏丸 ( 2004-09-25 03:26 )

2004-09-24 いずれがペットか飼い主か 『しゃばけ』 畠中 恵 / 新潮文庫


【仁吉も佐助も一見,屏風のぞきを怒っているようで,実は一太郎のことを器用に責めている】

 日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作,また江戸人情&妖怪推理譚の人気シリーズの第1作とのことで,楽しみにしていたのだが……残念ながらなんとなく釈然としない読後感だった。

 主人公の「若だんな」一太郎は,江戸有数の廻船問屋,長崎屋の一粒種。彼の周辺は,手代の佐助,仁吉(実は犬神,白沢という妖怪)をはじめ,屏風のぞき,鳴家,鈴彦姫など,なぜか妖怪だらけ。そんなある夜,こっそり家を抜け出した一太郎は人殺しを目撃してしまう……。
 というお話はそれなりに面白いが,どうも上滑りして今ひとつ浸りきることができない。展開の詰めが随所に甘いのである。

 たとえば。
 病弱な一太郎のお目付け役たる犬神,白沢は,「そこいらへんの妖怪なぞ相手にならないほどの大物」として描かれて……いるようで,いくたびかの実戦にはなんの役にも立たない。揃いも揃って駆け出しの妖怪にたあいなくひねられてしまう。

 あるいは。
 一太郎は再三再四,「妖(あやかし)と人とは五感がずれているのか,どうもときどき会話が噛み合わない」といった独白をもらすが,妖怪が身近にいればそれと見破り,「妖の言葉は今日は効き目が薄いが,普段なら子守唄代わり」な一太郎の感性観念は妖怪の側にあるはずである。ならば,人間側の会話にだって同様にずれを感じるべきではないか。だいたい彼が「相変わらず妖との話は,どうにもずれる」と強調するほどには,会話はずれていない。むしろ妖怪たちの言動のいちいちは,どうにも人間ふうなのである(上の【 】の引用部など,およそ「ずれ」た妖怪のなすこととは思えない)。

 もしくは。
 最初の事件は,被害者の大工の首が切り落とされるという猟奇的なものであり,なぜ下手人はわざわざ戻ってきて首を切り落とさねばならなかったかが事件の大きな謎の一つとされ,一太郎は何度も首をかしげてみせる。ところが,詳細は書けないが,その謎解きたるやおやおやと首をかしげたくなるようなアバウトなものにすぎない。

 そもそも。
 題名の「しゃばけ」とは「娑婆気」と書き,「俗世間の名誉や俗念を離れない心。しゃばっけ」(広辞苑)のことなのだが……。本作はとくにそういうアングルの話ではない。そういう人物や妖怪を描いたものでもない。妖怪譚だけに「おばけ」に掛けているのかと考えてもみるが,それでつじつまが合うわけでもなさそうだ。

 とどのつまり,要は,どうも全体にヌルいのである。

 作者にはすでにこのシリーズに続編が2作ある。設定や口あたりは悪くないだけに,読むべきか読まざるべきか,うーん迷う。

先頭 表紙

2004-09-20 最近読んだ本 『フン!』『短篇ベストコレクション 現代の小説2004』


『フン!』 いしいひさいち / 徳間書店

 いしいひさいち描くところの山田家のポチ。彼は徹底的に乾いている。

 ハードボイルドと称されるミステリの探偵たちは,なぜか大概とんでもなくウェットだ。ヘンなたとえで申し訳ないが,湿気た岩オコシみたいな感じだ。彼らは過去にこだわり,小銭にこだわり,去った女の尻にこだわってめそめそじくじくと酒をなめてばかりいる。

 一方,ポチこそはハードボイルドである。ドライとかクールとかいう言葉では表しきれないほど,岩のように乾いている。

 かつて,このように乾いた人物が町中にもう少しはいた。
 周囲との人間関係や,金銭,男女関係など気にかけず,ただ砂を磨くように働いて日々をこなす。そのくせ,単に寡黙なのではなく,人のなすべきことについては一貫していて淀みがない。
 現在では「頑固親父」そのものが希少価値だし,たまの自称他称「頑固親父」はそうみなされることを目の隅で確認しては汲々としている……それは媚びへつらいの一様式に過ぎない。

 一億人がポチを見習うことはない。だが,一千万人くらいは,ポチのことを考えてもよいかもしれない。

『短篇ベストコレクション 現代の小説2004』 日本文藝家協会 編集 / 徳間文庫

 たまに,こういうアンソロジーを読む。
 たいていは,ヒマつぶし。

 収録作は,出版社の思惑はあるにしても,あまたの作品から選ばれるほどだからそう悪いものではない(はずである。実際,たまにはアタリがある)。好みの作家と出会う可能性だってある(かもしれない。実際にはなかなかそういうことはない)。

