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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2003-01-02 『続・お父さんは急がない』 倉多江美 / 小学館PFコミックス
2002-12-30 『百鬼夜行抄 10』 今 市子 / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス
2002-12-24 『陰陽師 11 白虎』 原作 夢枕獏,作画 岡野玲子 / 白泉社(Jets comics)
2002-12-15 冷たい夜をいっそううそ寒く 『生霊(いきすだま)』 ささや ななえこ / 角川ホラー文庫
2002-12-08 [近況]ADSL 12Mbps,無線LAN導入
2002-12-01 失われた言葉 その3 「18金」
2002-11-28 失われた言葉 その2 「風呂を焚く」
2002-11-23 失われた言葉 その1 「レコード店」
2002-11-17 現代版ミス・マープルはトルココーヒーがお好き 『伯爵夫人は万華鏡』 ドロシー・ギルマン,柳沢由美子 訳 / 集英社文庫
2002-11-10 現代語訳された三文メロドラマ 『永久帰還装置』 神林長平 / 朝日ソノラマ


2003-01-02 『続・お父さんは急がない』 倉多江美 / 小学館PFコミックス


【ほ〜っ プロも打たないところにお打ちになる】

 新春でもあるし,好きな作家を取り上げよう。
 どのくらい好きかといえば,好きで好きで,寡作なのをありがたく思うくらいである。さりとて全作品を暗誦しているとか,そういうのでもない。入手し損ねた単行本も少なくないが,それを追うのに汲々とはしたくはない,そんな感じ。この世にその作家があり,あれらの作品に出会えただけでよかった,どうにも大袈裟だが偽りのないところである。

 倉多江美を知ったのは萩尾望都や大島弓子,竹宮恵子,樹村みのりらが毎号のように作品を発表していた当時(1974年)の別冊少女コミックで,初めて読んだのは「ドーバー越えて」だった。
 驚いた。
 今もあのときの目から火花が出るようなショックを体が忘れていない。24年組全盛,つまりそれまでの少女マンガの在り様に飽き足らず,その状況を激変させていった作家たちのただ中にあって,なおその特異性は明らかだったからだ。

 「ドーバー越えて」は,デビュー2作目にもかかわらず,恐ろしいほどによく出来た短編である。
 主人公はロンドンからパリに留学してきたルーテル(ハンサムでプレイボーイでケンカも強い)。彼はいとこのドミニの家に居候しているが,彼女は化学の実験に夢中でドレスやボーイフレンドには興味を示さない。ところがある日,ドミニの試験管に偶然できた赤い液を飲まされて,ルーテルの心は女になってしまう……。
 設定だけみれば少女マンガにときどき見られる男女入れ替え譚のバリエーションなのだが,ともかくスピードあふれる展開がすごい。手足の細い絵柄が斬新。リズムが独特。セリフが憎い。
 しかも,今見ると,ルーテルのしんっと冴え渡った表情といい,精神分析の世界に踏み入ったのちの暗く重い作品を予見させるコマもあったり。この私評を書くために久々に手にとって読み返してみたのだが,あまりの「匠」に溜息しか出なかった。

 倉多江美の作品は大半が掌編,数少ない長編も短いとっぴんしゃんな事件をつなぎ合わせたものが多く,初期はギャグ,のちに人の心をさくりと鋭敏なメスで切り取って標本にしてみせるような作品も得意とした。その2つは不可分で,たとえばお気楽な王国を舞台にしたファンタジー「ジョジョシリーズ」で不意に死後の世界を描いたり等,およそテーマ選びの自在さが倉多江美の大きな特徴となっている。
 ただし,執着がない,こだわりがない,というわけでもなさそうで,単行本を何冊か続けて読んでみると,「傷つけてしまうこと」というテーマが何度も取り上げられていることに気がつく。傷つける側の受ける傷,傷つけないためには超然とした存在たること。彼女の作品に再三登場する突拍子もない人物たちは,それゆえ迷惑ではあっても,他人を傷つけもしなければ,他人から傷つけられもしない。

 さて,倉多江美はデビュー当時から変貌しただろうか。
 絵柄はさらに白っぽくなり,対象年齢が上がったせいか,いかにも少女マンガ然としたファンタジーはほとんどなくなった。どちらかといえば,どこかの街角の一日をさっくりとスケッチしてみせたような作品が少なくない。
 この作風は,単行本『バンク・パムプキン』(主婦の友社)に収録された作品群,とくに1980年にポップティーンに掲載された「はなび」で定着したように思われる。本作では,若い男女が海辺の花火大会を見に行くシーンが距離をもって淡々と描かれていく。鎌倉駅での待ち合わせから実際に花火が打ち上がるまで,すれ違うなんの変哲もない人々の言動がなぜか読み手の印象に残る。そしてそのスケッチは最後の4ページに青年が彼女を家に連れて行き両親に会わせようと言い出すところで突然動き出して,終わる。
 多分,倉多江美はこのとき「着地」したのだ。
 彼女は現実から浮遊した物語を描く必要がなくなった。それは初期からのファンからみれば少しばかり残念なことではあるが,代わりに,私たちは類似する作家の思い当たらない素描家を得た。

