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烏丸の「くるくる回転図書館 駅前店」

 
今後、新しい私評は、
  烏丸の「くるくる回転図書館 公園通り分館」
にてアップすることにしました。

ひまじんネットには大変お世話になりましたし、
楽しませていただきました。
その機能も昨今のブログに劣るとは思わないのですが、
残念なことに新しい書き込みがなされると、
古い書き込みのURLが少しずつずれていってしまいます。
最近も、せっかく見知らぬ方がコミック評にリンクを張っていただいたのに、
しばらくしてそれがずれてしまうということが起こってしまいました。

こちらはこのまま置いておきます。
よろしかったら新しいブログでまたお会いしましょう。
 

目次 (総目次)   [次の10件を表示]   表紙

2006-01-29 「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)
2006-01-23 へんです 『またまた へんないきもの』 早川いくお,絵・寺西 晃 / バジリコ
2006-01-22 すこーしだけ考えてみる 『生協の白石さん』 白石昌則,東京農工大学の学生の皆さん / 講談社
2006-01-18 事件まみれの一日
2006-01-16 まわれまわれカザグルマ 止まらず走れ 『のだめカンタービレ(14)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC
2006-01-08 ミッション:「キャラ萌え」の「キャラ」を「キャラクター」から腑分けせよ 『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』 伊藤 剛 / NTT出版
2005-12-31 心の中で読み 心の耳で聞け 『ドラゴン桜(11)』 三田紀房 / 講談社モーニングKC
2005-12-27 まだまだ楽しむクリスマス 『夜明けのフロスト クリスマス・ストーリー 『ジャーロ』傑作短編アンソロジー(3)』 R.D.ウィングフィールド ほか著,木村仁良 編,芹澤 恵 ほか訳 / 光文社文庫
2005-12-25 今からでも間に合うクリスマス 『クリスマスに少女は還る』 キャロル・オコンネル 作,務台夏子 訳 / 創元推理文庫
2005-12-20 オバケの本 その十二 『日本怪奇小説傑作集(3)』 紀田順一郎,東 雅夫 編 / 創元推理文庫


2006-01-29 「F(フレーム)式蘭丸」もしくは「フレームで少女が子犬と」(大島弓子,萩尾望都論への1アプローチ)


【よせるいつわり かえす真実】

 添付画像の上左,上右は,四方田犬彦『漫画原論』(ちくま学芸文庫),伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(NTT出版)でも引用された,大島弓子「海にいるのは…」,萩尾望都「小鳥の巣」の,それぞれハイライトシーンである。

 四方田,伊藤は,それぞれマンガ表現論者の視点から,これらいわゆる「24年組」の少女マンガの作家たちがマンガの「コマ」の「フレーム」を破断していることに着目している。
 しかし,いずれの論者も,逆に言えば指摘どまりで,大島弓子や萩尾望都が,なぜ,何のために「フレーム」を破断しているのかについては明確な目的,理由を示していない(どちらかといえば,マンガにおける「コマ」や「フレーム」の機能について語るためにこれらのページを持ち出した印象のほうが強い)。

 そこで,ここでは「24年組」の作家たちがどのような場面でこうした「フレーム」破断を行ったのか,またそれによってどのような効果が得られたのか,作例をもとに少しばかり考えてみたい。

(ただし,上右の「小鳥の巣」は,萩尾望都の代表作の1つ,連作『ポーの一族』の1作ではあるのだが,作者が目を病み,「トーマの心臓」の週刊連載でペン(線)が荒れた時期の作品であり,必ずしも最良な例とは言いがたい。ここでは主に上左の「海にいるのは…」を例に語りたい。ただし,「小鳥の巣」でも概ねは同様なので,適当に変換してお読みいただきたい)。

 まず,このような抒情的なページに対してあまりにも直接的なたとえで申し訳ないが,マンガ家がコマの中に登場人物を描く際,それをどんどん大きくしていったらどうなるだろうか。当然,その人物はコマをはみ出し,フレームを破って描かれることになるだろう。
 添付画像の上左,これは「海にいるのは…」のクライマックスシーンであり,まぎれもなくそのようなページである。そのページにいたるまでの登場人物たち(とくにオーガスティン,そしてヒルデガード)の奇異な行動の理由から主人公の生い立ちまで,過去から現在にいたるもつれた糸がすべて一気にほぐれて,主人公アレクサンダー少年の心に大きな熱い思いが浮かび上がる……まさしくそういうシーンなのだ。文字通りの「あふれる思い」がそのままフレームを破断しているのである。

 ここで,ポイントは,マンガにおける「コマ」や「フレーム」が,「空間」と「時間」を区切るものだということである。
 つまり,従来,手塚治虫らのストーリーマンガのコマが,フレームによって「空間」「時間」を区切ることで読者に状況とその展開を示し,了解させたのに対し,「海にいるのは…」の作者は,作品の要所においてそのルールを逆手に取り,「空間,時間をバーストさせるほどの感情の氾濫」を描いて見せたということになる。

 また,このページで破断されたフレームが,単に「空間」のみならず「時間」まで混濁させていることにとくに注目したい。
 「海にいるのは…」,「小鳥の巣」,いずれの引用ページも,過去の登場人物&事象と,現在の登場人物&事象が破断されたフレームの中で並立し,融合し合って同一のページの中で一種のパノラマ現象を引き起こしている。
 つまり,従来のストーリーマンガが,本来人間の住んでいる3次元(空間),4次元(時間)の状況を,「コマ」「フレーム」という手法を用いて無理やり2次元の紙の上に定着させようと辛労してきたのに対し,「24年組」の作家たちはむしろ逆に,そのマンガのルール,共通認識を利用して,(飛び出す絵本のように)そのページから3次元,さらには4次元への一気の広がりを描いてみせようとしたわけである。

 この描写法は,作家の描写力はもちろん,読み手にも相当に高度な読み取り能力を要求する。
 その作品のその手前までのページを熟読し,さまざまな登場人物の言動,関係,時代背景などなど,そういったものすべてを咀嚼してクライマックスのページに反映しなければ,満足な読み込みにいたらず,最大限の感動を得るができない。
(大島弓子,萩尾望都といえば,昨今でこそ少女マンガの大御所として評価が安定しているが,この2作が発表された1970年代当時には読みづらい,難しい作家として少女マンガ誌の最大公約数的読者からはむしろ敬遠されていた。現に「海にいるのは…」では,オーガスティンを主人公の実の父親と誤読した読み手が少なくない。)