 本書は,浅田次郎や石田衣良,伊集院静,江国香織,岩井志麻子,川上弘美ら当節の売れっ子に野坂昭如,筒井康隆,泡坂妻夫を加えて,一作一作はなかなか面白く読めた。

 ……が,どうも違和感というか,読後感に乖離がある。

 あとになって,ふと思いあたった。
 それぞれの作品の文体が,どうもあまり短編らしくなく,短編集を読んだ気分になれなかったのだ。

 長編と短編の文体の違いというのは,それなりにあるに違いない。トルストイとポーの違い,などと括ってしまうとまじめに文体を研究している方に失礼千万だが,たとえばそういうことである。
 もちろん簡単な定義づけはできない。ポーの「アッシャー家の崩壊」のように,短編ゆえに比喩をこらして象徴主義的な文体となることもあるだろう。逆に,ヘミングウェイの「老人と海」のように,短編ゆえに表記を切り詰めてとことんクールな文体とする場合もあるだろう。
 思うに,結果としてデコラティブだろうがその逆だろうが,文体にこだわることそのものが短編の特質といえるのではないか。

 そう思って振り返ると,本書に取り上げられた作品の大半は,どうも長編向きの文体で書かれているように思われてならない。短編20作,600ページ近くが,すらりと読めてしまう。単に読みやすいということではなく,流れてしまった,(野坂を除いて)「文体」そのものにこだわりが感じられないのである。

 スムーズに読めることをよろしくないというつもりはもちろんない。しかし,長編と短編の楽しみは別だ。短編は,単に短い長編ではないはずなのだが……。

先頭 表紙

2004-09-15 最近読んだ本 『薬師寺涼子の怪奇事件簿〈1〉魔天楼』『まんがサイエンスIX からだ再発見』『そーなんだ!』


 久しぶりに読むより購入に走ってしまい,ここ二週間ばかりの間だけでも厚さにして五十センチメートル以上の本を買ってしまった(コミック除く)。それもやや重の長編が中心で,いったいいつになったら書棚が片付くのか途方に暮れている。
 そんなこんなで取り上げることの遅れた(さりとて素通りするのも惜しい)本や作品がたまってしまった。
 とりあえずざっとご紹介させていただこう。

『薬師寺涼子の怪奇事件簿〈1〉魔天楼』 原作 田中芳樹,漫画 垣野内成美 / 講談社マガジンZコミックス

 ドラキュラもよけて通る「ドラよけお涼」こと薬師寺涼子の事件簿がついにコミック化されたことは慧眼の皆様ならすでにご存知に違いない。しかも作画はノベルス版でイラストを担当したあの垣野内成美なのだからもはや何も言うことなし……と言いたいところだがやはりイラストと漫画は別モノであった。
 お涼さまがほぼ全見開きにわたって蜂起,もとい芳紀御二十七歳のオミアシをさらしてご活躍される展開に文句はないのだが,どうも動き過ぎるのである。
 思うにコビコビと表情を変えたり動き回ったりするのは小人のなすことである。女王様はもう少し傍若無人に道の真ん中を歩み,ただ取り巻きたちがその周りをおろおろという作画でもよかったのではないか。

 ちなみに,やや旧聞に属するが,作者インタビューや書き下ろし短編,描き下ろしコミックを収録した『女王陛下のえんま帳 薬師寺涼子の怪奇事件簿ハンドブック』(光文社)も発売中。『巴里・妖都変』や『東京ナイトメア』でお涼さま抜きの人生を想定できなくなったジャンキーにはコミックよりむしろお奨めだ。添付画像は迷った末に,こちら。

『まんがサイエンスIX からだ再発見』 あさりよしとお / 学習研究社(NORAコミックス)

 本「くるくる回転図書館」でも再三取り上げてきた『まんがサイエンス』もすでに9巻め。
 今回は長編仕立てではなく,
   寝る子は育つ?
   傷は体の工事現場
   暑い時には汗をかこう
   毒はどうして毒なのか
などなど,体がテーマのオーソドックスなサイエンスコミック短編集となっている。あやめちゃんがいぢられ役として活躍しているのもお約束どおり。
 最後の1編は
   終わる命 つながる命
とちょっとドキッとするタイトルだが,いくらでも重く扱えるテーマをさらりと流した印象。少し物足りない気もするが,前巻『ロボットの来た道』のときのように埋めようのない寂しさを感じさせられるよりはよい。

