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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2002-12-15 冷たい夜をいっそううそ寒く 『生霊(いきすだま)』 ささや ななえこ / 角川ホラー文庫
2002-12-08 [近況]ADSL 12Mbps,無線LAN導入
2002-12-01 失われた言葉 その3 「18金」
2002-11-28 失われた言葉 その2 「風呂を焚く」
2002-11-23 失われた言葉 その1 「レコード店」
2002-11-17 現代版ミス・マープルはトルココーヒーがお好き 『伯爵夫人は万華鏡』 ドロシー・ギルマン,柳沢由美子 訳 / 集英社文庫
2002-11-10 現代語訳された三文メロドラマ 『永久帰還装置』 神林長平 / 朝日ソノラマ
2002-11-04 オーケストラ,オーケストラー,オーケストリスト 『のだめカンタービレ(3)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC
2002-11-01 最近読んだ本 その三 『のだめカンタービレ(1)』『延長戦に入りました』『クリヴィツキー症候群』『ハポン追跡』『カプグラの悪夢』
2002-10-27 『三葉虫の謎 「進化の目撃者」の驚くべき生態』 リチャード・フォーティ,垂水雄ニ 訳 / 早川書房


2002-12-15 冷たい夜をいっそううそ寒く 『生霊(いきすだま)』 ささや ななえこ / 角川ホラー文庫


【うそよ あなたは あたしが 好きなはずよ】

 アメリカ版がヒットするなど,鈴木光司『リング』の人気が変わらず高い。もはや「貞子」はお岩やお菊,化け猫や口裂け女と並ぶ,いやそれ以上のホラーアイドルとなった観がある。今夜も『リング0・バースデイ』(2000年リング0バースデイ製作委員会)がテレビ放映されていたようだ。
 ただ,残念なことに,個人的には『リング』は怖いとは思えなかった。以前も書いたので繰り返さないが,西洋の古城のどすどすギイギイにぎやかな幽霊がピンとこないのに近いものがあるのかもしれない。アイデアの妙には感心したが,どうしても「怖い」という反応にはいたらなかった。

 もともと角川ホラー文庫は全般に「これでもかこれでもか」型とでもいうか,『13日の金曜日』や『エルム街の悪夢』ふうのホラーが存外に多く,面白くはあっても怖くはない……そんなことを話題に取り上げてみようかと思って,いやいや,ありました,怖いのが。
 ささやななえこ(ささやななえから改名)の『生霊(いきすだま)』である。

 角川ホラー文庫版『生霊(いきすだま)』は1980年代後半に少女マンガ誌に単発で発表されたオカルトホラー短編をまとめたもの。
 女子高生の嫉妬がドッペルゲンガーと化してすさまじい表題作,奇怪な事件相次ぐマンションを描く「空ほ石の…」など,いずれも平凡や高校生たちの生活に徐々に怪奇が忍び寄り,最後には……という作風である。

 「空ほ石の…」は,オーソドックスな心霊ホラーだが,「押し入れが気になる」というシチュエーションの作品として出色の出来である。
 問題は表題作だ。高校2年の良二とその恋人・真理子との関係に,根暗で目立たないクラスメートの浅茅優子の存在が少しずつ影を射す。やがて浅茅の怨念は暴走し,クライシスを招くのだが,この浅茅という女が実に怖い。
 普段はクラスメートに振り返られない地味な存在なのだが,面長で背も低くなく(小さくて巻き毛の真理子たちとの対極として描かれているわけだが),要するにひとたび相手の心に踏み入ったとき,この女は妙にボリュームがあるのである。そして彼女の良二に対する恋慕は,常軌を逸し,恐ろしい事件を引き起こしていく……。

 ささやななえ(当時)がのちに「ストーカー」と称される人々ないし習性について,どうしてこれほど的確に把握していたのかはわからない。しかし,浅茅として描かれた人物像は確かに「いる」,そしてストーカーの描き方において,オカルトな面を除けば,作者の目と表現力は実に確かである。
 そして,ストーカーという,生身でも十分に剣呑でやっかいな人間のあり方に「生霊」(ドッペルゲンガー)という様態が加わるとき,まず並みの人間では太刀打ちできないだろう。私たちにできることは,人生のどこかの交差点において,うっかり浅茅とすれ違わないことを祈るばかりだ。ノウマクサマンダバザラダンカン……。

 なお,「生霊(いきすだま)」が角川書店ASUKAに発表されたのは1986年で,リンデン・グロス『ストーカー ゆがんだ愛のかたち』が出版されて国内でも「ストーカー」という言葉,概念が広く認知されるより10年近く早いことは強調しておきたい。

先頭 表紙

2002-12-08 [近況]ADSL 12Mbps,無線LAN導入

 
 この金曜日にNTT局舎内工事がなされ,モデムも届いてADSL 8Mbpsから12Mbpsにサービス変更。加えて無線LANパックを導入して,ノートPCを持ち歩けば,自宅内どこからでもインターネットにアクセスできるようになりました。