 そして,問題は,ここからだ。

 ではいったい,大島弓子や萩尾望都は,この「フレーム」破りによって登場人物やさまざまな事象を3次元(空間),4次元(時間)の領域まで増幅,氾濫,乱立させて,結局のところ,いったい何をしてみせようとしたのか。
 強調,動揺,抒情,感動。……もちろんそうなのだが,それらだけでは説明がつかない。

 再度指摘しよう。「フレーム」の破断は,読み手の意識を「空間」のみならず,「時間」の領域にまで引き上げる。
 ……思うに,この「フレーム」破りは,本来紙媒体の上では決して表現し得ない,時間芸術たる「音楽」表現へのチャレンジだったのではないか。「24年組」のマンガ家たちの作品に対する,「詩的」「抒情的」といった評価の源は,この「音楽」への挑戦にあったと言い換えることができないか。

 「24年組」の作家たちの「音楽」への希求は,たとえば萩尾望都「精霊狩り」「キャベツ畑の遺産相続人」などにおけるプチミュージカル仕立て,大島弓子の描く常に風にそよぐ樹木などからもうかがうことができる。

 再度テクストを手にとってみよう。

 大島弓子「海にいるのは…」は,「24年組」のマンガ家たちが達成した,いかにも「24年組」らしい秀作の1つだ。この作品に目を通してみれば,

   海にいるのは男たち

   よせるいつわり
   かえす真実

   よせる真実
   かえすいつわり

という高名なフレーズをはじめとして,海辺のシーン,雨のシーン,いずれも詩的な雰囲気に満ちている。
 だが,当然ながら,2次元の紙媒体がリアルな(=耳に聞こえる)音楽を伝えられるわけはない。

 ただ作品の最初から,音楽への「予感」だけが繰り返しページに提示され,最後に添付の「フレーム」を破断したクライマックスシーンにおいて,読み手は自分の心の中にそれまでに「予感として蓄積した音楽」を高く低く聴きとることになるのだ。

 それは,戦後ストーリーマンガが志向した「映画のようなマンガ」に対する回答の1つであり,同時にそれは結果として「映画にできないマンガならでは」のマンガ表現が打ち立てられた瞬間でもあった。

 大島弓子の(最近の淡々としたエッセイ風作品は別として)作品に魅かれる者は,さわさわと描かれた紙のページから立ちのぼる大島弓子の弦楽奏にたまらなく魅かれ続けてきたに違いない。……少なくとも,この僕はそうだ。





◆付: 石森章太郎『ジュン』における「コマ」「フレーム」の扱いについて

 この「音楽」について,同じく抒情性を高く評価され,作者自身が「詩集」と称した『章太郎のファンタジーワールド ジュン』を読み比べてみると面白い(添付画像下)。
 マンガについてのありとあらゆる実験的手法に満ちた『ジュン』だが(手塚治虫がこの作品に対して嫉妬のあまり「これはマンガではない」というコメントを口にし,のちに謝罪したことは覚えておいてもよい),この作品において石森はついに「コマ」「フレーム」そのものを軽んじることはできなかった。
 その結果,『ジュン』では,「時間」や「音楽」をテーマにする短編が少なからず収録されているにもかかわらず,極端なまでにフキダシを使用しないなど,むしろ絵画的な静謐と沈黙をもって大半のページが描かれることになった。
 だが,結局のところ言葉や音がすべて読み手にゆだねられるこの<パントマイム的>な手法では,読み手の心に「音楽」をかき鳴らすことはできず,『ジュン』の世界は硬質なガラス,ないし宇宙空間的な真空の向こうにあって,いっさいの音は読み手にまで届かない。
(『佐武と市捕物控』でも,目の見えぬ市は往々にしてコマの中に放置される。本来行為の流れであるはずの市の斬撃は,相手を倒した後の停止として描かれる。石森は基本的に音のない静止空間について本領を発揮するタイプの作家だったのかもしれない。)

先頭 表紙

2006-01-23 へんです 『またまた へんないきもの』 早川いくお,絵・寺西 晃 / バジリコ


【やだ、卵産みたくなってきたわ。】

──前回もへんな本だったのですが,今回は前回よりますますへんなんです。
──ちょ,ちょっと待ちたまえ,エリカくん。へん,へんって,いったい何の話だか。
──失礼いたしました,教授。前回と申しますのは早川いくおの『へんないきもの』のことであり,今回と申しますのは同じく早川いくおの『またまた へんないきもの』のことです。
──なるほど,すると君が言いたいのはつまり『へんないきもの』はへんな本であったが,『またまた へんないきもの』はさらにへんである,と,そういうわけなんだね。

 キリがないのでこの2人は研究室においておいて,話を進めましょう。
 『またまた へんないきもの』は,実際,『へんないきもの』よりもっとへんで……全然話が進みませんね。

 ともかく,前回も今回も,とても楽しい。へんてこりんないきものでてんこ盛りです。
 左ページに文章,右ページにイラストの見開きベースで,そんなんありか,ウソだっしょーっ,えぎーっ,というようないきものを,とくに学術的な厳密さにこだわるでもなし,ただこんなのもおります,あんなのもいますねえ,と淡々タンタカタンとブルクミュラーに取り上げていきます。

 前回がベストセラーになったことでちょこっと自信がついたんでしょうか,今回の『またまた』は前回に比べてこっそり織り込まれたギャグにも余裕があってそれが楽しい。ときどき思い出したようにイラストのはじっこに描き込まれたプチイラストがこれまた可笑しい。

 紹介されるへんないきものは,不気味なものから愉快なもの,長大強大なものからバクテリオファージまで,バラエティに富んでいます。

 目から血を発射して敵を威嚇する「ツノトカゲ」。
 鯛の口の中に夫婦で寄生して子を育て上げるまで添い遂げる「タイノエ」。
 フセインが操るイラクの巨大グモ「ヒヨケムシ」は兵士が眠っている間に麻酔を注射して肉をかじりとる。子どもみたいな叫び声をあげながら,2メートルもジャンプして襲い掛かる(いずれもウソ)。
 状況に応じて24もの活動形態に変異,神経毒を放出して魚類を食い殺し,霧状化して人体に入れば神経障害を起こす有毒微生物「フィエステリア」(いずれも本当!)。
 体長40メートル,シロナガスクジラより長い「クダクラゲ」
 海底からあなたを祟る自縛霊「メガネウオ」。(左のリンクは怖いからクリックしないほうがいいかも?)