 ところで,小学生向けのサイエンスコミックといえば,毎週火曜日発売の『そーなんだ!』(デアゴスティーニ発行,現在130号まで)が楽しいが,その123〜124号に掲載された「生き物の楽園ビオトープって何?」(マンガ/高樹はいど)に登場した火星人御一行様が最高だった。ちょっとキショイ系のタコ足火星人が各コマに何人(?)も登場して,地球案内のお姉さんの解説に
   「エ?」「エ?」「火星ダメ?」「火星ダメ?」「火星ダメ?」
   「空ダ」「地上ダ」「地下ダ」「川ダ」
   「ナル」「ナルナル」「ナル?」
などなどと口走る,そのバラけたリズムと得体の知れなさがたまらない。
 『そーなんだ!』は中堅の書店なら雑誌売り場にしばらくのバックナンバーが置いてあることも少なくないのでぜひご覧いただきたい。
   見ル? 見ル。 見ル見ル。

先頭 表紙

2004-09-06 がんばれと言うは誰,がんばるは誰 『がんばれ元気』 小山ゆう / 小学館文庫


【ぼくは自分に不似合いな道を…… むりしてつっ走ってきたのかなあ…………】

 『Big Hearts ジョーのいない時代に生まれて』を取り上げた際の繰り返しになるが,ここしばらく,日本ではボクシング人気がぱっとしない。
 ショウアップされたK1やプライドほど話題にのらないし,プロレスのように細分化してニッチを担うわけでもない。

 最近の10年間に日本から出た世界チャンピオンは,かつての,ファイティング原田,藤猛,輪島功一,ガッツ石松らのような国民的英雄扱いを受けているだろうか。誰もがその名を知っている世界チャンピオンのあり方は,具志堅用高あたりが最後だったのではないか。
 たとえば辰吉丈一郎。彼はあれほどドラマを作ってみせながら,それでもマイナースポーツの扱いしか受けなかったような気がしてならない。
 はたしてどのくらいの人が,この10年の世界チャンピオンの名前を言えるだろう……。

 にもかかわらず,ボクシングマンガの人気は高い。

 競技そのものの人気がかげっても,マンガとしての描きやすさ,ドラマの盛り込みやすさにおいて,野球とボクシングは『巨人の星』『あしたのジョー』以来,現在にいたるまで変わらないらしい。
 実際,ボクシングマンガの名作,話題作は『あしたのジョー』から現在の『はじめの一歩』にいたるまで数知れず……といったところでようやく今回のテーマである。

 『がんばれ元気』は,なぜ,これほどまでに忘れられてしまったのだろう?

 『がんばれ元気』が掲載されたのは少年サンデー,昭和51年19号から昭和56年14号までの約5年間。とくに最後の関拳児との統一戦は「どちらが勝つか」と大学生,社会人までビールの泡を飛ばして議論にくれたものだ(それは本作が「主人公が勝ってハッピーエンド」で終わりそうにない,なにやら不穏な気配をかもし出していたからにほかならないのだが)。

 もちろん,この作品のことを当時の読者が覚えていないわけではない。
 だが,さまざまなメディアで正面から,あるいはパロディとして繰り返し取り上げられる『あしたのジョー』などに比べると,再販が話題になるでなし,追従する作品が現れるでなし,連載時の盛り上がりに比べると信じがたいほどその存在が「忘れられている」印象なのだ。

 今回読み返してみて,古びているか,つまらないか,といえば,決してそんなことはない。

 もちろん,格闘技の描き方は,最近のリアルな格闘マンガに比べると難がある。
 堀口元気や関拳児のパンチは一見かっこいいが,防御をまるで考えてない「いってこい」パンチでしかない。ゴングが鳴るや2人ともおよそフットワークを使わず,足を止めての正面からの殴り合い(なにしろ足元の擬音は「ズズ」なのである)。その後,「巨大熊を一撃のもとに葬った」(本当)関のパンチを顔面に何度も受け,何度もダウンしながら元気は立ち上がり,12ラウンドをフルに戦い抜く。……などなど,地味ではあるが破天荒さにおいてはギャラクティカマグナーム!の『リングにかけろ』とそう変わらない。

 その分,マンガとしては面白い。ボコボコに殴り,殴られ,最後に逆転で勝つという展開がつまらないわけがない(このあたり,WBAフライ級チャンピオンだった大場政夫の闘いぶりを思い出させなくもない)。
 関拳児との決戦など,読み終わってすぐ最初のページに戻り,読み返すだけの魅力にあふれてはいるのだ。