 8Mbps→12Mbpsの変更は,従来が下り5Mbps以上出ていたのが7Mbpsになった程度で,体感速度的にはほとんど変わりません。現時点では,よほど巨大なファイルをダウンロードしない限り,そうですね,3Mbps以上出ていれば感覚的にはほとんど変わらないのではないでしょうか。むしろダウンロード相手のサーバー側をもっと強化してほしいことも少なくありません。

 無線LANのほうは,ADSLモデムそのものにIEEE802.11bの送信カードを装着するという,ちょっと珍しいタイプ。受信はサードパーティ製のIEEE802.11b無線LANアダプタが装着されたPCなら何でもよいようです。
 ただし,現時点ではなぜかブラウザからモデムのESS-IDやWebキーの設定画面に入ることができず,デフォルト設定のままの運用です(セキュリティ面で少々怖い)。なにか単純な思い違いなのか,仕様上のトラブルなのか明らかでないので,明日コールセンターに問い合わせるなりしようかと思っています。

 無線LANは,PCやインターネットの利用法の中ではいまだ未開拓というかメジャーになりきれない技術で,その分アダプタのドライバやセットアップユーティリティが練られてない印象です。しかし,無骨なイーサネットケーブルから解き放たれてみればこんな便利な環境はなく,サブマシンとしてノートPCをお持ちの方にはぜひともお勧めしたい次第。

 いずれにしても今後は,昼はマロニエの木陰の白いベンチでダージリンを味わいながら,夜は書斎の本棚の間をめぐりながらインターネット三昧。……おっと,その前に,広い庭と書斎を調達しなくっちゃ。

先頭 表紙

ただ,無線は目に見えないので(当たり前),少し調子が悪くなると,どこに原因があるのかわからなくてうろたえます。通信データが目に見えないのは,有線LANも同じなんですけどね。ドライバがいちいちこなれてない(こちらも慣れてない)のも一要因かと。 / 烏丸 ( 2002-12-18 03:17 )
無線にして楽になったのは,やはり本の管理ですね。カラスはたとえばコミックは本の大きさでしまう棚が違う(フロアさえ)ので,誰か特定の作家の本がそろっているかどうかを調べるのはこれまで大変だったのです。それが,ノートPCに紀伊国屋BookWebを開いておき,そのまま歩き回ることでチェックできる……便利はいいけどこの勢いでまた余計な本をわらわら買ってしまいそう……。 / 烏丸 ( 2002-12-18 03:15 )
ウチの事務所もケーブルだらけで死にそうなので、とりあえずPowerBookとVAIO Noteのみ無線化してみました。仕事机と打ち合わせテーブルを行き来するのも楽になりました。ルーター含めて全てメーカーが違うので、セキュリティの設定はやはりタイヘンでした。 / TAKE ( 2002-12-17 01:28 )
モデムの設定画面については,その後,モデムの電源再起動,Internet Explorerのキャッシュの全削除を試したところすんなりと入ることができ,MACアドレス,WEPKeyによる設定も行って今は安心快適環境。しいていえばデスクトップ,ノートともに2年ほど使っているものでスペックにやや難ありですが,家人を説得するのはモデム再起動程度ではすまなそうです。 / 烏丸 ( 2002-12-12 03:39 )
フィー子さま,かく申すカラスマルが利用しているのもこちらだったり。今夜はDKのテーブルからつっこみ返し〜♪ / 烏丸 ( 2002-12-10 01:17 )
無線ってステキ・・・。私も先日ヤフーの12Mbpsにしたところです。無線LANについては調べてみようかな・・・。家の中が「線」だらけって気持ち悪くって(^_^;)。 / フィー子 ( 2002-12-09 12:21 )

2002-12-01 失われた言葉 その3 「18金」

 
 言葉は生活,仕事,風俗・習慣に密着したものであり,その対象が失われれば,それとともに霧散していく。

 たとえば,学生運動,全学連といったムーブメントそのものがきれいさっぱり忘れさられてしまった現在,「ゲバ棒」「タテカン」「ノンポリ」「総括」といった言葉が通じなくなるのは自明のことだろう。
 地下鉄サリン事件の際には,オウム真理教関係者についての報道で,ある人物が学生時代に「ノンポリで周辺からは恐れられた」という報道が何度か繰り返されたが,これは明らかに「ノンセクトラディカル」の誤りである。学生運動経験世代が少なくないはずのマスコミにしてこの体たらくなのだから,現役の学生たちが「アジ演説」という言葉ひとつ知らなくとも,なんら不思議はない。

 最近でいえば,あっという間に敷衍して,あっという間に消えてしまった言葉に「パソコン通信」がある。
 「パソコン通信」は日本では1980年代後半に広まり,一時は大小の通信ネットワーク会社を合わせると会員数は数百万人にまで達した。しかし,1995年ごろからインターネットが一般に普及するにつれ,上記ネットワーク会社はいずれもインターネットサービスプロバイダー(ISP)に宗旨変えするなど統廃合して現在にいたる。
 実は@niftyはいまだに「パソコン通信」のフォーラムやメール機能も持ち合わせ,巨大なパソコン通信のホストサービスを運営しているのだが,それらの機器のメンテナンスが難しくなり,やむを得ずサービスを縮小しているのが実情らしい。