 今回はスペシャルとして,回虫博士・藤田紘一郎博士との対談,絶滅生物についてのわりあいシリアスなエッセイがありますが,それにも増して「へんないきいもののへんななまえ 命名者出てこい!」が爆笑モノです。
 たとえば,「ヨーロッパタヌキブンプク」。「タヌキ」に「ブンプク」はともかく,それに「ヨーロッパ」。
 あるいは,ハードSFにおける反物質を想起させる「トゲアリトゲナシトゲトゲ」。
 「ポンポンメクラチビゴミムシ」は京都に実在するポンポン山に実在するのだから言葉狩りされても困ります。
 「シネミス・ガメラ」が暴れれば「ウルトラマンボヤ」がヘアッしてアワッしてデュウワッ!!(左のリンクは可愛いのでぜひクリックしてみてください。)

 これらがみんな,(前回の「ツチノコ」を除いて)実在するいきものなのだから嬉しい。
 理由はとくに追いません。地球は楽しい,まずはそういうこと。

──教授,教授はどうお考えなのでしょう。
──いや,エリカくん,急に言われてもだね。
──へんですか。そんなにへんですか。
──いや決してその,すごくへんというわけでは。うう。デュウワッ!!

先頭 表紙

えりさん,こんばんは。この2人はシリーズというわけではありませんが……へんないきものを羅列している本を紹介するのに,へんないきものを羅列してもしょうがないと,登場願いました。「教授」は「せんせい」と読んでいただけましたら幸い。 / 烏丸 ( 2006-01-27 01:41 )
教授とエリカちゃんがとってもヘンですね。シリーズなのですか? 笑ってしまいました。 / えり ( 2006-01-26 00:12 )

2006-01-22 すこーしだけ考えてみる 『生協の白石さん』 白石昌則,東京農工大学の学生の皆さん / 講談社


【そうですか。まだ春、来ないですか。】

 今さらだけど,以下に示すような指摘はあまり記憶にないため,書いておきたいと思った。

 東京農工大の生協職員,白石さんの「一言カード」での顧客応対が非常にユニークで心を潤すものだということについては,個人のブログ「がんばれ、生協の白石さん!」などで以前より話題になっており,白石さんをはじめとする生協職員の「一言カード」の履歴も楽しく目を通してはいた。
 本書は,その「一言カード」の中から,とくに愉快な,あるいは巧みな,もしくは心に染みる対応をダイジェストしたものなのだから,つまらないわけはない。

 ……だが,同時に本書は,別の角度から見れば,ある意味脆弱で,つまらないものでもある。

 「一言カード」とは,生協の店舗や食堂に出入りする学生が,要望や商品の感想を生協の職員に伝える投書カードである。白石さんはじめ生協の職員たちは,それに一つひとつ手書きで応答し,掲示板に張って商品の品揃えをはかったり,トラブルに備えたりする。
 それは,まごうかたなき日々の業務である。「一言カード」による対応を実施しているのは東京農工大の生協に限ったことではないし,また同大学の生協で回答を書くのも白石さん一人ではない。本来,ウケを狙う場ではないのである。

 講談社が単行本にまとめた「一言カード」はあくまでごく一部で,白石さんを含む多数の職員による,文具や食材についての過不足ないシンプルなやり取りが長年続いてきたことを忘れてはならない。それらの中に,まれに,ユーモアやペーソスを含んだ質問や回答が現れるとき,そこに誰もがふっと頬を緩めるような瞬間が訪れる,それがもともとの「生協の白石さん」の魅力である(ネット上で話題がのぼったころは,白石さんの性別や年齢も不明なままだった)。

 単行本となった本書には,その業務としてのバックグランドがない。ただ,穏やかだが冴えた切り返し,ほわっと愉快な質疑応答が並ぶばかりで,ダイジェストゆえコメントの平均的な品質は高く見えるものの,本としてみればテレビのバラエティのように,必然性に欠ける笑いが中心になっている。
 それが,本当に白石さんのしたかったことなのだろうか。本当に白石さんのコメントの魅力なのだろうか。

 ここには,出来事の「現場」と,そのダイジェストを消費する出版社や新聞社等,マスメディアの構図の問題が垣間見える。リアルな日々の業務がこつこつと処理されていく手ごたえ,それが分母だった。インターネット上の東京農工大のサイトは,現場の売店の掲示板ほどではないにしても,その全容(ほかの職員の応答など)をちゃんと伝えてくれているのに,本書ではその大半が削除され,背景はただ付録エッセイのような形で「説明」されているだけである。
 もちろん,背景の切り捨ては,あらゆるテキストの宿命でもある。しょせん程度の問題にすぎないのだが,東京農工大の「一言カード」と本書との間には,あたかも路上ライブと,携帯用着メロくらいの距離があるように思われてならない。

 『電車男』や『生協の白石さん』をはじめ,インターネットやiモードサイトのイベントやログが紙媒体に再編集され,ヒットする現象が多発している。これは今後も続くことだろう。だが,その編集の工程でこぼれ落ちるものがある。
 『生協の白石さん』という書籍1冊についてみれば,美味しいキャンディのケース詰めのような印象で,こぼれ落ちたものがあまりに大きいような気がしてならない。

 今回「発見された」このコミュニケーションが,本書のベストセラー化によってただ消費,浪費されてしまっているように見えない理由は,まったくのところ(稀有なことに)白石さん個人の資質にすぎないのだ。

先頭 表紙

2006-01-18 事件まみれの一日

 
◇証券取引法違反の疑いで,ライブドア本社,夜を徹しての家宅捜索。
 ライブドア関連各社はもちろん,IT企業各社もあおりをくらっていずれも株価を下げ,日経平均株価も大幅安。
 とことん,うるさい奴。 > ホリエモン