 それだけの魅力にあふれながら……つらい。『がんばれ元気』を読み返すのは,なぜか,とてもつらい。
 元気の母,元気の父であるシャーク堀口,元気にボクシングを教えた三島など,本作には身近な人物の死や別れがあふれている。だが,それがつらいのとは少し違うようだ。

 マンガをほめるとき,よく使われる常套句が「人間が描けている」だが(ちなみにミステリをけなすときによく使われるのが「人間が描けていない」),『がんばれ元気』がほかのボクシングマンガに比べ,より「人間が描けている」ようには思えない。それどころか本作に登場する人物はいずれも視野狭窄,感情は痙攣的で,どこか壊れたような,実生活にいたら「マンガ的」とレッテルを貼るしかなさそうな人物ばかりだ。

 うまくいえないが,問題はそのあたりにあるような気がする。
 単に一枚板的に,「マンガの登場人物がマンガの中で活躍する」という構図ならいいのだ。しかるにここでは,「マンガ的な人間が,マンガの中に登場する」という妙な二重構造が起こっているのだ。

 『がんばれ元気』を読み返すとき,ともかくつらいのは,随所に表れる登場人物たちの泣き笑い顔だ。彼らは泣くような顔で笑い,笑うような顔で泣く。それも静かにじわじわ泣くことは決してなく,ベショベショに泣き笑う。

 関との決戦前夜,元気は愛する芦川先生とドライブし,ホテルに入ろうかとゆき惑う(1970年代後半の,それもお行儀のよい少年サンデーの誌面としてはラディカル極まりない展開である)。だが,ホテルに入らず車を飛ばす元気に,「男はボクサーは結局女に逃げることはできない」と述懐する芦川先生の泣きながらの最初のセリフは「えへっ……」なのだ。

 この場面で,元気は芦川先生と心中を再三試み,キスを交わす。延々と繰り出される元気の愚痴っぽい統一戦への宣言は,結局のところ本作がボクシングマンガではなかったこと,堀口元気がボクサーではなかったことを示しているように思えてならない。

 関との統一戦後,元気は世界チャンピオンを引退して祖父母のもとに戻り,堀口元気の名を捨てて田沼元気になることを宣言する。

 つまり,『がんばれ元気』は,死者や敗者のことを気に病んだ少年が,「堀口元気」というボクサーとしてがんばってがんばって,最後にやっとそのしがらみからただ解放される物語なのである。年齢差などを考えれば少年誌向けとはいいがたい芦川先生との恋愛も,彼に課せられた「がんばり」と考えれば理解できなくもない。
 不向きな職業,不似合いな恋愛。およそボクサーの似合わない丸顔の少年が死を覚悟するまで「がんばれ」と追い詰め続けたのはいったい誰(何)なのか(それは読者です,となるとなかなかメタで興味深い構造なのだが,それはまた別の機会に)。

 いずれにしても結局のところ,これほど面白いにもかかわらず,これほどにつらい,これほどに目をそむけたいマンガもそうはない。
 小山ゆうはこの後も『愛がゆく』など,あまりのつらさに読んだことを忘れる以外ないような傑作を発表し続ける。彼が何をしたいのか,本当のところはよくわからない。途方に暮れるばかりだ。

先頭 表紙

絵が変わらないということは,(好みや方向性の是非はおいといて)それはそれで「完成している」ということかもしれません。何十年も絵柄の変わらない,さいとう・たかをなんかそうですね。そういえば,小山ゆうはそのさいとう・プロの出身なのでした。 / 烏丸 ( 2004-09-13 19:24 )
小山ゆうって表情が画一的…というか乏しいんですよね。観客の表情なんかも見ていて苦しくて、それがとても印象にのこっています。ずっと絵が変わらないのも不思議です。 / YIN ( 2004-09-06 18:28 )
ちなみに,連載当時はそれなりに人気があった(らしい。少なくとも連載が長期にわたった)にもかかわらず,現在マンガファンの意識にあまり残ってないと思われるボクシングマンガには『のぞみウィッチィズ』『神様はサウスポー』『あいしてる』『太郎』などがあります。個人的には『タフネス大地』がばかばかしくて好きでした。 / 烏丸 ( 2004-09-06 15:08 )
ボクシングマンガを通して思い返すと,「(少年マンガとして)魅力的な主人公」と「その主人公が殴り合いに没頭すること」のツジツマ合わせにすごく苦労していることがわかります。そのへんが野球マンガ,サッカーマンガとの違いかな。自分より強い相手に挑戦する間はいいのですけどね……。 / 烏丸 ( 2004-09-06 14:55 )

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