 「パソコン通信」は「インターネット接続」にとってかわったわけだから,言葉に対する愛惜というのはとくに感じられない。もちろんせっかく構築されながら捨てられていく技術や機器は少なくないのだが,それはパソコン産業全体にいえることで,パソコンやネットワーク機器がいまだ成長期,過渡期であることの証しなのかもしれない。

 愛惜すべきは,成長期の言葉ではなく,爛熟期から衰退期に向かった言葉ではないか。

 たとえば,何十年か前まで,万年筆は若者が大人になった証しとしてのステータスを誇る文房具だった。ペン先のクオリティを保障する単位として「18金」「24金」という言葉がテレビや雑誌の広告を彩ったものだが,どれほどの人がそれを覚えているだろうか。
 現在「ジュウハチキン」と言えば,誰だって「18禁」のほうを思い浮かべるに違いない。万年筆が大人の証しであることをやめたのは,水性ボールペンやワープロに文具としてのメインストリームとしての立場を追われたからだけでなく,プレゼントされる側が「大人」という概念,そして言葉が失われたからのような気がしないではないが,どうだろうか。「大人」つまり「体制」側がないなら,「反体制」つまり若者の共闘もあり得ないのである。

先頭 表紙

2002-11-28 失われた言葉 その2 「風呂を焚く」

 
 たとえば,厚いアルミサッシに覆われた部屋で,丈夫なプラスチックや金属の食器だけで育てられた子どもにとって,「ガラス」は透明なプラスチックとどれほど違うものだろうか。ほんの小さなカケラでも人の命を奪いかねない鋭利さ,どんなに大切にしていてもちょっとした不注意で永遠に失われてしまうはかなさ,彼らはそんな相反するイメージを「ガラス」という言葉に抱くことができるだろうか。
 もし,子供たちの半数がそのように育てられたとしたら,世の中は「ガラス」という言葉について,同じものを指差しながらまるきり別のものとして会話を繰り広げることになるだろう。
 最近の子どもたちの育てられ方を見るに,これはさほど極端なたとえ話ではないのではないか。

 言葉が失われるのは,「レコード」のように,モノとしての存在が失われる場合だけではない。
 ある日,ふと気がついた。「風呂」という言葉も,「焚く」という言葉もとくに珍しくはないはずなのに,「風呂を焚く」という行為は,いつの間にか多くの家庭から失われてしまった。
 たいてい蛇口をひねるだけか,せいぜいスイッチを押す程度。「風呂をわかしすぎる」「熱い風呂を水でうめる」という行為も実感として把握できない子どもたちがいるかもしれない。ほんの数十年前まで,風呂はどの家庭でも,木材や燃料を直接燃やして「焚く」ものだったはずなのに。

 そもそも最近は,ガスコンロや石油ストーブ以外の,管理されていない「炎」をじっくりと目にする機会が,ない。
 生木の燃えにくさ,ぱちぱちとはぜる音,じうじうとしたたる水気,なめるように炎が広がるさま。熱く燃え盛ったあと,やがて白い灰が揺れて,火鋏で突き崩せば滑らかな赤い断面が心をとろかせる。火照る頬,燃やしたくないものを,それでも炎に投げ込む切なさ。

 僕たちは「快適」の代わりに,数知れぬ言葉を無造作に捨ててきてしまった。
 管理されていない「炎」を見つめたことのない者に,「炎のような」思いは伝わるのだろうか。

先頭 表紙

2002-11-23 失われた言葉 その1 「レコード店」

 
 15年ばかり前だったか,CDがあっという間に普及するとともに,「レコード」という言葉はどんどん生活の場から消えていってしまった。
 もちろん言葉そのものはアナログレコードを示すものとして今も生き残ってはいるのだけれど,その隙間に落ちて,「レコード店」という言葉がすごく居心地の悪いものになってしまっている。だって,レコード店に行っても,CDしか置いてないのだから。
 困ったことに「レコード店」の代わりとなる明確な総称はいまだに定着していない。古くからの店は「○○レコード店」のままだったりするし,逆に「○○堂」など屋号だけで押し切る例も少なくない。CDだけではなくてビデオやDVDも扱っているのだから,「CD店」が必ずしも座りがよいわけでもないためだろう。
 こうして,僕たちは「CDを買いにいく」ことはあっても,「レコード店に行く」という共通の語法を失ってしまった。失われたのが言葉だけなのかどうかは,まだよくわからない。