◇幼女連続誘拐殺人事件,宮崎勤被告の死刑確定。
 それに先立つasahi.comの記事,
   宮崎勤被告,17日に最高裁判決 「精神鑑定して」
   http://www.asahi.com/national/update/0117/TKY200601160306.html
 この記事の結語は,臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授による「パーソナリティー障害と離人症などが交ざった状態とみる。まだ精神状態が解明されたとは言えないのではないか。10年以上前と比べ,鑑定の技術は格段に上がっている。改めて鑑定する必要性を感じた」というコメントなのだが,何を言っているのだろう? 宮崎被告の犯した犯罪同様,理解を絶している。
 改めて鑑定する必要性……。事件は,1988〜89年,つまり15年以上前に起きたものだ。あれだけの犯行を起こし,拘置されて15年以上経った人物が,当時と同じ精神状況でいると考えるほうがおかしい。そんな理屈がまかり通るなら,犯罪を犯しても,あとで悩みに悩んでおかしくなってしまえばとりあえず無罪?
 この国では,精神障害で犯罪を起こした人物を抑留する病棟についての規定はないので,場合(症状)によるとすぐ釈放もあり得る。この期に及んで宮崎被告の精神鑑定を繰り返そうという人々の願いは何なのか。
 1988〜89年のあのとき,宮崎勤は,多少の錯誤や幻聴はあったとしても,自分が誰を殺し,何をしたかは理解していた。ビデオ機器を操作する理性,被害者の家に遺骨や犯行声明を送り付ける知性も失ってはいなかった。それで十分だろう。

 時代のせいではない。狂気のせいではない。断じて。

※ ちなみにこの問題は,『ウルトラセブン』の後番組『怪奇大作戦』でも鋭く扱われている(第24話「狂鬼人間」)。「脳波変調機」によって精神異常者になって殺人を犯し,2ヶ月ばかりで回復して釈放されるというシナリオ。設定,岸田森の演技も見事なら,エンディングの悲鳴のインパクトもすさまじい。現在ビデオ等では欠番。

◇耐震強度偽装事件のヒューザー小嶋社長,証人喚問で証言拒否27連発。
 痛い腹をさぐられたくない一部政治家が証人喚問を(報道の集中する)17日に強要したという説あり。埋没ということではこれ以上ない日となったが,この人物の目立ち具合もまた並みではない。これもまた,理解を越えた人。もとい,理解を下回った人。いずれ誰かが「精神鑑定の必要」を言い出すのだろうか。
 最近「朝まで生討論」を見ないが,ヒューザー小嶋vsライブドア堀江とかいう企画はどうか。とりあえず視聴率はかせげると思うが。

◇阪神・淡路大震災から11年。
 関東大震災を,自分はどこで迎えるのだろう。病院か。

◇芥川賞,直木賞発表。
 よりによってこんな日に。
 直木賞の東野圭吾,今までなぜとれなかったか,そちらのほうが不思議。
 芥川賞の絲山秋子,「芥川賞は足の裏に付いたご飯粒のようなもので,とれないと気持ち悪かった」。
 ……素晴らしい! 天下の芥川賞も,足の裏のご飯粒扱い。

先頭 表紙

http://www.nikkansports.com/ が「堀江社長 23日中に逮捕へ」という記事(本文では4人逮捕とのこと)をトップに持ってきたので注目していたら、すぐに「堀江社長、任意で事情聴取」という1つ前の記事に戻してますね。ガセをつかまされたか、単なるフライングか。何にしても、急場にさしかかってきました。 / 烏丸@未ログイン ( 2006-01-23 19:06 )
ところで,これまでホリエモンは,真偽はともかくディベートに強いというイメージがありました。ただしそれは,話題や議論の方向を強引に自分に都合よく引っ張ってそれで優位に立つというやり方で,でした(ディベートの初歩なのかな)。地検特捜部相手にそれは通らないだろうから,その際,つまり攻められたときのホリエモンの実力はどうなのか,それがこれから明らかに〜♪ / 烏丸 ( 2006-01-22 01:41 )
そもそも,ある程度実績のある作家に対する評価を表す直木賞はとれないと悔しいものだと想像できますが,芥川賞って,今,何の価値があるんでしょう? 数年前のお嬢さんたちも,ビートたけしの娘の歌手デビュー状態。ディレクションがまずいのか? 本当に才能ないのか? / 烏丸 ( 2006-01-21 11:17 )
この絲山さん,芥川賞賞金の半分を寄付。うーん,想像ですがこの方,ハナから芥川賞に思うところがあって,受賞したらプチ反抗期やってみたかったのかも。でも,100万円の半分寄付,ではねえ。反抗する対象のショボさが浮き彫りになるだけだ。せめて受賞拒否しなくちゃ。 / 烏丸 ( 2006-01-21 11:14 )

2006-01-16 まわれまわれカザグルマ 止まらず走れ 『のだめカンタービレ(14)』 二ノ宮知子 / 講談社 Kiss KC


【慣れデス ……夫婦ですから】

 さて,では,50代,40代,30代が「面白い」と評価するような作品とはどのようなものか。どのような指標のもとに提供すべきなのか。

 ……と,『テヅカ・イズ・デッド』を受けて書き始めたら,大長文,もうまるでまとまりがつかなくなって,いったん留保。
 素材として扱っていた作品のうち2つが豊田徹也『アンダーカレント』と山田芳裕『へうげもの』だったのが,(『テヅカ・イズ・デッド』も含めて)朝日新聞日曜版の書評欄の後追いをしているようでそれもまた不愉快。
 ちなみに朝日日曜版の吉田豪氏による「コミック教養講座」は著者の目利きが心地よい。朝日の鬱陶しい教養主義が周辺のページを覆ってなければもっと手放しでほめるところだ。

 それはともかく,年末,いや秋口から紹介したいと思いつつそのままになった本,コミックが納戸にうず高く積滞して,下のほうなど化石化して三葉虫かムカシトンボか。ひどい場合など,いざ紹介しようと掘り起こしてみたらすっかり内容を忘れていた(あえて書名はあげるまい)。

 ええ,ここはともかく,今日買ってきたコミックを取り上げてお茶を濁そう。
 回転図書館ではおなじみの『のだめカンタービレ』である。家人がセーターをとかいう買い物につき合って,3店めだか5フロアめだかで限界を越えて同じビルの最上階の書店に逃げ込み,そこではけーん。
 相変わらずのハイテンションだが,しいていえば今回は登場人物が多くて少しほこりっぽい印象。ただ,方向性として,あらゆる人物が誠実に自分にとっての音楽を求めている点ではシンプルにまとまっており,決して(一時のように方向性が分散して)落ち着かないわけではない。