 『続・お父さんは急がない』はそんな倉多江美の最新刊で,前作『お父さんは急がない』から2年半ぶりの単行本である。

 主人公・佐江子の父は万年プロ4段のうだつのあがらない棋士。趣味は居眠りと散歩,夢は三百年生きること。プロは大変なのになぜなったのかと聞かれ,「でも冷静になってみると そうか ほかに何もできないんだ…… …… …… …… と気が付くわけ」とゆっくり答えるような浮世離れした人物である。
 物語はこの父を中心に口うるさい母(夫に甲斐性がないためパートに出ている),高校生の主人公,優等生で囲碁好きの弟,の4人家族それぞれの日々を達筆でさらりと描いていく。
 主人公は,少女マンガ的な表現でいえばとくに魅力的に描かれているわけではない。どこにでもいそうなしもぶくれの「娘さん」である。しかし,それが,何度か読み返すうちに心に染みてくる。単行本2冊のページの大半で主人公は高校生として描かれているのだが,巻末の後日談に大学卒業後すぐに結婚して子供をもうけた姿が描かれており,彼女は結婚を前提としてその魅力が描かれていたことがそこでわかる。うまく言えないが,そうなのである。

 いわゆる「純文学」が蛭子のように骨のない「奉られ者」扱いされて久しい現在,文学の果たすべき役割の何割かをコミックが担っていることは今さら言うまでもない。その中でも闊達な倉多江美の作品は,決して多作ではないものの,いや寡作だけに貴重であるように思われる。
 ……とはいえ,このような大仰な扱いが似合わないのも,また倉多江美なのだが。

先頭 表紙

けろりんさま,今年もどうぞおよろしゅう〜。倉多江美は,ご本人もカバーにて「わたしってまだ漫画家なのかな,と思ってしまうこのごろ」とのたまわっていますね。単行本はいまやPFコミックスの3冊(本作含む)除いてすべて品切れないし絶版。うーん。 / 烏丸 ( 2003-01-03 23:58 )
今年もよろしくお願いします。倉多さんってまだ描いてらしたんですね〜。このシリーズ読んでみたいです。私もアルプス社のプリンタを愛用してたんですが、故障をきっかけにE社に乗り替えてしまいました。文字はすごくきれいなんですよねー。 / けろりん ( 2003-01-03 03:23 )

2002-12-30 『百鬼夜行抄 10』 今 市子 / 朝日ソノラマ 眠れぬ夜の奇妙な話コミックス


【お手々もね まだ片っぽしかないんだって】

 さて,どうしたわけか最近誰も口にしたがらないが,岡野玲子の『陰陽師』が山岸凉子の『日出処の天子』の影響下に初めて成立し得たことは今さら言うまでもないだろう。
 少女マンガの世界に歴史,それも飛鳥時代という描きにくいはずの極めて古い時代を持ち込み,そこで単なる恋愛絵巻ではなく国政,文化,さらには宗教,モノノケさえ持ち込んだ『日出処の天子』の功績はわざわざここで主張する必要もない。
 振り返って『陰陽師』は,夢枕獏の比較的淡白な原作に,『日出処の天子』の切り開いたものを全面的にかぶせたような構成になっている。時代的にも近いし,オカルティックな(魔性の)主人公は底知れぬ知性と能力を認められながらも朝廷で直接権勢をふるおうとせず,ワトソン役の多少とぼけた好青年と親しく,朝廷(国)の行く末を宗教的な目で見据え,周囲の人々に理解できぬ特異な儀式を取り計らう。決して多弁とはいえない主人公が,説明を排した物言いでワトソン役を煙に巻くのも似ていれば,後半女が出てきてストーリーが水びたしになるという大難点までそっくりといえばそっくりである。
 『日出処の天子』は強引というか中途半端な幕切れもあって(白泉社から角川書店への作者の移籍にからんだとも噂される),最近では山岸凉子の代表作という扱いはあまり受けていないように思われる。いや,むしろ現時点での評価の低さは驚くばかりだ。
 『陰陽師』が今後どのような影響を残せるかは……。

 おっと失礼。『日出処の天子』や『陰陽師』のレビューではなかった。今回は今市子『百鬼夜行抄』の新刊の話である。

 『日出処の天子』が『陰陽師』に与えた多大な影響は先に述べたが,『日出処の天子』が残したものは設定,ストーリーといった大枠だけではない。とくにホラー系少女マンガにおける「モノノケ」たちの描き方への影響は見逃せないだろう。
 ここでいう「モノノケ」とは,厩戸皇子の指の間をちろちろとうごめき,水をかけると追い払われてしまう,あれである。当時,あの怪異の描き方にショックを受けた者は少なくなかったのではないか。少年マンガに「ぐわーっ」と登場するような血まみれずちゃぬたの化け物とはまったく異なる,新たな表現技法として,あのちょろにょろ小物モノノケに日本中のマンガ家のタマゴたちが感銘を受けたのは間違いない。その結果,畳のへりをうよふよするようなモノノケの描き方は,ホラー系の少女マンガでは今日かなり日常的になった。
 そのようなモノノケを描ける代表的な作家の一人が,今市子である。