 似たことは,「ステレオ」という言葉についてもいえる。
 かつて,左右にスピーカーを配置したプレイヤーとアンプ,場合によってはそれにチューナーやテープレコーダーを加えたものは,「ステレオ」という言葉でおおよそ誰に対してでも通用したものだった。考えてみれば「ステレオ」はその機器の機能というか特性の1つであって,機器そのものの名称ではなかったのだが,ともかく「ステレオ」と言えば誰しもがあの家具調のオーディオ機器を思い浮かべたものだ。
 ところが,コンパクトタイプの製品が登場したあたりからだんだん雲行きが怪しくなり,アナログレコードプレイヤーが滅びたころにはすっかり「ステレオ」という呼び方も滅びてしまっていた。
 問題は,ここでも代わりの言葉がいまだに登場しないことだ。「CDプレイヤー」? いや,MDプレイヤーやFMチューナーも付いているし。ラジカセとの区別もつかないし。「オーディオ」? 確かにそうだけど。「コンポ」? そうも言うけれど,でも。
 ちなみに我が家の機器のマニュアルには「コンパクト コンポーネント MD システム」とあった。MDの上下に並んだCDプレイヤーやチューナーの立場を思うと,気の毒で,夜も寝られない。

 こんなふうに言葉の盛衰を感じるのは,それなりの時間を生きてきたせいかもしれない。少なくとも,十代,二十代にはあまり感じなかったことのように思う。

 たとえば,現在僕たちはビデオプレイヤー(レコーダー)のこともビデオテープのこともビデオテープに録画された映画や番組のことも「ビデオ」と気軽に呼び慣れているが,そのうちDVDやハードディスクレコーダーが家庭に広まると,「ビデオ」という言葉は使われなくなってしまうのかもしれない。
 「テレビ」という言葉はそう簡単には失われそうにないが,そのうちにコンテンツ(番組)の意味,放送システムや局の意味,あるいはディスプレイの意味,これらのうちのどれかに特化したり,どれかが失われたりすることもあるのかもしれない。

先頭 表紙

フィー子さま,「細分化」,そうなんです,生活や仕事や趣味がどんどん細分化されて,さまざまなものが特殊化し,隣の人の言葉が理解しづらい時代になってしまいました。かつてレコード大賞受賞曲は日本中の誰もが知っていた,最近のヒットはそれよりよほどたくさん売れていながら,ごく一部の者にしか知られていない,そんな感じです。 / 烏丸 ( 2002-11-25 01:54 )
ついレコード店と言ってしまって友人に苦笑されること数回。じゃあなんて言えばいいんだーと思っておりました。総称は共通認識の上に成り立つもの。共通認識が細分化されてしまう現在、少しずつ言葉の使い方が難しくなってきたような気がします。かと思えば心無い言葉が平気で使われたり。言葉って難しいですね。 / フィー子 ( 2002-11-24 13:04 )

2002-11-17 現代版ミス・マープルはトルココーヒーがお好き 『伯爵夫人は万華鏡』 ドロシー・ギルマン,柳沢由美子 訳 / 集英社文庫


【読み,承ります】

 今夜は少々軽めの本を1冊ご紹介。

 かつてヨーロッパの貴族と結婚して,伯爵夫人の称号を持つ主人公マダム・カリツカ。
 赤ん坊のころに家族はロシアから抜け出し,十代にはアフガニスタンで物乞い。夫を二度亡くし,ブダペストでは大金持ち,アントワープでは一文無しに。彼女は四十代半ばとなった今,アメリカ東海岸で一人ひっそりと暮らしている。
 彼女は控え目で,誠実で,思いやりがあり,しかし大切なことはきっぱりと口にする。そして彼女には,相手の所有物を手のひらに置くと,その性格,過去,未来まで読めるという超能力があった。
 茶色いレンガ造りのアパートに「読み,承ります」の看板を出して千里眼でクライアントの質問に応えるようになって以来,マダム・カリツカは次々と事件を読みとっていく……。

 つまりは,年齢こそは若干若いが,クリスティのミス・マープルである。

 もちろん,千里眼にあたる超能力を犯人探しに利用するなど,本格ミステリとしてはルール違反もいいところだろう。しかし,さまざまな事件を扱ったいくつかの短編の連なりからなる本書は,そうしたミステリとしての無法を感じさせないほどよくできている。それは,事件があって推理が始まるのではなく,マダム・カリツカが「読み」の能力をもって相手の運命を垣間見たところから物語が動き始めるためだ。
 もし,あなたにそういった能力があり,目の前の若者がこれから悲しい事件に巻き込まれることを知ったとき,さあ,あなたはどうするだろう。

 しかも,穏やかな筆致とは裏腹に,描かれる事件そのものは決してささやかないさかいレベルではない。マダム・カリツカのクライアントたちが巻き込まれるのは,あるときはカルト集団であったり,全米を巻き込むテロ事件であったり,冷たく暗い少年犯罪であったりと,それぞれが実はずいぶんと苦くて重い。マダム・カリツカが幼いころにカブールの難民だったという設定もどこか暗示的だ(本書が書かれたのは,もちろん昨年のニューヨークテロ事件よりずっと以前である)。

 マダム・カリツカは,無闇に「正義」を遂行しようとはしない。アドバイスは伝えるが,それを受け入れるかどうかはクライアント次第なのだ。マダム・カリツカは銃で白黒をはっきりさせたがる保安官ではないし,さりとて祈ってばかりいる傍観者でもない。

 煎じ詰めれば,本書を覆っている独特な気配は東洋的な諦念,無常観のベールなのかもしれない。前作『伯爵夫人は超能力』の「人生は山あり谷あり,いいときもあれば悪いときもあって一巡りなのだと悟っていた」という一節など,まさに「人生万事塞翁が馬」と呼応する。
 それが,本書になんともいえない寂寥感と,風景画のような救いを与えている。