 綾なす心,出会いと別れ,もはや1冊で序破急,起承転結と簡明でわかりやすいカタルシスを得るのは難しい複雑な作品になってしまった。いつの間にか大河ドラマ,ときどき1巻から読み直さないと登場人物の把握も難しい。
 「のだめ」も,ある日を境に「エロイカ」のように,現役でありながら復習の必要な思い出の作品になってしまうのだろうか。甚だしい単行本化のスピードは,カザグルマがとまらないようにという作者の必死の疾走のようにも思われたり(この品質で息が続くだけでもすごいのだけどね)。

先頭 表紙

2006-01-08 ミッション:「キャラ萌え」の「キャラ」を「キャラクター」から腑分けせよ 『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』 伊藤 剛 / NTT出版


【ジョン ぼく 人間だねえ ………】

 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』は面白い。クリティカルな着眼と説得力にマンガ論者の血がたぎる/血が凍る。

 『テヅカ・イズ・デッド』は,90年代──つまり1989年の手塚治虫の死の前後よりかつての「マンガ読み」たちの多くが口にし始めた「マンガはつまらなくなった」の言説,そしてその一方で90年代こそ実は大部数を誇る多種多様なマンガが続々と生み出されてきた豊饒期であったという事実,その甚だしいギャップに注目する。

 そこで伊藤が提示してみせるのが,「キャラ」と「キャラクター」の違いだ。ここでいう「キャラ」とはプリミティブな図像的要素だけのもの,それに背景や物語性が付与されたものが「キャラクター」である。
 つまり,手塚作品でいえばヒョウタンツギはそのままでは単なる「キャラ」だが,ヒョウタンツギを主人公に天才無免許医の活躍と苦悩を描けば,それは「キャラクター」となり得る。あるいは,ソバカスの白人少女をぬり絵の素材として描いただけなら「キャラ」だが,それにキャンディ何某と名付け,みなし子として出会う人を次から次へと不幸にしていく波乱万丈のストーリーを付与すればこれもまた「キャラクター」となるだろう。

 従来のマンガ表現論では,この「キャラ」と「キャラクター」の使い分けが厳密でなかったとする伊藤の論旨はなかなか明快で起立している。『ぼのぼの』をはじめとするさまざまな実作からの引用も力を発揮する。
 そして問題の,つまり戦後マンガのあらゆる改革にかかわってきたように思われてきた神様・手塚治虫において,この「キャラ」が実は……と論は佳境に進むが,あいにく詳細まではとても書ききれない。廉価,平易な書物とは言いがたいが,マンガ表現論に多少なりとも興味をお持ちの方には必読といえるのではないか。提示された内容の是非を検証,議論することを含め,強くお奨めしたい。

 さて,……以下は,本書の中心線とはちょっとずれた,いわば重箱の隅つつきにあたる個人的感慨である。

 90年代の「マンガがつまらなくなった」言説の大きな原因を「最近のマンガがドラマ性重視からキャラ中心主義となったこと」とするのは(本書ではこれはあくまで出発点にすぎず,この相関が強く主張されているわけではない。念のため)さすがに無理ではないだろうか。単に「マンガがつまらなくなった」と口にしがちな世代に着目すれば,その原因は,年齢的なもののほうが大きくはないか,という気がするのだ。

 マンガを論ずるために描かれたものを「キャラ」と「キャラクター」に分解した発想は(今後のマンガ表現論の可能性を考えても)実に素晴らしいが,従来,マンガというものは,主たる対象を鑑みて,ストーリーマンガとギャグマンガ,大人向けマンガと子ども向けマンガ,少年向けマンガと少女向けマンガなど,さまざまな分類があった。それと同様に,以前も現在も「キャラ」重視のマンガと「ストーリー」重視のマンガがあり,それは今後も拮抗していくのではないか。
 作者は『ぼのぼの』の意識的な手法に手塚マンガ=戦後ストーリーマンガの終わりを見るようだが,それをいうなら実は1970年,谷岡ヤスジという天才の「キャラ」によってマンガはすでにその終焉(アサに近いヨルーッ)を見てしまったはずである。しかし実際のところ,マンガはその後もさまざまな変遷,盛衰を見せた。

 要するに,団塊の世代(50代)やそのあとの40代,30代は,昨今の「子供」マンガ,「少年」マンガ,「少女」マンガを読めなくなっただけのことではないか。

 文学やロック,ポップスにしても,実は同様だろう。『二十歳の原点』や『さらばわれらが日々』は今さら青臭くて読み返せないが,10代,20代のころ食指の動かなかった池波正太郎や山手樹一郎にはほろほろと頬がゆるむ。ケツメイシとCHEMISTRYとポルノグラフィティの区別がつかず,ウタダには少し胸がキュンとするもののアユにはついていけない,どちらにしても家族の手前CDを購入するにはいたらないが,クィーンや中島みゆきを買い足す分には抵抗がない。
 30代になってコロコロコミックや週刊プレイボーイに没頭していたら少し心配だが,では少年ジャンプならいいのか,モーニングならいいのか。結局のところ,商業主義とふりかざすまでもなく,幼年,少年,少女,青年,OL,主婦に比べ,30代,40代,50代に向けたコミック作品市場がわかりやすくかつボリュームをもって形成されていないのが「マンガがつまらなくなった」最大理由ではないのか。

 もちろん,この点について,伊藤がまるで検討していないとは思えない。
 ただ,「マンガがつまらない」言説の原因を「キャラ」「キャラクター」論に結びつけるには,読者アンケートなどによるマーケティング調査による立証(言うならばフィールドワーク)が必要だったのではないか。

 伊藤は,手塚治虫の死後,90年代から現在にいたる約15年間を,マンガ表現論の空白期とみなし,その継続性のなさを嘆くが,実のところ,マンガの読み手の断絶は今に始まるものではない。たとえばかつて萩尾望都,大島弓子,山岸凉子,樹村みのりらいわゆる「花の24年組」の登場にリアルタイムに熱狂した世代は,その当時すでにさまざまなマンガ批評が彼女たちをきちんと扱うことができないサマを淡い絶望感と強い軽蔑とともに見てきたものだ。当時のマンガ批評の多くは,戦前の作品や文藝春秋漫画賞対象のギャグマンガから手塚ストーリーマンガまでをつないでみせるのが精一杯で,少女マンガについて目の前に起こっていることをほとんど語ってはくれなかった。