 ところで,ここで「モノノケ」という言葉を選んでいるのには,理由がある。
 『日出処の天子』も『陰陽師』も,さらには『百鬼夜行抄』もそうなのだが,ホラー,霊感系の少女マンガにおいては「神」と「妖怪」と「幽霊」の区分が不明確なのである。『日出処の天子』や『陰陽師』では,主人公は人間界とは違う次元の存在を見たり感じたりコントロールできたり,という描き方をされている。したがって,「神」と「妖怪」には大物か小物,高次か低次かの区別はあれど,本質的にそう大きな違いはない。彼らが人間に害悪を為すのはたまたまの結果であって,象が蟻を踏む,踏まないに近い。
 『百鬼夜行抄』では主人公はせいぜい少し「見える」だけなので,「神」にあたる存在はめったに語られず(登場したこともあるが,どちらかというと土着の強力な妖怪としての描かれ方だった),作中では「妖怪」「妖鬼」といった言葉が頻繁に使われる。ここでいう妖怪の多くは,鳥や蛇,狐狸の類など,要するに長生きした生き物,土地や樹木,はては物品などから派生した精霊,アニミズムの系譜である(「百鬼」というタイトルは,確かに身を表している)。
 したがって,『百鬼夜行抄』は「キツネ,タヌキにばかされた」ような手ごたえの話が多くなり,登場人物は「ひどいめ」には遭うが死んだり地獄に落ちたりはしない。

 ……などと安心していると,突然足をすくわれることがある。
 なぜか。
 それは,ときどき「幽霊」の話がまざってくるためだ。

 『百鬼夜行抄』における幽霊たちは,ある意味妖怪たちより格段に始末が悪い。
 妖怪は基本的に人間界と互いに接点をもたぬよう心がけているが,幽霊はなんらかの妄執をもって現世をさ迷っている。あるいはある場所に足を踏み入れることで,スイッチが入るように突然かかわりをもってくる。
 これらの霊や怨念のうち,比較的妄執の軽いものは,主人公たちの活躍によって「往生」する。主人公たちが一時的に危機的状況に陥る場合もあるが,そこは主人公を守る式神・青嵐がぶつぶつ言いながら守る,という筋書きである。非常に大雑把な言い方をすれば,幽霊こそ登場するが,実質は陽性のオカルト冒険譚である。
 問題はそう簡単にはいかない霊の場合だ。その大半は人間界における事件(多くは殺人事件)で殺されたほう,ときによると殺したほうの怨念が色濃く残り,トラブルを引き起こすものである。……これが,怖い。『百鬼夜行抄』が「飯嶋律と愉快な仲間たち」ではなく,ホラー作品であったことを唐突に思い出される瞬間である。
 いくつかの物語で,霊や怨念は,主人公たちがなすすべもないまま,第三者に対する彼らの目的を達成する。主人公たちは,ただそれ以上かかわりにならないよう,脱出するしかない。主人公たちが立ち去ったあとの状況は……想像して楽しいものではなさそうだ。

 今回発売された第十巻は,そんな幽霊譚がいくつか含まれた,ここ数冊では久しぶりに怖い1冊である。気をつけよう。モノノケの世界に時効はないのだ。

先頭 表紙

人格のない幽霊といえば,杉浦日向子『百物語』に,庭に現れた祖父の霊が手も使わずに八つ手の葉をかじる,という話が出てきます。ふりかざすような怖さはありませんが,ちょっと「いやな」感じ。 / 烏丸 ( 2002-12-30 21:53 )
少女(ばかりではありませんが・・)漫画では「幽霊」にも知性の人格が与えられている。のがおもしろいですね。果たして「霊」に知性があるのか?私的には現時点では否定しているんですけどね〜ああ・・岡野さんの対談本で読みました。ほ〜ってそれだけでした。 / ねんねこ@漫画表現やめたら?って感じ ( 2002-12-30 21:10 )

2002-12-24 『陰陽師 11 白虎』 原作 夢枕獏,作画 岡野玲子 / 白泉社(Jets comics)


【そう思うんだったら 少しは恐れ入ってくれ】

 第十巻で危惧したことがますます進行し,もはや末期症状のてい。もっとも本作はもともと十二巻でおしまいになるとのもくろみのようだから,まぁそれはそれでよいのかもしれないが。

 第一巻をいま手に取ってみると,あまりの薄さに驚く。
 二百頁にも満たぬ中に掌編も合わせて三篇が収録されており,それぞれがまったく完結しているのだ。
 比べて新しい第十一巻。こちらは四百頁を埋め尽くして,それで実のところ第十巻からの続譚に過ぎず,第十二巻への足がかりに過ぎない。要するに,明確な切れ目も決着もなく,だらりだらりと話がのたうち,流れるのである。

 単なる長編化というのとは,少し違う。
 ここでは,読み手が失われているのだ。

 実際のところ,たいへんな力量ではある。それは決して否定されるべきではない。
 力量というのは,作者の持つ素質,という意味より,物理学的な,本作に投入されたエネルギーの総量,といった意味のほうが近い。膨大な情報が密にこめられており,絵柄としても一巻よりよほど深遠,玄妙なものも少なくない。