 少しつらいことがあるようなとき,手にとって読んでみてはいかがだろう。相手の指輪や腕時計を手のひらに乗せたとき,過去や未来や,それ以外のいろいろなことが読めるのは伯爵夫人だけではないのだから。

先頭 表紙

2002-11-10 現代語訳された三文メロドラマ 『永久帰還装置』 神林長平 / 朝日ソノラマ


【ここの環境の言葉で自分の存在を説明するために,記憶の内容を,ここで通用する言語に変換する作業,とでも言えばわかってもらえるだろうか。】

 たとえば,遠い未来の月や火星の都市を舞台にした物語。
 あるいは,常ならぬ能力を持つ人物を主人公とした一人称小説。

 これらは,よしんば現代の日本語で書かれていたとしても,おそらく僕たちの目には「ヘタな翻訳モノ」のように読めることだろう。登場人物たちの言動は不自然であったり,大袈裟であったり,無感動であったりするように見えるに違いない。もし現代の僕たちの生き方,考え方,瑣末な条件反射,風俗習慣と変わらぬように読めるなら,そのほうがよほどウソなのである。

 神林長平はときおりそのように小説を書く。
 彼の一部の作品の文体はよく言えば硬質,悪くいえば箇条書きのようにぶっきらぼうで,従来の文学的感覚からいえば名文とは言いがたい。しかしその不器用そうな文体は,そうあるべきだからそうなのであり,また,そうあることに納得がいくとき,読み手はその文体でなければ得られないリアリティを読み取ることになる。

 先月取り上げた『蒼いくちづけ』は,ざっと次のようなストーリーだった。
 月開発記念市で恋人と信じた男に裏切られ,脳死したテレパスの少女ルシア。やがて彼女の体内に残存した憎悪の念が周囲に災厄をもたらしはじめる。男は,他者の脳内感応細胞を奪いながら逃亡を続ける,やはりテレパスの犯罪者だった。無限心理警察刑事OZは,事件解決のために月に渡る……。

 一方,今回ご紹介する『永久帰還装置』(言うまでもなく「永久機関」のもじりだ)の冒頭は次のような具合だ。
 火星連邦軍が緊急脱出用の小型宇宙機を捕らえた。冬眠状態から目覚めた乗員・蓮角は自分が永久追跡刑事であり,世界を勝手に作り変える能力を持った犯罪者ボルターを追っていること,この世界はボルターが構築したものであることを主張した。彼を調査するために赴いた戦略情報局のケイ・ミンは,彼の言葉を理解できないながらも世界が,自分の過去の記憶が揺らいでいくのを感じる……。

 ご覧のとおり,2つの作品の舞台,構造はかなり似通っている。しかし,最初の数ページに目を通しただけで,同じ作家が書いたとは思えないほどにその印象がかけ離れていることに気がつくだろう。

 『蒼いくちづけ』は,未来の月世界,テレパス能力者を主人公にしている,ということを除けば20世紀的な文体で描かれたありきたりな心理描写の積み重ねであり,「悪役」のルシアへの裏切りにいたっては馬鹿馬鹿しいほどに古典的でさえある(裏切りを告白する必要もないのにルシアを傷つけてみせたのは,その後に続く物語を転がすため,以外に考えられない)。
 しかし,『蒼いくちづけ』の後に書かれた『永久帰還装置』での登場人物たちの会話は,およそ「小説」ふうではない。本書は,奇妙なことにと言うべきか,一種の「恋愛小説」でもあるのだが,蓮角,ケイ・ミン,そして周辺の人物たちの会話は大半がト書き的な状況解説と互いの立場についての理屈を並べたものにしか見えない。
 さりとて,本書が抽象的な,あるいは哲学的な作品である,とするのも正確とは思えない。本書のストーリーをはしょりにはしょってみれば,それは意図せず故郷を追われた男が新しい故郷(女)に一目ぼれする物語にすぎない。

 つまり,『永久帰還装置』は,実のところ,火星を舞台にした三文メロドラマなのだ。しかし,その三文ドラマが神林長平の手によって直訳的に「翻訳」されたとき,僕たちはその「翻訳」の屈折率ゆえに,その類型的でありきたりな恋愛ドラマに勘違いかもしれない何か,質でも量でもない何かを見てしまい,ついうっかり感動してしまうのである。

先頭 表紙

すっごくどうでもよいことだけど、あと10分ばかりで、11月11日の午後11時11分11秒ですね。 / 烏丸 ( 2002-11-11 23:02 )

2002-11-04 オーケストラ,オーケストラー,オーケストリスト 『のだめカンタービレ(3)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC


【しゅ…… しゅきあり──】

 『のだめカンタービレ』について,もう少し続けたい。

 先日の紹介は1巻読了時点でのものだったが,その後2,3巻も求め,連日この3冊を読み返すのが就眠儀式と化している。
 2,3巻と,主人公・のだめ(野田恵)の浮揚感はさらにとめどなく(1巻を読み返すと,同じのだめが常識人のようだ),さらに続々登場する奇人,変人の束で,舞台の音大はチャームなお化け屋敷と化す。
 と,ここまででも十分お奨めに足る奇妙奇天烈な面白さなのだが,ここでとくに取り上げたいのが,3巻巻末のオーケストラ演奏シーンについてである。

 学生オーケストラの演奏会を描くこの数ページを読んで,あらためて気がつき,あらためてショックを受けたのは,傑作,名作といわれるマンガは少なくないが,3人以上の人物の行動を同時(同一見開き)に描ききった作品は意外と多くはないのではないかということだ。

 たとえば,団体競技であるはずの野球マンガを考えてみよう。ピッチャーが魔球を投げ,バッターがそれを迎え打つ……このとき,あるコマにおいて描かれるのはピッチャーのアップ,フォーム,心境であり,その瞬間はバッターもキャッチャーもその他の野手たちも解説席のアナウンサー同様単なる傍観者に過ぎない。
 外野フェンスを直撃する打球を外野手が追ってフェンスに激突する,そんなシーンは野球マンガでは伝統的だ。しかし,その打球をもう1人の外野手が捕球し,内野手,キャッチャーへと見事な連携,その間ピッチャーはキャッチャーのバックアップ,といった一連の動作をスピーディに(言葉による説明でなく映像として)表現した作品ははたしてあっただろうか?
 サッカーマンガにおいても大差はない。逆サイドを上がる選手がアップになることはあっても,全体のフォーメーションが描かれているわけではない。10人抜きの名プレイが描かれることはあっても,ディフェンスフォーメーションを「確かに攻めにくそうだ!」と描いてみせた作品などないのだ。
 少女マンガのお家芸,バレエマンガはどうか。スポットライトを浴びるのは主人公やそのライバルであって,周辺の踊り子たちは添え物だ。つまり,見開き,もしくは数ページを費やして「群舞」を描ききった作品はそうそうないのではないか。
 スポーツマンガに限ったことではない。たとえばロックバンドを扱った作品の,登場人物たちが息のあったプレイを,というシーンを思い起こしてみよう。その日,ある事件から一皮剥けたギタリストが素晴らしいプレイをしてのけたとき,ドラムはスティックを上げて「どうしたんだ,今夜のヤツの出来は」と,プレイヤーとしては停止していないか。

 例示がくどかったかもしれないが,要はこういうことだ。マンガは映画に似て時間と空間を基盤とするメディアでありながら,複数の登場人物を時間軸,空間軸にそって描くのが不得手なのだ。
 ところが『のだめカンタービレ』3巻では,(おそらくクラシック演奏会のビデオやパンフレットを参考にしたのだろうが)その,マンガがこれまでもっとも不得手としてきた集団による行為,しかも「音」が紙の上では絶対に再現できないにもかかわらず,「オーケストラ」を描く努力(挑戦)がなされ,それがある程度成功しているように思われるのである。

 オーケストラにおいて,それぞれの演奏家の意識は指揮者に,視線は楽譜に,神経は楽器に向けられる。
 観客がオーケストラの演奏を「観る」ことは,これらの都合数百本,いやもっと,の意識や視線のカラフルな矢印が演奏の音に合わせて揺れ,束ねられ,離反し,また集まる,そのさまを味わうということである。オーケストラはそういった装置なのだ。

 白っぽいシンプルな絵柄で「オーケストラ」が「オーケストラ」であることを感じさせ,それゆえの昂揚感まで描いてみせた二ノ宮知子。タダモノではない。

先頭 表紙

Blueさま,吹き出すのならまだよいのですが,カラスは大昔,某テニスマンガを立ち読みで読み始めたら止まらなくなり,おまけに涙ちょちょぎれそうになって困ったことがありますです。はい。 / 烏丸@結局全巻買っちゃいました ( 2002-11-05 01:11 )
けろりんさま,実は前作『GREEN』にもまいっているのですが,キャラがかぶるので紹介しづらい状態なのでございます。もっとも,ワコちゃんとのだめと,身近におくのはどちらがいいかというと難しい問題なのでございます。 / 烏丸 ( 2002-11-05 01:10 )
いつも立ち読みしてます。。。吹き出しそうになって恥ずかしいです(^^;) / Blue ( 2002-11-04 10:29 )
うぷぷ、はまってますね〜。雑誌連載も読んでますが、全然先が読めません。4巻は12/13発売ですよん。 / けろりん ( 2002-11-04 05:44 )

2002-11-01 最近読んだ本 その三 『のだめカンタービレ(1)』『延長戦に入りました』『クリヴィツキー症候群』『ハポン追跡』『カプグラの悪夢』


『のだめカンタービレ』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC

 ひまじんネットにも書き込みのあるイラストレーター某氏のホームページで紹介されていた作品。どれどれと試しに1冊,オンライン書店から注文してみた。
 講談社サイトの紹介によると「クラシックはこんなに愉快!? 変人&おちこぼれピアニスト・のだめ(野田恵)と,オレ様指揮者・千秋の爆笑学園コメディー(ちょっとラブあり)。」