(現在手に入る萩尾望都や大島弓子についての論評の多くが,主に彼女たちの後期の作品を扱っているのは,そういう理由による。ベテランマンガ批評家の多くは,後年単行本にまとまってからの彼女たちの作品しか知らないらしいのである。発表当時の同時収録された作品群との比較なしに初期の「かわいそうなママ」や「ドアの中のわたしの息子」,「さくらさくら」や「鳥のように」の与えた衝撃を語るのは難しい。閑話休題。)

 松商vs三沢の延長18回,箕島vs星陵の延長18回を小中学生,高校生でリアルタイムに見た世代が,松坂や駒大苫小牧の活躍にかつてと同質の熱狂を感じるのは無理なのではないか。花の中三トリオの現役時代を知る者が40代,50代になった今,現役のアイドルにときめけるかと問うのもまた困難というものだろう。
 そういった,年月にともなって自然と減衰するもの,移り変わるものをまずしょっぴいて,そのうえで「マンガがおもしろくなくなった」のかどうかを比較しなければならない。当たり前のことだ。

 ただ……先にも書いたとおり,ここでくだくだしく書いたことはまったく重箱の隅つつきにすぎないことであり,『テヅカ・イズ・デッド』の価値を否定するつもりはまったくない。

 「キャラ」「キャラクター」の切り分けはマンガ表現論において久方ぶりのクリティカルヒットであり,今後この切り分けをもとにさまざまなマンガのあり方についての分析が進められるに違いない。
 素晴らしいマンガ作品をピンでとめてメスで刻むことが正しい行為かどうかは知らないが,必要なことではある。メスで切り分けられたマンガの臓腑には一つひとつ新しい名前が付され,解体と愛とはごっちゃになって世界を美しく醗酵させていくに違いない。

先頭 表紙

年初から重いもん扱っちまったよー。もっとチューニングしなきゃマズいとは思うのだけど,しょうがない,とりあえずアップアップ。というわけで皆様,本年もどうぞよろしう。 / 烏丸 ( 2006-01-08 00:38 )

2005-12-31 心の中で読み 心の耳で聞け 『ドラゴン桜(11)』 三田紀房 / 講談社モーニングKC


【いいか矢島… 本当の自由とは… 自分のルールで生きるってことなんだよ】

 応援してしまう。作品も,登場人物も。

 ダメダメだった主人公がある日「師(マスター)」と出会ってふっと目覚め,七転八倒七転び八起き,やがて大きな目標目がけて一大奮起する。ババババーン! ……従来は野球(甲子園)やボクシング(チャンピオン)などを素材にしてきた,マンガメディア得意のストロングスタイルである。
 そこに「東大入試」をもってきた『ドラゴン桜』は偉い。

 ドラマ化だとかこの教育手法を取り入れた高校が現れたとか今年の東大受験者数が2割増しだとか,リアル社会での話題が先行しておりキワモノ扱いされるのはやむを得ないかとは思う。しかし,ここではともかくマンガ作品としての抜群の面白さを推奨したい。実際,連載1回めから,どはずれて面白いんだこれが。
(ついでにいえば,作画が三田紀房なのも結果オーライ。お世辞にも巧いマンガ家とは思わないが,この人の画風でなければ阿院修太郎先生や芥山龍三郎先生は照れて描けないだろ,普通。)

 たとえば,暴走族だったという前科のある,ヒゲの弁護士・桜木がいい。
 先に相手に主張させるだけ主張させ,返す刀で少なくとも二段,三段の論法を駆使する彼の受験観,人生観の明快さはそこらのスポーツマンガの投球,打撃,格闘理論を数段上回って切れ味,説得力抜群。何より無用な価値観の切り捨てから語り始めること,東大進学の意義について強い信念をもって語れることの2点がいい。こんな先生のいる学校は手ごわいぞ。
 個人的には,国語の芥山先生のファンだ(5巻がいい!)。彼の国語の授業は,とかく雰囲気でしか語られない現代国語を定量化し,学習に明確な指針を与えてくれる。興味深いのはこの芥山先生の指導が受験のテクニックとして極まれば極まるほど,受験を離れた読書や創作,いや,ふろしきを広げるなら「日々の人生の生き方」そのものへの大きな示唆に広がっていくことだ。こんな先生のいる学校は目うろこの連発で楽しいぞ。

 もちろん,この作品で示された受験必勝法がすべて正しいなんぞと主張するつもりはてんからない。マンガの魔球や必殺パンチより多少はリアリティがあるかも,程度に考えておけばよいだろう。大切なのは,たとえば,「教育の現場はサービス業である」という意識,そのうえで教師は何をどのようにサービス提供すべきか,生徒の側はそのサービスを受けて自分がなにを目的に,何をすべきかを,それぞれ常に前向きに自分で「考える」ことだ。
(ちなみに。書評サイトなどで,本作のリアリティ,あるいは受験必勝法への辛口の批判を目にすることがある。その多くは,どうやら「応用」という発想なしに判定を下している気配だ。もしかすると学校や塾の指導のままに勉強してきたタイプの方ではないかと思う。『ドラゴン桜』はまさしくそういう姿勢を笑う。)

 誤解を恐れず言うなら,よりよく受験することはよりよく生きることであり,より強く受験することはより強く生きることだ。
 大勢の受験生の一部でもよい,この作品から少しでも受験の目的を考え,受験の楽しみを発見し,受験の成果を得ることを,心から祈りたい。2割増しなんてまーだまだ,もっと大勢が東大を目指せばよいとも思う。東大でなくてもいい。大学受験でなくてさえよい。この作品で主張されていることは,甲子園でも武道館でも国会でも東京証券取引所でも「応用」の利くことばかりだと思う。

 ちなみに『ドラゴン桜』,最新の11巻は通常版と限定版があり,限定版のほうには価格は少々張るが「東大2次試験予想問題」「鉛筆2本」「お守り」の合格祈願セット付き。受験なんて三十年も前に済ませてしまったのに,思わず買ってしまった。

 頑張れ受験生諸君。とりあえずあと数ヶ月,ポジティブに行こう!