 しかし,作者が己のために力量をそそぐことと,読み手がそれを堪能することはイクォールではない。膨大な手間と執念を煮詰めたような見開きのコマが,かならずしもコミックの読み手にとって魅力的とは限らないのだ。
 なにより。作者は読み手に対して「説明」することをもはや放棄してしまっているように見える。もちろん,もともと晴明は博雅に多くを語りはしなかった。だが,作者は絵柄や晴明の独り言の中で読み手にその「怪」の起こる因縁,その収まるところをきちんと説明してくれてはいた。一方この十一巻で,たとえば霊剣に対する晴明の言動,あるいは真葛のあり方について,はたして作者がすべてを明らかにすることはあるだろうか。否,あるまい。そのような描き方ではないのだ。
 つまり,絢爛豪華な殺人と探偵たちのはっしはっしの議論はあれど,事件の真の姿は語られない,そんな探偵小説(最低だ)めいたところがこの十一巻には顕現しているのだ。

 気がついてみれば,ここしばらく,岡野玲子は夢枕獏の原作から解き放たれている。ひるがえって,夢枕獏は(決して好きな作家ではないが)いかに読者のほうを向いて書いているか。彼は決して,この十一巻のようには,書かない。

 本書のあとがきには,まだ霊剣について連載にはちらりとも書いてないのに,問い合わせた日本刀に詳しい知人が「待ってましたよ,いよいよ剣ですね」と応えた,という話が掲載されている。
 一見美談に見えるが,これも,違う。

 本書はすでに,作者と,作者の周辺の,作品を読まなくても内容を語れる人々のために存在しているのである。マスな読み手は,そのおこぼれを流し読みしているに過ぎない。そんな作品に対しては,気に入らなければ,つまらない,わからない,と言ったって別にかまいやしないのである。

先頭 表紙

マグロ屋さま,別の言い方をすれば,作者とその周辺の「輪」の中にいるように思われたら,それほど楽しいことはありません。永遠の名作とやらは,たいてい,時代やら世代,国境を越えて,かなり多数の者に「自分のために書いてくれているだぁ〜」と思わせる力を持った作品なのではないかしら。 ←ちょっとまっとうすぎて,我ながらつまらないコメントなり。 / 烏丸 ( 2002-12-25 02:29 )
ねんねこさま,いらっしゃいませ。カラスは,「むーん,これはもう,かなり,だめかも」と思ってから,5冊くらいはつきあってしまうのです。……それにしても,いま読んでも,たとえば一巻はほんとう〜に見事ですね。 / 烏丸 ( 2002-12-25 02:29 )
うーん。漫画以外の創作物にひろく当てはまりそうなポイントですね。マスな読み手といえど幅広いですから、どれくらいの層を念頭に置くかということと、自分で面白いと感じられるラインのせめぎあいが難しいところかもしれません。その点を自覚している書き手には、ついていこうという気持ちになります。 / マグロ屋 ( 2002-12-24 23:59 )
似たような感想でいたので、10巻は表紙を眺めただけで購買意欲が湧かず。パスしました。古本になったら確認作業をしてみようかと思います。 / ねんねこ@はじめまして ( 2002-12-24 07:40 )

2002-12-15 冷たい夜をいっそううそ寒く 『生霊(いきすだま)』 ささや ななえこ / 角川ホラー文庫


【うそよ あなたは あたしが 好きなはずよ】

 アメリカ版がヒットするなど,鈴木光司『リング』の人気が変わらず高い。もはや「貞子」はお岩やお菊,化け猫や口裂け女と並ぶ,いやそれ以上のホラーアイドルとなった観がある。今夜も『リング0・バースデイ』(2000年リング0バースデイ製作委員会)がテレビ放映されていたようだ。
 ただ,残念なことに,個人的には『リング』は怖いとは思えなかった。以前も書いたので繰り返さないが,西洋の古城のどすどすギイギイにぎやかな幽霊がピンとこないのに近いものがあるのかもしれない。アイデアの妙には感心したが,どうしても「怖い」という反応にはいたらなかった。

 もともと角川ホラー文庫は全般に「これでもかこれでもか」型とでもいうか,『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』ふうのホラーが存外に多く,面白くはあっても怖くはない……そんなことを話題に取り上げてみようかと思って,いやいや,ありました,怖いのが。
 ささやななえこ(ささやななえから改名)の『生霊(いきすだま)』である。

 角川ホラー文庫版『生霊(いきすだま)』は1980年代後半に少女マンガ誌に単発で発表されたオカルトホラー短編をまとめたもの。
 女子高生の嫉妬がドッペルゲンガーと化してすさまじい表題作,奇怪な事件相次ぐマンションを描く「空ほ石の…」など,いずれも平凡や高校生たちの生活に徐々に怪奇が忍び寄り,最後には……という作風である。

 「空ほ石の…」は,オーソドックスな心霊ホラーだが,「押し入れが気になる」というシチュエーションの作品として出色の出来である。
 問題は表題作だ。高校2年の良二とその恋人・真理子との関係に,根暗で目立たないクラスメートの浅茅優子の存在が少しずつ影を射す。やがて浅茅の怨念は暴走し,クライシスを招くのだが,この浅茅という女が実に怖い。
 普段はクラスメートに振り返られない地味な存在なのだが,面長で背も低くなく(小さくて巻き毛の真理子たちとの対極として描かれているわけだが),要するにひとたび相手の心に踏み入ったとき,この女は妙にボリュームがあるのである。そして彼女の良二に対する恋慕は,常軌を逸し,恐ろしい事件を引き起こしていく……。