 妹が音大に通っていたのを近くで見ていたためか,音大を舞台にしたマンガのハズれはなんとなく苛立たしい。……が,結果は「2巻,3巻もいっぺんに注文しなかった俺ってfff(フォルティッシシモ)バカ!」だった。
 キャラがいい。テンポがいい。ギャグとおとぼけとシリアスのバランスがよい。

 この自在感と反・自在感のあやなすとっぴんしゃんな面白さって……絵柄もテンポもまるで違うが,佐々木倫子『動物のお医者さん』を知ったときの高揚に似ているような気がする。
 お奨め agitato(アジタート)。

『延長戦に入りました』 奥田英朗 / 幻冬舎

 こちらはひまじんネットのカルチョマドンナ・フィー子さまご紹介のスポーツ観戦エッセイ集。
 「レスリングのタイツはなぜ乳首をだすのか」「ボブスレーの前から2番目の選手は何をする人なのか?」など,苦笑を招くループシュート連発。この手の「ウォッチャー」本は,笑えるかどうかに加え,実は深いんじゃないの?と思わせられるかどうかがキモなのだが,伝説の名投手沢村が大リーガー相手に好投したのは草薙球場の1試合だけで,ほかの3試合は10点以上とられて大敗したという指摘,日本人大リーガーへの応援や正月の駅伝中継におけるひまつぶしの構造など,そのあたりについても収穫多々アリの1冊であった。

 また,1966年に行われたジャイアント馬場とフリッツ・フォン・エリックの対戦に漂う「たとえ嘘でもノンフィクションと信じるに足る切迫感」という一節には同感。
 そうなのだ。僕も以前,古い力道山の試合の白黒映像を深夜TVで見たのだが,空手チョップの響き渡る映像の暗い重さは,近年のショーアップされた明るいプロレス(K-1やプライドも含めて)の持ち合わせない,ゴツゴツした何かを感じさせた。
 あの気配は,あの時代までは確かに存在した,(裏にストーリーがあったにせよ)ショーでもケンカでも格闘技でもない,何かとしか言いようのないものだった。「戦争」を知らない僕たちは今,あの剥き出しになった互いの殺意を正確に表す言葉を持ち合わせていない。

 もう一点。
 '94年3月に執筆された章には次のような一節がある。「今ならカズがモヒカン刈りにしたら,全国のサッカー少年は後に続くのではないだろうか,」。
 ……まだいるのだろうか,ベッカムヘアの非サッカー部高校生。

『クリヴィツキー症候群』『ハポン追跡』『カプグラの悪夢』 逢坂 剛 / 新潮文庫,講談社文庫

 ミステリ短編のアンソロジーをあれこれ読んでいるうちに,ふと自分が逢坂剛の短編をコンスタントに楽しんでいることに思い当たった。
 ヒマつぶしより少しだけ高いレベルで,少しずつ短編集を読むことにしよう。とりあえず書店,古書店店頭で手にできた上記3冊から。

 いずれも面妖なタイトルである。
 クリヴィツキー将軍は元ロシア赤軍情報部のスパイ。ハポンとはセビリャ郊外に見られるスペインの名字だが,支倉常長の一行の子孫かもしれない。カプグラとは,家族や知人に対し,外見はそっくりでも自分の内部は別の人間であると主張する症候群。
 ……やっぱり面妖だ。

 これらの短編集は現代スペイン史の研究が趣味というフリーの調査員・岡坂神策を主人公に,あるときは現代史の闇を暴き,あるときは謀略のサスペンス,あるときは登場人物のこんがらがった精神を解きほぐす。味わいもビターからクール,サワー,ブラッディまでさまざまだ。
 主人公岡坂は,攻めはたいしたことないが,受け身はそれなりに強いというハードボイルド探偵の典型。スペイン内戦について語らせると学者とタメをはるという設定はなかなか珍しい。脇役も弁護士,精神医学者など理屈方面の抑えが固い。

 要するに,守備範囲が広く,クレバーなセカンドプレイヤーのシブい好守好走塁集,といった感じか。

先頭 表紙

けろりんさま,ラムちゃんふりすててほかの女に走るあたると,のだめと寝食ともに(しゅてき〜)しながらとことん木石の千秋。史上最強の男はどちらかしら。はふうん。 / 烏丸 ( 2002-11-02 03:30 )
Hikaruさま,上田知華+KARYOBIN「さよならレイニー・ステーション」はご存知? / 烏丸 ( 2002-11-02 03:29 )
ぴぎゃーっ。のだめは長く続いて欲しいのでいろんな人にすすめてマス。ふぎーっ。 / けろりん ( 2002-11-02 00:02 )
今年は日曜日ですね。(オープニングに寄せて) / Hikaru ( 2002-11-01 21:43 )
この私評は数日前に書いたもので,「のだめ」はすでに2巻,3巻までゲット済(ついでに同じ作者のほかの作品なぞも)。奔放な天才ピアニスト,までは想像できても,3巻巻末あたりの,オーケストラの描写は想像を超えています。お奨め,という領域ではありませんね。必見。 / 烏丸 ( 2002-11-01 01:34 )