先頭 表紙

あやや様,「桜」が二重のアダ花になる前にはなんとかしたいと思っている烏丸ではございます(これまた謎発言)。2005年を振り返るに,なんとなくパターン化というか同じ作家,似た作家の同じ作品,似た作品を取り上げる傾向著しく,さて2006年はどうしようかと思っているところ。今後ともよろしくお願いいたします。 / 烏丸 ( 2006-01-08 01:01 )
あ〜ああ。あれから1年たっちゃったなぁ〜(謎発言)。なんちて。私もこの作品好きです。もう一度受験したくなったから不思議。今年もたくさん読ませていただきました。来年もよろしくお願いします。 / あやや ( 2005-12-31 15:56 )
……ということでカラスにしてはベタボメで本年の幕。皆様よいお年を。来年もよろしくお願いします。 / 烏丸 ( 2005-12-31 01:55 )
この年末に再放送されているTVドラマも(長谷川京子の演ずる女教師など,余計な演出はいくらか目につきますが)なかなかいい出来のようです。大切なことはきちんと語られているような気がします。桜木役の阿部寛の悪魔のような説得力もベラボーでいいですね。 / 烏丸 ( 2005-12-31 01:55 )

2005-12-27 まだまだ楽しむクリスマス 『夜明けのフロスト クリスマス・ストーリー 『ジャーロ』傑作短編アンソロジー(3)』 R.D.ウィングフィールド ほか著,木村仁良 編,芹澤 恵 ほか訳 / 光文社文庫


【なんとまあ】

 複数の事件が次から次と同時進行的に発生し,それを警官たちがみんなでわいわい追っていくタイプのミステリを,「モジュラー型」の警察小説というそうです。

 ロンドンから少し離れた田舎町,デントンを舞台としたR.D.ウィングフィールドのフロストシリーズは,まさしくその「モジュラー型」警察小説。

 創元推理文庫に『クリスマスのフロスト』『フロスト日和』『夜のフロスト』の3作が翻訳済みですが,いずれもかなりの長尺で,あらすじや主な登場人物なんぞとても書ききれない乱雑雑多な筋立てとなっています。
 たいていは雪か雨のうんざりするような天候のある日,残虐な殺人事件から喧嘩にこそ泥,怪文書,子供の失踪,婦女暴行,酔っぱらいからかっぱらいまで,よくもまあ,とため息をつく隙もないほどさまざまな事件がデントン警察署に襲いかかり(?)ます。それをジャック・フロスト警部はじめ仕事中毒(ワーカホリック)な現場の面々が一つひとつ解決,いや,解決しようと右往左往するうちに日はかげり,夜は更け,もつれた糸はますますこんがらかってああもう!(ラジオドラマの脚本を手がけていたというこの作者の頭脳と精神はいったいどうなっているのでしょう?) どこまで続くぬかるみぞ,全部片が付くなんてあり得えないだろうと不安通り越して諦観に近い思いでただ苦笑い浮かべるばかり。
 ところが,これがフロスト警部と一緒に(ときに怒り,ときに呆れ,ときに嘆きながら)犯人を追いかけるうちに,あっという間に最終章,さまざまな事件もまあなんとか下手くそなオセロのように白は白,黒は黒でぱたぱたと片付いてしまう。最後のページでは事件決着の爽快感などより,奮戦,爆走するフロストたちと別れるのがぐっと寂しい気持ちになる,この読後感はうまく説明できません。なんともね。

 今回発刊された『夜明けのフロスト』は,光文社「ジャーロ」(GIALLO)誌に掲載されたクリスマス・ストーリー7編を収録したミステリ・アンソロジーですが,エドワード・D・ホックやピーター・ラヴゼイのかっちりした短編に加え,巻末の中篇『夜明けのフロスト』が出色。「夜明け」は,「クリスマス」や「日和」に比べれば短いながら,フロストシリーズの「事件も止まらない,読み手のページを繰る手も止まらない」高速タバスコスパゲッティ感が手ごろに味わえる楽しくも美味な作品に仕上がっています。
 なお,文庫の出版社がいつもと違うので,フロストファンは要チェック。

 ところで,ちょっと疑問なのは,作中,フロスト警部が,署長のマレット警視などから疎んじられ,いわゆる「ダメ警部」の烙印を押されていることです。確かに,デスクワークやスケジュール管理においてはだらしない,口をつくのはきわどいジョーク,目つきはセクハラ,仕事はその場しのぎと,当節風エリート警察官に比べれば難点ありありでしょう。しかし,怠け者とは当人の口先だけだし,酒など飲む暇がない。また,意外や細やかな気配りと人情の人で所轄の警官や市民のウケもよく,タフで走り回ることを厭わない団塊の世代タイプ。この手の人材は警察,ゼネコン,雑誌編集部など「モジュラー型」の「現場」ではむしろ貴重な戦力とみなされるべきではないでしょうか。

 実際,フロスト警部は,細かな失態こそしでかすものの,膨大な事件を処理,粉砕する手腕では人後に落ちません。手当たり次第,出たとこ勝負に見える捜査方針も,「網羅」と「直感」の組み合わせはあなどれず,いくつかの難事件を解決に導いたのは必ずしも僥倖ばかりとは限りません。
 こういう愛すべき軍曹タイプの部下に現場を任せられるのは,本部本庁,上層部から見れば実は非常に頼もしく,ありがたいことじゃないかと思うのですが,いかがでしょう……。おっと。キャリア官僚のあなた様には聞くだけ野暮でしたか。失礼。

先頭 表紙

2005-12-25 今からでも間に合うクリスマス 『クリスマスに少女は還る』 キャロル・オコンネル 作,務台夏子 訳 / 創元推理文庫


【「PLEASE」】

 イヴはいかがでしたか。
 僕のほうは,まあまあかな。このところちょっとブルーだった息子が,「今日はいい一日だったよー」と嬉しそうに二階に上がったのだから,とてもよい日だったのかもしれない。

 イヴにはクリスマスの本をと思いつつ,毎年はたせません。といって来年にまわすとまた忘れてしまいそうなので,紹介だけでもしておきましょう。

 クリスマスをタイトルに冠した本の中で,(たぶん一生)忘れられない作品の一つがキャロル・オコンネル『クリスマスに少女は還る』。
 クリスマスに近いある日,二人の少女が行方不明になる。一人はホラーマニアで,タチの悪いいたずらで悪名を馳せるサディー。もう一人は州副知事の娘で,知性と美貌で誰にも愛されるグウェン。15年前のクリスマスに発生した少女殺害事件で双子の妹を失ったルージュ・ケンダル刑事らが必死で事件の真相を追う一方,何者かに監禁されたサディーとグウェンは奇妙な地下室に潜み,脱出の時をうかがっていた……。

 ミステリ作品の帯や解説には「驚愕のエンディング」「どんでん返し」といったあおりが日常的に記されています。しかし,探偵に説明されるまで犯人が(動機が,犯行方法が,被害者が,アリバイが,密室のトリックが)わからないことはざらでも,明らかになった真相に本当に「驚愕」することは実のところめったにありません。