 ささやななえ(当時)がのちに「ストーカー」と称される人々ないし習性について,どうしてこれほど的確に把握していたのかはわからない。しかし,浅茅として描かれた人物像は確かに「いる」,そしてストーカーの描き方において,オカルトな面を除けば,作者の目と表現力は実に確かである。
 そして,ストーカーという,生身でも十分に剣呑でやっかいな人間のあり方に「生霊」(ドッペルゲンガー)という様態が加わるとき,まず並みの人間では太刀打ちできないだろう。私たちにできることは,人生のどこかの交差点において,うっかり浅茅とすれ違わないことを祈るばかりだ。ノウマクサマンダバザラダンカン……。

 なお,「生霊(いきすだま)」が角川書店ASUKAに発表されたのは1986年で,リンデン・グロス『ストーカー ゆがんだ愛のかたち』が出版されて国内でも「ストーカー」という言葉,概念が広く認知されるより10年近く早いことは強調しておきたい。

先頭 表紙

2002-12-08 [近況]ADSL 12Mbps,無線LAN導入

 
 この金曜日にNTT局舎内工事がなされ,モデムも届いてADSL 8Mbpsから12Mbpsにサービス変更。加えて無線LANパックを導入して,ノートPCを持ち歩けば,自宅内どこからでもインターネットにアクセスできるようになりました。

 8Mbps→12Mbpsの変更は,従来が下り5Mbps以上出ていたのが7Mbpsになった程度で,体感速度的にはほとんど変わりません。現時点では,よほど巨大なファイルをダウンロードしない限り,そうですね,3Mbps以上出ていれば感覚的にはほとんど変わらないのではないでしょうか。むしろダウンロード相手のサーバー側をもっと強化してほしいことも少なくありません。

 無線LANのほうは,ADSLモデムそのものにIEEE802.11bの送信カードを装着するという,ちょっと珍しいタイプ。受信はサードパーティ製のIEEE802.11b無線LANアダプタが装着されたPCなら何でもよいようです。
 ただし,現時点ではなぜかブラウザからモデムのESS-IDやWebキーの設定画面に入ることができず,デフォルト設定のままの運用です(セキュリティ面で少々怖い)。なにか単純な思い違いなのか,仕様上のトラブルなのか明らかでないので,明日コールセンターに問い合わせるなりしようかと思っています。

 無線LANは,PCやインターネットの利用法の中ではいまだ未開拓というかメジャーになりきれない技術で,その分アダプタのドライバやセットアップユーティリティが練られてない印象です。しかし,無骨なイーサネットケーブルから解き放たれてみればこんな便利な環境はなく,サブマシンとしてノートPCをお持ちの方にはぜひともお勧めしたい次第。

 いずれにしても今後は,昼はマロニエの木陰の白いベンチでダージリンを味わいながら,夜は書斎の本棚の間をめぐりながらインターネット三昧。……おっと,その前に,広い庭と書斎を調達しなくっちゃ。

先頭 表紙

ただ,無線は目に見えないので(当たり前),少し調子が悪くなると,どこに原因があるのかわからなくてうろたえます。通信データが目に見えないのは,有線LANも同じなんですけどね。ドライバがいちいちこなれてない(こちらも慣れてない)のも一要因かと。 / 烏丸 ( 2002-12-18 03:17 )
無線にして楽になったのは,やはり本の管理ですね。カラスはたとえばコミックは本の大きさでしまう棚が違う(フロアさえ)ので,誰か特定の作家の本がそろっているかどうかを調べるのはこれまで大変だったのです。それが,ノートPCに紀伊国屋BookWebを開いておき,そのまま歩き回ることでチェックできる……便利はいいけどこの勢いでまた余計な本をわらわら買ってしまいそう……。 / 烏丸 ( 2002-12-18 03:15 )
ウチの事務所もケーブルだらけで死にそうなので、とりあえずPowerBookとVAIO Noteのみ無線化してみました。仕事机と打ち合わせテーブルを行き来するのも楽になりました。ルーター含めて全てメーカーが違うので、セキュリティの設定はやはりタイヘンでした。 / TAKE ( 2002-12-17 01:28 )
モデムの設定画面については,その後,モデムの電源再起動,Internet Explorerのキャッシュの全削除を試したところすんなりと入ることができ,MACアドレス,WEPKeyによる設定も行って今は安心快適環境。しいていえばデスクトップ,ノートともに2年ほど使っているものでスペックにやや難ありですが,家人を説得するのはモデム再起動程度ではすまなそうです。 / 烏丸 ( 2002-12-12 03:39 )
フィー子さま,かく申すカラスマルが利用しているのもこちらだったり。今夜はDKのテーブルからつっこみ返し〜♪ / 烏丸 ( 2002-12-10 01:17 )
無線ってステキ・・・。私も先日ヤフーの12Mbpsにしたところです。無線LANについては調べてみようかな・・・。家の中が「線」だらけって気持ち悪くって(^_^;)。 / フィー子 ( 2002-12-09 12:21 )

2002-12-01 失われた言葉 その3 「18金」

 
 言葉は生活,仕事,風俗・習慣に密着したものであり,その対象が失われれば,それとともに霧散していく。

 たとえば,学生運動,全学連といったムーブメントそのものがきれいさっぱり忘れさられてしまった現在,「ゲバ棒」「タテカン」「ノンポリ」「総括」といった言葉が通じなくなるのは自明のことだろう。
 地下鉄サリン事件の際には,オウム真理教関係者についての報道で,ある人物が学生時代に「ノンポリで周辺からは恐れられた」という報道が何度か繰り返されたが,これは明らかに「ノンセクトラディカル」の誤りである。学生運動経験世代が少なくないはずのマスコミにしてこの体たらくなのだから,現役の学生たちが「アジ演説」という言葉ひとつ知らなくとも,なんら不思議はない。