2002-10-27 『三葉虫の謎 「進化の目撃者」の驚くべき生態』 リチャード・フォーティ,垂水雄ニ 訳 / 早川書房


【よみがえった三葉虫たちがニューヨークの街を自由気ままに暴れまくり,肌も露わな美女たちを踏みつけ,ビルを殴り倒していく……。】

 三葉虫といえば,それはもう,化石界のアイドルである。

 小さくて,キュートで,大きく3つの部分からなる殻はさらにいくつかの小さな節に分かれ,きっとその下にあったであろう数知れぬ脚はさわさわと優雅かつ細かなステップで水底の泥を掻いたことだろう。
 何を食したのだろうか。光を好んだのか,闇と静寂を好んだのか。
 チキチキと殻のこすれる小さな音が太古の海を満たす。波の音。
 三億年の満ち潮と,三億年の引き潮と。


 ……それにしても,ハイスクールの先生は著者リチャード・フォーティに「文章はわかりやすく,簡潔に!」と指導しなかったのだろうか。
 本書の書き出しはいきなりこうだ。

 「季節はずれの,ボスキャッスルの蜘蛛の巣亭の酒場は,パブとしての条件を何もかも揃えている。」

 蜘蛛の巣亭。何事かと思うではないか。
 この半ページ費やして描写された暖かく居心地のよいパブが三葉虫といかなる関係があるかといえば……。
 関係は,ない。著者がビーニイ崖に向かう前に一休みしただけらしい。
 ともかく暗くなる前に作者と一緒にでかけよう。すべりやすい道のりの描写が延々と続く。どうやらビーニイ崖というのは,トマス・ハーディ(イギリスの詩人,小説家。ナスターシャ・キンスキーの『テス』の原作者)の小説に登場する場所らしい。その小説の主人公は,その崖で宙吊りになって三葉虫の化石を発見するのだそうだ。なるほど!
 ……しかし,どうやらこの崖の地層では三葉虫の化石は発見されそうにないそうなのである。

 本書は一事が万事,そんな調子だ。

 著者の三葉虫についての学識と業績がなみなみならぬものであり,本書にも非常に詳細かつ重要な情報がふんだんに盛り込まれていることはわかる。彼は少なからぬ三葉虫に学名をつけ,また少なからぬ三葉虫の学名に彼の名が織り込まれている。だが同時に,彼はたいへんな読書家でもあるらしい。
 たとえばある学者が想定した三葉虫の姿がのちに否定されたことをもって「知識を追い求める旅に終わりはない」とのたまわり,17世紀の詩人ジョン・ドライデンの教訓的な詩を持ち出す。
 また,三葉虫がある時代に突然登場したように見えることについての文言は次のようなものだ。

 「芝居(とりわけ推理劇)が,少しだれはじめたとき,活力を与えるために舞台で用いられる常套的な「手口」は,爆発を持ち込むことだ。ドカーンという轟音! 聴衆は跳び上がって注目する。そして,芝居がかっていえば,もちろんその銃撃の煙幕の下で,殺人をやりおおせることも可能だ。」

 断っておくが,チェチェン武装勢力によるモスクワ劇場占拠事件のことではない。

 ともかく,何かを語るために,これでもかとばかり衒学的,あるいは下世話な比喩,引用がたらふくついてまわるのだ。冒頭の【 】内も,三葉虫の体の構造を語る一節からの引用である。

 言い方を変えてみよう。
 本書は「いかにも大学入試の現代国語の問題に用いられそうな」文章で埋め尽くされているのである。複雑な構文構造,飛び交う代名詞,降り積もる直喩隠喩の山,著名詩人や小説家からの引用,そしてそれらすべての下敷きには,三葉虫について(現時点までに)明らかになった厳密な事実。傍線(1)は何を示すか40字以内で述べよ,傍線(2)によって著者が否定している三葉虫の生態は次のうちどれか。
 しかし,現国の教科書に載せる分には名文かもしれないが,それでハードカバー1冊通されるとさすがにつらい。

 実は,読了した今も,三葉虫の仲間がいつごろ,どのようで,個々の特徴は,体の仕組みは,といった具体的なことについては(書いてあるということはわかるのに!)いまだによく把握できていない。少なくとももう一度目を通さないことには,どうにもなりそうもない。内容が豊穣なことが透けて見えるだけに……。

 なお,文章は多弁だが,写真は能弁だ。
 巻頭,および本文中の随所に挿入された三葉虫の化石写真は素晴らしい。
 巨大で平べったい三葉虫,アルマジロのように殻を丸めた三葉虫,小さくて目のない三葉虫,トンボのように大きな目を持った三葉虫。
 なかでも壮絶なのは,縦横に刺をはやした三葉虫を見事に立体的に剖出(プレパレーション)した数葉の写真である。牛の角,というより竜のヒゲのように曲がりくねった刺を剖出したものさえある。驚きだ。感動だ。

 やっぱり,三葉虫は,化石界のアイドルなのだ。

先頭 表紙


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