 『クリスマスに少女は還る』のエンディングには,本当に驚きました。
 あまりにびっくりしたため,作中の個性豊かな脇役たちの印象が全部ふっとんでしまったほど。それをこの作品の欠点とみなすむきすらあるようです。

 僕は……さあ,どうでしょう。このエンディングは……。
 なにはともあれ,メリー・クリスマス。

先頭 表紙

killicoさま,いらっしゃいませ。「やられた」,まったく仰るとおりです。エンディングで椅子から落ちたのは,味わいこそ違え,映画「キャリー」のエンディング以来だったかも。 / 烏丸 ( 2005-12-27 00:09 )
はじめまして。 この本の結末にやられた一人です。 久しぶりにまた読みたくなりました。 / killico ( 2005-12-26 00:54 )

2005-12-20 オバケの本 その十二 『日本怪奇小説傑作集(3)』 紀田順一郎,東 雅夫 編 / 創元推理文庫


【オサキサマがお前と一緒に戻るって……】

 最終巻の目次は,以下のとおり。

   近代怪奇小説の変容(紀田順一郎)
   お守り(山川方夫)
   出口(吉行淳之介)
   くだんのはは(小松左京)
   山ン本五郎左衛門只今退散仕る(稲垣足穂)
   はだか川心中(都筑道夫)
   名笛秘曲(荒木良一)
   楕円形の故郷(三浦哲郎)
   門のある家(星新一)
   箪笥(半村良)
   影人(中井英夫)
   幽霊(吉田健一)
   遠い座敷(筒井康隆)
   縄──編集者への手紙──(阿刀田高)
   海贄考(赤江瀑)
   ぼろんじ(澁澤龍彦)
   風(皆川博子)
   大好きな姉(高橋克彦)

 収録作品はいずれも評価の高いもので,読み応えも悪くありません。
 ただし,残念ながら,いくつかの意味で「悪い予感が的中した」ラインナップでもありました。

 まず気になるのが,山川方夫(三田文学。安南の王子,海岸公園だねえ),吉行淳之介,三浦哲郎,吉田健一,赤江瀑といった顔ぶれ。純文学臭というか,芥川賞テイストというか,要するに「文士」「純文」「ご立派」な印象が強すぎ。
 もちろん,この『日本怪奇小説傑作集』は第1巻に漱石,欧外,潤一郎らを登用したように,もともとが「文学」志向の強いラインナップではありました。しかし,明治,大正期から選んだ第1巻と,戦後を対象とする最終巻とでは,方針が異なって当然でしょう。早い話,どうして角川ホラー文庫や井上雅彦の異形コレクションからもっと候補が選ばれなかったのか,それが疑問です。

 上記の収録作品の大半は,戦後からせいぜい1970年代に書かれたもの。しかもそれ以前の文学の系譜系統を色濃く引き継いだ作家,作品が大半です。また,「お守り」「出口」「はだか川心中」「楕円形の故郷」などの作品の正面の狙いが「怪奇」だったとは到底思えません。これらは「怪奇小説」「ホラー」である前に,(いかにも 文芸評論ふうな物言いをするなら)人の心の深淵を描こうとしたもの──つまり,単にそのままの意味で「小説」だったのではないでしょうか?
(そういった作品が収録されることを否定するわけではありませんが,ボリュームが過ぎるのです。)

 もう1つ,ビビッドな現代作品が抜けていると強く感じる原因は,昨今のポストモダンホラーがここに見られないことにあります。
 角川ホラー文庫をはじめとする当世ジャパニーズホラーは,鈴木光司『リング』でおなじみの「貞子」という,おそらくお岩さん以来のスーパースターを得ました。貞子に代表されるキャラ立ては,一人貞子に限らずここ十年余りのホラーの一潮流ではないかと思います。そういったキャラもの,絶叫系のホラー作品は(個人的には好みではありませんが)現在のホラーブームの大きな潮流の一つであり,無視できないものだと思います。そして,それを排した上記ラインナップは,はなはだしく現代性を逸脱し,二昔ばかり前まで,いわば「戦後文学」から抜き出した幻想小説の佳作に終わっているように思われてなりません。

 もちろん,版権の都合,短編に傑作があったか否かなど,難しい面もあったでしょう。……しかし,『リング』の鈴木光司,『ぼっけえ、きょうてえ』(←リンクミスw)の岩井志麻子,『パラサイト・イヴ』の瀬名秀明,『東亰異聞』の小野不由美,『絹の変容』の篠田節子,『死国』の坂東眞砂子,『姑獲鳥の夏』の京極夏彦,『六番目の小夜子』の恩田陸,『黒い家』の貴志祐介,『蘆屋家の崩壊』の津原泰水,『玩具修理者』の小林泰三などから一人,一作品とて選ばれていないのはどうしてなのでしょう。

 想像するに,二人の選者の間でも,このあたりについては意思の疎通がきちんとなされなかったのではないでしょうか。
 なにより,紀田順一郎の前書き「近代怪奇小説の変容」はタイトルからして「近代」と限定されていますし,昨今のホラーについては「現実社会に対する批評性を失いつつ」「映像面などに見られる画一的な,刺激性の強い風俗描写にも明らか」と否定的であるのに対し,東雅夫の解説は1990年代以降の現代日本のホラームーブメントに「ホラー・ジャパネスク」と名づけ,「この時期,競い合うようにして頭角を現わし,日本の怪奇幻想文学シーンに新風を吹き込みつつあった一群の新進作家たち」とむしろ持ち上げ気味です。
 どちらに与するつもりもありませんが,しいていえば「現代社会に対する批評性」の欠如をもって怪奇小説の出来不出来を語るのはどうも納得がいきません。この第3巻でもっとも面白くまた恐ろしく読んだのは筒井康隆の「遠い座敷」でしたが,この作品は「現代社会に対する批評性」などという,逆にいえば表層的な機能では語り切れない,美と怪奇性と言語実験に満ちています。

 つまり……今回の第3巻は最終巻であるべきではなく,全4巻中の第3巻であるべきではなかったか。いかがでしょうそのあたり,本日ご出席の貞子さん,伽椰子さん,富江さ………ぎゃゎ………(ずぶずぶずぶずぶ)…………(シーン)……………。

先頭 表紙


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