 最近でいえば,あっという間に敷衍して,あっという間に消えてしまった言葉に「パソコン通信」がある。
 「パソコン通信」は日本では1980年代後半に広まり,一時は大小の通信ネットワーク会社を合わせると会員数は数百万人にまで達した。しかし,1995年ごろからインターネットが一般に普及するにつれ,上記ネットワーク会社はいずれもインターネットサービスプロバイダー(ISP)に宗旨変えするなど統廃合して現在にいたる。
 実は@niftyはいまだに「パソコン通信」のフォーラムやメール機能も持ち合わせ,巨大なパソコン通信のホストサービスを運営しているのだが,それらの機器のメンテナンスが難しくなり,やむを得ずサービスを縮小しているのが実情らしい。

 「パソコン通信」は「インターネット接続」にとってかわったわけだから,言葉に対する愛惜というのはとくに感じられない。もちろんせっかく構築されながら捨てられていく技術や機器は少なくないのだが,それはパソコン産業全体にいえることで,パソコンやネットワーク機器がいまだ成長期,過渡期であることの証しなのかもしれない。

 愛惜すべきは,成長期の言葉ではなく,爛熟期から衰退期に向かった言葉ではないか。

 たとえば,何十年か前まで,万年筆は若者が大人になった証しとしてのステータスを誇る文房具だった。ペン先のクオリティを保障する単位として「18金」「24金」という言葉がテレビや雑誌の広告を彩ったものだが,どれほどの人がそれを覚えているだろうか。
 現在「ジュウハチキン」と言えば,誰だって「18禁」のほうを思い浮かべるに違いない。万年筆が大人の証しであることをやめたのは,水性ボールペンやワープロに文具としてのメインストリームとしての立場を追われたからだけでなく,プレゼントされる側が「大人」という概念,そして言葉が失われたからのような気がしないではないが,どうだろうか。「大人」つまり「体制」側がないなら,「反体制」つまり若者の共闘もあり得ないのである。

先頭 表紙

2002-11-28 失われた言葉 その2 「風呂を焚く」

 
 たとえば,厚いアルミサッシに覆われた部屋で,丈夫なプラスチックや金属の食器だけで育てられた子どもにとって,「ガラス」は透明なプラスチックとどれほど違うものだろうか。ほんの小さなカケラでも人の命を奪いかねない鋭利さ,どんなに大切にしていてもちょっとした不注意で永遠に失われてしまうはかなさ,彼らはそんな相反するイメージを「ガラス」という言葉に抱くことができるだろうか。
 もし,子供たちの半数がそのように育てられたとしたら,世の中は「ガラス」という言葉について,同じものを指差しながらまるきり別のものとして会話を繰り広げることになるだろう。
 最近の子どもたちの育てられ方を見るに,これはさほど極端なたとえ話ではないのではないか。

 言葉が失われるのは,「レコード」のように,モノとしての存在が失われる場合だけではない。
 ある日,ふと気がついた。「風呂」という言葉も,「焚く」という言葉もとくに珍しくはないはずなのに,「風呂を焚く」という行為は,いつの間にか多くの家庭から失われてしまった。
 たいてい蛇口をひねるだけか,せいぜいスイッチを押す程度。「風呂をわかしすぎる」「熱い風呂を水でうめる」という行為も実感として把握できない子どもたちがいるかもしれない。ほんの数十年前まで,風呂はどの家庭でも,木材や燃料を直接燃やして「焚く」ものだったはずなのに。

 そもそも最近は,ガスコンロや石油ストーブ以外の,管理されていない「炎」をじっくりと目にする機会が,ない。
 生木の燃えにくさ,ぱちぱちとはぜる音,じうじうとしたたる水気,なめるように炎が広がるさま。熱く燃え盛ったあと,やがて白い灰が揺れて,火鋏で突き崩せば滑らかな赤い断面が心をとろかせる。火照る頬,燃やしたくないものを,それでも炎に投げ込む切なさ。

 僕たちは「快適」の代わりに,数知れぬ言葉を無造作に捨ててきてしまった。
 管理されていない「炎」を見つめたことのない者に,「炎のような」思いは伝わるのだろうか。

先頭 表紙

2002-11-23 失われた言葉 その1 「レコード店」

 
 15年ばかり前だったか,CDがあっという間に普及するとともに,「レコード」という言葉はどんどん生活の場から消えていってしまった。
 もちろん言葉そのものはアナログレコードを示すものとして今も生き残ってはいるのだけれど,その隙間に落ちて,「レコード店」という言葉がすごく居心地の悪いものになってしまっている。だって,レコード店に行っても,CDしか置いてないのだから。
 困ったことに「レコード店」の代わりとなる明確な総称はいまだに定着していない。古くからの店は「○○レコード店」のままだったりするし,逆に「○○堂」など屋号だけで押し切る例も少なくない。CDだけではなくてビデオやDVDも扱っているのだから,「CD店」が必ずしも座りがよいわけでもないためだろう。
 こうして,僕たちは「CDを買いにいく」ことはあっても,「レコード店に行く」という共通の語法を失ってしまった。失われたのが言葉だけなのかどうかは,まだよくわからない。

 似たことは,「ステレオ」という言葉についてもいえる。
 かつて,左右にスピーカーを配置したプレイヤーとアンプ,場合によってはそれにチューナーやテープレコーダーを加えたものは,「ステレオ」という言葉でおおよそ誰に対してでも通用したものだった。考えてみれば「ステレオ」はその機器の機能というか特性の1つであって,機器そのものの名称ではなかったのだが,ともかく「ステレオ」と言えば誰しもがあの家具調のオーディオ機器を思い浮かべたものだ。
 ところが,コンパクトタイプの製品が登場したあたりからだんだん雲行きが怪しくなり,アナログレコードプレイヤーが滅びたころにはすっかり「ステレオ」という呼び方も滅びてしまっていた。
 問題は,ここでも代わりの言葉がいまだに登場しないことだ。「CDプレイヤー」? いや,MDプレイヤーやFMチューナーも付いているし。ラジカセとの区別もつかないし。「オーディオ」? 確かにそうだけど。「コンポ」? そうも言うけれど,でも。
 ちなみに我が家の機器のマニュアルには「コンパクト コンポーネント MD システム」とあった。MDの上下に並んだCDプレイヤーやチューナーの立場を思うと,気の毒で,夜も寝られない。

 こんなふうに言葉の盛衰を感じるのは,それなりの時間を生きてきたせいかもしれない。少なくとも,十代,二十代にはあまり感じなかったことのように思う。

 たとえば,現在僕たちはビデオプレイヤー(レコーダー)のこともビデオテープのこともビデオテープに録画された映画や番組のことも「ビデオ」と気軽に呼び慣れているが,そのうちDVDやハードディスクレコーダーが家庭に広まると,「ビデオ」という言葉は使われなくなってしまうのかもしれない。
 「テレビ」という言葉はそう簡単には失われそうにないが,そのうちにコンテンツ(番組)の意味,放送システムや局の意味,あるいはディスプレイの意味,これらのうちのどれかに特化したり,どれかが失われたりすることもあるのかもしれない。

先頭 表紙

フィー子さま,「細分化」,そうなんです,生活や仕事や趣味がどんどん細分化されて,さまざまなものが特殊化し,隣の人の言葉が理解しづらい時代になってしまいました。かつてレコード大賞受賞曲は日本中の誰もが知っていた,最近のヒットはそれよりよほどたくさん売れていながら,ごく一部の者にしか知られていない,そんな感じです。 / 烏丸 ( 2002-11-25 01:54 )
ついレコード店と言ってしまって友人に苦笑されること数回。じゃあなんて言えばいいんだーと思っておりました。総称は共通認識の上に成り立つもの。共通認識が細分化されてしまう現在、少しずつ言葉の使い方が難しくなってきたような気がします。かと思えば心無い言葉が平気で使われたり。言葉って難しいですね。 / フィー子 ( 2002-11-24 13:04 )

2002-11-17 現代版ミス・マープルはトルココーヒーがお好き 『伯爵夫人は万華鏡』 ドロシー・ギルマン,柳沢由美子 訳 / 集英社文庫


【読み,承ります】

 今夜は少々軽めの本を1冊ご紹介。

 かつてヨーロッパの貴族と結婚して,伯爵夫人の称号を持つ主人公マダム・カリツカ。
 赤ん坊のころに家族はロシアから抜け出し,十代にはアフガニスタンで物乞い。夫を二度亡くし,ブダペストでは大金持ち,アントワープでは一文無しに。彼女は四十代半ばとなった今,アメリカ東海岸で一人ひっそりと暮らしている。
 彼女は控え目で,誠実で,思いやりがあり,しかし大切なことはきっぱりと口にする。そして彼女には,相手の所有物を手のひらに置くと,その性格,過去,未来まで読めるという超能力があった。
 茶色いレンガ造りのアパートに「読み,承ります」の看板を出して千里眼でクライアントの質問に応えるようになって以来,マダム・カリツカは次々と事件を読みとっていく……。

 つまりは,年齢こそは若干若いが,クリスティのミス・マープルである。

 もちろん,千里眼にあたる超能力を犯人探しに利用するなど,本格ミステリとしてはルール違反もいいところだろう。しかし,さまざまな事件を扱ったいくつかの短編の連なりからなる本書は,そうしたミステリとしての無法を感じさせないほどよくできている。それは,事件があって推理が始まるのではなく,マダム・カリツカが「読み」の能力をもって相手の運命を垣間見たところから物語が動き始めるためだ。
 もし,あなたにそういった能力があり,目の前の若者がこれから悲しい事件に巻き込まれることを知ったとき,さあ,あなたはどうするだろう。

 しかも,穏やかな筆致とは裏腹に,描かれる事件そのものは決してささやかないさかいレベルではない。マダム・カリツカのクライアントたちが巻き込まれるのは,あるときはカルト集団であったり,全米を巻き込むテロ事件であったり,冷たく暗い少年犯罪であったりと,それぞれが実はずいぶんと苦くて重い。マダム・カリツカが幼いころにカブールの難民だったという設定もどこか暗示的だ(本書が書かれたのは,もちろん昨年のニューヨークテロ事件よりずっと以前である)。

 マダム・カリツカは,無闇に「正義」を遂行しようとはしない。アドバイスは伝えるが,それを受け入れるかどうかはクライアント次第なのだ。マダム・カリツカは銃で白黒をはっきりさせたがる保安官ではないし,さりとて祈ってばかりいる傍観者でもない。

 煎じ詰めれば,本書を覆っている独特な気配は東洋的な諦念,無常観のベールなのかもしれない。前作『伯爵夫人は超能力』の「人生は山あり谷あり,いいときもあれば悪いときもあって一巡りなのだと悟っていた」という一節など,まさに「人生万事塞翁が馬」と呼応する。
 それが,本書になんともいえない寂寥感と,風景画のような救いを与えている。

 少しつらいことがあるようなとき,手にとって読んでみてはいかがだろう。相手の指輪や腕時計を手のひらに乗せたとき,過去や未来や,それ以外のいろいろなことが読めるのは伯爵夫人だけではないのだから。

先頭 表紙

2002-11-10 現代語訳された三文メロドラマ 『永久帰還装置』 神林長平 / 朝日ソノラマ


【ここの環境の言葉で自分の存在を説明するために,記憶の内容を,ここで通用する言語に変換する作業,とでも言えばわかってもらえるだろうか。】

 たとえば,遠い未来の月や火星の都市を舞台にした物語。
 あるいは,常ならぬ能力を持つ人物を主人公とした一人称小説。

 これらは,よしんば現代の日本語で書かれていたとしても,おそらく僕たちの目には「ヘタな翻訳モノ」のように読めることだろう。登場人物たちの言動は不自然であったり,大袈裟であったり,無感動であったりするように見えるに違いない。もし現代の僕たちの生き方,考え方,瑣末な条件反射,風俗習慣と変わらぬように読めるなら,そのほうがよほどウソなのである。

 神林長平はときおりそのように小説を書く。
 彼の一部の作品の文体はよく言えば硬質,悪くいえば箇条書きのようにぶっきらぼうで,従来の文学的感覚からいえば名文とは言いがたい。しかしその不器用そうな文体は,そうあるべきだからそうなのであり,また,そうあることに納得がいくとき,読み手はその文体でなければ得られないリアリティを読み取ることになる。

 先月取り上げた『蒼いくちづけ』は,ざっと次のようなストーリーだった。
 月開発記念市で恋人と信じた男に裏切られ,脳死したテレパスの少女ルシア。やがて彼女の体内に残存した憎悪の念が周囲に災厄をもたらしはじめる。男は,他者の脳内感応細胞を奪いながら逃亡を続ける,やはりテレパスの犯罪者だった。無限心理警察刑事OZは,事件解決のために月に渡る……。

 一方,今回ご紹介する『永久帰還装置』(言うまでもなく「永久機関」のもじりだ)の冒頭は次のような具合だ。
 火星連邦軍が緊急脱出用の小型宇宙機を捕らえた。冬眠状態から目覚めた乗員・蓮角は自分が永久追跡刑事であり,世界を勝手に作り変える能力を持った犯罪者ボルターを追っていること,この世界はボルターが構築したものであることを主張した。彼を調査するために赴いた戦略情報局のケイ・ミンは,彼の言葉を理解できないながらも世界が,自分の過去の記憶が揺らいでいくのを感じる……。

 ご覧のとおり,2つの作品の舞台,構造はかなり似通っている。しかし,最初の数ページに目を通しただけで,同じ作家が書いたとは思えないほどにその印象がかけ離れていることに気がつくだろう。

 『蒼いくちづけ』は,未来の月世界,テレパス能力者を主人公にしている,ということを除けば20世紀的な文体で描かれたありきたりな心理描写の積み重ねであり,「悪役」のルシアへの裏切りにいたっては馬鹿馬鹿しいほどに古典的でさえある(裏切りを告白する必要もないのにルシアを傷つけてみせたのは,その後に続く物語を転がすため,以外に考えられない)。
 しかし,『蒼いくちづけ』の後に書かれた『永久帰還装置』での登場人物たちの会話は,およそ「小説」ふうではない。本書は,奇妙なことにと言うべきか,一種の「恋愛小説」でもあるのだが,蓮角,ケイ・ミン,そして周辺の人物たちの会話は大半がト書き的な状況解説と互いの立場についての理屈を並べたものにしか見えない。
 さりとて,本書が抽象的な,あるいは哲学的な作品である,とするのも正確とは思えない。本書のストーリーをはしょりにはしょってみれば,それは意図せず故郷を追われた男が新しい故郷(女)に一目ぼれする物語にすぎない。

 つまり,『永久帰還装置』は,実のところ,火星を舞台にした三文メロドラマなのだ。しかし,その三文ドラマが神林長平の手によって直訳的に「翻訳」されたとき,僕たちはその「翻訳」の屈折率ゆえに,その類型的でありきたりな恋愛ドラマに勘違いかもしれない何か,質でも量でもない何かを見てしまい,ついうっかり感動してしまうのである。

先頭 表紙

すっごくどうでもよいことだけど、あと10分ばかりで、11月11日の午後11時11分11秒ですね。 / 烏丸 ( 2002-11-11 23:02 )

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